初出
「闇黒日記」平成十八年七月十一日
公開
2006-09-10
改訂
2007-01-07

金田一春彦『新日本語論 私の現代語教室』

金田一春彦『新日本語論 私の現代語教室』
筑摩書房・グリーンベルトシリーズ80

要約
「言葉は亂れてゐる、が、言葉は亂れてゐるものである、だから言葉は亂れてゐて良い」と繰返してゐる本。
批評
なぜ「だから」に「なる」のかさつぱり解らないが、日本人の殆どが「その通りだ!」と「納得してしまふ」であらうと思はれるし、「偉い學者」である金田一先生が仰つてゐる事だから、と云ふ事で盲信してしまふ人も多いであらうと思はれる。

副題――「私の現代語教室」

福田恆存『私の國語教室』への露骨な當てつけ。

非道い引用の仕方

許し難い事に、金田一春彦は、桶谷繁雄氏の發言を、桶谷氏の意圖に反して利用してゐる。

101ページ。「言語生活」第十五號の「日本語は科学には不利か」と云ふ座談會から金田一は以下のやうな發言を引用してゐる。對談者は桶谷繁雄氏と緒方富雄氏。

編集部
アメリカでは、大学生が英語の表現法についてのレッスンを受けさせられるという話を聞いたんですが、ヨーロッパではどうなんですか。
桶谷
私の知っている例を言いますと、文章を書くこと、それを言葉として表現すること、これが昔に比べて非常に劣って来たという事実があるんですね。たとえば、ポリテクニックという有名な学校、そこでフランス語の作文をやらせているんですが、フランス語が支離滅裂だ。これじゃフランス語が衰亡の一途をたどるから、大いに高等学校あたりでそういう点をよくしなければならない――ということを言っているくらいで、言葉の乱れは世界共通じゃないかと思います。……
緒方
世界共通ですよ。アメリカはアメリカで猛烈に悩んでいるんですよ。「イギリスがうらやましい」という。ところが、イギリスに行くと、また、「乱れてる」と言ってるんで、まったく世界共通ですよ。桶谷君の言うとおり。……

金田一春彦は、言葉の乱れは世界共通と云ふ桶谷氏の發言を至言であろう、と評してゐる。ところが、この對談を扱つた章を、金田一は以下のやうに結んでゐる。第二篇 外国でも国語は乱れている 第五章 結び――言葉の乱れは各国軒なみ

おそらくこの「言葉の乱れは世界共通」というのが至言であろう。菊池寛氏の『時の氏神』に出てくる話であるが、ある人が戸山が原へ行って、芝生に腰をおろそうと思って足もとを見たら、自分のいるところは芝生が薄くてきたない。二、三間むこうは、それにひきかえ、いかにもよく芝が茂ってきれいである。で、そこまで歩いて行って腰をおろそうとすると、そこも真上から見ると、前のところと同じようにまばらにしか生えていない。しかも、そこから前いた方を見ると、今度は前にいたところの方が、よく茂っていてきれいに見えた、という。

言葉の乱れもちょうど同じようで、日本人が日本語を特別に乱れていると思うのは、日本語を一番よく知っているからではないか。決して、日本語が特に乱れているのではなく、これが生きた言語の常態であるのではないか。言いかえれば、日本語は「乱れていない」言語だと見ることもできるのではなかろうか。

桶谷氏が「言葉の亂れは良くない」と考へてゐることは明かである。ところが、その桶谷氏の發言を利用して、金田一は「言葉の亂れなんてものは無い」と主張してしまふ。非道いものだと思ふ。大體、どうしてこんな「言いかえ」が出來てしまふのか、さつぱり解らない。

金田一は、日本人が日本語を特別に乱れていると思う、と――わざと「特別に」を入れて――言つてゐる。「特別に」なら、「何も特別には思はないで良いのだよ」と言つてやれる訣だ。讀者は誰もが自然にさう思ふ。金田一はそこに附け込む。金田一は「特別に」を拔かして「何も思はないで良いのだよ」に話を摩り替へてしまふ。實に微妙な話のすり替へで、讀者は金田一のすり替へに氣附けない。擧句、「言いかえれば」である。何も言換へになつてゐないのだが、ぼーっと讀んでゐる讀者は金田一のこの種の話術に騙される。金田一は、幾つも詭辯を積重ねてゐる。この種の詭辯を利用する人間は、信用してはならないのだが、金田一は「偉い學者」だから、多くの日本人が騙される。

金田一の主張は徹底的に檢證して、その詐術を曝露しなければならない。例の「会長」が、その邊の事を異常な熱意で以てやつて呉れると有難いのだが、あゝ云ふ人物は自分が樂をするのを正當化するやうな理論しか支持しないから、金田一の詭辯も手放しで受容れてしまふ。

「私のモノサシ」を絶對視

金田一は、「国語の乱れ」について、極めて特殊な観点から検討を進める。

歴史的假名遣について、金田一は「そもそも基準としてなつてゐない」(要約)と考へてゐる。原理的な檢討が進行中である歴史的假名遣は、「國語を統一する=国語の乱れを解消する」(金田一の發想)の役には立たない。明治・大正・昭和にかけて、歴史的假名遣は普及したが、そもそも歴史的假名遣では書き方が確定しない場合が多い。それが戰後、表音的な「当用漢字」「現代かなづかい」が定められ、新聞・雜誌が從つた事でそれらが一般に普及して、それで日本語は「乱れが収まった」と金田一は述べる。金田一に據れば、基準は何でも良い、兔に角何んな理由であれ定まつた基準であればそれで良い、さう云ふ考へから見れば、今の日本語は昔の日本語よりも「乱れが少ない」と、さう金田一は述べる。金田一は、私のモノサシと言つてゐるが、さう云ふ私のモノサシで「国語の乱れ具合」を計るのは「正しい」と思つてゐる。

だが、こんな私のモノサシを認められる訣がない。「いや、認められる!」と、案外多くの日本人が考へるのでないかと思ふのだが、認められる訣がないではないか。大體、「自然な言語の状態」としての「言葉の乱れ」を論じて來たのに、いきなり「言葉の乱れ」を計るモノサシが「人の定めた基準」にすりかはつてゐるのである。金田一の言つてゐる事は詭辯も良いところだ。ところが多くの日本人が金田一の詭辯を見拔けない。やつぱり、「偉い學者」が言つてゐる事だからと、權威主義的な發想で、進んで騙されてしまふのだらう。

低レヴェルの福田批判

「第三章 現代日本語の乱れの診断」の「第七章 結び――今の乱れは騒ぐに当たらず」で、金田一は以下のやうに言つてゐる。

……昭和三十八年の秋、『読売新聞』の夕刊で「日本語の乱れ」という題で、五、六人の人がかわるがわる一千字ぐらいずつの短文を執筆していたが、中で福田恆存氏は、はっきり例をあげて、自分は「見られる」を「見れる」というように言うのを乱れていると言うのだと言って、さすがにすじが通っていた。これはこれなりによかった。それから、池田弥三郎氏は、一体「乱れている」、「乱れている」と言って、どこがどう乱れているんだ、と開きなおっており、これはもっとよかった。……

開き直つて何うするんだと俺なんかは思ふのだが、金田一は嬉しくて仕方がないらしい。


同じ章で、福田恆存批判を金田一自身がやつてゐる。福田恒存氏は文部省と同意見か

私は、ここで根本的な疑問を提出する。たとえば、福田恆存氏のような人は、現在の日本語を乱れていると見て、筆をとればその乱れを嘆いておられる。乱れがおさまることを願うような口調である。が、ほんとうのところはどうなのであろうか。

福田恆存氏は、日本語の乱れを心配すると言われる一方では、文部省が送りがなの基準を定めたことを攻撃し、また、今、国語審議会で「むずかしい」と「むつかしい」との両形あるのを一つに統一しようとしたりしていることを、つまらぬことだと言われる。しかし、そういう審議会の仕事は、日本語の乱れを改める仕事であることは明らかである。氏は、送りがなの統制のなかった昔をよかったと言い、「むずかしい」「むつかしい」のようなちがいは無視せよと言われる。氏の論を軽率に読むと、文部省というものは、日本語を乱すように乱すように政策を打ちたててきたようにとれる。が、実際は、そうではないこと、上に述べたとおりである。さればこそ、『国語白書』などで、しきりに日本語の乱れを説いているわけで、この点などは、福田氏と文部省とは口うらを合わせているようだ。

福田氏の考えは、私に言わせると、乱れの統制を内閣告示というような形で行なうのがいけない、ということにある。とすると、氏が、無造作に、「日本語は乱れている」と言われることは、誤解を招くおそれが多分にある。氏は、「日本語の乱れ」を心配しているのではない。氏の趣旨は、文部省の新しい国語政策の攻撃にあり、氏の言われる「日本語は乱れている」は、かりて来た錦の御旗である。

「日本語が乱れている」と人びとに警告を発することは悪いことではない。大いにけっこうなことである。これによって人びとは正しい日本語を使おうと気をつけることになる。また、文部省の国語政策に対して、批評することも、けっこうである。たしかに、適当でない政策がいくつかあった。今から改めなければならないところはたくさんある。しかし、それに対して、「日本語が乱された」と言って攻め寄るのは、すじがちがっていた。

金田一に據れば、そういう審議会の仕事とは、即ち表記の基準を示したりする事であるが、それが日本語の乱れを改める仕事であると云ふのは全く明かな事實ではない。「むずかしい」「むつかしい」と異る言ひ方がある事を金田一は「国語の乱れ」と稱し、それらの違ひを統一するのを「良い事だ」と信じてゐる。だが、そんな馬鹿な話はない。「むづかしい」「むつかしい」は、歴史的假名遣で書けば明かなやうに、「づ」「つ」の違ひ、濁音であるか清音であるかの違ひでしかない。濁るか澄むかの違ひでしかない。これを統一しようとするのが「つまらない事」である事こそ、日本語の歴史・日本人の感覺を持出すまでもなく「明かな事」だと言へる。

金田一は、福田氏は、私に言わせれば、むしろ、日本語の乱れを楽しんでいる一人である。と極附けてゐる。この極附けは、逆に金田一の動機を説明してゐる。金田一は、自分が「日本語の乱れを楽しんでいる」から、批判對象である福田氏もさうだらうと思ひ込んでゐるのである。金田一は、私もある点においては、日本語の乱れを歓迎している。と述べてゐる。「ある点」と金田一が強調するのは、「乱れであっても使いやすいなら良い」「乱れであってもそれが日本語をよくしていくのに役立つなら良い」と云ふ事である。が、どうもかうした一見プラグマティックで合理主義的な發想、安直であるやうに思はれてならない。が、それなら一々「日本語の乱れと言う人」の動機など穿鑿せず、ただ「良い『乱れ』」と「悪い乱れ」を、理由を擧げて述べればそれで良かつたのではないか。金田一はかう述べる。

これを要するに、多くの人は今の日本語に色々不満をもっている。そういう人たちは、その不満があるということを「乱れている」と表現しているのだと思う。

人は自らを否定すべき文句で以て他人を罵りがちである。一々「日本語の乱れと言う人」を批判して見せる金田一には、「日本語の乱れ」と言はれる事に不滿があつたのである。そして、「福田こそ文部省の手先」のやうな言ひ方をしてゐる金田一、實は金田一こそ文部省の手先――國字改革の實行者の手先――を務めたかつた、と云ふだけの事を曝露してゐるのではないか。

ところで、金田一の福田批判だが、改めて文脈を確認しておきたい。それは「なぜ今の日本人は『日本語の乱れ』を『言う』のか」と云ふ「動機の説明」である。かうした「動機の説明」が詭辯の一種である事は説明するまでもない(「なぜ野嵜はウェブでものを言っているのか、それは野嵜が無職だからだ」と云ふ、例の「義」に據る「動機の説明」を想起して貰ひたい)。例によつて詭辯でもつて金田一は讀者を騙さうとしてゐる。


しかし、この春彦金田一の「論法」、かつて春彦の父・京助金田一が「福田恆存氏のかなづかい論を笑う」で用ゐた「論法」と、全く同じ種類のものなのである。金田一京助も、「國語の改良」と云ふ「國字改革の根本精神」に「福田も賛成なのだらう?」と言つてゐる。

參考
福田恆存と國語國字問題

これ見よがしの「しをらしい」態度

「あとがき」で金田一春彦は、以下のやうに書いて、保守派・國粹主義者の批判を躱し、或は彼等に阿らうとしてゐる。

なお、この「日本語は乱れていない」という論は、もともとは私自身への警告のために書いたものである。私は趣味・嗜好の点ではきわめて国粋的・保守的の人間で、机のわきのラジオからエレキ・ギターが聞えてくると、うるさがってスウィッチを切るが、長唄やお箏が聞えてくると、勉強をやめて演奏に聞きほれる方である。だから日本語でも、旧字体・旧仮名に愛着をもつ。「唄」や「箏」が当用漢字にもれたことを悲しく思う。「日本語が乱れている」という叫び声は、そういう私の耳にはきわめてこころよく響く。しかし、そう考えていいものかどうか。それは個人的な感情にもとづくものではないか。そう考え出したら、次から次へ疑問が起こり、それを書き連ねてみたら、このような文章が拙来たというのが実情である。

だから、私は、言語学を専攻する者としては、私の論が論破されないことを願うが、個人としては、私の議論を論破して迷いをさましてくれる人が出ることも望んでいないとは言えない。その意味でも忌憚のない御意見をうかがいたいと思う。

一見、「謙虚な態度」であるやうな文章で、だから多くの日本人は金田一の文章に騙される。「自省的な金田一は素晴らしい人格の持ち主である、だからその説は信用できる」と云ふ訣だ。

一方、かう云ふ「しをらしさ」を見せず、「ひたすら敵を攻撃する」正字正かな派は、多くの人にとつて「傲慢」と云ふ事になる。

だが、正字正かな派の側から言はせて貰へば、謙虚さをこれ見よがしに見せる金田一の樣な態度こそ傲慢である。金田一の「謙虚」は、見え透いてゐるのである――と言ひたいが、實は本氣で金田一は自分が謙虚である積りでゐる。ところが、謙虚な人間ならば、「日本語の乱れと言う人々」の動機なんて物を一々臆測して見せるなんて眞似はしないだらう。金田一の「批判」は、「自覺のない嫌がらせ」であるし、だからこそ金田一は實に厭らしく嫌味を言つて見せるのである。

私(野嵜)にして見れば、金田一のやうな嫌みたらしい態度よりも、寧ろ正字正かな派の「蠻カラ」の方がよつぽどすがすがしく好ましいやうに思はれる。だが、世間の多くの人は、坊つちやんのやうなガキよりも赤シャツのやうな「大人の態度」の人間を好むものらしい。