1941年−昭和1637歳〜【1943年−昭和1939

1941

「憲法史研究会」発足(鈴木安蔵の推進により創立)

 会長・伊東治正

若き伯爵・伊東治正は、明治憲法起草に参画した伊東巳代治の孫で、財力もあり、伊東巳代治文書という貴重な資料ももっていた。憲法史研究会の事務局は、伊東伯爵邸におき、会場は華族会館を使用し、警察も入れないという好条件の中、明治憲法制定関係資料を研究することができた。会規(昭和16119日付)によると、「本会は根本資料に基づき、帝国憲法の真髄を闌明に資するを以って主たる目的とす。」とある。

 尾佐竹猛を中心として美濃部達吉・佐々木惣一・宮沢俊義・田畑忍・清宮四郎・岡義武・川上多助・牧健二・稲田正次・中野登美雄・大久保利謙・鈴木安蔵などが参加。

この時、岡義武(吉野作造門下)との出会いにより、かつて吉野作造が言った“読んでもらいたい資料”を目にすることができた。そして、東京帝大『国家学会雑誌』にいくつかの憲法史関係の論文発表が可能となる。

128日 太平洋戦争へ突入

著書『日本憲法史概説』『日本政治の基準』

安蔵は、“日本憲法史の研究は畢竟私にとって離れ難き愛着の対象である”といい、過去の研究の総括としたのが『日本憲法史概説』だった。

論文執筆

1942

著書『憲法制定とロエスレル』――1950年に京都大学位論文(副論文「自由民権」)

『自由民権運動史』『明治維新政治史――現代日本の誕生』『政治・文化の新理念』

論文・その他執筆

1943

著書『政党論――政党と国民的政治組織』

『満州事変前後』(吉場強、田中惣五郎、松下芳男らと共著)

論文・その他執筆

家族を郷里に疎開させ、明治文化研究会メンバーなどとの明治政治史・憲法史の研究や憲法史研究会などで日々を過ごす。

尾佐竹猛が会長を務める明治文化研究会には、安蔵の他、田中惣五郎、深谷博治、大久保利謙、渡辺幾治郎、松下芳男、石井研堂、柳田泉、木村毅、京口元吉の諸氏等が在籍していた。宮武外骨も時折顔を出していた。この会は、1924年(大正13年)が始まりで、明治の良さを見直そうという面と、明治憲法体制をある程度批判する大正デモクラシーの両面があった。明治憲法によって近代日本は戦争を踏み台として、異常な発展をとげ、大正期日本資本主義は独占体制を確立し、それと連動しつつ軍部が独走して中国侵略に走っていくことになる。大正デモクラシー、そして明治文化研究会はこれに対する言論抵抗でもある。(大久保利謙著『日本近代史学事始め』より引用)

著書『太政官制と内閣制』『伊藤博文』

論文・その他執筆

1944年−昭和2040

1944

憲法の歴史的研究に集中する中、マルクス主義の理論からも離れた生活となる。

空爆の中、尾佐竹猛、田中惣五郎、深谷博治、大久保利謙、各氏との明治政治史・憲法史の研究。安蔵は、明治文化研究会(代表・尾佐竹猛)において、研究事務局長を務めていた。

著書『太政官制と内閣制』『伊藤博文』

論文・その他執筆

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