1904年−明治37

33

福島県相馬郡小高町に生まれる。

父・良雄、母・ルイ、姉・テル。共にプロテスタントのクリスチャン。

安蔵が生まれた年の2月、父・良雄は肺結核で死去、そのため、不憫に思った親類の人々からも愛情を受ける。

父・良雄(俳号・余生)は、28歳という若さで亡くなった。1901年に小高銀行の支配人代理となるが、喀血のため辞職する。その後は、俳句に親しみ、小高に渋茶会を創設した。その中心となり、福島県下はもちろんのこと、正岡子規一門の人たちとの交流も深かった。かつて小高には井田川浦という浦があり、その情景を詠んだ俳句も多い。

姉・テルも「瑛女」という俳号を持つ俳人。

1917年−大正613

3

小高小学校高等科1年終了 

4

福島県立相馬中学校入学

「相中相高百年史」によると、当時、上級生の下級生に対する理不尽なリンチが黙認されていた。安蔵は、暴力追放を訴えて抗議書を校長に突きつけ、ストライキ「同盟休校」を決行。学校側は首謀者を処分し、それ以後リンチは姿を消した。

1919年(大正8年)1130日、福島公会堂で行なわれた東北文芸協会主催県下学生弁論大会にて優勝。弁論原稿は「心の声」。

翌年10月9日には二高主催東北弁論大会でも優勝。1127日東北文芸協会主催福島弁論大会に招待される。

 以下は「心の声」の一部です。(鈴木安蔵15歳)
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過去五星霜に亘った世界の大乱戦はあらゆる惨劇と破壊との後をとどめて漸く此地球にフエヤウエルを告げたのであります。
――中略――

然しながら諸君之が果たして永久の平和たり得るでせうか、吾々が闘争に永別して永遠に平和の道連れたり得るでせうか。

二百十日の嵐が済んで心地よい秋晴れの日はあるにしても、やがてはチラチラと雪降りしきる寒い冬の朝ある事を思わねばなりますまい。

 諸君静かに考えて御覧なさい。利害の不一致や人種的偏見や理想の差異感情の齟齬等が全然消滅せぬ限り如何に現代の教育機関が完備しても宗教が宣伝せられても、到底今後争闘の絶無を期することは出来ますまい。況や人性の奥底に争闘という大きな本能性の潜在して居る限り私は永遠に真の平和を見ざるべしと呼ぶに躊躇しないのであります。

 葉巻ゆるやかに薫らしながら典雅なる趣味を物語り人類の愛を説く文明的教育を受けた紳士ですらも一旦戦闘となるや瞬時にして虎や狼に寸分も違いはない猛悪残忍な心となって剣を握り銃を執り而して血まみれの闘争をも敢えて辞さないのであります。

 噫之が見苦しい人間本能性の暴露であります。さもしい人類野獣性の暴露であります。

 国際連盟等に依ってあるひは将来の世界に於て武器の闘争の絶無を期する事は必ずしも空想ではないかも知れません。併しながらこの人間の野獣性はよしんば直接に流血を見ぬにしても更に婉曲なる方法により巧妙なる手段によって戦争以上の惨劇を演ずるに違いあるますまい。

――中略――

汚れなき日一日を送って清き生涯を送るといふ事には私は敢て賛意を表するに躊躇しないのであります。

然しながら諸君、考へて御覧なさい。

正に此の永遠の闘争時代に際し帝国の将来を双肩に荷ふてをる所の我々青年が只自己一人超然として沈黙に孤立に清き一生を送るものとしたならばどうでせうか、誰か危機に臨める帝国の将来を維持するでせうか、誰が東洋平和保持といふ一大使命を果し得るでせうか。

ここに於て私は吾々青年はどうしても強い信念に生きる愛国者たらねばならぬと力説するのであります。飽まで戦ふ人生の勇者たらねばならぬと叫ぶのであります。諸君、現代の日本が要求するところの者は決して最も進化せる科学的智識のみではありません、更に経済的発展を斯する富力のみではありません。

又恐るべき精鋭なる武器のみでもありません、即ち此千万人と雖も我行かんてふ一大精神に他ならぬのであります。蓋し対外的武器は結局此大信念を措いて他ならないからであります。

――中略――

「燃ゆる信念は偉大なる力なり信念なきものは必ず滅ぶ」という溢れんばかりの心の声を披瀝せんがために他ならないのであります。

 

1921年−大正1017

3

相馬中学校4年終了

4

第二高等学校(旧制二高)文科甲類入学

二高時代は、土井晩翠の教えを受ける。土井晩翠が安蔵に送った手紙は、現在「仙台文学館」の所有。

1922年−大正1118

二高・校友会機関誌「尚志会雑誌」に、「ある寂しき夜の想片」を発表し、校長より削除を命じられる。

1923年−大正1219

二高・校友会機関誌「尚志会雑誌」に執筆。同機関誌頒布禁止。

栗原佑(安蔵は後に、佑の妹・俊子と結婚)らと共に「社研」(無名会)を創立。

神戸製鋼の大ストライキを目の当たりにした栗原佑が、弁論部の安蔵にその話をし、社研結成の動きとなった。

東北帝大の朝倉菊雄(後の作家・島木健作)らも「社研」の指導に加わり、社会の矛盾、貧困、日本の将来や社会主義について語り合った。

    当時、二高と東北帝大は同じ敷地内にあった


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