三国志登場人物解説

【ち】

チュウ輯【チュウシュウ】
?〜200
【後漢】

長水校尉。199年、董承らと共に曹操を討とうとするが翌年、董承の下僕であった秦慶童が曹操に密告して計画が露呈。一族もろとも殺された。

チュウ邵【チュウショウ】
?〜194
【後漢】

字は申甫。正史ではチュウ劭と記されている。チュウ払の子で諫議大夫。馬宇・劉範らと謀って馬騰・韓遂に呼応して父の仇である李カク・郭シを攻めて殺された。演義では事前に計画が露呈して一族皆殺しにされたとある。

チュウ払【チュウフツ】
?〜192
【後漢】

字は穎伯。太常卿。董卓が暗殺された後、李カク・郭シ軍が長安に攻め入った際に兵士に殺された。

趙イ【チョウイ】
?〜?
【劉焉→劉璋】

古くから劉焉に仕えて大官となり、194年に劉焉が死ぬと劉璋を後任に推薦し、征東中郎将となったが後に謀反して殺された。

張允【チョウイン】
?〜208
【劉表→魏】

劉表の甥。208年、蔡瑁と共に曹操に降伏して水軍副都督になるが周瑜の謀略で内通の疑いをかけられて殺された。史実では殺されたという記録はない。

張音【チョウイン】
?〜?
【後漢】

高廟使。220年、曹丕が献帝に禅譲を迫った際、献帝に使者を命じられて皇帝の璽綬を曹丕に届けた。

趙雲【チョウウン】
158〜228
【袁紹→公孫サン→蜀】

字は子龍。初め袁紹に仕え、次いで公孫サンに仕えて袁紹と戦う。後に公孫サンの客将となっていた劉備の人柄に触れ、その配下となる。208年の長坂破の戦いで曹操の大軍にただ一騎で斬り込み、趙雲を捕らえようとする諸将を討ち取りながら阿斗(後の劉禅)を救出。諸葛亮が呉と同盟を結ぶべく赴いた際は護衛を務め、赤壁の戦いの後、桂陽攻略に貢献。212年、孫夫人が阿斗を連れて帰ろうとした際にはこれを奪還し、劉備の入蜀後は鎮遠将軍に任じられる。219年の漢中攻略では曹操の追撃を食い止め、虎威将軍と称され、五虎大将の一人に封じられた。劉備が関羽の討死に激怒し、呉征討の兵を挙げた際は諸葛亮と共に反対する。劉備の死後、陽平関を守って魏に睨みを利かせ、225年の南征に従う。227年、諸葛亮が北伐準備のために漢中から北上した際は緒戦で韓徳父子を討ち取って気勢を上げるが馬稷が街亭の戦いで大敗するも趙雲軍だけは無傷で生還した。二度目の北伐の前に病死。大将軍・順平侯を諡られた。

張英【チョウエイ】
?〜196
【劉ヨウ】

孫策が劉ヨウを攻めた際に要衝である牛渚を守り、次いで抹陵を守るが孫策の計略により誘い出されて陳武に討たれた。

張裔【チョウエイ】
?〜230
【蜀】

字は君嗣。偏将軍。221年、諸葛亮らと共に劉備に皇帝となるよう勧める。227年、諸葛亮が漢中へ進出する際は長史として丞相府を任された。

張衛【チョウエイ】
?〜215
【張魯】

張魯の弟。曹操が漢中を攻めた際に降伏を拒否して許チョと戦って討たれた。史実では兄と共に降伏している。

趙叡【チョウエイ】
?〜200
【袁紹】

騎督。官渡の戦いで淳于瓊に従って烏巣を守るが奇襲にあってスイ元進と共に討死した。

張燕【チョウエン】
?〜?
【黒山賊→魏】

黄巾の乱に乗じて挙兵し、常山を拠点とした黒山賊を率いる。205年、曹操に降って平北将軍となる。

張横【チョウオウ】
?〜211
【韓遂】

馬超・韓遂に従って曹操に対して反乱を起こし、攻めるが討死した。

張温【チョウオン】
?〜191
【後漢】

字は伯慎。司空。董卓が張温の配下であった際、態度が傲慢であったため、孫堅が張温に董卓を斬るよう勧めたが拒否した。しかし、董卓はこれを根に持ち、後に袁術と結んでいたという理由をつけて宴席で呂布に殺された。

張温【チョウオン】
?〜?
【呉】

字は恵恕。208年、呉を訪れた諸葛亮に論戦を挑む。後に中郎将となり、223年、蜀呉同盟を締結させるべくトウ芝が呉に赴いた際は答礼使として蜀に赴いた。

張華【チョウカ】
232〜300
【晋】

字は茂先。司馬炎の時に秘書丞となり、呉征討を強硬に主張し、次いで中書令・散騎常侍となる。恵帝の時に侍中、司空を歴任したが司馬倫に殺された。博学多才な人物で著書に『博物志』がある。

張ガイ【チョウガイ】
?〜?
【陶謙】

元盗賊で陶謙に討伐されて降伏して都尉となる。193年、曹嵩が曹操からエン州に招かれ、徐州を通った際に陶謙より護衛を命じられるが、金銀財宝に目がくらんで曹嵩一族を皆殺しにして財宝を奪って淮南に逃げた。

張角【チョウカク】
?〜184
【黄巾賊】

『太平要術』を学んで呪術を習得し、疫病の治療を通じて信徒を集めて後漢王朝に対して挙兵する。大賢良師や天公将軍を名乗る。派遣されてきた朝廷軍を次々に破るがまもなく病死した。

張顔【チョウガン】
?〜?
【民衆】

魏に住む青年。通りすがりの管輅に「三日以内に死ぬ」と予言され、彼に哀願して延命の方法を伝授された。

張既【チョウキ】
?〜223
【魏】

字は徳容。221年、夏侯淵と共に長安を守る。後に雍州刺史となり、曹丕の時に西郷侯・涼州刺史に封じられた。

趙岐【チョウキ】
?〜?
【後漢】

太僕。191年、袁紹と公孫サンが冀州を巡って争った際に馬日テイと共に調停に赴いた。

張ギ【チョウギ】
?〜208
【袁紹→袁尚→魏】

204年、曹操が冀州を攻めた際に馬延と共に降伏して列侯に封じられる。後に赤壁の戦いで敗走の最中に甘寧に討たれた。

張休【チョウキュウ】
?〜?
【呉】

字は叔嗣。張昭の次子。229年、孫権が即位すると太子右弼となり、孫登の死後、揚武将軍となったが讒言により自害を命じられた。

張球【チョウキュウ】
?〜?
【魏】

234年、呉が魏を攻めた際、満寵と共に巣湖口の呉軍を破った。

張挙【チョウキョ】
?〜189
【後漢→君主】

初め泰山太守であったが、187年、漁陽で張純と共に反乱を起こして天子と称する。後に劉虞率いる朝廷軍に敗れて張純に続いて配下に殺された。

張嶷【チョウギョク】
?〜256
【蜀】

字は伯岐。撫戒将軍・関内侯に封じられる。225年、諸葛亮の南征に従い、227年に諸葛亮が北伐準備のために漢中へ進出する際は右軍領兵使に任じられる。その後、諸葛亮の北伐の間、牙門将として馬忠と共に南方の治世に当たり、越雋太守として少数民族を統治し、254年に成都に帰還。姜維の北伐に参戦し、盪寇将軍となるが、256年の姜維の4度目の北伐の際に段谷で孤立した姜維を救出したが射殺されたという。

張釣【チョウキン】
?〜184
【後漢】

侍中。十常侍を斬って天下に謝すべしと述べたため、投獄されて死んだ。演義では劉備の訴えを受けて十常侍を処し、黄巾討伐に功があった者を取り立てるよう上奏して宮中を追放された。

張衢【チョウク】
?〜?
【魏】

213年、馬超が冀城を制すると楊阜の推挙により配下となる。楊阜・姜叙らが馬超に対して挙兵すると梁寛らと共に冀城を奪還して馬超の妻子を殺した。

張勲【チョウクン】
?〜?
【袁術】

197年、袁術が皇帝を称すると大将軍となり、呂布を攻めるが敗走した。

趙月【チョウゲツ】
?〜213
【魏→馬超】

趙昂の子。213年、馬超が冀城を制すると部将となるが直後に趙昂・楊阜らが挙兵すると馬超に殺された。

張倹【チョウケン】
115〜198
【民衆】

字は元節。劉表の友人で『江夏八俊』の一人。詳細は不明。

趙彦【チョウゲン】
?〜198
【後漢】

議郎。曹操が楊彪を罷免した際に越権行為に当たるとして弾劾すると殺された。

張虎【チョウコ】
?〜191
【劉表】

黄祖に仕える。孫堅が劉表を攻めた際に黄祖と共に応戦するが韓当に討たれた。

張虎【チョウコ】
?〜?
【魏】

張遼の子。曹真の先鋒として諸葛亮の北伐を防ぐ。後に司馬懿の配下となり、遼東の公孫淵を攻めた。

張コウ【チョウコウ】
?〜231
【袁紹→魏】

字は儁乂。初め袁紹に仕えていたが、官渡の戦いで郭図に讒言されて罪を被られそうになり、高覧と共に曹操に降り、偏将軍・都亭侯となる。その後、赤壁、涼州、漢中と転戦。228年、諸葛亮の北伐では司馬懿の先鋒として街亭で馬謖を破るが、231年、撤退する蜀軍を追撃し、木門道で伏兵に遭って射殺された。

張紘【チョウコウ】
153〜212
【呉】

字は子綱。張昭と共に『二張』と称され、孫策に仕えて正議校尉となる。199年、許都に使者となり、侍御史に任じられた。翌年、江東に戻って会稽の都尉となり、208年の合肥攻略に参戦。その後、抹陵に遷都するよう遺言して死去した。

趙広【チョウコウ】
?〜263
【蜀】

趙雲の次子。牙門将。陳倉へ出陣する前夜に父の死を諸葛亮に伝えた。262年、姜維に従って沓中に駐屯し、前線で討死した。

趙昂【チョウコウ】
?〜?
【魏】

涼州参軍(演義では姜叙の配下で統兵校尉)。213年、馬超が冀城を制すると姜叙・楊阜から挙兵の相談を受ける。子の趙月が馬超の部将となっていたため、躊躇するが、妻の王異に説得されて挙兵に参加。夏侯淵の援軍を得て馬超を破った。

趙氏【チョウシ】
?〜?
【魏】

正史のみの登場。趙昂と王異の娘。名は英。幼い頃に梁双の反乱で兄二人を失うが母と共に難を逃れ、趙昂の任地へ移住した。

張氏【チョウシ】
?〜254
【魏】

張緝の娘で、曹芳の妃。254年、張緝が一族もろとも司馬師に殺された際に廃された(演義では殺された)。

張氏【チョウシ】
207〜237
【蜀】

張飛の長女。221年、太子妃として宮中に入り、223年に劉禅が即位すると諸葛亮らの上奏により皇后となる。生来病弱であったという。敬哀皇后と諡られた。

張氏【チョウシ】
?〜?
【蜀】

張飛の次女。237年に貴人となり、姉の死後、皇后となった。

趙咨【チョウシ】
?〜?
【呉】

字は徳度。中大夫。221年、孫権が魏に臣従の意志を示した際に曹丕の元へ使者となった。

張緝【チョウシュウ】
?〜254
【魏】

光禄大夫。254年、宮中で夏侯玄・李豊・曹芳から司馬師誅殺の相談を受け、その帰途、曹芳の密詔を司馬師に発見されて一族もろとも殺された。

張繍【チョウシュウ】
?〜207
【董卓→張済→君主→魏】

張済の甥。叔父の死後、軍を継承して宛城を治める。197年、曹操に降るが叔母の鄒氏を曹操が奪ったことから憤り、軍師の賈クの助言を受けて夜襲を仕掛けて曹操を大敗させ、再び敵対する。199年、曹操・袁紹から味方になるよう誘われ、賈クの勧めにより曹操に降伏して揚武将軍に任じられた。後、官渡の戦いで勲功をあげて破羌将軍となるが、207年、烏桓を攻める途上で死去した。

張粛【チョウシュク】
?〜?
【劉璋】

張松の兄。広漢太守。212年、張松の邸宅を訪問した際、張松が劉備宛ての密書を記しているのを見つけ、益州奪取を勧める内容だったことから、主君の劉璋に訴えた。直後に張松は捕らえられて殺された。

張峻【チョウシュン】
?〜?
【蜀】

太常卿。263年、劉禅がトウ艾に降伏して蜀が滅亡すると張紹と共に各地に遣わされて降伏を説いて回った。

張純【チョウジュン】
?〜189
【後漢→君主】

初め中山太守。187年、張挙と共に反乱を起こして弥天将軍・安定王を称するが、劉虞率いる朝廷軍に敗れて配下に殺された。

張遵【チョウジュン】
?〜263
【蜀】

張苞の子。尚書。魏のトウ艾に攻められた際、諸葛瞻と共に綿竹関を守るが討死した。

張尚【チョウショウ】
?〜?
【魏】

杜預に仕える。279年、杜預に従って江陵を攻め、呉の陸景を斬った。

張承【チョウショウ】
178〜244
【呉】

字は仲嗣。張昭の子。人物の鑑識眼が高く、濡須都督・奮威将軍・都郷侯となり、234年、諸葛亮の北伐に呼応して孫韶と共に淮陽を攻めた。

張松【チョウショウ】
?〜212
【劉璋】

字は永年。益州別駕。211年、張魯の益州侵攻を防ぐため、劉璋に申し出て曹操のもとに赴くが冷遇されて失望。次に訪れた劉備は逆に厚遇されて好印象を持ち、劉備を新たな君主として迎え入れようとするが、翌年、劉備への密書を兄の張粛が見つけて劉璋に訴えたため、捕らえられて殺された。

張昭【チョウショウ】
156〜236
【呉】

字は子布。張紘と共に『二張』と称され、孫策に仕えて長史・撫軍中郎将となる。208年、曹操の南下に対して臣従をするよう進言し、221年に孫権が魏に臣従の姿勢を見せ、魏より下向してきた使者ケイ貞の傲慢な態度を叱責する。229年、孫権に皇帝への即位を勧めて蜀との同盟を進言。後、遺言で抹陵への遷都をするよう孫権に対して書状を記してあったという。著書に『春秋左氏伝経解』『論語注』がある。


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