制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
全面改訂版公開
2005-02-04
改訂
2006-05-09

時枝學説についての覺書

「言語學者」ソシュールの著作『言語學原論』(のち『一般言語學講義』と改題)は、小林英夫によつて邦譯された。ソシュールは言語において「ランガージュ」と「ラング」とを區別し、「ラング」のみが「記號學としての言語學」の研究對象となる、と述べた。

小林譯でこの「ラング」は「言語」と譯されてゐる。これは誤譯であつた。だが、小林は「言語」と譯した「ラング」を、日本語で普通に言ふ言語と混同した。小林が表音主義に傾いた事は、彼が「言語學」の研究對象としての「ラング」を、一般的な意味の・日本語としての言語と混同した事を示してゐる。

かうした小林の勘違ひは、そもそもソシュールの勘違ひに起因する。ソシュールは、本來の意味の言語の研究を不可能とし、「ラング」のみが研究可能な要素であると指摘した。ソシュールは、全體としての言語の本質は「研究對象としないのが正しい」と主張したのである。これは、從來の言語學に對するアンチテーゼとして提出されたものだが、歴史學の不可能を指摘するやうに、行き過ぎた批判として再批判が必要であらう。そして、その再批判を時枝は言語過程説を提出する過程で行つてゐるのである。

「近代的な學問」としてのソシュールの「記號學的言語學」を、時枝は「本質的でない」と看做した。常識的に考へて、時枝のソシュール批判は當然のものと言へるだらう。今ではソシュール學説が一般化したから、ソシュール批判そのものがタブーとなり、時枝の批判は否定されてゐるが、未だにソシュール學説から脱却し得ないのは異常である。

時枝の主張は「學問の對象を限定して滿足しようとするソシュールに對する批判であつた」と理解する方が良い。「矢張り本當の言語學はソシュールの所謂『ランガージュ』を對象とする學問なのではないか」――客觀的に扱へる記號=ラングに學問の對象を限定するソシュールの「記號學的言語學」は、正確たり得るかも知れないが、眞實を追求する學問としては不十分であり、逃避である。言語學の對象は言語でなければならない。當り前過ぎる話である。

傳達される過程としての言語を全體として扱ふ、本質的な意味での言語學、即ち言語過程説の構築を時枝は目指した。時枝は、具體的事物(表象)を概念化する概念過程を想定し、その「ある」「なし」で「詞」と「辭」とを分類し、言語過程説に基く所謂「時枝文法」を構築した。

かうした發想の背景にはフッサールの現象學の影響があるとされる。一方、「詞」「辭」の概念については、江戸時代以來の國學者に據る文法研究の影響があるとされる。

時枝の文法については、語と意味の關係が等閑視されてゐる事、零記號、從來の音韻に基いてゐる用言の活用の考へ方が古い事、「詞」と「辭」との區分、等に問題があると指摘されてゐる。また、ソシュールの記號學のやうに計量的に單語を扱ふ事が出來ない點も、時枝の説の「弱點」であると言へる。

さうした時枝學説に對しては、時枝の死後、服部四郎に據る「時枝はソシュールを誤讀してゐた」「時枝はラングとランガージュとを取違へてゐた」と云ふ批判が浴びせられた。「以來、時枝の著作には古本屋で値が附かなくなつた」と谷沢永一は述べてゐる。かうした「結論」の部分が、スローガンのやうに廣まり、それだけで判斷される現状がある。しかし、かうした時枝學説を全否定する見解には問題がある。この手の時枝批判の背後には、「言語學の研究對象は『ラング』に決つてゐる」といつたドグマ・イデオロギーがあり、これに反對する時枝は「間違つてゐるに決つてゐる」と極附ける態度があるからである。

「ラング」が一般的な意味での言語でなく、當然、言語の本質でないのなら、「それだけを研究すれば良い」と云ふ發想は異常である。或は、「ラングの學問」における研究對象に過ぎない音聲言語を言語の本質と信じ込むのは勘違ひである。寧ろ、服部の方こそ「言語の本質をラングだと誤解してゐた」と批判されるべきであらう。

一方、現在でも、「ソシュールの言語學」の一側面を絶對視して言語學を單純な記號論として扱ふ事への批判として、「時枝の學説は有效であつた」と見る向きもある。が、殘念ながら、一時期一世を風靡した時枝の學説は現在、殆ど無視されてゐるやうな状況にある。時枝の早世は、時枝學説の熟成を不可能ならしめ、ソシュール派からの攻撃に反論し得る後繼者の養成を不可能ならしめた――日本の言語學にとつて大變に不幸な事であつた。

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