本書は主として国語表記法に関する諸家の意見を集めたものである。
國語問題は明治以來、繰返して論ぜられてきたことである。その詳しいことは、福田恆存氏の『國語問題論爭史』(新潮社刊)に讓ることにするが、要するに、中心點は漢字、漢語の排斥にあると思はれる。そしてその動機には、偏狹な國粹主義的立場からするものもあるが、主流は何といつても西洋文明に眩惑された西洋追隨の精神に本づくものであらう。およそ正反對ともいふべき國粹論と歐化論の兩端から、口をそろへて漢字が攻撃されるといふのも、皮肉な運命であるが、この兩者の基本的見解は、カナ文字論とローマ字論とによつて象徴的に示されてゐるのである。從つて今こそ漢字撲滅の爲にこの兩者、いはゆる表音派は手を握つてゐるが、本質的には氷炭相容れない性質のものである。
現代表記を造り上げた人たちの中で、ほんとに現代表記による表記が書ける人が何人あらうか。制定當時の委員中には、公平無私な專門家は殆ど一人もゐなかつた。「當用漢字」なんて、世人が理解に苦しむ用語を作つて誰一人之を改めようとしなかつたのは實に矛盾してゐる。それは、歩や巻や賓など、簡素の逆を作つたため、略字表と言へなかつたからである。土岐會長が館長をしてゐられた頃の日比谷圖書館の掲示が現代表記でなかつた。部下に徹底できなかつたのである。
改革論者は、昔から漢字の弊害や假名遣の困難を改めようとする意見があつたことを強調し、いかにもそれらの人々が先覺者であつたかの如くに言ふが、確かにそのやうな意見のあつたことは事實であるとしても、そんなに何十年もかかつて、どうしても改められなかつたといふ事實もまた無視すべきではない。
それでわたくしは、戰後の國語は本當にやさしくなつたのだらうか、昔よりやさしくなつたと言はれますけれども、一體やさしい・むづかしいとか、合理・不合理とかといふやうな問題はそれこそそれほど簡單なやさしいことなのだらうか。わたくしはそのことをもう少し深く考へてみる必要がありはしないかと思ひます。例へば池田さんが人づくりといふことを言ひ出しますと、新聞でもなんでも、あつちでもこつちでも人づくりといふ言葉が出て參ります。「ひと」も「つくる」もこれは立派な日本語でありまして、人づくりといへばそれは名詞で「人を作ること」だと誰にも分るやさしい言葉だと言へるかも知れません。けれどもわたくしには人づくりと言はれても何のことだか内容は全然わかりません。あまり意味のない言葉のやうに思はれます。いろいろ考へてみても、人づくりといふのは結局昔から使つてゐる教育といふこととあまり違はないのではないか。若し違ふとすれば、人間は政府の思ふやうにどうにでも作れるものだ、これからはかういふ人間を作つて行きたいのだ、といふ政府當局の下心のやうなものが感ぜられるところが、ただ教育といふのとは違つてゐるやうに思はれます。それで、戰後の國語改革といふものは本當に日本語をやさしくしたのだらうか、どうもわたくしにはさうは思へませんので、氣づきましたことを一つ二つ簡單に申してみ度いと思ひます。
國語の特質を考へ、その合理性を破壞せぬ限り、表音的である事は一向さしつかへない。部分的に表音的である事は結構なので、いけないのは原理としての表音主義なのである。
私共は国語審議会は審議会委員の会で、国語課員はその事務担当者にすぎないと思つてゐたから、文部省国語課に對する発言は絶対に控へてゐた。今にして思へば私共が甘かつたのである。国語課の官僚一人一人の問題ではない。国語課に根強く蔓る漢字漸減論(それは国字表音化を基調とするものである限り、漢字抹殺論と手をつなぐ可能性が濃い)を打破しない限り、国語の表記法はたえず浮草の如き様相を呈するであらう。……。
我身の恥を聊か打明けれぱ、私は年久しく所謂国文学界に身を投じてゐながら、論語読の論語知らずであつた。具体的にいへば国語について全く無関心であつた。愛著を持たなかつた、といへば言過であらうが、愛著を示す理由を持たなかつた、といへば梢々当るかも知れない。何故であらうか。それは国語に社会的節度があり、その表記法に一定の規律があり、その規律を疑ふ必要がなかつたからである。勿論当時と雖も、羅馬字論、仮名書論がないわけではない。それらはそれぞれ主張を持ち、その信念の強さに於ては寧ろ現代の便乗主義を遥かに凌いでゐたと云つてよい。これらの主張者は彼等なりに「国語を護る」人々であつた。しかし、それは飽くまでも主張者であつて、それらの主張が水の流るゝ如く民間に自然に流布してゐたわけではない。国語の表記法は漢字仮名交りの文であり、漢字仮名の使用には伝統による自らなる規制が存してゐた。勿論いかなる時代と雖も表記の乱れは存在してゐたらう。しかし正邪を判別する国民の眼は厳然としてゐたのである。また漢字を多く知ることが知識の深さを示し、外国語を多く挿入することが学識の博さを証明するやうな時もあつたらう。しかし、漢字仮名交りの鉄則はいかなる時でも表記の根幹をなしてゐたのである。
然るに戦後、国語表記法に大改革が政府によつて企てられた。権力が国民の習慣を奪つたのである。私は当用漢字、新かなづかひ、或は漢字一字一音主義、そのものが不合理にみちてゐると暴論するものではない。たしかに表記法の合理化に進む一道標を示すに足る改革案であつた。しかし、もしこれらが最善の案ならば水の低きにつくが如く、表記法は円滑に流れるはずのものが現在の如く各処に抵抗の存するのは何故であらうか。改革案が改悪案となつたのは何故であらうか。それは新表記法に於て、昨日の友を今日の敵と見做す文化分裂案であるからである。なるほど無垢なる児童は一見たやすい表記法に教育されて、革改案を鵜呑みにできるであらう。印刷物もある程度まで統制できるであらう。しかし戦前に義務教育を終へた一般大衆の困惑を政府はいかに見るか。国民の自然の声である私信の表記法の乱れをいかに見るか。最近家庭内に見られる文字に関する親子論争を過渡期の単なる笑話と見過してよいものであらうか。道徳教育の声喧しい昨今、文化の動脈を形づくる文字力の問題で、父や母を子供の教育圏外に放逐してよいだらうか。否その児童でさへ、他日社会に出て改革案の矛盾に疑問を抱くかも知れないことを予測できないとは言ひ得まい。原因は、律すべからざるものを律したる政府の罪にある。一つの規制が厳然として存した国語表記法を、即ち慣習化したる文化の伝達方法を、政府が一朝にして覆したからである。勿論当の犯罪者は、この改革案を急造した国語審議会の急進分子にある。しかし責任は政府の国語政策の無力にあつたのである。この専制暴力が、私共如き国語学に無知なる者をしてすら、立たざるを得なくさせたのである。しかし草莽の中、この悲嘆をなすもの敢へて私のみではあるまい。私はたゞ、私如きが国語を護るなどと言はないですむ時代が早く招来することを祈るのみである。
本書には、日頃私が抱懐する国語論を第一部に国語改革案、国語審議会論の如き当面の問題を第二部に収めた。国語問題論争については既に時枝誠記、福田恆存、山本正秀等の優れた著述がある。また国語問題協議会から発刊された諸刊行物がある。本書はそれらの業績に一行の刷新、一歩の前進を加へたものではない。ただ同じ悲願を叫び続ける書である。だから識者に訴へる書ではない。余の事は内容に聞いて頂きたい。折にふれ各紙に書いたものを集めたので、重複する部分はできるだけ省いたが、取捨当を得ず煩瑣で読みづらい点が無きにしも非ずである。新しく書加へた部分もあるが忽忙の余り舌たらずの文も存するであらう。諒恕を祈る。