妹の誕生日の用意で急いで帰宅すると、響はすぐに母親に呼ばれた。
私服に着がえて居間に向かうと、母親は神妙な顔をしていた。
母親のこんな表情はあまり見たことがなかった。
「何?」
「響(ひびき)、ちょっと座りなさい」
何かのことで叱られるのかと思い、表情を強張らせて、きちんと正座した。
目の前の母が、体で隠していたように何かを取るために、体をひねった。
「これ。お父さんがあなたにって」
剣道部で使っていたモノよりも、少し長めの一振りの刀が、そっと膝元に置かれた。
もちろん知らないモノではない。普段は居間に飾ってある。何でも、父がお師匠さんから、受け継いだ、というか頂いたらしい。
「……あたし、もう剣術はしないって言ったじゃない。だいたい、それに、部活も辞めたんだし」
語尾にいくにつれ声音が小さくなった。
「辞めた事は、お父さんが、響の好きにさせなさい、って言ったから、私はもう何も言わないわ」
「お父さんが? ……それじゃいまさら何で」
娘は母に気づかれないように両の拳を、ぎゅっと握り締めた。
部活の事は話したくなかった。家にいる時にその話題の輪郭にでも触れそうとなると、必死でそらし続けていた位だ。だから、これ以上は剣術や刀の話もしたくなかった。
「でも一応あなたが持っておきなさい」
「でも、それじゃ……」
「お父さんが。どうしてもって言うのよ」
「どうして? だって、これ……お父さんが弟子の中から選ばれて」
母は視線を一端よそへ向けてから、ため息をついた。
「そうね。どうしてかは、私にも分からないわ。でも、あなたに貰ってほしいというのが、お父さんの希望だから。だから、私はお父さんに従うわ」
響には、これといった反抗期は無かったように思う。母親は自分の気持ちに対して正直で、それは家族に対しても同じだった。自分の母親だというのを差し引いても、とても尊敬しているし憧れていた。
そんな母は、父を心から愛していた。
「あなたが小学生の頃、よく言ってたわよ」
「……何?」
「お父さんはね、あなたが自分と同じ剣の道を歩いてくれたのを、とっても喜んでたわ。そのうえ、自分の娘に素晴らしい才能がある事に気づき、とても誇りに感じたそうよ。だからなの。ね? だから」
「……うん」
これほどまで言われては、もう娘にはしょうがなく受け取るしか出来なかった。
それに自分が持っているだけで、父と母が納得して喜んでくれるのなら、それでいい、と響は思った。
わざとらしく無造作に刀を手にして部屋に戻った響は、母親の前とはまるで違う扱いで、丁寧にベッドの脇に刀を立て掛けた。
今更だが、何か重いものを担いでしまったように感じた。
九十センチにも及ぶ刀身を守る、白い鞘には見事な装飾が施されていた。
隠そうと思っても隠せないほどの存在感を放っていた。
道場に通っている時に、多くの刀を見せられた響には、この太刀の華麗で繊細な刃紋に反して、内側より膨れ上がりそれでも止まらず溢れ出す、圧倒的な業物造りが理解できた。
子供の頃は父親に連れられて道場に行くのは好きだった。師匠とみんなに呼ばれている老人の言っている事は出来なかったが、友達と遊ぶよりも楽しかった。
何より父に誉められるのが、とても嬉しく、抜刀術を続ける事で父に近づいていく感覚が安心感へとなり、響を暖かく包み込んでくれた。
小学校に上がってからは、さらに地元の剣道教室にも通い始めた。ただ、それと平行して、相変わらず週末は父と道場へ通い、修練に励んだ。
それが中学に入ると同時に、父は突然、道場に行くのを何かと理由を付けて拒み始めた。さらに小遭いをくれて、友達と遊びに行く事をやたらと勧められた。しかし響には父親の考えは分からないまま、剣術部へ入り、修行を続けた。
中学入学を目の前にした頃、福岡に引っ越してきて、隣りの水月と出会った。彼女は良き先輩であり、大会では良きライバルだった。水月と同じ高校を受験したのも、彼女と一緒に、お互いを高めたかったからだ。
だが入学してまもなく、顧問の教師といざかいを起こしてしまった。そしてその事件が、響と周囲の人間との摩擦を一気に表面化させてしまい、彼女からやる気を失わせてしまった。水月は何かと気にかけてくれたが、二度と部に戻るは無かった。
物心ついてから、あれだけ熱心に続けてきた事が、やめる時は意外とあっさりしていた。
ベッドの枕元のところの壁に立て掛けた、長い柄の刀を見ながら、少女は複雑な思いを表現できず、ただ嘆息した。
そんな時、玄関のインターフォンが聞こえてきた。
時計を見ると、父が帰ってくるにはまだ早かった。百合の誕生日だからかな、とも考えた。
母が駆けてゆくスリッパの音が聞こえた。
扉が開いた。閉まる音。
次の瞬間、母の金切り声が聞こえ、響はビクリとして思わず立ち上がった。
「何をしてるんです! ちょっと、何ですかっ!」
さらに上がりかけた悲鳴が消え入り、代わりに複数人の声が耳に届いた。
侵入者らしい何者か達の会話は、小声で早口だったため、よく聞き取れなかった。
鋭利な緊張感で満ちていく中、響は部屋を出て様子を見に行く事も出来なかった。
響の体が呼応するように強張り、微かに震えてもいた。
「いやっ!」
百合の声だ。
思い切って足を強引に動かし部屋を飛び出そうとしたが、やはり響はドアのノブを握る前に足を止めてしまった。頭の中に急速に広がっていく危険信号が、意志とは違う行勒を起こさせたのである。
不安が意識を埋めていき、オロオロと部屋の中を動き回った挙句、慌てて立て掛けていた刀を手にした。そして何を思ったか、響は洋服ダンスの中に入って扉をしっかりと閉めてしまった。
途切れ途切れに悲鳴が聞こえてきた。その度に膨らんでいく恐怖に体を小さくした。
母親の声に、泊まりに来ていた景の声も重なって聞こえた。
それを遮るような若い男の怒号が、さらに響を萎縮させる。
と不意に、荒々しく部屋の扉が開いた。激しい空気の動きでタンスの扉が音を立ててしまう。
見つかったかも、という恐怖で声を上げそうになったが、響は懸命に堪えた。
「何だ、居ないじゃないか」
「残念だったわね」
声音は男と女だった。
「お前が妹をとっとと斬るから、ヤれなかったんだろっ。俺には、あいつみたいな趣味はないぜ」
「本気で全員を犯るつもりだったの? 呆れた。早く仕事を終わらせましょ。ホントにここにあるんでしょうね?」
「むかつくな!」
何かを蹴る音。重々しいモノが動き、何かが落ちる音が聞こえた。響の呼吸が止まりかけた。
「目的のものが無いと、団長にどう言い訳するつもり?」
「せっかく女子高生と犯れると思ったのにな。くそぉっー!」
部屋中を荒らしているらしい。気持ちが加速をつけて萎縮していく。
「全く……先に行くわよ。早く行かないと、母親もあいつらがオモチャにするわよ」
「わかってるよ。あいつらに寝室のタンスとかも見るように伝えてくれ」
タンス、という単語を耳にして、響は刀を握る手に力を込めた。
「……幹部の私に命令するの、あなた?」
「この件を団長に任せられているのは俺の方だろ? それに俺はまだお客様だ」
「ふうん。はいはい」
女が部屋を出たらしいが、まだもう一人の気配が残っていた。
すると、その男が、タンスの目前に立ったらしく、隙間から入ってきていた光が遮られた。
必死で気配を押し殺す響の目の前、木の扉一枚を隔てて、男の呼吸音がすぐ間近にある。切れそうになる緊張を、ギリギリでつなぎ続ける。
再び母親の悲鳴が響いた。
「あいつらっ!」
そんな男の悪態が聞こえた瞬間、凄まじい衝撃が響を襲った。
彼女の存在を理解してのものか、単に八つ当たりだったのか。
顔の左側に受けた衝撃が何なのか、響はその時は理解できなかった。ただ、気を失う寸前に僅かに開いていた隙間から、揺れるクロスを見た。
金属音さえ聞こえたような錯覚を起こす、銀色の輝きだった―。
目を覚ました響は、体中、吹き出した汗で濡れていた。
激しく咳き込んで体を起こすと、顔の左側に激痛を覚えて思わず手で覆った。すぐに傍らの台に置いてある、痛み止めの薬を手にして台所に向かい、冷やされたペットボトルのミネラルウォーターで一気に流し込んだ
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