斎藤緑雨

略歴

本名賢。正直正太夫、江東みどり、緑雨醒客、登仙坊等とも稱す。慶應3(1867)年12月末日、伊勢に生る。明治9年上京。明治法律學校中退。新聞界に入る。22年の「小説八宗」以降批評家として、24年の「油地獄」以降は小説家としても知らる。30年「おぼえ帳」以下の短文隨筆集、31年「眼前口頭」以下の警語集を書き始む。37(1904)年4月歿。

評價

緑雨は初め、批評・論爭で名を擧げた。激しい罵倒を行つて衆目を集めたのである。その所爲で各方面から反感を買つた。

一方、鴎外・露伴と交遊があり、共に論評の活動を行つた。早くから緑雨の才覺を評價する人もあつた訣である。が、世間では鴎外・露伴等よりも格下の文士と見られてゐた。

晩年には多くの優れたアフォリズムを新聞に發表した。相變らず舌鋒鋭く、筆禍事件を度々起した。その爲、文章を發表出來る場が次第に限定されるやうになり、貧窮の内に死ぬ事となる。死亡廣告を自分で新聞に出したのは有名な話。

ジャーナリズムの中で生活したが、江戸の文人の雰圍氣・センスを最後まで保ち續けた。戲作者の生殘りとしての自覺を持つて著述活動を行つた點、「反近代の思想」の系譜に連なる人物の一人である。


緑雨には小説の著作もある。「油地獄」等の代表作が岩波文庫で讀める。江戸趣味的な觀點からは興味深いものだが、明かに「前近代的」なもので、當時既に古臭いものであつた。

寧ろ批評家として緑雨は評價が高い。「正直正太夫」等の筆名で行つた匿名批評は有名で、特に初期のものに豪快・愉快なものが多い。しかし、罵倒の増えた一時期の著作は評價されてゐない。

晩年には文明批評的なアフォリズムを數多く書いた。現在も記憶されてゐるのはその爲である。アフォリズムはのちに冨山房百科文庫で纏められてゐて今でも割と手輕に讀める。


死後、一部に根強いファンはゐたものの、一般には忘れ去られてゐた。

平成の御代になつて筑摩書房から全集が刊行された。小説・批評・アフォリズム等、未發見のものを除いて、ほぼ全ての緑雨の文章が容易に讀めるやうになつた。


彼の主な批評活動は、時期的に多少の重なりはあるものの、おほよそ以下の4種に大別することができる。

電子テキスト

眼前口頭
1999-09-25
霏々剌々
2000-07-26
2012-04-23
一切存じ不申
2000-03-29
予は贊成者にあらず
2000-07-26

リンク

外部