椿井大塚山古墳は3世紀後半

 本日1998年9月26日(土)、椿井大塚山古墳の第7次調査結果の現地説明会があり聞いてまいりました。現地説明会は、14時に始まりまず地元の”椿井大塚山古墳を守る会”の会長さんから挨拶があり、それから調査を担当された”山城町教育委員会”の約30分間にわたる調査結果の説明があり、その後で墳丘の見学が行なわれました。100名程の多くの人が集まり、地元特産のお茶と”卑弥コーヒー”が無料でふるまわれました。

・前方部の祭紀に使われた一括土器資料から、庄内式土器と布留式士器(布留1〜2式のもよう)が共存する時期(3世紀後半)として築造年代がほとんど確定された。

・布留0式の箸墓古墳は20〜30年さらに古い。

 以下に現地説明会資料を掲載します。(掲載許可を得ています)

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

平成10年度山城町埋蔵文化財資料 NO.1

椿井大塚山古墳

現地説明会資料

(第7次調査)

1998年9月26日

椿井大塚山古墳を守る会

山城町教育委員会

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

椿井大塚山古墳第7次発掘調査現地説明会資料

所在地名    京都府相楽郡山城町大字椿井小字三階他

調査主休    山城町教育委員会

調査期間    平成10年7月6日〜平成10年10月30日(予定)

調査面積    約200u

 1.はじめに

 椿井大塚山古墳大塚は、全長約180mを測る前方後円墳で、古墳時代前期の古墳としては全国でも有数の規模をもちます。

 昭和28年(1953)、古墳後円部を南北に切断するJ R奈良線の法面改良工事が実施され、偶然に竪穴式石室が発見されました。石室内から出土した40面近い鋼鏡のうち三十数面までが、卑弥呼の鏡とされる三角縁神獣鏡であったことから、この古墳は、一躍、全国の注目を集めることとなったのです。そして、椿井大塚山古墳は、前方後円墳の出現と古墳時代の成立を考えるうえで、極めて重要な遺跡と考えられています。

 今回の発掘調査は、山城町教育委員会が町のシンボルとしての活用と保全をめざして4年計画で進めている墳丘規模確認調査の最終年度にあたり、国・府の補肋を得て、平成10年度山城町内遺跡発掘調査事業の一環として実施しているものです。

 昨年までの調査では、古墳後円部および前方部において、葺石をもつ階段状構造を確認し、墳丘斜面に落下した多くの土器資料を得ることができました。また、墳項の平坦面では、巨大な遺体を埋葬するために造られた穴(墓壙)を検出し、その中で行われた祭りの痕跡(ベンガラの塗布)も確認しています。最終年度にあたる今年度は、古墳の規模と構造および築造年代を確定するための調査を実施しました。

 2.調査の概要

   椿井大塚山古墳は、木津川をのぞむ東岸の段丘上に立地しており、東西方向にその主軸をもちます。今回の調査では、後円部から前方部にかけてとその周辺を対象として、合計9本のトレンチ(発掘溝)を設定しました。

 調査の結果、後円部北側に設定した2本のトレンチ(702・703Tr)において、下から2段目と3段目の葺石斜面と平坦面を良好な状態で検出しており、1段目は花崗岩の岩盤を削り出して成形していることがわかりました。よって、下から2・3段と最上段の4段目が葺石をもって後円部を全周し、最下段の1段目は葺石をもたずに全周することなく途切れることとなります。ただ、2段目は後円部東側の墳端付近において狭くなり、南北に長いフットボール形となりそうです。後円部4段の段築構造がほぽ明らかとなりました。

 前方部北側斜面から墳頂平坦面にかけて設定した3本の卜レンチ(704〜706Tr)では、前方部の下から2段目の葺石料面と平坦面を検出し、墳頂部は後世の削平を受けておりましたが、盛り土の状況を確認することができました。前方部は2段の段築構造をもちますが、前方部墳項の端のラインは後円部下から2段目の根石(葺石斜面裾に据えられた大きめの石列)のラインに接続し、後方部2段目の根石ラインは後円部最下段の裾に続くことが予想されます。したがって、前方部裾のラインは後円部に続くことはなく、くびれ部付近で消失するものと考えられます。なお、後円部と前方部の比高差は大きく、後円部は前方部の上に3段の段築をもち、約1Omも突出することとなります。

 他には、前方部南側の墳端付近に設定したトレンチ(707・708Tr)で墳丘の盛り土を確認しており、裾はさらに南側に広がることが判りました。

 また、今回の調査では、椿井大塚山古墳の築造時期を知るうえで重要な士器資料を得ることができました。出土した土器は、器台・高杯・台付椀・壷などの祭紀用の土器と少量の甕を含みます。これらの土器は、前方部北側ほば中央の2段目葺石平坦面(704Tr)から一括出土したもので、墳丘築造後の祭りの様子をうかがうことができます。土器の内容は、庄内式土器(弥生時代末期)に布留式土器(古墳時代初頭)が一部混在しており、いわゆる庄内式土器と布留式士器が共存する時期(3世紀後半)にあたります。ほぼこの時期が、椿井大塚山古墳の築造時期とすることができます。

 3.まとめ

1.椿井大塚山古境の境丘規模・構造の大要が判明しました。

 前方後円墳の全長約175m,後円部直径約110m,前方部長約80m,前方部幅約67m,後円部高約20m,前方部墳端高約IOmとなり、後円部4段,前方部2段の段築構造をもちます。

 墳丘は、奈良県桜井市箸墓古墳の予想される構造に極めてよく似ており、その規模はほば相似形となります。

2.椿井大塚山古墳の築造時期がほぼ確定しました。

 前方部の祭紀に使われた一括土器資料から、庄内式土器と布留式士器が共存する時期(3世紀後半)の年代観を得ることができました。この時期は、いわゆる邪馬台国の時代に相当します。定型化した前方後円墳の最初期のものとすることができます。

 今後は、椿井大塚山古墳の重要性にみあった保存と活用に御期待ください。

 以下、資料(図、表、写真)掲載省略。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


戻る


.