制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
改訂
2009-03-27

『暖簾に腕押し』

内容紹介

和合の國日本に於て、人を譏るのは難しい。だが誤りを平然と説く人間を譏る事は絶對に必要である──他人の爲にではない、自分の爲にである。誤りを許せぬと思ふ氣持ちが大事なのである。

ところで、日本人は和を重んずる民族だとよく言はれる。が、今や日本人は許し合ひを重んずるのである。「許す」とは「緩くす」であつて、緩褌となり果てた吾々は他人に緩くして、その代り他人からも緩くして貰ひたがる。他人のでたらめを許さずして生きるのは窮屈ではないか、他人のでたらめを許さぬとなれば、おのれもまたでたらめには生きられまい、それなら他人のぐうたらを許し、おのれも氣樂に生きるがよいと、當節、大方の日本人はさう考へるやうになつた。新聞や言論人が緩褌の快を貪り、互ひのでたらめを許し合ひ、恬然として恥ぢないゆゑんである。

元禄の昔、伊藤仁斎は「專ら敬を持する」儒者を批判してかう書いた。

專ら敬を持する者は矜持を事として、外面齋整す。故に之を見れば即ち嚴然たる儒者なり。然れども其の内を察すれば、即ち誠意あるいは給せず、己を守ること甚だ堅く人を責むること甚だ深く、種々の病痛故より在り、其の弊あげて言ふべからざる者有り。童子問

詳しい説明はしないが、仁斎は誠意すなはち「まごころ」を重んじた儒者である。「敬」を重んずる學者は、とかく外づらにこだはつて心の中を疎かにする、それゆゑ一見嚴しい儒者に見えるが、「己を守ること堅く」、人を責める事深く、かくて他人への思遣りをさつぱり持合はせぬといふ事になる、さう仁斎は言ふのである。

なるほど、敬を持する儒者に限らず、「己を守ること甚だ堅く人を責むること甚だ深」いのは凡人の常であらう。けれども、佐藤直方が言つたやうに、「人の非を言はぬ佞姦人あり。人をそしる君子の徒あり」といふ事もある。つまり、おのれの非を言はれぬために人の非を言はぬ腹黒い手合がゐるし、人の非を論ふ奴のすべてが惡黨とは限るまい。人の非を言ひ、人を嚴しく謗る以上はおのれに對しても嚴しくあらねばならず、それゆゑ他人に嚴しい者が却つて「君子の徒」であるといふ事もあらう。林羅山は書いてゐる。

強ハ人ニ勝ツトイヘドモ、先ミヅカラ我ニカチ私ニカチ慾ニカツヲ聖賢ノ強トス。我ガ私ニカツ時ハ、其上ニ人ニ勝事必定ナルベシ。

もとより「我ガ私ニカツ」のは容易の事ではない。人間は專らおのれの力によつておのれを抑へうるほど強くはない。けれども、このぐうたら天國日本では、克己といふ事の重要はことさら強調されねばならぬ。それゆゑ私は前著『道義不在の時代』においても、「僞りても賢を學」ぶ事の大事を説いた。人間は常に自分で自分を抑へうるほど強くはない。けれども「僞りても賢を學」ばうとする事によつて、すなはち偉人賢人に肖らうと背伸びをする事によつて、吾々は立派になる事ができる。同樣に、「人をそしる君子の徒あり」、他人に嚴しくする事によつて吾々は己に對しても嚴しくなりうるのである。それゆゑ私は人を謗る。他人のぐうたらやでたらめを手厳しく批判し、言ひたい放題の事を言へば、すなはち他人を許さなければ、私自身が他人から許される事は期待できない。さう信じて私は過去數年間、新聞、週刊誌、及び物書きのでたらめを斬り捲つた。が、それは私をさして立派にもせず、また私の振り廻す劍は虚しく宙を斬るのみであつた。すなはち「暖簾に腕押し」であつた。

けれども、私は愚癡つてゐるのではない。斷じてさうではない。私は何よりも愚癡を好かない。理由は簡單で、愚癡ほど非生産的なものは無いからである。「生殺しの憂き目」を見ようと、「暖簾に腕押し」の虚しさを痛感しようと、私は今後も、他人に緩くしてその代りおのれも緩くして貰はうなどとは決して思はないであらう。

眞劍に人を譏ると損しかしないから、商人國家である日本國でそのやうな人間は滅多にゐないし、ゐれば嗤はれる。松原氏が自らを「野暮天」と稱した所以である。しかし、世間でかかる態度が「損」となるのは、先づ「嫌はれる」ものだからである。正論でばつさりやられた時に、やられた方は、默るか、さもなくば「逆切れ」するしかない。まともな人間なら、自分が誤つてゐると解れば默るだらう。しかし、正論が通じない人間は默らない、屡々「逆切れ」するし、「論」ではない「力」でもつて正論を封じようとするものである。松原氏は新聞やメジャーな雜誌には書けなくなつた。論壇の「ボス」が各誌に壓力をかけたからである。僞物を斬つて斬つて斬り捲つた松原氏は、斯かる状況で、自ら「人斬り以蔵」と稱する事となつた。

人は常に欲得づくで行動すれば良い訣ではないから、眞劍を振囘す「野暮天」も世間には必要である。誤が横行して良いものではないから、論壇の「人斬り以藏」も必要である。それが民主主義・自由主義の社會と云ふものであらう。民主主義とか自由主義とかの社會には、「言論の自由」と云ふものが「ある」とされてゐる。「言論の自由」が認められた社會では、發言する個人個人にではなく、寧ろ發言を受容れる社會の側にこそ、寛容の精神が要求されると言つて良い。それによつて多樣な言論が「あり得る」事となるからである。

ところが日本の社會にはその種の寛容が存在しないやうに思はれる。「他人を批判してゐる」――それだけの理由で批判してゐる人を「惡人」と極附け、言論以外の方法で默らせようとする。現在の保守論壇を支配してゐる某氏が、松原氏に書かせないやうに各誌に壓力を掛け、言論の自由を否定するやうな事をやらかしてゐる事實は、保守派の全體の意思ではないとしても、一部の保守派に言論の自由を否定せんとするファシズム的な發想が「ある」事を示唆してゐる、とすら言へよう。これは困つた事である。

「嫌はれるやうな事をするのが惡い」と云ふ言ひ方は、一見尤もらしく聞こえる。しかし、自分に不都合な事を言はれ、それで不快になつたからと言つて、「相手を默らせようとする」事は許されない。殊に、根據を述べつゝ論理的に相手の主張の誤を指摘してゐる人に對して、自分は全く理がなく、反論しやうがない時に、感情的な理由で以てその言論を封殺しようとするのは、單なる保身の爲と言はれても仕方がない。保身の爲に他人の正論を封じようとする事は、好ましい事だらうか。


賢者の毒を飲み、愚者の蜜を吐き出せ、と松原氏は主張する。本書で氏は、週刊誌を斬り、新聞を斬り、世相を斬つてゐる。而して時事を論ずる氏の文章は、寧ろ人間的である。僞物の言論を氏は批判する。しかしその批判は、論理的であるのみならず、人間みのあるものである。

現在、各「オピニオン誌」には、まるで機械が書いたやうな、讀んでも砂を噛むやうな感じしかしない文章が屡々載る。さう云ふ文章を現代の讀者は讀みなれてゐる。さう云ふ讀者は、松原氏の文章を讀んでも、單に「奇異なもの」としか思はないかも知れない。しかし、その「一見」の印象で判斷するのは良くない事だ。

機械的な文體ならば分析的で客觀的、さうでないならば神憑り的で主觀的――さう云つた圖式に基いて、讀んでゐる文章を簡單に「處理」してしまふ讀者は、現在、結構多さうではあるのだが、文章の論理をきちんと追ふ努力くらゐ、しても良いと思ふ。さうすれば、松原氏が、ただ嚴しい訣ではなく、時には讀み手の笑ひを誘ふやうな、ユーモラスで樂しい文章も屡々書いてゐると云ふ事に氣附けるだらうからだ。論理があつて始めて人は笑ふべきものを笑ふべきものと認識出來る。

松原氏は喜劇の作者でもある。讀み手を樂しませる術を心得てゐる。批評においても氏は讀み手を樂しませる事を決して忘れてはゐない。福田恆存に據れば、文學作品を樂しむのは文體を樂しむ事であると云ふ。松原氏の文章には文體がある。

戲曲について

本書には批評のほかに、戲曲「花田博士の療法」が收められてゐる。昭和五十年に福田逸氏の演出で上演されたものである。福田恆存氏の御墨附きの御芝居であるとの事。喜劇。

あとがきで松原氏は、評論集に戲曲がをさめられるのは拙著をもつて嚆矢とするのではあるまいか、と書いた。私(野嵜)の知る限りでは、岸田國士に『現代風俗』(戲曲「風俗時評」を收める)と云ふ「先例」がある。『現代風俗』は昭和15年7月25日に出版されてゐる。戰前の方が戰後よりも「進んでゐた」と言へよう。ただ、「風俗時評」は、後に上演されはしたけれども、上演用の御芝居として書かれたものではないから、上演された御芝居の臺本を收録した本書と比較するのは必ずしも當を得てゐないかも知れない。

電子テキスト

單行本は現在絶版で、書店では入手出來ません。

暖簾に腕押し・電子テキスト
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