1933年−昭和829

18

吉野作造を訪ねる。

 独学で憲法を研究する安蔵は、岳父・栗原基を介して、吉野作造に「明治憲法制定史」の教えを仰ぎ、作造はそれを引き受けた。

死期の迫った作造は、最後の弟子となった鈴木安蔵の要望に応え、病床で憲法について講義した。

二人は研究者として、率直に意見を述べ合った。

35

二度目の講義を受ける。

扉に「面会謝絶」と書かれた病室で、二度目の講義を受けた。作造は東京賛育会病院から逗子小坪の湘南サナトリウムに転院。

318

吉野作造、逝去。

訃報に触れた安蔵は、「憲法の歴史的研究」を作造に献じようと決意した。(「憲法の歴史的研究」の冒頭「献辞に代えて」より)

“ついに逝かれたとの報に接したときの悲しみは、いまなお、思いおこすも痛切にすぎてたえがたい。”と、吉野作造の死から13年が過ぎた昭和215月「吉野作造―人と思想の研究―」(中央公論)で述べている。

620日 著書『憲法の歴史的研究』発刊(唯物史観的見解という理由により即日発売禁止)

 

『憲法の歴史的研究』の第三章「民間における憲法諸理論」では、筆者不明の「日本国国憲案」の主要部分(国家の権限・日本国民及日本人ノ自由の権利・皇帝ノ権限・立法権ニ関スル大則など)を『明治文化全集』第三巻より引用している。

『明治文化全集』は「明治文化研究会」(初代会長・吉野作造)が編纂した明治期の文献を集成した全集。

吉野作造亡き後、明治分化研究会代表になった尾佐竹猛(大審院判事)は安蔵の著書『憲法の歴史的研究』を高く評価した。

著書『日本憲政成立史』

翻訳・論文その他執筆

座談会出席

1934年−昭和930

2

「亀戸無産者託児所」は保母の逮捕や弾圧により「吾嬬無産者託児所」と共に閉鎖される。

31

「第二無産者新聞」における活動が、治安維持法違反となり逮捕される。

家に残す娘に愛情のこもった手紙を置き入獄。市ヶ谷監獄に収監、後に小菅刑務所に移される。―手錠すらすでに暖かしうらうらの陽光浴びつつ護送車(くるま)に乗りぬ―

小菅には、すでに河上肇が収監されていた。―はろばろに葛飾に来て老いし師の起き臥す獄に我も寝ねにけり―

拷問の後亡くなった、野呂栄太郎を悼んで。―皎皎と月澄み照れる野の涯に君行きしまま帰らずなりぬ―

と、詠んでいる。

懲役二年、しかし皇太子誕生の恩赦で懲役十ヶ月となる。(10ヶ月20日獄の中)

著書『日本憲法学の生誕と発展』『憲法の歴史的研究』

論文執筆

1935年−昭和1031

121

下獄

獄中は、妻の差し入れる多数の書物を通して学問研究の場となった。

憲法の歴史的研究に集中することを望むようになる。

9

日本学術振興会第九小委員会助手

著書『日本憲法史研究』

論文・その他執筆

トップへ 

 次へ