1.プロローグ:研究所にて

 都内郊外に荒れ果てた研究所がある。人里から離れ、森の奥深くあり、道という道はどこにもない。森と同化していると言っても過言ではない場所に突然研究所が視界に現れる。窓が割れた3階建ての白い建物を囲むようにして鉄条網を備えた金網が隙間なく張っていた。入り口には錠が掛けられた鎖で封鎖している。誰が何のために造ったのか、近くの村の者でさえわからなかった。ただ、ここは数年前から閉鎖されていることだけはわかる。日本を守護する自衛軍ですら一部の者しか知らない研究所にある男が訪れた。
「ここに来るのは何年ぶりかな…」
眼鏡を上げながら不精髭を生やした男が錠に鍵を差し込む。程なくして錠は外れ落ち、金網の入り口が開いた。
「さて…、正と出るか、邪と出るか…」
そう言うと男は研究所の奥に消えて行った。中は煤で爛れていた。閉鎖になる前に火事を起こしたという。村の消防隊員が駆け付けたときにはもう手がつけられない状態だった。その後、軍部の命令とか言って法律に基づいての現場検証をしないまま、閉鎖となった。男は地下への階段を見つけて下りていく。カツン、カツン…っと乾いた音だけが響いた。しばらく階段を下り続けると鉄の扉が見えた。鍵は掛かっていない。重苦しい扉を開く。
「ふぅ…」
男は眼鏡を抑えながら溜め息をついた。懐かしい匂いがここにはあった。人生を犠牲にしてかつて過ごした思い出がここにはあった。
「懐かしいか?」
その声にはっと後ろを振り返った。気配を感じさせない素晴らしい動きだ。暗闇の中から声が聞こえる。
「俺は苦い思いだけがここにある」
「いつの間に来たのですか?」
「ついさっきだ」
「気配を感じさせないとはさすがですね」
「ふん、お前が餓鬼ども遊んでいるからだ」
「餓鬼とは彼らのことですか?」
目許が厳しくなる。軍人として厳しい戦いを潜りぬけた鋭さを増した目だった。
「ふっ…、いい目だ。本気で政治家になる気か?」
男は苦笑した。
「ええ、今のままでは前線で戦う彼らにとってただの無駄死にとなります。私は彼らを死なせたくないのです」
「そうか、あんたがそこまで言うのなら、本気なんだろうな」
「まぁ、どこまでやれるかはわかりませんがね」
「善行、お前ならできるさ」
善行と呼ばれた男は苦笑した。簡単にはできないことが政治家の世界でも数多くある。
「ところで、今日はこんなところに呼び出して何か用でも?」
「前線に復帰することになった」
「前線に?、では、下関に?」
「いや、あそこは撤退後は守りも堅くなって幻獣とて容易に攻めることはできない」
「まさか…」
「そうだ、政府に見捨てられし土地に赴く」
「四国ですか…」
善行は苦悶の表情を残した。九州からの撤退後、四国は前線となった。下関における決戦は人類側が勝利し、幻獣とて侵攻が困難となり、断念せざる得ない状況になっていた。そこで自衛軍は四国山地に要衝を築いて高知市に四国総軍の司令部を置いた。約10万の自衛軍に20万に及ぶ学兵の動員が政府の閣議で決定され、随時配備されることになる。
「意外だったか?」
「ええ、あなたは一時とはいえ、裏切り者の汚名を着た。本来であれば監視の厳しい下関に配置となるか、都内警備と思っていました」
「軍部にも考えがあってのことだろう。ま、俺にとってはそのほうが自由が効くし、雛どもも一緒に転属となった」
「雛…、ああ、彼女たちですか。皆、元気にしていますか?」
「いつも元気を分けてくれるあり難い連中だよ。俺はあいつらを守ってやりたいと思っている。お前が5121小隊を守ろうとしているように」
「そうですね、あなたがついているならこれ程心強いことはない」
「時とは怖いものだな」
男は暗闇の中から姿を現した。善行より年上で背丈もさほど変わらない。軍人らしい気配は微塵も感じさせないところが部下に人気があるという噂もあると善行は聞いたこともあった。
「お前は途中からここに来たが、俺は生まれてすぐにここに来た」
「………」
「知らず知らずのうちに培養液に入れられ、殺人術を仕込まれ、感情を失った。初めて人を殺したのは8歳のときだ。研究所の秘密を漏らそうとした科学者を暗殺した。喉元にナイフを切りつけてな。相手は一瞬で絶命していったよ」
「…やめましょう、その話しは」
善行は話しを制そうとするが男は止めなかった。
「次にやったのは女だったか、そしてまた男を…。お前にはわからんだろうな、わずか8歳で人を殺した者の心なんてものは。幻獣を殺すのとは訳が違う。つい先程まで普通に話しをしていた人が一瞬でこの世から消えてしまう。それだけ、この研究所が重要機密だったということがわかったのが10歳になった頃だった。その頃になると、俺はこの手で研究の邪魔になる奴はほとんど殺した。その殺人術が功を奏したのか、次に与えられた任務は…」
「やめましょう!!、その話しは!!」
怒声が響くが男の声音は変わらない。
「そんなにムキになるな。あの一族に関わってしまった以上、逃れられぬ運命だな」
「話しはそれだけですか?」
善行は視線を逸らした。
「もう1つある。お前にとって有利になるかどうかはわからないが芝村の長老が総理の椅子を本格的に狙っていくらしい」
「長老が?」
長老と言ってもまだ働き盛りの50代後半だが経験してきた修羅場は数知れない。善行も長老のことはよく知っている。しかし、世界を牛耳ろうとする芝村に一国の椅子なんて興味があるとは思えなかった。
「総理の椅子なんて今更得てどうしようと…」
「さあな、その辺りの事はお前に任せる。政界に行けば何か掴めるんじゃないかと思ってな」
「なるほど…、私も1つ聞きたい」
「ん?」
「あなたは私の味方ですか?、敵ですか?」
「それは心を許せるか?ってことか?」
「いえ、そこまでは…」
「ははは、冗談だ。今は味方だと思ってもらえればいいが前線に行く以上は東京のことなんて耳に入る隙がない。だが、協力できることがあればいつでも言ってくれ。昔の腐れ縁って奴でな」
「では、早速ですがお願いしたいことがあります」
「おう、何だ?」
善行の厳しい表情は変わらなかったがその一言一言は驚くようなことだった。
「正気か?」
男は苦笑した。
「ええ、もちろん正気です。でなければ、このまま、東京には行けませんからね」
「わかった。お前がそこまで言うのであればやってみよう」
「お願いします。勝ち負けは気にしないでください」
「いや、気にしたほうがいいだろう。そのほうが緊張感も湧くし、うちの士気も高まる」
「わかりました、彼らには私から伝えます」
そう言うと善行は目上の男に向かって頭を下げて研究所を後にした。残された男は苦笑しながらかつての研究所を眺めながら呟いた。
「ここから全てが始まった。そして、戦いはどこに行くのか…。人が勝たねば未来はない。大人は全てを下の者に託す腐敗した国をどう向けていけるのか、善行よ、お前はその目で見つめてくれ。俺は血で汚れた過去を清算できるとは思わないが少しでも過去の償いになればいいと思っている。1人でも多くの者が救えるなら、俺の命を捧げよう」
そう誰もいない暗闇に向かって言い放つと男もまた来た道を歩いて行った…。

 世界は50年前から大きく変貌した。1945年、第二次世界大戦末期にそれは現れた。「黒い月」である。そして、黒い月の誕生と共に多くの魑魅魍魎が地上へ舞い降りたのである。魑魅魍魎たちは後に幻獣と呼ばれて人類の最大の天敵となった。戦争・内戦で闘いを続けていた世界の各国は休戦もしくは停戦して、この新たなる敵に挑むが地球の広大な大陸を持つユーラシア大陸は幻獣に完全に制圧されてしまった。そして、次なる目標は日本、九州にそれは上陸し、制圧するに至った。抵抗を続けてきた者たちは本州へと撤退し、戦いは一時休戦を迎えたはずだった…。

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