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〜3人の息子からつぶくの子まで〜   05/8〜08/12

さかのぼること1980年の6月 福井で公文式算数教室の新任研修に入った。
その1ヶ月くらい前、指導者募集を見て、説明会を聞きに行ったのが始まりである。
古びたビルの1室で説明があり、10名弱の女性が座っていたが、説明が終わって、試験になるとぐんと減って、半分もいただろうか。
説明した男性が、当時金沢局長の、宮一さんであったが、説明を聞きつつ、だまされてないかなあと、半信半疑であったことを覚えている。
新任研修は、金沢まで行った。当時、福井にはまだ事務局はなかった。

教室を開設した9月には、自分の息子を含めて、10人あまりだった。

 福井の56豪雨(昭和56年、1981)
 雪が、12月26日より降り続き、新年を迎えてもまだやまず、車も埋まってしまい、野菜は、入らず高値で、生活が脅かされるほどの積雪であった。そうめんが、上から落ちるほどの隙間のない降り方には、恐怖さえ覚えたし、雪でガラスが割れないように1階は雨戸を閉めて、暗かった。これ以上は、危ないと大家さんが行ってきたので、私も屋根に上がり、雪下ろしを強いられた。
夜10時から、2時までの4時間かけて、雪下ろしをした。屋根から見ると妙に不気味な明るさだった。小学校の体育館が危ないと、父兄が動員され、雪かきをした。
始業式前、ついに家の前にブルドーザーが入り、雪を取っていったが、一晩に角の家から次の角まで位しか取れず、道も半分の広さしかないので、両脇は、高い雪山で、道まで降りるのに階段を作ったりした。
 日曜日は、足羽川に雪捨て、新聞には、大きく「雪捨てサンデー」と出て、みな、疲れ果てていた。
スコップ、波状スレート(屋根雪を滑らせて落とすためにスレートを数枚つなげて使う)がついに売り切れた。
鯖江の体育館のかまぼこ状の屋根が、雪で潰れた。想像できない雪の恐ろしさを知る。
福井木田小学校の体育館の雪下ろしに父兄が借り出された。

鉄道も動かず、ホームは、雪の山。公文の新年会は、町まで、歩いて行った。
3学期の開始が、どんどん遅れ、ついに20日まで、自宅待機であった。
ひどい目にあったが、自宅を教室にしていたので、子供たちは、休まず歩いてきた。



ブルドーザーが一晩かけて、やっとこれだけの道を作った
電線に首をかけそうになり、また学校の始業式が延びた          
一晩で廃墟の町と化した。スコップの長さでこの雪の多さがわかる




積雪量は486cm  山間部は、孤立する村が出た 
山間部には、ヘリで食料を運び入れたりするのが、ニュースで流れた。

 


 1年後、正資格(生徒数30人以上)が取れた。30人集まるまで、仮資格のままの人もいて、ロイヤリティが高く、結構、厳しかった。

口伝てで1年で、60人近くになった。当時は、「公文」を知らない人が多く、くもんと読めず、「こうぶん」といわれたりもしたし、公文をしているというのすら、恥ずかしい気がしていた。まだ、「算数数学教室という看板だったが、単科で60人近く集まったのは、よい方だった。いまなら、英語国語併習者がいるので、軽く100人はいくだろう。
印象に残った中学2年生がいる。いまは40歳を越えている。
通知表が、2になったからとやってきて、テストをしたら、あまりよくない。計算が遅いし、ミスも多い。明らかに、練習不足であった。新米公文の先生、中2年生だが、掛け算Cから出発した(Aの足し算もやったかもしれない)。ところが、DEFと学習して、通知表が3,4、とあがったから、面白くなった。中学を卒業するまでに、I 200(中学終了レベル)を終えて、見事、県立高校に入った。また、大学にも行った。いまは、よいお母さんになって、子供に公文をさせているだろうな。と公文2世が入会し始めている現在、彼女のことを思い出す。


1981年
1年2ヶ月で、主人の転勤のため、金沢に移る。引継ぎまで、特急で、福井に通った。よい先生に継いでいただき、手放す。同じ管轄であったので、金沢を、第2教室扱いにしてもらい、スムーズに金沢の教室を始めることができたが、相変わらず、知名度は低かった。雨のひどい日に、開設説明会を開き、知人もまだいなく、どうなるかと思った。
うちの子をいれて、立ち上がり16名だった。まだ、算数単科であった。幸い、小学校の真裏の公民館を借りたので、地域に信用はあり、少しずつ増えていった。国語を始め、英語も数年後始める。そして、1996年3月まで、転勤族なのに、同じところで、教室ができた。金沢で開くとき次の局長が、転勤と入っても、少なくとも3年はやってもらわないと、、、と釘を刺されたが、なんと北陸15年表彰を受けた。
当時幼児年間150人以上指導したご褒美に、木製の積み木(外国のいろいろな形のハウス)を1回だけいただいたが、今も大事にしている。1ヶ月平均12、3名指導したことになり、今では、想像もつかない。
 公民館を借りて教室をしていたので、看板をあげることができなかったが、口コミで、人数は少しずつ増えていった。
場所は、金沢の南に位置し、家から、2キロほどの、隣の小学校区であり、中学は、同じ校区であった。

 ある冬のこと
あまりの雪で、夜11時ころ、車を置いて、家まで、雪明りの中を荷物を持って歩いたことも何度かある。
雪明りは、とても明るく、でこぼこの雪道で所々高い雪の山ができていて、道が途切れていて、歩きにくかった。
車を駐車場の真ん中に置いたりしたら、教室が終わるころには、車は、すっぽり雪の中、車に近づくまでが大変、ズボズボはまり、やっと辿り着いたかと思ったら、鍵穴が凍っていて、鍵が入らない。サイドブレーキを引いていたら、凍っていて、サイドが下りない、一度は、フロントガラスの氷が、溶けず、ワイパーでもとれず、かける水やお湯はなく、右も左も雪の壁、「鎌倉」状態、フロントのほんの少しの隙間から見ながら、そろそろとタイヤを転がすように帰ったこともあり、雪のないところの人には、想像もつかない、過酷な雪と氷との闘いである。
 凍結の夜、細い道を右折しようとハンドルを左にまわして、右に切ろうとしたとき、切れず、ズズーッと、左の側溝にタイヤを落とし、家まで、歩いて帰り、周りの人にタイヤをあげてもらったこともある。
また、この時期、みな、長靴、雪はね棒(ガラス拭き棒のような)と、スコップは、必ず車に積んでいる。
雪にタイヤをとられ発進出来ない光景もよく見かけ、私も何度か経験した。
こんなときは、みな、車にダンボールや、マットを積んでいて、タイヤの下に敷き、自力で脱出したり、後続の車の人が、押したり、それはそれは、大雪の日は、あちこちで、トラブルが続出。車が、脱出できたら、止まらずにお礼だけ車の中から言い、そのまま行く。
かなりの勢いで、タイヤが回り、汚れた雪を、押してくれた人にバットかけて、ありがとーと走り去る、なんと、失礼な、、、。でも、また動かなくなり、迷惑かけるよりまし。雪の山に、なぜかスコップが、ぽつんと。自分のスコップを置いていく人も。いやはや、考えられない世界。
バスも車も、動かない。みな、遅刻。歩くほうが速い。金融機関などは、天気予報を見て、前日から、泊り込む。
雪の朝は、眼が覚めると、静かで明るいので、胸騒ぎ、慌てて起きる。どこかで、雪かきのスコップの音がする。
飛び出して、雪かき。登校、出勤前は、雪かき時間がいる。
家の前、車の回り、車の屋根雪おろし。汗びっしょり。余分な仕事である。一番に出かける人が大変。雪が多いと、一人通る道がやっとだったりして、すれ違ったり、荷物や、ごみを持ちにくい。譲り合ったり、横歩きしたり、細かな苦労が多い。
出かけようとさっと出られる南国はなんとありがたいこと。                   (05/8/27記す)

 子供たちのふるさと金沢

いつの間にか、14年が過ぎていた。長男は、北海道に行った。次男は、広島へ行った。三男は高校3年になった。
ついに、大きな転勤が来た。札幌であった。すぐさま、わたしは、喜んだと思う。
研究大会で、おつきあいが始まったK先生、そして、長男がいる札幌に魅力があった。
長男が「一度は生活してみる価値がある町だよ」といった。
K先生もおいでよと、喜んでくださった。、
三男が卒業するまでの1年は、教室を頑張ることにしたので、主人が先に行き、単身生活を始めた。、
事務局に、まず、告げて、内々に引き継いで下さる方を探し始めた。
そのときは、150余りの教科数があったので、告ぎたい人が名乗り出たが、許可が下りなかった。
テニスの仲間である、ペアも組んでいたK先生に、まず告げた。事務局から、OKをもらった。
公文の仲間で、夫婦でテニスクラブを作り、よく試合にも出た。当時の局長もテニス愛好者で、団体戦にお誘いしたこともある。そのころから、子供たちも共通のスポーツをするようになり、今に至っている。
のちに、「お嫁さんも、花嫁修業より、テニスできる人が条件ね」といってたら、見事、条件に合った。
いまでも、うちは、みな離れているので、なかなか実現しないが、集まると、アルコールよりも、テニスを楽しむ。

 金沢は、「日本列島ここが真ん中」というラジオ番組があったくらいくらい、どこにでも1日あればい行ける。
京都、伊勢、高山、黒部、木曾、松本、長野、軽井沢、清里、小淵沢、上高地、乗鞍、霧が峰、どこでも休みごとに行った。
今となったら、かけがえのない思い出である。親戚や友人が、九州から出てきてもあちこちつれて行った。
このころの夏休みは、決まって、蓼科に行き、テニスをした。
「お嫁さんも、花嫁修業より、テニスできる人が条件ね」といってたら、見事、条件に合った。

 あまりに長くいたので、友人との別れがつらかった。子育てをした、歴史の街、美味しい町、美しい町、いろいろの思い出がある町で、いざ、離れるとなると、残りの1年を大事に過ごした。
しかし、より魅力のある札幌に住めるのは、もっとワクワクした。          

 あこがれの札幌へ
 車の後方にぽつんと見送る息子がいた。よそに行った子供に送られ家に帰ったことはあったが、こちらが送られて、金沢を去るのは、妙な気持ちだった。暗くなった金沢を出て、北へ走る。もう金沢に住むことはない、金沢があまりに長すぎたので、その思いもひとしおだった。直江津まで走り、、真夜中発のフェリーで、翌日北海道岩内着。
まだ、白かったであろう褐色のものが、道の両側に汚く残っていた。
さあ、いよいよ、札幌の生活が待っている。1996年4月のことであった。     
北海道では、まだまだ冬の4月。岩内の空気が、ピーンと冷たかった。
新居は、地下鉄東西線南郷13丁目を降りたところのマンションで、傘いらずの恵まれた環境が大変ありがたかった。
雪国が、長かったとはいえ、雪質が違い、古都金沢とは、まったく正反対の北海道気質も新鮮だった。
車で雪から脱出できない怖さを味わった北陸と違い、止まれない恐怖感もあるのかと、さらに、怖かった。
南郷通りは、よく救急車が通るし、マンションの7階からは、ぺシャッと金属が潰れる音がして、覗くと、アイスバーンで、信号で止まれない車が、前の車に、べシャッと突っ込んだ光景を見たりした。
北海道の車は、白い車であろうが、、、雪と油で、ツートンカラーになり、パトカーみたいに見えたりして、汚れているが、洗いもしない。車体が、引っ込んでいても修繕もせず走っている。西部劇の汚い車みたい。
そんな雪にもめげない、真っ青な空、蒼い澄み切った空を見ると、心は晴れる。
これが、鉛色の北陸と違うところで、マンションにいたら、暖かくて、室内では薄着でいて、空は明るいし、快適である。室内ばかりにいても、ストレスがたまらずによい。地面に雪があるのを忘れさせてくれる。
雪に閉ざされて、憂鬱になる北陸とはここが違っていた。その代わり、4月末まで雪が残る。

to be continued 2006/3/12

 札幌で3つ目の教室開く    
札幌の人になれて、とってもうれしかった。2週間くらいして、公文札幌事務局から、連絡が入り、厚別区の教室を引き継がないかと言ってきた。地下鉄東西線の南郷13丁目のマンションに住んでいたので、7キロのところで、近くはなかったが、冬も地下鉄が使えるので、OKした。
5月から、もみじ台北教室を引き継いだ。子供達は、20人もいなかった。
K先生が、もっと他の教室はないのかと掛け合ってくれたが、また、転勤する人だからと、、、結果は、正解だった。
子供達は、教室に学習に来たというけじめはなく、プリントに向かう姿勢から、やり直した。
名前を書く、時間を計る、プリントを途中で止めない、という基礎的なことから、始まった。

時々K先生の教室を見せていただいた。千歳にあった。T教室は、子供達も多く、活気があった。35キロほど離れてはいたが、そこは、北海道、信号もなく、いつもスムーズに着いた。金沢の所要時間の半分以上も短い。
私の教室は、3ヶ月ほどして、子供達も、学習になれてきて、進み始め、人数も増えてきた。(1996/8)
軌道に乗って、生徒が増え始めた。お行儀も、プリントもきちんとできるようになってくれて、やっと、自分の教室になってきた。
札幌事務局の行事にも参加して、20周年の祝いに「よさこいソーラン」を踊ることになり、練習をした。
転勤したくないなあ、動きたくないな。

 大分舞鶴高校の卒業生名簿を見て、同窓会を思い立ったら、なんと結構いた。10数人。拓銀の先輩や、大学の教授や、九大でなくて、当時珍しく北大医学部を受けて、胃腸科外科を開業している同級生Kさん夫婦ともよく会った。
山大で医長をしている同級生の妹さんが近くに住んでいて、仲良くなり今も季節になると、ジャガイモを送ってくれる。

南 高節(こうせつ)のお姉さんもいて、多彩だった。1年半に4回も集まった。みな、九州を礼賛した。
「北海道の蚊は元気なくて、よく刺せんのよね。九州の蚊は、食いついて、ぶらさがっとるもんね。」なんて。
九州を捨てとったのに、懐かしくて、すぐ参加の返事を出したという。大分川に飛行機が落ちて、授業中見に行ったなあ、などと思いで話に花が咲いた。
毎日が、楽しかったが、思いがけず動かざるをえなくなった。2年足らずであった。
心は残り、九州に帰っても、気持ちは、ずっと北海道を向いていた。
その年の研究大会では、よさこいソーランを踊るとのことで、踊りのテープまで送ってもらって、東京の会場で、参加させてもらった。

 久留米で4つ目の教室を開く

久留米に落ち着いて、
8ヶ月も待たされ、やっと、八女うのいけ教室を引き継いだ。家から12キロ南に下ったところで、車で20分かかる。札幌の感覚では10分で行ける距離なのに、九州は、道が細く信号が多いので、完全に誤算だった。
札幌の感覚で「遠くても、どこでもいいです」といったのがいけなかったかなア。
待たされている間に、生徒がどんどん減って、22人になていた。教科も30余教科くらいだった。
なかなかふえず、3年したら必ず増えますと地区担のO氏が言ってくれたように、3年すると2倍に増えてた。
2001年10月、元簡易郵便局に移転、公文なら、貸しましょうと言ってくれた。

 つぶく南教室を開く
急に話があって、2003年5月、つぶく南教室を開く、5つ目の教室である。
八女と同じ、80教科くらいと聞いていたが、引き継いだとき40余教科くらいに減っていた。
おしゃべりをする行儀の悪い子が残っていた。
3月までにさらにもう一度減った。
なかなか、自分の思う教室にならなくて、面白くなかったが、1年近く経つと少し雰囲気が変わり、きちんと学習できる子達が増えてきた。
05/10/26記す)

ワープします。
2006/8/13
昨日は、北陸の旅のシミュレーションしてました。
倉敷に住む次男が、900ccバイクで、生まれ育った金沢に。
いま、郡上八幡、いま高山の高原、いま金沢に入ったと。私まで、映像が、よぎる一日でした。
急遽、私の友達の家(江川邸)にお泊りすることになり、「今食事中」とかメールが入り、こちらでも、どこで食べてるのかなあ、と話していて、
「天吉」のてんぷら懐かしいねと家で話していたら、やはり、そこに行ったんですって。
食事まで、シミュ〜でした。(それを聞いた三男が、あ、どじょうの唐揚げの店だ、と)
泊めていただいて、ご馳走になり、思い出話に花が咲いて、、、、と、私も臨場感があって、楽しかったです。
友達は、転勤で得た私の財産です。

さあ、今日は、どこにいくのかしら、、、。

なつかしや、
81年〜92年に住んだ家
子供が育った家を撮ってきてくれました。
下記に長男のアップを記す。
能登に回り、「時国家」この一家は
サッポロビール社長・ロッキード事件の裁判長など輩出しているようです
息子3人が卒業した富樫小学校
転入の日、市役所の手続きより先に学校に行き、先生方が、戸惑った。
息子3人が卒業した高尾台中学校
寛の900ccバイク


このまえの「豪雨」では、30年前、富山、宇奈月、欅平で、九死に一生を得た思い出を話しましたよ。
あの豪雨の怖さはいまも脳裏に焼きついています。宿の前の山が我々が通って宿に入りまもなく崩れて道がなくなり、ライフラインが切れて、宇奈月とも連絡が取れなかったあの悪夢の一晩、忘れられない恐怖でした。
幼児を連れた家族は、優先的に部屋へ、でも服は濡れたまま、布団には横たわり、豪雨の音と宿の下を流れる川音のゴーゴーなる音を聞きながら、あんなに朝が来るのを待ったことはありません。宿の方が出してくれた白いおむすびを思い出します。
翌朝、救助隊が来て、崩れた山にくいを打って通れるようにしてくれて、子どもは背負ってもらってやっと、向こうの道に下りました。トロッコ電車の枕木の隙間から、濁流が見え隠れして、ぞっとしました。
お盆になると思い出します。だれか守ってくれたんだなと。

また、今日は「8月ロンドン封鎖」も一月まえなら、直面していましたよ。
居ながらにして、シミュレーションのお盆です。

今日は、三男が、実習が終わり、引越しして、帰ってきます。4ヶ月おっつ〜〜でした。

次男は、このあと、能登、魚津、松本、富士山、焼津、浜名湖をまわり、帰宅。2400キロ走破したと。
お盆は、みんなで、うちに来ました。

 次男がブログにアップした懐かしい古家の画像を見た長男が一言アップ、
「ダメだよ、人の家を勝手に写しちゃあ(笑) なんてね、懐かしい・・・。 「この窓は・・・あ〜この部屋だ」なんて感慨に耽りました。 初めて足跡を記させていただきました、アニキでした。」

次男の話を受けて、私も急に思い立ち、9月に金沢へ またお友達のEさん宅に泊まりました。
新しい道ができていて、驚き、あっというまに、金大、津幡方面へ
友達のSさんは、福井鯖江からでてきて下さいました。お土産店を営むMさんのお店で、長々おしゃべりしました。

金沢、鶴来にて
山科クラブのみなさんと お昼を食べてテニスに興じて 楽しいひと時を過ごした
昔の仲間はいつ行っても温かく迎えてくれて いいもんだなあ
あのひとの あのフォーム 変わってないなと試合しつつうれしくなった
みんなに こちらに出ておいでよ といってもあなた一人が動くほうが早いから 
でてきまっしね と。



2008/3/19
長男家族が名古屋に転居するとのことで、引越しの手伝いに行った日のこと。金沢の江川さんから、真君に伝えて、と中学の同窓会の知らせがあった。
ちょうど本人がいたので、代わると、5月の連休に同窓会があるとのこと。息子は、金沢の友達とずっと連絡を取っていなかったので、大喜び。携帯番号を伝えておいたところ、早速、その夜に友達から連絡が入り、急に金沢弁になり、その日は、同窓会の打ちあわせ中とかで、次々に電話を代わり懐かしがっていた。
「北海道から、名古屋」九州に近くなったから、「連休全員久留米集合」という計画は、久々に息子の歓喜の声を聞いたら、消えてしまった。
5月の連休には、車で出かけて楽しんだようだ。もう皆いいおっさん。「昔住んでいた円光寺の家に行って、シャメを撮ったよ。そこの家の人が出てきたら、20年前この家に住んでいましたというつもりだったけど、出てこなかった。道があんなに狭かったのには驚いたよ」と報告があった。なんと、2年前に、弟が行ってシャメを撮ったときと同じことしたってワケ。
やはり、小2から、高校卒業まで、住んでいた家だから、懐かしいよね。

今名古屋出たよ。」「西インター降りたよ」「今から江川さんちに行くよ。」「いま江川さん宅を出た。」「名古屋に帰り着いた。」と3日間いろいろ報告を入れてくれて、私まで、行ったような気がした連休でした。ありがとう。

母の日に娘その1から、カーネーションが届きました。ありがとう。5/11



 2008年、うのいけ教室10年、つぶく南教室5年を迎える。