纒向を邪馬台国とする説と黒塚古墳 (1998.1発掘直後の論)

 市販本とかマスコミ等も通して、邪馬台国は纒向(まきむく)にあったと考えられている方は多いと思われます。

 邪馬台国の位置として畿内説があってその中に大和説があり、更に発掘調査結果から纒向が邪馬台国の有力地としてクローズアップされてきました。

 しかしこの表現方法「邪馬台国は纒向にあった」は、「邪馬台国は吉野ケ里にあった」と場所が違うだけであり、邪馬台国の規模や卑弥呼等の人物像はじめ周囲の古墳等の年代について誤解を生じかねません。

 例えば今話題の黒塚古墳について、垂仁天皇治世の十千根(トオチネ、五大夫)の墓らしいと申したとします。すると、纒向に邪馬台国があって...となにやら時代差を感じて戸惑います。

 その原因は、表現が邪馬台国のイメージを狭い地域に限るからです。現在は研究がもっと進んで邪馬台国=大和国(大和朝廷)となりつつあります。

 卑弥呼については倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトビモモソヒメ、第7代孝霊天皇の皇女)とするとつじつまがよく合います。このように考えると歴史像が広がります。

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黒塚古墳は十千根(とおちね)の墓か

 十千根は日本書紀の垂仁天皇の治世に登場します。5大夫の1人でした。5大夫とは阿部臣先祖の武淳川別(たけぬなかわわけ)、和珥(わに)臣先祖の彦国葺(ひこくにぶく)、中臣連(なかとみむらじ)先祖の大鹿島(おおかしま)、物部連(もののべむらじ)先祖の十千根、大伴連(おおともむらじ)先祖の武日(たけひ)です。

 黒塚古墳と同じく三角縁神獣鏡が多数出土した椿井大塚山古墳は彦国葺の墓と考えられます。黒塚古墳被葬者は埋葬方法の共通点が見られるため同じく5大夫の1人である十千根と考えられます。十千根についてホツマ伝ではトイチネ(十市根)であり地名に関係した名前と考えられます。10代崇神天皇の生母(9代開化皇后)イガシコメの弟イガシコオ(190-250年頃)は倭人伝の倭載斯烏越と考えられますが、十千根はイガシコオの子です。

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訂正:黒塚古墳の被葬者はイガシコオが正しい

 黒塚古墳の被葬者として、1998.1発掘直後は十千根かと考えましたが、その後イガシコオ(200-270年頃)に変更しました。出土した鏡が椿井大塚山古墳よりも古そうなこと等が理由です。

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椿井大塚山古墳について

 昭和28年に三角縁神獣鏡が多数出た椿井大塚山古墳は京都と奈良の境の木津川のほとりにあって、開化天皇兄弟の武埴安彦(タケハニヤスヒコ)が崇神朝に対して反乱を起こして、本人は彦国葺(ヒコクニブク)の射た矢に当たって戦死して武埴安彦軍が壊滅した場所です。このことは記紀にかなり詳しく書いてあることです。

 この合戦で負けた方の武埴安彦が丁重に葬られたのが椿井大塚山古墳であるとの説があります。しかしそうではなさそうです。この古墳は歴史上の位置付け(要するに誰の墓で何時のものか)によって全く異なった古代史像になるという最重要古墳です。

 発見当時(豪雨での土砂崩れで古墳と分かった)は4世紀の古墳と考えられ卑弥呼時代との年代差がありました。そこで伝世鏡論が畿内説支持者によって唱えられ、九州論者は国産遅延生産説を唱えました。それで中国鏡か国産鏡かが問題になります。

 私はどちら(伝世鏡、国産遅延生産)も否定します(両方とも歴史事実を曲げるものではないでしょうか)。椿井大塚山古墳の被葬者を卑弥呼時代に実際に魏に遣使に行った人の墓であり、木津川合戦での最大功労者で後に垂仁天皇治世下で5大夫の1人になり、ちょうど語呂あわせがいいので彦国葺(ヒコクニブク、倭人伝での伊聲耆掖邪狗)としました。

 もし彦国葺(もう1人の大将は大彦で桜井茶臼山古墳と考えられまた倭迹迹日百襲姫は反乱を予言し事なきを得ました)が負けていたら崇神朝が崩れて垂仁天皇も現れなかったでしょう。このため垂仁天皇によって功績のあった土地である木津川べりに墓が作られたのだと思います。

 椿井大塚山古墳をこのように考えて卑弥呼=倭迹迹日百襲姫として歴史像を組立てると、いろいろな事がうまく(二重三重に)当てはまるので正しそうだと考えています。


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