制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
改訂
2006-01-09

『知的怠惰の時代』

最初の評論集。5本の評論のほかに、サンケイ新聞連載の週刊誌時評を收める。

電子テキスト

知的怠惰の時代・電子テキスト
MS-DOS text形式のファイルです。300KB強あります。

内容紹介

第1章 新聞はなぜ”道義”に弱いか
新聞は「中立な立場」である事を標榜してゐるが、寧ろ自分の立場をはつきり表明した方が良いと云ふ事。
第2章 愚鈍の時代
愚鈍は罪であると云ふ事、愚鈍には論理の破綻を指摘するのが一番だと云ふ事。
第3章 「親韓派」知識人に問ふ
眞の國際交流の爲には利によつてではなく理によつて繋がる事が不可欠であると云ふ事。
第4章 朴大統領はなぜ殺されたか
韓國の朴正煕元大統領を、民主主義の名のもとに攻撃した日米マスコミの報道は、民主主義を危機に陷れるものであつた事。
第5章 教育論の僞善を嗤ふ
教育者は自らが聖人でない事を自覺しつつ開き直るべきである事。
週刊誌時評

本文より・その1

ところで、何かに對して弱腰なのは、その何かに關して深く考へないからであつて、それは怠惰といふ事である。怠惰が徳目になる筈はない。思考の不徹底とは知的怠惰といふ事だが、知的に怠惰な人間は實は道徳的にも怠惰な人間なのである。

本文より・その2

『夫婦』(日本のかつてのテレビドラマ)と『ヘッダ・ガーブラー』との間には殆ど無限大の隔たりがある。それは日本の進歩的文化人と非暴力主義者ガンジーとの隔たりのやうなものだ。ユダヤ人を救ふ爲にヒットラーと戰ふべきか。平和主義者ガンジーは答へる。いや、戰ふべきではない、むしろドイツのユダヤ人が集團自殺すべきである。これも惡魔的な徹底であつて、私はガンジーを好かないが、敵ながらあつぱれだと思ふ。

日本の「平和主義者」は「戰爭を起さうとする勢力」を打倒しようとする。「平和の爲の鬪爭」を平氣でやる。だがそれは、實に中途半端な「平和主義」ではないか。もし「平和」と云ふ事を徹底するならば、平和主義者は鬪爭など出來ないのではないか。そして、平和と云ふ價値を守る爲に鬪爭が要請されるのならば、價値を守る爲の戰爭は許される事になり、平和主義は崩壞するのではないか。

無抵抗主義を標榜したガンジーが惡魔的な徹底を主張したのは、「一面の眞理」であるが、その「一面の眞理」を單に無視すれば良いのか、と松原氏は問ひかけてゐる。政治主義的な人間が屡々「反省しない馬鹿」となつてしまつてゐる事に對する批判である。