壽岳氏に限らず、「日本語の文章を易しくしよう」と主張して多くの人々が戰後の國語國字改革に贊成した。しかし、彼らの多くが、後々、改革の「惡影響」に惱む事となる。
……しかしながら、年久しく書物道に思をひそめ、美しい印刷面を作るためには、できるだけ漢字を少くし、振假名を絶對に除かねばならぬと主張してきた私が、本詩集に於いてのみその禁を破つたのは、「海潮音」などの影響の少くない昔を懷かしむ私情にもよるとは言へ、無定見な戰後國語教育の犧牲となつて、われわれの先人ならば容易に讀みえたであらう文字をさへ讀みえなくなつた青年子女の現状もまた責任の一半をわかつべきであることを、讀者は諒とされたい。
壽岳氏は、共産主義者だから、人民の爲にも、わかりやすくて讀み易い本を作るべきだと考へてゐた。だから、國字改革の意圖に壽岳氏は反對しない。しかし、實際に國字改革が行はれてみると、壽岳氏は、「やさしい本」と云ふ制約が、自分の思つた以上に日本語の表現を壓迫するやうになつた事を認めざるを得なかつた。
そこで、再び壽岳氏は、從來の自分の立場にもかかはらず、讀者を啓蒙する事の大事を理由に、國字改革以前の流儀に從つて文章を表記し、ルビも添へて、『ブレイク詩集』を出版したのである。本書の譯は文語譯である。
以下、同じ壽岳譯だが、文語譯と口語譯とを擧げて、比べてみる。
虎よ、虎よ、夜の林に
あかあかと輝き燃ゆなる。
いかなる不死身の手または眼の、
よくも造りし、汝が恐るべき均整を。
虎よ! 虎よ! あかあかと燃える
闇くろぐろの 夜の森に
どんな不死の手 または目が
おまえの怖ろしい均整を つくり得たか?
口語譯の方が、文語譯に比べて、たどたどしい印象を與へる。
また、文語譯よりも口語譯の方が「分り易い」と言はれるかも知れないが、「詩らしさ」は口語譯では全く傳はらない。口語譯は、たしかに意味は傳はる。が、意味だけで詩は成立しない。どんな
、おまえの
といつた語彙は、詩的とは言へない。
もちろん、飜譯の場合、オリジナルの持つ言語的な表現の面白さ、興味深さ、良さは、殆ど消え失せる。だから、飜譯詩の詩としての良さは、飜譯者による再創造によつてオリジナルとは別の形で生み出されるものでしかない。しかし、飜譯であれ、讀者は詩を讀まうとするものだ。その際、ただオリジナルの持つてゐた意味だけが提示されても、讀者は詩を詩だとは感じられない。
屡々言はれる事だが、飜譯者の使命は「横の文字列を縱の文字列に變換する」事だけではない。詩の優れた飜譯者は、原詩の意味のみならず、原詩の詩「らしさ」も、出來る限り自分の言語で再現しようとする。
「虎よ、虎よ」で、ブレイクは、虎の美を通して、虎を創造した神の存在を示唆してゐる――と言ふよりも、神に對する畏敬の念を、詩の形でブレイクは表現しようとしてゐる。ブレイクの畏敬の念を、より忠實に表はしてゐるのは、口語譯ではなく、文語譯だ。口語譯では、詩の作者は、冷静であり、客觀的であるやうに見える。しかし、ブレイクは、神に對する畏怖の念を抱いてゐるのであり、落著いてはゐるものの、驚異の思ひを懐き、極めて主觀的に詩を書いてゐる。
ブレイクのこの詩は、作詩者が單に「情景を描寫した」と云ふものではない。作者であるブレイクの主觀が具體的な視覺的表現の形態をとつて顯れたものである。ブレイクは、この詩において、創造主に對する畏敬の念を、祈りに近い形で表現してゐる。決して分析的に説明してゐるのではない。祈りは、日常語に近い口語で譯すのは不適切だ。宗教的な祈祷には常に文語が用ゐられる。「虎」の譯詩も、文語體の方が、より原詩の意圖を忠實に再現するものと言へよう。
宗教的な詩である事がわからなければ、「虎よ、虎よ」の本質は理解し得ない。ブレイクは神秘的な詩人であつたが、この事を口語の譯詩から理解するのは、慥かに全く不可能とは言へないだらうが、その理解は觀念的な理解にしかならない。
文語の譯詩は、讀んでも意味はなかなかわからないが、詩の持つ異樣な氛圍氣は傳はる。その異樣さが何處に由來するのかを讀者は氣にせざるを得ないが、それによつて傳はるものは「ある」だらう。