- ポローニアス
- ……お、もう一度、話しかけてみよう……ハムレット樣、何をお讀みで?
- ハムレット
- 言葉だ、言葉、言葉。
父を噛み殺したその毒蛇が、現在、頭に王冠をいただいてをるわ。
即ち、「今王冠を戴くお前の叔父が、父殺しの大罪人だ」と亡父の靈に告げられて、ハムレットはなぜああも簡單に亡靈を信用し、復讐の義務
に取り憑かれたか。
ハムレットは、既に疑念を抱いてゐたのである。ハムレットが亡靈の手招きに從つて附いて行つた時、ホレイショーは憑かれたやうに、もう御自分でもわけがわからなくなつてしまはれたのだ。
と呟いてゐる。ただ、亡靈の言葉で疑念が信念へと變つただけである。
ポローニアスはハムレットの狂氣の言葉
に驚いて、しかし狂氣とはいへ、ちやんと筋がとほつてをるわい。
とあきれてゐる。實は、ハムレットは狂氣に取り憑かれたのではなく、「復讐」と云ふ名の正義を熱狂的に信じたのである。正義の命ずるところに從つて、ハムレットは世界を呪ひ、仲間を罵倒し、フィアンセを自殺に追ひやり、擧句デンマーク王と刺違へて死んでしまつた。或は、正義を熱狂的に信ずる者は、常識的で現實追隨主義的な人間の目に「狂人」の如く映る。
だが、その「悲劇」には決着がついた。ハムレットの狂氣なくしては、はづれてしまつたこの世の關節
が元に戻る事はなかつた。冒頭で、マーセラスはこの國のどこかが腐りかけてゐるのだ。
と言つた。結末で、いづれおわかりいただけませう、不倫、非道、血なまぐさい所業の數々、それに引きつづいて起つた偶然の裁き、過ちの殺人、また、挑まれて餘儀なくもくろんだ殺戮、すべては、的を射損じた惡だくみが、とどのつまり、それ、かうして張本人の頭上にふりかかつてまゐつた始終の子細。何もかも、ありのままにお傳へいたしませう。
とホレイショーは言つた。
「ハムレット」の譯者、福田恆存が晩年に書いた評論に「言葉 言葉 言葉」がある。昨今話題の「言葉狩り」については、この評論で全てが言盡くされてゐる。
ここで一言、讀者の注意を促しておきたい。といつて、大した事ではない、簡單明瞭な事だ。言葉の快、不快は、一語一語の持つ意味や定義のうちにはない、それを使ふ人の心にある。邪心がなければ、そして、それを邪推する事なく聽く事が出來さへすれば、どんな「不快用語」も不快感を伴はぬであらう。なぜ人々は「不快用語」一掃を叫ぶ人々の邪心に、そしてその彼等の用ゐる言葉に不快感を覺えぬのか、さういふ言語感覺の持主は一生「不快用語」に付纏れるであらう。
政治家の答辯が、質問者側も、答辯する側も、相手の反論を全く豫期してをらず、ただ「反撥を食はない事」を目的に「事勿れ主義」に流れ、そこにはダイアレクティクが缺けてゐる事。「チャタレイ裁判」や『四疊半襖の下張』裁判において、言葉を操る文士の側に眞摯さが缺けてゐて、寧ろ裁判官の方が眞劍であつた事。「新聞の方言」「文士の方言」そして「社會通念といふ借り物の言葉」に操られ、仲間内でしか話の通じない言葉を平氣で使ふ鈍感。
時枝誠記は「言葉は通ずる時も通じない時もある」と言つたさうだが、福田は「通じない言葉」を使つて平氣でゐる精神自體に苛立つた。そして、仲間内にだけ通じる言葉を大量生産しようとする現代の日本人に絶望した。福田は日本人の「當事者」として、言葉を論ずる手合は皆どつちもどつち
だと感じた。
『言論の空しさ』で言論は空しい。いや、言論だけではない、自分のしてゐる事、文學も芝居も、すべてが空しい。
と書いて、福田は評論活動を停止した。最晩年の福田は完全に沈默状態にあつた。
『日本への遺言』として出版されてゐる福田恆存語録を、福田は『言葉 言葉 言葉』とする積りでゐた。
編者の中村保男氏はあまりに謙遜し韜晦してゐるとしか思へない
と書いてゐる(あとがき)。しかし、福田の言葉は謙遜でも韜晦でもない。ハムレットが言葉だ、言葉、言葉
に續けて、何と言つたか。
- ポローニアス
- その、いまお讀みになつてをられまする本の、中味のことをおうかがひしてをりますので。
- ハムレット
- 惡口だ。こいつ、なかなか辛辣な男で、かう書いてゐる、老人とは白きひげあるものの謂ひにして、顏中しわだらけ、目より濃き琥珀色の松脂流出し、頭腦の退化はなはだしく、あはせて膝關節にいちじるしき衰弱を示す──一々ごもつとも、まさにそのとほり、それにしても、かう身も蓋もなく書いてしまつては、徳義に反するといふもの、さうではないか、お前にしても、このハムレットとおない年くらゐにはなれようかもしれぬ……もし、蟹のやうにうしろむきに這ふことができればな。
「言葉なんぞ下らない」とハムレットは單純に信じてゐた、と福田が思つてゐたのならば、中村氏の言ふ事は正しい。しかし、ハムレットの二重性を考へれば、福田の意嚮をどうしてそんなに單純に推測出來るか。
『言葉 言葉 言葉』では賣れない、寧ろ『日本への遺言』と云ふ題名の方が、負け犬に終つた評論家の慘めつたらしい著作みたいで、世間には受ける、と編者は考へたのではないか、と私は推測する。或は、中村氏も谷田貝氏も、讀者が「『日本への遺言』とは何か」と逆襲して來る筈も無
いだらうとたかを括つてゐたのだらう。社會通念として、『遺言』に文句を言ふ奴はゐない。だが、その「社會通念」と云ふ奴を徹底して嫌つたのが福田ではなかつたか。
事ある毎に晩年の福田が僕の言論も結局は空しかつたなあ
と言つたのを、教へ子ですら眞に受けるのだから、福田も浮かばれない。言葉が空しいのは當り前である。しかし人間は、その空しい言葉を熱狂的に信ずるものだし、言葉があつてはじめて人間は行動を起すものだ。
イデオロギーも言葉であり、空しいものである。しかし、さう云ふイデオロギーを熱狂的に信じ、それに基いて行動する人間は、寧ろ、言葉を信ぜず、輕んずる手合よりはまだ人間的である、と福田は信じてゐただらう。さう云ふ態度を受繼いだのが、三島由紀夫よりも中野重治の方が遙かに全うな文學者であると言切つた松原正氏である。
福田の尊敬する戲曲家、岸田國士に「言葉言葉言葉」と云ふアフォリズムがある。同題の單行本に辰野隆が序文を寄せてゐる。
辰野は序文の冒頭に
……
因果を究めよと澁面の
哲學先生は曰へど、そは
言葉 言葉 言葉
テオドル・ド・バンヰル
と云ふ文句を引用してゐる。この文句の後に「薔薇の花を摘まん哉」といふ享樂味をあしらつて、花の色は懐疑よりも強き事を教へてゐる。
と辰野は書く。生來洒落好きの辰野だけに、『言葉言葉言葉』と云ふ題名を見て、洒落て見せてゐるだけである。餘り意味のある文章とも思はれない。
「言葉 言葉 言葉」「kotobaseek」と云ふサイト名だけを見て、「言葉に關するサイト」とか言葉に関する情報掲載量はなかなかのもの
とか云つたコメントを安易に附けるのと同斷である。
アフォリズムの「言葉言葉言葉」に、斯る一節がある。
批評家が、自ら他人に加へた批評を讀み返して見て、常にそれが、恰も他人が自分に加へた批評であるかのやうな感銘を受ける時、その批評家は、みぢめである。
彼は、しまひに、本當のことが言へなくなるだらう。
僕もさういふ一人であるらしい。
福田がこの一節を意識してゐた譯ではなからう。しかし、示唆的な一節であると思ふ。