桜区の歴史
 桜区はさいたま市内南西部に位置し、大久保地区と土合地区の一部からなっています。

【明治22年(1884年)】
 大久保地区の由来は、上大久保村、下大久保村、五関村、植田谷領領家村、植田谷領在家村、塚本村、宿村、神田村、白鍬村の九か村が合併して大久保村をつくったもので、新村名は上大久保村と下大久保村が九か村の中で大きな村なので、「上」・「下」の文字を取って「大久保」としたということです。

 土合地区の由来は、南元宿村、田島村、鹿手袋村、西堀村、関村、与野領町谷村、新開村、栄和村、道場村、中島村、山久保村の十一か村が合併し、十と一か村が合わさったことから村名を「土合村」とつけたとのことです。

【昭和30年(1955年)】
 二村は浦和市に合併した。

【平成13年(2001年)】
 旧浦和、旧与野市、旧大宮市はさいたま市に合併した。

【平成15年(2003年)】
 さいたま市は全国十三番目の政令指定都市となり区政が布かれ大久保地区と土合地区を基盤とした「桜区」が誕生しました。

■ 地 理

 桜区はさいたま市の南西部に位置する。大久保地区と南東部を除く土合地区の大部分、即ち旧浦和市西部にあたる。
 区の西側境界線には荒川が流れ、志木市、富士見市などとの境界をなしている。また、その東側を鴨川が南北に流れる。

 区の南西部はこの二つの川を含む広大な河川敷が広がっていて、秋ヶ瀬公園、さくら草公園などとして利用されている。 区の殆どは低地からなるが、区の東部の一部が大宮台地の与野支台にかかっている。
 区の北部から東部にかけ、旧河道を示すとみられる自然堤防などの地形が見られることから、大昔には区域の大部分が現在とは逆の荒川(入間川)右岸にあったこともあると見られている。

河川・・・ 荒川、鴨川、鴨川放水路、鴻沼川(霧敷川)、油面川、櫃沼排水路、田島排水路、高沼用水路西縁、道の下排水路、作田排水路、白神川、江川
■名前の由来

 桜区名は秋ヶ瀬地区に荒川河川敷(田島ヶ原)に日本でも最大級のサクラソウ自生地がある事に由来する。歴史上の地名に基づくものではない。また、桜とサクラソウはまったく別の植物である。
 低地の広がる現区域では、自然堤防などの微高地が集落、後背湿地が水田として利用されてきた。このため弥生時代以降、様々な時代の集落や律令体制下の条里制の遺構が各地に見られる。
 また、5世紀後半から7世紀にかけて、白鍬地区(大久保古墳群を参照)や西堀地区など各所に古墳が造られた。

 律令体制下において足立郡は七つの郷からなっていたといわれ、このうち「大里郷」「殖田郷」などが現桜区周辺にあったと比定する説もあるが、定かではない。また南北朝時代以降、大窪郷という集落があったとされ、現在の「大久保地区」の地名の興りとなったとされる。
 鎌倉時代、大久保地区を鎌倉街道が通じており、2005年現在も県道215号線等として残っている。またこの街道が入間川(現:荒川)を渡る地点が羽根倉であり、こちらも「羽根倉橋」(国道463号の荒川架橋)等に名を残している。

・1350年(観応元年)、観応の擾乱に応じ羽根倉の戦いが起こり、足利尊氏方の高麗経澄が足利直義方の難波田九郎三郎らを破る。

・1920年(大正9年)、田島ヶ原のサクラソウ自生地が天然記念物に指定される。

・1964年(昭和39年)7月から1969年(昭和44年)12月にかけて、埼玉大学が浦和市内常盤地区(現:浦和区)より大久保地区へ移転する。

・1973年(昭和48年)4月1日、国鉄武蔵野線が開通し、西浦和駅が開設される。

・1985年(昭和60年)9月30日、国鉄埼京線が開通。中浦和駅が開設される。