2000.11.12c版 

4世紀以降の古墳の被葬者と編年の体系

 4世紀以降の古墳の被葬者と編年の体系に関しては、現在(平10/12/12初出から徐々に改定)は以下のように考えています。今後の検討状況に応じて部分的な追加修正等を行ないます。被葬者の生年・没年それぞれ10年単位での目安を表示しています。なお自説紹介(3世紀以前)との重複個所については省略あり。

宝来山古墳     : 11代垂仁天皇(現)   250-310
五社神古墳     : 日葉酸媛(垂仁の后)   250-300
掖上鑵子塚古墳   : 日本武(景行の皇子)   300-320
野中宮山古墳    : 日本武(景行の皇子)   300-320
渋谷向山古墳    : 12代景行天皇(現)   280-330
佐紀陵山古墳    : 13代成務天皇      300-350
巣山古墳      : 五百城入彦(景行の皇子) 300-370
津堂城山古墳    : 14代仲哀天皇      320-360
岡古墳       : 香坂王(仲哀の皇子)   340-360
割塚古墳      : 忍熊王(仲哀の皇子)   340-360
仲ツ山古墳     : 仲姫(応神の后)(現)  360-410
佐紀石塚山古墳   : 神功皇后(仲哀の后)   320-390
倉塚古墳      : 杙俣長日子王       350-420
誉田山古墳     : 15代応神天皇(現)   360-400
堺大塚山古墳    : 菟道稚郎子(仁徳の弟)  380-400
屋敷山古墳     : 葛城襲津彦(武内宿禰の子)330-410
宮山古墳(室大墓) : 武内宿禰         300-410
石津丘古墳     : 16代仁徳天皇      380-420
ヒシアゲ古墳    : 磐之媛(仁徳の后)(現) 380-410
太田茶臼山古墳   : 根鳥皇子(応神の子)   390-450
田出井山古墳    : 住吉仲皇子(履中の弟)  400-420
大仙陵古墳     :〔讃〕17代履中天皇    400-430
土師ニサンザイ古墳 :〔珍〕18代反正天皇    400-440
市ノ山古墳     :〔済〕19代允恭天皇(現) 410-460
墓山古墳      : 大草香皇子(仁徳の子)  410-460 
市庭古墳      : 市辺押磐皇子(履中の子) 420-460
青山古墳      : 眉輪王(大草香皇子の子) 450-460
野中古墳(墓山陪塚): 八釣白彦(允恭の子)   430-460
浄元寺山古墳(〃) : 坂合黒彦(允恭の子)   430-460
向墓山古墳(〃)  : 木梨軽(允恭の子)    430-460
ウワナベ古墳    :〔興〕20代安康天皇    430-460
コナベ古墳     : 中蒂姫(安康の后)    430-470
軽里大塚古墳    : 忍坂大中姫(允恭の后)  410-480
白髪山古墳     : 衣通郎姫(忍坂大中姫の妹)420-490
岡ミサンザイ古墳  :〔武〕21代雄略天皇    430-490
峯ケ塚古墳     : 星川皇子(雄略の子)   450-480
北花内大塚古墳   : 飯豊青皇女(市辺押磐の子)450-490
百舌鳥御廟山古墳  : 市辺押磐皇子(履中の子) 420-460
イタスケ古墳    : 仲子(市辺押磐の舎人)  420-460
高屋築山古墳    : 22代清寧天皇      450-490
狐井城山古墳    : 23代顕宗天皇      450-500
ボケ山古墳     : 24代仁賢天皇(現)   450-500
鳥屋ミサンザイ古墳 : 25代武烈天皇      480-506
今城塚古墳     : 26代継体天皇      460-531
河内大塚山古墳   : 27代安閑天皇      480-535
見瀬丸山古墳    : 28代宣化天皇      480-539
平田梅山古墳    : 29代欽明天皇(現)   510-571



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(補足説明)

 允恭天皇崩御後の安康から雄略即位前後は天皇家の大波瀾時代です。その内容については記紀をご覧ください。古墳の被葬者比定の立場からこの時期に不幸な命運を辿った6人に着目してみました。

(1) 大草香皇子(仁徳天皇の子): 幡梭皇女(妹)が雄略の后になる途上で、第三者の偽り言を信じた安康天皇によって殺された。

(2) 中蒂姫: 大草香皇子の妃だったが、大草香皇子の没後に子の眉輪王を連れて安康天皇の后になった。しかし数年後に安康天皇は眉輪王に殺され、眉輪王も殺された。また兄の市辺押磐皇子も殺された。

(3) 眉輪王: 実の父(大草香皇子)が殺され、敵討の後に自分も殺された。

(4) 幡梭皇女(雄略天皇后): 大草香皇子(兄)と眉輪王(甥)が殺された。

(5) 安康天皇: 第三者の偽り言を信じ最後は殺された。

(6) 市辺押磐皇子(中蒂姫の兄): 雄略天皇(即位前)にだまし討ちで殺された。

 幡梭皇女(雄略天皇后)以外の5人(大草香皇子、眉輪王、中蒂姫、安康天皇、市辺押磐皇子)の墓については、雄略天皇などの意向が大きく入っていると考えられます。

・5人の墓をそれぞれ別個に造った。

・大草香皇子と眉輪王の墓は、雄略天皇(幡梭皇女)と同じ古市古墳群とした。

・安康天皇と中蒂姫および市辺押磐皇子の墓は、別の場所(奈良盆地の佐紀古墳群)とした。

 具体的には、

・コナベ古墳(やや小形の感がする前方後円墳):中蒂姫。

・ウワナベ古墳(コナベ古墳の隣の大型の前方後円墳):安康天皇。

・青山古墳(周濠のある円墳):眉輪王。

・墓山古墳:大草香皇子。

・市庭古墳(現在は後円部だけの前方後円墳):市辺押磐皇子。
 いちのべのおしわ(市辺押磐)→いちにべおしわ→いちにわ(市庭)、のような変化がありそうです。特に中蒂姫(コナベ古墳)の不幸が甚だしいので、安康天皇(ウワナベ古墳)の隣りで、かつ磐之媛(祖母である仁徳天皇后、ヒシアゲ古墳)と市辺押磐皇子(兄、市庭古墳)によって三角形に囲まれる(守られる)配置と思われます。
 このようであるとしますと、後になって市辺押磐皇子の子供である仁賢・顕宗天皇兄弟が、父(市辺押磐皇子)の骨を捜したくなったことと、父の敵である雄略天皇にも天皇としての徳があることを認めた、という記紀の記述も真実味を増します。
 そして、「父(市辺押磐皇子)は本来は大王になるべき人だった。お墓は、石津丘古墳(16代仁徳天皇)、大仙陵古墳(17代履中天皇)、土師ニサンザイ古墳(18代反正天皇)、の三角形に囲まれる(守られる)位置が最適だ」と仁賢・顕宗天皇兄弟が考えて百舌鳥御廟山古墳(市辺押磐皇子)とイタスケ古墳(仲子)が造られたのだ、と思われます。

 なお墓山古墳の大きな3つの陪塚(方墳)は、同時期の允恭天皇の皇子(木梨軽、坂合黒彦、八釣白彦)ではないでしょうか。

・浄元寺山古墳(青山古墳に最も近い): 眉輪王をかばって一緒に死んだ坂合黒彦。

・野中古墳(武器が多数出土): 八釣白彦。

・向墓山古墳(墓山古墳の後円部側): 皇太子だった木梨軽。




参考文献:

・ 青木慶一『邪馬台の美姫−日本古代史測定論』(毎日新聞社、昭和46年)
・ 武田祐吉訳注、中村啓信補訂・解説『古事記』(角川文庫)
・ 宇治谷孟『日本書紀』(講談社)
・ 田中卓『海に書かれた邪馬台国』(青春出版社、昭和50年)、(垂仁天皇崩年311年説)
・ 藤田友治と天皇陵研究会編『古代天皇陵をめぐる』(三一書房)
・ 白石太一郎編『古代を考える古墳』(吉川弘文館)
・ 緒形隆司『古代天皇の謎』(光風社出版)
・ 大塚初重・小林三郎・熊野正也編『日本古墳大辞典』(東京堂出版)
・ 朝日新聞社編、白石太一郎監修『古墳への旅』(朝日新聞社)
・ 森浩一編『天皇陵古墳』(大巧社)
・ 原島礼二、『大王と古墳』(学生社)
・ 『新版古市古墳群』(藤井寺市教育委員会)
・ 『版古市古墳群をめぐる諸問題』(藤井寺市教育委員会)
・ 『大阪の前期古墳(古市古墳群の成立前夜)』(藤井寺市教育委員会)


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