このパンフレット(全四十八ページ)は、直前に『解説 現代かなづかいと當用漢字』を公刊した著者が、「現代かなづかい」に對する疑問に、理論的に答へようとしたものである。基本的に「現代かなづかい」を支持する立場にある著者であるが、「現代かなづかい」批判に對して高壓的・嘲笑的な態度はとらず、ありのままに批判を受止め、冷靜に答へようと努力してゐる様子が窺はれる。
全體に「現代かなづかい」の基本路線に從順な姿勢が見られるるが、解決に至らないまま、將來の改善に期待するといつた結論に至つてゐる説明も見られる。個人の判斷で勝手に「現代かなづかい」の理論を改める事は許されないわけで、不滿は不滿としてそのままにしておくしかなかつたのだらう。
著者の木枝増一は昭和八年六月に『假名遣研究史』を公刊(吉澤義則監修)。同書は福田恆存『國語問題論爭史』にて假名遣研究の文獻資料として貴重なものである
と評されてゐる。木枝自身の考へ方は、「現代の言葉の書きあらわし方はよろしく現代の發音の上に標準を求めるべきものである」といふものである。
本パンフレットあとがきには、刊行直前に公表された津田左右吉「いはゆる『新かなづかひ』に對する疑ひ」(『象徴』第三號・昭和二十二年六月號)への言及が見られる。木枝氏は津田氏の主張を紹介し、傾聴すべき議論であると思うが、同時に、この中には、愼重に考えなければならぬいろいろな問題が含まれているので、簡單にこの疑いを處理するわけにはいかないと思う。
と述べてゐる。
表音主義者の人々が屡「現代かなづかい」批判に威壓的・嘲笑的態度を示したのとは違つて、このパンフレットの著者には批判者に誠實に・眞面目に應對しようと云ふ姿勢が見られる。
以下は本パンフレット冒頭にある「世間でよく見られる現代かなづかい批判」のまとめ。福田恆存「國語問題と國民の熱意」にこの邊の批判への言及が見られる。
反對や批判は、いろいろの立場から出ているが、その主なところをあげておこう。
- 歴史的かなづかいがむずかしいとか、それを學習するために多大の時間と勞力とを要するとか、その時間と勞力とを他の學習にふりむければ、わが國の文化は從來よりも更に向上するであろうから、かなづかいを表音式にあらためるがよいというような説は、國語教育の怠慢をかなづかいに轉嫁したもので、安易主義、便宜主義に墮した愚論である。(國語の簡易化合理化ということが、一般には極めて皮相に考えられているという論も、この説に通ずる所がある。)
- 本案は、現代語音にもとづいて、現代語を、かなで書きあらわす場合の準則を示したものであるから、從來のかなづかいの改訂でなく、現代語音の音韻の識別に基礎をおくという新しい準則に立っているのである。これは、文語と口語とを二元的に考えることであって、許されないことであるばかりでなく、その結果は、かなづかいの混亂をひき起こし、學習上の負擔を増し、ひいては本案の權威を疑わしめる理由の一つともなっている。
- 現代語の音韻意識によって書き分けるという表音主義にもとづいてかなを用いるということになれば、いきおい、かなづかいの根柢は、記載者各自の音韻意識の反省に存することになり、これを徹底させると、同一の語も地域的に異なる場合が生じ、また、時と場合とで相當の差異が生ずるのは必然である。いわば、表音主義は表記の不斷の創作とならざるを得ないのである。これは、古典かなづかいの困難をすくおうとして、さらに、表記の不安定という問題に逢着したことになる。本案の主張する表音主義は、實は表記の際における準則として考えられるべきことでなく、舊かなづかいを改訂する場合の改訂の準則として立てられるべきものであったのである。(古典かなづかいを出來るだけ現代語音に接近さすように考えなければならない。)
- 歴史的かなづかいの基礎になった上代かなづかいは、いまだ語とそれの表記との間に固定かなかった時代、すなわち、かなづかいの傳統が成立しなかった時代に、全く新しくかな表記を試みようとしたところに成立したもので、そこに表音主義が成立するのは當然である。ところが、現在は全く事情が異なっていて、すでにかなづかいの傳統が成立している。言語において傳統を無視することは、いわば、言語の本質の否定に外ならない。問題は、與えられた傳統を如何にして言語の變遷の事實に合致させるかにあるのである。この點からも、かなづかいの解決は、表音主義という舊かなづかいとは何のかかわりもない新しい準則によって成しとげられるべき問題でなく、傳統に對して如何に手を入れて行くべきかによって解決せられることなのである。もちろん、本案においても、記載における國民感情や習慣が顧慮されていることは事實である。しかし、如何なる點に傳統を保存し、如何なる點を改めて行くべきかについての明らかな見識をもちあわせなかったために、持ちこんではならないところに傳統が保存され、當然傳統が守られねばならない場合に、それが無視されるという結果になって、全體が甚しく條理のとおらないものになってしまったのである。たとえば、動詞の意志を表わす場合の「書かう」を、長音と認めて「書こう」と表記して、「書こお」としなかった如きはこれである。「う」を長音表記の記號として借用しながら、なおかつ同時に助動詞の表記ででもあるかのように誤信しているのである。つまり、本案には、表音主義(第二類、第三類、第四類)と舊かなづかい改訂(第一類)という二つの全く方向を異にした方針が交錯していて、一貫した理論の上に立っていない。
- かなづかいには、改訂して差支えのない部分と、そうでない部分とがある。その限界が理論的にはっきりされていない。
- 表音主義かなづかいということが、國語の民主化を意味するが如き錯覺に陷っている。そして、一方そのような錯覺を利用するが如き傾向すら認められる。
- 現代かなづかいを用いると、古典に用いられているかなづかいと縁がきれ、したがって、古典との連絡を絶つことになる。
- 現代かなづかいが現代語音を基準とするからには、現代語音そのものの標準を確立しなければならない。つまり、標準語の標準音を決定しなければならない。然るに、現代においては、これがまだできていない。不確定なものを基準にするところに無理がある。たとえば、「命令」「經營」「衛生」は「メーレー」「ケーエー」「エーセー」であるか、「メイレイ」「ケイエイ」「エイセイ」であるか、「クワ」と「カ」、「グワ」と「ガ」、「ジ」と「ヂ」、「ズ」と「ヅ」は、それぞれ區別があるのかないのかの如きはその例である。個人により、土地によって書き方が違っているようなことは、かなづかいとしては不徹底である。
- 歴史的かなづかいとの調和がよくとれていない。準則とか本則とか言って、統一すべきかなづかいの中に、なお統一されていないものかある。現代語音にもとづくと言いながら、從來の書き方を保存し、新態勢の中に舊態勢を交え、新と舊とがなれあっているのは、急激な變化をさけ、感情的ななじみを重んじたによるのではあろうが、不徹底であり、不合理である。すなわち、次はその例である。
- 助詞の「を」「は」「へ」をもとのままとしたこと。
- 二語の連合および同音の連呼によって生じた「ぢ」「づ」を「ぢ」「づ」と書くことにしたこと。
- 「クヮ」「カ」、「グヮ」と「ガ」、「ジ」と「ヂ」、「ズ」と「ヅ」を言いわけている地方に限り、これを書きわけてもさしつかえないとしたこと。
- オ列長音は、オ列のかなに「う」をつけて書くことを本則にしたこと。この結果「う」と書いて「オ」の長音に發音するものを生じたこと。かつ、助動詞の「う」か、オ列長音の記號か、區別のつかないものを生じたこと。
- 舊い歴史的かなづかいを知らなければ書けないもののはいっていることは、新舊混同で、よろしくない。たとえば、
(現代かなづかい) (舊かなづかい) (發音) おおきい(大きい) おほきい オーキイ おおい(多い) おほい オーイ おおさか(大阪) おほさか オーサカ おおかみ(狼) おほかみ オーカミ こおり(氷) こほり コーリ こおる(凍る) こほる コール こおろぎ(蟋蟀) こほろぎ コーロギ とおる(通る) とほる トール とおり(通り) とほり トーリ とおい(遠い) とほい トーイ とどこおる(滞る) とどこほる トドコール ほお(頬) ほほ ホー ほおのき(朴の木) ほほのき ホーノキ ほおずき(酸漿) ほほずき ホーズキ 右のように、オ列長音に發音するもののなかでも、舊かなづかいで「ほ」と書いていたものは、オ列のかなに「う」をつけて書くという長音表記の準則に從わないで、すべて「お」のかなで書くことになっている。これは、舊かなづかいを知らない者にとっては、むずかしいことであって、長音表記の上から言っても、不合理と言わなければならない。
- 語原の知識や、語の複合意識をもたなければ書けないようなものがはいっているのは、不都合である。すなわち、二語の連合によって生じた「ぢ」「づ」は、「ぢ」「づ」と書き、同音の連呼によって生じた「ぢ」「づ」は「ぢ」「づ」と書く、という例外は、もし徹底させようと思えば、一語一語についてその書き方をきめておかなければならない。たとえば「著しい」は「いちぢるしい」と書くのか、「いちじるしい」と書くのか、また、「ちぢみ」「つづみ」は、果して、同音の連呼なのかどうか、一般人には判斷がつかない。
- かなづかいは、單語の書き表わし方に關するもので、語によって一定していなければならない筈のものである。個人によって、または土地によって、書き表わし方が違っているようなことであってはならない。だれか書いても一樣でなければならない。したがって、現代語音にもとづくものと、從來の書き方にもとづくものと、二つの原則がまじっていても、それが同一語に關するものでないかぎりは許せるが、しかし、同一語に關する書き方に、許容的な取扱とは言いながら、地方によって、また人によって、違った書き方をしてもよいと認めたのは、かなづかいの本質にかんがみて許し得ないことと思う。
現代かなづかいは決定的なものではなく、妥當なかなづかいに落ちつくまでの過渡的なものであり、當用的な性格をもつものであろう。しかし、現代かなづかい、語の書き方を一定しようといふ強い精神の見られないことは、まことに物足りない。