2000.12.8版、初版1998.8

東田大塚古墳は

 纒向の東田(ヒガイダ)大塚古墳の発掘ニュースがありました(1998.3)。この古墳は全長100m近い纒向型前方後円墳です。240年頃の築造ではないでしょうか。今回は東側の農道整備に伴う調査で地表からは不明な幅約21mの周濠が確認されました。同古墳は今まで纒向3式期とのことで、今回は濠の最深部(1.2m)の底近くで布留0式の土器が見つかったため、箸墓古墳と比べて同時期以前と考えられます。

 以下、纒向の古墳6基(纒向石塚、ホケノ山、東田大塚、矢塚、勝山、箸墓)の被葬者と編年に関する私の考え(邪馬台国大和説)を示します。

 この時代は魏志倭人伝の邪馬台国時代であり、卑弥呼本人(倭迹迹日百襲姫)および男弟(孝元天皇、五十狭芹彦、稚武吉備津彦、彦狭島命)と同時代です。これら6基の古墳は、記紀の7代孝霊天皇から10代崇神天皇の時代に相当します。7代孝霊(生120頃-没190頃)、8代孝元(170-210)、9代開化(200-237)、10代崇神(219-260)、倭迹迹日百襲姫(150-247)、として各生年没年はほぼ10年以内の誤差と考えています。

 まず、ホケノ山古墳(7代孝霊120-190)、纒向石塚古墳(8代孝元170-210)、箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫150-247)については自説では動かないので除きます。

 すると、東田大塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳の被葬者は8代孝元天皇と同時代(150年から180年頃の生れ)の大和朝廷の重要人物ということになり、孝元天皇の皇后、兄弟が考えられます。

・ 鬱色謎命(ウツシコメ170-240、孝元天皇皇后):矢塚古墳。纒向石塚古墳に最も近い位置にある矢塚古墳とします。

・ 五十狭芹彦150-250:勝山古墳。日本書紀の崇神天皇10年にも名が見えて長生きであり、後で追加した様な位置と思えて新しそうな勝山古墳とします。但し崇神天皇10年の五十狭芹彦が本人かその子供かははっきりしません。

・ 彦狭島命170-240:東田大塚古墳。古事記の人名は混乱が見られるため、ここでは日子刺肩別命と日子寤間命を両方とも日本書紀での彦狭島命としていますが、彦狭島命が当時の最有力者の1人であることは疑いありません。

 次の人達は纒向地域の古墳の該当外とします。

・ 稚武吉備津彦:吉備の方にある初期の古墳として間違いありません。この時期に大和朝廷身内の吉備が強くなりました。

・ 伊香色謎命(イガシコメ190-270、孝元天皇妃):彦太忍信命(ヒコフツオシノマコト200-280、魏志倭人伝での難升米)が生まれてから孝元崩御の後に開化の后となりました。

(1) 彦太忍信命の生(200頃)

(2) 孝元崩御(210頃)

(3) 崇神の生(220頃)の順序です。

 孝元崩御(墓は纒向石塚古墳)>約210年だと、壹与(崇神皇女の豊鍬入姫)に関して魏志倭人伝の「壹与年十三」が不成立となるため、纒向石塚古墳の築年考察上の注意点となります。

・ 埴安媛(ハニヤスヒメ、孝元天皇妃):纒向とは別の於神社(於古墳)などに所縁がありそうです。


戻る


.