3月
二高卒業
4月
京都帝国大学・文学部哲学科入学
哲学の西田幾多郎、社会学の米田正太郎などの教えを受けたいという希望に燃えていた。社会科学研究会に入会。
【1925年−大正14】21歳
2月
母・ルイ 死去
4月
経済学部に転部。
労働者階級の開放に役立つ実践理論を学ぶべく社会科学を専攻し、河上肇などの教えを受ける。
【1926年−大正15・昭和元】22歳
1月18日
「学生社会科学連合会事件」(京都学連事件)により治安維持法第一号で検挙される。
後に、栗原基の奔走もあり保釈。京都学連事件は、一部地方紙の報道があったものの、厳重な管制下におかれ、報道が許されたのは、事件発生から八ヶ月後の1926年9月。新聞は学生たちを非難した。
9月15日
予審決定
【1927年−昭和2】23歳
京都帝国大学自主退学
春頃には無産者新聞の編集部に所属
5月30日
学連事件の京都地裁第一審判決・禁固十ヶ月
2月7日、新宿御苑における大正天皇大葬儀の恩赦で、学生たちの出版法違反と不敬罪は赦免。しかし、治安維持法違反は全員有罪となる。この頃、日本憲法史、政治学の研究を始める。
6月16日
栗原俊子と結婚
俊子の父は、栗原基・第三高等学校(旧制)教授。社会科学研究会再建に力を尽くす。パトリック・ラフカディオ・ハーンの弟子でもある。母はマリア・尚絅女学校を創立したアンネー・サイレーナ・ブゼルの弟子。
秋頃、東京合同労働組合の書記に転出
翻訳・論文執筆(松本潤吉の名で)
【1927年−昭和2秋〜1928年−昭和3】〜24歳
地下活動中の福本和夫、石田英一郎(共に1928年の3.15事件で逮捕される)を援助。
ペンネームでの執筆が多くなる。(1933年頃まで存在する)
鈴木安蔵のペンネームには、松本潤吉の他、大川権三(権蔵)・小高良雄・藤波信一郎・寺山五郎・水島一夫、田丸鉄二などがある。これらの筆名でも数多くの論文を発表。
翻訳・論文執筆
【1929年−昭和4】25歳
2月
憲法学・政治学の研究。(1933年5月までの研究で、その方法論的立場を確立)
8月
「産業労働調査所」入所。
「無産者新聞」(廃刊直前)を手伝う。
10月
「プロレタリア科学研究所」設立者の一人となる。
10月21日
「第二無産者新聞」刊行の協力と執筆により検挙される。(中野署)
12月12日
学連事件・大阪控訴院 第二審判決――禁固二年
「第二無産者新聞」における執行と重なり、二年八ヶ月の獄中生活となる。
獄中では、家族への思いが支えとなる。
翻訳・論文執筆(獄中同志からの通信という形で)
【1930年−昭和5】26歳
春
吉野作造著『現代憲政の運用』を手にする。
そこには、従来の憲法学者に最も欠如した明治政治史の具体的分析を基礎とする憲法ならびに政治批判の見地が極めて透徹せる表現をとってつらぬかれていた。
5月27日
上告棄却――この判決により、憲法学・政治学の研究に取り組む決意が固まる。
秋以後、豊多摩監獄(中野区新井)にて過ごす。
1932年に下獄するまで、妻の差し入れる憲法学等の書物に没頭する。
自分たちの行動を処罰する国体とは何か、天皇制の本質とは何かを研究するため、上杉八束、美濃部達吉をはじめ多数の憲法学者の主要著書を読破する。
論文(獄中より)
【1932年−昭和7】28歳
妻・俊子は、「働く者のための保育所を働く者の手で」という概念の下「亀戸無産者託児所」を開く。
安蔵は獄中から妻に、励ましの歌を贈っている。―だんだんと築かれてゆく無産者の育児事業のめざましきかな―
6月18日・下獄
論文執筆