倭国大乱と卑弥呼共立
自説(古墳の被葬者と編年の体系)によって3世紀の日本を甦らせ、さらに2世紀以前を考察してみると、魏志倭人伝などに記載されている倭国大乱や卑弥呼(倭迹迹日百襲姫)共立の背景が見えてきます。 ここはいわゆる欠史八代であって無視するのは簡単です。しかしそれでは歴史再現にならないので少ない資料をもとに考察してみると、初期大和政権での皇位継承が不安定だったようです。結果として10代崇神天皇が2人目のハツクニシラススメラミコトと称されるようになりました。以下に考察してみましょう。
5代孝昭から6代孝安は父子継承ではなくて、5代孝昭以前は、孝昭から孝安父子継承の場合に対して、全体的に約80年新しいと考えられます(崩御は孝昭が古い)。初代神武以前からのいわゆる天孫族の男子継承は5代孝昭を最後に途絶えたと考えられ後続したのは孝安系の孝霊・孝元〜だと考えられます。孝昭崩御後の孝安(〜孝霊)の時代が倭国大乱の時期(約150-190年)に当たります。
(判断の根拠)
(1) 孝安の治世中に孝昭皇后の世襲足姫の祖父である天村雲が登場して、稲の害虫の害について発言する場面があるので、孝安よりも孝昭の方が新しくてここに不連続があると考えられます。
(2) 8代孝元皇后のウツシコメの祖父イズシココロが5代孝昭の治世中に、又、イズシココロの兄弟イズモシコが3代安寧の治世中に登場します。孝昭から孝安が父子継承だとすると、ウツシコメは祖父と100年以上も年代差があって不自然です。
(3) 国押人(考安)誕生時に朝日輝きと特異な表現があり、作者オオタタネコからの信号かも知れません。
(4) 倭迹迹日百襲姫の4代前が3代安寧であり家系1代当たりの伸び過ぎと考えられます。
(5) オオタタネコの家系(大物主)1代当たりの伸び過ぎと考えられます。
孝安の出自としては天皇家の側近氏族からと考えられますが、具体的にどの氏族の誰が該当するかは大きな謎です。考安の兄の天足国押人が春日大公の称号なので考安は春日系(天児屋根命の子孫)かも知れません。
奈良盆地東南部にあるホケノ山古墳は7代孝霊天皇の墓であると考えられます。またホケノ山古墳周辺の中小古墳群は、倭国大乱時(以前)の天皇および親族の墓ではないかと考えています。この古墳群中にホケノ山古墳に次ぐ大きさのものが2つ目立っています。
(1) 巻野内石塚古墳(名称表示あり)。(巻向駅寄り)
(2) 巻野内石塚古墳からホケノ山古墳に行く途中の道の左手にあります(名称表示なし)。
現在の博多山陵(5代孝昭)と玉手丘陵(6代孝安)のある御所(ごせ)辺りでは同様(時代や規模)の古墳が見当たりません。
(1)と(2)が本来の孝安、孝昭の天皇墓ではないでしょうか。
(1)の巻野内石塚の方が孝安天皇の墓と考えられます。
(2)の方が古そうで孝昭天皇の墓と考えられます。
箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫)の主軸が(1)(2)とホケノ山古墳の3古墳のほぼ中心に向いていますが、倭国大乱後の国の安泰を願望する意図が感じられます。
魏からの親魏倭王の称号はある面では当時の10代崇神天皇をないがしろにするものであり、反発として大物主神婚説話ができたのではないでしょうか。このことはまた大物主家所伝のホツマ伝が第一級の文書であることをも示しています。壹与年十三為王についても崇神皇女の豊鋤入姫(壹与)は王ではなく魏側の意図が感じられないでしょうか。崇神が鏡を敬遠したことは記紀から読み取れます。魏からの三角縁神獣鏡もある面では国を傾けかねないと考えられて副葬用途に限定されたかも知れません。当時このような警戒心が実際に大きかった場合には、三角縁神獣鏡の家宝としての伝世や国産は考えにくくなります。
戻る
.