華岡青洲顕彰記念公園、華岡家墓地
(撮影日 24/8/14)

☆ 解 説 ☆

華岡青洲(1760年 〜 1835年)

紀伊国那賀郡名手荘西野山村出身
華岡直道の嫡子として生まれ、1782年(天明2年)に京に出て、
吉益南涯に学び、次いで大和見水、伊良子道牛に師事して医学を学ぶ

1785年(天明5年)、帰郷して家督を継ぎ、
全身麻酔薬の研究を始め、人体実験による母と妻の犠牲もあったが
麻酔薬「通散湯」(門外不出の秘術とされる)の開発に成功

1802年(享和2年)、紀州藩主徳川治宝に謁見して帯刀を許される

1804年(享和4年)に大和国宇智郡五條村の女性の乳癌摘出手術に成功させ、
華岡青洲の名は一気に全国的に広まった

1813年(文化10年)、紀州藩小普請医師格勝手掛に任じられ、
小普請御医師を経て、1833年(天保4年)に奥医師格となる

その2年後の1835年(天保6年)、死去。享年76歳。

記念公園は青洲の里の北側にあり、
華岡家墓地に隣接している

公園は人間の体をイメージしていると言われる





通路は脊髄をイメージしているらしい




青洲自作の漢詩の石碑

「竹屋蕭然烏雀喧  風光自適臥寒村  唯思起死回生術  何望軽装肥馬門」

自分は何の富貴栄達も望まない
自然に恵まれた田舎に住んでいるが、
ひたすら思うことは瀕死の病人を回生させる医術の奥義を極めたい、ということのみである
金を儲けて絹の着物を着たい、立派な馬に乗りたいとは思わない
日々、患者の痛みや苦しみに心を痛め、
どのようにして患者を救えばよいのか、何とかならないものか
そればかりを思う毎日である




この二つの石は青洲の母於継、妻の加恵を象徴していると言われる




漢詩の石碑の隣に案内板がある

入り口から右側にある階段を登ると華岡家の墓地がある




この奥に墓地がありますが、墓の写真はありません
何しろ・・・お盆ですから・・・( ̄▽ ̄;)






華岡家一門の墓の案内板があり、青洲の墓もこの中にあります






華岡青洲 墓誌銘碑

後世の者たちが青洲を称えるために造られた石碑

これより、春林軒に参りたいと思います


戻る


.