本書は、主に戰後の文獻から、國語問題に關聯するものを擇び出し、批評を加へたものである。
表音主義者の發言のみならず、国語審議会の記録やJISの文字コード策定に關聯した資料、はたまた西部邁の評論までも採上げて、國語に對する各論者の姿勢と、一般的な國字の問題に對する態度・思想・考へ方を明かにし、その何處に問題があるかを指摘してゐる。
詳細に文獻を檢討してゐるので、八百頁を越える大部となつてゐる。全篇新字新かなだが、その點については渡部氏の「釋明」がある(後述)。
本書の裏表紙に、関西大学教授の竹尾治一郎氏の推薦文が掲載されてゐる。以下はその冒頭部。
近頃、国語表記の問題点は目立たない形ではあるが以前にまして多くの人々の関心を惹いている。そう考える理由はワープロの普及にある。漢字をなくしてしまえといった、音節数の極端に少ない日本語に対する無茶な要求を、ワープロが無意味にしてしまった。私など、論文や講義の原稿はもとより、手紙、葉書もワープロを使って書いているが、ここで、送り仮名、漢字変換、文章の明瞭さと論理的構成のための編集など、ワープロ機能の活用を通じて、逆に国語表記の問題に直面する機会が増えて来たように思う。このようなものが国語表記の現実の問題である。そして私が本書の主張に最も多く同感するのも、主としてこの関連の部分である。
著者は福田恆存氏の国語問題に関する考えに導かれて、この方面に深入りするようになったというが、われわれの生活にワープロ機器の使用を積極的に取り入れようとする立場から国語表記の問題を扱っているところに、私は著者の独創を認めることができるように思う。……。
表音主義者は「タイプライタの普及のためには国語のローマ字化・カナモジ化を推進する必要がある」と主張した。しかし現實には漢字假名交じりの文章が依然として使はれ續け、コンピュータやインターネットの普及によつて漢字の使用頻度は逆に高まる結果となつた。
本書は「ワープロ時代」を經て「インターネット時代」が到來する直前に執筆されたもの。まだ一般化以前だつたインターネットについては當然言及がなく、後述するやうに想定するプログラムも「古い」。とは言へ、とまれかくまれ「現代的」な國語問題の論集のさきがけとして本書は高く評價されて良い。
昭和三十年、小泉信三氏の發言を表音主義者らが嘲つたのに端を發し、表音主義者と「表意主義者」との間の論爭が行はれた。そのうち、福田氏と金田一氏との間で行はれた論爭が「福田恆存・金田一京助論爭」と呼ばれるものである。
「福田恆存・金田一京助論爭」について觸れて、渡部氏は以下のやうに評してゐる。
『私の國語教室』で述べられた福田恆存氏の仮名遣い観は大体以上の通りである。その立場を一言で言えば、歴史的仮名遣いこそ仮名遣いの正統であるとするものであり、それを改変した戦後の国語改革は正に暴挙そのものであったと判断するものである。しかし、当然のことながら一方ではそのような見方に対して批判する立場が存在する。仮名遣いについて福田恆存氏と論争した金田一京助氏は当然その立場にある訳だが、その他にもローマ字論者のさねとう・けいしゅう氏やカナ文字論者の松坂忠則氏などからも批判が寄せられている。しかし、これらの人々の批判は、国語学者の金田一京助氏をも含めて、これまで述べてきたような仮名遣いの歴史を十分吟味した上で行なわれたものではなく、単に自らの仮名遣いに対する主義の代弁、もしくは印象批判でしかない。
渡部氏は、金田一氏の主張は論じてゐない。ただ、金田一氏を含めて表音主義者の多くが「表意主義者」の批判にまともに反論しなかつた、ただ自分の主義・主張を一方的に演説しただけであつた、と指摘してゐる。
一方、福田氏は、學問的に假名遣ひの歴史を扱ひながら歴史的假名遣を批判した江湖山恒明氏の主張を採上げて、『私の國語教室』で反論してゐる。江湖山氏の主張は、表音主義者の主張として、最も理論的・學問的であり、他の論者の主張に比べて「意味がある」と言へる。それだけに、江湖山氏の主張に對して「表意主義者」が理論的な反論を行ふ事には必然性がある。
渡部氏も、表音主義者の主張を紹介するに當つて、この江湖山氏の説を材料に用ゐてゐる。
渡部氏は江湖山氏の『仮名づかいの焦点』(塙書房)に收められた文章を詳細に檢討してゐる。もちろん、江湖山氏の主張には問題が「ある」訣で、福田氏がしたやうに渡部氏も具體的にそれらを指摘してゐる。(『国語国字の根本問題』第一部第四章)
表音主義者の主張に理論的な穴がある事を指摘する事で、彼等が實行し、支持した國字改革に問題がある事を證明しようと云ふ訣である。
本書は新字新かなで印刷されてゐる。この種の「矛盾」は屡々「アンチ正かなづかひ」派の人々に衝かれ、非難を浴びる原因となる。この事については、本書の終盤で著者が「釋明」してゐる。
さて、いよいよ自分自身について述べる時が来たように思われる。
これまで、国語国字改革を批判し、歴史的仮名遣いを支持する主張を展開しながらも、その文章自体は略字、現代仮名遣いを用いて書いて来た。従って、これだけを見れば、自分もまた主張と行為が乖離し、知行合一に反する態度を取る人間の一人ということになるだろう。
そして、學生時代、『私の國語教室』を讀んで、正字正かなに切換へた事、しかし、社會人になつて、勤務先で正字正かなを使へなかつた事を、著者は述べる。
結局、勤務を続けようとする限り、この規定(「勤務先の例規集で定められている文書作成要領の用字・用語」の規定)に従わざるを得ず、残念ながら、正字、歴史的仮名遣いの使用は断念することになったのだった。
著者は、かうした職業上の理由から要求される略字略かなの使用は、しかし本質的な問題ではないとする。と言ふのは、仕事における規定がない場合でも、正字正かなを使用する事は、社會的に困難だからである。
既に略字略かなが一般化した社會で、敢て正字正かなを用ゐるのは、略字略かなの通常性を否定する行爲であり、言はば現在の表記のパラダイムに挑戰する事となる。例へば、本文が正字正かなである中公文庫版『私の國語教室』ですら、帶のキャッチコピーは略字略かなとなつてゐる。宣傳の文句であるキャッチコピーは、一般の人に受容れられ易いやうに、略字略かなとせざるを得ない。
かうした状況下で、正字正かなを用ゐた出版が可能であるのは、三パターンがあり得る。
――しかし、これらのパターンは全て特殊なケースであり、一般の人向けの書物では、正字正かなでは受容れられない事が多いだらう、と筆者は述べてゐる。福田恆存の著作であつても、中公文庫では新字新かなに改められてゐる。松原氏の『人間通になる読書術』もそれはより多くの読者に訴え掛けるための已むを得ざる措置であったのであろう
、と筆者は書いてゐる。
筆者は、福田氏が新聞に書いたエッセイ「私と仮名づかい」を引いて、かう述べてゐる。
これはまさに、現在の表記パラダイムについて述べたものに他ならない。即ち、読者の通常性に即応する表記を取ろうとすると、略字、現代仮名遣いを選ばざるを得ないということなのである。そして私もまた、この論を展開するに当って、出来るだけ多くの人に抵抗なく読んでもらうためには、略字、現代仮名遣いを使用せざるを得なかったのだ。
福田氏は、「私と仮名づかい」で、自分は「現代仮名遣」を用ゐない、歴史的假名遣を用ゐるが、新聞に載る文章では「現代仮名遣」に改められる事を容認する、と言ふのは、假名遣自體としては歴史的假名遣の方が正しいが、論理的には筋が通らないにせよ「現代仮名遣」で育つた讀者が大多數である新聞に於いては「現代仮名遣」の方が「正義」であるからだ、と述べてゐる。
だが、略字、現代仮名遣いの使用がどれ程已むを得ざるものであったにしろ、正字、歴史的仮名遣いを国語表記の正統と信ずる立場からすれば、所詮それは現実との妥協の現れでしかない。もし本当に正字、歴史的仮名遣いが国語表記の正当であると信ずるならば、単に妥協のための言い訳を連ねるだけに止まらず、何等かの行為によってその思想を証し立てねばならないはずである。それが思想に殉ずるということの意味であり、自分もまたその覚悟を持ちたいと願う一人である以上、この困難から逃れることは出来ない。
だが、かうした妥協をしながらも、正字正かなを正統のものとする思想を支へる事は可能か――と筆者は最後に問題を提起してゐる。そして、コンピュータに於いてはそれが可能である、とする。
筆者は、それは、sedである。
と書いてゐる。これは1995年の出版時にはそれが一つの方法としてあり得た、と云ふ話だ。
今では、sedに限らず、テキストを操作するツールが多數知られてゐる。本質的には、sedのやうなプログラムではなく、變換テーブルのデータが重要である。この事は、スタイルシートの概念を重視するXMLの出現で明かになつた。
しかし、いづれにせよ、コンピュータに據るテキスト操作が實現した現在、過去の單純な表音主義の主張が「古びてゐる」事、寧ろ、傳統を尊重する立場の主張の方がより時代に對應するものである事が實證されつゝある。本格的にパーソナルコンピュータが普及し、インターネットが普及するかしないかと云ふ微妙な時期に出版された本書だが、その主張の正しさは現實に證明されつゝある。