2010/12/31  シズコさんを読んで

佐野洋子著「シズコさん」を読んでいると、まったく同じ性格の描写がでてきて、うなずいて、こんな性格の人がほかにもいるんだと、思ったことが、この話を書くきっかけになった。

シズコさんの家族、環境、生活は似ていないが、まったくその通りとうなずける箇所が、いくつかあった。

おしゃれで、身につけるもの、ヘアスタイルはいつも気にしていたから、よくデパートに行っていたし、私も、子どものころから、よく連れられて行っていた。お昼には、よく食堂で食べた。

日曜日は、きまって映画に行っていた。大映、松竹、たまに東映。市川雷蔵、大川橋蔵、などの時代劇や、山本富士子、若尾文子、また、駅前シリーズ、じゃんけん娘シリーズ、ひばり、チエミ、いづみなどほとんど観ていた。このあたりは、シズコさんとは違うがけれど。

「人に質問したりしなかった。命令だけした。その指令がが希望通りにならないと狂暴になった。私もふと油断することがあった。、、、学校であったことなどふと母に話しかけたりすると、、、、、うるさがられて、、、、しまった油断した、言うのでなかったと、、。そして、わたしは母に何も報告をしなくなり、それは一生続いた。」

このくだりは、とてもよく似ている。狂暴にはならなかったが、機嫌は悪くなった。学校から帰って、こんなことがあったと、話をはじめると、後で話しなさいと嫌がられた。

子どもは、帰ってすぐ、母親に話したいものだが、よく、へし折られた。しまった言うのでなかった、油断したと思うことがよくあり、大人になっても苦い気持ちは続いた。

数人で話しをしていても、さっと方向を変えたり、それは、シロとかクロとか、きらい、とか言うので、空気がしらっとしたりすることもあり、横で、取り繕えず、あまり連れて行きたくないようになった。

私には、反面教師であったからよい勉強になった。周りの空気を読むようになった。所詮同じ穴のムジナだから(同じDNAだから)他人から見ると、同じ人種に見えていただろうが、、。

姉妹が、この性格がよく似ているから、その子ども達(つまりいとこたち)の感覚は同じで、いまだに、いやだねえあの性格と話す。

だから、何かの集まりに行っても、輪に入らず、つぎは嫌がり行かないし、批判をはじめる。先入観が並みでなく強いので、初めから行かないこともあったし、「死ぬほどいやなことはめったにないから、慣れるよ。行ってみて、いやなら、やめればいいのよ」と言っても、行かない。友達はできない。それでも、性格をわかっていて、付き合ってくれる人は、ひとり、二人いたが、後年、その方も、意見を曲げないから、人が去っていったということを言っていた。

妥協はしない。悪気があったのでないから、あやまらん、とわけのわからないことを言っていた。悪気なくても結果よくなければあやまらにゃいかんのに、変な理屈というけど、言うだけムダであった。。

「ごめん」「ありがとう」が、辞書にない人であったが、施設に入り、世話をしてもらうようになると、気に入った人には、ありがとう、ありがとうとよく言っていた。シズコさんに似ている。施設に入って、一生分ありがとうを言ったとのことである。

私が「ごめんといっても何もへらンやろ」というと、よくけんかになった。終いには、あんたのように、だれにもあわせて、と私を批判にかかる。それは、だめ、とすぐ言い、友達の批判もするので、私も言わなくなったし、行動も話さなくなった。やがて、私は、ひとりで行動するようになり、外であった話もしなくなっていった。子どものことが心配だろうが、度を越していて、管理主義であった。やはり、教師上がりで、似た環境の友達と、「今なら、とっくに不良になってるね。」と話したものだ。


今年は、喪中なので、お節は作らないが、数年前まで、母が張り切って作っていた。ごく最近は、ほとんど私が作り、かまぼこなどを切ってお重に詰めたり、味見をしていた。

もっとまえは、お重に詰める品を書き並べていた。1の重は、練りもの、2の重は、野菜などの煮付け、3の重は海のものと分けて、材料を買って来て、かずのこ、田作り、黒豆、えび、煮しめ、昆布巻き、卵料理は、あれこれ。卵を裏ごしして錦糸卵、ゆで卵を紅色に染めたり、ゆで卵を箸に挟んで、ゴムをして、梅の型にしてみたり、子どものころは、それの味見をしながら、作るのを見ていた。主婦の友を見ながら、黒まめの作り方を変えてみたりしていた。寒天が好物の私は、淡雪寒天を作ってもらっていた。味見をしすぎて、よく注意されていた。お正月は、一番母のことを思い出すことが多い。

特にうちの味は、田作り。カタクチイワシの生干しを乾燥させたものを使い、鉄のフライパンで、ゆっくりと炒る、ぱりっとなってみりん、しょうゆを煮立てて、泡が出だしたら、炒ったいわしをいれ、ジュッといわせて、酒と油をすこし入れて絡める。これが、美味しくておいしくて、子ども達もよく食べていた。だ。田作りだけは、今日も作って、息子を待っている。

中三で、父が亡くなってから、母と二人では寂しいので、毎年、母の実家で正月を過ごした。10年近く続いた。越路におば達もきていた。教育者の家なのに、集まると決まって、花札をしていた。従兄たちも一人っ子が二人いたので、仲良く遊んでいた。何十年もまえのこと。

金沢に住むようになってからは、家族6人で、元旦だけは、家で迎えて、2日からは、越前海岸にズワイガニを食べに一泊していた。長男が幼稚園くらいから、毎年、これも10年くらいは続いた。宿の方には、毎年お年玉をいただくくらい常連であった。

数年前、10数年ぶりに友達を案内して、金沢、福井に行き、「ひでたけ」のズワイガニを思い出して行った。奥さんも代わらずお元気であった。「お母さんも坊ちゃん達もお元気ですか?」と覚えてくださっていた。次男が、いつか北陸への途中、懐かしくて、バイクで通ったと。あとで聞いた。寄ればよかったのに。


12/31  趣味

女学校では、音楽と体育を教えていた。母、30歳代〜別府にいたころ、華道を始めて、うちに先生がやってきていて、近くのおばさんたちが、火曜日に来ていた。小学生の私もみんなのあまった花を使ってよく生けさせてもらっていた。

私は、小さいころから踊りが好きで、蓄音機をかけてよく踊っていたから、バレーを習いたかったが、将来性がないと、ピアノを習わせられた。木曜日が憂鬱であった。未だに木曜日が好きではない。トラウマ。

母、60歳代〜金沢に長いこと住んだが、和紙人形に始まり、本格的(はさみなど使わず、すべて指で裂く)ちぎり絵を習いに行っていた。作品展によく出していた。根を詰めてすると、翌日は、血圧が上がって、頭が痛いと寝ていた。

次は、デコパージュに凝って、熱心に作品を作った。とても丁寧であるから、じょうずに仕上げていた。中でも、ノイシュバンシュタイン城、ローチェストは商品になりそう。遺作である。北陸の冬は、あまり外に出られないから、ずっとコタツで作っていた。お菓子の箱などに、色を塗ったり、紙粘土を入れたりして、装飾して、ただの箱が、生まれ変わっていた。宝箱がたくさんできた。

2011/1/13  髪は額縁

母は、よく美容院に行っていた。施設に入っていた90歳過ぎでも、呼び出されてよく連れて行っていた。

若いころからも、こどもの私を連れて行った。頭をきちんとしていると、きちんと見える。絵の額みたいなものだった。

お化粧もきちんとしていた。私よりも化粧品にお金を使っていた。資生堂を何十年も使っていた。

女学校にでているときもモダンだったと、教え子の方はおっしゃる。新任の女学校では、寮の舎監をしていたが、年があまり変わらない生徒の世話もしていたので、慕われていたようだ。

戦前のよい時代であったようだ。

当時、台湾からの裕福な女学生が、数人、留学してきていたので、親元にあまり帰られないから、特にかわいがっていたようで、卒業後、帰国してもずっと交流は続いていた。

珍しいお菓子やお茶(ウーロン茶)がよく送られて来ていたし、旅行にもきていた。別府に住んでいたころ(1968頃)、その弟さんが来たので、地獄めぐりに案内したことがあった。

80歳を越えると一人では不安だと、姪を伴って、台湾の教え子に会いに行ったりもした。

札幌に住んでいたとき(1996)には、別の教え子の母子が来て、観光バスで、滝上の芝桜を案内したこともある。

2/16    手作りマーマレード

母はよくみかん(ザボンなど大きい柑橘類)からマーマレードを作っていた。

久しぶりに大きな三宝柑をいただいたので、皮をきれいに洗い、透明になるまで、火に掛けて、苦味が減るまで水を替え、砂糖を入れて煮詰めて、久々に食べた。

ホームベーカリーが10年以上使って、中釜から水が漏れ始めたので、やっと新しいのが買えると、うれしかった。

やはり、進化していて、前のよりは、軟らかく、サイズも1斤、1.5斤、2斤も焼けて、早焼きができる機能と、具をいれるタイミングブザーがついていて、助かる。マーマレードを入れて、紅茶の冷したのも入れて、美味しいのができた。

母が作るおやつで、子どもの頃のおやつに、「じるやき」と称するホットケーキ風のを焼いてもらっていた。単に小麦粉に砂糖や父が好きだった黒砂糖を入れて、フライパンで焼いたもの。美味しかった。

また、片栗粉を水に溶かして、上から少しずつ熱湯を注ぎながら、砂糖を入れて、どんどん混ぜると、増えてふえて、美味しいおやつだったが、熱湯と混ぜ具合が、悪いとトロトロに増えてくれなくて、失敗していた。今は、上等な葛湯がそれにあたる。

3/4    何でも反対

私の子どもの頃から、常に、母の敷いたレールがあって、その上を歩くようにいつも注意されていた。

よって、希望、提案は、受け入れられたことがない。

ことごとく反対、言うことを聞かないと親の罰が当たる。

天の罰は、すぐ当たり、親の罰は、自然罰、どっちだったか、とにかく罰が当たるといわれて、行き先を阻まれてきたので、言っても、返事がわかってきたからだんだん、あれこれ、話をしなくなったが、子どもの頃はバチがこわかった。

出かけても、すぐ呼びに来る。「いつまで行ってるの!何時間も。」が口癖だった。

大人になっても、行き先に電話を掛けてくる。「いつまで行ってるの。何時間も。」

だって、家にいたら、窮屈、怒られてばかりいるもの。自然そうなってくる。一人っ子だから、友達が宝物でもあった。

なんでも、プレッシャーを掛けたので、本番に弱くなっていた。トラウマになって、強迫観念が育っていた、最悪!よそのドンマイ母さんがうらやましかった。

あまり、言うので、「期待せんでよ!」と反発したら、「期待しないでどうするね!」と世にも怖ろしい答えが来た。二の句が告げない。

どんどん、ドツボに入っていった。

いつだったか、もう30才の頃歳、卓球の試合に出ることになって、初めて、ペアを組むことになった先輩のお友達が、うちに電話を掛けたら、私がいなかったそうな。

母が出て、そっけない返事で切ったとか。(電話に関しては、まだ話があっても、自分の言うこと言ったら、すぐ切る。)

私が帰っても、かかったともいわなかったら、次の練習日、その方が、「あなたのお母さん、よっぽどあなたを取られると思っているのかねえ。」と言った。自分の見えるところにおいておきたい偏った愛情?

そのくせ、スキンシップはない、無償の愛を掛けられない、掛け方がわからなかったのかもしれないが、無条件よしよし、はない。

犬にスキスキちゅっ!的なことができないので、動物飼うときは、大変。母が87歳の頃、犬を飼うといったら、激怒して、「私が死んでからにしてと」いった。そのとき飼ったシュナウザーワク君いま8歳、「孫が強引に飼えば大丈夫だと」三男が強行した。見たら、可愛いね、とは言うが、さわれない。生理的に受け付けなかったのだろう。

3/6 父亡くなり、母がんばる

私が中3のとき、父が胃がんで他界した。自分だけそれを知って、病院の帰りに父と食事をして、のどを通らなかったと言っていた。母は46.7歳の頃で、もう私はとっくにその年を越えているが、途方にくれたであろう。

父は、繊細で、食事にも気を遣い、食べすぎを気にして、よく薬を飲み、体をいたわっていた。酒もタバコもしないのに、どうして父がと不公平に思った。寒い樺太、北海道で、辛いものを食べた。気が短くて、胃に負担をかけたなどなど。父の命、母の分10年もらいたかったと思ったりした。(父の年+10年、母の年ー10年?)

「上の学校に行かないで、早く母さんを安心させよ」と言ったのが私への最期のことばだったような、、、。

さいわい、子どもは私だけで、敷かれたレールを進むオリコウさんだったので、その心配は、軽減していただろうが、成人するまでは、がんばらねばと思っていただろう。

私が、大学に入ってから、高校の後輩の世話をする下宿屋を数年した。偏食の母が、世話をしたのだから、みな何を食べていたのだろうか。何はともあれ、食事の世話は、大変であるが、一人でいるより寂しくはなかったようだ。

母の好物は、親子丼、すき焼き、ふりかけ、漬物、なぜかインスタントカップめん、和菓子   

嫌いなものは、ほうれん草などの青菜系、うどんなどの麺類、生野菜、中華のような混ぜこぜの物、かなり、目で食べていた。残り物はたべない。

好きなものを食卓に出すと機嫌がよく、作っておいて行っても、食べるのがなかったと、漬物で済ませていた。食べるものがないのではなくて、好きなのがなかったのであるが、、。

食にわがままで、食糧難の時代を生きたと思われない。教え子の家から、たくさんもらい物があったから、嫌いなものは食べないで済んだようだ。好き嫌いしても長生きしてる。

たくさん、いただき物をして、お裾分けしようとすると、それは、なぜか嫌がった。いつか口げんかをしたことがある。どうせあげるなら、新しいものをあげたほうがよいという私に、腐ってもあげないと反発した。

金沢の友達の義父さんが、やはりおなじことを言っていた。「もったいない」意識?

3/6 母、納骨式

母が自分用に京都の西本願寺、大谷廟の納骨所を買っていたので、4月に行くようにしているが、従姉も同行するといってくれた。また、もうひとりの従姉も思い立ってくれたとのこと。

京都に住んでいる従姉にも連絡を取ってくれたようで、40年ぶり?に初従姉会をすることになった。精進明けにどこか予約してもらおうとしたら、京都の従姉の次男Rくんが、町屋風のイタリアン専門店「リストランテM」を開いていると聞き、そちらで食事をすることになる。

従姉たちは、私より10歳以上年上なので、父や、母の昔の事を聞けるよい機会で収穫あると思う。

最近聞いた話では、

京都の従姉は、「昔、おじさんの会社の敷地内の家を借りて住んだのよ」と初めて聞いた。また、樺太(サハリン)で生まれて、終戦で、ロシアが攻めてくると小さな船で、稚内に着いたのを覚えているとのこと。

私も、北海道を去る夏に、札幌から、稚内まで、富良野、留辺蘂、サロマ湖、オホーツク海をひた走り、稚内まで、1日で700キロ、主人、次男寛と3人で、走破したのを思い出した。




宗谷岬北海道最北端北緯45度   北国のシンボル北極星の一稜をかたどった三角錐をデザインしたもので、塔の中央にあるNの文字は「北」を、台座の円形は「平和と強調」を表している。



林野庁の役人で、道庁に勤務し、樺太支庁に渡った父の足取りを見たかった。この稚内港の北防波堤ドームから、樺太に向かったのだと、記憶にないのに、その場に、その光景を見ている自分がいた。当時栄えた港に接岸している船に乗る人々の往来があった。

記念館(資料館)に樺太での人々の生活ぶりを写した写真が、たくさん飾ってあったので、ひょっとしてと父の姿がないか探したりした。大勢で、もっとよく見たら、いるかもしれない。

夕食に、たらばかにを焼いたのが美味しかったこと。太くて大きくて、脚1本を親子3人で食べるほど大きかった。3000円?だったかな。

従姉が、10歳のころ稚内に引き揚げてきたことを思い出すと。稚内に行ってみたいと懐かしんでいた。あの写真の中の父を探しに、また行きたいと私も思う。


4/2 納骨無事に終える

4月1日の深夜に、三男Yと美3さんが来て泊まり、2日朝、8時21分の快速で、博多へ向かう。大事な美竿さんを息子が抱いての旅が始まった。

9時30分の「のぞみ」で、小倉駅に15分で着き、大分からの従姉 ユキさんとサチさんと合流、車両が6号と14号で、離れているため、京都駅で会うようにしたら、なんと待ち合わせの「中央口」が、新幹線、JRとあり、どちらかわからなかった。おまけに京都着寸前、「飛遊物」が線路にあるとのことで、40分も延着、余計に駅は混雑。

なんと皆さんケイタイをお持ちでなく、会えなかった。ここで、30分ロス。こどものころの我が家で、1年くらいらしいが一緒に過ごしたことのある、40年ぶりの埼玉から急遽参加した従姉ノリさんが、私に声を掛けてくれた。「マツゲ」で、Mチャンと思って、思い切って声を掛けたと。大当たり、、、。やっと7人が出会えた。(マツゲ? 母のおかげ?)

車で、「蜃気楼」へ直行。従姉の美衛さんの息子Rくんが経営するレストランの姉妹店で、1時間以上遅れて着いたにもかかわらず、笑顔で迎え入れてくれた。

やっと落ち着いて、昔話が始まる。あのひと、この人の姉妹の近況を聞けてよかった。父や、母の事もあれこれと聞けて大収穫。

いよいよ大谷廟へ。風が強く寒い京都。受付をして、無量寿に。異次元のマンションがずらり。お坊さん2人の読経、最新式のお焼香、お焼香の器の底に、コンセントがついていて、電気が入り、それにお焼香をすると、煙が出る仕掛け。お参りが終わり、扉を閉めると、仏壇は、電気が消える。

納骨が、無事終わり、精進明けにR君の「リストランテ美郷」へ7人で移動。5時半。町屋のイタリアンレストラン、素敵だった。庭が和風で、私の好きなドウダンツツジが植えてあった。

そこへ、「出張だから、途中下車する」と山口の次男Hから連絡があり、7時前に到着。皆さんと初めて会うので、紹介。よい息子達に、みな、喜んでくれた。(大分からのユキさんとは、幾度も、母の葬儀のときもお会いしているが) 参加できなかった長男はどんなかんじ?と。3人とも似ていないかな?似てるかな?  美味しかったあ。まんぞく、まんぞく。

そこで、私のベッドを次男に提供。私は、従姉の旅館に転げ込む。和室でよかった。ぎゅうぎゅう3枚布団を敷いて、、遅くまで、思い出話にふけった。

翌朝は、三男夫婦は、お伊勢さんに。次男は、福井に。それぞれを送り、京おどり見物に。

早昼をまた、「蜃気楼」で。魚のお煮付けの美味しかったこと。昔、金沢にいたころ、七尾に行き、「ひでよし」で食べた牛蒡とアラ煮以来の味で、汁をもって帰りたいくらいだった。

金沢、札幌で、テニス友達であったOさんが、鴨川付近にいるので、でてきてもらって、京おどりを観た。埼玉からの従姉ノリさんは地震の余震が続いているから、そこで、別れ、新幹線で東京へ。3人の従姉たちは、一足先に奈良へ。私は、Oさんとお茶をして、あとで、奈良へ。

奈良では、金沢時代の優秀児美納子ちゃんが医者になっていて、1月に生まれた赤ちゃんの画像を送ってきていたので、連絡しておいたら、ホテルに可愛い七ちゃんを連れてきてくれた。

また、今は、西大寺に住む、金沢時代、家の裏に住んでいたお友達 Yさんにも連絡をすると、驚いて、懐かしがって、すぐ、ホテルに来てくれた。この日も、あっという間に1日終わった。

翌4日は、平城京の復元なった大極殿を見たくて、従姉たちと行く。昼から、西の京の唐招提寺をみて、時間切れ。薬師寺まえで、従姉たちと別れ、ひとり京都へもどる。

三男たちと京都駅で会い、一足早く帰る新幹線(4:29)を見送ったが、その新幹線が、山陽新幹線の事故のため、姫路で足止めで、2時間遅れで博多に着いたそうな。

私は、引越しとチビちゃんの入学式のため、名古屋の長男の所へ。

母の7回忌2016/10/1京都西本願寺大谷御廟
   
13回忌2022/10/4
 
 
 

墓じまい 2023/3/19
 納骨3/26
     


父母の記 それから  

越路の五婆