5月19日
尾佐竹猛の協力を得て、憲法史資料調査のため京都へと旅立つ。
安蔵をモデルにした島木健作『若い学者』が出版される。
5月20日
京都にて
京都史談会の佳谷悦治、絲屋壽夫、他の諸氏、また、立命館教授・磯崎辰五郎、同志社教授・田畑忍(土井たか子の恩師)、京大教授・牧健二、同助教授・小早川欣吾らの多大な好意により資料検索、文献収集の便宜を得る。資料数百枚を写本させてもらう。
5月28日
D.B.シュネーダーと会う。
東北学院長を退任したシュネーダーは、同学院の基金募集の遊説中だった。かつて、安蔵の父・良雄はシュネーダーにより洗礼を受けている。
5月29日
高知へ向かう。
5月30日
県立高知図書館にて、未発表の写本などを閲覧する。
片岡健吉が所蔵していた「片岡健吉伝」の原稿その他諸文書、植木枝盛自筆の「自叙伝」及び原稿、「林有造伝記」の原稿、東京では未収集の明治10年当時の立志社関係の文書や機関紙類など。
書店「一方堂」にて、明治10年8月発行の『海南新誌』を見つける。
研究のためならば、と快く貸与される。
図書館諸氏の協力を得て、主要なものの写本を作製、また若干は写真に収める。
5月31日
横山又吉(黄木山樵)翁に会い、当時の立志社の様子や植木枝盛等について話を聞く。
6月2日
中島町・高野寺(板垣退助生誕の地)にて座談会
板垣退助会館設立後援会理事・池田永馬、高野寺住職、立志社時代の残存者・島崎猪十馬その他二十余名との座談会で、当時の様子を聞くことができた。最も愛読されていたのはスペンサー『社会平権論』、次いでルソー『民約論』とのこと。
この旅行がきっかけとなり、その後も土佐で発見された緒資料を入手することが可能となる。その結果、筆者不明として流布していた「東洋大日本国国憲按」ないし「日本国国憲案」が植木枝盛の起草と判明した。戦災で原本が焼失したため、現在はこれらの写本が原本となる。
著書『比較憲法史』
『憲法解釈資料――大日本帝国憲法発布当時の一般憲法思想を窺うべき遂条憲法解釈文献』
論文執筆
【1937年−昭和12】33歳
6月
衆議院憲政史編纂委員 自由民権関係研究
明治憲法発布五十周年が近づく中、明治・大正の憲政史編纂が決定し、尾佐竹毅が依頼を受ける。尾佐竹は大審院判事として多忙なため、人員を集めるにあたり、安蔵が手腕をふるうこととなる。
伊藤博文・伊東巳代治・井上馨・井上毅など政府側の重要人物、また、自由民権関係(鈴木安蔵、林茂の意向が影響と思われる)の資料を集める。
情報公開がまったくない時代に、非公開資料を調べることができ、“尾佐竹グループの資料あさり”が可能となった。これらの資料(写し)は、当時非公開であり、議会に提出された。(現在は憲政資料室で閲覧可能)
時代は日中戦争へと進み、戦時下出版統制が強化される。
12月には警保局図書課が、岡邦雄・戸坂潤・林要・宮本百合子・中野重治・鈴木安蔵・堀真琴の七名をあげて、雑誌への原稿掲載を見合わせるよう内示した。
著書『現代憲政の諸問題』(10月26日発売禁止)(出版法違反)
論文・その他執筆
【1938年−昭和13】34歳〜【1940年−昭和15】36歳
1938年
著書『明治初年の立憲思想』
『日本憲法制定史要』(尾佐竹猛・共著−「憲法制定」部分を執筆)
論文執筆・座談会出席
1939年
著書『自由民権・憲法発布』
『日本憲政史大網』(尾佐竹猛・共著−「憲法制定」部分を執筆)
論文執筆
1940年
著書『帝国議会の歴史と本質』(吉場強・共著)
論文執筆