2001.1.1版 
神武天皇の実年代

【神武天皇の実年代】

 神武天皇は西暦の20年頃に生まれて80年頃に没した実在者であり、そして九州から発ち奈良盆地に向った神武東征とは1世紀中頃の史実である。(持論)

 神武東征の実年代については、(1)ホツマ伝の記載(特に天種子の動き)、(2)建武中元二年(57年)の遣使、(3)金印(漢委奴国王)、(4)日本書紀干支(辛酉年)、(5)讖緯説(辛酉革命説)流行時代、(6)平原遺跡出土八咫鏡、(7)全体的古代史像、これらから以下のようなことが考えられます。

 重臣(左大臣、鏡の臣、春日)である天種子は、イワレヒコ(神武)の東征に同行せず、東征後に遅れて九州から奈良にやってきます。そして神武天皇橿原即位となりました。

 東征出発から神武天皇橿原即位までの期間は、約7年です。天種子は、東征出発してから宇佐まで同行しましたが筑紫の長に着任しました。東征の間に天種子はどうしていたのかが気になります? おそらく天種子は、イワレヒコが東征中に、「このたび、アマキミ(天皇)であるイワレヒコは、筑紫(九州)から大和(奈良)に移って国を治めることになりました」というような外交上の連絡の目的を持って、後漢へ奉貢朝賀したのではないかと推察されます。またこの時に天種子は、金印(漢委奴国王)と方格規矩四神鏡(平原1号墓出土)を持ち帰ったことも推察されます。

・ 50年頃: 玉依姫かみ(幽神)となる、御鏡(八咫鏡)は川合宮(京都下鴨神社)に、八重垣剣は別雷宮(京都上鴨神社)に預け置く(ホツマ伝)。ここの「預け置く」という表現ですが、その後の使用予定があるということです。預け置いた時点でのその後の使用予定とは、「神武天皇の即位式で王権の引き継ぎを行ってから、御鏡(八咫鏡)をバラバラに破砕して鵜葺草葺不合尊の墓(平原1号墓)に埋葬する」だと思います。

ホ30015             ミヲヤツクシに  御父君(鵜葺草葺不合尊)筑紫に
ホ30016 ヒたるとき カミノオシテは  日足る時 神の璽は
ホ30017 タケヒトに ハハタマヨリも  武仁(神武)に。御母玉依姫命も
ホ30018 カミとなる カガミはカアヒ  幽神となる。御鏡は川合宮
ホ30019 ヤヱガキは ワケツチミヤに  八重垣剣は 別雷宮に
ホ30020 あづけをく                 預け置く。
・ 54年: 東征出発。

・ 57年(建武中元二年): 倭奴国奉貢朝賀(後漢書)。奴国は古代春日氏(天種子の系譜)の本拠地(春日市など所縁の地名が多い)です。使人自ら大夫と称したとありますが、ここでの大夫とは倭国(全体)王(イワレヒコ、神武天皇)の重臣で代理人ということで、天種子が最適です。

・ 59年: 東征終了。天種子が遅れて奈良に到着(ホツマ伝)。

・ 61年(辛酉年): 神武天皇橿原即位。即位の行事で御鏡と八重垣剣を用いた(ホツマ伝)。この後に御鏡を鵜葺草葺不合尊の墓(平原1号墓)に埋葬した(推察)。

・ 80年頃: 綏靖天皇即位。(ホツマ伝)即位での御鏡と八重垣剣の記載無し。御鏡と八重垣剣の記事は、神武以前では代々ありますが、綏靖以降はなくなります。既に埋めてしまって物が無いからというのが最も考え易いところです。ただし、カヌナガワミミ尊(綏靖)が皇太子(ヨツギミコ)になった時点で宇佐麿(天種子命の子)が鏡ノ臣に任命されています。八咫鏡はアマテル神の岩戸隠れ事件の頃(紀元前1世紀前半)に造られましたが、100年強のあいだ伝世して西暦60年代に平原1号墓に埋められ、それから180年ほど後の崇神天皇四年(241年)に古墳時代の新鏡が造られることになります。

 なお平原遺跡は、1号墓が鵜葺草葺不合尊(BC10−AD40頃)で2号墓が玉依姫(AD1−AD50頃)として、神武天皇の両親の墓所にちがいありません。


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【東征後に天種子が遅れて上京する記述個所】

 重臣(左大臣、鏡の臣、春日)である天種子は、イワレヒコ(神武)の東征に同行せず、東征後に遅れて九州から奈良にやってきます。そして神武天皇橿原即位となります。

ホ29239 ソフトへと ヰのホフリらも  層富戸畔と 猪の祝等も
ホ29240 ツチグモの アミはるものを  土蜘蛛の 網張る者を
ホ29241 みなころす タカヲハリべが  皆殺す 高尾張畔が
ホ29242 セヒひくて アシながクモの  身長短くて 足長蜘蛛の
ホ29243 をゝちから イワキをふりて  大力 岩木を振りて
ホ29244 よせつけず タガノミヤもる  寄せつけず 多賀ノ宮守る
ホ29245 ウモノヌシ クシミカタマに  大物主 櫛甕玉命に
ホ29246 ミコトのり モノヌシかがえ  勅宣り 大物主櫛甕玉命考え
ホ29247 クズアミを ゆひかふらせて  葛網を 結い被らせて
ホ29248 やゝころす すへおさまれば  漸殺す 総平定まれば
ホ29249 ツクシより のほるタネコと  筑紫より 上る種子命と
ホ29250 モノヌシに ミヤコうつさん  大物主櫛甕玉命に 都遷さん
ホ29251 クニみよと ミコトをうけて  国見よと 勅命を受けて
ホ29252 めぐりみる カシハラよしと  巡り見る 橿原良しと
ホ29253 もふすとき キミもおもひは  奏すとき 君も思いは
ホ29254 をなしくと アメトミをして  同じくと 天富命をして
ホ29255 ミヤつくり キサキたてんと  宮造り 皇后立てんと
ホ29256 モロにとふ ウサツがもふす  諸朝臣に問う
ホ29257 コトシロが タマクシとうむ 
ホ29258 ヒメタタラ ヰソススヒメは  姫蹈鞴 五十鈴姫は
ホ29259 クニのイロ アワミヤにます  国の色 阿波宮に坐す 
ホ29260 これよけん スメラギゑみて 
ホ29261 キサキとす コトシロヌシを 
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「ホ29249 筑紫より上る種子命」が明記されています。記紀ではこの記述がありませんが、編纂時の意図的脱落にちがいありません。意図的脱落とは、神代の事蹟やとりわけ実年代の証拠を隠したというものです。理由は先祖を延長して(大陸外交での)見栄を張るためでしょう。


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【後漢時代に「辛酉革命説」はあった】

 神武天皇の辛酉年即位は、1世紀中頃の当時の国際情勢によるものと考えています。すなわち後漢の皇帝(光武帝)の行動規範(讖緯説)に倣ったというものです。当時の実際問題としては、讖緯説に従わない者がひどい目に遭ったというような記録もあります。ホツマ伝が発見され、天種子命の記述があることによって、神武天皇の西暦61年(辛酉年)即位説の可能性は高いと考えられます。

【1】

 緯書『易緯(えきい)』中の句「辛酉為革命」の存在(現在は不明)を間接的に証明できそうな、平安時代の出来事が、江口洌著『古代天皇と陰陽寮の思想』(河出書房新書、発行1999.12)に書かれてあります。

(253頁)
>三善は『革命勘文』において、易緯に「辛酉為革命、甲子為革命」とあるとして、昌泰三年(九〇〇)の翌四年が「帝王革命期」に当たるので、次の年を延喜に改元するように請うた。

【2】

 また『易緯』の関係では、西嶋定生著『秦漢帝国』(講談社学術文庫)において、すでに後漢時代では『易緯』の内容が皇帝によって実践されていたという次のような説明個所があります。

(364頁)
>このような緯書が出現したのは前漢末のことであった。

(365頁)
>『易緯』には「帝とは天の号なり。徳、天地に配し、公位を私にせず。これを称して帝という」(『太平御覧』巻七六)とあり、

(366頁)
>後漢末の儒者鄭玄(じょうげん)が、「現在漢王朝では蛮夷に対しては天子と称し、王侯に対しては皇帝と称している」(『礼記』曲礼下鄭玄注)と指摘しているように、


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【下民(シタタミ)の歌によるホツマ伝の先行性の証明】

 神武東征の終盤ちかく饒速日軍に向けて謎歌を示した。すると饒速日尊は「流浪男はまっぴらだ」と降参した。ここの記述個所を記紀と比較することによって、ホツマ伝の先行性(先に書かれたということ)がわかります。

ホ29171 アタをうつ クニミガヲカに  国見ガ丘に
ホ29172 イクサタテ つくるミウタに  軍立 作る御歌に

ホ29173 カンカゼの イセのウミなる  神風の 伊勢の海なる
ホ29174 いにしえの やえはいもとも  古の 八重這い求む
ホ29175 シタタミの アコよヨアコよ  細螺(下民)の 吾子よ善吾子よ
ホ29176 シタタミの いはひもとめり  細螺(下民)の い這い求めり
ホ29177 うちてしやまん        撃ちてし止まん

ホ29178 このうたを モロがうたえば  この歌を 全軍が歌えば
ホ29179 アダがつぐ しばしかんがふ  敵人が報告ぐ 暫し考ふ
ホ29180 ニギハヤヒ サスラオよすと  饒速日尊 漂男寄すと
ホ29181 をだけびて またヒコとがも  雄叫びて また日子とがも
ホ29182 アメからと イクサをひけば  天からと 軍を退けば
ホ29183 ミカタゑむ ネツキユミハリ  味方笑む

 ホ29173〜177の歌はアマテル神時代の素戔嗚尊(八重垣)の苦難を暗示している。

ホ07166 ソサノオが シワザはシムの  素佐之男尊が 仕業は芯の
ホ07167 ムシなれど サガのくツツガ  虫なれど 祥禍除く獄舎
ホ07168 なからんやワヤ        無からんやワヤ
ホ07169 コトノリを モロがはかりて  勅宣りを 諸神が議りて
ホ07170 アメもとる をもきもシムの  天道悖る 重きも心神の
ホ07171 ナカバへり まじわりさると  半滅り 不純心去ると
ホ07172 スガサアオ やゑはゐもとむ  管笠・青草 八重這ゐ求む
ホ07173 シタタミの さすらやらひき  細螺(下民)の 漂逐ひき

ホ09065 イツモヂの ミチにたゝすむ  出雲路の 道に佇む
ホ09066 シタタミヤ カサミノツルギ  細螺(下民)や 笠・蓑・剣
ホ09067 なけすてゝ なにのりこちの  投げ捨てゝ 何宣りごちの
ホ09068 ヲヲマナコ ナンダはタキの  大眼 涙は滝の如く
ホ09069 をちくだる ときのスカタや  落ち下る 時の姿や
ホ09070 ヤトセぶり をもひをもえは  八年ぶり 想ひ思えば
ホ09071 ハタレとは をこるココロの  禍鬼とは 驕る心の
ホ09072 ワレからと ややしるイマの  われからと 稍知る現在の
ホ09073 ソサノオが くやみのナンダ  素佐之男尊が 悔みの涙
 記紀ではホツマ伝と似た歌がありますが、奈良盆地での戦いなのに意味が通らない実に変な歌になっています。もともと(ホツマ伝に)存在した古い歌を、意味が解らないまま誤引用したということに他なりません。

(日本書紀)

神風の伊勢の海の大石にや
い這ひ廻る細螺の細螺の吾子よ吾子よ
細螺のい這ひ廻り撃ちてし止まん撃ちてし止まん

(古事記)

神風の伊勢の海の
生石に這い廻ろふ細螺の
い這ひ廻り撃ちてし止まん

 記紀では素戔嗚尊との関連性がなく、また饒速日尊とは関係ない所にある。記紀の乏しい情報からホツマ伝の緻密な話を偽作することは不可能であり、ホツマ伝が先に出来たことは明らかです。


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文献:
吾郷清彦訳解『全訳秀真伝』(新国民社)
松本善之助『秘められた日本古代史ホツマツタヘ』(毎日新聞社)
鳥居礼著『日本超古代史が明かす神々の謎』(日本文芸社)
江口洌著『古代天皇と陰陽寮の思想』(河出書房新書、発行1999.12)
西嶋定生著『秦漢帝国』(講談社学術文庫)
安居香山著『緯書と中国の神秘思想』(平河出版社、第二刷発行1994.8.10)



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