1月8日
吉野作造を訪ねる。
独学で憲法を研究する安蔵は、岳父・栗原基を介して、吉野作造に「明治憲法制定史」の教えを仰ぎ、作造はそれを引き受けた。
死期の迫った作造は、最後の弟子となった鈴木安蔵の要望に応え、病床で憲法について講義した。
二人は研究者として、率直に意見を述べ合った。
3月5日
二度目の講義を受ける。
扉に「面会謝絶」と書かれた病室で、二度目の講義を受けた。作造は東京賛育会病院から逗子小坪の湘南サナトリウムに転院。
3月18日
吉野作造、逝去。
訃報に触れた安蔵は、「憲法の歴史的研究」を作造に献じようと決意した。(「憲法の歴史的研究」の冒頭「献辞に代えて」より)
“ついに逝かれたとの報に接したときの悲しみは、いまなお、思いおこすも痛切にすぎてたえがたい。”と、吉野作造の死から13年が過ぎた昭和21年5月「吉野作造―人と思想の研究―」(中央公論)で述べている。
6月20日 著書『憲法の歴史的研究』発刊(唯物史観的見解という理由により即日発売禁止)
『憲法の歴史的研究』の第三章「民間における憲法諸理論」では、筆者不明の「日本国国憲案」の主要部分(国家の権限・日本国民及日本人ノ自由の権利・皇帝ノ権限・立法権ニ関スル大則など)を『明治文化全集』第三巻より引用している。
『明治文化全集』は「明治文化研究会」(初代会長・吉野作造)が編纂した明治期の文献を集成した全集。
吉野作造亡き後、明治分化研究会代表になった尾佐竹猛(大審院判事)は安蔵の著書『憲法の歴史的研究』を高く評価した。
著書『日本憲政成立史』
翻訳・論文その他執筆
座談会出席
【1934年−昭和9】30歳
2月
「亀戸無産者託児所」は保母の逮捕や弾圧により「吾嬬無産者託児所」と共に閉鎖される。
3月1日
「第二無産者新聞」における活動が、治安維持法違反となり逮捕される。
家に残す娘に愛情のこもった手紙を置き入獄。市ヶ谷監獄に収監、後に小菅刑務所に移される。―手錠すらすでに暖かしうらうらの陽光浴びつつ護送車(くるま)に乗りぬ―
小菅には、すでに河上肇が収監されていた。―はろばろに葛飾に来て老いし師の起き臥す獄に我も寝ねにけり―
拷問の後亡くなった、野呂栄太郎を悼んで。―皎皎と月澄み照れる野の涯に君行きしまま帰らずなりぬ―
と、詠んでいる。
懲役二年、しかし皇太子誕生の恩赦で懲役十ヶ月となる。(10ヶ月20日獄の中)
著書『日本憲法学の生誕と発展』『憲法の歴史的研究』
論文執筆
1月21日
下獄
獄中は、妻の差し入れる多数の書物を通して学問研究の場となった。
憲法の歴史的研究に集中することを望むようになる。
9月
日本学術振興会第九小委員会助手
著書『日本憲法史研究』
論文・その他執筆