初期の天皇墓について 
7代孝霊天皇よりも更に古い初期の天皇と近縁者の墓については、ホケノ山古墳(奈良県桜井市箸中)の近くに集中しているとの持論ですが、全貌が明らかになりました。後世には大古墳との規模の差が懸念されて表面的な場所変更が行なわれました。ホツマ伝によると奈良盆地東南部にある三輪山のことがウネビヤマ(ウネビネ)と呼ばれていました。 
ここの個所から畝火峰=畝火山、狭井=狭井川です。三輪山の大神神社近くには狭井神社と狭井川があります。一方で現在の畝傍山の方には該当しそうな川がありません。このことから上の記載は現在の三輪山付近を指しており、上古は三輪山が畝火山であったことになります。 
【畝傍山は引っ越した】今は橿原市で昔は三輪山の方だったということは引っ越したに違いありません。引っ越した主な項目は以下のようです。
・ウネビヤマ:三輪山から畝傍山に。これに伴って、
・初代神武〜4代徳懿天皇の墓:三輪山山麓のホケノ山古墳付近から畝傍山周辺に。
・5代孝昭、6代孝安天皇の墓:ホケノ山古墳付近から御所市に。
・7代孝霊天皇の墓:ホケノ山古墳から王寺町に。
・8代孝元天皇の都(カルサカイハラ):纒向から近鉄南大阪線岡寺駅すぐ北側の宮跡地(石碑、神社)に。纒向での石塚古墳(210年代)以前の遺物(土器・木材、190年代〜)大量出土が都だった証拠。
・孝元天皇の墓:纒向石塚古墳から橿原市に。
・9代開化天皇以降は影響なし。
−−−−−−−−−初期天皇墓の配置図−−−−−−−−−
塚・古墳 被葬者 @ 巻野内石塚古墳 6代孝安(80-150) A 石田塚 世襲足媛(孝昭后130-180) B サシコマ塚 石田塚(世襲足媛)の殉葬墓 C 小川塚 5代孝昭(110-150) D 東小川塚 4代懿徳(100-130) E ジャカロ塚 八咫烏(神武重臣) F 平塚 初代神武(20-80) G 茶ノ木塚 波知気根ノ磯城津彦(安寧皇子) H 北口塚 手研耳(神武皇子、40-80) I ホケノ山古墳 7代孝霊(120-190) J 慶運寺裏ノ塚 2代綏靖(60-100) K 堂ノ後古墳 3代安寧(80-110)、糸井媛(安寧妃) L ツヅロ塚 姫蹈鞴五十鈴姫(神武后、30-100) M 狐塚 阿田都久志尼(大物主櫛甕玉の子、40-110) N 毘沙門塚 吾平津姫(神武妃、20-80) O 茅原大墓古墳 大田田根子(ホツマ伝著者、230-330) F平塚は奈良盆地で最初の天皇(神武天皇)の墓として最適の位置。 Jは慶運寺北側の丘で桃花鳥田丘(つきだおか)というのにピッタリの場所。 Dは真名子谷というのにピッタリの場所。真名子は愛子(愛弟子の愛)が原義か。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−発音変化による初期天皇墓さがし
ホケノ山古墳周辺の古墳(墳墓)は、欠史天皇時代との持論ですが、塚名や地名の発音(変化)も有力な根拠になるとの考えです。
【1】 ヤマトクニオシ(孝安天皇) → オシ塚 → イシ塚 → 巻内石塚古墳
【2】 ミマツヒコカエシネ(孝昭天皇) → ヒコカワシネ → コカワ → 小川塚
【3】 ヤタガラス → ヤガラ → ジャカラ → ジャカロ塚
【4】 イワレヒコ(神武天皇) → ハレ塚 → ハラ塚 → 平塚
【5】 タギシミミ → タグシ → タグチ → 北口塚
北口塚の位置はホケノ山古墳のすぐ真北にあり、2000年春のホケノ山古墳現地説明会で行列途中に書籍販売所が出来ましたが、そこからホケノ山古墳の方に少し進んだ(左に折れ曲がるところの)道路端すぐ右側です。北口塚はこの辺り一帯の古墳群の中央にありますが、古代天皇家にとって、タギシミミ命とその墓(北口塚)の存在が忌み嫌われたフシがあります。そのため、「近くにもっと大きくて長持ちするのを造れ」ということで葺石のあるホケノ山古墳があるのだと思います。また、「モモソヒメのでっかい墓で、タギシミミ命の乱行を抑えろ」というような意味あいで箸墓古墳の主軸が北口塚を通っているのではないでしょうか。倭国大乱の暗い時代を経験した古代天皇家と民衆にとってはあり得ることです。
【6】 ヒメタタライスズヒメ → タタラ → タタロ → ツタロ → ツツロ → ツヅロ塚(又は、ツクロ塚)
大和国条里復原図の地名(小字名)は、100年程前の資料を中心として、種々の情報から復原されています。同図では「ツタロ」であり、「ツツロ」の前段階と考えられます。「タタロ」ひいては「タタラ」からの変化と考えられます。
【7】 ハチギネノシギツヒコ(安寧の子)
→ ハチキノ → ハチノキ → ヤチノキ → 茶ノ木塚
( → ハチャキネノシキ → ○チャ○○ノ○キ → 茶ノ木塚)
ホケノ山古墳のすぐ近くに「茶ノ木塚」と「堂ノ後古墳(長八塚)」がありますが、ホツマ伝の安寧天皇の治世に語源らしい記述個所があります。「ホ31272 ナガハシ」と「ホ31276 ハチギネの シギツヒコミコ」があります。
記紀には、「ホ31272 ナガハシ」や「ホ31276 ハチギネ」らしき記述は見当りません。ホツマ伝だけにある記述であり、当然ながらこちらの方を信用しています。 《2つ並べば真書の証明》: 「茶ノ木塚」と「堂ノ後古墳(長八塚)」は、ホケノ山古墳の西側に100m程の間隔で並んでいます。これに対する五七調ホツマ伝での記載は僅か5行の内に並んでいます。考古学との対比鮮明によって、ホツマ伝は真書と考えられます。考古学的位置付けが未確立な時代(例えば江戸時代など)での偽作説はあり得ません。
【8】 アタツクシネ(吾田津奇根、タダヒコ) → キツネ → 狐塚
アタツクシネは、ワニヒコ(櫛甕玉命)の子供でヒメタタライスズヒメの甥に当ります。神武〜綏靖朝での重臣です。狐塚の位置はホケノ山古墳と茅原大墓古墳の中間です。
【9】 カヌナガワミミ(綏靖天皇) → 慶運寺の裏山
(記紀)綏靖天皇の墓は「ツキダオカ」です。大和国条里復原図では、慶運寺と裏山は地名「北垣内」です。「ツキダオカ」→「北垣内」の変化を考えてみましょう。自宅から馬見古墳群の方に向かう途中のバス停は、「大垣内」と書いて「オオガイ」と読みます。すると「北垣内」を「キタガイ」という読み方はあり得ます。これは次のように「ツキダオカ」から変化したものと考えられます。
ツキダオカ → キダカ → キダカイ → 北垣内
【10】 シギツヒコタマデミ(安寧天皇) → 堂ノ後古墳
現地状況(標識)では、国津神社の本殿のすぐ裏手の古墳の墳丘上に標識「堂ノ後古墳」が立っています。現地に数回行ってみて確認しています。本殿のすぐ裏手に所在することから至極もっともな命名と思われます。しかし「堂ノ後古墳」という名称は、国津神社の裏手という立地関係からではなくて、被葬者を安寧天皇として次のような変化が考えられます。
シギツヒコタマデミ(安寧天皇) → デミ → デモ → ドモ → ドウモ → ドウゴ → 堂ノ後古墳
大和国条里復原図によると、堂ノ後古墳は地名(字名)「堂ノ後」にあります。「堂ノ後」は飛び地がありますが、西側のJRの線路近くまで広がっています。また堂ノ後古墳墳丘の北西隅三分の一だけが地名(字名)「長八」となっていて、「長八」はここ以外には記されていません。これからすると、堂ノ後古墳の主被葬者は安寧天皇であって、北西の一角がナガハシ(長階局)に居た糸井媛(安寧妃)の合葬であると考えられます(ナガハシ→「長八」に変化)。
国津神社のすぐ裏側が安寧天皇の墓になっていることは古代史上で驚くべきことです。卑弥呼と考えられる倭迹迹日百襲媛ですが、国津神社のすぐ裏側には堂ノ後古墳(母方先祖の安寧天皇)とホケノ山古墳(父親の孝霊天皇)があります。卑弥呼共立とは、神武系譜と神武系譜以外(おそらく古代春日氏)の両者の子孫として倭迹迹日百襲媛がいて、両勢力から共立されたものと考えられます。そして倭迹迹日百襲媛が、国津神社の所で先祖の祭祀を行ったのだと思います。
【11】 懿徳天皇 → 東小川塚
【12】 オオヤマトフトニ(孝霊天皇) → ホトニノ山 → ホトケノ山 → ホッケノ山 → ホケノ山古墳
【13】 アビラツヒメ(吾平津姫、神武妃) → ビラツメ → ビラツモ → ビラツモン → 毘沙門塚
毘沙門塚の位置は、茅原大墓古墳のすぐ西側です。ただし平成5年に発見された毘沙門塚古墳は、6世紀頃の前方後円墳であるため、吾平津姫の墓は別にあると考えられます。吾平津姫はタギシミミ命の母親でありもともとは九州にいました。神武東征後の吾平津姫の消息については、記紀は何も語りませんが、ホツマ伝では神武天皇の橿原即位と葬儀の場面などで登場します。九州から大和入りした時期については、険しい東征に同行したとは考えにくく、天種子が東征後に遅れて大和入りしましたが、その時に一緒にということが考えられます。
【14】 ヨソタリヒメ(孝昭天皇皇后) → ヨソダ → ヨシダ → 石田塚
参考文献:
・吾郷清彦訳解『全訳秀真伝』(新国民社)
・橿原考古学研究所『大和国条里復原図』(昭和55年)
・伊達宗泰著『「おおやまと」の古墳集団』(学生社、1999.7発行)
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