佐味田宝塚古墳は
奈良盆地の佐味田宝塚古墳は多数の鏡(36面?)が出土したことで知られています。この中には三角縁神獣鏡や有名な家屋文鏡もあります。また黄金山という名であり、金の鳥が飛んでくるという伝説があります。 魏志倭人伝の景初3年(239)の遣使に大夫難升米とならんで次使の都市牛利という人がいます。この人こそ佐味田宝塚古墳の被葬者ではないかと考えていますので、理由などを述べます。
都市牛利は、そのまま読むと「トシギュウリ(都市で牛を利用して利益を得る人?)」ですが、中臣連の先祖の久志宇賀主命(クシウガヌシノミコト)に当てました。久志宇賀主命は、日本書紀の垂仁朝25年で一に云はく..中臣連の祖探湯主(クカヌシ)..とあって、松尾社家系図の久志宇賀主命の本人または子供であると解説文として記載されています。(岩波文庫、日本書紀全5冊、坂本太郎校注、1994)
垂仁朝で五大夫の一人に大鹿嶋(オオカシマ)がいますが、久志宇賀主命の子供です。この家系は天児屋根(アマテラス朝)−−天押雲(ウガヤフキアエズ朝)−−天種子(神武朝)から続く鏡の臣(左大臣家)として、春日、中臣、三笠、と呼ばれた古代天皇家の最有力の側近氏族です。後には平安時代の藤原氏に続きます。
・ 「都市牛利」を「クシウガ」と読んで語呂を合わせます。
都:ク、市:シ、牛:ウ(ウシのウ、ギュウのウ)、利:ガ
もともとは「クシウガヌシ」と聞いた人が、では「都市牛利」にしようと決めたのではないでしょうか。
・ 久志宇賀主命の在世は210-280年頃とします。したがって、佐味田宝塚古墳の築造も3世紀後半と考えます。
・ 久志宇賀主命の埋葬は子供の大鹿嶋が行ったでしょうが、佐味田宝塚古墳の近くに行くと高台になっており眼下に香芝市の一帯が広がって見え、香芝とは「カシマ」に因んだ地名と思われます。
・ 家屋文鏡はおそらく神武時代に作られたもの(東征後の功行賞の品か)で天種子からの伝世品でしょう。
・ 大鹿嶋(推定330年頃没)の墓は、馬見丘陵古墳群中の帆立貝形の別所下古墳(雨山古墳)ではないでしょうか。
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