「サイゴンから來た男」「脆きもの、汝の名は日本」「花田博士の療法」等の戲曲を執筆し、T.S.エリオット「老秘書」等の英米の戲曲を飜譯した他、演出にも携り、演劇界では注目を集めた。氏の創作の多くは喜劇で、風俗劇に屬する。
演劇の上演は日本では話題の新作に偏つてをり、例へば岸田國士の風俗劇ですら殆ど上演されない状況にある。氏の御芝居が再演される機會は殆どないが、上演囘數の多寡は戲曲の善し惡しと無關係である。氏自身は謙遜してゐるが、詰らないものではない。現在の日本は、新作のエンタテインメントが餘りにも多い。
評論らしきものを書き始める前、ほぼ十年間、傑作戲曲を書くべく私は呻吟したが、『花田博士の療法』はその間に私が書いた戲曲のうち、最も上等のものであり、恩師福田恆存氏のお墨附を頂戴した作品なのである。
當時、松原氏は演劇關係者に強い印象を殘してゐる。ソヴィエト演劇の影響下にあり理念優先の傾向が強かつた日本の演劇界で、英米演劇の知識に基き、具體的な技術の指導を行つたからだ。それは役者にとつて有益なもので、少くとも新鮮なものであつた事は間違ひない。當時から活躍する役者諸氏が現在でも松原氏に敬意を拂つてゐる場面を見る事が出來る。
「サイゴンから來た男」は、面白さ以外の理由で再演が不可能になつてゐる事が指摘されてゐる。時事問題を扱つた内容で、今となつては古びてゐると云ふ事實はある。が、「新作が多過ぎる」事で過去の戲曲が埋沒する現象は、歴史的に見て必ずしも「正しい」事ではない。演劇は個性を超える藝術であり、ひたすら新しいものが追加されて行く状況は寧ろ異常だ。氏の戲曲の場合、本當に過激な表現は今の日本では發表できない、と云ふ事情がある。
80年代以降の新作はない。文筆活動の主體を評論に移した爲。のちに松原氏は、文藝評論を書く上で自分で實際に創作をしてみる事は重要である、と述べてゐる。
氏が積極的に英米の戲曲を飜譯し、演出したのは、それによつて日本の演劇の水準を引上げる爲であつた。日本國内の多くの關係者とは演劇に對する見方が異り、それは雜誌・「悲劇喜劇」で早野寿郎氏と共に擔當した演劇時評(連載)における發言でも或程度窺へる。演劇觀は福田恆存と通ずるところがある。
松原氏は「中央公論」で評論デビューを果した。その後、1980年代初頭まで、主に「保守派」のオピニオン雜誌で幾つかの論文を發表し、論壇に知られるやうになる。ところが、「保守派の雜誌」を支配してゐる「論壇のボス」猪木正道がその頃、福田氏と松原氏を干すやう雜誌に壓力をかけた。「問ひ質したき事ども」で福田氏がS氏
と書いてゐるのは「猪木正道」の事だ。以來、松原氏は執筆の場を限定されてしまふ。これに關してウェブの「アンチ」の人々は「正當な評價の結果」と主張し宣傳してゐるが、それにしては論壇における松原氏の「惡名の高さ」は異常で、侮蔑ではなく憎惡の對象となつてをり、この事から考へても、氏の評價が單に「低い」ものと看做されてゐるとは言ひ難い。
メジャーな雜誌に書けなくなつて以後、「月曜評論」「月刊日本」などのミニコミ誌・マイナー誌で論陣を張つた。一般の人の目に觸れない事が多かつたが、その割に論壇への影響は大きかつた。日本の論壇の小ささが判る。殊に「月曜評論」には肩入れし、匿名で執筆して同紙を支へた事もあつた。
特に防衞論の領域で積極的な發言を續け、政治評論家の域を超えた自衞隊擁護と自衞隊批判を展開した。軍事に關する知識は、自衞官との交流を通じて得たもので、「體驗」に基いたものであり、具體的かつ常識的なもので世界的に通用する内容である。戰爭をタブー視せず、人間の本質に關るものと看做し、飽くまで自分自身の問題として扱ふ爲、日本では感情的な反撥を受ける事が少くない。
「社會の右傾化」に伴つて急激に「信者」を増やした西尾幹二や西部邁ら「右派」政治評論家を屡々槍玉に舉げる。その爲、昨今急増した彼等の「信者」からは總好かんを食つてゐる。評論で彼等「右翼」評論家の「文章添削」を行ひ、揶揄する事が、特に「信者」らには氣に入らず、「信者」による松原氏の人格批判までも惹起してゐる。「文章の添削」は、大學教授であつた松原氏の日常の指導方法であり、本來學生相手にする行爲を「一流」の評論家相手にするものであるから、痛烈な皮肉であり、彼等政治のみに興味を抱く日本人評論家の惡文を嗤ふレトリックである訣だが、一般に「政治」を高級なものと勘違ひしてゐる日本人には「高尚な政治を扱つてゐる立派な人々を侮辱し、政治評論を冒涜する不眞面目で許し難い行爲」に見えるらしく、批判の方法として認められないと云ふ事が極めて多い。松原氏の「右派」「右翼」批判は、「左翼」を批判するやうに特定の政治的な立場から他の政治的立場を批判してゐるのではなく、根本的に政治への偏向を否定し、政治とは異る領域の存在を指摘するものだが、政治とは異る領域の存在を認識出來ない人間にとつてはただの揚げ足取りにしか見えない。「問題を認識出來ない事の問題」について我々はもつと良く考へるべきであらうし、また、松原氏が皮肉・諷刺と云ふ方法をとり、冷靜に世の中を眺めてゐる事も評價すべきであらう。
人物批判のみならず人物評に優れてゐる事は案外知られてゐない。最近では2005年、雜誌「月刊ランティエ」に寄稿し、岸信介元總理について人情味溢れる文章を書いてゐる。松原氏は、人物を批判する際にも、常に人間味のある筆致であり、一貫した態度をとつてゐる。
「言論彈壓」以後は、もともと農業關係の科學專門書專門の出版社である地球社が、松原氏の著書を刊行してゐる。『暖簾に腕押し』は以前から品切れだつたが、殘念ながらその後、さらに幾つかの著作が品切れとなつた。
松原氏は「福田恆存の思想の一番の後繼者」である
、と坪内祐三が書いてゐる。坪内氏は早稻田大學で卒業論文「福田恆存」を書いた(卒論指導は松原氏)。
松原氏は、必ずしも全面的に福田氏の影響下にある訣ではなく、歐米の思想家その他からの直接の影響を受け、また獨自の發想に基いてゐる面もある。福田氏から人格的薫陶を受けてゐる事は事實だが、一方、「公正で清潔」と云ふ點で寧ろ福田氏から強い信頼を得てゐた。福田氏は松原氏を「弟子」とは看做してをらず、二人の關係を「友人關係」と見てゐた。福田氏が何の留保條件も無しに信頼を置いてゐた人物として松原氏を第一に擧げる事が出來る。松原氏は飽くまで自身が福田氏の弟子であるとの立場を崩してゐないが、「師弟關係」と單純に看做す事は出來ない。
政治思想の面を受繼いだと稱する西部邁や、最近になつて福田批判に轉じた西尾幹二、或は前田嘉則といつた人々は、慥かに「思想面での後繼者」ではあるだらう。彼等が福田の思想を理解し、繼承或は批判してゐる事は否定する必要がない。けれども、これらの人々と福田の關係が「利用する・される」の關係である事は強調すべきであらう。福田との間に純粹な人間的交流があつた人物としては、松原氏が隨一の存在である。
福田に與へた影響と云ふ點で、西部や西尾は松原氏に及ばない。そもそも西部らは福田に何か感銘を與へ得たか。福田批判でも、松原氏の福田氏に對する「一體何を信じてゐるのか」と云ふ根本的な批判に比べると、西尾のイデオロギー的・時代的觀點からの非難は淺薄なもので、批判にもなつてゐない。そもそも西尾等の批判は福田を否定するだけの目的のもので、所詮は自分の知性を誇らんが爲のものでしかない。福田は、根本的な人間のありやうを問う松原氏の批判を受容れるだらうが、ただ生きる手段・システムを論じてゐるだけの西尾の批判を受容れはすまい。
政治評論、國語問題、演劇、論壇……その他の個々の領域で、福田の跡を繼がうとしてゐる人々は多い。けれども、眞正面から福田とぶつかり合ひ、時に意見を戰はせる事も出來た人物は、松原氏以外にはゐないと思ふ。福田自身は、松原氏が福田を超越する存在であると述べてゐる。福田は、「反近代の思想」では行けない、「超近代の思想」を目指すべきだ、と言つたのだから、單なる「後繼者」或は單なる「批判者」では駄目ではないか。
松原氏は講演「天才・福田恆存」で、彼我に意見の違ひのみならず世代間の斷絶がある事を指摘し、自身が福田の後繼者とは言へない事を述べてゐる。實際、意見を同じうする事よりも、異る意見であつても「さう云ふ意見はあり得る」と認められる事こそ重要なのであり、福田は松原氏を認め得るであらう。しかし、西部や西尾を福田が認め得るかと言へば、それは甚だ疑はしい事である。
……、英文學に關する所謂「業績」は、教授に昇進して後は殆ど作らず、クーデターをやつてのけた韓國の全斗煥少將や我が自衞隊のために辯じ、あちこちの陸海空自衞隊の基地で講演をやり、保守派知識人を撫で斬りにして「人斬り以藏」と呼ばれ、保守派論壇からは村八分にされたものの、大學には首を切られず、「保守反動」といふ事で肩身の狹い思ひもしなかつた。
殊勝な事と云へばただ一つ、滅多に休講しなかつた事である。教授會は缺席したが、その代り大學の金で國外に留學する事も無かつた。
それで學生には何を教へたか。我々日本人に英文學なんぞたうてい理解出來ないゆゑんを教へた。英文學なんぞ理解しなくてよいと説いた譯ではない。理解出來ないが理解しようと努めねばならぬゆゑんを説いた。英文學に限らず、我々日本人は、未來永劫、歐米文化を理解すべく虚しい努力を續けなければならない。漱石の言葉を借りれば「上滑りに滑つて」行かなければならない。
もともと英米演劇が專門であり、永らく英文學専修の教授として早稻田大學で教へた。その講義に感銘を受けて、以來、「ファン」「信者」となつた人も多い。しかしそれは現象面での事實に過ぎない。多くの學生にとつてはひたすら「怖い先生」であつた筈である。
G.グリーン『權力と榮光』『ブライトン・ロック』、R.ボルト『わが命盡くるとも』等をテキストに用ゐた。ボルトの戲曲は嘗て松原氏が飜譯し、上演したものだが、「アラビアのロレンス」で駄目になる以前のボルトの傑作であるとの事。