制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
「闇黒日記」平成13年11月4日
公開
2001-11-24

『差別と表現』

メモ

本文より

言葉ではなく、言葉の背後にある意識が問題であるのだが、「差別語」を排除する事で事足れり、とされる事が多い、と著者は述べる。

まず、第一に、あきらかにしなければならないのは、言葉そのものが問題ではないということであろう。

言葉は、それを生み出す、現実社会と歴史によっており、わが国の文化の質とかかわっていよう。したがって、われわれは、言葉の追放やいいかえで、差別がなくなるなどという幻想は一切もってはならないのだ。

差別用語を用いていないからといって、「被差別部落の人間は、こわい人間ばかりだ」というふうに発言すれば、これは、まぎれもなしに、偏見にみちたいい方であり、差別的である。とすれば、下手な、いいなおし、禁句集をつくるより、放送関係者が、いかに正しく、部落問題を理解するか、心身障害者の苦悩をうけとめるか、ということになるのではないか。いいかえれば、マス・コミ関係者すべての、いわば、主体性が問われているというべきなのである。

しかし、言葉の背後に潜む意識の是非をしつかり見極め、判斷を下すのは、面倒な事だし、意識に關しては誰も決定的な事を言へないから、殘念ながらマスコミ關係者に限らず、多くの人が「差別語」を「狩る」事で逃げてしまつてゐる。

言葉に責任を押附けない事

意識の問題を囘避し、表面的な言葉の問題に逃げてしまふのは、知的怠惰である。知的怠惰であるのに慣れてしまつたら、人は知的でなくなる。そして、知的でなくなつた人間が、逆に「夜郎自大」な態度をとるやうになるのは、良くある事である。

ジイド曰く、白人が知的でなければないほど、黒人は彼には一層莫迦に見えるものだ。差別をなくしたければ、知的にものを考へようとする以外に、手はない。

しかし、「××と言つた」と云ふ程度の低いレッテル貼りをして、平氣な人間がいまだに多い事實は、日本から差別は無くなりさうにもない事を示してゐる。