三国志登場人物解説
【ち】
張紹【チョウショウ】
?〜?
【蜀】
張飛の次子。父の死後、ロウ中を守り、私署侍中・尚書僕射となる。263年、トウ艾が成都に迫った時、劉禅の命により、ショウ周、トウ良と共に玉璽をもって降伏を申し入れた。蜀滅亡後、張峻と共に国内各地に遣わされて魏への降伏を説得しに回り、翌年、劉禅と共に洛陽に移された。
張象【チョウショウ】
?〜?
【呉】
前将軍。280年、建業に迫った晋軍を迎え討とうとするが、兵の大半が逃げ出してしまい、石頭城で降伏した。
張譲【チョウジョウ】
?〜189
【後漢】
十常侍の一人として権勢を奮い、霊帝の死後、仲間と謀って何進を殺した。しかし、袁紹らが宮中に侵攻して宦官らを殺害したため、段珪と共に少帝・陳留王を擁して脱出するが追撃されて自殺した。
張津【チョウシン】
?〜?
【後漢】
交州刺史。邪教に傾倒し、軍の威力が増すと称して赤い頭巾を被っていたが後に敵軍に殺された。
趙岑【チョウシン】
?〜?
【董卓】
諸侯が董卓を攻めた際、華雄に従ってシ水関を守る。華雄の死後、シ水関を堅守するが、後に董卓が長安に遷都すると孤立無援状態となり、連合軍に降伏した。
張任【チョウジン】
?〜214
【劉璋】
劉璋に仕え、智勇兼備の将として知られ、211年に劉備が入蜀してくると警戒するよう劉璋に進言。翌年、劉備の攻撃が始まると劉カイ、冷苞らと共にラク城を守り、伏兵をもって落鳳破でホウ統を射殺するが諸葛亮の策略で捕らわれ、降伏を拒否して殺された。
張済【チョウセイ】
?〜196
【董卓→後漢】
張繍の叔父。董卓が殺されると李カク・郭シらと共に長安に攻め入って王允を殺した。後に献帝より驃騎将軍・平陽侯・弘農太守に封じられる。195年、李カクと郭シが争った際はこれを調停する。翌年、南陽を攻めた際に流れ矢に当たって討死した。
張世平【チョウヘイセイ】
?〜?
【庶民】
中山の大商人。馬の売買で財を成し、184年に劉備が義勇軍挙兵を起こすと、その意気を感じ取って資金を提供した。
張節【チョウセツ】
?〜265
【魏】
黄門侍郎。司馬炎が曹奐に譲位を迫った際、反対して殺された。
張先【チョウセン】
?〜198
【張繍】
張繍の配下として度々曹操と戦い、許チョに討ち取られた。
貂蝉【チョウセン】
176〜?
【董卓→呂布】
王允の館の歌妓。董卓の暴虐から国を救うため、王允を助けて媚による連環の計を仕掛け、董卓と呂布を仲違いさせることに成功。呂布が董卓を殺すと、呂布の側妾になるも、徐州で呂布が殺されると呂布の家族共々許都に送られた。『三國志平話』では、貂蝉の姓は任と言い、当初から呂布の妻とする。『連環劇』では、本名を任紅昌と言い、霊帝の宮女であったが丁原に下賜され、後に呂布の妻になったという。一方で実在の人物ではなく、創られたものだという説もある。
趙サク【チョウサク】
?〜?
【蜀】
益州の別駕従事。211年、曹丕が皇帝となって後漢が滅びると諸葛亮らと共に劉備に皇帝となるよう勧めた。
張爽【チョウソウ】
?〜?
【蜀】
益州の勧学従事。211年、曹丕が皇帝となって後漢が滅びると諸葛亮らと共に劉備に皇帝となるよう勧めた。
張達【チョウタツ】
?〜222
【蜀→呉】
張飛配下の武将。221年、劉備が関羽仇討ちの挙兵を起こした際に張飛より全軍の白装束の用意を命じられるが期限が短すぎると范彊と共に猶予を願い出るが、張飛の怒りに触れて鞭打ちにされ、期限に遅れたら死罪にすると言い渡される。絶望した二人は夜半に寝ている張飛を殺して呉に降伏。しかし、劉備が呉征伐の兵を起こすと蜀軍に引き渡されて張苞により殺された。
趙忠【チョウチュウ】
?〜189
【後漢】
中常侍。十常侍の一人として権勢を奮う。後に何進を殺すが、袁紹らが宮中に侵攻した際に仲間たちと共に殺された。
張著【チョウチョ】
?〜?
【蜀】
牙将。219年、漢中攻防戦の際、黄忠に従って曹操軍の糧抹を奪いに行くが敵に包囲されたものの、趙雲に助けられた。
張超【チョウチョウ】
?〜195
【後漢】
張バクの弟。広陵太守。190年、董卓討伐軍に参戦。194年、陳宮を兄に引き合わせて曹操に背くよう説得し、客将であった呂布にエン州を襲わせる。翌年、曹操が反撃に出るとエン州を奪われて自殺した。
趙直【チョウチョク】
?〜?
【蜀】
行軍司馬。易に通じており、諸葛亮が死ぬ前に魏延が不思議な夢を見たと言い、夢占いを頼まれた。
張悌【チョウテイ】
?〜280
【呉】
字は巨先。丞相。晋の呉征討軍を迎え討って討死した。
張当【チョウトウ】
?〜249
【魏】
黄門。曹叡の死後、曹爽に重用されるが、249年に司馬懿の反乱の際に捕らえられて何晏らに算奪の陰謀があったと話して曹爽一族と共に殺された。
張韜【チョウトウ】
?〜?
【魏】
郭氏の寵臣。曹丕が病にかかった際に甄氏の宮殿から曹丕を呪う人形を見つけたと偽って曹丕に差し出し、甄氏が死を命じられると郭氏が皇后となった。正史では記載されていない。
趙統【チョウトウ】
?〜?
【蜀】
趙雲の長子。陳倉へ出陣する前夜、父の死を諸葛亮に届ける。父の死後、虎賁中郎将に任じられた。
張特【チョウトク】
?〜?
【魏】
牙門将。合肥新城を守る。253年、諸葛恪に包囲されて落城必死になった際に数日中に降伏すると偽って攻撃を控えさせ、その間に城壁を修復して再び抵抗し、暑さと病人が続出した呉軍は退いた。
張南【チョウナン】
?〜208
【袁紹→袁熙→魏】
袁熙に仕えていたが205年に焦触と共に曹操に降る。後に赤壁の戦いで先鋒を務めるが周泰に討たれた。
張南【チョウナン】
?〜222
【蜀】
字は文進。劉備に従って蜀に入る。221年、劉備の呉征討で先鋒を務めるが翌年討死した。
張バク【チョウバク】
?〜195
【後漢】
字は孟卓。陳留太守。190年、董卓討伐軍にて一翼を担う。曹操とは旧友の間柄で曹操がエン州から出陣する際に家族を張バクに預けていったらしいが、張バクは陳宮の勧めで曹操を裏切り、呂布にエン州を奪わせる。この行為に激昂した曹操は翌年反撃し、エン州を奪取。その際に張バクの家族を皆殺しにしたという。張バクは袁術を頼って落ち延びる際に配下に殺された。
趙範【チョウハン】
?〜?
【劉表→魏→蜀】
桂陽太守。曹操に仕えていたが劉備の荊南攻略の際に趙雲に降伏する。未亡人で兄嫁の樊氏を趙雲に嫁がせようとしたが怒りを買う。逆恨みした趙範は配下に命じて趙雲を襲わせようとしたが逆に捕らえられた。後に劉備の取り成しもあって桂陽太守の地位に留まることになった。
張飛【チョウヒ】
167〜221
【蜀】
字は益徳(演義では翼徳)。184年、劉備、関羽と義兄弟の契りを結び、義勇軍を結成して黄巾討伐に参戦。劉備が安喜県尉になった際に視察に来た督郵の横暴に憤って鞭打ち、劉備は義憤と責を感じて官職を返上する。その後、平原にいる際に董卓討伐軍に参加するため、公孫サンの軍と合流。虎牢関の戦いでは呂布と一騎打ちを演じた。196年、徐州で袁術討伐に向かった劉備の留守を守るが泥酔してしまい、呂布に徐州を奪われる。200年、劉備が曹操に反旗を翻し、攻撃を受けて四散すると芒ヨウ山を経て汝南の古城に拠って五関を突破してきた関羽と再会する。劉備とも再会し、荊州へ逃れるが劉表の死後、劉ソウが曹操に降伏してしまったため、孤立してしまうが、徐庶、諸葛亮の智謀により打開。208年、長坂橋ではたった一騎で殿を務めて曹操軍の大軍を迎え討ち、劉備らと共に江夏の劉キを頼る。赤壁の戦いを経て荊州攻略を進める劉備の命で武陵を攻略。213年には諸葛亮らと共に益州に攻め入り、厳顔を降伏させて孤立していた劉備の援軍に赴く。劉璋の要請でカ萌関に迫る馬超と一騎打ちを行う。益州を落とし、漢中攻防戦では巴西を守って張コウを破って瓦口関を奪取した。219年、劉備が漢中王となると右将軍(五虎大将の一つ)・ロウ中太守に封じられた。しかし、関羽が魏呉連合軍によって殺されると呉征討を強硬に主張し、配下の范彊、張達に白装束を揃えるよう指示したものの、短期間で揃えるのは困難との申し出に激昂し、鞭打ちに処したため、酔って寝ているところを殺された。正史では張飛は士族や上級官僚を敬愛し、配下の将兵を労ることを知らなかったと評されている。
張弥【チョウビ】
?〜233
【呉】
公孫淵を燕王に封じる使者として許宴と共に遼東に遣わされるが公孫淵によって殺された。
張布【チョウフ】
?〜264
【呉】
左将軍。孫休が瑯邪王であった際に左右の将督を務めており、孫休が即位すると厚遇された。258年、丁奉と共に権力を奮っていた孫チンを討つ。264年、孫休が死ぬと孫コウを皇帝にするよう主張。即位後、暴政を敷く孫コウに濮陽興と共に讒言するが殺された。
張普【チョウフ】
?〜228
【魏】
228年、曹休の先鋒として呉を攻め、石亭で朱桓の夜襲に遭って殺された。
張苞【チョウホウ】
?〜229
【蜀】
張飛の長子。父の死後、関興と共に劉備の呉征討軍に加わる。後に虎翼将軍に任じられて諸葛亮が北伐準備のため漢中に留まるにあたって帳前右護衛使となる。以後、関興と共に北伐に従って活躍するが239年、郭淮、孫礼を追撃して谷底に転落してまもなく死んだ。正史では早世したとあるだけで業績については触れていない。
張宝【チョウホウ】
?〜184
【黄巾賊】
張角の末弟。地公将軍を名乗って黄巾賊を率いる。後に次兄の張梁が討死すると朱儁率いる朝廷軍と戦って敗走し、最後は配下の厳政に殺された。
張茂【チョウボウ】
?〜235
【魏】
字は彦材。曹叡に仕えて太子舎人となる。235年、曹叡の宮殿造営を諫めて殺された。正史では上奏文を散騎常侍を回しただけで殺されていない。
趙萌【チョウボウ】
?〜?
【後漢】
右軍校尉。189年、袁紹らと共に少帝と陳留王を出迎えた。
張明【チョウメイ】
?〜?
【魏】
王経配下の武将。姜維の三回目の魏攻略の際、花永、劉達、朱芳と共にトウ水において迎え撃った。
張約【チョウヤク】
?〜253
【呉】
諸葛恪の側近。253年、孫峻が諸葛恪を殺した際に孫峻に斬り掛かるが逆に殺された。
趙融【チョウユウ】
?〜?
【蜀】
221年、劉備が呉を攻めた際に廖化と共に後詰めを務めた。
張楊【チョウヨウ】
?〜199
【後漢】
字は稚叔。上党太守(正史では駐屯していただけで任命はされていない)。190年、董卓討伐軍に参加。後に河内太守となり、195年、長安を脱出して洛陽に落ち延びる献帝に食糧と反物を献上して大司馬に任じられた。後に呂布が曹操に下ヒを包囲された際に援軍に向かうが配下の楊醜に殺された。
張翼【チョウヨク】
?〜264
【劉璋→蜀】
字は伯恭。初め劉璋に仕えて劉備の入蜀の際はラク城を守る。後に劉備に仕えて、221年の呉征討軍に加わって中軍護尉となる。225年、諸葛亮の南征に従い、227年、諸葛亮の北伐の際に前軍都督となる。以降、諸葛亮、姜維の北伐に従って各地を転戦。263年、魏の蜀攻略では姜維と共に剣閣に拠って魏の主軍を抑えたが成都陥落後に降伏。翌年、鐘会が魏に反旗を翻した混乱に巻き込まれて殺された。正史では劉備が蜀を治めた際に書佐に任じられたとあり、劉璋には仕えていない。
張梁【チョウリョウ】
?〜184
【黄巾賊】
張角の弟。人公将軍を名乗って兄と共に黄巾賊を率いる。後に皇甫嵩率いる朝廷軍と戦って討ち取られた。
張遼【チョウリョウ】
169〜224
【董卓→呂布→魏】
字は文遠。董卓の死後、呂布に仕えて各地を転戦。198年、曹操が徐州を攻めて呂布が殺された際、共に捕らえられるが助けられて曹操に仕えた。200年、劉備が曹操に反旗を翻した際は下ヒを守る関羽を説き伏せて降伏させた。その後、官渡、赤壁と転戦し、合肥を任される。同地にて度々呉軍と戦い、215年、逍遥津で孫権を破る。224年には曹丕に従って呉を攻めるが丁奉の放った矢を受けて、その傷が原因で死んだ。正史では222年、曹休と共に呉を攻める途上で病死している。
趙累【チョウルイ】
?〜219
【蜀】
管糧都督。関羽と共に荊州を守る。荊州が呉に奪われると関羽と共に麦城に逃れるが呉軍の伏兵に遭って殺された。正史では関羽父子と一緒に捕らえられて殺されたという。
【ち】参に進む
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