2001.1.1版 
これが日向3代の墓(ニニギ命、山幸彦、ウガヤ葺不合命、玉依姫)


 岡村秀典氏著『三角縁神獣鏡の時代』では北部九州の前漢鏡を多数出土した著名な遺跡に関して、鏡を中心として年代が詳しく考察されています。この書を読んで、以前から見当をつけていた場所・年代がほとんど一致したため、記紀神代に当たる日向3代(ニニギ命、山幸彦、ウガヤ葺不合命)の墓を特定することができました。また更に古くて記紀神代にもほとんど登場しないカナサキ尊(=住吉翁)の墓が須玖岡本遺跡D地点であることもわかりました。

・三雲南小路遺跡:前1世紀後半として、ニニギ命(BC50−BC10)の墓。

・井原鑓溝遺跡:西暦紀元少し後としてヒコホホデミ(山幸彦、BC30−AD10)の墓。古事記に御墓は高千穂の山の西とありますが、高千穂の山とは井原鑓溝遺跡の東側にある高祖山のことでしょう。

・平原5号墓:八瀬姫(五瀬命生母、AD1−AD20)の墓。

・平原1号墓:ウガヤフキアエズ命(神武天皇の父、BC10−AD40)の墓。

・平原2号墓:玉依姫(神武天皇生母、AD1−AD50)の墓。

・須玖岡本遺跡D地点:前1世紀中頃として、アマテル神(BC90−AD10)から九州全体の統治を任されたカナサキ尊(=住吉翁、BC110−BC50)の墓。その後継ぎがニニギ尊であり有名な天孫降臨となります。ただし天孫降臨は、高天原から九州にまっすぐ向かった(記紀)ということではないようで、ホツマ伝によって実相の詳しい解明が必要であると考えられます。

 日向3代(ニニギ、ヒコホホデミ、ウガヤ)の本拠地の墓は上記のようだとして、九州など各地の出先で亡くなった場合は、そちらの方にも墓があっても不思議ではありません。

参考文献:
岡村秀典著『三角縁神獣鏡の時代』吉川弘文館、1999.5.1発行
原田大六著『実在した神話(発掘された平原弥生古墳)』学生社、1998.7.15発行

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紀元前1世紀頃の実年代推定

紀元前1世紀頃の実年代を概略つぎのようではないかと推定しています。ホツマ伝によって勿論みな実在者であったと考えています。

【西暦年(10年単位での目安)】

・BC130年 (アワナギ、サクナギ、トヨケ=5代高皇産霊=豊受大神=東の君(=東王父))生誕

・BC110年 (イザナギ、イザナミ、カナサキ=住吉、菊桐姫=白山姫、経津主=香取神、兵主、桜内=山祗)生誕

・BC90年 (天照、昼子姫、月読、素戔鳴、瀬織津姫、思兼、武甕槌、心瓊産霊=春日殿、陶津身、大山祗)生誕

・BC70年 (忍穂耳、穂日、大己貴、葛城一言主、熊野楠日、宇佐三女神、太玉、手力雄、香久山祗)生誕

・BC60年 (天児屋根)生誕

・BC50年 (ニニギ、海神ハデツミ彦、クシタマホノアカリ、天香語山、大物主クシヒコ、アヂスクタカヒコネ)生誕

・BC30年 (ヒコホホデミ=山幸彦、豊玉姫、カモタケズミ彦、イソヨリ姫、天押雲、ムメヒト、海幸彦、大物主ミホヒコ=子守)生誕

・BC10年 (鵜葺草葺不合、ニギハヤヒ、弥彦、ウヅヒコ、ナガスネヒコ、ミカシヤヒメ、積葉八重事代主)生誕

・AD1年 (八瀬姫、玉依姫)生誕

・AD10年 (天種子、ウマシマチ、大物主ワニヒコ)生誕

・AD20年 (五瀬尊、神武)生誕

・AD40年 (タギシミミ、ヒメタタライスズ姫)生誕

・AD60年 (綏靖、天村雲=アメイダキ)生誕

【年代のポイント】

・前漢武帝元封元年降(BC110年?)、西王母が三千年に一度実を結ぶ桃を奉呈したとあります(列仙伝)が、ホツマ伝の記録(西王母(ウケステメ、ニシノハハカミ)が来て菊桐姫と会い、三千実(ミチミ)の桃を持ち帰った)と対応していると考えます。

・平原遺跡1号墓をウガヤフキアエズ命の墓で1世紀中頃と考えます。

・神武の東征・橿原宮即位を57年の金印の頃と考えます。

・孝安天皇(80年頃生)は兄が春日大公であり天種子の孫の可能性大。後漢書倭伝の安帝永初元年(107年)「倭國王帥升等(ヤマトクニオシヒト)」は孝安天皇と考えます。

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平原遺跡付近の伝説

 平原遺跡の調査研究をされた地元の原田大六氏(故人)によると、平原遺跡の付近には天孫降臨や日向三代にまつわる多くの口碑(こうひ;言い伝え・伝説)があるようです。氏の著書に接して、天孫降臨とは実話であり、その場所はこの地に違いないと考えるようになりました。以下引用:『実在した神話(発掘された平原弥生古墳)』原田大六著(学生社)

【伊都の口碑(こうひ;言い伝え・伝説)】

 福岡市から西へ向って唐津市へ出る中間が糸島郡であるが、この郡は、古くは南部の恰土と、北部の志摩のニ郡が合併して糸島になったところである。その南部の旧恰土郡はあの有名な中国の歴史書「魏志倭人伝」に出てくる「伊都国」に相当するのを疑う人はいない。

 雷山系(筑紫山系の一部)を南に、東に高祖山、西の曾根の洪積段丘に三方をかこまれ、北に志摩の山々をのぞむところが、旧恰土郡(あるいは旧伊都国)の中心部であり、戦後の町村合併で前原町となるまでは、恰土村といっていた。南に近く山なみが迫って、あまり水量は豊富ではないが、川原川と瑞梅寺川の二川が北に向って流れ下り、そのもとは合わさって博多湾に流入している。

 この川原川と端梅寺川の二つの川にはさまれた平野の中央に、三雲という部落がある。部落の南端に、こんもり繁った森、ここに細石神社が、社殿を東に向けて建てられている。祭神は、日向第一代ニニギノミコトの妃になった木花開耶姫と、みにくいために帰されたという姉の磐長姫の二柱である。この神社の小字名を鑓溝という。木花開耶姫や磐長姫を祭神としている神社は、日本全国に沢山あることだし、細石神社の祭神も、別に何ということはない。しかしである。ことは、伊都国の中央の、そのまた中心地区に当る三雲部落に、このニ女神を祭っているのに疑念はおこるまいか。なにかわけがありそうな気がする。

 元緑八(一六九五)年、村山正貞があらわした『細石神社御縁起』(大神氏蔵)に「天正十五(一五八七)年豊臣秀吉公九州の乱をしづめ給ふ折から、故なく当社の神田をも没収し給ひ」と記し、それ以前は「広麗なる御社にて、神事祭礼もことにいかめしかりけると述ぺている。だが、それ以前のことは皆目わからない。現在は三雲部落の氏神としてあがめられているだけで、他地方の人が足を向け参拝にくることは、ほとんどない。

 細石神社の東ニ百mばかりのところに、八竜の森というところがあり、そこに野石が一個立っていた。三雲部落の人は、木花開耶姫の子であり、日向第二代のヒコホホデミノミコトの生誕地と伝えている。惜しいことに、この森は伐裁されて二三本の樹木をのこすのみとなり、立っていた野石はそのとき細石神社の境内に移されてしまった。しかし部落民は、その石を神聖視している。

 細石神社の社殿が向いている東方の、川原川を渡り、奈良時代に築かれた恰土城の土塁内の森の中深くに鎮座しているのが高祖神社である。古くから恰土郡の惣社とされ、あるいは恰土庄の一の宮と称されてきた。祭神は三柱で、中座に日向第二代のヒコホホデミノミコト、左座に玉依姫、右座に気長足姫(神功皇后)を祭っている。『三代実録』の元慶元(八七七)年に高祖比メ神とあるのが、この神社と考えられている。ヒメガミといったのは、左座の玉依姫を指したのか、右座の神功皇后をいっているのか、どちらかはっきりしない。ともかく、昔は、祭日の九月ニ十六日(旧暦)には、神輿が三雲の細石神社に渡ったという。細石神社の南側は、高祖宮御幸祉といって不浄のものを置くことを忌みきらった。

 高祖神社の背後にそぴえる山を高祖山という。高祖神社にせよ高祖山にせよ「高祖」という文字を使用しているのには、いわれ因縁がありそうに思われる。元録年間貝原好古がものした高祖神社の伝記には歴代の天皇は、みなこの神社の祭神ヒコホホデミノミコトの子孫であるから「高祖」と書くといっている。高祖山の南の峯をくしふる山という。この名称で思い当るのは、日向第一代のニニギノミコトが高天原から降臨してきたという山を、高千穂のくしふるの峯といい、またその山を二上山ともいったということである。二上山とは、ひとつの山のいただきが二つの峯になっているのをいう。高祖山とクシフル山は、おあつらえむきに、ひとつの山で峯が二つになっているし、「タカスのクシフルヤマ」というのと「タカチホのクシフルタケ」というのも語呂が近い。

 高祖山クシフル山と、その南約五粁の韓国山との中間に、V字形に凹んだ大きな谷間があるが、ここを日向峠という。この名称は大昔、この糸島地方が日向といわれたなごりをとどめているのだという人があった。

 三雲の細石神社の北方千ニ百mの、平地つづきの井田部落に、御子守神社というのがあった。祭神は玉依姫で、ここも女神である。境内に「御子守石」という花崗岩の巨石があり、それに口碑がのこっている。日向二代のヒコホホデミノミコトが休憩された石であるとか、玉依姫が御子を御子守された石であるとかいっている。現在この巨石は、井田部落にあった三つの神社の合祀によって、三社神社に移動されている。御子守石は、加工しない自然の方形を呈した巨石であるが、場所としては自然の岩層が露頭するところではない。東の高祖山方面から、いつの時代にか運ばれてきたものだろうと部落の人はいっている。

 瑞梅寺川は東の博多湾へそそぐが、曾根段丘の西を流れる雷山川は、西の唐津湾に流れ入る。この二川が東西に分かれる海抜四mの低地中央に、延喜式内社の志登神社がある。神社関係の古文書も、『中村文書』として平安末以来のものを多く伝えている。祭神は豊玉姫である。古くは、博多湾と唐津湾からの入江が、恰土と志摩の二郡を南北に分けるように割りこみ、この志登神社をはさむようにせまっていたらしいが、江戸時代の干拓で現在は水田の中央になっている。

 ところで、この神社の社殿は、唐津湾の方向に西面して建てられ、入江であったころは、海上から参拝するようになっていたらしい。口碑によるとこの社地は、ヒコホホデミノミコト(山幸彦)が海神国ヘ行って先に帰ってきたのを、その妃豊玉姫があとを追ってここに上陸した霊地として、豊玉姫を祭っているのだといっている。

 神社の南側、水田の間に、岩鏡という巨石があるが、これは豊玉姫がその石の上に立って髪をけずったと伝えている。この巨石も、加工しない自然の花崗岩で、ある時代に、西北にそぴえる可也山方面から運搬してきたものらしい。

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【ホツマ伝】須玖岡本遺跡D地点はカナサキ尊(=住吉翁)の墓

1.イザナギ尊が禊をして三筒男を生んだ場所はナカカワ(福岡平野に那珂川あり)であり、カナサキ尊は三筒男を祀ることになった。これが住吉神社に関する事の始まりである。(推定紀元前90年頃)

2.カナサキ尊はアマテル神から九州全体を任された。それまでは奈良盆地にいたが後をココトムスビ尊(天児屋根尊の父)に譲った。(推定紀元前70年頃)

3.カナサキ尊はスミヨシ(住吉)翁である。

4.カナサキ尊は、アマテル神よりもやや年長(妃ハヤアキツヒメの父)であり、紀元前110−50年位に生きた人である。

5.須玖岡本遺跡D地点はカナサキ尊(=住吉翁)の墓である。

6.福岡平野の春日の地名は、カナサキ尊没後の春日臣(天児屋根尊〜天種子尊)に因んだものである。なお、春日臣(古代天皇家の左大臣、鏡ノ臣)の系譜とは、豊受大神(トヨケ)−兵主(ツワモノヌシ)−輿台産霊(ココトムスビ)−天児屋根−天押雲−天種子−宇佐麿である。

〔紀元前90年頃〕
ホ05085 うみてミを いさぎよくして
ホ05086 のちいたる ツクシアワキの 筑紫檍の
ホ05087 ミソキニハ ナカカワにうむ 禊庭 中川に生む
ホ05088 ソコツツオ つぎナカツツオ 底筒男尊 次中筒男尊
ホ05089 ウハツツオ これカナサキに 上筒男尊 これ金析尊に
ホ05090 まつらしむ またアツカワに 祭らしむ
ホ05091 ソコとナカ カミワタツミの 
ホ05092 ミカミうむ これムナカタに
ホ05093 まつらしむ またシガウミに
ホ05094 シマツヒコ つぎヲキツヒコ
ホ05095 シガノカミ これはアヅミに
ホ05096 まつらしむ のちアワミヤに
ホ05097 ミコトのり みちびきのウタ

〔紀元前70年頃〕
ホ08359 イフキヌシ ミヤをたつれば
ホ08360 しつまるに オシテたまわる
ホ08361 タカノカミ またカナサキは また金析尊は
ホ08362 すみよろし カミのオシテと 住吉 神の璽と
ホ08363 ミハのソオ たまふツクシの 御衣の襲緒 賜ふ筑紫の
ホ08364 タミすべて ゆいおさむへし 民総べて 結い治むべし
ホ08365 わがかはり またフツヌシは わが代理
ホ08366 カグヤマを つかさとれとて 
ホ08367 カトリカミ タケミカツチは 
ホ08368 ナルカミに タケモノヌシの 
ホ08369 カフツチと さきのクニエに
ホ08370 ゆリしつむ カナイシツチも
ホ08371 たまふなり ツハモノヌシが
ホ08372 タマかえし きよきマコトの
ホ08373 はなふりて ミチにアもなし
ホ08374 シキアガタ アナシウオカミ
ホ08375 オツテそえ すゑてウツシヒ
ホ08376 カンオチぞ ヰチチかゑらむ 市千魂命が撰む
ホ08377 タマかえし おこすトのネオ 魂返し 興す瓊の根緒
ホ08378 むすぶフミ ココトムスビの 結ぶ紀 興台産霊尊の
ホ08379 ナにすゑて カスガトノとぞ 名に定坐て 春日殿とぞ
ホ08380 たふとませ キミカナサキに 尊ませ 君金析尊に
ホ08381 のたまふは ヨロモノきれど 宣給ふは 万物斬れど
ホ08382 タマかえし ミタレヲとけば 魂返し 乱魂緒解けば
ホ08383 カミとなる ココチカスガと 神となる 心持春日と
ホ08384 サトのナも オキナがモリも 里の名も 翁が杜も (奈良の春日大社近辺)
ホ08385 たまわれは カトリがイモト 賜われば 香取が妹
ホ08386 アサカヒメ ココトムスビの 浅香姫 興台産霊尊の
ホ08387 ツマとして うむカスガマロ 妻として 生む春日麿
ホ08388 ワカヒコぞこれ       若彦ぞこれ     (天児屋根尊生誕)

〔紀元前50年頃〕
ホ16022 ヒタカミえ シカにこたえて 日高見国え 勅使に答て
ホ16023 かえりきき ともにのほりて 帰り来き 共に上りて
ホ16024 ナカクニの カスガにいたり 中国の 春日に到り (奈良の春日大社近辺)
ホ16025 そのチチの ココトムスヒに その父の 輿台産霊尊に
ホ16026 こひうけて タカマにのほり 謂ひ受けて 高天原に上り
ホ16027 モロトモに これうかゝえは 諸共に これ伺えば
ホ16028 ミコトのり ミユルシうけて 勅宣り 御許し受けて
ホ16029 をがむのち フタキミかえる 拝辞む後 両公帰国る
ホ16030 モトツクニ ココトムスビは 本国 興台産霊尊は
ホ16031 うらなひて ヨキヒにちなみ ト占ひて 吉き日に因み
ホ16032 とゝのゑて ことほきをえて 整ゑて 祝き終えて
ホ16033 むつましく コヤネはアメに 睦じく 児屋根尊は天に
ホ16034 つかえます いつしかヒメも 仕えます

参考文献:吾郷清彦訳解『全訳秀真伝』(新国民社)


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