制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2001-06-02
改訂
2006-08-20

『日本語概説』より

中國人の日本語學習者向け參考書

中國人が執筆した、大學で日本語を專攻してゐる中国の學生向け教科書にして日本語教師向けの參考書なるものが、近所の圖書館に置かれてゐたので、借りてきた。

日本で出てゐる日本語教科書といへば、造本も紙質も上等なものであるのが常識だが、この中国の教科書は、1992年に出た本であるにもかかはらず、貧弱な代物である。本文の用紙は藁半紙のやうな粗惡な紙で、インクが裏うつりしてゐる。圖は手書きでかなり汚い。誤記・誤植も大量にある。

外見はみすぼらしいものの、中身は基本事項が纏められてわかり易く説明されてゐて、わかりやすい。非常に狹いスペースに、大量の事項を詰込んでゐるせゐか、漢文の傳統に據るのか、個々の記述は極めて簡潔。日本で出てゐる教科書の、くどいくらゐに馬鹿叮嚀な(爲、さつぱり譯がわからない)解説はない。とても共産主義の國で出てゐる參考書とは思へない、公正な記述がなされてゐる事にも注目したい。

「漢字文化」の本家である中国人が日本語をどのやうに見てゐるか、が垣間見える、興味深い本なので、簡單に紹介しておく。

言語について

本書では、序章でまづ「言語とは何か」と云ふ事が解説されてゐる。日本の語學教科書では、意外とすつ飛ばされてゐるか、好い加減な解説しかなされてゐない項目である。

世界にはどんな言語があるか、と云ふ紹介がまづあるのは御愛敬だが、そのあとに「言語の機能」が6つ、擧げられてゐる。

  1. 思考性
  2. 伝達性
  3. 表現性
  4. 交際性
  5. 創造性
  6. 伝統性

日本の教科書では「コミュニケーションの手段」とか、「意思の疎通」とか云つた事ばかり強調されがちだが、「傳統」と云ふ側面が意外な程無視される。中国の參考書で傳統と云ふ事がきちんと擧げられてゐるのは賞讃に値する。ただ、「思考」の過程とは言つてゐるものの、認識の過程と云ふ事がはつきり言及されてゐないのは殘念。

續いて、「日本語の特徴」が擧げられてゐるが、最初の幾つかの項目は日本の學術書に書かれてゐる事を引つ張つて來たものらしい。音節の数が少なく、構造的にも単純、とか、ン、ツの様な特殊な音節があり、とか、母音が五つしかなく(英語は12)、とか、アクセントは、英語、フランス語、ドイツ語のような音の強弱によるアクセントではなく、音の高低によるアクセントであるが、中国語と違って、音節の中には音の昇降がなく、普通音節と音節の境目で音の昇降が行われる、とか、云つた記述がある。さすがにお終ひに4項目、中国語と日本語の違ひ、と云ふ形での説明が附けられてゐるが、附けたりと云つた感じがする。

音聲

ここは、語學關係の本に良くある記述が續いてゐる。

この音声と文字を比較するとき、より基本的なものは音声であって文字ではない。文字はあくまで音声を記号化したもので第二義的な手段である。

云々。

一應、あとの方でしかし、この音声の面がより直接的だということは、言葉を把握するとき意義より音声が大切だという意味ではない、と註釋が入つてゐるが、この章全體が日本で出てゐる本の孫引きのやうな雰圍氣がある。

以下のやうな記述も、ある事はあるが、どうも中国人の實感であるやうには思はれない。

ロシア語は聞いていると話手の舌がやたらに振動する感じがし、ベトナム語はやたらに「ん」が飛び出して息が詰まる感じがする。これに対して日本語はきわめて単純に響き、聞いていて気持ちがいい。これは日本語の音節がロシア語などより単純なためである。

いかにも孫引き臭い記述だが、どの本から引つ張つて來たのかは不明。

また、「語音變化」について、日本人は氣にして良い記述がある。

音の交替の一種とも言うべきもので、[むぎはたけ]が[むぎばたけ(麦畑)]となり、[ひとひと]が[ひとびと(人々)]となるような現象、つまり合語や文節を構成するに当たって、後の構成要素の最初の子音が濁音になる現象を連濁という。もともとは法則の高い同化現象であったといわれているが、現代の日本語ではほとんど無規則であるといってもいいぐらいで、日本語学習者には迷惑千万な語音変化現象である。

無意識に「正しく」發音する日本人が意外と氣附かない、日本語の難しいところである。

文字の役割

音聲に續いて文字の解説である。日本で出てゐる日本語關係の學術書が大概すつ飛ばしてゐる「文字の本質」について、解説するのを忘れてゐないのは立派。まづ、抽象的な文字の概念と、具體的な個々の文字とは區別されるべきである事が述べられる。

續いて、表意文字と表音文字について述べられる。文字は音と意義の結合である爲、語の數が増えると字(表意文字)も増える、それではわづらはしいので、意義を無視して音を表現する表音文字が生ずる、と云ふ説明があり、表意文字である漢字が表音文字に先行する事が述べられてゐる。そして、音と意義の結合である文字の、意義の側面を生かす事も可能である事が指摘され、それを実践に移したのは日本人である、と説明してゐる。漢字の意義を生かした訓讀み、音を生かした假名、の兩方の表記を日本人が使用してゐる事を指摘したもの。

また、表意文字、表音文字などの區別も解説されてゐる。そして、助詞の「は」「へ」「を」や「はな」「ちかか」などは、假名で書かれてゐるが、意味を示してゐるから表意文字に屬するものとも看做し得るもので、純粹な表音記號とは言へない、と指摘してゐる。

そして、「文字の役割」と云ふ項目で、特に日本語では言葉と文字が強く結び附いてゐる事が指摘されてゐる。

 科学が発達した現在では、音声言語も録音して保存することができるが、なんといっても音声は文字にくらべてその場でたち消えるという欠陥を持っている。今では音声言語も録音して保存することもでき、遠くへ送ることもできるが、それでも文字より簡単にそれができるものではない。文字は簡単に書いておいていつでも読むことができ、音声では考えられないほどの長い分量のものが配布出来、書物の形で知識を蓄積することもできる。文字はまた人間の思考との結び付きが探く、人間は書くことによって自分の考えを確かめ、深めることができる。

 しかし、言葉の歴史としては、音声による言語表現がさきに現われ、その次に文字による伝達ができるようになった。現在でも文字のない民族はあっても、音声言語のない民族はない。そうした点から、音声言語は真の言語、文字は単なる音声の写しに過ぎないとみることもできなくはない。しかし、日本語においては言葉と文字は深く結び付いており、中国の文字とも深い拘りを持っているため、単なる音声の写しに過ぎないとみることはできないし、日本語学習の立場から言っても、日本の文字は一つの大切な学習内容となる。

 さて、文字は単なる音声の写しに過ぎないという考え方から、現行の文字に欠陥がみられると、簡単にそれが変更できるものと思い、極端な文字改革を行なうこともある。しかし、漢語を書き表わす漢字はそう簡単に廃止することはできない。特に同音異義語の多い日本語は、漢字を全部廃止してしまうと言葉の意味が分からなくなってしまうこともある。もし、「とうき」とだけ書いておけぱ、「冬期」か、「投機」か「陶器」かだれも分からないだろうし、「つる」とだけ書いておけば「吊る」か、「釣る」か誰も分からないだろう。「すみ」のような名詞も漢字で書かないと「炭」の「すみ」か、「墨」の「すみ」か判断しにくいだろう。このように漢字は意味を正確に記録する役割を果たし、同音から来る混乱を防止することもできる。このように日本語の諮彙は、漢字がないと、その意味の識別ができないこともある。

 また、漢字は和語の意味を細かく分けて、元の和語彙体系を再編成している。和語の意味を次のように分けて書いておくと、和語の意味が細分化され、和語の語彙が意味によって再編成されていくということが、よくわかる。

すみ
つる
  • 吊る
  • 釣る
もと

日本語の略語にも漢字の役割がみられる。

日本教職員組合
日教
東京大学
東大
東京・横浜地帯
京浜(けいひん)地帯

これらは「音声」の関連よりも「意味」の関連が強いが、元の漢字をいくつか残すことによって、元の語と意味的につながりをもつ。従って、語のうえでは変わっても理解が可能となる。漢字を使い慣れた中国人は、もとの完全な形を知らなくても、省略形だけでおおよその意味は分かるが、それも表意文字としての漢字の力が発揮されたからであると考えられる。このような漢字を完全に廃止すれぱ、言葉の意味の識別に困ることはさておき、少なくとも中国人日本語学習者は日本語学習の優勢の立場から逆転することは間違いないだろう。

最後は、「漢字の御蔭で、中國人の日本語學習者は餘所の國の日本語學習者よりも有利となつてゐる」と云ふ意味の冗談だらう。しかし、冗談はさておき、「和語・漢語に限らず、日本語の語彙一般は、漢字の御蔭で意味が鮮明になつてゐる」と云ふ事實がここで指摘されてゐる事に、我々は注目しなければならない。

漢字の遣ひ分けは、「意味をはつきりさせる」効能がある、と云ふ事である。しかし、最近の日本人は、曖昧なものが好きだから、漢字を遣ひ分けて語の意味をはつきりさせる事に何の價値も見出さない。日本人が漢字の遣ひ分けを「わづらはしい」と思ひ、漢字そのものを嫌ふゆゑんである。言歸正傳。

引續き、漢字について、詳しい説明。中国人にとつて、書體や六書は常識ではないかと思はれるが、日本人は形成文字でない文字を誤つて形成文字のように読むのを、「百姓読み」という、と説明してゐる邊、案外、落とし穴があるやうである。

「音と訓」の説明は、「音」と「訓」の遣ひ分け、と云ふ事許りではなく、同じ音でも「呉音」「唐音」「漢音」がある事、「重箱讀み」「湯桶讀み」、「異字同訓」「異字同音」の説明まで。

さらに、漢字の部首の一覽が載つてゐる。以上で漢字の説明が終る。

引續き、假名の解説がある。多くの日本語學の本に載つてゐる事許りだから、平假名・カタカナ・萬葉假名の解説を紹介するのはやめておく。ただ、國語國字問題專門サイトとして、「仮名遣い」に關する記述は無視出來ないので、紹介しておく。「現代仮名遣い」には極めて嚴しい評價がなされてゐる。

 日本の仮名は日本語の音節を書き表わすために発生したもので、その書き表わし方が広義の仮名遣いである。仮名発生の初期においては、仮名とその仮名によって表記される音節の間には、一対一の対応関係が成立していたと考えられる。ところが、時代が流れるにつれて、文字の変化し難い点と、音韻の変化しやすい点が原因して、両者の間にはずれができて、一つの字が二つの音節と対応するようになることがある。例えぱ、仮名発生の初期には、[we]という音節と、[ゑ]という仮名が一対一の対応関係をもっていたが、後に[we]が[e]に変化して、「ゑ」という仮名が、[we]と[e]の二つの音節と対応するようになってくる。すなわち、音変化が生じた後は、一つの仮名で二つの音を書き表わすことが行なわれる。その場合、変化後の音[e]を元の[ゑ]で表記するか、それとも[e]に応じた他の仮名「え」で表記するかの問題が生じてくる。すなわち、日本語の音節の音が変化した場合、その音節を表記する仮名の使い方の基準が問題になってくる。このようにある単語を仮名で表記するのに二つ以上の書き方がある場合、一体どの基準に従って仮名で表記するのかというその基準の立て方を狭義の仮名遣いという。

 仮名遣いは色々あるが、そのうちわれわれと関係の深いものは、「歴史的仮名遣い」と「現代仮名遣い」である。

歴史的仮名遣いとは、ある時代における仮名の用法に基づいだ伝統的な仮名遣いを標準とし、その仮名と現代の発音との間の不一致を問題としないものをいうが、一般的には、江戸時代初期に契沖という人が、仮名の用法に混乱が生じなかった平安中期以前の文献によって定めた仮名遺いを歴史的仮名遣いという。これにたいして、現代語の発音に基づき、これと仮名とを一致させるようにし、伝統的な書き方を考慮しないものを表音仮名遣いというが、現代仮名遣いはこれとも違う。

 現代仮名遣いは、1946年に制定した仮名遣いであるが、現代語の発音に基づいて語の表記の準則を定めたものなので、発音の記述が目的ではなく、音と仮名が完全に一対一で対応するものではない。語の表記に従来の習慣を残している。従って、仮名のみによる日本語の発音教育は難点の多いやり方であるといいたくなる。

 さて、現代仮名遣いでは、歴史的仮名遣いで用いられてきたもののうち、「ゐ・ゑ・を・くわ・ぐわ・ぢ・づ」は原則として、「い・え・お・か・が・じ・ず」にあらためて統一することになっている。しかし、このなかには例外も設けられた。例えぱ格助詞「を」は元のままにし、助詞の「は」「ヘ」も元のままに書くことが本則となっている。が、「は」「ヘ」だけは現代仮名遣いの「わ」「え」を用いても差し支えない。それから、「ぢ」「づ」も「はなぢ(鼻血)」、「みかづき(三日月)」のように、二語連合の複合語を形成する場合の連濁は、元のままの「ぢ」「づ」を用いることになっている。また、「ちぢむ(縮む)」「つづく(続く)」のように「ぢ」「づ」を連呼する連濁も、元のまま使うことになっている。なお、「お」段の長音の場合も、現代仮名遣いでは「お」段仮名に母音「う」を付けて表記することを本則としているか、「とおい(遠い)」、「こおる(凍る)」など歴史的仮名遣いで「ほ」を用いたものは「お」で表記することになっている。

 以上のように、助詞、四つ仮名、長音などの表記には、歴史的仮名遣いの面影が残っている。この意味でも現代仮名遺いは不徹底に終っているといえよう。

この部分も、他の本から引つ張つて來たものとおぼしい文章ではある。その中で、日本語の發音を假名のみで教へる事に問題のある事を指摘してゐるのは興味深い。「現代かなづかい」が、表音化の觀點から見れば不徹底である事實を見て、假名を發音記號代はりにするのは危險であると云ふ事を日本語學習者に示唆してゐるものと思はれる。

引續き、ローマ字の解説もされてゐるのだが、當然のやうに日本におけるローマ字の綴り方は、政府の訓令式があるにもかかわらず、いまだに統一がみられない、と記述されてゐる。

語彙

大分長くなつたので、端折る。この邊は「日本語學」の本に載つてゐる、通り一遍の事しか書かれてゐないので、特に紹介する事もあるまい。語彙、方言、位相、和語・漢語・外來語・混種語、語彙の變遷。

「男性語と女性語」の區別には、意外な程(或は、當然のやうに)、ページが割かれてゐる。ここで、男女で言葉の差が激しいのは日本語が未開人の言葉である證據ではないか、女性の言葉の方が叮嚀なのは女性にとつて不利なのではないか、と云つた問題が提起されてゐるのだが、一々それに反論を加へてゐるのが金田一春彦氏と云ふ事になつてゐるのが面白い。擧句、言葉というものは、多数の人間の共同生活のなかから生れてきた社会的慣習であり、伝統であるので、保守的で、変化に逆らう一面がある、と云ふ記述まで出てくる。どこの國の教科書なのだか、さつぱりわからない。

文法

山田文法、橋本文法、時枝文法が紹介されてゐる。

この項目は大變良く整理されてゐるものの、特に目新しい事項はありません。まあ、中国人に日本語文法の劃期的な發見をされたら堪りませんからね。