詩人としては現在、省みられる事が少い。晩年は時代遲れの詩人となつてゐた。
私が取り上げましたのは 佐藤惣之助全集(随筆編)と(詩集上下巻)のことです。昭和18年3月30日、4月25日發刊されております。ちなみに各冊3円50銭です。室生犀星の編纂と校閲という豪華版です。
いまは地球がひつそりとして
あだかも水星の霧と曇りの真下にあるのではないか
この蘆(あし)と水のまんまんたる
片田舎の眺めを思へば
うつうつたる情怨のこもれる
又はしんめりと照り漂ふ夕の色の
青い遊星として寂寥(せきれう)ばかりの
星の時代が地球にもあつたであらう
その清らかな空中の旅よ
一瞬一千年の世界よ。
『季節の馬車』より
竜宮のちょうちんみせるほたるいか
- 詩之家
- 1925.7-。佐藤惣之助、竹中久七、渡辺修三、潮田武雄、久保田彦保。
佐藤は歌謠曲の作詞でも有名である。
- 泣くな よしよし ねんねしな
山の烏が 鳴いたとて 泣いちやいけない ねんねしな
泣けば 烏がまたさわぐ- 坊や 男だ ねんねしな
親がないとて 泣くものか お月さまさへ ただ一人
泣かずにゐるから ねんねしな- につこり 笑つて ねんねしな
山のみやげに 何をやろ どうせやくざな 犬はりこ
貰つてやるから ねんねしな
作詞:佐藤惣之助、作曲:大村能章、歌:楠木繁夫・美ち奴、發賣會社:テイチク
作詞:佐藤 惣之助、作曲:服部 良一、歌:高峰 三枝子、發賣年:昭和15年、發賣會社:コロムビア
- 山の淋しい湖に
ひとり來たのも悲しい心
胸のいたみにたへかねて
昨日の夢と焚きすてる
古い手紙のうすけむり- 水にたそがれせまる頃
岸の林をしづかに行けば
雲は流れてむらさきの
薄きスミレにほろほろと
いつかの涙の陽が落ちる- ランプ引きよせふるさとへ
書いてまた消す湖畔の便り
旅のこころのつれづれに
ひとり占ふトランプの
青い女王のさびしさよ
88/02/18 東京夕刊 社会面 03段 「湖畔の宿」舞台は榛名湖 作詞者の手紙から判明。
手紙有り難う。その後どうしたかしらと心にかかりながら、つい手紙を送らなくなつてすまない。ゆるしておくれ。
山の五月の湖はよいだろう、「湖畔の宿」は全く榛名湖のことであるが、あの中のことは全く夢だよ。あゝいふ人もあるだろうと思つたので、書いたもの。
宿は湖畔亭にして置こう。あの曲がよいので、高峰も唄ひよかつた。今になつて人がさわいでゐるが、あれは一昨年のことだよ。
作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男、映画「人生劇場 残侠篇」主題歌
- やると思へば どこまでやるさ
それが男の 魂ぢやないか
義理がすたれば この世は闇だ
なまじとめるな 夜の雨- 端役者の俺ではあるは
早稲田に学んで 波風受けて
行くぞ男の この花道を
人生劇場 いざ序幕
作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男、歌:ディック・ミネ
泣くな妹よ 妹よ泣くな
泣けばをさない二人して 故郷をすてたかひがない
作詞:佐藤惣之助、作曲:山田栄一、歌:東海林太郎
CD版「パレード」に収録されている曲。
かつて無声映画の伴奏や、下座音楽で使われていた「竹になりたや」という愁嘆の曲を挿入して、芝居小屋の感じを狙ってみたそうです。
そこで、ぐっと下世話に話を方向転換させると、話題子の好きな懐メロに「緑の地平線」というのがある。その三番の歌詞「山の煙りを慕いつつ/いとし小鳩の声聞けば/遠き前途(ゆくて)にほのぼのと/緑うれしや地平線」(作詞・佐藤惣之助、作曲・古賀政男)。戦争中から戦後にかけて大流行した。殺伐とした時代だからこそ、こうした歌がはやったのだろう。
昭和10年代、コロムビア、テイチク、キング、ビクター、ポリドール、タイヘイなどの各社では月4枚ほどのレコードを発売していましたが、自主規制していたので発売前に検閲で禁止処分になるものは数少なかったといわれています。発売後に、行政当局、軍、憲兵隊、警察、学校、その他「愛国」的諸団体から「いちゃもん」をつけられて販売禁止、歌唱演奏禁止、歌詞の改変命令に処せられるのはけっこうあったようです。すでに版を重ねてきているものでも次々と槍玉に挙げられていったのです。
富士見通り、横浜地方裁判所川崎支部と川崎市体育館にはさまれて碑があります。詩集「華やかな散歩」の序詩。
川崎宿の本陣を代々務めた佐藤家の詩人・佐藤惣之助の碑が市体育館前と生家跡とされる川崎信用金庫本店前にある。
しづかさよ 空しさよ
この首里の都の 宵のいろを
誰に見せやう 眺めさせやう
まつ毛に明星のともし灯をつけて
青い檳榔の扇をもたし
唐の若い詩人にでも歩いてもらをう
ひろい王城の御門の通りを
水々しい螢を裾にひいて
その夏服を百合の花のように
この空氣に點じいだし
さて、空しい空しい
讀めばすぐ消えてしまふやうな
五言絶句を書いて貰をう
19.諏訪町通り
八尾おわらをしみじみ聞けば
むかし山風 オワラ 草の声
わたしは熱い春の天城の天辺から火のついた鵜のやうに飛むで来た港は恋しい春の夕の港は一目見たばかりで異様に美しく埋もれてゐる
『春の港の街にて』の一節。撰文、白鳥省吾。
作詞:佐藤惣之助、作曲:陸軍戸山学校軍楽隊
- 騰(あが)れ銀翼國民の
熱誠今や天を衝く
離陸颯爽鮮やかに
翔ける我等が愛國機- 吼えろプロペラ遑なく
献機幾臺國を擧げ
君に捧げし殉血は
深山櫻に及ぶなし- 響け爆音我等が空に
敵は幾翼襲ふとも
身は隼か偵察機
すは百雷か爆撃機- 攻めよ護れよ戰鬪機
爆彈雨と降る中も
何の蚊蜻蛉一撃に
寄せ來る敵機撃ち墜とせ- 仰げ空軍堂々と
海に備えつ山に侍す
日輪更に燦きて
競へ日本愛國機
- 拜啓御無沙汰しましたが
僕もますます 元氣です
上陸以來 今日までの
鐡のかぶとの 彈のあと
自慢ぢやないが 見せたいな- 極寒零下の戰線は
銃に 氷の花が咲く
見渡す限り 銀世界
敵が頼みのクリークも
江南の春 未(まだ)しです- 隣の村の戰友は
えらい元氣な 奴でした
昨日も 敵のトーチカを
進みのつとり 占領し
もぐら退治と 高笑ひ- あいつがやれば 僕もやる
見てろ 今度の激戰に
タンクを一つ 分捕つて
ラジオ ニュースで 聞かすから
待つてて下さい お母さん
「大正歌謡誌ノート」で「上海だより」に触れたので言っておくと、この歌は戦場の現実への想像力を欠いている。たとえば、
上陸以来 今日までの
鉄の兜の 弾の痕
自慢じゃないが 見せたいな
--- 佐藤惣之助自慢できるほど兜に敵弾を浴びた兵士が無事でいられるはずはない。当然、弾は体にも当たる。こんな能天気な歌を歌って戦地へおもむ青年たちがいたとすれば、アニメソングを歌いながらサリンを撒きにいった青年たちとどこが違うか。
自分の場合を言えば、この歌はかなりの程度まで血肉化していて、今でも口をついて出ることはある。ただし、人前で歌っていい歌ではない。
「コスモクリーナー」をオウムが作つたから「宇宙戦艦ヤマト」を見てはいけない、と云つた「理屈」は屁理屈である。上の意見には個人的に贊同出來ない。
「軍國主義への協力」のせゐかどうかは知らないが、佐藤の作つた詩や歌の資料は比較的手に入れづらい。幾ら現在の御時世には副はないからと言つて、安易に排斥するのはいかがなものか。私は日本の民主主義が餘りにも寛容でないのに不滿を覺える。
朝のひかりに 頬そめて
炊(かし)ぐかまどの 火も匂ふ
新しき土地 愛の土地
夢を見るよに 嫁ぎ来し
いとしわが家の うれしさよ
『満洲開拓歌曲集 第一巻』(監修・山田耕筰、編纂・満洲移住協会 一九四〇年)。この歌曲集は作詞では、北原白秋、白鳥省吾、佐藤惣之助、西條八十など、作詞では、山田耕筰、中山晋平などの大家を擁し、満洲の地に「興亜の大合唱」(緒言)を高唱しようという意図が見える。
作詞/佐藤惣之助 作曲/古関裕而
- 六甲颪に 颯爽と 蒼天翔ける 日輪の
青春の覇氣 うるはしく 輝く我が名ぞ 阪神タイガース
オゥ オゥ オゥ オゥ 阪神タイガース フレ フレ フレ フレ- 鬪志溌剌 起つや今 熱血既に 敵を衝く
獸王の意氣 高らかに 無敵の我等ぞ 阪神タイガース
オゥ オゥ オゥ オゥ 阪神タイガース フレ フレ フレ フレ- 鉄腕強打 幾千度び 鍛へてこゝに 甲子園
勝利に燃ゆる 榮冠は 輝く我等ぞ 阪神タイガース
オゥ オゥ オゥ オゥ 阪神タイガース フレ フレ フレ フレ
今や、佐藤惣之助と云へば「阪神タイガースの歌」である。ウェブで檢索をかけると、阪神タイガースの歌(六甲颪)を掲載したサイトが數限りなく出て來る。
この歌は、佐藤惣之助作詞、古関裕而作曲。/昭和11年に「大阪タイガースの歌」として作られたそうだ。
六甲おろし
正式名は「阪神タイガースの歌」。作詞佐藤惣之助・作曲古関祐而は、巨人軍「闘魂こめて」と同じコンビである。
10問目「阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」。作詞者は佐藤惣之助、では作曲者は誰?」
問題を聞いた瞬間、「これは作った! しかも、「六甲おろし」だけでなく、「闘魂こめて」の作曲者でもあるから、勘違いはないはず。」と自信を持って「古関裕而」を解答。ボードを上げてから一瞬間をおいて、岡村さんや沼屋がいる観客席側から「おお!」という歓声が上がる。神野は「三木露風」と、なぜか詩人を解答していた。自分の勝ち抜けを信じ、解答が読まれるのを待つ。正解として「古関裕而」が読まれたことによって、私が最後のPART2進出者となった。
佐藤が後進の詩人を世に送り出すのに果した功績は大きい。
宮沢賢治の『春と修羅』が世に出た時、ほとんど世間から黙殺されたが、辻潤と佐藤惣之助だけが話題にしたということである。
生前から賢治を高く評価し、その名を世間に広めた草野心平や詩友高村光太郎、また、「春と修羅」を絶賛した佐藤惣之助など、いつの世にも世間の風評に流されない、確かな目を持つ人間はいるものだ。
ところで、『春と修羅』出版後の紹介や批評記事のうち、大正十三年分では三つばかりその存在が知られている。一つ目は出版の約十日後の五月一日付「東京日日新聞」の新刊紹介記事(14)で、二つ目は七月二十三日付「読売新聞」で辻潤が「惰眠洞妄語(二)」において、三つ目は十二月発行の「日本詩人」で佐藤惣之助が「十三年度の詩集」においてそれぞれ批評をしている。それらの記事を全て同時期に賢治が読んだかどうかは詳らかではない(15)が、いづれにせよ、早い時期に『春と修羅』は少ないながらも評価がなされたことがわかる。
- 1924(大正13)28歳
- 4月「春と修羅」1000部を自費出版。花巻温泉の街路樹、花巻病院の花壇等を造園。 8月、同校で再び生徒により「ポランの広場」他、自作劇上演公開。 12月、童話集「注文の多い料理店」を自費出版。この年、初めて辻潤ついで佐藤惣之助が誌上にて激賞。
1924年(大正13年)12月 佐藤惣之助「十三年度の詩集」(「日本詩人」第4巻第12号)
その後処女詩集「秋の瞳」が新潮社から出版される。この詩集を機に佐藤惣之助主宰の「詩の家」の同人となった。
法政大学に入学すると、はじめ詩人を志して佐藤惣之助の「詩の家」同人となり、『駿馬』などの詩集を出す。
1924年(18歳):「詩之家」(佐藤惣之助主宰)同人となる。
詩は、北原白秋、西条八十等の詩誌「日本詩人」、佐藤惣之助主宰の詩誌「詩之家」等に発表し、詩人として評価される。
朝買い物に出たついでに、駅前のNTTギャラリーで「フォト百楽」というグループの写真展を見てきた。定年を過ぎた人たちの同好会でまだ3年しかたたないとのことだったが、なかなかどうして作品は心打つ見事な出来栄えだと感じた。また別会場の書道展では、「惣之助詩」と書かれていたので、多分佐藤惣之助の散文だと思うがいい詩だった。先生が書かれたものだそうだがいい筆使いで詩も映えた。「金堂の内の、幽かな幽かな壁画、薄い薔薇色で、花を持った天人、水から上がった女體」
11.おわらの「唄」「囃子」について教えて下さい。
越中おわら中興の祖といわれる初代おわら保存会会長の川崎順二が、ともすれば野卑に陥りがちだった当時のおわらの歌詞を立て直そうと、昭和初期に小杉放庵や野口雨情、長谷川伸、佐藤惣之助、川路柳虹等の著名な文人墨客らを私財を注ぎ込んで八尾に招き、「八尾四季」をはじめとする秀歌を詠ませ、現在のおわら歌詞の基礎を築いたといわれています。
月刊「四季」(第二次)
刊行期間:昭和9年10月〜昭和19年6月 全81号
発行:四季社
……
寄稿者の一人として佐藤惣之助の名がある。
昭和16年 東京重機工業社歌(作詞 佐藤惣之助)と云ふ記述が見られる。探せばまだほかにも見つかるだらう。