多久弘一氏によるC.S.バビア氏の紹介である。
私は中國で、カトリック宣教師、スイス生れの英國人、C.S.バビア氏を知つた。バビア氏は、中國語はもちろん、その古典である漢籍にも精通し、また日本語から日本文化、古典に通じ俳句も得意であつた。私に宛てた葉書きの終はりに「小生碌々健在に候 昨今の朝夕『夏も早 秋の氣配や 油蝉』に候。不盡」とサラッと流麗な草書で流してある。サインのC.S.バビア拜を見て、ただ驚くのみである。……
バビア氏は大東亞戰爭中、オーストラリア地上司令部の東方聯絡部(FELO)に於て、將軍として對日謀略戰を指揮し
てゐた。ニューギニア、ガダルカナル、ブーゲンビル戰で氏は、日本人向けの傳單(ビラ)に一枚一枚毛筆で、これ以上の戰ひの無意味なる事を書き綴つた、と多久氏は書いてゐる。
それによつて三千數百名が、彼の伝票を手にして投降してきたほどである。彼の話によると、傳單に漱石の句「親ひとり子ひとり盆の哀れなり」を書き入れた文など、戰死した日本軍將校の日誌には「なかなか日本人の心をとらへあれども、いささか名文にすぐ」との批評があつたさうである。彼は傳單に、日本軍の誹謗や、皇室を損ふやうなことは一言一句も記さなかつたが、日本のオーストラリア軍に對する傳單は、アメリカ將兵が留守家族に暴行してゐると述べて、猥せつ春畫を撒布するのみで、これが日本軍の叡智を盡くした宣傳工作かと、悲憤をもらしてゐた。
さて、大東亞戰爭は日本の負けで終つた。バビア氏は職を辭し、日本に再びやつて來た。多久氏との交友も再びはじまつた。多久氏はその頃、バビア氏がとある雜誌に寄稿した以下の文章を、忘れる事が出來ないさうである。
戰後のある一時期、漢字があるから科學におくれ、原子爆彈で負けたのだなどとこじつけて、漢字制限だ、ローマ字だ、と騷がれたことがありますが、言語はその國の文化の總和であり、反映であつて、日本語をこはしてしまつては、日本文化はないのです。
自らを律する、恩を感じる、今日樣に濟まぬと思ふ、己れには嚴で人には寛、恭儉己れを持する心、忠恕の心──まだ澤山ございませう。さうしてかうした言葉を多くもつてゐるのは、このやうな心を豐かにもつてゐるからではないでせうか。
人類の三十分の一の日本の人々にこの心のあることを、眞に心強く思ひます。そして私は國籍を英國にもつものですが、日本人以上にこの心を誇りに感じてゐるのです。
そのC.S.バビア氏の著作が今、手許にあるので紹介する。日本甲士會から刊行された正字正かなの書物である。飜譯ではない。バビア氏自身が日本語で書いた。
C.S.バビア(Bavier)氏は明治21年1月30日、スイス生れ。明治24年に來日し、日本で育つた。
氏は明治39年、支那革命黨に參加。しかし、のちに革命黨の同志に贊同し得なくなり、オーストラリアに移住。大正3年10月英國籍を取得。陸軍に志願した氏は、一次大戰に從軍。大正6年、廣東軍官學堂にて教鞭を取り、毛澤東らを教へた事もある。大戰後、日本で英文學や英語を教へたり、宣教師や外交團員らに日本國史や説文などを講じたりした。
昭和11年、離日(香港へ)。その後、シンガポールに移り、防衞官顧問となつた。大東亞戰爭勃發後、オーストラリア地上軍司令部東方聯絡部に出仕、糧道杜絶の日軍將兵救出に力を注ぎ、約三千五百名を濠洲の客となす
。
戰後、シンガポール軍事裁判所日英語通譯官監督(〜昭和23年)。同年10月末日、再び來日。
衆が目前の情況に眩惑し、大和國の本質を忘れたるの感あるを慨し、この書を著すに至る。
内容は、國史の祖述だが、「日本人の特質」と常識的に思はれてゐる事の中にも、案外さうではないものも多い、と云ふ事を指摘。本當の日本人の精神とはどのやうなものか、を檢討してゐる。
435ページもある大冊なので、通して讀んでゐないどころか、ぱらぱらめくつた程度なのだが、それでも興味深い記述が隨處に見出せる。
例へば、昨今大騷ぎになつてゐる姓の問題について、もともと日本人は地名や職名に基く姓を身分に關らず持つてゐた、とバビア氏は指摘する。
百姓町人が姓を用ゐる事を許されなかつたのは、徳川幕府250年の間だけであり、これは日本史上の例外である、と述べてゐる。
そして、ヨーロッパでは王家、皇家、帝家であつても姓を持つが、日本の皇室は姓を持たない、と云ふ事を指摘し、これは日本獨特の事であると述べてゐる。
また、妻が夫の姓を名乘らず、もとの姓を名乘ることは、明治になつてヨーロッパ風を加味した民法の出來るまで、支那風の傳はり續いたもの
だと指摘してゐる。
また、印度支那でフランスが漢字の廢止とローマ字強要を學校教育でやつたのに對し、三十年にしてその國民の大半が、恰も支那民族より文化的に切り離されたやうなことになり、己が家譜をすら讀み得ずお位牌の字もうろおぼえの程度に立至り、フランスに對して倶に天を戴かざるの怨恨を抱くに至
つた、とバビア氏は書いてゐる。それに比べれば、日本が韓國で行つた同化政策の罪は甚だ輕い
ものではある、とバビア氏は評してゐる。とはいへ、それが誤りであつた事は、バビア氏も明記してゐる。凡そ世界人文の美は、各種各樣各色の文化が燦然と、彼の高山のお花畑の如くであるところにある
と云ふ譬喩を用ゐてバビア氏は各國文化の獨自性が大事である事を強調してゐる。
そして、バビア氏は、漢字が日本、朝鮮、支那を文化的に繋ぐものであると評價し、印度支那(佛印:ラオス・カンボジア・ベトナムを含む地域)でフランスが漢字を廢し、土語的支那語をローマ字で書かせることは、文化殺戮で
はないか、と非難してゐる。
バビア氏は日本で育ち、日本を愛してゐる。
筆者(バビア氏)は家の習慣により、幼時新教の洗禮を受けて居りますが、日本のお寺の讀經や燒香、またカトリックの儀式も好きであり、殊に十九世紀末フランスの片田舎に顯れた少女で病者に事へ、死後聖徒の列に加へられた、幼主ヤソの聖女テレサを信仰し、同女の奇蹟御助等をも經驗して居り、從つて禮と祈りとを信ずる者でございます。
同時にまた神社の掃き清められた玉砂利、注連繩、みな好きであり、殊に鏡が御神體と申す點に心が牽かれます。人の顏を見る時、それが父母の所生であり、その人に對してその父上や母上を見奉る、人を尚ぶの情、人を重んじ、これを蔑ろにせざるの情が融然としてこゝに起ります。即ち孝の心、社會保障の根本がこゝに生じます。國の諸政はこれを助長せしむべく、これを毀るが如き事があつてはなりません。始めての月給を神棚に供へる、息子、娘、婿などより遙々送つて參りました老父や老母へのお小遣を神棚に先づ供へる、感謝してからでなければこれに手を觸れぬ。「自分」と申す言葉に、私、拙者、やつがれ、ぼく、わらはなど、私が一寸考へても十五、六あり、本當は四十五もある國。英語では二か三と存じます。時折西洋人等が、日本語をもそつと簡單なものにし、ローマ字でも使つてくれねば、折角我々が東方諸文化の綜合的精華たる日本文化に接しこれを吸收しやうとしても、日本語といふ障壁の爲に出來ないと申し、日本人のうちにもこれに相槌を打ち、また漢字があるから科學が後れ、廣島の敗となつたものだなどとこじつけ、漢字制限だ、ローマ字だ、と騷ぐ向もございます。
言語はその國文化の總和であり、反映であつて、日本語を毀して了つては日本文化はないのでございます。上述しましたやうに自分といふ語が色々ございますのも、自らを律する、腹を切る、恩を感じる、冥利を忝しとする、今日樣に濟まぬと思ふ、權利よりも義務を先づ思ふ、己には嚴で人には寛、己に薄く人に厚き心、天は高きも局せざれば敢て歩まず、地は厚きも蹐せざれば敢て歩まざるの心、即ち忝儉己を持するの心、忠恕の心──このやうな心を豐かに持つてゐるからであり、さうしてこれは漢字に負ふところ多いのでございまして、世界人類の三十分の一の人々にこの心、この語のありますことは、誠に人意を強うするに足るものでございます。尤もカトリックにもgrace(冥利)といふ語がございますが。
古代の日本人が鏡を神聖なものとして大事にしたのには、先進文明に對する畏敬の念が強く作用してゐると思はれるし、日本人の「新し物好き」と云ふ輕薄な側面を象徴してゐるとすら私は考へるのだが、一方で、バビア氏の擧げた日本語の徳を表はす多くの語は、私にも非常に懷かしく思はれる。
或國の文化とは國語である、と云ふバビア氏の意見に私は贊成である。餘所の國にはない、豐富な語彙を失つてまで、國語を簡便なものにするのに、バビア氏は反對してゐるが、私も反對する。
それにしても、「ございます」を用ゐるバビア氏の言葉遣ひは美しい。これは懷かしい江戸の言葉である。
東方文化と支那象形文字、即ち漢字とは、切離し得ないものでございます。漢字は、時と所、即ち時代と國とにより音が變つても意が變らないもの、縱横の繋がりの確な、紙面を占めること最も小なるものであつて、各文字の成立が理に合つて居りますから、その理に基いてこれを教へれば習得も容易でございます。現在日支兩國で使用されてゐる文字は三、四千でございませうが、一萬字ぐらゐ教へましたら、それくらゐは頭に殘るかと考へられます。東洋が東洋として、日本が日本として、その特色を以て世界文化に寄與する爲に、また上品と多樣との水準に達しない無作法で單一に甘んずる人々に範を示す爲にも、日本人の漢字能力を明治二、三十年頃のそれに復歸せしめる必要がございませう。
「漢字を澤山教へるのは兒童が可哀想だ」「漢字を教へない事が兒童にとつては良い事である」と考へる僞善的教育者がゐるけれども、子供はそれで必要な漢字を覺えられるだらうか。バビア氏は「より多く教へれば、より多く頭に殘る」と云ふ、非常に單純で當り前の指導法を提示してゐる。
續いて、バビア氏は語學教育に就いて提言をしてゐる。
滿三歳くらゐから10年間、基礎的な教育を施せば、多くの場合、十分である(十年制國民學校
)、と云ふ意見は、貧しい當時の日本では適當なものであつたらうが、今も通用するものであるかは怪しい。しかし、公私の職場に於いては皆平
からはじめ、選拔試驗で平等に昇進出來るやうなシステムを作るべきだ、と云ふ提言には耳を傾けるべきかと思はれる。たとへ醉狂で如何ほど外國の大學等へ行つて色々な肩書きを持つて參りませうとも、上記十年制國民學校卒業者と同樣に平で始め、昇進するには選拔試驗に及第するものとし、明治以後學閥といふものの存在により損はれたところを改め、明治御一新變革の精神に復歸致さねば
ならぬ、と、バビア氏は書いてゐる。
この「十年制國民學校」では、第一學年から漢字と英語の兩方を課す。第一學年の英語は「聽く」「話す」のみを教へ、第二學年以降は前學年時の國語教科書をそつくりそのまま英語に譯して英語の授業で使へば、教室では殆ど日本語を用ひることなく、大いに英語が進みませう
、とバビア氏は述べる。學校教育での外國語は、必ずしも英語に限るべきではなく、例へば北海道ではロシア語、壱岐・對馬では朝鮮語、九州北半部では支那語が宜し
い、としてゐるのが面白い。
なほ支那語を課する場合に、誤つて簡易化と心得、本字の代りにローマ字を用ひるやうな事のないやうにすべきでありませう。直接國字漢字に就かずローマ字で日本語や支那語を習ふ西洋人は、丁度カナ書きで英語を習ふ日本人と同樣、金輪際目的の語を習得し得ず、生涯ローマ字より來る誤音がついて廻りませう。
この指摘は、露骨なカタカナ英語を喋る大橋巨泉を持囃す現代の日本人には通用しないかも知れない。しかしバビア氏は、「通じれば良い」と云ふレヴェル以上のものを語學教育は與へるべきだと信じ、日本人は語學教育を通して外國の文化を理解すべきだと信じてゐたのである。