制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2000-01-08
改訂
2001-06-15

正宗白鳥『文壇五十年』より

かつて久米正雄が、日本はアメリカの一州となればいいといふ空論を吐露したことがあつた。これは、いろいろな意味から不可能を證明されるらしかつたが、世界が國別を撤廢して、共同團體として平和な存在を續けることを、人類生活の大理想として主唱する者は、西洋にも昔から有つたし、今日の日本にも有りさうである。温厚な平和主義者馬場恒吾氏は、先頃讀賣の社會時評に於て、そんな空想をまことしやかに述べてゐたやうであつた。徳川封建時代に獨立國家のやうな存在を保つてゐた各藩が解消して、日本大帝國として統一されたやうに、世界が國別を捨てて大人類社會として統一されることを空想するのであつた。

何千年か何萬年か、遠い將來にはさういふ世界が出現するかも知れない。それは死後の天國を空想する程度で面白い。地球もいつかは破滅するのだ。人類ばかりでなく、すべての生物の死に絶える時が來るのだと、科学者の説く事を、輕々しく信ずるのと同樣である。百年の壽は保てない我々が、何億年か先の生物の絶滅、地球の沒落を考へるのは、空想としての興味になるばかりで、現實としては、痛くも痒くもないことなのだ。世界統一なんかは、癡人の夢としての興味であるのだらう。世界をとぼとぼ歩いて見たつて、白人黒人黄人が融和して渾然たる人類社會を作れようとは思はれない。上べは一切平等の人類愛で結ばれてゐるらしい口を利いてゐても、腹の中では親しみ難い差別觀念を張つてゐるに違ひない。

言葉だけでも世界言語が統一したら便利であるやうだが、その統一も空想に過ぎず、實現はされないだらう。日本でも何十年か前、二葉亭四迷の生存中に、エスペラントといふ世界共通語が唱導され、物好きに學習するものもあつたらしく、二葉亭が、そのエスペラント讀本だか、エスペラント獨案内だかを著述し出版して、一儲けしたらしかつた。「二葉亭もエスペラントで稼ぐやうでは」と、二葉亭自身苦笑してゐたと、出版社である「易風社」主人が私に話したことがあつた。世界共通語は便利であると、私も無邪氣に思つてゐたが、そのエスペラントもそれつきりはやらなくなつたらしい。西洋でもこの言葉を用ゐてゐる人間もあるかも知れないが、それも一部の人々が用ゐるだけなら、共通語でなくて特殊語たるに止まるのである。

文學方面でも、世界の傑作が皆エスペラントに飜譯されるやうになり、この共通語を心得てさへゐれば、造作なく世界文學が讀めるやうになると云はれたりしてゐたが、さうなつたら、今の日本のやうな飜譯時代、飜譯ばやりが消滅し、飜譯全集が出てもエスペラント一色といふ事になり、文學魅力はなくなつたであらう。外國語を學ぶのは厄介であり、腦力の浪費であるやうだが、國それぞれの言葉にそれぞれの妙味があるので、みんなが同じ言葉を使用して、詩を作り文を綴るのは、人類の頭腦を豊富にする所以でないのかも知れない。


正宗白鳥は現實主義者で、常識人であつたから、理想主義者トルストイの死を卑俗な觀點から解釋して小林秀雄と論爭をしてゐる。さう云ふ白鳥にしてみれば、將來の世界統一、世界平和なるものが馬鹿馬鹿しい妄想にしか思はれなかつたのも當然であらう。

しかしながら白鳥は、注意深くその「妄想」の社會が實現した時の事を批判してゐる。「理想の社會」が實現した處で、人間は理想的な存在とはならない、と白鳥は言つてゐる。社會を改良した處で、人間が良くならなければ意味はない。

寧ろ、その「理想の社會」が實現する事によつて、人間はますます惡くなるだらう、と白鳥は考へてゐる。表面的な平和や言語の統一が、人間の内面を腐らせる事を、白鳥は警戒してゐる。或は、人間性を剥ぎ取られた人間、機械化された人間を、表面的な平和や言語の統一と云ふ理想が匿してしまふ事を、白鳥は恐れてゐる。

性善説の立場に立つ理想論に對し、性惡説の立場から白鳥は批判を加へてゐる。だから性善説を支持する現代の日本人に理解されないだらうと私は思ふ。しかし、性善説が絶對のものでない事を考へれば、白鳥の指摘を我々は無視する事が出來ない筈である。