太極拳達人たちの逸話

李経梧 楊禹廷 陳発科
李経梧
陳発科、趙鉄庵、楊禹廷の弟子
晩年は北戴河に移住し、呉式・陳式・楊式・孫式太極拳を弟子に伝えた。
人柄の良さと謙虚さで太極拳を極めた李経梧氏
 流派に属する者は古くからの伝統で、その流派の太極拳しかやらないのが普通です。しかし、李経梧氏は気づいていました。各流派にはそれぞれの良さと秘密があるにはずだ。もともと呉式の流派で、達人・趙鉄庵の弟子でした。自分も達人の域に達していたが、ただただ太極拳が好きだった李経梧氏はほかの流派が知りたくて仕方ありませんでした。趙鉄庵が亡くなったあと陳発科の弟子となります。
 
太極拳は陳家溝から伝わった武術ですが、その陳家溝から達人・陳発科氏が北京にいることを知り、すぐに飛んで会いに行きました。その独特な動きと発勁や纏糸勁を見て、魅了され、是非入門したいと願い出ました。陳発科氏は李経梧氏の人柄の良さと、太極拳に対する姿勢が気に入り、弟子入りを許可しました。週2回陳発科氏を家に迎えて14年間学びつつけました。陳発科氏が亡くなった後に呉式太極拳の達人・楊禹廷氏の弟子になりました。
 
1959年国家体育委員会の主催のもとで李経梧が演じる「簡化太極拳」を撮影し、教材として全国へ発行した。 60年代気功の名家「劉貴珍」の三顧の礼により北戴河の気功療養院で指導することとなりました。
中国国家医学気功教育基地の太極拳とは
 また、その後、孫式太極拳との交流もあり、孫式太極拳の名門「李天池」氏(李徳印氏の父)に孫式太極拳を伝授された。李経梧氏は李天池氏に陳式太極拳を伝授した。
こうして呉式の粘隋柔化、陳式の纏抖剛発、楊式の舒放洒脱、孫式の霊活緊 などの特徴はどれも本当にすばらしいと言っている。4大流派の秘伝をマスターした李経梧は、太極拳が美しいだけでなく、推手に長け、化と発を同時に行い、彼に触れたものすべてを一瞬にしてはじき返す。4つの流派を習得したからこそできる神業である。

 このような歴史を経て、入室弟子となった呉式・陳式太極拳はもちろん、楊式・孫式太極拳も弟子たちに伝え、これが李経梧氏の流派の太極拳となっていきました。
初の簡化太極拳教材模範映画をめぐって
 当会の太極拳の「李経梧」宗師は中国で最初の教材用の映画(当時、ビデオはまだ無かった)で模範動作を行った。当時、誰をモデルとして起用するかで大いにもめたようだ。太極拳界の大御所、李徳印先生が李経梧先生の回想録に当時の様子を記されているのでここで紹介する。
「一言一行見真功」 李徳印
 李経梧先生と私の家は父の代からの付き合いである。私は1957年に大学試験に合格し、北京に来た。当時私の叔父の李天驥が国家体委武術処に勤めていた。彼は幾度となく李経梧先生の武徳と拳芸を語ってくれた。それらの話の中で李経梧先生が簡化「太極拳」の映画の教材用模範となることを引受けた話が強く印象に残っている。当時の環境は現在とはまったく違う。1956年に簡化「太極拳」が編定されたばかりで、この簡化「太極拳」は規範が明確で学び易く、あっという間に全国に太極拳ブームを引き起こした。このブームの流れで、全国向けの映画教材をはじめて撮影することとなった。

 しかし、このことに対し、太極拳界から様々な非難が起こった。簡化の流れで伝統が無くなってしまう事や、レベルが下がってしまうこと、自分の地盤が危うくなることを憂う声が起こった。この状況の中で、どのような人に簡化「太極拳」の模範役をやってもらうかが難題となった。功夫があるだけでなく、人徳があり、誰もが喜んで受け入れる人でなくてはいけない。そして太極拳界内外の人を説き伏せられる人でなくてはいけない。国家体委主管部は悩んだ末、経梧先生を選んだのである。この選択は経梧先生を悩ませた。

 
 全国武術大会で金メダルを取った呉式と陳式太極拳の真伝の名家が、楊式太極拳である簡化「太極拳」を勉強し映画教材になることは、利益少なく、危険ばかりが伴うことである。しかし、経梧先生は快く引受け、撮影を見事に完成させたのである。このことはより多くの人々に太極拳を広げたということだけでなく、武術界にも門派にこだわり過ぎないという新しい風を吹き込み、みなの手本となった。

日常生活で太極拳を悟る
 李経梧がまだ奥義を模索している時のこと。実家へ帰って母と製粉小屋で話していると、臼を引く牛はすぐに止まり休んでしまう。母親は経梧先生に牛を叩くように言った。李経梧は臼に手を付けたまま棒を振り上げると、牛はそれに驚き急に力を入れ前へ進み出したため臼が回りだした。手を臼につけていたためコントロールを失い、弾かれて転んでしまった。この瞬間、経梧先生は太極拳の奥義に気付き、悟るきっかけとなった。それ以来、推手や技撃で自在に相手をコントロールし、打ち放つことができるようになった。
応物自然
 李経梧は、実家へ里帰りした時の話です。近所の人が来るたびに椅子から立って挨拶する李大師を見て、「そんなに遠慮しなくてもいいよ」と立ち上がろうとした李大師の肩を友人がグッと押さえたが、李経梧はそのまま何もなかったように立ち上がり、肩を押さえた友人が数メートルも飛んで腰から落ちてしまいました。とっさの攻撃も自然と無意識に対応できる領域に達していることが分かるエピソードです。

 王培生は李経梧のことをたたえ、「李経梧は現代で唯一陳式の奥義を悟った人である」と言っている。唯一かどうかは別にして、このような世界的に有名な人にここまで言わせていることは事実です。
 
王培生 → http://www.youtube.com/watch?v=d2Dnjnu4pXU
楊禹廷
呉式太極拳の王茂サイの弟子。
楊禹廷の弟子である祝氏が楊禹廷大師を以下のように振り返っています。

 楊禹廷大師は気にしないで見ると普通のおじいさんである。よく見てみるとハンガーみたいに洋服が体に掛かっているだけのように見える。一歩近づいてみようとした時、大師がこちらを見た瞬間、「しまった」と気付き、前足がついたあと後ろ足が動かない。
 両手で彼を推そうとすると、服の中は何もない、足底が浮き上がり、地面がなくなった感覚で、体は空っぽで深い崖から落ちてしまう感じになる。非常に怖い感覚を覚え、何かにつかまりたい気持ちで、胸騒ぎを覚え、呼吸が苦しくなる。

 楊禹廷大師は杖を腰の後ろで両手で持って歩く癖がある。ある時、その杖を遊び心でつかんでみようと、手を触れた瞬間飛ばされ、数メートル先の壁にぶつかりようやく止まることができ、しばらく起き上がれなかった。楊禹廷大師それをみて、「力で取ろうとするからじゃ」といった。


祝氏の動画 → http://www.youtube.com/watch?v=RmkFJ8obAQE
陳発科
始めて陳式太極拳を世に広め、北京で30年間陳式太極拳を教えた。当時、陳発科は「徒手では最強」とされた。 陳式太極拳の中心も陳家溝から北京へ移され、北京から全国へ影響された。
 陳式太極拳を陳家溝から全国に伝えた陳発科は、北京で表演した時、打ち出だされた捶は風がビュッと鳴り、踏み下ろした震脚は体育館全体に響き渡り、窓ガラスがガタガタ揺れて太極拳愛好者を驚かせました。