規則的に動く筈の壁掛け時計から、不規則な作動音が聞こえる。
頭の中で数えようとしても、そのテンポが狂っているせいで不規則さが癪に障る。
小さくしゃがみ込んでいる少年は、その音に少しだけ苛立った。
頭の中が痺れていた。少年は意識の片隅で、それを感じていた。
母親に貰った金で床屋に行ったのは二日前の日曜日だった。だが整えられていた前髪も、今はバラバラになってしまっている。
だが自分のヘアスタイルよりも、少年は目の前のモノの方に関心を向けた。
色数の少ない閉鎖された空間。
そこは全ての物が黒に近い色だった。
冷え切った空気が、玄関へ続く狭い空間の底を漂っている。その中に少年の体が埋没して、しゃがんでいるのも疲れるのか、緩やかに左右に揺れていた。
薄い唇を半開きにして、生気の無い瞳は、ひたすら目の前に転がっているモノを注視している。
静止している時が、たっぷりと五分ほど経過した頃、ようやく少年は新しい動きを見せた。
左の人指し指を伸ばして、ソレにそっと触れてみたのである。すると、それまで無表情だった少年の顔に初めて感情が浮かび上がった。
嬉しさ。
いや、歓喜という言葉のほうがピッタリだろうか。
欲しかった物をようやく手に入れた、幼児のような無邪気さを含んでいた。
すぐに指先で触れたものを弄び始めた。指先に力を入れたり緩めたりを繰り返す。
すでに温度は失われていた。
指で強めに押すと、蝶の幼虫が動く時に見せる、表面と内側の伴わない動きによく似た不快さで、小さく揺れた。
少年は興味に満ちた瞳を向けて夢中で指で突き続けた。ソレは彼にとって、とても楽しい玩具なのだ。
子供の頃から、教育熱心な母親から叱られることの多かった少年にとって、もしかしたら始めての感情かもしれない。
「あ」
短く上げた一音と同時に、少年は口の端を変形させた。
微かな光で、何かが床に広がっているのが見て取れた。広がる縁が少年の足の指を濡らしていた。
指ですくうとネットリとしている。
夜気を染み込ませ、暖かさを完全に失い切った粘液は、指の先から垂れそうになって寸前で留まった。
さらに声も無く笑うと、少年は濃密な粘液を目の前のモノに塗りたくった。
先月十三歳になったばかりの少年は、指からの感触に興奮していた。
その笑みは、子供の持つ愛くるしさを別の生き物へと変貌させていた。
少年は、母親が二十歳の時に生んだ子である。
その母は妊娠後に突然行方をくらました男に早々に見切りをつけて、女手一つで懸命に息子を育てた。数年後に一度だけ見知らぬ男を紹介されたが、その男は二度と少年の前には現れなかった。
それから少年が十歳になった頃、母は当時働いていた店で上司だった男と、彼の意志を無視して、強引にファミレスで三人で食事をした。だがこの時のことは、ファミレスの料理を事務的に食べたこと以外、少年はあまり覚えていない。
夢を思い出すよりも遠く、印魚が薄かった。
母が再婚したのは、間もなく半年後のことだった。
その時、少年はこれといって反対はしなかった。浮かれる母親の姿が、どこか可哀想に思えた。反対しなかった理由は、確かそういうものだった。
新しく父親になった男は、鬱陶しいくらいに真面目だった。
背負っているものを全て受け入れてくれた、という点では母にとってはいい男だったに違いない。少なくとも母親はそう感じて、男との生活を喜んでいたように少年には思える。
だが息子の方は、やけに父親面する男をずっと疎んじていた。
その日から真実が見えなくなった母親のことを、哀れな女として認識するようになってしまった。
そして今はその母親が、自分の背中越しに両目を見開いて、息子へ視線を向けていた。
「……お母さん」
声変わり途中のかすれた声音は、すぐに闇に溶け込んだ。
生前と変わらない母親の顔が、白い肌もあり暗闇の中で奇妙に目立っていた。
ただ見慣れた母親と違うのは、その顔が真後ろに向いていることだろう。
絶命してから数時間が経過していた。女性の方が体温の下がり方が遅いと言われるが、冬の夜と言う気温の低さが上回っていた。夜闇のせいで肌の変化までは見て取れなかった。
というより少年にとって、それらはどうでもいい事だった。
死んでいる母親と視線が合うと、少年の脳は痺れた。
毎日、きちんと決まった時間に放送されるニュース。
チャンネルを変えても大抵は同じ内容だ。
少年が帰宅した時、居間からキッチンまで夕影が映えていた。
ちょうどテレビでは、中学生のグループが一人のサラリーマンを集団暴行して死なせた、という事件の経緯が報道されていた。
少年はテレビ画面を横目に見ながら、顔を見るなり小言を始めた母親から、持っていた包丁を強引に奪い取って腹部へ突き刺した。
無造作で淡々とした行動だった。
この時の少年は、状況を認識できない母の驚愕で目を見開いている顔が、とても間抜けだと思えただけだった。
どうして母親を殺したのか。
理由は、それほど明確なものでは無かった。
父という存在になった男が言っていたことで唯一、少年が同意した考えがある。
そもそも犯罪を犯すのに、それほど大した理由などは無い。他人を殺すほどの憎しみをもつのは、犯罪者の数以上に多く、特別変わった感情ではない。そしてその多くは犯罪への道を選びはしない。
その差は、たまたま、そういった状況が訪れるかどうかの違いでしかない。つねに人を行為に走らせる理由は、ただそうしたくなった、それだけだ。
だから少年も、急に自分の母親を殺したくなった、それだけの理由しかなかった。
それだけだ。
他に行為の理由は無い。
だが、それでも行われる問い。
無理やり理由を付けるなら、突然ウザくなった、というところだろうか。殺害するほどの憎しみだったかと、さらに問われれば、本人にも自分の衝動を説明することは出来なかった。
それが衝動というものだろう。
殺すという考えに少年の全てが支配され、それに抗えなかった、とでも答えるだけだ。
「お母さん……」
刺した直後、床に突っ伏して死への痙攣を起こしている母親を見下ろしながら、おもむろに少年は呼んでみた。
だが死にゆく者からの答えはない。
いつも帰宅するなり、毎日、学校での事を根掘り葉掘り問われた。翌日登校するまでの間、つねに監視されている気分を味わった。
母親は自分がいないと、この子は駄目になると思い込んでいたらしい。自分がしっかりと道を標してやらなければという、そんな思い込みに囚われて実行するのに必死だった。
たぶんそうする事によって、父親をやってくれている男に何かを示したかったのかも知れない。
しかし母親が男に対してこだわっている事、自分の教育に熱心なそんな態度を、一般的な少年と同じように、彼も煩わしかった。
新しい父と名乗る男はと言うと、なぜか一緒に食事を取る事に妙にこだわっていた。それが子供の教育に良いのだと信じていた男だった。
煩わしい存在。
少年は父親を必要としていなかった。
そんな関係でも、少年の家族は今まで何の大きな問題も無く、平凡な日常をダラダラと繰り返していた。
それが、あの日から不意に変化した。いや、あの瞬間と言ってもいい。
突如、湧き上がる衝動は抑える間もなく、少年の精神を貪り尽くした。
動かない母親を見詰める少年の瞳からは、帰宅した時からずっと生気が失われたままだった。
母親を殺した事に、別に後悔は感じなかったし、恐怖心も無かった。
キッチンから居間を通って玄関まで引き摺られた母親の体は、痛々しいほどに身体のあちこちが引き裂かれていた。最初に刺して倒れてからも、少年は執拗に包丁をふるったのである。
キッチンや隣の居間の壁などに飛び散った血の一部は、すでに乾いているところもあった。
目の前の母親はもう生きてはいない。
ただのモノと化している。
死んでしまった人間は、ただの肉の塊に過ぎなかった。
今になって思い返して見れば、衝動は以前からあったのかも知れない。
ニケ月くらい前だった。
学校で弁当を食べている時に、隣りに座る女子のクチャクチャという食べ方が妙に耳にこびり付いて腹を立てた少年は、怒りにまかせて彼女の頭を弁当ケースで何度も殴りつけた。クラスメートは二週間ほど入院した。
相手側は警察沙汰にしなかったが、母は学校に呼び出され、相手の親と担任に向かって、懸命に頭を下げた。当然、帰宅してから激しく怒鳴られ、頬を何度も叩かれた。再婚相手の男は神妙な面持ちで、その間終始沈黙していた。何かを考えているようにも見えた。
翌日から学校では危険人物扱いされて、何かと問題があるからと教室で授業を受けられず保健室での自習となった。ていのいい厄介払いだ。
異端者は除外されるのが社会の常識である。
それからニケ月間、彼は沈黙を強制される環境で過ごした後、すっかりおとなしくなった。そんな少年を見て、周囲の大人は反省の色があると勝手に判断し、教室に戻ることを許した。
そして今日、久しぶりに教室に戻ったのだが、クラスメートたちは異形の存在を拒否した。
魂が抜けた顔で帰宅した息子に対して、最初、母親は一切声をかけなかった。
何かを言って欲しかった訳ではない。
優しい言葉が欲しかった訳でもない。
やがて口にしたのは、いつもの小言だった。
夕飯の支度をしている母親から包丁を奪い取って腹を刺し、倒れたところへ喉を突いた。続けて乳房を突き、そのまま一気に下へ引き裂いた。引き裂かれた服が開き中年太りが始まった腹が露わになると、少年はそこへも刃を突き立てた。
自分にそんな力があったのかと驚くほどの腕力が、次々と行動を起こすたびに溢れた。
母は体全体で死の痙攣を繰り返していたが、それも、やがて不意に止んだ。
それから点きっばなしのコンロの火を止めると、少年は足を掴んで玄関まで母の死体を移動させたのである。
そこでさらに母親の体中を裂きまくった。
母親を移動させたのも、これといって理由は無かった。ただ、そうしたかっただけだ。
涙を流すことも、かといって笑うこともせず、あくまで淡々とした作業だった。
一貫性の無い、行動のおかしさは、少年自身は意識していなかったに違いない。
気の済むまで、濁った血液を母親の体に塗りたくっていた少年の視線が、不意に明かりの無い玄関をさ迷った。
大事なことを思い出したのだ。
「……ああ、あの男も殺さないと」
ほっそりとした、まだ成長し切れていない体を、緩やかに玄関の方へ向けた。
音だった。
音が聞こえてくる。
まるで彼の思いに応えるように、重厚な造りの扉の向こう側から、踵が鳴らす甲高い音が聞こえてきた。
男らしい革靴の音だ。確実にこの家に近づいている。
少年は虚ろな眼差しをドアへ向けたまま立ち上がった。
苦しそうにドアへ歩き始めた。
すっかり冷え切った床に、裸の足が粘っこい音を立てた。
ドアの鍵は、少年が帰宅した時のまま開いていた。
鍵がかかっていないと知ると、あの男は母に文句を言うだろうか。いや。母はすでに死んでいるから関係ないか。
気温と変わらない低温のコンクリートヘ足を下ろしても、少年は顔色一つ変えなかった。
靴音が止んだ。
人の気配がドアの手前から感じられる。
少年の瞳が、死ぬ間際の母親のように、大きく見開かれた。
手を伸ばすより先に、ドアのノブが回った。
少年の顔が激しく歪んだ。
その顔はさきほどまでとは明らかに違うものだった。
別人のようであり、ニケ月前に少年に暴行を受けた少女が見たのは、こんな顔だったろうか。
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