2000.11.14c版
自説紹介(甦った3世紀)
自説の骨格部分について説明します。平成9年(1997)夏〜秋に以前から懐いていた構想を纏めました。その後に部分的な変更や追加を施しています。 ・卑弥呼=倭迹迹日百襲姫、邪馬台国=大和朝廷(ヤマト政権)そのもの説。
・古墳の被葬者と編年の整然とした体系を以って有意とする。
・古墳の被葬者と編年の体系ができない説(矛盾を含む説)は論外。
・記紀、魏志倭人伝ほかの文献史学と考古学的事実などを基本とする。また特にホツマ伝(秀真伝)を重視する。
・実年代の誤差として10年以内をめざす。
−−結果概要−−(研究途上であり部分的変更ありうる)
ホケノ山古墳 : 7代孝霊天皇 120-188 纏向石塚古墳 : 8代孝元天皇 170-210 中山大塚古墳 : 欝色雄(孝元皇后欝色謎の兄)170-230 燈籠山古墳 : 大綜麻杵(欝色雄の弟) 170-250 東田大塚古墳 : 彦狭嶋(孝元兄弟) 160-240 矢塚古墳 : 欝色謎(孝元皇后) 170-240 勝山古墳 : 五十狭芹彦(孝元兄弟) 150-250 於(ウエノ)古墳 : 埴安姫(孝元妃) 190-240 島の山古墳 : 9代開化、伊香色謎(皇后) 195-237、186-270 箸墓古墳 : 倭迹迹日百襲姫(卑弥呼) 150-247 黒塚古墳 : 伊賀色雄(倭載斯烏越) 190-270 桜井茶臼山古墳 : 大彦(開化の兄、大倭) 193-270 新山古墳 : 彦太忍信(崇神の兄、難升米)201-280 左味田宝塚古墳 : 久志宇賀主(都市牛利) 210-280 古市方形墳 : 武埴安彦、吾田媛 202-247 西山古墳 : 10代崇神天皇(倭王) 219-258 宮堂古墳(形跡) : 日子坐(開化の子) 220-270 川合大塚山古墳 : 日子坐(開化の子、弥馬升) 220-270 九僧塚古墳(〃陪塚): 沙本毘古(日子坐の子) 240-270 中良塚古墳(〃) : 建豊波豆羅和気(開化の子) 222-270 丸塚古墳(佐紀盾列): 沙本毘売(垂仁皇后) 250-270 瓢箪山古墳(〃) : 加婆井衝姫(垂仁皇后) 260-280 椿井大塚山古墳 : 彦国葺(伊声耆掖邪狗) 200-280 下池山古墳 : 御間城姫(崇神皇后) 228-290 波多子塚古墳 : 国片姫(崇神妃) 230-290 馬口山古墳 : 遠津年魚眼眼妙媛(崇神妃) 220-280 栗塚古墳 : 尾張大海媛(崇神妃) 220-280 ヒエ塚古墳 : 八坂振某姉(崇神妃) 220-280 西殿塚古墳 : 豊鍬入姫(崇神皇女、壹与) 240-290 フサギ塚古墳 : 渟名城姫(崇神皇女) 240-290 東殿塚古墳 : 倭姫(垂仁皇女) 280-330 垂仁天皇陵 : 11代垂仁天皇 250-310 桝山古墳 : 倭彦(垂仁の兄弟) 240-290 行燈山古墳 : 播磨稲日大郎姫(景行皇后) 280-320 メスリ山古墳 : 武淳川別(大彦の子) 230-310 新木山古墳 : 誉津別(景行の兄) 270-320 西陵古墳 : 五十瓊敷入彦(景行の兄) 280-330 景行天皇陵 : 12代景行天皇 280-330 ノベラ塚古墳 : 渟葉田瓊入媛(垂仁の妃) 260-310 石名塚古墳 : 息長田別(日本武の子) 320-380 柳本大塚古墳 : 大中姫(景行の妹) 280-340 宇土墓古墳 : 大多牟夜別(仲哀の母方) 280-350 櫛山古墳 : 八坂入媛(景行皇后) 280-350 茅原大墓古墳 : 大田田根子(ホツマ伝著者) 230-330 別所下古墳 : 大鹿嶋(ミカサ文著者) 230-330 掖上鑵子塚古墳 : 日本武尊(景行の子) 300-320 築山古墳 : 甘美武猪心(彦太忍信の子) 260-340 宮山古墳 : 武内宿禰(甘美武猪心の子) 300-420 ・邪馬台国(魏志倭人伝)関係 箸墓古墳 : 倭迹迹日百襲姫(卑弥呼) 150-247 西山古墳 : 10代崇神天皇(倭王) 219-258 西殿塚古墳 : 豊鍬入姫(崇神皇女、壹与) 240-300 椿井大塚山古墳 : 彦国葺(伊声耆掖邪狗) 200-280 新山古墳 : 彦太忍信(崇神の兄、難升米)201-280 左味田宝塚古墳 : 久志宇賀主(都市牛利) 210-280 黒塚古墳 : 伊賀色雄(倭載斯烏越) 190-270 川合大塚山古墳 : 日子坐(開化の子、弥馬升) 220-270 桜井茶臼山古墳 : 大彦(開化の兄、大倭) 193-270 ・今後の重要課題 西山古墳、西殿塚古墳、東殿塚古墳の被葬者と実年代。ほか−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 発音変化による検討
大和古墳群の西殿塚古墳周辺の古墳は、崇神天皇の妃・皇女の墓であるとの持論ですが、古墳名の発音(変化)も有力な根拠になります。これによって被葬者を検証します。
【1】 トオツアユメメクワシヒメ → メクワシ → メクシ → メクチ → 馬口山古墳
【2】 クニカタヒメ → クニカタオトヒメ(弟姫;ミマキヒメの妹) → カタオト → ハタオ → 波多子塚古墳
【3】 ヌナギヒメ → フナギ → フサギ塚古墳
【4】 ヤサカフリイロネ → フリロエ → フリエ → ヒエ塚古墳
【5】 トヨスキヒメ → トヨ塚 → 殿塚 → 西殿塚古墳
【6】 ミマキヒメ → ミマイキ → ミマイケ → イマイケ → イモイケ → 下池山古墳
従来の比定はちょうど3年前頃(1997夏)に行いましたが、崇神天皇の皇后ミマキヒメを最重視して、西殿塚古墳の被葬者としてきましたが、ミマキヒメは下池山古墳、豊鍬入姫(魏志倭人伝の壹与)が西殿塚古墳、このようにした方がより正しそうです。
【7】 オワリオオアマヒメ → ウリ → 栗塚古墳
【8】 イキシコオ → コロ → 黒塚古墳
【9】 ミマキイリヒコイニエ(崇神天皇) → イニエ山 → ニイ山 → 西山古墳
いわゆる「へんな古墳名」、例えば西山古墳は奈良盆地の「東側」にあっておよそ「西」とは無関係なはずなのに「西山」です。このような「へんな古墳名」は、被葬者名が1700年もかけて変化した可能性があります。この変化は非可逆的と考えられ、古墳名から直接には被葬者名は判らず、まず被葬者の見当を付けてからの検証として使えそうです。どこかで誤伝が紛れ込むこともあるため個別に注意が要ります。(例:新木山古墳の被葬者は、発音からはイニシキイリヒコ命だが、実はホムツワケ命の方が正しいか)
【10】 オオヤマトフトニ(孝霊天皇) → ホトニノ山 → ホトケノ山 → ホッケノ山 → ホケノ山
発音変化によっても、ホケノ山古墳は孝霊天皇にちがいありません。としますと、西暦200年以前の築造として無理がありません。210年以降説などは、主要人物の実年代の考察から無理があります。
【11】 ヌバタニイリヒメ(垂仁天皇后ヒバスヒメの妹) → ヌバラ → ノバラ → ノベラ古墳
【12】 イキナガタワケ(日本武尊の子、クイマタナガヒコの親) → イキナ → 石名塚古墳
【13】 オオナカツヒメ(景行天皇の妹) → オオナカツヒメ塚 → オオ塚 → 柳本大塚古墳
従来は、柳本大塚古墳を倭姫としてきましたが、倭姫の墓は細長い造りの東殿塚古墳の可能性がありそうです。ただし倭姫の生年280年頃として、東殿塚古墳の実年代によります。西殿塚古墳の豊鍬入姫と並んで、天照大神祭祀関係の両者が朝日の昇る東側の山の高い所との発想で、この場合は崇神天皇はもちろん西山古墳となります。
【14】 オシノマコト(彦太忍信、崇神天皇の同母兄、難升米) → オシンノマ → シンナマ → 新山古墳
【その他】
・ウツシコオ → 中山大塚古墳
・オオヘソキ → 灯篭山古墳
===補足説明===私は古代史の一個人研究家ですが、30年来の研究成果として初期主要古墳の被葬者と編年の体系をほぼ完成しました。この新体系は、従来の邪馬台国=初期ヤマト王権説および卑弥呼=倭迹迹日百襲姫説を原点として更に徹底したものです。
特長は古墳の被葬者を特定したこと、全般傾向だった古墳編年のズレを正したこと、第7代孝霊天皇から12代景行天皇の各生年と崩御年の実際との誤差がほぼ10年以内であること、記紀と魏志倭人伝の記載内容に無理なく適合していること等です。但し魏志倭人伝の位置論では長年の論争で明らかなように完全適合はありえません。3世紀の日本の歴史は生き生きと甦えりました。また紀元前100年頃の天照大御神時代以前からの歴史解明の可能性があります。
このような素晴らしい成果を得るためには、歴史学、考古学分野でのタブー視されていそうなことも敢行しなければなりませんでした。
(1) 古墳の編年ズレが正されていなければならない。
(2) 三角縁神獣鏡は遣使の見返り品として出現したその当時の中国鏡であり、三角縁神獣鏡の国産遅延生産ということではない。
(3) 日本書記の原典と目される古記録『ホツマツタヱ』の重用。
このどれか1つが欠けても日本の古代史は従来と相変わらず闇から抜け出すことは不可能です。
《参考文献》
主要参考文献: 吾郷清彦訳解『全訳秀真伝』(新国民社、昭和55年)ここでの課題(3世紀の古墳の被葬者と実年代の体系)でずばり正しいものは皆無状態であるが、参考になると思って買ったもののみ以下(ほぼ)購入順に:
・ 原田大六『実在した神話−平原弥生古墳−』(学生社、1966年)
・ 原島礼二『大王と古墳』(学生社、昭和46年)
・ 青木慶一『邪馬台の美姫−日本古代史測定論』(毎日新聞社、昭和46年)
・ 原田大六『卑弥呼の墓』(六興出版、昭和52年)
・ 原田大六『卑弥呼の鏡』(六興出版、昭和54年)
・ 近藤義郎、藤沢長治、編『日本の考古学、古墳時代(上)』(河出書房新社、新装版S55年)
・ 井上赳夫『日本古代史の謎は解けた』(大陸書房、1982年)
・ 泉森皎、河上邦彦、伊藤勇輔『大和の古墳を語る』(六興出版)
・ 白石太一郎篇『古代を考える、古墳』(吉川弘文館、平成元年)
・ 朝日新聞社編『古墳への旅−古代人のタイムカプセル再見』(朝日新聞社、1996年)
・ 前園実知雄、中井一夫、共著『日本の古代遺跡、奈良北部』(保育社)
・ 寺沢薫、千賀久、共著『日本の古代遺跡、奈良中部』(保育社)
・ 伊藤勇輔、楠元哲夫、共著『日本の古代遺跡、奈良南部』(保育社)
・ 『東アジアの古代文化63号(初期ヤマト政権の成立)』(大和書房、1990年)
・ 茂木雅博『天皇陵とは何か』(同成社、1997年)
・ 森浩一編『天皇陵古墳』(東京堂出版、平成元年)
・ 藤田友治と天皇陵研究会『古代天皇陵をめぐる』(三一新書、1997年)
・ 『日本古墳大辞典』(大巧社、1996年)
・ 『平成十一年度秋季特別展、古墳のための年代学』(橿原考古学研究所付属博物館、平成11年)
・ 『季刊邪馬台国47号、総力特集古代天皇陵ガイド』(梓書院、1991年)
・ 伊達宗泰『「おおやまと」の古墳集団』(学生社、1999年)
・ 田中卓『海に書かれた邪馬台国』(青春出版社、昭和50年)、(垂仁天皇崩年311年説)
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