講談社版の保田與重郎全集は品切れとなつたが、新學社の保田與重郎文庫の刊行がはじまつた。主な著作はそれで讀める。
『日本に祈る』以降が戰後の著作である。戰前の著作には、有名な「日本の橋」のほか、『日本語録』『後鳥羽院』『古典論』『和泉式部私抄』と云つたすぐれた評傳や評論、註釋書がある。保田は屡々古典を評論の題材に採り上げ、古典の精神の復興を主張した。
しかし、寧ろ古典に現はれた近代的な精神に保田は注目してゐる、と云ふ事に注意したい。單純な復古論ではなく、古典の精神を近代的な自我意識に基いて再解釋したところに、保田の眞骨頂があり、同時に保田が軍から睨まれる契機があつた。保田は今、右翼から支持を受けてゐるが、案外右翼とは相容れない主張をしてゐる事に氣をつけたい。それだけに、右翼が言逃れをする根據に保田を持出すのが、私には嫌らしく思はれる。
戰後の著作は今一つ冴えない。保田の文章に老成を見出す讀者が多いが、私はむしろ保田の文章の若々しさに注目したい。文章に込められた熱氣に注目したいのである。熱つぽく語られる文章に、讀者は醉つ拂ふ。戰後の保田の文章からは若さが失はれてゐるやうな氣がする。とはいふものの、中河與一を論じた保田の戰後の文章を讀んで、私は目眩を感じたものである。
ちなみに、保田の文體に人は惡影響を受けるものだが、私も例外ではない。確かに保田の「詩才」は凄まじいもので、そこに隨分多くの讀者が騙される。しかし、譯のわからない文體を驅使すれば良いと云ふものではない。保田の「名著」の中にすら、譯のわからぬ文章が出現する事には注意が必要である。龜井勝一郎はかつて太宰治に「保田の文章は譯がわからない」と述懷したさうである。