この本は、山本有三先生が、岩波書店からこの春お出しになつた「戰爭と二人の婦人」の、「あとがき」が糸口となつて、生れたものである。その「あとがき」は、この本では、卷頭に收められてゐる「國語に對する一つの意見」といふ一文で、つまり、ふりがなをやめてしまひ、ふりがながなくても誰にでも讀めるやうな文章を書くやうにしたい、といふ提案である。
山本は昭和十三年に『戰爭と二人の婦人』を發表。その「あとがき」で以下のやうに述べた。
いつたい、立派な文明国でありながら、その国の文字を使つて書いた文章が、そのまゝではその国民の大多数のものには読むことが出来ないで、いつたん書いた文章の横に、も一つ別の文字を列べて書かなければならないといふことは、国語として名誉のことでせうか。
山本はルビの廢止とともに、漢字制限と「難しい漢語」の言換へを主張した。また、『戰爭と二人の婦人』では漢字を千二百〜千三百字程度に抑へた事を記してゐる。
この「あとがき」における山本の主張に對して、雜誌や新聞で多くの人々から意見が表明された(大久保正太郎に據ればこの論には賛成者が多
かつた)。或は、直接山本の文章とは關係ないが、振假名に關する意見が、同じ時期に多數表明された。
それらを集めて一覽できるやうにしたのが『ふりがな廢止論とその批判』である。ふりがなの問題に觸れた文章八十篇が新聞・雜誌から轉載されてゐる。それらの九割がふりがな廢止に賛成であつた。
山本有三は、東京朝日新聞に連載(昭和十二年)した『路傍の石』を書き改め、『主婦の友』に發表した(新篇・昭和十三年)。その際、ふりがなを用ゐず、讀み假名は本文中に括弧に入れて插入すると云ふ方式をとつた(新篇の連載は中絶)。斯うした方式は、のちに福田恆存から「原稿の水増し」と批判される事になる。
『路傍の石』は現在、新潮文庫版で讀める。表記は「現代表記」に改められてゐるが、讀み假名の記載の方法は原文の方式が再現されてゐる。
山本は極度の近眼だつた。その原因がふりがなの細かい活字にあると信じてゐた爲に、山本はふりがなや漢字を憎惡し、國字改革に邁進した、と皮肉られる事がある。
實際のところ、山本の主張するやうに、「文明国」であつても國民が屡々「讀めない」文章は存在する。英米の文章において、ラテン語由來の學術用語等、門外漢にはちんぷんかんの單語は大變に多い。さうした語について「讀める」やうにするには、英語では注を附すくらゐの事しか出來ない。
それに對して、漢字假名交じりの日本語では、漢字を用ゐた專門用語は、知らない人にとつて一見「難しい」ものであつても、割と多くの場合、漢字自體から意味を類推して、正確ではないにしても、漠然とした概念を掴む事が出來る。そして、ルビを用ゐる事で取敢ず「讀める」やうにはなるのであり、その點、專門的な文章と、專門外の人間との間の懸隔を埋めてゐる役割をルビが果してゐると言へる。ルビは「教育的」な役割を果してゐると言ふ事が出來る。
これに對して、山本の主張では、ルビが視力低下の大變重大な要因となつてゐるとされる。劃數が多い漢字もまた、視力低下の原因として山本は攻撃した。ところが、技術の進歩によつて、現在では鮮明で讀み易い文字が書籍・雜誌では印刷されるやうになつてゐる。今や山本の主張は過去のものとなつてしまつてゐる。山本のやうな論據でのルビ廢止論は、今では全く聞かれない。しかし、この「古めかしい意見」の持ち主であつた山本が、敗戰後、國字改革を主導し、漢字制限等の政策を實施に移すのである。
今では、ルビが無害であるのみならず、寧ろ有益である事は判明してゐる。漢字についても同じである。ところが、過去の時點における誤つた判斷によつて行はれた國字改革は、現在でも反省される事なく、「正しい」事として一般に受容れられてゐる。さすがに「常用漢字」なる「枠組」だけは撤廢されさうであるが、にもかかはらず、未だに「漢字を制限するのは良い事だ」と云ふ「信仰」が一般化してゐる。
山本有三の齎した害惡は大變に大きい。