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... すけきん 08/1/8(火) 1:22
... すずき 08/1/8(火) 23:38

ありがとうございました
 すけきん  - 08/1/8(火) 1:22 -

引用なし
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   すけきんです。お久しぶりです。
1月1日 21:36に母が永眠しました。
死因は卵巣癌ではなく、大動脈解離でした。
先の投稿に対して、温かな励まし頂きありがとうございました。

1/4に通夜。1/5に葬儀を行い、今は実家から自宅(静岡)に戻っておりますが、
1/10〜1/16また実家に行きます。

今後の皆様の参考になるかわかりませんが、経緯をお知らせします。
詳しい抗癌剤の種類やその効果を表す数値はまるでわかりませんが。

11月14日
・約1か月間に及ぶ検査の末、入院。
11月16日手術。
 切開したが双方の卵巣が肥大し、他の臓器への癒着がある。
 切除するには大量の出血を伴い、年齢的にも大変との事でそのまま閉じる
・今後の治療方針としては、抗癌剤にて肥大した卵巣癌を小さくし、春頃を目途に
 再手術し切除しよう。となりました。
11月下旬
・毎週1回通院し、検査。3回に1回位の頻度で抗癌剤を投与。
・退院直後は一回り小さくなったように感じたが、治療の効果なのか
 血色も良くなり、以前の様にしゃべるようになってきた。
・1回目では髪は抜けていない。
・本人も「髪抜けてないでしょ。まだ強いのやってないのかな?」
 ただし、食は細いし、起きてると疲れるからとすぐベットに横になる。
(今にしてみれば兆候その1)
*病院内では同様の患者さんがスタスタ歩いているのに。

12月初旬
・髪が抜け始め、本人も気にし始めるが、顔の皺減り、良い感じ。
・相変わらず、食事とトイレ以外はベットで横になってるし、寝てる事多い。
「年末・正月にはもっと元気になってるからね」という気力あったり、
「お母さん壊れちゃった。」と弱弱しくぼやいたりしている。
 よく叱られた記憶が多いが、頻繁に「ありがとね〜」というので張り合いない。
(今にしてみれば兆候その2)
*姉はほぼ毎週末。私は2週に1度しか見舞いに行けませんでした。

12月30日夕方
・私は15:00頃。姉は20:00に帰省し家族全員で夕食。
・髪はかなり薄くなったが、肌の張りや血色とても良い。
 夕食後も1時間位テレビを見たり、
「日本海の夕日が見たい」「春になったらお相撲見に行きたい」など、
 完治した時の希望を話す。
 帽子かぶると蒸れて嫌だし髪無くなっても平気。など文句も交え、バカ話して笑ってる。
*夕方トイレで「あらー!」と言っているので、戻って来た時に尋ねると、
「髪、ごそっと落ちたから」と。やっぱりショックなのだろう。
 
12月31日朝・昼
・以前のような普通の朝食。
 「明日はお雑煮食べたいなぁ」ともらすが、姉と私では作れないので我慢して。というと、
 渋々「いいよ。」と、諦めている様子。
・実家のある仙台では大晦日の夜に[お年取り]といってある程度豪華な食事を行います。
 昼に姉と大晦日と正月用の食材を買い出し、父は正月飾りを準備し、
 3人で夕飯の支度を行う。
12月31日夜
・「タコの刺身上手い」「生ハムのサラダも旨い」等々、3人で作った料理に満足気で、
 アルコール度の低めの赤のシャンパンをほんのちょっと飲みながら
 久し振りのお酒も楽しむ。
・「お風呂に入りたい」と言いつつ、「眠いから明日ね」と言って10:30ベットに入り
 居間で寛いでいる私たちを見ながら紅白の終わる11:45まで起きていて、その後就寝。

1月1日朝
・おせちとあんこ餅などを準備しているとベットから起き出し、おせちを待ちきれない様子。
・「お神酒ちょっと頂きたいな」と言うので、梅酒をあげると、「これ、結構キツイね」
 「おせち、おいしいね」と上機嫌。
・その後、ちょっと酔ったような仕草で「頭痛い」と訴え、汗かいているので、
 ベットに寝せる。布団を掛けてやろうとすると熱いからと嫌がる。
(今にしてみれば兆候その3)
1月1日15:00頃
・治まったのか、平常に戻り、起き上がる。
 「調子に乗っていっぱい飲むから」と父に言われ、ムッとしてる。
 (内心3人ともびっくりしてしまい、平常に戻りホッとした)
1月1日18:00夕食
・母の実家から届いた漬物を父が切り、姉はきんぴらごぼうを作り、私はナメタカレイの
 煮付けを作る。(全て母の大好物)
・「実家の漬物やっぱり旨い」「きんぴら辛くて美味しい」「ナメタもうちょっと味、
 濃くても良いけど、美味しい」おせちそっちのけでパクついている。
18:40?
・突然「頭痛い」といい、顔面蒼白になる。喉に何か引っかかったような症状で、
 呼吸できなくなる。救急へ電話し、到着までの対処方法を聞く。
・母を抱え、背中をさすり、たたき、声をかけるが、時折引き付けのような症状のみ。
18:50?
・救急隊到着。酸素吸入と心臓マッサージを行いながら、状況と入院していた病院を伝える。
19:20?
・付添人は姉にし、搬送。
19:35?
 再入院を想定(最善の希望)し、パジャマ・シーツ・タオルケット・バスタオルを袋に入れ
 父を乗せ車で病院へ向かう。
(父の動揺を抑えながら「大丈夫」と声を掛ける。自分にも言い聞かせるように)
20:05?
・病院到着。
 (移動中に姉から私たちが来るまでは心肺蘇生続けるが深刻な状況との連絡あったが、
  父には「大丈夫、強い人なんだから」と嘘をつく。)
・救急病棟へ搬送されたので、そこへ向かう。
・救急治療室へは入れない、じれったいが「大丈夫」と己に言い聞かせる。
20:30??
・救急看護師から待合室の小部屋で先生医から話あるまで待つよう指示。
・婦人科の当直医師から呼吸は出来なく、酸素吸入している。
 CTをとって見たが、心臓周辺に血が溜まっている。大動脈解離の疑い有り
 緊急手術を行っても99.9%蘇生は困難で、仮に蘇生しても脳への酸素が
 20分程止まっていたことを考えると。
・その後担当の婦人科医師も駆けつけ、同様の説明を受け、処置室へ案内される。
21:00??
・酸素吸入と心臓マッサージを続ける救急の先生や看護師の方々に囲まれた母がそこ居る。
 数時間前の様子からは信じがたいが。
21:10??
・救急の先生から説明受ける。
・家族全員の意見でこれ以上の心肺蘇生処置をやめ、見守ることにする。
 涙があふれて止まらなかった。(今でもあの時のことを思うと涙が)
・冷たくなりつつある手を握り、顔を撫でてやり、声をかける。心電図の数値が上がる。
 母の顔はとても静かな良い顔している。
21:36
・心電図の数値が25から急に0に。

母は負けず嫌いの格好つけ屋さんです。
だから、癌には負けませんでした。
癌を退治するのに違う所に負担が来ていた事は。今にして思えば「寝てばかりなのに疲れる」
と言っていた時に気付くべきだったのかも知れません。

とても近い友人にも入院していたことも伝えずにいたので、
母の友人・習い事の仲間・旅行仲間・ご近所などからは「何で」と言われます。
本人は元のような自分になるまでは、格好悪い?姿見せたくなかったのでしょう。
治す気満々だったのに、と思うと無念だったのか?それとも、
ベットで横になりながら、じっと私たちの様子を見ていた母の眼は、
安心しているようでもありました。

1月2日1:00過ぎ
・自宅に戻り、自宅の床の間に寝る母は皺も無くなって笑っているようでした。

出来うる限りの精一杯のことはしたつもりでも...無念です。

皆様も些細な兆候を察知し、看病・治療して下さいます様に。
また、家族の絆をしっかりと持って頂けますようお祈り致します。

Re(1):ありがとうございました
 すずき  - 08/1/8(火) 23:38 -

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   ▼すけきんさん:
土曜日より白馬八方尾根スキーに行き、先ほど帰り
パソコンを開けて、突然の訃報に接しビックリしています。
順調に治療が進み、お母さんも前向きにがんと対峙されていたのに
残念でなりません。
大動脈解離は、石原裕次郎も奪った突発性の恐ろしい病気ですよね。
人生一寸先は闇で、明日はわが身かと思いつつも何が起こるか
判りませんですね。
でも、お母さんは最後にお屠蘇に梅酒をあがり、「これ、結構キツイね」
 「おせち、おいしいね」と上機嫌・・・
大往生で素晴らしい終末だったと思います。
ご家族の手厚い看護に感謝されながら、天国から皆様を暖かく見守られていることと
思います。
お力落としのこととは思いますが、頑張って生きていってください。
                  合掌

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