斎藤緑雨

『緑雨警語』
2018-02-21

略歴

本名賢。正直正太夫、江東みどり、緑雨醒客、登仙坊等とも稱す。慶應3(1867)年12月末日、伊勢に生る。明治9年上京。明治法律學校中退。新聞界に入る。22年の「小説八宗」以降批評家として、24年の「油地獄」以降は小説家としても知らる。30年「おぼえ帳」以下の短文隨筆集、31年「眼前口頭」以下の警語集を書き始む。37(1904)年4月歿。

評價

彼の主な批評活動は、時期的に多少の重なりはあるものの、おほよそ以下の4種に大別することができる。

批評家・論爭家

緑雨は初め、批評・論爭で名を擧げた。激しい罵倒を行つて衆目を集めたのである。その所爲で各方面から反感を買つた。

「正直正太夫」等の筆名で行つた匿名批評は有名で、特に初期のものに豪快で愉快な内容のものが見られる。しかし、罵倒の増えた一時期の文章はあまり評價されてゐない。

鴎外・露伴と緑雨の間には交遊があり、共に批評の活動を行つた。世間では鴎外・露伴等よりも格下の文士と見られてゐたが、早くから緑雨の才覺を評價する人もあつた訣である。

小説家

緑雨には小説の著作もある。「油地獄」が代表作で、岩波文庫で讀める。江戸趣味的な觀點からは興味深いが、明かに「前近代的」な作品で、當時においても既に古臭かつた。

文明批評家

晩年になつて緑雨はアフォリズムを新聞に發表するやうになつた。相變らず舌鋒鋭く、筆禍事件を度々起してゐる。文章を發表出來る場は自然、限定されるやうになり、貧窮の内に死ぬ事となる。死亡廣告を自分で新聞に出したのは有名な話。

同じく貧乏であつた樋口一葉とは一脈相通ずるところがあつたらしい。

總評

緑雨のアフォリズムは文明批評的な性格を持ち、長く壽命を保つた。現在も緑雨の名が記憶されてゐるのは主にアフォリズムのおかげである。山本夏彦もファンの一人。平成の御代になつて、冨山房百科文庫からアフォリズム集が刊行され、手輕に讀めるやうになつた。

筑摩書房から刊行された全集には、小説・批評・アフォリズム等、發見された全ての緑雨の文章が收録されてゐる。

ジャーナリズムの中で生活したが、江戸の文人の雰圍氣・センスを最後まで保ち續けた。戲作者の生殘りとしての自覺を持つて著述活動を行つた點、「反近代の思想」の系譜に連なる人物である。

電子テキスト

眼前口頭
1999-09-25
霏々剌々
2000-07-26
2012-04-23
一切存じ不申
2000-03-29
予は贊成者にあらず
2000-07-26

リンク

外部