刺田比古神社
(探索終了)

探索日 場所 備考
22年7月8日 弁財天社 最大の敵は・・・蚊・・・(笑)
23年3月26日 刺田比古神社 なかなか入り口を見つけられず、
少し苦労しましたが、
古墳という意外な発見もありました

☆ 解 説 ☆

祭神 道臣命(大伴氏の祖先とされる)、大伴佐比古命(狭手彦命)

岡の産土神として古くより「岡の宮」の名で知られており、
一説には聖武天皇岡の東離宮跡とも伝えられている

佐比古命より代々岡の里を采邑し、
佐比古より20世孫の大伴武持が岡の里に住して大伴氏の発祥であるこの地に祖神、祖霊を祭祀した

大伴武持より28世孫の岡本武秀が初めて岡山に城を築くと、
神田若干を寄付するなど代々城の氏神として厚く崇敬する

里人の崇敬も厚く社殿等頗る壮観を極めたが、
南北朝の騒乱など度重なる戦災により社殿も荒廃したという

嘉吉年中に氏子等が再興し、国主(くず)神社と呼び崇敬し、
豊臣秀吉が和歌山城を築くにあたり本城鎮護の神として尊び、
大伴氏の後裔である岡本左介を社司とした

豊臣秀長は城代桑山重晴に社殿修造を命じ、岡本左馬助家長を神官に任じ、
文禄3年、神社を本来の鎮座地たる岡の里(現在の御鎮座地)に移した

その後、浅野幸長が和歌山を領した際も、和歌山城鎮護の神として変わらず崇敬し、
1619年(元和5年)、徳川頼宣が紀州へ入城すると、
浅野時代同様に城の守護神たるこの神社を崇敬し、社殿を修築し社宝を奉献すると共に、
領地を寄進し、宮司を別当職として松生院に居住させた

2代藩主徳川光貞以降は産土神として崇敬し
寛永から延宝年間に大小の社殿を造営し、松生院別当職を解いて唯一神社となし、
新たに神官邸を社の傍に寄進して奉仕を厳にした
また、名草郡岡村にて社領を寄付され、神官岡本長諄を従五位下周防守に叙任

後に、8代将軍となる徳川吉宗が誕生した際、
神主岡本長諄が仮親となったことから、吉宗公より特別に崇敬をうけた

吉宗は将軍就任に際し、開運出世の神と敬神し、
享保年間に名草郡田尻村(現在の和歌山市田尻)に200石の朱印地を寄付し、
神社境内の殺生を禁じ、黄金装飾の太刀壱振(国宝)、神馬1頭を献じ、永く国家安泰の祈願社とした

これより年に壱万度の国家安泰の祓を命ぜられ、
神主岡本長刻より代々3年に1度江戸に上り、将軍に拝謁し、
代替、継目等の際は江戸にて拝謁するのが慣例となった
よって氏子の崇敬益々厚く神徳弥栄にて、1873年(明治6年)4月に県社に列せられた




鳥居

閑静な住宅地の中にあり、
岡山城の東麓に当たります




鳥居脇に刺田比古神社の案内板があります




境内

奥から車がバックしてきた時は驚きました
交通安全の祈願をしていたようです




本殿

一番奥にあり、神主さんがおられました




岡の里古墳

昭和7年1月に境内南西側の山の斜面から、
石室、人骨の一部、土器等が出土
6世紀頃のものと推測される

本殿を撮った場所のすぐ後ろにこの案内板があります




その右横にある古墳と思われる場所


 

弁財天社

本宮は刺田比古神社(岡の宮)でお札がもらえる
天妃山の裏にあり、夜雨荘と武道館の間にある


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