暖簾に腕押し 松原正 地球社 私はなぜ人を謗るか  ――序に代へて  「第四權力」と稱せられる新聞は誰にも批判される事が無いから、或いは批判されても蛙の面に水で一向に怯まないから、實際は「第一權力」であり、その増上慢は止る所を知らない。新聞批判が「暖簾に腕押し」たらざるをえぬゆゑんである。だが、さういふ絶大たる權力を持つ新聞に決して批判されないのが寄稿家なのであり、例へば先般、四百名もの「文學者」が發作的に「反核聲明」とやらを發表した際も、新聞がそれを批判する事は無かつた。中上健次氏や柄谷行人氏が「文學者の反核アビール」を批判したけれども、それはいづれも文藝雜誌においてであつた。  さういふ譯で、新聞はもとより時に新聞を批判する週刊誌や月刊誌も、寄稿して貰ひ意見を徴する文士や學者評論家の類は決して咎めない。それゆゑ、新聞人編集者が増長すれば物書きもまた増長し、でたらめに書き散らし、私生活においても傍若無人に振舞つてそれを恥ぢない。例へば先年、直木賞受賞作家佐木隆三氏が泥酔して荒れ狂ひ、器物損壞の現行犯として逮捕された事がある。けれども佐木氏は自責の念に驅られるどころか、或る週刊誌に「我が酔虎傳始末記」なる駄文を寄せ、自分は品行方正ゆゑに直木賞を貰つた譯ではないから、「たかが戯作者風情、今後も似たやうな失敗は、どこかで演じるにちがひない」と書いたのである。ホテル・ニュージャパンの横井社長も、三越前社長の岡田茂氏も、これほど盗人猛々しき態度は採らなかつたではないか。  また、これは傳聞だから名前は伏せるが、或るカトリックの小説家は、或る日或る酒場で1(木+税 − 禾)の上らぬ劇作家を、「貴樣はなぜ愚劣な作品ばかり書くか」とて散々に苛め、苛めるだけでは足りずに強か殴りつけたといふ。もう一つ、これも傳聞だが、或る著名な進歩派の小説家は、銀座の著名なバアで、自分に文學賞をくれなかつた選考委員に食つて掛り、ウヰスキー・グラスを投げ付けたといふ。そして、1(木+税 − 禾)の上らぬ劇作家を殴つたカトリックの小説家も、グラスを投げ付けた進歩派の小説家も、ともに「反核アビール」に署名して、人類の絶滅をいたく案ずる振りをしたのであつた。  なるほど、酒氣違ひの失態を咎め立てせぬのが日本の「美風」かも知れないが、もしも政治家や企業家が酒に呑まれてかほどの醜態を演じたら、新聞や週刊誌は決して默つてはゐまい。しかるに文士のでたらめはなぜ知つて知らぬ振りをするか。言ふも愚か、人氣作家の氣を損じたら損にたるからである。いやいや、專ら損得を重視するジャーナリストがのさばらせるのは人氣作家だけではない、論壇にも大ボスがゐて、それに楯突けば物書きは干される。谷澤永一氏から聞いた話だが、「俺に楯突く奴は生殺しにしてやる」とその大ボスは言つてゐるといふ。なるほど、『問ひ質したき事ども』(新潮社)に福田恆存氏が書いてゐるやうに、福田氏さへその種の言論抑圧の被害を受けたのだから、大ボスに楯突いてこの私が「生殺し」の憂き目を見ずに濟ますのは難しい。しかも、物を書く事は眞劍勝負だと信じてゐる私は、でたらめな物書きを斬り捲つただけでたく、でたらめな編集者とも渡り合つた。一度だけ福田恆存氏の忠告に從ひ、喧嘩した編集者と縒りを戻したが、それは柄に無い事だつたから、長續きしなかつた。けれども、「捨てる神あれば助ける神あり」といふ。私の場合、「助ける神」はラジオ日本の遠山景久社長であつた。私は今、月曜から金曜までの毎日三十分、ラジオ日本に出演して、「侵略戰爭の何が惡いか」などといふ甚だ物騒なる問題を論じて無事であり、言論の自由を大いに享受してゐる。そしてそれは偏に遠山氏の侍氣質のせゐなのである。同じテーマで毎日語るのはラジオ番組ではいかがたものかとのモニターの意見を一切無視し、私は毎囘戰爭についてだけ語つてをり、いづれそれを一本に纒める積りでゐる。  ところで、日本人は和を重んずる民族だとよく言はれる。が、今や日本人は許し合ひを重んずるのである。「許す」とは「緩くす」であつて、緩褌となり果てた吾々は他人に緩くして、その代り他人からも緩くして貰ひたがる。他人のでたらめを許さずして生きるのは窮屈ではないか、他人のでたらめを許さぬとなれば、おのれもまたでたらめには生きられまい、それなら他人のぐうたらを許し、おのれも氣樂に生きるがよいと、當節、大方の日本人はさう考へるやうになつた。新聞や言論人が緩褌の快を貧り、互ひのでたらめを許し合ひ、恬然として恥ぢないゆゑんである。  元禄の昔、伊藤仁齋は「專ら敬を持する」儒者を批判してかう書いた。  專ら敬を持する者は矜持を事として、外面斉整す。故に之を見れば則ち嚴然たる儒者なり。然れども其の内を察すれば、則ち誠意あるいは給せず、己を守ること甚だ堅く人を責むること甚だ深く、種々の病痛故より在り、其の弊あげて言ふべからざる者有り。(『童子問』)  詳しい説明はしないが、仁齋は誠意すたはち「まごころ」を重んじた儒者である。「敬」を重んずる學者は、とかく外づらにこだはつて心の中の事を疎かにする、それゆゑ一見嚴しい儒者に見えるが、「己を守ること堅く」、人を責める事深く、かくて他人への思遺りをさつぱり持合せぬといふ事になる、さう仁齋は言ふのである。  なるほど、敬を持する儒老に限らず、「己を守ること甚だ堅く人を責むること甚だ深」いのは凡人の常であらう。けれども、佐藤直方が言つたやうに、「人の非を言はぬ佞姦人あり。人をそしる君子の徒あり」といふ事もある。つまり、おのれの非を言はれぬために人の非を言はぬ腹黒い手合がゐるし、人の非を論ふ奴のすべてが惡黨とは限るまい。人の非を言ひ、人を嚴しく謗る以上はおのれに對しても嚴しくあらねばならず、それゆゑ他人に嚴しい者が却つて「君子の徒」であるといふ事もあらう。林羅山は書いてゐる。  強ハ人ニ勝ヲイヘドモ、先ミヅカラ我ニカチ私ニカチ欲ニカッヲ聖賢ノ強トス。我ガ私ニカツ時ハ、其上ニ人ニ勝事必定ナルベシ。  もとより「我ガ私ニカツ」のは容易の業ではない。人間は專らおのれの力によつておのれを抑へうるほど強くはない。けれども、このぐうたら天國日本では、克己といふ事の重要はことさら強調されねばならぬ。それゆゑ私は前著『道義不在の時代』においても、「偽りても賢を學」ぶ事の大事を説いた。人間は常に自分で自分を抑へうるほど強くはない。けれども「偽りても賢を學」ばうとする事によつて、すたはち偉人賢人に肖らうと背伸びをする事によつて、吾々は立派になる事ができる。同樣に、「人をそしる君子の徒あり」、他人に嚴しくする事によつて吾々はおのれに對しても嚴しくなりうるのである。それゆゑ私は人を謗る。他人のぐうたらやでたらめを手嚴しく批判し、言ひたい放題の事を言へば、すなはち他人を許さなければ、私自身が他人から許される事は期待できない。「人を責むること甚だ深」ければ、勢ひ自分もぐうたらにしてはゐられたくなる。さう信じて私は過去數年間、新聞、週刊誌、及び物書きのでたらめを斬り捲つた。が、それは私をさして立派にもせず、また私の振り廻す劍は虚しく宙を斬るのみであつた。すたはち「暖簾に腕押し」であつた。  けれども、私は愚痴つてゐるのではない。斷じてさうではない。私は何よりも愚痴を好かない。理由は簡單で、愚痴ほど非生産的なものは無いからである。「生殺しの憂き目」を見ようと、「暖簾に腕押し」の虚しさを痛感しようと、私は今後も、他人に緩くしてその代りおのれも緩くして貰はうなどとは決して思はないであらう。  主君を諫めるなどといふ事はやつてはならぬ、言葉で人を諭さうとしても無駄である、他人の欠点をあからさまに指摘すれば先方は必ず腹を立てる、それに他人に忠告するのは、おのれを立派に見せようとの底意あつての事である場合が多い、『答問書』に荻生徂徠はさう書いてゐる。なるほどそのとほりだが、それを言ふ徂徠自身、伊藤仁齋や新井白石を激しく謗つてゐる。例へば白石について徂徠はかう書いた、「新井ナドモ文盲ナル故、是等ノコトニ了簡ツカヌ也」。  徂徠は學問のほかに何が好きかと問はれ、「餘には他の嗜玩なし、唯炒豆を噛んで宇宙間の人物を詆毀するのみ」と答へたといふ。「宇宙間の人物を詆毀する」事も世のため人のためだと、徂徠は信じてゐたであらう。そしてまた、でたらめな他人を謗る事も、立派た他人を稱へる事と同樣、自分のためになるのである。今、日本國の書店の書架には、2(果+多)しい書物が並んでゐる。けれども、嚴しく他人を「詆毀する」書物も、肖りたいとの眞撃な願ひをこめて天才偉人について語つた書物も、ともに頗る少い。それは今、日本人がモラトリアムと馴合ひの快を貪つてゐるからに他たらない。  親愛なる讀者諸君、本書に収めた「言論か暴力か」(二五七頁)をまづ讀んで貰ひたい。そして「生殺しの憂き目」に會ふほど他人を「詆毀」するとはどういふ事かを知つて貰ひたい。私は徂徠に倣つて「猪木ナドモ文盲ナル故、是等ノコトニ了簡ツカヌ也」と言つたのである。猪木氏の防衞論の淺薄を、私は前著において批判したけれども、猪木氏は私に反論しなかつた。私の仕事が「暖簾に腕押し」たらざるをえないゆゑんである。 目次 1 週刊誌を斬る  女ならではの愚作  學問よりも金と地位  腑に落ちない記事  清き水に魚棲まず  太田薫氏の「蛮勇」  時に損も覺悟せよ  誰一人本氣でない  羞恥心を欠けば獸  文章を讀む樂しみ  衆愚政治を憂ふ  損をして得をとれ  教育の普及を嘆ず  自分の頭で考へよ  許し難い韓國蔑視  割を食ふのは覺悟  戰爭は無くならぬ  まさに「立憲亡國」  他人を嗤ふ前に  何とも退屈なる惡事  何よりも批判精神を  早稲田は墜ちたか  説經も道徳的退廢  ぐうたら日本、わが祖國  迫力ない「徹底追及」  すべてこれ商策  見事なり、全斗煥  批判精神の欠如  邪教をかばふ善意  他人の痛さを知れ  他人の褌で相撲を取るな  萬事本氣でない國  韓國相手の寄生蟲  憂ふべき「現代病」  教養と人格は別である  他力本願全盛の世  批判力減退を歎くべし  本氣の内政干渉か  恥なかるべからず  職業に貴賤ありや  その言を恥づべし  馴れ合ひも程々にせよ  女の論理、愛敬か  善なりや戰爭放棄  むしろ淵に溺れよ  「民免れて恥なし」  何が最高學府か  他人を責めぬ風潮  これぞ早稲田の恥  道徳的不感症を憂ふ  筋道よりも和を重視  一所懸命こそ大事  繁榮ゆゑの無駄事  萬事金の世の中  偶像は不要なりや  瘠我慢こそ大事  淺薄極まる法意識  文春の自戒を望む  恐るべきは歿道徳  平凡は今や非凡か  理に義理を立てよ  今や年貢の納め時  馬鹿騒ぎはやめよ  投書作戰に屈するな  賄賂の横行について  今なぜ田中角榮か  人、木石ならず  後の世をこそ恐るべし  誰一人反省しない  何のための記事か  高木は風に折らる  新潮よ、天邪鬼たれ  許し合ひ天國、日本  保守は保守を斬れ  三笠宮寛仁殿下へ  英國に學ぶは難し  日本だけが正氣か  筆は一本、箸二本  早大だけの醜態か  隠し難きものは顔  教育の善意を疑へ  韓國民に訴へる  被虐症こそ日本病  許し難き開き直り  沈默にも仔細あり  道化はやはり道化 2 新聞を斬る  新聞の社説と催眠術  大新聞に言論の自由無し  「人間不在」の元旦社説  破れ鍋に綴ぢ蓋  公正とは喧嘩兩成敗に非ず  日本といふ愚者の船  人間は變らない  叩く馬鹿と褒める馬鹿  滅私奉公の精神  法の嚴しさを知れ  善玉惡玉と二分するな  身勝手ばかりを言ふな  何とも空しい茶番狂言  明治は遠くなりにけり  新聞は本音を吐かぬ  惡を認め、惡を忍べ 3 世相を斬る  「灰色高官」の人權  無能と清潔  知らせる義務  誘導と煽動  葬式と結婚式  「河野新黨」の前途  偏向教育  無能と人權  自民黨への注文  それ見たか  敵の所在  ぐうたらに神風  統治能力  ソルジェニーツィンと金3(火+囘)旭  甘い言葉と甘い顔  放言と事なかれ主義  平和惚けの日本人  日本株式會杜の倒産  自由世界に迎合すべし  内村剛介氏と片桐機長  外山滋比古氏の駄文  再び外山滋比古氏を叩く  ポルノよりも有害な本  字引と首つぴきで讀め  言語輕視は狂氣に通ず  綺麗事ばかり言ふな  素人こそ思ひあがるな  昨今、合点がゆかぬ事ども  死者を尊重しない民主主義  教育に關する或る勘違ひ  おのが身勝手を知るべし  眞劍勝負の美しさ  言論か暴力か 4 〈喜劇一幕〉花田博士の療法 あとがき 1 週刊誌を斬る   【女ならではの愚作】  「水着の色・柄・型で」女の「SEXを診斷」できると、週刊ポスト六月二十二日號は書いてゐる。例へば「白のセパレーツを好む女」は「一皮ひんむくと、セックスプレーにはすごく積極的な樂しい女になる」のださうである。勿論でたらめに決つてゐるが、これほどのでたらめを本氣にする讀者はゐまいから、殊更目くじらを立てるには及ばない。でたらめもここまで徹底すれば御愛嬌、却つて無害であつて、オレンジ色の水着の女は「知らない男に犯されたい」と思つてゐるとのポストのでたらめを眞に受けて警察につかまつたとしても、それはつかまつた奴が惡い。週刊誌を讀むといふ事は、この種のでたらめをでたらめと承知して、輕々に信じないやうになる事であつて、それはこの世を渡るために不可欠の知惠である。  だが、週刊誌の内容はまこと玉石混淆であつて、例へば週刊現代は「トルコロジスト」と稱する廣岡敬一氏のトルコ風呂探訪記や、「半藏の門」と題する小池一夫氏の淫猥な劇畫を連載してゐるが、その現代の六月十四日號七十ぺージには、次のやうな文章が記されてゐるのである。「宗教では、罪は犯すやうになつてゐるんですね。犯していいといふのではないけど、どうしても犯すやうになつてゐる」  これは週刊現代の記者に對して曽野綾子女史が語つた言葉である。これはでたらめではない。恐ろしいくらゐ本當の事である。そして、本當の事だから決して無害ではない。遠藤周作氏の戯曲『黄金の國』では、クリストが人間に罪を犯してよいと言つてをり、そのくだりを讀んだ時、私は愕然としたけれども、曽野女史のやうに表現してくれれば私は納得する。人間は罪を「犯していいといふのではないけど、どうしても犯すやうになつてゐる」のである。が、この種の「本當の事」が正しく理解される事はまづ無いであらう。人間はいい加減なものだからである。「いい加減」である事を氣にしないからである。  曽野女史が朝日新聞に連載している『神の汚れた手』はまだ完結してゐないから、小説としての出來榮えは云々できない。が、曽野女史の關心は人間にあつて「女である事」にはない。一方、サンデー毎日六月二十四日號が紹介してゐる四人の「女子大生作家」の作品は、いづれも「女でなければ書けない」類の愚劣な作品である。毎日によれば、吉行淳之介氏は「子宮感覺がいい」と絶賛し、菊村到氏は「文體、感覺を含めて作品そのものが新鮮」だと評したといふ。「生理になつたら・・・・・・血がドバーッ。ね、汚いよね」とはまた何と汚い文章か。それに何より、女の生理なんぞを大事と考へてゐるやうではまだまだ半人前である。そして、さういふ半人前の女を持ち上げる男は、水着によつて女の「SEXを診斷」する男と同樣、決して女を人間として扱つてはゐないのである。女はなぜその事に氣付かないのだらうか。 【學問よりも金と地位】  週刊文春七月五日號によれば、受驗生の父兄からまきあげた千數百萬圓を返濟できず、「かはりに指をつめ」た男が日本大學にゐるさうである。文春の記事が正しいとすると、日本大學はもはや大學の名に價しない。日大の「裏口入學シンジケート」を週刊誌が非難するのも當然である。それゆゑ、私には日大を辯語する氣はさらに無い。けれども、新聞や週刊誌が「教育現場を告發する」事には熱心でも、その腐敗の因つて來たる所を考へようとしない事を飽き足らなく思ふ。『言論人』七月五日號に林三郎氏は「政界淨化には、まづ金のかからない選擧制度を考案することであるが、これについては諸黨はまことに不熱心である」と書いてゐる。その通りである。週刊ポスト七月十三日號は「私大でのコネ入學は必要惡だ」との日大の「灰色教授」の言葉を引き、「今囘の取材で感じるのは“學業より利權”といふ教授がほんとに多いことだ」と書いてゐる。ポストの記事を疑ふだけの根拠を私は持ち合せてゐない。が、林三郎氏の言葉を捩つて言へば「教育界淨化には、まず學問よりも金や地位を欲しがる教師を成敗することであるが、これについてはマスコミも大學もまことに不熱心」なのである。  例へば、テレビのコマーシャルやクイズ番組で顔を賣り、ついで著書を出す、さういふ大學教授が果して立派な教師なのだらうかと、マスコミや大學生は疑つてみた事があるだらうか。文春は或る日大講師について「講師なんて肩書がついてゐますが、學生にちやんと教へたことなんかありやしません」といふ日大關係者の言葉を引いてゐるが、ジャーナリストがちやほやする教授がよき教師であるとは限らない。勿論、大學教授も政治家や檢事と同樣人の子である。週刊朝日七月六日號が淡々と書いてゐるやうに、遠藤元檢事は友情に溺れ愛人に裏切られた。大學教授もまた友人や愛人を裏切つたり裏切られたりするだらう。が、マスコミに顔が賣れても「學生にちやんと教へ」ない教授こそ眞先に成敗されなければならないのである。  だが、それが實は頗る難しい。教師は時にでたらめを教へるが、それでも教師が眞劍になれば學生も必ず眞劍になる。けれども、眞劍な教師に眞劍に應じる學生も、いい加減な教師のいい加減を許すのである。週刊現代七月五日號は早稲田大學の「五代の總長の無策」を批判してゐる。總長や學部長が無策無能でも、教場における教師が眞劍なら早稲田大學は安泰なのである。が、早大に限らずどこの大學でも、昨今は學問に情熱を持たぬ教師が學内政治に興味を持つといふ事がある。皆が内心輕蔑してゐる男を學部長に選出する事もあると聞いてゐる。要するに教師も學生も本氣でないのである。どうしてさういふ事になつたか、それを週刊誌は一度徹底的に考へてみたらどうか。 【腑に落ちない記事】  週刊誌を讀んでゐると、時々なぜこんな文章が載るのかと首を捻る事がある。週刊文春に連載中の三浦哲郎氏とその令嬢の往復書簡『林檎とパイプ』の場合もさうである。親子が書簡を公開する事自體、差恥心が欠けてゐる證拠であつて腹立たしいけれども、七月十二日號には階段から「正坐した恰好でとんとんと落ち」た話を令嬢が書き、それに對して三浦氏が「正坐の恰好で落ちるなんて、ちとお行儀がよすぎるよ。今度落ちるときは尻で落ちなさい。(中略)ほかのところより肉が厚いだけ無難だらう」と書いてゐるのである。それだけの、本當にそれだけの愚にもつかぬ無駄話であつて、こんなつまらぬ話がどうして活字になるのかと、首を捻らざるをえない。  名士の親子が書いたとなると、こんな愚劣な作文でも、讀者は喜んで讀むのだらうか。それなら、さういふ讀者は途方も無いお人好しに違ひ無い。同じ號の文春は、目下朝日新聞に連載中の『美濃部囘想録』の「華麗なるウソ」を痛烈に批判してゐる。文春の言ふ通り、美濃部氏の囘想録は「ボロは出すは、“ウソ”はつくは・・・」の何とも女々しい文章である。さういふ「手前勝手な辯明に終始」してゐる囘想録をなぜ美濃部氏が書くのか、なぜ朝日がそれを載せるのか、それは私には理解できる。が、三浦哲郎氏が令嬢を卷き添へにしてまでなぜ恥を捨てるのか、それがどうにも理解できない。  一方、週刊現代七月十九日號の「突入!日本はアラブ産油國と石油全面戰爭に」といふ記事も腑に落ちない。現代によれば、防衞庁は「石油有事」に備へるべく「昨年暮れ、海外二十五ヶ國に警備官二十五人を派遣した」が、現代が取材した「海幕のある二佐」は、「イラン政變について、アメリカはCIA情報の錯誤によつて判斷を誤り、ベトナムでもカンボジアでもミスを犯した。そこでわれわれは情報を収集することにした」と語つたといふ。奇妙な話である。二十五人の警備官が、いかに弱體となつたとはいへ、天下のCIAと張り合へる筈が無い。現代はまた、「今年の秋には千五百圓灯油が出現」し「クーラー、セントラル・ヒーティングは廢品同樣に」なり、「倒産ラッシュが起こ」り、「洗劑、紙が市場から消え」ると書いてゐる。さういふ事態には決してならない、とは私は言はぬ。が、さうなつたら、市場から消えるのは洗劑や紙だけではない。二流の雜誌や三流の週刊誌こそ眞先に消える筈である。その事を、どうやら現代は少しも考へてゐないやうであつて、これまたまことに腑に落ちぬ話である。  私は八卦見ではない。それゆゑすさまじい石油危機が到來するかどうかは確と解らぬ。が、文章から判斷するに、石油危機を扱つた各誌の記事のうち、週刊文春七月十九日號のそれが最も冷靜であつて、それゆゑ私は、今のところ「日本沈歿」はありえぬとする文春の意見を、今のところ信じておかうと思ふ。 【清き水に魚棲まず】  「口は乃ち心の門なり。口を守ること密ならざれば、眞機を洩し尽くす」。サンデー毎日八月五日號の編集長の文章を讀んで、私は驚いて目を擦り、ついでこの『菜根譚』の一節を思ひ出した。毎日の編集長はかう書いてゐるのである。「前囘の總選擧のとき(中略)團地では新自クヘの熱い期待を感じとりました。新自クを押し上げた力は團地の主婦だつたといまでも思ひます。それゆゑに、情緒的であり、時代に耐へる永續性がたかつた」。「それゆゑに」の次に省略されてゐる主語が何であれ、結局は同じ事になる。サンデー毎日は「團地の主婦」には好意的だつた筈だが、それは私の思ひ違ひで、少なくとも四方編集長は「團地の主婦」は「情緒的」で「時代に耐へる永續性」が無いと、心中密かに苦々しく思つてゐたらしい。そして今囘、つい口がすべつて「眞機を洩し尽く」したのであらう。同情はするが、今時そんな本當の事を放言して大丈夫なのだらうか。全國の「團地の主婦」が怒り心頭に發し、サンデー毎日のみならず毎日新聞の不買運動なんぞを始めないだらうか。物議を釀さぬうちに、四方編集長は政治家を見習ひ、眞意はかくかくしかじかと辯明に努めたはうがよいのではないか。  一方、週刊現代八月二日號によれば、日本列島を席捲したインベーダー遊びは、「遊んだ人の數にして一日一臺當たり單純計算で四十人。(中略)一日實に八百萬の日本人がピコピコやつてゐた」事になるといふ。けれども「登場わづか半年餘り」でブームは下火になり、或る「ゲームセンターの經營者」は「先行きの見通しのお粗末さは、恥づかしいかぎりですわ」と語つたさうである。商賣やスポーツは勝敗がはつきりする。が、それにしても潔くおのが不明を認めるとは中々すがすがしい態度である。  新聞や週刊誌はさうはゆかぬ。例へば週刊現代は新自由クラブに對して「やんちや坊主の鬼ごつこ」は二度と繰り返すなと忠告してゐるが、現代に限らず、三年前、新自由クラブが結成された時、大いにその前途を嘱望したのは新聞や週刊誌ではなかつたか。週刊文春七月二十六日號の言葉を借りれば、新自由クラブは當時から「半人前の“お子さまランチ”」だつたのである。その幼稚を見抜けずして拍手喝采した新聞や週刊誌に、今さら新自由クラブを説教したり揶揄したりする資格は無い。三年前、私はサンケイ新聞の直言欄で新自由クラブ・ブームにはしやぐ新聞を窘め、河野洋平氏のやうな「勇み肌の坊ちやんの前途に何の期待も抱く事は出來ない」と書いた。「三日さき知れば長者」といふが、私はまだ長者ではない。それゆゑ先見の明を誇る譯ではない。新聞や週刊誌が今なほ清潔な政治に期待し、清き水に魚棲むかの如く言ふ、その度し難い習性に呆れてゐるだけの事である。 【太田薫氏の「蛮勇」】  先日、私はラジオ關東の「土曜エクサイト論爭」で、太田薫氏と激しい口爭ひをやつた。革新の甘つたれを批判して、私が譯の解らぬ事を、機關銃のやうにまくし立てると、太田氏が當惑して默つた。司會の竹村健一氏も呆れて「太田ラッパが鳴りやんだ」と評したが、實は私は、心中密かに太田氏の人柄のよさに感動してゐたのである。その事は或る雄誌に書いたからここでは繰り返さない。ただ、さういふ事があつたから、週刊新潮が三囘にわたつて載せた太田氏の手記『ネクタイをつけた二十五日間』を、私は頗る興味深く讀んだのである。正直、太田氏の文章には納得でぎぬ箇所がいくらもある。だから、太田氏と論爭する事になれば、私は再び機關銃を持ち出すであらう。だが、私は今それをやる氣がしない。手記を讀んで、太田氏の人間的魅力を再確認したからである。  これまで私は、折ある毎に、革新的な物の考へ方を批判したから、讀者は私を頑迷固陋の保守反動と思つてゐるかも知れぬ。汚職を咎める新聞や週刊誌を咎める私が、かういふ事を言つても信用されまいが、私が何より好かないのは信念の無い人間、道義心を欠く人間なのである。太田氏は「革新を裏切つたかつての仲間」を怒りをこめて斬つてゐる。裏切りの卑劣に保革の別は無い。太田氏は「美濃部さんの民主主義」は「黒幕のゐた民主主義」だと言ふ。自民黨内閣の文部大臣だつた永井道雄氏を「まさか社會黨は推薦しないだらうね」と上田哲氏が言つた時、杜會黨「最左派」も默つて答へなかつたと言ふ。飛鳥田氏が「太田おろし」に熱心だつたのは、革新自治體の「利權の構造」を守るためだつたと言ふ。私は革新を叩く太田氏の言ふ事を殆どすべて信じる。太田氏の信念を、敵ながらあつぱれだと思ふからである。  もとより手記には我田引水に過ぎる部分もある。が、敵を叩くよりも身方を叩くはうが困難である。それには「蛮勇」を必要とする。革新がここまで徹底的に革新の道義的退廢をあばけば、太田氏の敵は、保革を問はず、政治的妥協を知らぬそのドン・キホーテぶりを嘲笑ふであらう。だが、信念の無い人間にどうして妥協ができるのか。猪武者だと太田氏を嘲笑ふ者は、獨り胸に手をあて考へてみるがよい。あなた方の「妥協」は果して妥協か。それはなりふり構はぬ無節操ではないのか。例へば、知事候補の一人だつた永井道雄氏は、太田氏の立候補宣言を知つて「慌てて當時の大平自民黨幹事長」のところへとんで行つたといふ。さういふ人物と、「おれは知事をやりたい、おれにやらせば東京はよくなる」と言ひ放つた太田氏と、人間としてどちらを敬すべきか。私は太田氏に投票しなかつたし、今後も決してしない。が、この際、美濃部氏を担いで担がれた新聞、週刊誌は、太田氏の手記を精讀して、保革を問はぬ無節操に深く思ひをいたすがよいと思ふ。 【時に損も覺悟せよ】  週刊文春八月三十日號によれば、安岡正篤氏は、二十七歳の時、六十三歳の八代六郎海軍大將と陽明學について激論をかはし、「おたがひにゆづらず、五升の酒をのみきつた」が、最後に八代は「一週間後にまた會はう。それまで考へてみて、もしワシが間違つてゐたら貴公の弟子になる。ワシが正しいと思つたら、貴公はワシの弟子にたるんだぞ」と言つたといふ。そして一週間後、八代提督はわが子のやうな年齢の安岡氏を、「紋付袴で」訪問し、「今日から、ワシはあなたの弟子に」なると言ひ、「以後、死ぬまで師弟の禮をとつた」さうである。文春は公平を考へてか、赤尾敏氏や津久井龍雄氏の安岡評を紹介してゐるが、英雄豪傑にも生殖器があつたといふ事實を發見して喜ぶのはつまらぬ事で、進歩派の日本史學者が戰後にやつたのは、そういふ無駄事、要らざるお節介だつたのである。が、安岡氏の事はともかく、三十六も年下の男に「師弟の禮」をとるとは何とも見上げた根性ではないか。  先日、早稲田大學文學部教授である私は、早稲田大學理工學部教授加藤諦三氏との對談で、早稲田大學の名譽のために加藤氏を叩き、高校生が愛讀している加藤氏の著書を「若者への迎合に知的ソースをぶつかけたげてもの料理」と評した。そしてその際「マーク・メイといふ學者によれば(中略)人間を萬物の靈長と呼んでゐる」といふ加藤氏の文章を引用し、この「主語が欠けた文章」の欠陥を認めるかと質したが、加藤氏はかう答へたのである。「これで十分通じるぢやありませんか」  加藤氏についてはこれ以上は言はない。言ふ必要がない。サンケイ新聞の讀者が一度息子や娘の本箱を覗き、加藤氏の著書の有無を確かめる労をとるやうにと、その事だけを言つておく。とまれ、加藤氏を叩いて再確認したのは、知的怠惰は道義的怠惰だといふ事である。いい加減な文章を書いても世人が怒らないから、物書きは一向に反省しない。また、さういふ怠惰を本氣で咎めようとすれば、數々の妨害を覺悟しなければならぬ。その事を私は最近痛感する。例へば私は、保守派の賣れつ子の物書きT氏を叩いて、その原稿を歿にされた事がある。ここでT氏としか書けぬわが處世術を、私は無念殘念に思ふ。が、私は他人の商賣を妨害したがつてゐるのではない。同じ大學の同僚を叩いて何の得があるか。加藤氏がそれをやると言ふのでは決してないが、叩かれた同僚は私の弟子の就職を妨害するかも知れぬ。  もとより私も人並みに臆病である。が、臆病である事を私は恥ぢるのである。八代六郎大將がやつたやうな事は、私には到底やれないと、私は斷言する事ができる。同じ號の文春の匿名書評の筆者は、昔の歌人の眞劍勝負を論じて「いまの文壇、歌壇の諸君。よろしくこの態度を」見習ふべし、と書いてゐる。拙文の讀者が、週刊文春八月三十日號を入手すべく、古本屋めぐりの労をとるやう私は希望する。 【誰一人本氣でない】  私は見損なつたが、先日お隠れになつたランラン樣の御殿醫は、刻一刻惡化する御容體について「沈痛な面持ち」で記者團に語つたさうであり、テレビは「脈拍は一分間に一四九、體温は三七度まで下がりましたが、心臓の衰弱がひどく・・・・・・近親者を呼ぶ状態・・・・・・」といつた調子の記者會見の模樣を、熱心かつ忠實に放映して樂しんだといふ。週刊ポスト九月二十一日號によれば、「今囘の報道に投入された記者は、その數約百人。新聞社は各社平均三人、テレビは中繼車までくりだしての熱の入れやう」だつたといふ。狂氣の沙汰としか言ひ樣がない。  毎度の事とは言へ、日本のジャーナリズムの輕佻浮薄にはほとほと感じ入る。ポストは「“たかが動物一匹”とはいはないが、いくらなんでもはしやぎすぎではないか」と書いてゐるが、たかが畜生一匹で、あの大騒動は正しく狂氣の沙汰である。週刊新潮九月十三日號のヤン・デンマン氏は、テレビ中繼を一寸見て、恐れ多くも天皇陛下の御崩御かと勘違ひをしたアメリカ人記者の話を紹介してゐる。陛下の御長命を私は切に祈るが、陛下の御身に萬一の事があつたら、新聞は今囘同樣心にも無い大騒動をやらかすのかと、それを思ふと、物事の輕重のけじめをつけぬ日本人の輕佻浮薄に、私は腹立ちを抑へる事ができない。  私はこれまで週刊ポストを屡々叩いた。それゆゑポストは、恨み骨髄に徹する思ひで私の文章を讀んでゐるに違ひ無い。かつてポストを評して私は、その扇情主義と「整合性」の欠如を指摘した。が、或る雜誌で新聞批判のコラムを担當するやうになつて、私は新聞を叩く事の空しさを痛感したのである。新聞を叩くより週刊誌を叩くはうが遙かに樂しい。週刊誌には人間がゐるが、新聞には人間がゐないからである。今後も私はポストを叩く。が、「整合性」を欠くがゆゑに、ポストが大新聞を叩けるといふ事も事實である。ポストが今後も大新聞における人間不在を糾彈し、大いに「蛮勇」を發揮するやう望みたい。  ところでパンダ騒動だが、ポストによれば「パンダ舎の前で、涙をこぼし」てゐた女子大生が、すぐに「ケロリとして」ソフトクリームを舐めてゐたといふ。ポストの文章には欠陥があつて、本當にポストの記者が見聞した事かと、それが少々氣掛かりだが、ポストの作り話としても、これは甚だ興味深い。  なぜなら、恐らくランランの飼育掛と數名の「近親者」を除けば、誰も本氣で悲しみはしなかつたからである。ポストによれば、某紙の社會部記者は「私たちも、これほどまでに(騒ぐのは・・・・・・)とは思ひますが・・・・・・」云々と弁解したといふ。この根性こそ私は何より許せないと思ふ。先般のグラマン騒動の折、私は同じやうなせりふを新聞記者が喋るのを聞いてゐる。要するに皆本氣でない。森嶋通夫氏の國防論の奴隷根性を識者は本氣で咎めなかつた。パンダの滅亡と日本國のそれとは同日の論ではない。新聞の猛省を促す。 【差恥心を欠けば獸】  佐藤陽子女史のヴァイオリンを、私は一度も聽いた事が無い。が、私は西洋音樂が大好きで、聽くだけでは滿足できず、下手の横好きでフルートを吹く。それゆゑ、佐藤女史が少女の頃、確かレオニード・コーガンに師事して、その將來を大いに嘱望されたとい事實は記憶してゐる。その後女史がヴァイオリニストとしていかに成長したか、それを私は知らないから、演奏家としての女史について云々する資格は私には全く無い。けれども、週刊ポスト十月五日號のグラビアに、佐藤女史の裸體写眞を見出して、私は或る種の「衝撃」を受けたのである。なるほど、週刊現代には、池田滿寿夫氏と佐藤女史との對談『晝の眠りと夜の目醒め』の廣告が載つてをり、別の週刊誌にはワインの宣傳文を書いてゐて、本業のヴァイオリン以外にも女史が多藝ぶりを發揮してゐる事を知つたが、池田氏との對談を私は讀んでをらず、從つて女史の場合、「多藝は無藝」なのかどうか、これまた私には斷定するだけの根拠が無い。けれども、ポストによれば、池田氏と女史とは目下戀愛中だとの事であり、女史の裸體写眞は戀人の池田氏が撮影したものだといふ。そして、長椅子に横たわり、片方の乳首を露出してゐる写眞には、女史の作つた詩らしきものも印刷されてゐる。  けれどもそれは、「思想と愛と感情と言葉。全てはからみ合ひ戯れる」などといふ、およそ愚劣な代物で、中學生でももう少しましな「詩」を作るのではないかと思はれる。  それゆゑ、女史のヴァイオリンを聽いてそれを批評する事が許されるのと同樣、女史が詩集を出版したら、それを徹底的に扱きおろす事も許される。けれども、今囘、佐藤女史は裸體を公開したのである。では、これを批評する事は許されるのか。私は他人の肉體的欠陥を批判する事は許されないと思ふ。『言論春秋』九月二十四日號によれば、TBSの人氣番組『時事放談』では、先日、出演者が「大平ガマガヘルめ、自民黨に絶對多數を渡すな」と放言したさうだが、それはずゐぶんはしたない事だと思ふ。  けれども佐藤女史は裸體を公開したのである。人間が通常露出してゐる部分について、その欠陥を云々する事は許されない。が、裸體を公開し、裸體で稼ぐ決意をした以上、他人の美的判斷を甘受する覺悟が女史にはある筈だと思ふ。海に向かつて下半身をさらしてゐる女史は、昨今の日本の女には珍しい短足胴長で、醜怪としか形容できぬ肉體の持主である。  私は女史の肉體を酷評して樂しんでゐるのではない。女史と池田氏の差恥心の欠如に呆れてゐるのである。いかに胴長であらうと、池田氏が女史を愛する事自體はよい。が、戀人の裸體をなぜ公開しなければならないか。ポストに限らぬ、週刊誌は差恥心についても多少は考へて貰ひたい。差恥心を欠く者は人間ではない、それは獸に他ならない。 【文章を讀む樂しみ】  「國法を犯す者に次ぐ大犯罪者は國語を侵す者である」と、ウォルター・ランドーは言つたさうである。このランドーの言葉を、私は中村保男氏の『言葉は生きてゐる』(聖文社)のなかに見出したが、中村氏は序文で、物書きたる者は、「讀者層が大學受驗をめざす高校生であらうと、讀者と對話しながら自分自身の考へを深め、同時に讀者の知的水準を引きあげることをめざさなくては意味がない」と書いてゐる。なるほどそれは昨今珍しくなつた物書きの態度で、それゆゑ中村氏の著書を私はひろく江湖にすすめたいが、週刊朝日十月五日號には、「國語を侵す」極惡人とも言ふべき男の文章が載つてをり、あまりの事に私は唖然とした。他人の文章を過度に引用するのは一種の原稿料泥棒だが、あへて左に引用する。ただし、原文の改行は無視する。  「初めのころは腕タッチン」「そろそろ進んで肩タッチン」圖々しくエスカレートす るアネゴに、男の子は逃げ腰。男損女狒々!!の時代。(中略)笑アップ教室の割り句 で、「ナカ尾さん、カホにも胸にも、あう凸がない」とやられたら、やにはに上着をぬ いで「中お見よ」。奔放自在、のやうで、樂屋のご同役にも細かく氣を使ふとか。當 代、數少ないおとなの女、か。お邪魔どころか、ねえ。(雅)(コマーシャル百科)  このコラムの週刊誌批評を担當して二年、私はこれほど奇怪な文章にでくはした事が無い。何の事やら、私にはさつぱり解らぬ。解らぬ私のはうが惡い、といふ事になるのなら、私はもはや物を書きつづける事ができない。  一方、週刊新潮十月十一日號は「新聞の一面廣告」に登場した渡部昇一氏の事を話題にしてゐる。電卓を手にして滿面に笑みをたたへた渡部氏は、電卓は計算するものとばかり思つてゐたが「これ“文字”がでるぢやありませんか。(中略)これ、新しい文化のはじまりといへるのぢやないでせうか」と語つて電卓の宣傳をやつてゐるのである。新型電卓が發賣されて、「文化」が始まつたり、終つたりするのなら、私は「文化」とは何の事やらさつぱり解らなくなる。  もとより大學教授がコマーシャルに出るのは合法的である。「英語の達人でいらつしやる渡部センセイがこの電子メモ電卓を持つと、電子飜譯機に思へてくるから不思議」と新潮は書いてゐるが、さういふ「不思議」な効果を廣告屋は狙つた譯であらう。が、「驚きましたね。電卓は計算するものとばかり」云々には、學者たる者の努めて避くべき虚偽が潜んでをり、それを渡部氏が氣にしなかつた事が、私には「不思議」に思へるのである。けれども、先に引いた文章はちんぷんかんぷんだが、新潮の文章からは新潮が渡部氏をどう思つてゐるか、それが窺へる。「眼光紙背に徹する」とはちと大袈裟だが、それこそ文章を讀む樂しみに他ならない。 【衆愚政治を憂ふ】  週刊讀賣十月二十一日號によれば、大平首相は「行政改革が嫌ひ」ださうであり、かつて參議院予算委員會で、民社黨の議員に對し、「行政整理、改革にはみんな總論賛成。あなたのところもといふと、待つてくれとくる。國會議員の定數から削減しようといつた提言もあるが、あなたは賛成するか」と反問したといふ。自民黨が「公認候補で二百五十六の過半數すらとれ」なかつた技術的な失敗は、總裁としての大平氏の責任だらうが、「増税を打ち出した事は失敗だつた」とか、「増税を打ち出しても民衆は支持すると考へたのは大平首相の驕りだ」とかいふ意見は首肯しがたい。大平氏の言ふやうに「選擧があらうとなからうと、財政再建は避けて通れない課題」だからであり、また週刊新潮十月十八日號で山本夏彦氏が言つてゐるやうに「行政整理とは公務員のクビを切ること」だが、「増税しないですむほどのクビを切ること」なんぞ土臺不可能だからである。「あらゆる解雇は不當だと組合はいきりたつ。自分たちの解雇は一人でもいけなくて、役人のそれなら何十萬人でもいいのだらうか」と山本氏は書いてゐる。さういふ身勝手ばかりが昨今は横行してゐるが、「公共投資によつて景氣を維持するんだといふケインズ理論を捨て、行政改革と不公平税制に取り組むべきだ」などと主張する學者には、人間とは甚だ身勝手な動物で、「あなたのところもといふと待つてくれとくる」といふ事が全然解つてゐないのであらう。  それに何より、もしも増税を仄めかした結果、自民黨の議席が減つたのならば、それは日本の政治が衆愚政治に堕しつつある事の證拠であつて、その事を新聞や週刊紙が問題にしない事を、私は奇怪千萬に思ふ。週刊新潮の如きは、「日本共産黨は“大躍進”をとげた。(中略)これで、うれしい期待がわいてくる。ただでさへ過半數ギリギリで動きのとれない自民黨にとつて、一番コハーイお目付役の勢力が倍増したのだから、さうさう勝手な増税はやれまい、といふこと。期待してますよ、共産黨サン!」と書いてゐる。何とも情けない文章である。誰でも税金は拂ひたくない。他人の馘首には賛成でも、自分の首は切られたくない。さういふ人間の身勝手がジャーナリストには解つてゐない。それが解らないからこそ、皆が身勝手を言ふ社會に怖氣立つといふ事が無いのである。  一方、週刊文春十月十八日號は、新聞の選擧予想が三度つづけて外れた事について「世論調査無用論も各社の間に出始めた」と書き、各紙の予想担當セクシヨンの辯明を紹介してゐる。「選擧戰の途中の情勢を知りたいといふ讀者の要請」になんぞ、新聞はこたへる必要は無い。「闇夜の鐵砲」なんぞ止めるに如くはない。開票結果が判明するまで待てない衆愚の輕薄に付き合つて、「パンとサーカス」ゆゑに滅びたローマを思はぬ迂闊を新聞やテレビは反省すべきである。 【損をして得をとれ】  私事で恐縮だが、このたび私は約二週間、韓國政府の招待を受け韓國を訪問する事になつた。滞在を延ばす事もありうる。このコラムに私は隔週一囘の割で書いてゐる。二週間日本を留守にすると、その間週刊誌を讀めないから、週刊誌批判の文章は書けない事になる。讀まずに一般的た事を書いてお茶を濁したくはない。休載といふ事も考へたが、事情あつてそれはやらない事にした。とすれば、これまでに讀んだ記事について書き洩らした事を書くしかない。御諒解願ひたい。  週刊ポスト九月二十一日號は、「成熟女性における完全た失神の方法!」と題する或る「女房族向けの雜誌」の記事を紹介してゐる。それは「亭主に滿たされない“成熟女性たち”に“完全な失神法”を教へます、といふ大記事」なのださうで、「われわれ亭主族にとつてまことに看過すべからざる大特集記事」だと、ポストは言ふのである。馬鹿々々しい記事だから、その中身を紹介はしないが、この種の記事を週刊誌は格別好むやうであり、週刊現代に漫畫を連載中の小島功氏の如きは、倦きもせず、倦きられもせず、馬鹿の一つ覺えよろしく、古女房の性欲にてこずる亭主を題材にして稼いでゐる。が、いかに金錢の魔力のせゐとは言へ、女房にてこずる亭主を好んで取り上げる事は、男性の記者や漫畫家にとつて自縄自縛的行爲ではないか。亭主に滿足せず懊惱する女房もくだらないが、さういふ女房にてこずる男もくだらない。てこずつてそれを他人に打ち明ける男はもつとくだらない。  「成熟女性」に「失神の方法」を、男の記者が教へる事も自縄自縛である。ポストの記者の妻もポストを讀むからである。だが、いづれ損を覺悟するならば、なぜもう少し高級な損を考へないか。  例へば週刊新潮九月六日號は、小中學校の教職員を十二萬人増やすといふ文部省の計畫にけちをつけ、日本大學などといふ「大學のテイもなさないに等しい」大學に「今年もまた百五億圓にものぼる助成金を出したりしてるのは納得できぬ」と批判してゐる。新潮の批判はもつともだが、日大關係者や日大出身者は腹を立て、週刊新潮を買はなくなるかも知れぬ。  新潮はまた、本州と四國を結ぶ橋を三本も造るのは「史上最大の愚擧」だが、四國出身の大平首相も故成田知巳氏も三木武夫氏も、「オラが縣にないのはメンツにかかはる」と息卷く選擧民の事を考へ、三本架ける事の無駄を決して言はないけれども、「瀬戸内海に三本も巨大な橋をかける金があつて、何が増税か」と書いてゐる。さういふ思ひ切つた事を書いて、四國地方の新潮の購讀者は減るだらうか。私はさうは思はない。増税をほのめかし、不利と知つて引つ込めたりしたから、自民黨は「敗けた」のだと思ふ。要するに、自民黨は本氣でなかつたのである。 【教育の普及を嘆ず】  週刊讀賣に連載中だつた藤原弘達氏の「天下大亂に處す」が完結した。毎囘、何が言ひたいのやらよく解らぬあれほど粗雜な文章を、百四十囘も連載できたとは、さすがは大讀賣と言ふべきか。最終囘は「むなしさについて」と題する何ともむなしい文章である。少し引用しよう。  天皇が、、美智子妃が、そして大平正芳が、栗原小卷が、それぞれにひりだした自分の糞を、どのやうな思ひで眺めてゐるだらうかと考へながら、自分は自分なりの糞をひりだしながら、いま更のやうにおどろく思ひでもある。  藤原弘達氏が、かくも粗雜な思考力と劣惡な文章をもつて今日の名聲を築けたのは何ゆゑかと、私は「いま更のやうにおどろ」かざるをえない。しかもそれは藤原氏に限つた事ではない。例へば、サンデー毎日に「ことばの四季」と題して愚にもつかぬ文章を七十七囘も寄せ、編集者からも讀者からも愛想尽かしをされずにゐるらしい外山滋比古氏の場合も同樣である。外山氏には女性ファンが多いさうだが、察するに、昨今は教育の普及に伴ふ新手の無知がはびこつてゐるのであらう。「握手」と「シエイク・ハンド」とは違ふなどと言はれて、「なるほど」と理解できる程度の大學出の「知的」な母親が増え、「教育の普及は浮薄の普及なり」といふ事になつたのであらう。  藤原弘達氏のファンに女性が多いとは考へられない。けれども藤原氏が『世界の名著』から破廉恥なほど頻繁かつ大量に引用し、しかも、引用文を正確に理解せずして、淺薄な思ひ付きを書き流し、それで結構讀者に受けてゐるらしいのはやはりその新手の無知のせゐではないかと思ふ。  だが、それにしても藤原氏の理解力と思考力の粗つぽさは度を超えてゐる。「王樣がたも哲學者たちも糞をする。ご婦人たちも同樣である。・・・・・・これは、すべての自然の行爲のなかで、途中でやめる氣にもつともなりにくいものだ」とのモンテーニューの文章から、藤原氏は次のやうた結論を引き出すのである。  だしかかつた糞のやうに、途中ではなかなかやめられないのが、人それぞれの生きざまなのであらう。ここで朴正煕大統領射殺の報に接する。一度だが會つて、獨裁者の“苦惱”を‘きいてやつた’こともあるあの韓國空前の軍人獨裁者・・・(中略)彼もまた殺されるまでやめられなかつた男としてそれなりに生きたといふことなのかも知れない。(傍点‘’松原)  朴正煕大統領暗殺以後、日本の新聞や知識人が口走つた暴論、愚論の數々を、私はいづれ徹底的に扱き下ろす予定だから、朴正煕氏を「空前」の「獨裁者」とする藤原氏の論法の粗雜はここでは咎めない。が、一國の元首の「苦惱」を「きいてやつた」とは何事か。さういふ無神經な男に、モンテーニューなんぞが理解できる譯は斷じて無いのである。 【自分の頭で考へよ】  何か事件が起こると、新聞や週刊誌は識者の意見を知りたがる。知りたがる癖にまづ自分の意見を言ふ。それはジャーナリストの奇癖である。そこで識者はつい相手が喜びさうな意見を喋る事になる。それが嫌だからと、思ひのままに喋ると、記者は甚だ浮かぬ顔で聞く。電話の場合、もとより相手の顔は見えないが、相手の喋りやうでそれは察せられる。さういふ事が度重なると、「ええい、面倒くさい」とばかり、識者は相手を喜ばせるやうな事を喋るやうになる。週刊ポストの記者に對して會田雄次氏は、自分はこれまで新自由クラブを「愛玩政黨だといふ意味で、“コアラ”と思つてゐた、ところが、“パンダ”ですな」云々と喋つてゐる。會田氏もまた「ええい面倒くさい」と思つたのかどうか、それは知らないが、かういふ事を言はれると週刊誌が喜ぶのは確かである。「あ、これで題名は決つた」と記者は思ふ。かくて「大平總理がウシなら河野洋平はパンダか」と題する淺薄な記事が出來上がる。  けれどもそれは、「これで題名は決つた」と思つたポストの記者が、會田氏の話の續きを上の空で聞いたためかも知れぬ。それかあらぬか、ポストの記事は「大平ウシ説」とも「河野パンダ説」ともおよそ無關係な代物なのだ。  事ある毎に識者に意見を徴して記事を書く、さういふ習慣の安直を新聞や週刊誌は氣にしてゐるであらうか。今囘の「河野洋平辭任劇」についても戸川猪佐武氏、三宅久之氏、麻生良方氏などの政治評論家、及び明大教授岡野加穂留氏や早大助教授岡澤憲芙氏などの政治學者は、愚にもつかぬ意見しか述べてゐない。政治評論家は裏話を得々と喋り、政治學者は陳腐な御托を並べ、それを記者ばかりが面白がつて、その擧句、「暗躍好きの民社が噛んでくれたら、自民の抗爭劇はもつと面白かつたらうに、殘念な氣もする」(週刊讀賣)などと無責任な野次馬根性を丸出しにするか、さもなくば「イタリアでは連合・連立といふ名のもとで政爭がくり返され、經濟危機を招き、社會的混迷を深めてゐるといふ」(ポスト)などと、日本の「經濟危機」と「杜會的混迷を深め」る事を望んでゐるのか、それともさういふ事態の到來を案じてゐるのか、さつばり解らぬやうな「結論」を下したりするのである。  週刊誌は凡庸な識者の凡庸な意見を重宝がらずに、自分の頭でじつくり考へるか、さもなくば見たまま聞いたままの事實を、いつそ淡々と語つて貰ひたい。  とは言ふものの、それも所詮は不可能であらう。このぐうたらな日本國では、愚鈍な週刊誌と愚鈍な學者とは割れ鍋に綴ぢ蓋だからである。週刊文春十一月二十九日號で外人記者たちが指摘してゐる通り、自民黨は「大敗」したのではない。が、愚鈍な新聞・週刊誌が「大敗」と書き、愚鈍な識者もそれを支持したから、朴大統領の葬儀に參列できぬほど、大平氏は多忙になつたのである。が、その多忙は一體全體何のためだつたのか。 【許し難い韓國蔑視】  朴正煕大統領が凶彈に斃れて以來、日本の新聞は例によつて浮薄な記事を書き流したが、私はいづれ、それらを束ねて批判する積りでゐるから、このコラムでは韓國には一切觸れまいと思つてゐた。が、サンデー毎日十二月三十日號の「銃聲再び ソウルの闇夜に第四幕があく」を讀み、私は腹立ちを抑へられなかつたのである。それゆゑ、今、ここで、サンデー毎日を血祭りに上げておかうと思ふ。  まづ、前々囘たたいた藤原弘達氏もさうだが、韓國といふ獨立國を日本の新聞や識者は屬國なみに考へてゐるのではないか。韓國で知つたことだが、かつて韓國を訪問した「親韓派」として著名な日本の知識人は、「女を世話しろ」と韓國の役人に言つたといふ。言語道斷である。さういふ物書きが何を書かうと、その「親韓」は商賣に過ぎない。もちろんサンデー毎日は「親韓」ではあるまいが、韓國を對等の獨立國と考へぬ点では、「女を世話しろ」と言つた保守派の物書きと少しも變らない。先日の鄭昇和戒嚴司令官の逮捕について、毎日は「このごろソウルに出囘つてゐる」といふ「軍部をサーカスのライオンにたとへた話」を紹介し、「鋭いムチを振るつてゐた調教師がボス格の一頭にかみつかれ、姿を消したため」、「當然、ボスの座を獲得するため激烈な死鬪を演じ出したわけだ」と書いてゐるのである。つまり毎日は、眞劍勝負をしてゐる韓國軍をサーカスなみに考へ、韓國民の直面してゐる試練を對岸の火事として興がつてゐるのであつて、許し難い輕佻浮薄であり、韓國蔑視である。  毎日によれば、鄭陸軍參謀總長逮捕を指揮した全斗煥少將は陸士十一期卒で親朴派だが、李熹性新參謀總長は陸士八期卒であり、「そこから八期と十一期との對立といふ新局面の出てくることも考くられてゐる」といふ。馬鹿が文章表現上の工夫を凝らしても、まちまちにして馬脚をあらはす。毎日は韓國が不幸になることを望んでゐるのである。「馬鹿正直」といふことがある。なぜそれを正直に書かないのか。  かういふ小さいコラムでは、他國の不幸を樂しむ毎日の記者の心理を詳細に分析できないが、證拠として一つだけ引いておかう。毎日はかう書いてゐる。「もし金桂元室長と鄭總長が金部長に同調してゐたら、もし盧國防相が金部長の逮捕に失敗してゐたとしたら(中略)韓國は國民を卷き込んだ未曽有の混亂に陥つてゐただらう」  朴大統領をサーカスの調教師にたとへてゐるのだから、毎日の「歴史的イフ」は、韓國が「未曽有の混亂に陥」ることがあらうと、「全斗煥將軍が何とか失脚してくれないものか」との願望のあらはれに他ならない。それならさうと、小細工をせず、なぜ正直に書かないか。全斗煥將軍が鷹派なら私は將軍を支持する。毎日に尋ねたい、毎日は本氣で金載圭を支持するのか。 【割を食ふのは覺悟】  このコラムに執筆すること六十六囘、やがて滿三年になる。この際、何か感想があれば書けとのサンケイ新聞の注文である。「松竹立てて門毎に祝ふ今日こそ樂しけれ」と、世間が新年をことほいでゐる最中にも、放つておけば野暮天の松原は、肩を怒らせ週刊誌を扱き下ろすだらうと、サンケイは思つたのかも知れぬ。その思ひ遣りは忝いが、私は何とも野暮な男で、屠蘇機嫌にふさはしい酒落た文章なんぞ書ける譯が無い。それゆゑ、この三年、折節考へた事を書く事にする。  小林秀雄氏は、若かりし頃、「毒は薄めねばならぬ。だが、私は、相手の眉間を割る覺悟はいつも失ふまい」と書いた。が、昭和四十年、小林氏は次のやうに語つたのである。  お前駄目だなんていくら論じたつて無駄たことなんだよ。ぜんぜん意味をたさないんだ。自然に默殺できるやうになるのが、一番いいんぢやないかね。  なるほど、駄目な週刊誌や愚鈍な物書きに向ひ、「お前駄目だなんていくら論じたつて無駄なこと」なのである。それは私にも解つてゐる。それゆゑ私は、週刊誌を出しに使つておのれを語つたのである。それがやれたから、つまり、おのれの言ひたい事を讀者に傳へる喜びがあつたから、私は批評對象を默殺しなかつたのであつて、それゆゑ「高が週刊誌ではないか」などと私は一度も考へた事は無い。  「高が週刊誌、本氣で目くじら立てるには及ばない」と、そんなふうに考へながら文章を綴るのは、週刊誌に對しても讀者に對しても失禮な態度だと思ふ。それにまた、本氣で目くじらを立てないと、批評對象の下劣に比例してとかく批評文も下劣になる道理だから、かういふ小さなコラムだが、私は三年間本氣で週刊誌を罵つた。週刊誌の記事がいかに愚劣でも、それがいかに愚劣で、この私がいかに立腹してゐるかを本氣で語れば、紙幅の制約はあるにせよ、通じる讀者には通じるであらうと、それを信じて書く事は樂しかつたのである。  それゆゑ、去る十二月十九日付本紙『私の意見』欄の前田馥氏の批評を、私はうれしく讀んだけれども、私の場合「無能な讀者は讀者とは認めてゐない」などといふ事は無い。無能な記者がゐるからには「無能な讀者」もゐるだらうが、私が本氣で書いてゐる事さへ解つてくれるなら、それが私の理想の讀者である。そして、「高が週刊誌批評ではないか」などと考へぬ以上、當然私は欲張つて言ひたい事を小さなコラムに詰め込む事になる。私が漢字を多用し、安易な改行を嫌ふのはそのためである。必然的に字面は黒くなる。それで私が得をする譯が無い。  が、損得を言ふなら、この馴合ひ天國日本では「相手の眉間を割る覺悟」も割に合はない。とすれば、いづれ「自然に默殺できるやう」になれるまで、割を食ふのは覺悟するしかないであらう。 【戰爭は無くならぬ】  サンデー毎日に『サンデー時評』を連載してゐる松岡英夫氏の愚鈍はすさまじい。もはや病膏肓、いくら叩かうと直る事は無い。けれども、一月二十七日號で松岡氏は「國際紛爭に臆病な國でもいいぢやないか」と題して戯言を口走つてをり、それを戯言と受取らぬ讀者もあらうから、ここで取り上げ批判しておかうと思ふ。 松岡氏は、日本は「無資源國」だから、「世界のどの國とも」仲良くやつてゆかねばならず、日本は「戰爭をしない國」ではなく「戰爭のできない國」だと言ふ。そしてこれは「保守とか革新とかの思想の問題ではなく、客觀的事實」であり、「憲法の不戰・平和条項から出る觀念論ではない」と言ふ。こういふ安手の議論に感心する手合も結構ゐるのだから、日本國の將來を思へば默殺する譯にもゆくまい。  まづ、「觀念論ではない」と斷れば「觀念論ではない」と松岡氏は思つてゐて、そこが何とも無邪氣だが、それはともかく、「戰爭のできない國」でも「戰爭に卷き込まれる」事があるといふ事を、松岡氏は全く理解してゐないのである。よい年をして、さういふ中學生にも理解できる事が理解できない手合の言分は、「憲法の不戰・平和条項から出る觀念論」に他ならない。松岡氏はまた、「戰爭に絶對卷き込まれまいとするおく病なほどの用心深さ」が大切であると言ひ、日本の「國際紛爭の火種は國内に持ち込まないといふ“逃げ”の外交」を高く評價し、かう書いてゐる。「かういふ逃げの外交がアメリカを怒らせ、イランからも非難されるといふ結果を招き、アブハチ取らずになつてしまつた。しかし世界で一國くらゐ、國際紛爭に近寄らないといふおく病な國があつてもいいだらう」。この文章の後半に私は同意する。臆病ゆゑに輕蔑され、擧句の果てに滅びてしまふ、さういふ國が「世界で一國くらゐあつてもいい」。だが、それが日本國では困るのである。  いづれ私は腰をすゑて戰爭について考へ、この種の愚鈍な平和主義者を成敗する積りだが、松岡氏の愚鈍のあかしとして、今囘これだけの事を言つておく。この私の口汚い罵倒の文章を讀めば、松岡氏は平然としてはゐられまい。が、私に反論すれば、いづれ叩き返すだけの紙數を私に与へる事になる。紙數さへ与へられれば、私は完膚無きまでに松岡氏を粉砕してみせる。それこそ赤子の腕を捩るやうなものである。と、これほどまでの事を言はれても、松岡氏は「日本に一人くらゐ、論爭に近寄らないといふおく病な人間があつてもいいだらう」と呟くであらうか。もしも呟けるなら松岡氏はあつぱれなる腰抜けだが、立腹して反撃しようとするならば、愚鈍な松岡氏にも自尊心だけはあるといふ事になり、松岡氏は自らの主張を裏切る事になる。個人と同樣、國家にも自尊心がある。それゆゑ戰爭は無くならない。 【まさに「立憲亡國」】  ソ連のアフガン侵略について、週刊現代一月三十一日號は、例によつて多數の識者の意見を徴してゐる。現代は何と各界の名士十八人に電話を掛けたのである。だが、現代自身の意見となると、わづかに數行、すなはち「兵器の本格的生産は日本の工業力ならいつからでも始められます」との宍戸寿雄氏の意見を紹介した後に、「そのいきつく先がさきほどの“憲法改正”にもつながるが、しかしここから先は論議の的。こんな時こそつぎの意見には耳を傾けたい」と書き加へてゐる程度である。そしてその「つぎの意見」とは「平和憲法を守り、何事も非軍事的にやるべし」との、東大教授關寛治氏の愚論であつて、してみれば、現代自身の意見は關寛治氏のそれに近いのであらう。が、關氏ほど弱腰の意見を述べてゐる識者は他に一人もゐないのである。四人の記者の取材による四頁にわたるこの記事に、記者の主張らしきものが「つぎの意見には耳を傾けたい」との一行だけとは、頗る奇怪な事だと思ふ。週刊現代の記者は、例へば編集會議の席上、專ら他人の意見を記録するばかりで、とどのつまり最も弱腰で不景氣な意見に「耳を傾けたい」と、さう思ふだけなのであらうか。かつて曽野綾子女史は、「日本人は笊の上の小豆だ、笊をちよつと右に傾ければ、皆一斉に右に寄る」と言つたが、現代の記者も笊の上の小豆で、おのれの信念などさつぱり持ち合はせぬ化物たのかも知れぬ。  だが、週刊誌の記者なんぞはこの際どうでもよい。有事の際、日本國を專ら守る事になつてゐる自衞隊はどうなのか。ジャーナリストの世界や論壇、そしてもとより政界も今やだらけ切つてゐるのだから、自衞隊の性根だけがすわつてゐる筈はあるまいと、かねがね私は不安に思つてゐた。そしてそれは杞憂ではなかつたと、週刊新潮一月三十一日號を讀んで私は思つたのである。新潮によれば、ソ連に情報を漏らしてゐた宮永幸久陸將補と現職の自衞隊員二名が逮捕された事件に、「自衞隊は上は將から下は兵まで」少しも驚いてゐないといふ。陸上自衞隊の元將校がかう語つたといふ。「いやあ、日本の自衞隊はみんな平和主義者ですよ。日本國民の誰よりも平和主義で、憲法を尊重してゐます。(中略)戰へば負けることをよく知つてをりますからね」。  そんな事だらうと思つてゐた。「日本に國家がない以上、宮永たちは賣國奴でも何でもない」と新潮は言ふ。その通りである。宮永氏を賣國奴と罵る前に、吾々はそれを考へねばならぬ。「日本の生きる道は對ソ戰略降伏だ」と宮永氏は信じてゐたといふ。それなら宮永氏は森嶋通夫氏と同じ事を考へてゐた事になる。いづれすべての日本人が、笊の上の小豆よろしく、森嶋氏の先見の明を稱へる日が來るかも知れぬ。新潮の言ふ通り「立憲亡國のわが國を象徴するやうな氣の重い」話ではないか。 【他人を嗤ふ前に】  「私は最近の新劇を知らない。知らないで難じるのもどうかと思つて、參考までに俳優座を見物に行つた」と、週刊新潮二月十四日號に山本夏彦氏が書いてゐる。するとそこには、五十年前と同樣、ベレー帽をかぶつた客がをり、山本氏は「思はず顔をおほつた」といふ。役者たちの發聲の奇怪に新劇人はよくも我慢できるものだ、「芝居ごつこを始めると何も見えなくなるのだらうか」と山本氏は書いてゐるが、なに、他の分野でも「ごつこ」は今や全盛で、夢中になつて「何も見えなく」なつてゐるのは役者に限らない。  週刊朝日二月八日號は、宮永元陸將補とコズロフ大佐との情報賣買は「少年探偵團」の如き「幼稚なスパイごつこといふ感じを拭ひきれない」と書いてゐる。朝日は宮永、コズロフ兩氏を嗤つてゐるかの如くであるが、朝日は「宮永が、なぜ、こともあらうに自衞隊ひいては日本國が假想敵國とするソ連側になびいたのか」と書いてゐて、朝日もまた「幼稚なスパイごつこ」を嗤ふ事に夢中になり、おのれの姿は見えなくなつてゐる、自分の幼稚が見えなくなつてゐる。朝日はいつからソ連を日本國の「假想敵國」と認めるやうになつたのか。  二月十四日號の新潮は、栗栖元統幕議長が『現代』一月號において自衞隊のレーダーサイトの状況などを明かしたのは自衞隊法違反ではないかと、共産黨の正森代議士が追及したのは、實は選擧對策に他ならぬと書き、情報公開法を作るべしと主張してゐるくせに「自衞隊の機密漏洩を咎めるやうな發言」をする共産黨の矛盾をからかつてゐる。栗栖氏が『現代』編集部でなく、『赤旗』に原稿を持ち込めば、共産黨はにつこりした筈で、それなら、共産黨も今や「革命ごつこ」に夢中で、これまた自分の姿が見えなくなつてゐるのである。  けれども、共産黨の幼稚と自家撞着を嗤つてゐる新潮にしても、「選擧といふバカ騒ぎの前では、日本の國防問題も、ひとたまりもない‘やうです。生きのびられるかな’、‘80年代」(傍点‘’松原)と書いてゐるのである。新潮には文章について敏感な記者が揃つてゐると信じるから、敢へて苦言を呈するが、傍点を付した部分は、ジャーナリスト特有の、高みの見物的浮薄を裏切り示してゐる。「生きのびられるかな」では濟まぬ、日本はどうしても「生きのびねばならぬ」のである。  週刊文春二月七日號の防衞庁關係の特集も私は興味深く讀み、日蔭者の自衞隊の腑抜けぶりに呆れ果てた。週刊現代二月十四日號に江藤淳氏が書いてゐるやうに、憲法を改正せずして「ノホホンと日々をおくり續け」たから、今や日本中が「ごつこの天國」になつた。共産黨や社會黨を嗤ふ前に、人々はなぜその事をまじめに考へないのか。 【何とも退屈なる惡事】  私は小説を讀むのが苦手である。詩や戯曲は概して短いが小説は長い。だから滅多に讀み切る事が無い。新人の小説なんぞは讀まうといふ氣もしない。週刊文春二月二十一日號の書評欄の筆者は、すばる文學賞の松原好之氏、文藝賞の宮内勝典氏の作品をそれぞれ「支離滅裂」、「無神經」と評してゐる。しかるに、さういふ「無神經な描寫」や「支離滅裂な作文」を「抜群」などと褒め上げた選考委員がゐるさうであつて、八百長、馴れ合い、ぐうたらは政界や論壇に限らぬ事らしい。となれば、ますます小説なんぞ讀む氣がしなくなる。  さういふ譯だから、週刊誌が連載する小説も、私は滅多に讀まない。週刊ポストに載つてゐる宇能鴻一郎氏の小説を時々拾ひ讀みするが、私が常に訝るのは、宇能氏の小説に限らず、例へば、週刊新潮の「黒い報告書」にしても、あの男女の色事の單調によくも讀者が愛想づかしをしないものだといふ事である。宇能氏の小説を週刊ポストの讀者の何割が讀んでゐるのだらうか。  だが、週刊朝日の連載漫畫の作者サトウ・サンペイ氏が好んで取り上げるやうに、色好みにかけて男はまこと性懲りも無いのであつて、私はただ、色事が惡だとしても、その惡を描く小説の單調、耐へ難いほどの退屈を指摘したいだけである。かつて私は英文で書かれ日本で出版された春本Pleasures and Follies of a Good−natured Lidertineを讀み切れなかつた事がある。それはすさまじい程の猥本で、すさまじい程退屈であつた。あれを讀み切れるのは狂人に他なるまい。 ところで、その小説嫌ひの私が今囘、週刊新潮に連載が始つたばかりの遠藤周作氏の小説『眞晝の惡魔』の第一囘と第二囘を讀んだ。猥本や「支離滅裂」な新人の作品と違ひ、遠藤氏の作品はさすがに讀み易かつたが、やはり私は惡の單調といふ事を感じて、遠藤氏の「新連載推理小説」を樂しまなかつた。  一流ホテルで行きずりの男に身を任せる若き女醫が、床入りの前に男の「五本の指を大きく擴げた掌の甲に縫針を突きたて」てみたり、病院で「煙草を口にくはへたまま」實驗用の二十日鼠を握り殺したりする。何と退屈な惡事か。私はフローベールの短篇『聖ジュアン』を思ひ出し、遠藤氏の小説の第三囘を讀む氣を無くしたのである。  「私を興奮させるのは狂氣ではなく理性だ」とジョージ・スタイナーは言つた。善への憧れの存在しないところ、惡は常に單調なので、差恥心を持たぬ宇能氏の小説の登場人物の好色が退屈なのは、してみれば當然の事なのである。 【何よりも批判精神を】  週刊誌の記者は、月刊誌の編集者よりも氣忙しい毎日を過してゐる。それゆゑ、程度の差こそあれ、「鹿待つところの狸」といつた結果にをはつたり、問題の本質についての考察を疎かにする事もあらう。だが、そこはよくしたもので、讀者も例へば、渡部繪美嬢が美人で、銅メダルを獲得できなかつたとなると、週刊朝日三月十四日號の「渡部繪美 スケ一ト人生の軌跡と今後」のやうな記事を喜び、週刊文春「6位渡部繪美の商品價値は2千萬圓?」(三月六日號)のやうな天邪鬼的記事を喜ばない、といふ事になる。だが、日本中に百萬人ぐらゐの天邪鬼はゐよう。そして週刊誌はいくら賣れても六、七〇萬。すね者相手の文春や新潮の商賣が成り立つゆゑんである。『月曜評論』といふ、これも專らすね者相手のミニコミ紙で、矢野健一郎氏が、週刊新潮の編集ぶりを「ハラのすわつた批判精神」と評してゐたが、まつたく同感である。  一方、その種の批判精神を欠いてゐるのが週刊ポストであつて、例へば三月十四日號の「由美かおる 黛ジュンの涙ぐましき股われ商法」のやうな、新潮や文春の記者には書けないやうな記事ならよいが、同日號の「“金載圭供述テープ”が暗示する“4月韓國異變”を讀む」の如く、眞面目に論じてしかるべき問題を扱ふと、ポストの記者の愚昧は惨憺たる結果を招來する事となる。  まづ、金載圭の軍法會議における發言を収録したテープを、ポストは「極秘に入手した」として、「新聞では分らない重要部分を抉る」などと書いてゐるが、同じテープをNHKや新聞も入手した筈であり、いづれの場合も、「入手」が「極秘」だつたのは當り前である。また、ポストの記事を讀んでも「新聞では分らない」事は遂に解らない。いや、「新聞では分らない重要部分」とは何か、それも解らずじまひなのである。金載圭の供述は「韓國政界のある斷面をみごとなまでに物語つてゐることだけはたしかである」とポストは言ふ。「ある斷面」とは何かを書かずに「たしか」だと斷定する、この種のいかさまに、ポストの讀者は頗る寛容であるらしい。なぜか。なにせポストは二百ぺージもあつて百八十圓、女の裸のカラー写眞のおまけまでついてゐる。眺め終り、讀み終つたら屑箱に捨てて惜しくはない。どだい、批判精神を云々するのが野暮なのだ。  だが、讀者は『正論』四月號に載つてゐる柴田穂氏の「韓國・銃撃と危機の55日」を讀んでみるがよい。柴田氏が一流のジャーナリストたるゆゑんは、その鋭い批判精神にある事を、誰しも納得する筈である。柴田氏の文章は、出色の「現地取材ルポ」である。一讀をすすめる。 【早稲田は堕ちたか】  早稲田大學總長室調査役の後藤朝一氏が、「(不正入試)事件に關与してゐないことだけは、死を前に斷言致します」との遺言をのこして自殺した。サンケイ新聞三月二十二日付夕刊によれば、清水司早大總長は「大粒の涙をポロポロ流し、何度もハンカチで顔をおほひながら」記者會見をしたといふ。私は早稲田大學の教員として、總長が「涙の會見」をした事を殘念に思ふ。男は公的な場所で泣くべきではないと考へるからである。總長はまた「後藤君は死をもつて身の潔白を證明したんです」と語つてゐる。冷酷な事を言ふやうだが、後藤氏の自殺と後藤氏の「身の潔白」とは別である。後藤氏をあはれに思ふ總長の私情を私は尊重するが、わが早稲田大學の最高責任者が、私情ゆゑに理非の判斷を曇らせた事は遣憾千萬である。  同日付のサンケイ夕刊「直言欄」に西尾幹二氏が、ソ連に對する過度の恐怖をいましめ、恐怖は「人間の平常心を奪ふうへで最大の効果があり(中略)確實に人間の言動を麻癖させてしまふ」と書いてゐたが、それは恐怖に限らない、憐憫も同樣である。以後、清水總長は決して涙を流す事なく、平常心を失はず、「ワセダの再建」のために努力して貰ひたい。總長の退陣を要求する聲もあるやうだが、不心得者はどの社會にもゐる。マスコミが浜田幸一代議士を激しく叩いても、大平總裁は辭任しないし、する必要は無い。清水總長の場合も同樣である。  一方私は、マスコミの報道ぶりの浮薄をも苦々しく思ふ。例へば、週刊文春三月二十日號は、「現職の教授を含めた早大職員が、試驗問題を盗み出し、受驗生の親に配つた、といふのだから、ワセダも堕ちたものだ」と書いてゐる。數名の(或いは數十名の)不心得者がゐたといふ事が解つたからとて、なぜ「ワセダも堕ちた」といふ事になるのか。文春は今後、自社から一名の不心得者も出さぬと言ひ切れるか。數名ないし數十名の不心得者はどこの會杜にもゐよう。少しはわが身をつねつて人の痛さを知つたらよいのである。  週刊ポスト三月二十一日號にしても、筑波大學の「不正入學工作の告發事件」を扱つた記事を「大學は、いまや明らかに病んでゐる」と結んでゐるが、「病んでゐる」のは大學だけではない。ポストは毎週「カネやんの秘球くひ込みインタビュー」と題し、金田元投手と女優との愚劣極まる馬鹿話を活字にしてゐる。金田氏も相手の女も大馬鹿なら、時々合の手を入れる記者も許し難いほど低級である。金田氏は三月二十一日號で、市毛良枝といふ女優に、「男の裸を見た」體驗について語らせ、「その時、野郎の××××は立つてた?」(伏字松原)などと質問してゐる。ポストに限らず、さういふ低劣俗惡な週刊誌が、わが早稲田大學を指彈する。笑止千萬である。 【説教も道徳的退廢】  今囘も「早大入試事件」について書く事にする。だが、それは早稲田大學が私の母校で勤め先だからではない。週刊新潮三月二十日號は、今囘の事件の新聞報道を「異常なまでの犯人捜し」と評し、「ワセダは“杜會の木鐸”の養成所、OB記者連が母校で起きた不正許し難しとしてハッスルしたせゐか」と書いてゐるが、私はその種の母校愛ゆゑにハッスルした事が無い。週刊現代三月二十日號は「早稲田は一生懸命に勉強しなければ入れない大學だからと、信頼を受けてきた。その國民的信頼を裏切るものです」との早大出身の代議士の言葉を引用してゐる。「國民的信頼」とはまた大袈裟な表現である。この代議士に限らず、とかく早大出身者は、母校の事となると盲目的になりがちであつて、それを私は苦々しく思つてゐる。  それゆゑ私は、その種の歪んだ母校愛ゆゑに早大を指彈する週刊誌を叩かうと思つてゐるのではない。新聞や週刊誌は「社會の木鐸」をもつて自ら任じ、政治家や財界人や教師の惡業を批判するが、新聞や週刊誌にだけ他者に説教する權利があるのはなぜか、及びさういふ權利をマスコミは、いつ誰に授けられたのかと、その事を私は怪しむのである。  例へば週刊朝日三月二十一日號は「皮肉なことに(中略)入試問題を手に入れてゐた渡邊伊一は、定年まで二十七年間『倫理・杜會』を担當、生徒たちに人の道を教へてきたはずの高校教諭だつた」と書いてをり、またサンデー毎日の記者は渡邊氏に對して「あなたは教師だつた人でせう。教育とは、師弟の信頼關係に基づくものではないか」と説教し、岸田茂雄主事補に對して「あなたは、いい年なのに、どうしてこんなばかなことをしたのですか」と尋ねてゐる(三月二十三日號)。「倫理・社會」の教師も、週刊誌の記者も、よい年をして時に馬鹿な事もしでかすのである。それなのに、なぜ新聞や週刊誌の記者だけが、かくも涼しい顔をして他人に説教できるのか。  私は早大の不正入試事件に關係した教職員を辯語してゐるのではない。週刊文春はこのところ毎週、朝日新聞小堀擴販團の「メチャメチャといつてもいい内情」を報じてゐるが、マスコミも程度の差こそあれ脛に傷持つ身なのであり、その意識を欠いて他者に説教するのは、不正行爲をなす事と同樣の道義的退廢だと、その事が言ひたいのである。  だが、早大に限らず、大學が退廢してゐる事も事實である。週刊文春の「讀者からのメッセージ」に早大生が投書してゐるとほり、入試問題の漏洩以上に、「教授・學生の熱意」が欠けてゐる事をこそ大學は反省しなければならぬ。人は時に過つ。が、怠惰こそ何よりも咎めらるべき惡徳だからだ。 【ぐうたら日本、わが祖國】  申相楚先生、韓國滞在中は一方ならぬお世話になり、まことに忝く、ここに改めてあつく御禮申し上げます。けれども、まづ何よりも、かうしてサンケイ新聞の週刊誌評のコラムに、先生あての私信といふ形で書く事にした理由について申し述べねばなりますまい。 第一の理由は、この文章が歸國後に書く最初の文章で、私は机上に積んだ週刊誌を讀まうとしたのですが、今囘ばかりはどうしても本氣で讀む氣になれません。それでも週刊新潮と週刊文春四月二十四日號の、浜田幸一代議士追及の記事、モスクワ五輪ボイコット及びイラン制裁問題をめぐる「大平ハムレット」批判などを讀み、それぞれ感ずるところはあつたのですが、それをどうしても文章にする氣になれない。全斗煥將軍のすばらしい人柄、鄭鎬溶特戰司令官と崔連植師團長の眞劍な表情、及び先生と鮮干7(火+軍)氏との樂しい旅行の思ひ出などが邪魔をして、浜田幸一氏の事なんぞ論ずる氣になれない、それが第一の理由であります。全斗煥將軍や先生の如き、何とも見事な人間の思ひ出に圧倒されて、私の「韓國惚け」は容易に癒えず、家族や友人や學生に韓國について語つて倦む事を知らぬていたらくなのです。  第二の理由は、歸國した私を待つてゐたのが、私の書いた文章に對する一種の嫌がらせであつたため、目下のところ私は、その卑劣極まる人物もしくは組織と戰ふといふ、頗る非生産的な作業に忙殺されてゐるといふ事であります。今囘の韓國滞在中、私はお國の欠点もかなり知つた積りですが、それでも、こちらが本氣になると必ず先方も本氣で應ずる韓國人の見事を、今囘も私は、何よりも貴重に、かつ羨ましく思ひました。正々堂々と反論せずに、搦め手からの嫌がらせしかやれず、またさういう嫌がらせに頗る弱い日本の言論界の風潮を、私は日本人として甚だ情けなく思ひ、眞劍勝負の國から歸國したばかりだけに、腹立ちを抑へかねてをります。  けれどもいづれ私は、このぐうたら天國特有の處世術に對する勘を取り戻すでせう。週刊現代五月一日號は「日本人はいまや世界一セックス好きになつた!」と題する記事を卷頭に載せてゐる。セックスが嫌ひな民族などこの地上に存在する筈がない。そんな當り前な事を取上げて卷頭記事になる、さういふだれ切つた日本國を、しかしながら、私は世界中で一番愛さねばなりません。また、週刊讀賣四月二十日號は、何と、本年四月私の母校早稲田大學に入學した學生三千六百名の氏名、及び申先生の母校東京大學の教授、助教授百六十八名の氏名を載せてをります。これまた沙汰の限りです。が、それでも日本は私の國、私が最も愛する國なのです。いささかとりとめもない事を書いてしまひました。末筆ながら、鮮干7(火+軍)氏はじめ皆々樣にくれぐれもよろしくお傳へ下さい。 【迫力ない「徹底追求」】  『月曜評論』五月五日號で、矢野健一郎氏は、浜田幸一批判に興ずる週刊誌を批判し、「浜幸」事件なるものは「檢察當局の資料によつていとぐちをつけられた。それは例によつてマスコミによつて掘り起こされたものではなかつた」と書いてゐる。その通りである。つまり日本のマスコミは怠惰なので、怠惰だから「自ら問題を掘り起こすことに不熱心」なのである。誰かが他人の惡事をあばけば、ハゲタカよろしく蝟集するが、このぐうたら天國のあちこちに轉がつてゐる理不尽を自ら告發しようと考へる事が無い。叩いても安全と解つてから、「これでもかこれでもか」と叩くのである。  例へば『サンデー毎日』五月十八日號によれば、浜田氏が「秘かにヨーロッパヘ旅立つ」と知つた時、毎日の編集長は「ハコノリ(同乘)だ」と叫んだといふ。そして、編集長の命により、鳥越俊太郎記者は、エールフランス273便のファースト・クラス、浜田氏と「誰にも邪魔されない」でインタビューのできる席を確保し、成田からパリまでの十六時間、「追撃密着取材」なるものをやつてのけた。「誰にも邪魔されない」やうに、毎日はファースト・クラスの切符を三枚買つてゐる。けれども鳥越記者の「密着取材」によつて毎日は十七ぺージに写眞と活字を並べる事ができた譯だから、これはずゐぶん割がいい商賣だつたであらう。そして割を食はぬ限り記事の凡庸は二の次三の次なのであらう。この記事は「徹底追及第4彈」のはずだが、そのやうな迫力なんぞどこにもありはせぬ。「座席に着いて何氣なく浜田氏の方を見た」鳥越記者は、サングラスの浜田氏の微笑に「思はず釣り込まれて微笑を返」す。そしてかう書くのである。「あの笑顔も政治家特有の演技なのか。必ずしもさうとばかりはいへない氣もする。(中略)田中角榮にしても、どえらい犯罪をやつてのける政治家は、並はづれた人間的魅力を備へてゐるものたのだ」 私は浜田幸一氏とは面識が無い。が、サンデー毎日の記事を讀んで、浜田氏の人柄に興味を持つややうになつた。少くとも付合つて退屈するやうな凡人ではない。「並はづれた人間的魅力を備へてゐる」やうに思ふ。けれども、さういふふうに一讀者に思はせてしまふ鳥越記者の文章は、「浜田幸一氏追及のスクープ報道」としてはいかがなものか。サンデー毎日は次週も「浜幸追及」をやる、「話題の連打」をやると予告してゐる。「人間的魅力」を認めても「クサイものにフタをする自民黨の金權體質」はあくまでも追及するといふ事なのか。いや、さういふ事ではない。「罪を憎んで人を憎まず」などといふ藝當がサンデー毎日にやれる筈は無い。來週もまた人間不在の「浜幸追及」の文章が載る、それだけの事であらう。 【すべてこれ商策】  「釣竿とは一方の端に釣鈎を、他方の端に馬鹿をつけた棒」だと、サミュエル・ジョンソンは言つた。私は必ずしも同意しない。人生に無駄は必要だからである。だが、度外れの無駄は賢い大人のやる事ではない。週刊讀賣六月一日號は「農水省次官、局長、課長、農協、水産幹部一一五五人全氏名」を十五ぺージを費して掲載してゐる。これは一體、何のためなのか。  讀賣はこのところ、手を變へ品を變へ、この種の無駄を重ねてゐる。時たま釣糸を垂れるのは決して無駄ではない。が、他人の氏名を羅列しただけの原稿を書く事も、その活字を拾ふ事も、それを讀む事も、全くの無駄ではあるまいか。活字がこれほど無駄に使はれようとは、さすがのジョンソンも夢想だにしなかつたであらう。  讀賣は昨今、表紙を二重にして「表紙を開くともう一人の私!」といふ新趣向で、同じ女の異なる写眞を載せてゐるが、これも全くの無駄である。週刊ポストのヌード写眞は私も毎週樂しむが、ヌードならぬ同じ女の写眞を二倍見せられて、二倍喜ぶ馬鹿がゐるとは私には思へない。獨り善がりの馬鹿の無駄づかいほど無意味たものは無いのである。  だが、ポストにしても、五月九日號で、金田正一氏がグアム島まで行き、澤たまき女史の「子供に荒らされまくつた乳首」ないし「男が荒らし」た乳首を「激写」した事を報じ、五月十六日號にそのカラー写眞を載せてゐる。蓼食ふ蟲も好き好きだから、澤女史の肉體についての審美的判斷は差し控へる。が、「たまき姉御も年甲斐もなく自信滿々」だのと、八百長もいい加減にして貰ひたい。  いかに無能、無藝、無名の「じやりタレ」でも、讀者はやはり若い娘のヌードを喜ぶのではあるまいか。ポストはこのところ、執拗に「八百長仕掛人」の告白とやらにもとづき大相撲の八百長を追及してゐる。自分の八百長は棚上げして他人の八百長を指彈する、さういふ事が度重なつて、週刊誌の記事は眉唾だと、讀者は思ふやうになるのである。  だが、一見無駄のやうに見え、八百長のやうに思へるものは、實はすべて商策なのである。農林水産省の千百五十五人が、小さな活字になつた自分の名前を見出して、記念に一冊でも買つてくれれば、元は取れる、いやお釣りが來る。讀者にすすめたい、「何のための無駄なのか」と首をひぬる時は、「すべては商策」ではないかと疑つてみればよい。それで謎は解ける。  週刊新潮五月二十二日號は、「チョモランマ登頂成功」を大きく報じた讀賣新聞の無駄づかいを批判して「まるで“天下の公器”がお祭りの祝ひ酒に酔ひしれてしまつた、かの觀がある」と書いてゐる。要するに讀賣新聞も、中國に「敬意」を拂つたのではなく、商賣を考へただけの事である。國防も金次第の日本國、それもなんら怪しむに足りない。 【見事なり、全斗煥】  私はこれまで、知人が週刊誌の餌食にされるのを見た事が無い。ところが、今囘、私は全斗煥將軍について四つの週刊誌から意見を求められ、將軍のために精一杯弁じたにも拘らず、それが充分に誌面に反映されてゐない事を知り、それどころか將軍が餌食にされてゐるのを見、改めて記者の頭腦の粗雜を思ひ知らされ、週刊誌のお粗末な樂屋を覗き見たのである。  「全斗煥つて、身長はどれくらゐでせう」などといふ質問に私がまともに答へたのは、今にして思へば馬鹿馬鹿しいが、それも結局、全斗煥といふ男の頭腦明晰と節操と胆力に、私が惚れ込んでゐたからに他ならぬ。實は私は『中央公論』七月號にも全斗煥將軍の事を書いたのだが、それを書いてゐる時、最も苦心したのは、どこまで書いてよいかを決定する事であつた。例へば金鍾泌氏が連行される前に、全斗煥氏は金鍾泌氏に對して批判的である、などといふ事を書く譯にはゆかなかつた。が、太つ腹の全斗煥氏は私に「これは書いてくれるな」とは一言も言はなかつたのである。金鍾泌氏が連行された事を知つて、私は少しく原稿を書き直したが、松原は必ず金鍾泌批判をやるだらうと、頭のよい全斗煥氏はそれも見通してゐたのではないかと思ふ。  だが、私は今、全斗煥氏の身の上を案じてゐる。日本の新聞や週刊誌の餌食にされたからではない。週刊現代六月十二日號で、韓民統の金鍾忠氏は、全斗煥氏を「殺さうといふ政敵、軍人は多い」と言つてゐる。どうしてさういふ事が解るのか、私にはそれが解らないが、全斗煥氏を殺したがつてゐる手合が日本にも韓國にもゐるであらう事は確かである。それゆゑ私は必配なのである。あんな見事な男が殺されてはたまらぬと思ふのである。  私は今囘、週刊サンケイを斬る。「女高生や女子大生が裸にされたうへ刺殺された−ロコミで傳はる光州暴動の惨状はすさまじい」云々の文章が示すやうに、週刊サンケイの記事は惡意の噂にみちてゐる。週刊サンケイはまた「鄭昇和の人脈、金載圭の人脈は軍部の中に脈々として生きてゐる」と書いてゐるが、「脈々」とはまなどういふ事か。金載圭は國家元首を殺した男である。週刊サンケイは殺人犯の人脈に期待し、前捜査本部長全斗煥氏の失脚を望んでゐるのであらう。まさに言語道斷の愚鈍である。  また週刊サンケイはさしたる根拠も示さず「全斗煥氏、天下人としてはまだ器が小さいのか、人氣はあまりない」と書いてゐる。日本には言論の自由があるといふ。それなら、日本にも一人くらいは、さしたる根拠も示さずに、全斗煥氏の器が大きいと主張し、彼の所業を賞揚して「見事なり、全斗煥」と書く男がゐてもよい譯だし、また週刊サンケイが「鄭昇和、金載圭の人脈」に期待してゐるとしても、サンケイ新聞一紙くらゐは「見事なり、全斗煥」と題する文章を載せてもよい筈だと思ふ。 【批判精神の欠如】  「ヨーロッパ的精神の對照をなすものは何かと云へば、境界をぼかしてしまふ氣分の中でする生活」であると、かつて日本文化を論じてカール・レーヴィットは書いた。その通りである。境界をぼかしてしまふから、「區別し比較し決定する」批判精神が育たず、「容赦のない批判が自分に加へられるのにも他人に加へられるのにも、堪へることができない」(柴田治三郎譯)。それゆゑ、週刊新潮六月二十六日號が批判してゐるやうに「圖らずも(中略)死が大平首相の評價をガラリと變へ」るといふ事態がおこるのであり、新潮の言ふ通り、この評價の逆轉は「ないへん輕薄なもので(中略)、新聞はきはめて無定見であつた」。今囘、國會解散、大平首相の死、ダブル選擧と、何か重大な事件が重なつたかのやうに思ひ込み、新聞や週刊誌は騒ぎ立てたけれども、すべては何とも空しい茶番狂言に他ならない。が、新聞にも週刊誌にもその自覺が欠けてをり、それも結局、レーヴィットの言ふ「批判精神」の持合せがないからである。  同日號の週刊新潮は佐瀬昌盛氏の意見を紹介してゐる。佐瀬氏は言ふ、「新聞の論調がコロッと變つたのには驚きました。大平さんのアーウーは何をいつてゐるかわからんと、常々いつてゐたのに、“大平さんは實に慎重に言葉選びをした人だ”とコロッと變つた。(中略)死者にはつきりものをいはないのはわかるけど、解釋が變るのは困る」。  「論調がコロッと變つた」のは、大平首相の死を境目に「境界」がはつきりしたといふ事ではない。佐瀬氏の言ふ通り、新聞週刊誌の「解釋が變」つたのであつて、それはつまり、外的な變化に應じて左右上下、どちらの方向へも突つ走る無定見、「批判精神」の欠如、外的な情勢の變化とおのれの意見とを「區別して比較し決定する」事のできぬ知的怠惰のせゐに他ならない。  「この選擧の大騒ぎは、ホントに何か重大なことなんだらうか。連日の政見放送。新聞の大見出し。だが、その多くはタテマヘばかりで退屈だ」と新潮は書いてゐる。が、この大騒ぎは「奇術師の帽子から飛び出したやうな國會の解散」に端を發する。そして、そのいかさま「奇術師」飛鳥田氏のでたらめを新聞は徹底的に批判しなかつた。先日、VOICE編集長の江口克彦氏と會つた際、江口氏は「まさか通ることはあるまいと輕々に不信任案を出した」飛鳥田氏の愚鈍を激しく批判してゐたが、さういふ批判精神の欠如、すなはち愚鈍ゆゑの連日の大騒ぎは、何とも腹立たしくまた空しい限りである。  それゆゑ今囘私は、騒ぎ立て、はしやぎまはる週刊誌の愚鈍を、うんざりして眺めてゐた。誰が次の首相にならうと、この日本國のぐうたらはどう仕樣もあるまいし、また、どうかうするだけの器量は政治家に期待できないであらう。 【邪教をかばふ善意】  週刊新潮七月十日號は、二年前、東京・國分寺市から若い女性ら二十數人と蒸發した「イエスの方舟」の代表「千石イエス」との「獨占會見」記を書いたサンデー毎日の鳥井編集長について、「ジャーナリストつてのは、對象をまづ疑つてかかることから始まるんだが、それをサンデーは最初から相手を理解しよう、理解しようとかかつてる」との、ジャーナリスト某氏の意見を引いてゐる。同感である。サンデー毎日七月十三日號及び七月二十日號の「千石イエス」に關する記事を讀み、鳥井編集長及び山本茂記者の、「理解しよう、理解しよう」との善意に、私も正直の話唖然とした。これはもはや商策ではあるまい。善意そのものである。が、何と愚かしい善意か、私はさう思つた。例へば毎日は、こんなふうに書いてゐる。「“イエスの方舟”の女性會員たちは夜ごと、(中略)濃いアイシャドーを塗つて出かけていく。それを見つめる千石剛賢氏。無力感にさいなまれたはずである」。よい年をして、これはまた何たる善意であらう。  紙數の關係上、充分な説明はできないが、サンデー毎日に語つた千石イエス及び「家出女性」七人の告白を讀んだだけで、私は千石氏及び女性會員の幼稚を知る事ができたのである。毎日が言ふやうに、千石氏の告白に「バイブルからの引用は」少ないが、そんな事よりも、千石氏及び毎日はバイブルを理解してゐるとは到底思へず、その事のはうが遙かに重要である。毎日は千石氏が「私たちを超えた、ある絶對者」の存在を認識しながら、「それが“神”であることも拒否する」と書いてゐる。それならなぜ千石氏はバイブルを讀むのか。  それに何より、千石氏は、土臺、バイブルだの神だのを云々する資格の無い人物である。七月二十日號で千石氏は、「(親ごさんたちが)娘さんたちの氣持ちをわかつてくれなかつた」と言ひ、「他人の娘さんにどうかういふといふよりも、自分が崩れていく。自分が汚れてしまふ」事を案じ、「自分の娘と養女の三人はもうかへらない」と嘆いてゐる。つまり千石氏は土壇場になつて自分と自分の娘の事しか考へてゐないのであつて、千石氏の人格は下劣であると斷ぜざるをえない。七人の女性信者にしても同樣であり、みな、自己の過去の「轉落」を家族や男のせゐにしてゐる。つまり、「己れの如く隣人を愛する」事の難しさを、千石氏も信者たちも少しも解つてゐないのである。  だが、さういふ事を善意のかたまりとなつたサンデー毎日は全く考へない。頭が惡いからである。頭が惡いから、頭の惡い千石氏に好意的で、一方、韓國の光州暴動についても「空腹に幻覺劑のまされて空挺部隊が同胞虐殺」などと書く。韓國の頭の惡い反體制に好意的な記者が毎日にゐるのは怪しむに足らぬ。「類は友を呼ぶ」のである。 【他人の痛さを知れ】  これは週刊誌ではないが、『自由民主』八月號で小谷豪治郎氏が途方も無い發言をしてゐる。小谷氏は「僕は今まで韓國政府に非常に近」かつたのだが、今は「韓國軍のやり方に非常に面白くない氣持ちを抱いて」をり、今や「日本のバイタル・インタレストは韓國にあるんだといふ考へ方を再檢討すべき」で、アメリカも「韓國から撤退して日本に一時駐留することが必要だらう」と言つてゐるのである。この、いはば惚れた女に失望してやけのやんばちになつた親韓派のでたらめは許し難いが、小谷氏の變節は韓國にとつてまたとない教訓になると思ふ。これまで韓國は、かくも無節操な人間を身方と思ひ込んでゐたのである。この際韓國に忠告しておく。これまで金鍾泌氏と親しかつた親韓派が、今後、軌道修正をして全斗煥氏を褒めそやす、といつた事態になるかも知れないが、さういふ非人間的な變節に欺かれてはならぬ。私は金鍾泌氏と一時間半話した事があり、金氏を批判する文章を書きもしたが、失脚した金氏をあはれに思ひこそすれ、「いい氣味だ」などとは露ほども思つてゐない。  ところで、私はどうしてこんな事を書いたのか。實は、週刊ポスト七月二十五日號の宇都宮徳馬、文明子兩氏による對談「“金大中廢人説”を抉る」を讀み、そこに『世界』編集長安江良介氏のコメントを見出し、小谷氏の變節を思ひ、私は考へ込んでしまつたのである。安江氏および著名な韓國問題評論家について、韓國の新聞人S氏は私に、友情をこめて語つた事があるが、そのS氏の態度と安江氏や韓國問題評論家の、韓國人についての冷やかな意見との間には甚しい懸隔があつたのである。宇都宮、文兩氏の對談は例によつて何の裏付けも無い惡意の噂話に過ぎない。だが、週刊ポストで安江良介氏は「一説には(金大中氏は)すでに殺害されてゐる、といふ情報もあるんです」と語つてゐる。いづれ金大中氏が軍事法廷に姿をあらはしたら、安江氏はどうする積りか。いや、どうする必要もありはせぬ。「情報もある」といふ言ひ方をしておけば、責任は一切とらずにすむ。それゆゑ私も安江氏の傳に倣ふが、安江氏は韓國のS氏にあてた私信の中で、卑劣極まる本音と建前の使ひ分けをやつた、といふ情報もあるのである。  ところで、金大中氏の事となると日本のマスコミは、冷靜に考へる事ができなくなる。週刊新潮のヤン・デンマン氏は、日本の元總理大臣田中角榮氏を「裁きの庭にひつぱりだしてゐるのはけしからん」と、もしも韓國のマスコミが騒いだら、日本人は一體どんな氣がするか、と書いてゐる。その通りである。ちとわが身を抓つて他人の痛さを知つたらよいのである。 【他人の褌で相撲を取るな】  週刊新潮八月七日號によれば、ニューズウィーク東京支局長バーナード・クリッシャー氏に、創價學會の秋山國際部長は、「なぜ、世界的に權威のある『ニューズウィーク』が(中略)信教の自由を侵害なさるのか?」と言ひ、「記事差止めを要望する樣子がアリアリ」だつたさうである。そしてクリッシャー氏は「私は學會に反對するために書くのではなく、これはニュースだと判斷したから書くのです。その邊を誤解せぬやうに」と「いつてあげた」といふ。私は創價學會とは何の繋がりも無い。「その邊を誤解せぬやうに」願ひたいけれども、新潮の記事を讀みクリッシャー氏の發言を知つて、私はいささか不快だつたのである。周知の如く、創價學會のスキャンダルをあばいて週刊文春は名譽毀損で告訴され「誌上での謝罪と二百萬ドル以上の賠償を要求」されてゐるのであり、その種の危險を昌しても學會の腐敗はあばかねばならぬとの覺悟は文春にはあつたと思ふ。が、新潮の記事はその半分以上がクリッシャー氏の言分の紹介であつて、そのやり方はいささか安直であり、しかも安直である事がジャーナリスト特有の病癖を物語つてゐるといふ点を、新潮は全然意識してゐない。  ジャーナリストは社會の木鐸で、社會の不正を5(易+利−禾)抉せねばならぬといふ。創價學會の腐敗ぶりを大新聞が承知してゐながら、いかなる事情あつてかそれをあばかうとしなかつたのだから、文春がそれを怪しみ、學會の惡を5(易+利−禾)抉しようと思つたのは當然である。だが、他人の惡を5(易+利−禾)抉する週刊誌も脛に傷持つ身なのであり、さういふ意識を欠いて他者を糾彈する事が、週刊誌に限らぬジャーナリズムの病弊なのだ。私は新潮の脛の傷を知つてゐてこれを言ふのではない。人間はみな脛に傷持つ身だと信じてゐるまでの事である。とまれ新潮は、創價學會の腐敗を5(易+利−禾)抉するクリッシャー氏の褌で相撲を取るといふ安直な手段を選んだ結果、創價學會を叩くクリッシャー氏の言分を無批判に受け入れ、そこにはつきり示されてゐるジャーナリスト特有の病癖を見落したのであつて、それは新潮がおのれの病癖を意識しなかつたからに他ならない。  「私は學會に反對するために書くのではなく、これはニュースだと判斷したから書く」のだとクリッシャー氏は言ふ。何とも粗雜な言分である。學會のスキャンダルを「ニュースだと判斷」して書く事が、學會に對する「反對」や支持と無關係でありうるか。ありうると考へてゐる事こそ、ジャーナリストの恐るべき病癖なのである。さうではないか、例へばの話、クリッシャー氏のスキャンダルを「ニュースだと判斷」して私が書く場合、私はクリッシャー氏に「反對するために」書いてゐる事になるのである。 【萬事本氣でない國】  今囘は前囘取上げた問題を蒸し返す事にする。瑣末な語句にこだはるやうだが、週刊誌批評をやつてゐて私が最も氣になるのは、「ニュースだと判斷」すれば、どんな事でも書けるし、また書く權利があると思ひこみ、その結果おのが脛の傷をきれいさつぱり忘れてしまふジャーナリストの病癖だからである。  八月七日號の新潮によれば、バーナード・クリッシャー氏は、創價學會が「有形無形の圧力で内外の批判を封じ込めた結果が」今度のやうな事態をもたらしたと考へてゐるといふ。「日本通のクリッシャー氏が頭をひねつたのもムリはない」とか、「クリッシャー氏は簡潔に指摘してゐる」とか、新潮がなぜかうもクリッシャー氏を持上げるのか、どうも解せないが、それはともかく、クリッシャー氏も新潮の記者も人間であり、それならおのれに不利な事態となつた場合、「有形無形の圧力で批判を封じ込め」たいと考へる事もある筈である。  クリッシャー氏の場合も、氏が「有形無形の圧力で批判を封じ込め」たいと、これまでただの一度も考へた事が無いとは、私にはとても信じられない。クリッシャー氏には私にかう言はれても反論できない或る事情がある筈であり、そのクリッシャー氏が學會の「有形無形の圧力」を云々するのはちと身勝手が過ぎると思ふ。  他人を批判する場合、おのれを棚上げする病癖は人間誰しも持合せてゐる。が、それを意識してゐるか否かが問題なのである。しかるに、クリッシャー氏も新潮の記者もそれを意識してゐない。それゆゑ「ニュースだと判斷」すれば、ハゲタカよろしく腐肉に群がるのであり、それは頗る非人間的な所業である。新聞・週刊誌はそれを常に意識してゐなければならぬ。  他人の惡事を5(易+利−禾)抉してはならないなどと、さういふ事が私は言ひたいのではない。新聞や週刊誌は社會の不正を5(易+利−禾)抉してもよい。ただしその場合、おのれを棚上げせざるをえないほど本氣で不正を憤つてゐるかどうかが問題なのである。  週刊朝日八月八日號は、日商岩井航空機疑惑事件を担當した半谷恭一裁判長の判決文について「あの所感には“腐敗を生む土壌”に對する憤りといつたものが感じられないだらうか」と書いてゐる。そんなものは少しも感じられはせぬ。半谷氏は「國民全體が考へるべきだ」と言つてゐるが、さういふ事を言ふ者は決して本氣で憤つてはゐないのである。 半谷氏に限らない、我々日本人は今や本氣で憤るといふ事が無い。それゆゑ、見事な人間に本氣で惚れるといふ事も無い。昨今流行の防衞論議にしても、例へば佐久間象山の『省8(侃+言)録』のもつ眞劍な憂國の情を欠いてゐる。よろづこれほど本氣でなくなつた日本國では言論は頗る空しいと、三年間このコラムに執筆して私はつくづく思つてゐる。 【韓國相手の寄生蟲】  週刊現代十月二日號は、金大中氏を辯語する記事に、「たとへ金大中氏が惡だとしても、惡に對して寛大なのが民主主義です」との金一勉氏の言葉を引いてゐる。かういふ恐るべき愚昧をどう成敗すべきか。金一勉氏だの、鄭敬謨氏だの、大江健三郎氏だの、宇都宮徳馬氏だの、さういふ度し難い愚者を料理しようと思ひ立つて、その都度私は絶望する。自分が用ゐる言葉が何を意味するか、それすら解らずにゐる手合を遣り込めるのは至難の業だからで、金一勉氏の場合も、「惡」だの「民主主義」だのといふ言葉を、一體どういふ意味で用ゐてゐるのか、それがさつぱり解らない。それにまた、たとへ金一勉氏が、韓國についてどんなにでたらめを書き捲つても、それに對して寛大なのが民主主義國日本なのだから、金氏に限らず、愚鈍之手合の成敗は、至難の業であるばかりか、労多くして功少なき行爲とならざるをえない。  だが、いづれ私は、金大中氏の知的怠惰について詳細に論じようと思つてゐる。その際、金大中支持派を徹底的に成敗しようと思つてゐる。かういふ小さなコラムでは所詮意を尽せないが、これだけは言つておかう。管見では、金大中氏の罪は「内亂罪」ではなくて「知的怠惰」である。そして、日本國と異り韓國においては、政治家の思考の不徹底は死に當るほどの重罪となるのである。  だが、私は今、金大中支持者たちに對してよりも、韓國の身方であるかのやうに裝ひ、その實、商賣の事しか考へぬ日本人に對して怒つてゐる。先日、ソウルで、さういふ韓食蟲に出會ひ、私は本氣で怒つた。そして、本氣で怒つたから確實に損をした。詳しい經緯はここでは語らないが、私が喧嘩をした相手は日本の雜誌の編集長だつたのである。編集長と喧嘩すれば、物書きは確實に損をする。その雜誌には以後書けなくなる。  もとより私も聖人君子ではない。損ばかりしてゐたくはない。が、韓食蟲退治は、金大中支持派の成敗よりも大事だと思ふ。編集者に限らない、韓國との新しいパイプを求めて暗躍する韓食蟲どもは、この際、徹底的に退治しておかねばならぬ。サンデー毎日十月五日號の長谷川峻氏の言葉を借りれば彼らの「ソロバンづくの商魂」を徹底的にあばかねばならぬ。  だが、韓食蟲だけが惡いのではない、韓國も惡いのである。實際、損を覺悟で行動する事の損得についての「大人の知惠」を云々する淺薄な手合に、私は今囘ソウルで、ずゐぶん出會つた。「損を覺悟のお坊ちやんの正義感くらゐ始末の惡いものはない」、さう彼らは心中ひそかに呟くのである。が、さういふ「大人の知惠」ゆゑにこそ、これまで韓國は韓食蟲の好餌となつたのである。それを韓國人は今、眞劍に考へるべきである。 【憂ふべき「現代病」】  週刊ポスト十月十七日號は「氣象評論家」相樂正俊氏の學説にヒントを得て「大噴火から極寒波まで、冷夏騒ぎなど序の口といふ、この秋冬に予想される“異常現象”を科學的に總点檢」してゐる。そしてポストは水上武東大名譽教授の「先だつての東京の震度4の地震が直下型大地震につながらない、と誰もがいへないのと同じやうに地震と噴火の關連性についても誰にも斷定はできない」とする意見を引いてゐるのだが、「誰にも斷定はできない」と斷定する專門家に對して、私は多少のいかがはしさを感せざるをえない。早大法學部の篠塚昭次教授は同じくポストで「直下型地震で東京の三分の一が破壞されたとすると(中略)再建はほとんど絶望的で、東京はゴーストタウンになりかねない」と言つてゐる。そんな事を言ふ篠塚氏も東京都民なのだから、東京の三分の一が破壞されたら大いに困る筈である。篠塚氏に限らない、「冷夏騒ぎなど序の口」の「異常現象」が現實のものとなつたら、相樂氏も水上氏も、(そして勿論週刊ポストも)われわれ素人と同樣に狼狽するに違ひ無い。  私は專門家の見識を疑つてゐるのではない。どう仕樣も無い事柄について樂しさうに蘊蓄を傾ける心理が解せないだけである。そして「どう仕樣も無い」のは「異常氣象」に限らない。イラン・イラク戰爭も同樣である。週刊現代十月九日號は「第一次石油危機ではトイレット・ぺーパーがモノ・パニックの口火を切つた。だが、今度はトイレット・ぺーパーどころの騒ぎではあるまい」と書き、「石油がなくなればエネルギー産業はオールストップ。(中略)人力車とローンクの時代が再現される」といふ中東經濟研究所の石田進氏の意見を紹介してゐる。あまりにも當り前な話で、これが專門家の言ふ事かと私は驚いたが、これもまた「承りおく」しかない意見であり、「どう仕樣もない事柄」なのであらう。けれども、かういふどう仕樣も無い事柄について蘊蓄を傾ける時の專門家の顔を、私は見たいと思ふ。週刊ポスト十月十日號は「フセイン大統領の讀みがどこかで狂つたとき(中略)“第一次・核戰爭”に發展する危險性は十分にある」と書いてゐるが、かういふ物騒な事をポストの記者はどんな顔をして書くのであらうか。  核戰爭も直下型大地震も「どう仕樣も無い事柄」である。「精神と肉體」などといふ問題も「どう仕樣も無い事柄」の一つだが、昔から人間はそれと格鬪して、今なほ止める事が無い。誰しも、その氣になれば、痛切に感じうる身近な問題だからだ。が、昨今、核戰爭だのイラン・イラク戰爭だのといふ、遠くてどう仕樣も無い「大問題」を、人々は餘所事のやうに論じ、餘所事のやうに受取るのである。それは憂ふべき現代特有の病弊である。 【教養と人格は別である】  本欄の執筆もそろそろお仕舞ひだから、前囘書かうと思つて書かなかつた事を、やはり書いておかうと思ふ。渡部昇一氏は週刊文春十月二日號に「劣惡遺傳子を受けたと氣付いた人が子どもを作るやうな試みを慎むことは、社會に對する神聖な義務である」と書いたのである。それを讀んで私は慄然とした。本欄に執筆して三年四ヶ月、私はこれほど非情な文章にでくはした事が無い。十月五日付の朝日新聞によれば、渡部氏は「九十萬部賣れたベストセラー『知的生活の方法』の著者で、今や雜誌などで賣れつ子の評論家。保守系といはれる日本文化會議のメンバーでもある」といふ。だが、渡部氏の非情に慄然とする事に、保守革新の別は無關係である。渡部氏がこの件について反省せず、今後も非人間的な詭弁を弄するなら、私は、保守派の名譽にかけて、渡部氏を斬る。  渡部氏は「自ら遺傳性とされる血友病の二人の息子をかかへてゐる」大西巨人氏について、入院中の大西氏の次男の「醫療扶助費が一千五百萬」であり、大西氏は「長男が血友病とわかつてゐながら次の子どもを持ち、やはり血友病だつた」と書き、大西氏の良識と克己心の欠如を怪しんだのである。  私の知人に、さういふ「良識と克己心を欠く」男がゐる。彼が最初に拵へた子供は筋ジストロフィーであつた。彼と彼の妻はどう考へたか。「親は先に死ぬ、それならこの子の面倒をみる弟が必要だ」、さう考へた。夫婦はもう一人子供を拵へた。が、次男も筋ジストロフィーだつたのである。さういふ親の良識を疑ふ資格は誰にも無い。親なら誰でも、「子を思ふ心の闇」に惑ふものだからだ。ここで渡部氏をちと皮肉つておくが、「九十萬部のベストセラーの著者」である事は「劣惡ならざる遺傳子を受けた」事の證しになる譯ではない。渡部氏のぞんざいな文章を、私は「劣惡遺傳子」のなせる業ではないかと考へてゐる。しかるに、渡部氏自身はそれに氣付いてをらず、しかもカトリック教徒ゆゑに、「子どもを作るやうた試みを慎」んでゐないのであらう。  最後に大西氏に言ひたい。大西氏は渡部氏を批判して「劣弱者切り捨て」だの「軍事國家への轉換」だのと言ふ。さういふ政治主義の用語に頼らずに、なぜあなたは「子ゆゑの闇」を語らないのか。たぜ人間として渡部氏に抗議しないのか。もう一つ、これは讀者に考へてもらひたい。人間としての最低の思ひやりをも持合せぬ物書きの書物もベストセラーになるのである。それなら、いはゆる「教養」と人格とは全く無關係なのか。「知的生活の方法」とは、そのまま「有徳たらんとする生活の方法」なのか。 【他力本願全盛の世】  週刊文春十一月六日號によれば「アメリカヘ行つてタバコをやめよう」との交通公社が企畫した「禁煙ツアー」は、「五十人の募集に申込者はたつたの三人」といふ惨めな結果に終つたさうだが、「ポルノ・ツアー」や「買春ツアー」は頗る好評のやうであり、これを要するに、人間、欲望充足のための支出は惜しまないが、禁欲に金を掛ける氣にはならないといふ事で、あまりにも當り前の話である。だが、禁煙ツアーの參加者は「成田空灣出發時に禁煙宣誓書を提出し、その場で合同宣誓式」を行ひ、「宣誓後は罰金制がしかれ、旅行中、一本吸ふごとに十ドルとられるといふ仕組み。(中略)毎朝三十分のジョギングと、一日一囘の自然食品摂取も義務づけられる」事になつてゐたといふ。そこまで徹底的に他人に管理されても、なほ煙草をやめたいと願ふ手合がゐる筈だと、交通公社は考へたらしい。公社の目論見が外れたのは御同慶の至り、日本人はまだ、少なくとも公社が考へたほど他力本願のぐうたらに堕してはゐなかつた譯である。  だが、喜ぶのは早い。例へば朝日ジャーナル十一月七日號の投書欄に、二十八歳の或る學生は「警官の婦女暴行、醫師の犯罪、教師の人格喪失と、一般市民のそれらとは全然別」であり、「醫師と警官、教師が信用できない社會は、住むに値しない」と書いてゐる。他人が立派でなければ生きてゆく氣になれぬとは、何たる甘つたれか。そして、この青年の文章からは、この世を自力で「住むに値」するものにしようとの情熱は微塵も感じられないのである。  チェスタトンの言ふやうに、吾々は「この世を變へねばならぬと思ふくらゐこの世を憎み、この世は變へる値打があると思ふくらゐこの世を愛さなければならない」。しかるに昨今、この世を本氣で憎む者はとんと見當たらぬやうになつた。それは、この世が充分に理不尽でなくなつたせゐである。  勿論、週刊誌の記者にとつてもこの世は理不尽ではない。週刊讀賣十一月九日號はレコード大賞にまつはる「黒い噂」について書き、新潮も文化勲章をめぐる噂を紹介してゐる。けれども週刊誌にもタブーはあつて、例へば文學賞をめぐる「黒い噂」を週刊誌があばく事は決して無い。讀者が聞いたら唖然とするであらう「黒い噂」も闇から闇へ葬るのであり、しかも、葬らざるをえぬ理不尽を週刊誌は無念殘念に思つてはゐない。「この世との折合ひをつけて生きてゆくだけでは不充分だ」とチェスタトンは言ふのだが、今や日本人は「それで充分だ」と言ふ。この世は誰か他人が變へてくれると考へてゐるからである。  かつて男たちは赤紙一枚で戰場へ驅り出された。それはなるほど「理不尽」であつたが、皆がそれに耐へた時代、それは果して今よりも、何かにつけ惡い時代だつたらうか。戰場で他力本願は通用したかつたのである。 【批判力減退を歎くべし】  週刊新潮十一月三日號は松本清張氏について「今でも週刊誌、月刊誌の連載を各一本、そのほかに單發の短篇小説を文藝誌にほぼ毎月寄せるなど、創作意欲は今なほ旺盛」であり、「今や國民的作家」なのだが、「灰色高官が勲一等で、清張さんがノー勲章」といふのはをかしいと書いた。週刊朝日十一月二十一日號に百目鬼恭三郎氏は新潮を批判して「エライ清張氏がもらはないのはけしからんと怒るのは、エライ勲章と思つてゐればこそだらう」と書いてゐるが、私は新潮が文化勲章は「エライ勲章」だと信じてゐるとは思はない。むしろ、私は新潮があの記事を載せた動機を怪しむ。新潮は本氣で灰色高官の受章を憤つてゐる譯ではない。いや、松本清張氏を本氣で「國民的作家」と考へてゐる譯でもない。  では、あの記事は一體何のためだつたのか。「政治家への叙勲」は「仲間うちでのお手盛りであることは(中略)明らかだが、文壇も似たやうなもの」だとの「氣鋭の文藝評論家」の言葉を新潮は引いてゐるが、新潮が松本清張氏を持ち上げるのも「お手盛り」ではあるまいかと、さう勘繰られかねない記事に私は頗る失望した。  昨今、この種の「意圖不明」の記事が、新潮にちと目立つやうに思ふ。十一月二十日號の「“ハマコー”と“レーガン”の人氣」もさうである。テレビ朝日の「モーニング・ショー」で、石垣綾子女史ほか二名の女性は、浜田幸一氏に「あなたはヤクザぢやないの」とか「まだ小指殘つてゐる」とか言つたといふ。さういふ「猛女」の「反知性主義」のおぞましさに新潮は目を瞑り、浜田氏とレーガン氏は「“反知性主義”といつた面で共通してゐる」との加瀬英明氏の解説にヒントを得て記事をまとめてゐるのであり、その安直に私は失望した。「レーガンと浜幸サン。いかにも共通点がありさうなのだが、山本七平氏が解説してくれた」と新潮は書いてゐるが、共通点を見出せずにゐる新潮の困惑を察し、新潮の期待に沿はうと考へたためか、山本氏の解説もいささかお座なりである。  新潮の眞面目は批判精神にある。それを失へば、新潮の存在理由は無くなる。プーサンやドッキリチャンネルや酔中テレビのつまらなさは執筆者の責任だが、灰色高官の受章や「浜幸の人氣」を憂へてゐる譯でもなく、「だからどうだと言ふのか」と言ひたくなるやうな、なまくら記事が増えてゆけば、新潮はいづれ煽情的ジャーナリズムの中で逼塞するであらう。人間はおのが記憶力の減退を歎いて、批判力の減退は歎かない。新潮の發奮を望む。 【本氣の内政干渉か】  十一月二十六日付の朝日新聞によれば、鈴木首相は崔慶禄駐日韓國大使に對し、「金大中氏が處刑されれば(日本の)國會の情勢や言論の論調も嚴しくなり、(政府としては)韓國に協力したくてもできなくなる。社會黨などが現にさうだが、北朝鮮との交流を進めるべきだ、といふ世論も出てくるかもしれない」と語つたさうである。それを知つて私は唖然とした。鈴木氏の指導力の欠如については聞き知つてゐたが、まさかこれほどとは思はなかつた。外國の大使に向つて首相は何といふ事を口走つたのか。私は日本國民として首相が恥を曝した事を遺憾千萬に思ふ。要するに首相は、個人的には「韓國に協力」すべきだと信じてゐるが、「國會の情勢や言論の論調」が嚴しくなり、「韓國に協力せず北朝鮮との交流を進めろ」と主張する連中が出て來たら、首相としても与黨の總裁としてもお手上げになる、さう言つた譯である。それが一國の指導者の言ふ事か。  吾々は、おのが指導力の欠如を外國人にまでさらけ出し、恬然として恥ぢない首相を載いてゐるのか。韓國の新聞は鈴木發言に内政干渉とて反發したが、本氣で内政干渉をやるだけの氣力は鈴木首相にはあるまい。事實、首相は「内政干渉をする積りは無い」と再三言明してゐる。そのくせ金大中氏が「極刑にならぬやう最善の努力をする」と、杜會黨の飛鳥田氏には答へてゐる。まさに支離滅裂としか評し樣が無い。「極刑にたらぬやう最善の努力」をすれば、それは必然的に内政干渉にならざるをえないのである。  一方、サンデー毎日十二月十四日號は「金大中氏が處刑されれば、日本政府の道義的責任のなさ、外交的拙劣さを世界にさらけ出すことになる」と書いてゐる。首相が韓國の大使に恥を曝した事さへ遺憾千萬なのに、日本政府の恥が世界中に知れ渡るとしたらそれは一大事である。毎日は「日本政府は主權侵犯された當事國として、言ふべきことは言ひ、毅然とした態度」で臨めとの青地晨氏の意見を紹介してゐる。毎日の言ふやうに、金大中氏が處刑されると、日本政府が世界中に恥を曝す事になるのなら、それは何としても避けねばならぬ。この際日本は徹底的に韓國の内政に千渉すべきで、主權侵害もためらふべきではない。だが、毎日に尋ねたい、徹底的に内政干渉をやつたらどういふ事になるか、それを毎日は本氣で考へた事があるのか。  私は鈴木首相やサンデー毎日の揚げ足を取つて樂しんでゐるのではない。首相から週刊誌まで、日本人はどうして韓國に關してかうもいい加減な事を言ふのかと、それを怪しむのである。正直、私にも韓國に對する不滿はある。韓國人と激しく論爭した事もある。だが、論爭した時、私も相手も本氣であつた。本氣で付き合つてみるがよい、韓國から學ぶ事は多々ある事が解るであらう。 【恥なかるべからず】  文藝賞受賞作『ストレイ・シープ』は、二十六歳の女が、テレビ朝日在職中の體驗、特にニュース・キャスターや妻子ある報道部員との三角關係を描いたものださうである。そんなもの讀むに價しないに決つてゐるから私は讀んでゐないが、週刊ポスト十二月十九日號が紹介してゐるところでは、「彼は目立つこと、ハデなものを着ることがお酒落だと思つてゐるらしく、しばしば信じられないやうな色の組合せをした」とか、「本間は一見豪放磊落な感じを与へながら實は繊細で細やかな神經の男で、その對照がまたエム子の心をすくひとつた」とかいふくだりがあるらしい。「組合せをする」とか「對照が・・・すくひとる」とか、さういふ言ひ方は日本語には無い。  「書き終つて、自分がストリップしちやつたやうな氣持」だと作者は言つてゐる。その程度のお粗末な頭腦の持主でも文學賞が貰へるとは、まこと結構な御時世である。ヌード・モデルは消耗品だと、いつぞや週刊誌で讀んだ事があるが、文壇も今やストリップ小屋で、往時の私小説作家のやうに、姪に手をつけた恥の上塗りを避けようとして苦鬪する中年男のいやらしさなんぞは野暮の骨頂、若い女の「ストリップしちやつたやうな氣持」を樂しんで、ぽいと捨てるだけの事なのかも知れぬ。  一方、週刊文春十二月四日號は女優關根惠子の愛人河村季里氏の小説『青春の巡禮』について、「いづれにせよ、この小説、“文學的價値”はさておき“商品的價値”だけは高かつたやうです」と書いてゐる。河村氏と關根の逃避行の眞相が描かれてゐるのだらうといふ「はなはだ次元の低い興味」を持つて『青春の巡禮』を買つた讀者が多いに違ひ無い、といふ譯だ。  なるほど、文春が引用してゐるくだりを讀めば、およそ「文學的價値」なんぞみぢんも無い駄作だといふ事が解る。そして、河村氏も文藝賞を貰つた女も、「自分がストリップしちやつたやうな」行爲を悔いてもゐないし、恥じてもゐない。  二人の文章には眞摯なる自問自答の痕跡が無い。そして自問自答せぬ手合が恥を知る筈は無い。週刊ポストは「若い女のコに手を出すときは文才の有無のチェックを」と書いてゐる。「組合せをする」などと書く女に文才も羞恥心もある譯が無いが、一方「若い女のコに手を出す」云々と書くやうな男に、他人の「文才の有無のチェック」など所詮不可能なのである。  これはポストに限らぬが、「女のコ」といつた具合に、片假名を用ゐて輕蔑の念をあらはす惡癖は改めて貰へまいか。例へば週刊新潮十二月十八日號も「上田哲センセイ」と書いてゐる。私が上田哲氏を尊敬する筈は無いが、「上田哲センセイ」などと書いて上田氏をからかつた積りでゐるのは、目糞が鼻糞を嗤ふの類であつて、「センセイ」と書き出せば、それにふさはしい文章しか綴れないのである。 【職業に貴賤ありや】  新年早々、ハードコア・ポルノの話で恐縮だが、週刊ポスト十一月二十一日號によれば、武智鐵二監督は近々『白日夢』なるハードコア映畫のメガホンをとるといふ。「性解放をやらなければ、日本の人民は心臓病になつたり、性犯罪を犯して監獄へやられるとか、無駄な不幸を背負ふことになる。私はそんなことのないやう映畫で攻撃する」と武智氏は語つてをり、この愚鈍と桁違ひの憂國に私は仰天した。一方、主演女優の愛染恭子も「ホンバンの意味もわかつて」ゐるが「立派にやりとげ」ると語つてゐる。伊藤仁齋は房事中もひたむきだつたさうだが、監督やカメラマンの目の前で「ホンバンを立派にやりとげ」たところで、何の自慢にもなりはせぬ。金が目當で恥を捨てるに過ぎないのに、「立派にやりとげる」などと大形な事は言ふものではない。武智氏にしても、日本の人民を救ふなどとだいそれた事を考へず、「監獄へやられる」覺悟で非合法のポルノを拵へ、それを公開したらどうか。それだけの度胸が無いのなら、大きな顔をせず、しがない稼業を疚しく思ひ、ちと世間を憚るがよい。  職業に貴賤は無いといふ。が、週刊誌を讀んでみれば、賤業はふんだんに在る事が解る。例へば週刊現代一月一日號を讀めば、下着をつけぬ喫茶店の女給や、「バーッと股を開いちやつて、いつもカメラマンに協力」するヌードモデルの存在を知る事になる。いづれも紛ふ方無き賤業で、その存在理由を疑ふのでは決してないが、當節、賤業をなりはひとなす手合に世間を憚るしほらしさが無いのは殘念である。  そしてそれは女に限らない。週刊ポスト一月一日號で吉行和子と對談してゐる金田正一氏にせよ、安倍律子のヌード撮影に同行し、パンツを脱がされ、「ふくよかで白い尻をむき出しに」された事を得意げに語つてゐる男の記者にせよ、本來世間を憚つてしかるべき賤業に從事してゐるのである。ともに恥知らずであり馬鹿者だが、では、恥知らずと馬鹿とはどう違ふのか。  世人は例へば大學教授を賤業とはみなしてゐまい。だが、ポスト一月一日號には東京外語大教授の「軍備の問題でも(中略)守るに値するやうな彈力性のある日常生活を我々が持つてゐるかどうかですね」との發言が載つてゐる。これと「ホンバンを立派にやりとげる」との發言との間にどれだけの隔たりがあるのか。愛染恭子も大學教授も馬鹿げた事を言ひ、それを恥ぢてはゐないのである。ついでながら、これを言へば熱狂的なファンは怒るだらうが、夫婦で「ベッドに寢たまま“平和”を訴へ」たり、「二人の初夜の溜め息と心臓の鼓動ばかりを収録した」レコードを拵へたりしたジョン・レノンの職業も、私には賤業としか思へないのである。 【その言を恥づべし】  サンデー毎日一月十八日號に石川達三氏はかう書いてゐる。「先ごろどこかで現職の警察が強盗をやつたといふ事件があつた。警官も人間だから強盗をやる必要を生じないとは限らない。そこで、彼はまづ警官をやめて、それから強盗をやれば良かつたのだ。それならば何も私たちまで苦い思ひをさせられることはなかつた」。紙幅の制約さへなければ、この「痛憤エッセイ」と稱するなまくらエッセイを存分に扱き下したい。文士がこれほどの駄文をつづるのは警官が強盗を兼ねるのと同樣許し難い事だからだ。サンケイ新聞の讀者諸君よ、警官が強盗をやつたと知つて、諸君は「苦い思ひをさせられ」たか。石川氏は慷慨家を氣取り、見え透いたうそをついてゐる。石川氏はかの安川判事についても「彼はなぜ情事の前に判事を辭職しなかつたのか。それがこの人のモラル喪失の證拠である」と言つてゐるが、安川氏にしてみれば、判事の職權を利して姦通するところに旨味があつたに相違ないので、さういふ人情の機微も解らずによくも小説家が務まるものだと私は驚いたが、それはともかく、判事をやめてから姦通すれば、安川氏は「モラル喪失」を免れたはずだと石川氏は思つてゐるらしい。だが姦通が惡事ならば、公職にあらうとなからうと、それは非難さるべきではないか。  石川氏は裁判官や政治家や警官や進歩的文化人の腐敗を嘆いてゐる。だが、おのれの「腐敗」には目を瞑つてゐる。それこそ石川氏が道徳なんぞを云々する資格の無い人物である事の決定的な證拠に他ならぬ。「我等も地の鹽」と題して蜿蜒六頁も駄文を草しながら、石川氏は專ら他人に「地の鹽」たれと説くばかり、おのれがまづ「地の鹽」たらんとの心懸けは皆無なのだ。それゆゑ「裁判官が社會の腐敗を承認してしまつたら、腐敗はどこまでも進んで行く」などと書く。要するに石川氏にとつて、道徳とはおのれを棚上げして他人に強さを要求する事なのである。  いはゆる文化人は、保革を問はず、この傳でおのれの欲せざる所を人に施し活然として恥ぢない。おのれに出來ぬことを他人に要求して涼しい顔をする。坂本義和氏もさうである。週刊ポスト一月二十三日號で坂本氏は、「假に日本に對する攻撃を行ふときには、それを排除することなしには日本に侵入できないといふ役割をになふ領海警備隊を置くこと」を提唱してゐる。これまた淺薄な思ひつきだが、敵に排除されるためにのみ存在する、さういふ「純粋に防衞的な機能」を持つ警備隊にも、だれか他人が喜んで入隊すると、坂本氏は思ひ込んでゐるのである。「其の言をこれ9(心+乍)(怎)ぢざれば、則ちこれを爲すこと難し」。石川氏も坂本氏も身勝手な「其の言を9(心+乍)(怎)ぢ」、以後おのれの「爲すこと難き」事を、思ひつくままに喋らぬやう心懸けてもらひたい。 【馴れ合ひも程々にせよ】  週刊讀賣に「シャレ・アップ」といふ讀者の投稿欄がある。たまに秀逸な酒落があつて吹き出す事もあるが、概して凡作揃ひで、「もし、女性支配の世の中になつたら、何はともあれ立ち小便は重罪になるだらう」などといふ駄作もあつて、こんなもの歿にするのが見識だが、そんた野暮な事を言つても始らない。週刊讀賣の編集部は愛讀者との馴れ合ひを樂しんでゐるのだ。「編集長殿、私はやはり、“シャレ・アップ!”にしか生きられない男なのです。ああ、一週間が待ち遠しい」と讀者が書き、「待たないでください」と編集者が書く。面白がるのは書いた當人だけである。「私は見た!この有名人」と題する投書欄も同樣で、「雪村いづみさまと十二月二十日午後九時ごろ、前橋の群馬ロイヤルホテル4階の廊下で、すれ違ひました。(中略)感激でした」などといふ愚にもつかぬ報告は、有名人と投稿した當人を喜ばせるに過ぎまい。いや、有名人が良識の持主か脛に傷持つ身ならば、自分が目撃された事或いは目撃者が週刊誌に投稿するその愚劣を、不快に思ふであらう。馴れ合ふとは「互ひに親しみ合ふ」事である。が、互ひに親しみ合ふうちに、人はとかく「ぐるになる」。讀賣の編集者と讀者はぐるになり、愚にもつかぬコラムで睦言を交してゐる。投稿する愚に採用する愚、割れ鍋に綴ぢ蓋である。  だが讀者との馴れ合ひを樂しむのは編集者だけではない。作家もさうである。週刊讀賣に『マンボウ交友録』を連載してゐる北杜夫氏は、一月二十五日號に「手術を前にした遠藤さんを見舞ふため、慶應病院の特別病棟を訪れた」話を書いてゐる。遠藤さんとは遠藤周作氏の事だが、夜ふけに酔拂つて病棟を訪れた北氏は、面會を許されず、「遠藤さん。近代醫學は進歩してます。大丈夫です。あなたは死にません」云々の走書きを看護婦に手渡し、歸らうとして「よろけて段をふみはづし、ドタドタと轉落した」といふのである。これまた、北氏、遠藤氏、及び「北杜夫さまと廊下ですれ違ひました。感激でした」などと書いて投稿しかねない「愛讀者」、それだけが面白がる類の何とも良い氣な文章である。 さらにまた北氏は、自分は「ドタドタと轉落」しただけなのに、遠藤氏は随筆に「助けてくれえ!」と叫んだなどと書いてゐるが、それは嘘である、「神かけて斷言する」と反論してゐる。一方、遠藤氏も週刊文春一月二十二日號に「實生活も愉快で、書くものも滑稽なのは躁病の北杜夫氏である」と書き、「連帯の挨拶」を樂しんでゐる。この種の同業者同士の褒め合ひは身褒め同樣に見苦しい。ちと公私の別を弁へて貰ひたい。 【女の論理、愛敬か】  かつて私は週刊新潮を褒め、いたづらに「新奇を追ふのは弱い精神」だと書いた。が、森茉莉女史の「ドッキリチャンネル」を新潮は連載して七十四囘、「どこまでつづく泥濘ぞ」と、私は昨今とみに苛立つやうになつた。二月十二日號で森女史は、レーガン大統領と小朝なる藝名の噺家を「バラリンズンと」斬つてゐるが、それは女特有の何とも感情的な批判であつて、新潮編集部が「嫌ひだから嫌ひ」とする女の論理を御愛敬として喜んでゐるのなら、新潮の批判精神は減退しつつあると斷ぜざるをえない。森女史は「“ドッキリチャンネル”の目の黒いうちは、面白くも可笑しくもない噺家が(中略)バカな顔を晒してゐるのを放つておかない(中略)必ず、バラリンズンと斬り下ろすのだ」と勢ひ込んでゐる。かういふ文章の滑稽に新潮は氣づいてゐるのだらうか。藝人の目鼻立ちをあげつらひ、「藝人にあるやうな美男ぢやなくて(中略)たんとなく毛ぎらひしてゐた奴だ」などと書き、女史は「バラリンズン」と斬つたつもりでゐる。小朝の藝がどの程度のものか私は知らないが、女史はお前の面は何となく氣にくはぬとしか言つてゐないのだから、小朝が「さういふ貴樣の皺だらけの面はどうだ、よい年をして、誰それとの結婚はノン・メルシイだなどと、ちと身の程を弁へろ」と言ひ返したとしても、文句は言へない道理である。  さらに、一月二十九日號の「ドッキリチャンネル」によれば、森女史は横尾忠則氏の個展で池田滿寿夫氏と岡本太郎氏に出會つたが、池田氏がやさしくしてくれたのに、岡本氏はそつけなかつた。そこで森女史は、やさしくしてくれた池田氏と佐藤陽子女史を褒めちぎり、一方そつけなかつた岡本氏については「あまり自分の有名を意識し過ぎる」のではないかと、恨みがましく書いてゐる。これを無邪氣と言ふべきか、鐵面皮と言ふべきか。とまれ、前囘私は北杜夫、遠藤周作兩氏を批判して「公私の別を弁へよ」と書いたが、同じ苦言を森女史にも呈上する。  いかなる義理合ひあつてかは知らないが、新潮は「プーサン」ごとき愚劣な漫畫を蜿蜒と連載して一向に止める氣配が無い。が、「ドッキリチャンネル」は一日も早くお仕舞ひにして貰ひたい。ただし、本來斷るまでもない事だが、森女史に書かせるななどと、私は新潮編集部に圧力をかけた事は無い。「誰それに書かせろ」だの、「誰それに書かせるな」だのと、昨今は陰で圧力をかけるのが流行つてゐる。卑劣きはまる。文句があるなら堂々と叩けばよいのである。奥野法相の口を封じようと躍起になつてゐる手合もゐて、法相もあの手この手の圧力を受けてゐるに相違無い。奥野發言についてはいづれ書くが、今は「奥野さん、頑張れ」とだけ言つておかう。 【善なりや戰爭放棄】  「奥野法相の“自主憲法制定”論は、將來の改憲に備へて、自民黨のホンネを述べたものとされてゐるが、鈴木首相は今國會で、憲法改正せずと語つて」をり、「前者が政府自民黨のホンネとすれば後者はタテマヘといふことになる」が、「新たな國内、國際情勢の中で、ゴマカシの論爭は許されるべくもなく」、「軍事力問題」は「國民的課題として抉られるべき時」だと、週刊ポスト二月二十日號は書いてゐる。つまり、「自主憲法制定」論は「自民黨のホンネ」なのだから、鈴木首相が「ゴマカシ」てゐるのであり、許されないのは法相ではなく首相であつて、「奥野法相を見習ひ本音を吐け」とポストは主張してゐる事になる。  なるほど、ポストの記者に答へる法相の發言はすこぶる率直かつまつたうであり、法相の「誠實は書生の誠實」だと評する向きもあるが、とんでもない事である。「政治的賢明」に終始すれば、政治的に賢明たりうるとは言ひ切れない。私は法相の氣骨にぞつこん惚れ込み、頼もしい政治家が日本國に殘つてゐた事を喜んでゐる。  大方の日本人は忘れてゐようが、改憲は自民黨の綱領なのであり、綱領とは根本方針の謂だから、鈴木善幸氏に限らず、護憲論者の自民黨員は根本方針にそぐはぬ主張をしてゐるのである。法相の罷免を杜會黨は要求し、首相も「改憲を主張して譲らぬ閣僚は去つてもらふしかない」などと言つてゐるが、たんとも面妖な言分で、護憲を主張する閣僚こそ離黨すべきではないか。保革を問はず、法相の氣骨を苦々しく思つてゐる手合に言ひたい。根本方針を無視するのが政治的賢明なら、御都合主義にのつとり、自民・共産の連立政權さへ認めてもよいといふ事になるのである。  ポストが意見を徴した護憲論者は、いづれも「戰爭放棄を唱へてゐる憲法を守らねばならぬ」と考へてゐる。が、吉村正氏は「憲法なんてたいしたことはない」と言ふ。これは果して暴論か。とまれ、私も「暴論」を吐いておく。大方の日本人が戰爭は惡いと言ふ。が、戰爭の何が惡いのか。戰爭放棄の何が善いのか。わが國の非戰論者は「死にたくない」と言つてゐるに過ぎぬ。私はこの「暴論」の責任を斷じて囘避しない。奥野法相の頑固を見習ひ斷じて自説を撒囘しない。保革を問はず、だれでもよい、私をたたくがよい。私はたたき返す。戰爭は惡事ではないのである。  ポスト二月二十七日號は、「あのやうないい加減な改憲論議ではファッショになつてしまふ」との會田雄次氏の意見を引いてゐる。が、ポストの記事もまた「いい加減な改憲論議」の域を出ない。つまり、ポストは專ら、八百長の喧嘩は許されぬ、もつとやれ、と言つてゐるだけなのだ。ファッショを恐れての事ではない。そのはうが儲るからである。 【むしろ淵に溺れよ】  週刊文春は元創價學會顧問辯語士山崎正友氏の手記を長期にわたつて連載した。連載中に山崎氏は恐喝の容疑で逮捕されたが文春は怯まなかつた。三月十二日號は「獄中の山崎正友辯語士から編集部の担當記者宛」の私信を載せ、「司法當局においては、山崎辯語士が被告人であると同時に貴重な生き證人であることに留意し、その健康に萬全の注意を拂つてもらひたい」との「編集部後記」を付してゐる。文春のこの世話燒きを私は奇特な事だと思ふ。  執筆者と編集者は一蓮託生で、利用價値のある時だけ書き手を利用して、落目になつたら知らぬ顔の半兵衞といふわけのものではない。それに何より、文春の執念によつて吾々は、新聞を讀んでゐるだけでは解らぬ類の事柄を知つたのであつて、それゆゑ執筆者が逮捕されても「創價學會の謀略の實態」(一月二十二日號の編集長の言葉)を明さねばならぬとする文春の意氣込みは壮とすべく、一蓮託生の覺悟のある文春に對して山崎氏が、「連載を最後までつづけて下さつたことに對し、感動を覺え」るとの私信を寄せたのも當然の事だと思ふ。  けれども、私は山崎辯語士を信用してゐない。彼の文章を讀めば信用できないといふ事が解るからである。勿論、私は池田大作氏も信用しない。週刊朝日三月十一日號のインタビューを讀み、池田氏は宗教家として贋物ではないかと思つた。池田氏の言ふ事は悉く綺麗事である。この日本國において、あれほど綺麗事ばかり言ひつづけ、三億圓もの大金を動かせるやうになる筈が無い。  一方、山崎氏の言分を信用しないのは、彼の文章から義憤といふものを少しも感じないからである。創價學會は「もつぱら私に對する個人攻撃で終始し」(一月二十二日號)云々と山崎氏は書くが、「文は人なり」であつて、山崎氏が本氣で怒つてゐるやうには私には思へない。例へば私は、本欄でも韓國のために弁じた事がある。が、韓國のために弁じておよそ得をした事が無い。「得を取らうより名を取れ」といふ。が、私はそのどちらも取つた事が無い。そして今、「私に對する個人攻撃」があちこちで行はれてゐる。勿論、いづれ私が一切合財ぶちまければ勝負はつくのだが、その際私は本氣で文章を綴る。そしてそれは、憚りながら、嘘をついて辻褄を合せ自己正當化をはかる類の文章とは全く異質のものになるであらう。  けれども山崎氏は正義感に駈られて一切合財ぶちまけるやうな男ではない。また、一切合財ぶちまけて心を痛めるやうな男でもない。山崎氏はかつて池田氏と一蓮託生の仲だつた。一切合財ぶちまけようと決意したら、多少心を痛めて當然である。「人に溺れんよりは、むしろ淵に溺れよ」といふ。文春は少しその事も考へてはどうか。 【「民免れて恥なし」】  「春うらら、三月第二週の日曜日。突如現れた、うら若き女性ストリーカーひとり。三萬人の雜踏のただ中を、ヘアなびかせて、あちらに走り、こちらに駈け抜け・・・」といふ珍事が勃發したのださうで、週刊新潮三月二十六日號がその「現場写眞」を載せてゐる。芳紀まさに二十二歳との事だが、畫家や彫刻家が食指を動かすやうな肉體ではない。「汚い裸してんなあ」と本人も言つたさうだが、なるほどそれは、週刊ポスト三月二十七日號が載せてゐる田淵前夫人の裸體ほど醜怪でない、といつた程度のものである。が、それはいい。問題は彼女の陰毛で、新潮のグラビアには陰毛が消去されずに黒々と写つてゐる。これぞ我國の出版史上畫期的なる大事件といふべく、「修整」なしの陰毛を出版物に見るのは、新潮三月二十六日號をもつて嚆矢とするのではあるまいか。けれども刑法第一七五条には「猥褻の文書、圖畫、其他の物を頒布若くは販賣し又は公然之を陳列」する行爲は處罰するとある。一方、週刊ポストによれば、警視庁は「ビニール本業者を次々と摘發。オーバーにいへば壞滅的打撃をビニール本業界はくらつた」といふ。さて警視庁はどうするのか。ビニール本業者は容赦なく摘發して週刊新潮だけを見逃すなら、それはゆゆしき事である。法治國にあるまじき事である。  新潮は陰毛を消去しなかつた理由についてかう書いてゐる。「ヘアの写つてゐる写眞もあるが、これをワイセツ写眞などといふなかれ。あくまで“公然ワイセツ罪で捕つた女性の現場報道写眞”にすぎない。もしも、ヘアが写つてゐなければ、“正しい報道写眞”とはいひ難い」。笑止千萬なる屁理窟である。警視庁がこの屁理窟の屁理窟たるゆゑんに思ひ至らず、新潮の詭弁に幻惑されるやうならば、警視庁の知能はジャーナリストのそれに及ばぬといふ事になる。これまたゆゆしき事である。それゆゑ、新潮の屁理窟についてはこれ以上書かずにおき、警視庁のお手並をとくと拝見する事にしよう。  古來、男は若い女の裸體を賞味して飽きる事が無い。が、女の裸写眞は陰毛さへ写つてゐれば御面相はどうでもよいといふわけのものではない。それに何より「民免れて恥なし」といふ事がある。法による規制など無意味だと孔子は言つた譯ではない。かねてから猥褻出版物の取締りに批判的な新潮は、さういふ事も承知のうへなのか。それも承知、かつ摘發は覺悟の前で、陰毛の何が猥褻かと開き直るつもりなのか。それなら、「正しい“報道写眞”とはいひ難い」などといふ弁解は不要の筈である。田中通産相の「利權體質」についての記事にしても、男性大臣の「狡猜」な「ご面相」なんぞを云々せず、大臣の「不徳」を新潮は本氣で批判すべきではなかつたか。 【何が最高學府か】  このところ新聞やテレビは、早稲田大學の不祥事を盛んに報じて一向に倦む事が無い。社會の木鐸としてそれは當然の事、あるいは是非も無い事だが、大學當局までがそれに付き合ひ平常心を失つてゐるのは殘念である。例へば清水總長は、かかる不祥事が「早稲田大學に對する社會の信頼と期待を裏切り、諸君の入學の喜びに暗い影を与へたことに對し、心からおわびしない」と新入生に語つたさうだが、何ともつまらぬ事を喋つたものである。新聞がいかに派手に書き立てようと、それぐらゐの事で「入學の喜びに暗い影を与へ」られた新入生はゐまいし、またゐたとすれば、その愚かしい根性をこそ叩き直してやらねばならぬ。だが、總長の式辭に場内は水を打つたやうだつたといふ。國會答弁さながらの紋切り型の式辭に野次もとばせぬほど昨今の大學生は腰抜けで、さういふ腰抜けが相手だから、教師も發奮するといふ事が無いのである。職員による成績原簿の改竄が發覺して、今囘、大騒ぎになつてゐる譯だが、では早稲田大學の教師は日頃「嚴正なる採点」をやつてゐるか。いや恣意的な採点でも構はないが、學生に一切文句を付けさせぬほど情熱的な授業をやつてゐるか。不祥事の解明は警察や裁判官に委ねたらよい。が、早稲田に限らず、今日の大學には、司直の手を借りて解決する譯にゆかぬ類の難問が山積してゐるのである。  週刊現代四月十六日號は、「根本的た問題は、日本の私立大學では“教育研究”と“業務管理”が混然一體となり、分離してゐないこと」だと言ひ、「教育・研究ひとすじの教授をよそに、入試事務、成績管理・校内運營を一手に握る大學職員はやりたい放題」だと書いてゐる。とんでもないでたらめである。總じて早大の職員は、これほどの与太を飛ばして平氣でゐる週刊誌の記者と異り、よつぽど良心的である。それに、當節の大學教授は決して「教育・研究ひとすじ」ではない。それどころか教育や研究にあきて學部長だの理事だのをやりたがる手合もゐる。そして職員はさういふ學部長の監督をも受けねばならぬ事になつてゐる。「教育・研究ひとすじの教授をよそに」職員は「やりない放題」だなどと、許し難いでたらめ、何たる想像力の貧困か。  とまれ、新聞も週刊誌も早稲田大學を難じては紋切り型を言ふ。大學の總長も校友も紋切り型を言ふ。學生がそれを見習はぬはずがない。かくて今や大學においても「教育の普及は浮薄の普及なり」といふ事になった。ブレイクは「實行できぬ願望を育むくらゐなら、いつそ揺藍の赤子を殺せ」と言つたが、教授會はもとより文學部の教室においても、昨今この種の危險な思想が論ぜられる事は無いであらう。それは學問が道徳の問題を囘避してゐるからである。が、安全第一の紋切り型ばかりが語られてゐて、何が最高學府であらうか。 【他人を責めぬ風潮】  週刊文春四月二十三日號に野坂昭如氏は、僧侶の堕落を批判して「町を歩いて眼につくのは鐵筋コンクリート製の本堂と、その經營する駐車場、佛の道を説く者など絶えて久しい。大都會で托鉢、説法に觸れた者はまづゐないと思ふ、よくまあここまで堕落したものである」と書いてゐる。けれども、野坂氏は昨年、『防衞大合唱を嗤ふ』と題する嗤ふべき文章を綴り、「武士の心はやめた方がいい、商人の氣がまへ、前垂れかけて、膝に手を當て、頭を下げる」のが「一億一千萬人の生きる道」だと主張したのである。それなら、僧侶が「前垂れかけて、膝に手を當て」、鐵筋コンクリートの本堂を建て、駐車場を經營してゐる事を、なぜ野坂氏は怪しまねばならないか。場當りを狙つて思ひ付きを書き散らし、「右も左も蹴つとば」した積りでゐる戯作者風情に、僧侶や神官の堕落を批判する資格なんぞありはせぬ。宗教の「導きによつて救はれたい人たちが、世に滿ち滿ちてゐるのに」と野坂氏は言ふが、今の日本國に、宗教の「導きによつて救はれたい」人々が「滿ち滿ちてゐる」筈は斷じて無い。斷じて無いと斷づる根拠を私はいくらでも擧げられる。「武士の心はやめた方がいい」と書いて、野坂氏は世の笑はれ者になつた譯ではない。それこそ日本人が眞劍に生きてゐない事の證しに他ならぬ。眞劍に生きてゐない者がどうして宗教の救ひなんぞを必要としようか。  當節、吾國の知識人は、宗教や道徳に言ひ及ぶ事頗る稀である。言及しても必ずお座なりを言ふ。サンデー毎日四月二十六日號に、鳥井編集長は書いてゐる、「裁判官、大學教授、知事、市長・・・・・・モラル喪失をつきつける事件がどこまでつづくのでせう」。かういふ文章を讀んで、なぜ人々は腹を抱くて笑はないのか。「どこまでつづくのでせう」などと涼しい顔で書いてゐる男が、本氣で「モラル喪失」を憂へてゐる筈は無い。昨今、おのれを省みる事無く專ら他人に努力を要望する風潮が顕著だが、それこそ「モラル喪失」の何よりの證左である。政治家は、宗教家は、教師は、新聞人はかくあるべしと、識者はしきりに言ふ。が、おのれはかくあるべしといふ事を決して考へない。  野坂氏は週刊讀賣五月三日號にも、「戰爭に行きたくなけりや米を食へ」と題する駄文を寄せ、「子供を戰爭に行かせたくなかつたら、今のうちに子供に米を食べる習慣をつけたはうがいい」と主張してゐる。これほど粗雜な思ひ付きを公表しても、右からも左からも、野坂氏は決して叩かれないであらう。「人を責むるの心を以て、己れを責めよ」といふ。が、他人を責めず、他人に責められる事も無いとすれば、どうして己れだけを責める氣になれようか。かくて人々は馴合ひの快を貪るのである。 【これぞ早稲田の恥】  週刊新潮四月三十日號は「いまやサラリーマン養成機關に過ぎない私立の早稲田。裏口入學など人畜無害。いつたい死者を出すほど、大騒ぎする理由はどこにあるのか。まさに空騒ぎ」だと書いてゐる。全く同感である。が、前々囘にも書いたとほり、新聞週刊誌はともかく大學當局や校友までが平常心を失つてゐるのは、まことに情け無い事で、『言論人』五月五日號に稲田秋彦氏は「私學の雄と謳はれているワセダの内部は(中略)伏魔殿」だが、今後ワセダがどうなるかは「天下の公憂」だと書いてゐる。が、「公憂」だなどと思つてゐるのは愛校心に盲ひた校友だけである。  稲田氏はまた「今度の事件につき學内で調査し、斷固たる處置をとることなく、すべてを警察の手に委ねたこと」は、「大學自治の放棄」だと言ふ。稲田氏は校友なのだらうが、これまた見當違ひの意見であつて、いかなる場合にも刑法上の犯罪を「學内で調査」すべきではないし、また、早稲田に限らず、吾國の大學は「大學自治」などといふものを放棄して久しい。そんなものを必要としないからである。  ところで、週刊現代五月十四日號で、早大前總長村井資長氏は、清水司總長を批判し、その辭任を要求してゐる。村井氏は早稲田の將來を憂へてゐるかの如くであるが、その語り口は野卑であつて、これが八年間總長をやつた男の言ふ事かと、私は驚きかつ呆れた。村井氏が推薦したからこそ清水氏は總長になれたのださうだが、總長就任後「ソッポを向いた」清水氏について村井氏は「理事を選ぶ時から豹變した。ぼくには一言の相談もなかつた」などと言つてゐる。週刊現代の誘導訊問に引掛つたのだらうが、今さらそんな事を言つて何になるか。「清水氏をダミーにして“院政”を圖つた」とする噂を自ら認めるやうなものではないか。  そればかりではない。清水總長について「出世主義者と批評する人も」ゐるとか、「一部の人に、スキャンダルを握られてゐて、總長の自主性を發揮できないのではないか」とか、さういふ次元の低い惡口を言ひ、それを公憤であるかの如く思ひ込んでゐる、それが紛れもないわが大學の前總長なのである。これぞ早稲田の恥である。「訂いて以て直と爲す者を惡む」といふではないか。  私は清水總長を辯語してゐるのではない。當節、總長だの理事だのは、稲田氏の言ふとほり必ずしも「學者として優れてゐるとか、徳望が高いとか」いふ理由で選ばれるのではない。學問より政治のはうが面白くなつた手合が、新設學部は幕張にせよ、いや所澤にせよと、まなじりを決して爭つてゐるのであらう。馬鹿々々しい限りである。百周年だからとてなぜ新しい學部を設立せねばならぬのか。新しい學部を拵へて、それだけ早稲田が立派になる筈のものでもあるまいに。 【道徳的不感症を憂ふ】  奈良縣の小學校で、校長と男性教諭六人が、ブルービデオを教室で觀賞し、それが發覺して校長は首になつたといふ。その事件について週刊新潮五月二十一日號は「白晝、教室でブルービデオを見るなどもつてのほか」だと書いてゐる。天邪鬼の新潮さへさういふ紋切り型を言ふのだから、ここで私が「白晝、教室で、ブルービデオを見て何が惡いのか。校長は運が惡かつたに過ぎぬ」と書いたら、私は世論の袋叩きにあふかも知れぬ。だが、私は釋然としない。小學校の教室だつたからいけないのか、白晝だつたからいけないのか、ブルービデオだつたからいけないのか。教室はなぜ神聖な場所なのか。ブルービデオに眉を顰めるほど、週刊誌の記者は潔癖なのか。校長たちの所業は發覺しなければ無害だが、週刊誌に載るポルノ小説や卑猥な劇畫は、小學生の目にも止るのである。  一方、このところ警官や裁判官の非行もしきりに發かれ、週刊現代五月二十一日號は「正義の味方がきいて呆れる。われわれは誰を信じたらよいのか」と書いてゐる。だが、現代は本氣で嘆いてゐる譯ではない。例へばピンクサロンにおける警官の非行について、有る事無い事、面白をかしく書き立てた揚げ句「法治國の國民は何を頼りに生きてゆくのか」などとお座なりを言つてごまかしてゐるにすぎない。週刊現代は毎週、トルコ風呂の實態とやらを樂しげに報じてゐるが、そのいかがはしい記事を若い警官も讀み、眞に受けるかも知れぬ。散々挑發しておいて、警官や判事には自制を要求する、それはちと不公平ではあるまいか。  日本人には罪惡の問題を識別する能力が欠けてゐると、かつてジョージ・サンソムは言つた。いかにも吾々は善惡の問題を突きつめて考へない。「考へ過ぎるのも善し惡しだ」などと言ふ。昨今防衞論議が盛んだが、平和がなぜ善で、戰爭がなぜ惡か、さういふ事を誰も論じない。かつてこのコラムで私は、「戰爭の何が惡いのか。戰爭放棄の何が善いのか。わが國の非戰論者は、死にたくないと言つてゐるに過ぎぬ」と放言して無事であつた。「なぜお前は戰爭は惡事ならずと主張するか」と、誰も私にたづねなかつた。要するに、人々は戰爭に對してもセックスに對しても、不感症になつてゐるのであつて、それは斷じて喜ぶべき事ではない。戰爭を肯定する文章を綴つて無事だつた以上、「教師が教室で、白晝、ブルービデオを見て何が惡いか」と、さう放言しても私はやはり無事ではあるまいか。だが、もしも無事なら、それはゆゆしき事である。道徳的不感症が蔓延すれば、偽惡も偽善も児戯に類するものになる。それこそ亡國の病に他ならない。 【筋道よりも和を重視】  週刊新潮五月二十八日號によれば、石原慎太郎氏はかつて佐藤榮作氏に、「核を作らず、持たず」まではよいが「持込ませず」はナンセンスであり、「そんなアホダラ經みたいなゴロ合せはやめたはうがいい」と忠告したといふ。だが「作らず、持たず、持込ませず」と三拍子揃ふと、それはあたかも七五調のごとく、吾々日本人に生理的快感を与へるのである。俗に「飲む打つ買ふ」といふが、「飲む打つ」だけでは調子が惡からう。それで、「持込ませず」を加へた、その程度の事でしかない。私は冗談を言つてゐるのではない。週刊現代六月十一日號に江藤淳氏は、非核三原則を堅持せよと主張するのなら、「核の傘」も要らぬ、「同盟も願ひ下げ」、「ソ連が攻めて來たら白旗を立てて」降伏すると、さう公言すべきである、「筋道を立てて考へるなら」、どうしてもさういふ事にならざるをえぬ、と書いてゐる。が、「筋道を立てて考へる」のは日本人が何より苦手とするところなのであつて、週刊新潮五月七日號にヤン・デンマン氏が書いてゐるやうに、吾々は「戰爭は惡だ、惡だ、と叫び續け」るだけで戰爭はなくたると、さう思ひ込んで久しいのである。  江藤氏はまた週刊現代六月四日號に、「この度の首相の發言は、外交音痴を遺憾なく暴露したもので、お粗末」この上無しだと書いてゐる。同感である。鈴木首相は憲政史上最低の總理大臣だと私は思ふ。首相は「外交音痴」であるばかりか、元杜會黨員だけあつて、戰爭アレルギーをいまだに脱し切れずにゐる。首相はレーガン大統領に、日本は軍事大國にならず、平和憲法と非核三原則を守り、專守防衞に徹すると言つた。本氣でさう言つたのである。  だが、社會黨員だつた頃の鈴木善幸氏と、自民黨總裁である今の鈴木善幸氏と、その「外交音痴」も思考の不徹底もさして變らず、しかも自民黨の派閥力學ゆゑに當分鈴木體制が揺がないとすれば、何を言はうと所詮は徒労であらう。  吾々日本人は「筋道を立てて考へる」事をしない。何よりも和を重んずる。それかあらぬか、例へば改憲問題をめぐつての保守派同士の「近親憎惡」を何よりも恐れる向きもある。私は最近保守派イデオローグの「第一人者」と目される學者の防衞論のでたらめを批判する文章を綴つて、或る雜誌の編集長にその淺はかを窘められた。言論の自由が保證されてゐるはずの吾國において、猥褻な事を書く自由はあつても、首相やジャーナリズムを批判する自由はあつても、保守派が保守派を批判する自由は無い。明治時代、「物質的の革命」は「外部の刺激に動かされて來りしものなり。革命にあらず、移動なり」と北村透谷は書いた。が、吾國の論壇が知的誠實を重んずるやうになるためには、すさまじいまでの「外圧」が必要なのかも知れぬ。 【一所懸命こそ大事】  近頃の物書きには月に千枚も書く奴がゐるさうだが「何用あつて毎月千枚書くか。何の用もありはしない。あんなに書くのは病氣である」と山本夏彦氏が言つた事がある。山本氏は目下週刊新潮に短文を連載してをり、私は毎週矯めつ眇めつ、撫でるやうにして讀み、その鋭い省察に毎囘感心する。例へば六月十八日號に山本氏は「いまトルコ嬢が足を洗つて店を持つて成功したら、堅氣の男女の立つ瀬はない。一億みなトルコ嬢になつたはうが割がいいやうな考へが、日本中に瀰漫することを私は欲しない」と書いてゐる。全く同感で、わが意をえたりとて私は喜ぶのである。だが、私が山本氏の文章を愛讀するのは、ただ單に、そこに書かれてゐる事柄に同意するからではない。私は山本氏の文章の姿形をも愛でるのである。新潮六月十一日號に山本氏は、バキューム・カーの雄大なホースについて「打てばひびくといふが、張りきつてかんかん音がしさうである。何といふ充實ぶりだらう」と書いてゐる。バキューム・カーのホースを撫でる馬鹿はゐまいが、かういふ見事な文章は撫でるやうにして讀むべきだと思ふ。  けれども昨今、人々は文章を讀んでさういふ樂しみを味はふ事が無い。何が書かれてゐるかを知るのに急で、いかに書かれてゐるかは二の次三の次だからである。だが、バキューム・カーのホースの雄大についてイデオロギーの對立などありえまい。巧妙に書かれてゐるかどうかだけが問題なのである。それゆゑ私は、例へば改憲の是非について私と同意見ではあつても、粗雜に書く筆者なら信用しない。  週刊文春六月十八日號は「一囘五十萬圓也の“講演屋”」竹村健一氏の人格を疑ふ記事を載せ、「一日で著書を一冊仕上げる」その恐るべき荒つぽさと、講演の際の横柄な態度を批判してゐる。文春は竹村氏の辯明も載せてはゐるが、竹村氏の言分を全く信用してゐない。もとより私も信用しない。竹村氏は粗雜極まる文章を書くからである。文章が粗雜なら人柄も粗雜に決つてゐる。先週、サンケイ新聞「直言」欄に、竹村氏は「イスラエルがイラクの原爆用原子炉を爆撃した。(中略)火中の栗を拾ふやうなことをやつてのけた」と書いた。「火中の栗を拾ふ」とはどういふ意味か、それを確かめもせず書き流した譯である。  けれども文春によれば、竹村氏は相變らず引張り凧、「スケジュールを調整する秘書が三人もゐる」ほどだといふ。それなら何を言つても始まらぬ。何囘講演をやつても一向に手抜きの要領を覺えられぬ私は、いつそ竹村氏にあやかりたいと思ふ時さへ無い譯ではない。が、私は人生何より大事なのは一所懸命といふことだと思ふ。時に過つ事があつても、一所懸命ならそれでよいのだと思ふ。 【繁榮ゆゑの無駄事】  かつて私は週刊讀賣の二重表紙の無駄を批判した事がある。理由はよく解らないが、讀賣はやがて元の表紙に戻つた。が、讀賣はその後新手の無駄をやり始めた。板坂元氏の文章を連載し始めた。七月五日號に板坂氏はアメリカで流行してゐる「握手のやり方」を説明し、「日本も、禮儀の國、ひとつ誰か面白い挨拶法を工夫してはどうだらう」と書いてゐる。日本が「禮儀の國」かどうか知らぬが、禮儀と「面白い挨拶法」と一體何の關係があるか。板坂氏は毎囘、この程度の内容の、砂を噛むがごとき文章を綴つてゐるが、惡文たるゆゑんを噛んで含めるやうに言ひ聞かせても所詮徒労だから、噛んで吐き出すやうに「無駄話」と評するしかない。同じく讀賣の『私は見た!この有名人』といふ投稿欄を、私は愚劣と評した事がある。このコラムは今も健在だが、それは名士に弱い讀者に受けるからであらう。それゆゑ讀賣にとつては無駄ではあるまいが、板坂氏は桃井かおりや三遊亭圓窓や山本浩二ほどの名士なのか。しかも、板坂氏の原稿は「アメリカから國際電送」されて來るのだといふ。何たる無駄づかひか。讀賣は「國際電送」だと毎囘斷つてをり、その勿體顔は甚だ滑稽である。  だが、なにせ經濟大國の週刊誌、無駄づかひは讀賣に限らない。日本人留學生がパリでオランダ娘を殺し、その肉を食ふといふ珍事が出來し、當然週刊誌は色めいたが、週刊文春は急遽パリヘ記者を派遣したのである。これもまた無駄づかひで、パリに支局を持つ新聞を讀めば解る程度の事しか文春は書いてゐない。文春七月二日號は、「一億二千萬もの費用をかけて何しにいつた」のか解らぬ鈴木首相の外遊の無駄を批判してをり、私は樂しく讀んだ。日本人すべてに文春の記事を讀ませ、あんな首相を戴く事の無駄について、眞劍に考へさせたいと思つた。だが、「バラバラ人肉事件」の記事に關する限り、文春の記者もまた、パリまで「何しにいつた」のか解らぬのである。  ところで毎日新聞には無論パリ支局がある。そこでサンデー毎日七月五日號は「本誌の直接取材」の成果を誇る事となり、その勿體顔も滑稽だが、それよりも、パリ警視庁の警部に毎日の記者は、犯人が人肉を「どうやつて食べたのか」と尋ね、「燒いて食つた」と警部が答へると、「ソースつけてか?」と畳掛けるやうに問うてゐるのである。何たる些事、何たる神經、何たる愚問か。  些事にこだはるのは無駄な事である。が、無駄と承知でついでに言つておかう。毎日は犯人が「通學してゐた高校の正門とクラス名簿」の写眞を載せてゐる。勿論、この類の無駄づかひは毎日に限らぬ。今囘、最も色めかず、無駄金を使はなかつた週刊新潮も時々やる事である。が、それにしても「クラス名簿」とは! 【萬事金の世の中】  本欄で私は朝日ジャーナルを取上げた事が滅多に無い。理由は簡單で面白くないからである。週刊ポストなら天然色の女の裸写眞がある。週刊現代ならトルコ風呂やノーパン喫茶の探訪記がある。これらはいづれも眺めて樂しく、讀むにたやすい。樂をして、しかも樂しめる讀み物に事欠かぬ當節、「問題意識」の塊のやうな朝日ジャーナルを人々が面白がる道理が無い。『月曜評論』七月六日號に矢野健一郎氏は、週刊文春を批判して、「問題意識や批判精神を欠き、そのために取材も記事の構成もいい加減で、結果として、噂話(中略)に堕してゐる」と書いてゐる。が、それは文春に限つた事ではない。例へば週刊現代七月二十三日號は、讀賣新聞と朝日新聞との「新部數戰爭」に關する記事を載せてゐるが、「問題意識や批判精神」なんぞ藥にするほどもありはせぬ。「過熱する販賣競爭は、まともな讀者にとつては迷惑しごくた話である。販賣コストが、料金にはね返つてはたまらない」と筆者小板橋氏は言ふ。要するに「金錢の支出は免れたい」といふ事で、これはとても問題意識などといふものではない。一方、小板橋氏によれば、朝日新聞は七月二十日から新活字を用ゐ、その結果、紙面にをさまる活字數は「從來より七%減少」するといふ。が、それが何を意味するか、小板橋氏は全然氣づいてゐないのである。  あたらしい大きな活字で、讀みやすくなつて、けれども内容がすくなくなつて、それですべてめでたしめでたしだらうか。いまはなにごともカネの世のなかだから、一箱二十本入りのタバコに十九本しか入つてゐなかつたら、だれだつて專賣コウシャにたいしておこるだらう。それなのに、活字が七%すくなくなることに、朝日の讀者はハラをたてないのである。ほんたうにふしぎなことだとおもふ。サンケイ新聞は活字をあたらしくしないだらうから、これからわたしは、せいぜい努力して、假名をたくさん使はなければならない。内容がすくなくなつても、だれもおこらないし、書くわたしも樂で、原稿科はおなじ、讀者は讀むのに樂で、活字をひろふ人だつて樂、やつぱりすべてめでたしめでたしではなからうか。かか。  まあ、これほど極端に走るのは賢明ではない。「かか」とは「呵々」で「大聲で笑ふさま」の事である。だが眞面目な話、樂をして同じ報酬が得られるとなると、その誘惑に抗するのは難しい。まして報酬が二倍三倍となつたら、さて、どういふ事になるか。今後「右傾化」がすすみ、朝日の主張もサンケイのそれと大差無いといふ事になつた時、讀者は競つて朝日に鞍替へするのだらうか。「世に有程の願ひ、何によらず銀徳にて叶はざる事、天が下に」無しといふ事になるのだらうか。「人間はさうしたものではない」と、私は鴎外とともに言ひ切りたいと思ふ。 【偶像は不要なりや】  古今の偉人、有名人ばかり百五十二人の性生活を暴露した『ザ・ワルチン・スペシャル』といふ奇妙な表題の本が出版されたさうである。週刊新潮七月三十日號によれば、著者ワルチンスキーは、「あまりにきれいごとに過ぎる偉人、有名人の傳記に不滿」で、その本を書いたといふ。例へば、ショパンは愛人に「あなたのDフラット・メイジャー(黒鍵二つの間に白鍵が挟まれる和音)の小さな穴へ」云々と、あらぬ事を書き送つたし、ルイス・キャロルは童貞のまま死んだが、少女の裸写眞を撮るのが大好きだつたといふ。馬鹿らしい本を書いたもので、新潮の記事を讀めば、そんな本、讀むに及ばぬと知れるから、まともな人間は買はないであらう。新潮はかう書いてゐる。「だが、讀者諸氏が、かうした人々に過度なる親近感を抱くとしたら哀れである。だつて彼ら、どう轉んでも天才であり偉大なのだから」。その通りである。この世に「小さな穴」ぐらゐの事を書く奴は何百萬何千萬とゐるだらうが、何百萬何千萬に「小犬のワルツ」や「黒鍵のエチュード」が書ける譯ではない。天才や偉人にも生殖器があつたといふ事實を發見して喜ぶのは愚劣な事であつて、自分と同樣ショパンにも生殖器があつたけれども、自分は逆立ちしたつて出來損ひのエチュード一つ作れはしないと、さう考へるのが眞當なのである。ワルチンスキーの仕事は要らざるお節介と言ふべく、天才の閨房を覗いて「親近感を抱く」者は、あはれな碌でなしに他ならない。  けれども今は、人々の偶像を破壞して喜ぶ事、頗る甚だしい時代で、被害を受ける事、最も甚だしいのが政治家と藝人である。同日號の新潮は、船田中、田中角榮、池田勇人、鳩山威一郎、春日一幸、山本幸一、川島正次郎、松野鶴平、大野伴睦、三木武吉、宇都宮徳馬、糸山英太郎の各氏の、「御落胤」後始末に關する實説や風説を紹介してゐるが、ただそれだけの「特集記事」であつて、ワルチンスキーの著書を「死人に口なし、書き放題?」と評した「タウン」欄の批評精神が、この「特集」記事には欠けてゐる。勿論、新潮よ、批判精神や「問題意識の塊」であれなどと、私は言つてゐるのではない。週刊誌が商賣の事を考へるのは當然で、時に讀者の喜ぶ政界の艶聞醜聞を提供して、床屋政談を盛んにするのも是非が無い。けれども、死んだ政治家の場合も「死人に口なし」ではないか。  偶像破壞も大いに結構。だが、「弟子、七尺去つて師の影を踏まず」の美風が地を掃つてめでたい限りだと、まさか新潮は考へてはゐまい。日教組だけが惡いとは思つてゐまい。私は政治家の惡徳を辯語してゐるのでは斷じてない。偶像無しに果して人はよく生きられるかと、それを怪しんでゐるまでの事である。 【瘠我慢こそ大事】  なぜ週刊誌はかうも個人の噂話にばかり執着するのか、「まるで個人のみがあつて、社會も國家もないみないではないか」と、再び週刊文春を批判して矢野健一郎氏が書いてゐる(『月曜評論』八月十日號)。矢野氏の指摘どほり、最近の文春はちと「物の見方が微視的になり過ぎ」てゐると私も思ふ。野球選手と離婚したといふだけの「業績」の持主に「仰天小説」を書かせるなどといふ事は、以前の文春なら思ひ付かなかつたであらう。思ひ付いても實行に移さなかつたであらう。八月六日號の「ハンソン對談・番外編」は、「アハハ、オソソなしの添ひ寢をしてみたい」と題するもので、「ここまで文春は堕ちたか」と私は驚いたが、「編集長からのメッセージ」によると、「印刷會杜の手ちがひのために」、週刊ポストの記事が「まぎれ込んでしまつた」のだといふ。前代未聞の不思議だが、とまれ私は胸を撫でおろしたのである。  同日號の文春は創價學會の「エリート連の亂脈ぶり」について、「まつたく時代が時代ゆゑ目くじら立ててもはじまらないとはいへ」云々と書いてゐる。私が文春に望みたいのは、「時代が時代ゆゑ」と諦める事無く、敢然として目くじらを立てて貰ひたいといふ事である。商賣も大事だが、瘠我慢はもつと大事だからだ。昔、福澤諭吉は勝海舟と榎本武揚を批判して、瘠我慢といふ事を無視するならば「經濟に於て一時の利益を成」す事はあつても、「數百千年養ひ得たる我日本武士の氣風を傷ふたるの不利は決して少々ならず」と書いた。詳しい説明はしないが、勝と榎本は反論しなかつた。道徳は「兒戯に等し」などと思つてゐなかつたからである。  だが、俗に「人を見て法を説け」といふ。私が文春に苦言を呈するのは、文春の「人を見て」ゐるからで、例へば朝日ジャーナルに對して、私は同じ説法をやりはせぬ。總じてジャーナルは、「物の見方が巨視的になり過ぎ」、人間不在の味氣無い記事を載せる。八月七日號の小田實氏の駄文がさうであつて、「日本はどうやら“元も子もなくなる”運命をまぬがれ得ない」とか、「ひどい目にあふのは第三世界」だとか、アメリカも中國も「自分は生きのび得る」と考へてゐるとか、ソ連はアメリカや中國ほどの「確信はもつてゐない」だらうとか、繁榮をつづけたいのなら、「右傾化」を「必然のこととして私たちは受けとらなければならない」とか、要するに小田氏は、おのれの信念は何一つ語つてをらず、米中ソの「えらいさんたち」の心理を「想像」し、「私たち」はかうすべきであらうか、などと言つてゐるに過ぎず、許し難きほど無責任かつ非人間的な文章なのである。小田氏のでたらめは一度徹底的に批判せねばならぬと思ふ。 【淺薄極まる法意識】  筑波大學の中川八洋氏が『月曜評論』誌上に、猪木正道氏は「ソ連政府の代理人になつたかの如くである」と書いた。すると猪木氏は「極めて惡質な誹謗であり、到底看過できない」とて、中川氏及び『月曜評論』に對し謝罪を要求、「刑事および民事上の法的手段を採る」と通告した。週刊文春八月二十日號はこの「前代未聞の珍事」を報じ、中川支持派と猪木支持派の「兩陣營は全面戰爭に突入」したと書いてゐる。私自身、文春に意見を求められ、猪木氏の「理解不可能なレトリック」を散々批判したのだから、文春が私を中川氏の「應援團」の一員だと思つたのは是非も無い。だが、私は中川氏の論文にも批判的なのであり、七月三十一日の朝、ラジオ關東の「今日の論壇」でも、私は中川氏の論理の杜撰を指摘した。それに何より、ソ連が脅威かどうかについて論じて、それがそのまま防衞論として通用するのは馬鹿馬鹿しい限りだと思ふ。すべての他國が潜在敵國ではないか。ソ連は脅威かどうかなどといふつまらぬ事柄は、アメリカや中國の論壇では決して論じられてゐまい。「脅威脅威とやみくもに騒ぎ立てるのは逆効果でマイナス」だと猪木氏は言ひ、「ソ連が脅威ではない、などといふのは“太陽が西から昇る”と同じくらゐをかしな議論」だと中川氏は言ふ。だが日本人の大半は、ソ連の脅威なんぞ一向に感じてゐまい。それゆゑ、このやうな蝸牛角上の爭ひが話題になるのであらう。  だが、言論人が安直に裁判官の判斷を仰がうとするのは感心できぬ。先般、東京高裁は「百里基地裁判」の判決において、自衞隊が合憲か否かについての「判斷を囘避」したが、七月八日付の朝日新聞社説は「なぜ憲法判斷を避けるのか」とて判決を批判した。朝日は猪木氏と同樣、法の裁きを過信してゐるのではないか。それは日本人の法意識の未熟を例證するもので、三權分立とは司法權の優位を意味しないのである。  一方、週刊新潮八月二十七日號の「田中角榮被告“有罪までは無罪“に噛みついた石川達三氏」と題する愚劣な記事も、日本人の法意識の淺薄を如實に物語るものであつて、石川氏は「有罪の判決が有るまでは無罪」とは「まるで中學生の理論のやうに短絡的であつて、筋が通らない」などと、法治國の國民にあるまじき「短絡的」な戯言を口走り、それを新潮は頗る好意的に紹介してゐる。本欄に執筆して五年、私は今囘ほど新潮を輕蔑した事が無い。「有罪の判決が有るまでは無罪」なのではない。元首相であれ殺人鬼であれ、有罪と決るまでは無罪の扱ひをするのが法治國なのである。新潮には何か石川氏を持上げねばならぬ事情があつたに相違無い。さう考へねば理解できぬほどの、これは淺薄なる法意識である。 【文春の自戒を望む】  或る男が佐久間象山に、大金持になるにはどうしたらよいかと問うた。すると象山は、片足を持上げて小便をしろと答へた。「え、それではまるで犬ではありませんか」。「さやう、犬になるのです。さもなければ大金持なんぞに決してなれませぬ」。江戸時代も今も、富豪になるには犬の眞似をせねばならぬ。當節、街頭に犬を見掛ける事すこぶる稀だが、なに、週刊文春の眞似をすればよいのである。前々囘、私は週刊文春を批判して「瘠我慢」の大事を説いたが、それは言ひ甲斐無き事だつたと思ふ。文春は金儲けのためには手段を選ばぬ事に決めたやうであり、それゆゑ文春の部數は今後急速に伸びるであらう。大金持になるために週刊文春を見習はねばならぬゆゑんである。  さて、假に私が雜誌甲の週刊誌評のコラムを担當してゐて、以上のやうに文春を批判しておいて、その次囘に「前囘の文春批判は私が書いたものではなく、印刷會杜の手違ひで他の雜誌乙に週刊誌評を連載してゐる丙氏の文章がまぎれ込んでしまひました。丙さん、ごめんなさい」と書いたら一體どういふ事になるか。無論、甲誌も印刷會杜も、丙氏も烈火の如く怒るであらう。そして、さらに性懲りも無く二週間後、印刷會社の手違ひ云々は冗談だつたが「本氣で信じた人がゐました。印刷會社サマごめんなさい」と書いたら、丙氏も印刷會社も甲誌も乙誌も、確實に私を狂人と見做すに違ひ無い。が、週刊文春の村田耕二編集長は、さういふ途方も無い惡ふざけをやらかした。すなはち八月六日號の「オソソなしの添ひ寢をしてみたい」と題する「ハンソン對談」について、印刷會社の手違ひのために週刊ポストの記事が「まぎれ込んでしまひました。關根進編集長、ごめんなさい」と書き、さらに八月十三日號の編集後記に、印刷會杜の手違ひのため云々と「冗談を書いたら、本氣で信じた人がゐました。凸版印刷サマごめんなさい」と書いたのである。週刊ポストも凸版印刷も、村田氏の非常識に呆れ返つたに相違無い。他人に迷惑を及ぼす惡ふざけは「いい加減にしてもらひたい」と思ふ。  もはや紙數が無いが、個人も國家も、まじめになるべき時にはまじめにならねばならぬ。金儲けの才に惠まれ、道化て世を渡るのは樂しからう。が、日本國は今後もこれまでの傳でやつてゆけようか。いや、世渡り上手の手から水が漏る時がきつと來るであらう。私は漱石の「坊ちやん」よろしく「正直が勝たないで、ほかに勝つものがあるか」などと言ひはせぬ。が、個人も國家も正義感ゆゑに損得を無視して行動する事がある。そして「正直」が常に負ける譯ではない。村田編集長にしても、それを思ひ知つた事がある筈である。私は村田氏の才能を認めるが、「才子才に倒る」といふ事がある。文春の自戒を望む。 【恐るべきは歿道徳】  或る男が新妻に自分の日記を讀ませる事にした。結婚前に犯したわが罪を愛する妻に告白しておかねばならぬと、さう考へての事であつたと書けば、讀者はそれを立派な振舞だと思ふかも知れぬ。が、夫の日記を讀んで妻は悲しみ、夫のはうは良心の呵責を免れていとも安らかな氣分となる。トルストイの『アンナ・カレーニナ』に出てゐる話だが、この夫にとつて「何より肝心なのは自分に罪が無いと感じる」事であつた。つまり、新妻に日記を讀ませたのも利己的な行爲だつたのである。トルストイは「或る型のエゴイズムを他の型のエゴイズムに替へたに過ぎない」とオーウェルは言つてゐるが、それはトルストイ自身も氣づいてゐた事で、善行を施すといふ美しい行爲も所詮は自己愛でしかありえぬ事に、彼は一生苦しんだのである。  ところで、週刊新潮九月二十四日號によれば、松山善三監督はサリドマイド児を描いた映畫を拵へたが、それを見た無着成恭氏は「足であんなに上手に字を書けるなんて、人間といふのはどこまで素晴らしいものか」と思つたといふ。けれども古山高麗雄氏は、「正義の理窟をつけて、見せないでいいものを見せて商賣にしてゐる」のだらうが、「自分は幸せな状態にゐて不幸せな人を論じてゐるのは、どんなものか」と言ひ、私立大助教授某氏は「彼女が足で口紅を塗るシーンがあつた。(中略)このときほど、殘酷さを感じたことはなかつた」と言ひ、國立大助教授某氏は「あの映畫監督は(中略)ヒューマニストのやうな顔をした最低の男ぢやないのか」と言つたといふ。  私は映畫を見てゐないが、新潮の記事から判斷する限り、無着氏は頗るおめでたいと思ふ。モデルになつた少女は「はつきりいつて見せ物です。もはや、興味本位でもいいから見てほしい」と言つてをり、身障者にかう言はれたら五體滿足の吾々は默するしかない。だが、「人間とはどこまで素晴らしいものか」などと、よい年をして何とおめでたい事を言ふ男か。無着氏はトルストイの爪の垢を煎じて飲むべきである。  けれども、松山監督のいかがはしさを嗅ぎつけた新潮も、松山氏の恐るべき道徳的不感症を見逃してゐる。松山氏は言ふ、「僕は昔から偽善者だと人からいはれてますし、自分でもさう思つてます」。この不道徳ならぬ恐るべき歿道徳を、偽惡的な新潮が見逃したのは興味深いが、それはともかく「偽善者だと人からいはれて」平然としてゐられるのは、まさに道徳的宦官である。  偽善者と言はれまいとし、また言はれて立腹する限り、人間は善との繋がりを失はずにゐられるのだ。松山氏にはトルストイの爪の垢も無用であり、それに較べれば無着氏のおつちよこちよいのはうが、遙かに人間的だとさへ私は思ふ。 【平凡は今や非凡か】  奇縁あつて中學生の私の娘が本間長世氏の令嬢と知り合ひ、娘あての令嬢の手紙を偶々私が讀むといふ結果になつた。きれいな字で、いかにも利發な中學生らしい事が書いてあつた。同じ日に、私は週刊讀賣が連載してゐる畑正憲氏の「娘よ」と題する文章を讀んだ。「通信の秘密は、これを侵してはならない」のだから、本間氏の令嬢の文章を引く事はできないが、畑氏の駄文は利發な中學生の文章に及ばない。畑氏は書いてゐる、「結婚式までお互にキレイでゐようね、などと言つて、不思議な盛大さで浪費のパーティーを開くよりも、男の家に強引に住んでしまふ生き方の方が、どれだけ美しいか分りはしない」。紙幅の制約ゆゑに、畑氏の駄文のあら捜しはやらないが、私はこの種の物解りのよさを賣り物にする大人を蛇蝎のやうに嫌ふのである。  私は自分の娘が「結婚式までキレイで」ゐて欲しいと願つてゐる。本間氏も同じだらうと思ふ。本間氏と面識は無いが、令嬢の文章からそれは察せられる。  「平凡な事は非凡な事よりも遙かに非凡だ」とG・K・チェスタトンは言つてゐるが、本間家は平凡な家庭なのであらう。結婚式をあげる前に、娘が「男の家に強引に住んでしまふ」やうな事を決して望まない家庭なのであらう。畑氏の令嬢とも無論面識は無いが、これほど物解りのよい父親に育てられながら、令嬢がなほ「男の家に強引に住」まずにゐるのは、瓜の蔓に茄子がなつたといふ事なのか。  一方、朝日ジャーナル十月九日號の投稿欄に、大阪府の高校教員の「私が鈍歩した六〇年代」と題する文章が載つてゐる。一九六〇年、京都の大學で「安保はいかんのだといふ理論的認識で行動」した彼も、今や四十歳、仲間と「教育論をたたかはせる」事も無い。が、「先日、ソクラテスの授業で、紀元前五世紀とは日本で何時代か」と問ふと、「江戸時代」と答へた生徒がゐたといふ。だが、「六五年に、デモシカ教師になつた」といふこの「しらけ」切つた高校教員に、生徒の無知を嗤ふ資格は無い。ソクラテスは「知は果して徳なりや」といふ事を一心不亂に考へた。しかるに、「デモシカ教師」を自認するやうな手合もソクラテスを論ずるのである。笑止千萬である。  「死に近き母に添寢のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる」。齋藤茂吉の歌である。これは平凡な歌であらうか。が、週刊新潮十月八日號によれば、或る女子大生の裸モデルは、親に「叱られて、勘當されたら、親と縁を切つてしまふ」と言つたといふ。そんな事を娘が言ふのは、親がまじめに生きてゐない證拠だと、わが娘の將來に自信があつての事ではないが、私は思ふ。結婚式まで娘が「キレイ」であつて欲しいとの父親の平凡な願ひは、今や非凡な事なのであらうか。 【理に義理を立てよ】  「設使我れは道理を以て云ふに、人はひがみて僻事を云ふを、理を攻めて云ひ勝つはあしきなり」。『正法眼藏随聞記』の一節である。本欄に執筆して五年有半、私は「理を攻めて云ひ勝」たうと、躍起になり過ぎたかと思ふ。十月二十一日付サンケイ新聞に辻村明氏は、大方の新聞が載せてゐる「新聞批判」は「新聞社が許容しうる範囲のものでしかない」と書いてゐたが、道元の忠告を尻に聞かせ、見境無しに「理を攻めて云ひ勝」たうとする私は、サンケイ新聞杜の「許容しうる範囲」を殆ど氣に懸けた事が無い。それゆゑ、サンケイにはずゐぶん迷惑をかけたに相違無い。讀者は興がつてをればよいが、サンケイはさうはゆかぬ。しかるに、誰それの批判は「サンケイ新聞社が許容しうる範囲」外だと、私はつひぞ一度も言はれた事が無い。担當の野田衞氏とは口爭ひをやつた事がある。けれども逆に野田氏が私を嗾けた事もある。とまれ「知る權利、守る新聞、支へる讀者」といふのが今年の新聞週間の標語だが、讀者の「知る權利」を守るのがいかに大變か、それは「支へる讀者」には解らぬ事ではないか。それゆゑ、久し振りにサンケイを褒める事にするが、辻村氏の言ふ「新聞社による言論統制」をやらうとしないのは、サンケイの痩我慢なのである。無論、「痩我慢」とは褒め言葉であつて、吾々は聖人君子ではないのだから、「言論統制」をやつて氣に食はぬ奴の口をふさぎ、整然たる「一億一心」の國家を拵へたいとの野蛮な欲求は、誰の心中にも潜んでゐる。  ところで、園田外相に「アラファト招待を持ちかけ」た木村俊夫氏を激しく批判して村松剛氏は、「はつきりした理論を持つてやつてゐることなら、黨籍を移してほしい」と言つてゐる(週刊新潮十月二十二日號)。全く同感だが、「理論を持つてやつてゐる」政治家が今の日本にどれくらゐゐるだらうか。例へば改憲は自民黨の綱領だが、自民黨の總裁が「黨籍を移」さずして「平和憲法護持」を言ひ、世人もそれを怪しまない。「理論」だの「道理」だのに義理立てする痩我慢は、もはや當世風ではないのである。  週刊新潮は屡々さういふ當世風に反逆する。それゆゑ私は新潮を高く買ふ。十月二十二日號は「素つ裸」の池田大作氏と渡部通子議員が二人だけでゐる現場を目撃したといふ女性の證言を紹介し、「が、なぜか大新聞は一行も書かない」と書いてゐる。新聞が書かぬ事を書くのは勇氣があるからで、新潮はかつてノーベル賞の權威を疑つた事がある。が、今囘、井上靖氏のために新潮は四頁を割いた。新潮にはせいぜい痩我慢をして貰ひたい。そして理が非になりがちの當世、「我は現に道理と思へども、吾が非にこそと云ひてはやくまけてのく」、さういふ事だけは決してせぬやうに願ひたい。 【今や年貢の納め時】  週刊新潮十月二十九日號によれば、都内のホテルで開かれた外交予算説明懇談會で、自民黨の秦野章氏は、園田外相の服裝について「あれはいかんよ、成金趣味ぢやないか」と言つたといふ。なるほどポローニアスのせりふではないが「華美は禁物、たいてい着るもので人柄がわかる」のである。そして「一國の外相がその國の顔」ならば、成金國家の外相が「赤いルビーの指輪をしたり、ダイヤのネクタイピンを光らせたり、金のブレスレットをちやらちやらさせ」たりするのは一向に怪しむに足りない。ただし、奥野法相が「金のブレスレットをちやらちやらさせ」て改憲を訴へたり「人の道」を説いたりする、さういふ圖はちと想像し難いから、日本國の「關節がはづれてしまつた」譯ではあるまい。奥野發言については次囘に書くが、園田夫人の話では外相の指輪は「ルビーではなくてサンゴだ」といふ。指輪もブレスレットもネクタイピンも「みんないただき物」なのだといふ。さういふつまらぬ些事の報告に新潮は四ぺージの大半を割いてゐるのだが、「フルコースの晝食をとりながら、外務省側から來年度の予算説明などが行はれ」たといふその會合で、中尾榮一氏は「今の外交はなつてゐない。だいない、あの(外相の)マニラ發言は何だ」と言つたさうである。全く同感だが、秦野氏にせよ中尾氏にせよ、園田外交には腹を据ゑかねてゐるのであらう。外相の服裝よりもむしろその人格と識見を新潮は論ふべきではなかつたか。  一方、このところアメリカの日本に對する不滿は、「對日貿易赤字増の問題ともからんで一氣に噴出しさうな形勢」である。十一月三日の朝日新聞社説は「これからは日米交流の場に、ハト派ももつと登場」すべきであり、「米國が日本の意見の多樣性をよく認識した上で對日對策を立てる」べきだなどと、頗る悠長な事を書いてゐるが、その種の甘えはもはや許されまい。日本が今後もなほ「モラトリアム國家」として繁榮を享受できると考へるのは「あまりにも蟲がよすぎる」と、十一月一日付サンケイ新聞に北詰洋一氏が書いてゐる。その通りであつて、日本はたうとう年貢の納め時を迎へたのである。  しかるに週刊ポスト一月六日號では、野坂昭如、筑紫哲也兩氏が「世界核競爭下における日本人のあり方」とやらを論じてをり、筑紫氏は「武器を持つのは世界の常識だといふが、世界の常識が間違つてゐるのだから、それに付き合ふ必要はない」と言つてゐる。つまり軍備増強をやめようとせぬ國々は非常識だと、筑紫氏は言ひたいのであらう。が、四方八方、馬鹿に取り囲まれてゐる時は、馬鹿になるのが知惠ではないか。さもないと、いづれ四方の馬鹿の袋叩きに遭ひ、大損したのは利口馬鹿の日本だつたと、さういふ事になりかねないと思ふ。       【馬鹿騒ぎはやめよ】  榎本三惠子さんは去る四日記者會見をやつた。「女王蜂」が到着する前、「文藝春秋が(中略)湯河原でクワンヅメにして手記を書かせてゐる」との情報が流れた。  サンデー毎日十一月二十二日號によれば、それを知つて他社の記者二人はかう語つたといふ。「エーッ、『週刊文春』はあした發賣だよ」「さう、獨占手記掲載の發賣前夜祭なわけよ」「やつてらんないね、全く」。  その日の記者會見は「長島引退、百惠婚約以來のバカ騒ぎ」(週刊ポスト)だつたさうだが、それが結局文春を利するだけで、馬鹿らしくて「やつてらんない」と思つたのなら、さつさと席を蹴つたらよい。が、そんな事、今時の記者連にやれる筈は無い。  かくて彼等は女王蜂に手玉にとられ、勤め人も主婦も「大騒ぎで」、週刊文春を「買ひに走つ」たのである。  女王蜂の手記を讀んで「久しぶりに心からの感動をおぼえました。母は、強い」と、文春の村田耕二編集長は書いてゐる。これは商策ゆゑの眞つ赤な嘘であらうか。花々しき「花火」を打上げ「大變な反響を呼」んだため、「心からの感動」云々と心にもない事を書いたのか。それとも、編集長もまた女王蜂に飜弄されたのか。  いづれにせよ、今囘の「バカ騒ぎ」くらゐ、日本人の道義心の麻痺を如實に示す例は少ないと思ふ。  文春に「抜かれた」悔しさゆゑか、他の週刊誌は女王蜂のいかがはしい過去をしきりに洗ひ立ててゐる。例へば週刊朝日十一月十三日號によれば、榎本敏夫氏は三惠子さんと別れて後も、子供の「授業參觀、運動會などに必ず姿をみせ」たが、女王蜂のはうは日頃「おばあちやんに子どもを預けて外に出囘つてゐた」といふ。だが、さういふ瑣末な證言を集めるまでもない。矛盾だらけの「手記」を通讀すれば、女王蜂の品性の下劣は掌をさすがごとし、とてもとても「母は、強い」などと評せるやうな代物ではないと知れるのである。  けれども、ここで女王蜂の手記の矛盾を論ふ事はすまい。私はむしろ「奥野なんていふ法務大臣は最低だよ。ルール・オブ・ローを無視してゐる。こんな法務大臣は、實にけしからん」などといふ放言の愚かしさ(藤原弘達氏、週刊現代十一月十九日號)に呆れてゐる。しかるに、藤原氏の愚味や女王蜂の品性のいかがはしさについて、讀者を納得させるだけの紙數は無い。  それゆゑ、今囘は理由をあげずして批判するしかないが、吾々は日本人なのである。日本人としての「人の道」を重んじなければならぬのである。奥野法相は「人の道」を説いて顰蹙を買つたが、まこと奇怪千萬であり、檢事も人間なのだから「人の道」にはづれる事はある。  それを法務大臣が批判して何が惡いか。言ふだけ無駄と承知してゐるが、奥野法相は留任すべきである。 【投書作戰に屈するな】  前囘、榎本三惠子さんの「品性の下劣は掌をさすがごとし」と書いたところ、數名の讀者から抗議の手紙を貰つた。その類の手紙を私は通常默殺する事にしてゐるが、尼崎市の某氏からのそれには、松原は「田中角榮や小佐野から(中略)金を貰つてゐるのぢやないか」とか、「角榮や小佐野の肩をもつ」のは「下劣です。早大教授などと大きな顔をするた」とあつた。これは少々窘めておかうと思ふ。私は田中、小佐野兩氏と面識が無い。そして、一面識も無い男に金をくれてやるといふ、そんな無駄をする人物が資産家になんぞなれる譯が無い。從つて、私は田中、小佐野兩氏から金を貰つた事は無い。私はただ、田中角榮氏の有罪が決定した譯でもないのに、世人が田中氏を指彈して興ずるのを苦々しく思つてゐる。法治國にあるまじき事と考へるからである。紙幅の制約あつて詳しい説明はできないから、尼崎の某氏には拙著『知的怠惰の時代』(PHP研究所)を讀んで貰ひたい。私が「灰色高官」に金を貰つて理を曲げるやうな男かどうか、拙著を讀んで判斷して貰ひたい。そして「早大教授などと大きな顔をするな」などと書く非禮を恥ぢ、それこそまさにおのが「品性下劣」の證であると知つて貰ひたい。  ところで、週刊新潮十一月二十六日號は、創價「學會の“無言の力”の前に新聞は屈してゐる」が、それは「學會五百萬世帯の見えざる不買運動の恐怖におびえ」てゐるからではないかと書いてゐる。山崎正友元顧問辯語士の話では、學會を「批判するヤツ」に對しては、「その人個人の私行上のことなど徹底的に調べ(中略)學會にタテ突くやうなマスコミには(中略)猛烈な投書作戰を展開する」といふ。それも「ミカン箱に二、三箱分は送る」さうであり、本當の事なら卑劣極まる。いかに非禮ではあつても、個人の抗議なら默殺する事ができる。が、集團による「投書作戰」には誰しも音をあげよう。それにまた、唯々諾々と組織に從ふ白痴的忠節は不氣味である。週刊文春十二月三日號の卷頭には大石寺正本堂に「鎮座する“裸の池田大作”像」のカラー写眞が載つてゐる。「何ともはや氣色が惡い」と書けば、サンケイ新聞社に「ミカン箱に二、三箱分」の抗議の投書が配達される事になるのか。  けれども、創價學會に對する新聞の弱腰も頗る奇怪である。かつて週刊朝日は「わざわざ中南米まで出張」して池田氏とのインタビューをやつたが、「お粗末きはまる」内容であつたし、サンデー毎日が五囘にわたつて載せた秋谷榮之助會長とのインタビューも「フンパンもの」で、さういふ迎合的な記事を書くから、學會との「癒着」を疑はれるのである。「“ハチの三惠子”には熱狂する新聞」が、なぜ「池田スキャンダル」裁判には沈默するのか。新潮の言ふやうに、沈默は「癒着」の證なのであらうか。 【賄賂の横行について】  藝大教授の海野義雄氏が収賄容疑で逮捕された。週刊現代一月二日號によれば、十二月九日午後五時すぎ、藝大の對策委員會が終了した際、「明りが消され(中略)數人の教官が走り出た」が、忽ち「ライトをつけろッ、すみずみまで調べろッ」との「テレビ局員の怒號が亂れ飛」んだといふ。わが敬愛する申相楚氏の口癖を眞似て言へば、「馬鹿みたいな奴らだな」といふ事になる。現代は藝大の教官の振舞について「隠れ家に踏み込まれたコソ泥みたいで、藝術家の誇りも、權威もあつたものではない(中略)情けない風景」だつたと書いてゐるのだが、付和雷同するのが凡人の常だから、その場に居合せた週刊誌お抱へのトップ屋も、きつと怒號を發したであらう。では、現代に借問する、「教官が走り出た」のは「情けない風景」で、「怒號が亂れ飛ぶ」のは頬笑ましい風景なのか。現代によれば「音樂人のすぐれてゐるのは金錢感覺と男女のことだけ、あとは何も知らない音バカ」、いはば「ハンパ者の集團」だと、「ある音樂關係者」は「解説してくれた」さうだが、それは俗惡週刊誌の事ではないか。「色の道だけに長けてゐて、そのくせ(中略)初歩的モラル感覺はしびれつ放し」とは週刊現代の事ではないのか。同日號の現代は「助平でなけりや男ぢやないよ」と題する記事を載せ、「藝は身を助く−それ以前に、噺家にとつては、女は藝を助く、といふべきだらう」と書いてゐる。「一九八二年女性たちのSEX行動」とやらを「フロンティア精神」などと呼ぶおのが「品性下劣」は棚上げして、音樂家の「モラル感覺」を居丈高に問ふ、何ともはや片腹痛い。  だが、さういふ笑止千萬は、無論、週刊現代に限つた事ではない。女の裸で稼ぐ週刊ポストも、「SEXがらみの子弟關係も噂されたり−學問、藝術の權力化は“自殺行爲”だ」と書いてゐる。ポストに借問する。週刊誌や新聞の「權力化」はどうなのか。おのれを棚上げして政治家や音樂家の収賄や「黒い商法」を批判するのは「權力」あればこそだが、さういふ權力を週刊ポストは、いつ、誰から授けられたのか。ポストはたいそう賣れてゐるといふ。だが、賣れてゐるのは衆愚に受けるからで、そんな事、自慢になぞなりはしない。  その證拠に山本夏彦氏の著書は斷じて數十萬部も賣れはしない。他人の惡徳を指彈しておのれがそれだけ有徳になれる筈は無いのだが、嫉妬を義憤と思ひ做す淺薄な手合には、さういふ事が決して解らぬ。しかるに山本氏は「公然たる賄賂の横行を、私は難じない。むしろ、これを大聲で難じる人を見るといやな氣がする」と書いた(『編集兼發行人』、ダイヤモンド社)。誰それは田中角榮氏から賄賂を貰つたに違ひ無いといきり立つ淺はかな手合に、喜ばれる筈が無いではないか。 【今なぜ田中角榮か】  週刊朝日一月十五日號によれば、東京・目白臺の田中邸には年賀状が七千枚も配達され、「初詣で」客は四百人にも達し、「元首相はオールドパーの水割を片手に、あちこち行つたりきたりで席の温まるひまもなし」「まはりをハラハラさせ」るほどの「ハシヤギぶりだつた」といふ。刑事被告人がさまで持て榮やされるとは遺憾千萬だと、朝日は書いてゐる譯ではない。「この日、目白御殿への詣で人約四百人。報道野次馬二十數人。おつかれさまでした」といつたふうに書いてゐるに過ぎない。だが、この自嘲氣味の「客觀的報道」の動機を私は怪しむのである。かつて田中角榮氏が首相になつた時、新聞や週刊誌は田中氏を「今太閤」だの「コンピューター付ブルドーザー」だのと持上げたが、やがて田中氏が逮捕されるや、その道義的責任とやらを論ひ、心行くばかり筆誅を加へたのである。そして今、週刊朝日は「水割片手にはしやぐ“闇將軍”」を難詰せず、當て付けがましい事さへ言はうとしない。これは一體どうした事か。  朝日だけではない。週刊讀賣新年特大號は「ヒカゲの身だけど田中なら(北方領土問題の解決を)案外やつてのけられるかもしれない」との木村汎教授の意見を引き、「萬一、田中元總理の個人的手腕で北方四島返還でもならうものなら、“國民的英雄”になつてしまふ。その時いつたい誰が田中元總理を裁けるだらうか」と書いてゐるし、週刊ポスト迎春特大號も田中氏と「氣鋭の政治學者・小室直樹氏」との對談を載せ、「行政改革、日米問題、貿易摩擦問題と、“日本丸”の前途は多難である。(中略)自民黨最大の百八人を率ゐる派閥の領袖は、正念場に立たされたいま何を考へてゐるのか」と書いてゐる。讀賣の言分の浮薄、及び小室直樹氏の思考の粗雜について云々する紙數は無いが、朝日も讀賣もポストも、「ヒカゲの身だけど」年賀状が七千枚も配達され、「初詣で」の客は四百人にも達する「自民黨最大の派閥の領袖」を、なにせ「“日本丸”の前途は多難」なのだから、この際「國民的英雄」として祭上げたはうがよいと、さう考へてゐるのであらうか。 さらにまた、週刊現代一月十六日號も、小佐野賢治氏について「腹心、實弟の相つぐ死。そして本人にはまさかと思はれた實刑判決。(中略)トリプル・パンチをくらつた巨人が、しかし、再び立ち上がる」と書いてゐるのである。大方の週刊誌と異り、私はこれまで田中、小佐野兩氏を批判した事が無い。それどころか田中氏を辯語して顰蹙を買つた事さへある。その私が今、週刊誌の田中氏に對する好意的た扱ひに呆氣にとられてゐる。これはたわいもない一時の氣紛れなのか。それとも何ぞ下心あつての事なのか。 【人、木石ならず】  昨年十月、週刊文春は「二十歳前後かと見えるウラ若き女性が、あられもないポーズで艶然とホホ笑む全裸ヌード写眞」を載せた事がある。撮影したのは入江相政侍從長の長男爲年氏、撮影されたのは「かつて爲年氏の愛人であり、一児までまうけた間柄」の岸優子(假名)であり、それを知つて優子さんの夫は「私は優子と結婚し、入江さんが認知した子供も今度自分の籍に入れて、後始末のサウヂ屋を自任しとるんですが、かうなると・・・」と言つて絶句したといふ。文春は入江爲年氏の行爲について「非紳士的の一語に尽きる。男の風上にも置けぬとの噂も・・・」と書いたのだが、文春の記事を讀んで私が考へたのは、入江氏を批判する資格が果して文春にあるかといふ事であつた。問題の写眞は或る男が文春編集部に持込んだものだが、「入江侍從長の長男のスキャンダル、これは面白い」とて飛びついた文春は、それを記事にする事の非人間性に氣づかなかつた。優子さんには夫があり子供があり、子供は「現在高校生」だといふ。高校生の子供が文春に載つた母親の全裸写眞を見たら、どう思ふか。「後始末のサウヂ屋を自任」する夫は絶句したが、子供の場合、絶句するぐらゐの事では濟むまい。母親の裸體写眞を見たがる子供なんぞ斷じてゐないのである。  私は入江爲年氏を辯語してゐるのではない。有名人の長男のスキャンダルをあばく際、匿名にもせよ罪科も無い者を卷き添へにする、その非情を氣にするだけの人間らしさが文春に欠けてゐる事を問題にしてゐるのである。文春に限らず、そもそも有名人を道義的に批判する資格を、マスコミはいつ誰から授けられたのか。「眞に道徳的なのは自己批判である」とトマス・マンは言つた。だが、他人の惡行を難じて「社會の木鐸」を氣取るマスコミは、決して眞摯な自己批判をやらぬ。そしておのが心中を覗く事が無いから、非人間的に振舞つて遂にそれを自覺しない。「人、木石ならず」といふ事を理解しない。  けれども、さうして非人間的に振舞ふジャーナリストが、或る種の人間に易々と乘せられてしまふのは興味深い。先に文春は榎本三惠子さんを大いに持上げたが、彼女は急速に馬脚を露したし、今週號は「越山會の女王」佐藤昭子女史の令嬢とのインタビューを載せてゐるが、令嬢がインタビューに應じた動機のうさん臭さに文春は勘づいてゐない。「敦子さんは、ときに怒り、素直に笑ひ、あるいは眼に涙をたたへ、つとめて正直に」などといふ文章を讀まされると、さう斷ぜざるをえたくなる。が、週刊宝石一月三十日號によれば、「實は彼女自身が(文春に)タレコンだ。」との證言もあるといふ。なるほど敦子さんとのインタビューを讀めば、支離滅裂な言分の裏に打算が透けて見える。それが見えぬほど文春は無邪氣なのか。 【後の世をこそ恐るべし】  野坂昭如氏は愛矯のある文士である。羞恥心が有るやうにも無いやうにも見え、頭が良いやうにも惡いやうにも見える。八方破れではあるが、邪氣はまるで無い。それゆゑ、だだつ子のやうに憎めない。週刊ポストニ月五日號によれば、このたび野坂氏は「“軍擴元年”に宣戰布告」したさうで、「幻の“大東亞共榮圈構想”を斬」り、「日本の場合には、何も守るべきものがないから困つちやふ」と、ポストの記者に言つたといふ。だが、野坂氏はまた、守るべきは「ぼくたちの生命、財産、四季の移り變はり、あるいは、好きな人間とか友だち」など「個人レベルのもの」であり、さういふものを守るためなら「GNP一%にこだはらず、三・五%だらうが十%だらうが、支出して當然だ」だとも言つてゐるのである。週刊ポストの頭の惡さと野坂氏のそれとが二重写しになつてゐて、野坂氏の言分は不得要領だが、いづれ「個人レベルのもの」が危ふくなれば、野坂氏は「われ愛する人のために戰はん」とて、「二十%だらうが三十%だらうが、支出して當然だ」と主張するやうになるに違ひ無い。  それゆゑ、かういふ陽性の文士ははふつておけばよい。厄介なのは陰性の偽善的文士である。週刊文春二月四日號によれば、中央公論社の安原顕氏が大江健三郎氏の「作品をケナした」ところ、大江氏は「怒つて嶋中社長に電話をかけ」、「もう中公の仕事はしない」と言つたといふ。柳田邦夫氏は大江氏について「心のトゲだとか“内たるオキナハ”だとか、よく言ふよと私は心の中で舌打ちする」と『現代の眼』一月號に書いた。同感である。「内なるオキナハ」だの「内たる金大中」だのと、反吐の出さうになる美辭麗句を、これまで大江氏はしこたま連ねて來たが、大江氏の言行不一致については私も色々と聞いてゐる。大江氏に警告する、昔と異り今は記録の殘りやすい時代なのである。テープ・レコーダーがあり、電話盗聽器もある。深夜、一人きりになつて胸に聞け、などと古めかしい忠告はせぬが、編集者の誰かが大江氏の言行不一致を苦々しく思ひ、それを日記に書き殘してゐるかも知れぬ。後世に殘るのは大江氏の作品だけではないのである。  だが、當節の文士は刹那的で、後の世の事なんぞ考へぬ。先日の文學者による「反核アピール」を讀んで私は呆れた。あの偽善は許せぬとか、反米運動に利用されるとかいふ大形な批判には及ばない。あの文章は惡文である。では、惡文と知りつつ三百三人は署名したのか。さうではない。「モラトリアム國家」の文士もまた「後世、恐るべし」といふ事を考へないのである。だが、惡文のアピールに同意したといふ事實は殘る。一月二十八日付の『世界日報』は三百三人の氏名を公表した。それを國會圖書館は保存するのである。 【誰一人反省しない】  ホテル・ニュージャパンが燃え、日航機が墜落し、新聞も週刊誌も色めいた。ちと騒ぎ過ぎであり、もつと重大な問題があるではないかと評する向きもあるやうだが、F4ファントムの爆撃裝置改修問題をめぐる代議士諸公のやりとりなんぞ所詮猿芝居だから、世人はやはりホテルの社長横井英樹氏や片桐機長の異樣な言動のはうに關心を寄せたに相違無い。それゆゑ週刊誌が熱心に二つの事件について報じたのは無理ならぬ事である。だが、グラビアも記事も似たり寄つたりで、まともに論評する氣にはとてもなれない。週刊現代二月二十八日號は、ホテルに泊る際の心得として、懐中電灯を持ち歩けとの池田彌三郎氏及び三浦布美子さんの忠告を紹介してゐるが、現代の記事を讀んで、懐中電灯持參でホテルに泊るやうになる者はまづゐまい。「俺に限つて大丈夫だ」と人は皆思ふものなのだ。 とまれ、何か大事件が起ると週刊誌は識者の意見を徴するが、あまりにも愚劣な意見は思ひ切りよく捨ててはどうか。例へば東外大教授の安倍北夫氏は、エレベーターを利用せず「日ごろ、自分の足で登つてゐれば、少なくとも高いところから飛び降りる自殺行爲はやれなくなる」と週刊現代の記者に語つてゐる。ふざけるな、と言ひたい。煙と炎に追ひ詰められ、どう仕樣も無いから飛び降りるのである。安倍氏は杜會心理學が專門らしいが、自他の心理が理解できずとも心理學の專門家として通用するとは奇怪千萬である。それに、避けやうのない不運といふものは確かにある。それを誰しも承知してゐるから、たとへ「懐中電灯を持ち歩」かうと決心したところで、その決心は三日と持たない。この種の事故が起ると、マスコミは必ず「人災」として責任を追及するが、それもやはり三週間とは持たない。それゆゑ、マスコミに吊上げられたら、「當分の間、恭順の意を示す」に如くはない。  週刊文春二月十八日號に、東京藝大の野田暉氏は手記を寄せ、「藝大は新聞に魂を賣つた」とて、おのが屬する學部教授會についての不滿をぶちまけてゐる。野田氏によれば、藝大教授の大半は「新聞がこれだけ騒ぎ、藝大に火の粉がふりかかつてゐる以上、ともかく自分の頭を叩いてみせて謝る以外にない」と考へ、「當分の間、學外の個人レッスンを中止する」事にしたのださうである。賢明なる判斷である。人の噂も七十五日、「當分の間」とは要するに七十五日間といふ事であらう。つまり、藝大の教官たちも「學外の個人レッスンを中止する」事は問題だと知りながら、マスコミが叩くから「當分の間」謹慎しようと考へてゐるに過ぎず、「社會の木鐸」が本氣でない事は承知の上なのである。とすれば、マスコミがいかほど指彈しようと、誰も本氣で反省しない、さういふ事にならないか。 【何のための記事か】  週刊誌を讀んでゐて、これは一體何のための記事かと首を捻る事がある。例へば週刊文春二月十八日號は、黒川紀章氏と若尾文子とは、不倫などといふ「ジメジメした言葉がカホを赤らめるくらゐ大つぴらにやつてくれてゐる」けれども、黒川氏が設計したショッピング・センターは頗る不評だと書いた。  「なにせ世界的才能と天下の美女だから目立つて仕方ないのだが、本人たちは臆する風もない。ま、結構なことではあるが」云々と書いてゐるのだから、文春は二人の不倫を咎めてゐるのではない。また、黒川氏の設計のずさんに立腹してゐる譯でもない。これを要するに、愚にもつかない噂話であつて、何のための記事やら、さつぱり解らぬのである。 一方、音樂評論家の吉田秀和氏は「熱心な相撲ファン」だが、「北の湖が二十三囘目の優勝をとげた初場所から(中略)テレビによる觀戰もやめてしまつた」といふ。そして吉田氏は週刊朝日二月五日號に「愛すればこそ、私は相撲と訣別した」と題する文章を寄せ、自分が相撲と訣別したのは、角界に横行する八百長について週刊ポストが「延々何十週間にわたり、告發を續け警鐘を鳴らしてきたのに、相撲界はただ沈默」を守るばかりだからだと書いた。  だが、吉田氏の文章を讀んで、私はどうにも腑に落ちなかつた。「私個人は、もう、かつての狂熱には戻れまい。私は傷つきすぎた。さよなら、相撲よ。私は君が大好きだつた。さよなら、わが痴愚の日々よ」と吉田氏は書いてゐるのだが、大相撲の八百長はいまだ立證されてはゐないのであり、それなら、疑はしいといふ程度で「傷つきすぎ」、易々と「さよなら」できるのなら、吉田氏の「相撲への愛着」の強さを私は疑はざるをえない。  土臺、「愛すればこそ訣別する」などとは嘘である。そして誰かを眞實愛して、やがて「バカにされ、コケにされてゐる自分に氣がつくやうに」なつたとしても、「さらば、わが痴愚の日々よ」とて愛想尽かしの文章を綴るのは愚かしい事だと思ふ。  要するに、吉田氏が週刊朝日に文章を寄せた動機を私は怪しむのだが、三月五日號の週刊朝日はホキ・徳田に宛てたヘンリー・ミラーのラブレターを紹介してゐる。愚にもつかぬ文面の戀文ばかりで、したたかな色事師も「老いては駑馬に劣る」といふ事であらう。だが、朝日はそれを連載するといふ。これまた一體何のためなのか。  「いまロスに在住」のホキ・徳田は「三百通もの戀文を公開」するのだといふ。男から貰つた戀文を公開するやうな女はろくでなしに決つてゐる。「賣りに出してもいいといふ許可を」ミラーが与へたとすれば、アメリカの出版社が食指を動かすやうな書簡でない事を、ミラー自身、承知してゐたからではあるまいか。 【高木は風に折らる】  「日米關係は日を追つて惡化し、日歐關係も險惡にたつて」ゐるが、日本には「自分にとつて都合の惡い情報は、存在しないことにするといふ奇妙奇天烈な心理」がある、嘆かはしい事であると、週刊現代三月二十七日號に江藤淳氏が書いてゐる。同感である。  週刊ポスト三月二十六日號が報じてゐるやうに、アメリカは今や「日本による經濟植民地主義の支配下にある」などといふ物騒な發言がアメリカの上院の公聽會でなされたといふ事實を、「日本に對する嫉妬ゆゑの理不尽な嫌がらせ」に過ぎぬとて輕視する譯にはとてもゆかない。  しかるに、週刊朝日三月十九日號は、「米國側の姿勢で一貫してゐるのは、今秋に控へた中間選擧に向けての政治家の人氣取りだ」と、頗る悠長に斷じ、「今囘の日米貿易摩擦といふものは實體がない。兩國政府とも、幽靈を相手に格鬪してゐるやうなもの」だ、との長谷川慶太郎氏の意見を引いてゐる。長谷川氏はまた、日米貿易摩擦を解消するには日本が「アメリカからアラスカ原油を買へば」よいので、それで「萬事うまくいく」と主張してゐるさうである。この長谷川氏の「アイデアには、一石二鳥どころか三鳥、四鳥ものメリットが期待できる」と週刊朝日は言ふ。それは奇怪千萬な話だと、常識のある讀者なら思ふであらう。そんな結構な解決策があるのなら、なぜ「日米兩國政府」が「幽靈を相手に格鬪」してゐるのか。  私も常識家のつもりだから、眉に唾を塗りながら朝日の記事を讀み進んだ。すると果せるかな、アメリカがアラスカ原油の對日輸出を解禁できぬ理由が書いてあつた。それどころか、「日本の石油業界にとつてアラスカ原油」が「魅力に乏しい」理由まではつきり書いてあつた。私は唖然とした。日米双方にもつともな理由があるのなら、「アラスカ原油を買へば萬事うまくいく」との長谷川氏の御託宣はまさしく机上の空論といふ事になる。 週刊現代三月二十七日號によれば、過日「東京にサケを呼ぶ會」は三十萬匹の鮭の稚魚を多摩川に放流したが、「多摩川は、汚れはもちろん、水量不足も深刻。假に魚道を整備しても(中略)サケは堰を越えられず全滅する」といふ。成長して「母なる多摩川に歸つてくる」鮭の事は考へず、專ら「多摩川をきれいにするためのキャンペーン」として放流したとすれば、「この自然復活運動、どこかにエラク不健全な精神がうかがへる」と現代は書いてゐる。同感である。だが「東京にサケを呼ぶ會」の無責任は、たかだか鮭にとつての「殘酷物語」を招來するに過ぎぬ。  しかるに、貿易摩擦についての無責任な發言は、日本國民にとつての「殘酷物語」を招來しかねない。「黄禍論」の理不尽を言ふ前に、週刊誌はさういふ事をちと考へてはどうか。「高木は風に折らる」といふ。その理不尽を云々しても始まるまい。 【新潮よ、天邪鬼たれ】  週刊新潮の表紙が變つて、毎囘田中正秋氏の繪が表紙を飾る事になつた。繪心の無い私には田中氏の腕前を論評する資格は無いが、田中氏を選んだ新潮は賢明だつたと思ふ。周知のごとく、新潮の表紙は久しく故谷内六郎氏の童畫であつたから、週刊新潮と聞けば誰しも谷内氏の繪を思ひ浮かべるやうになつてゐた筈である。それゆゑ新潮としても、谷内氏に死なれたからとて若い女の顔写眞でお茶を濁すわけにはゆかない。何としても新潮らしい繪でなければならない。それはつまり、久しく表紙を飾つた谷内氏の繪と調和するやうな繪でなければならぬ、といふ事である。無論、二人の畫家の畫法は異るが、曰く言ひ難き類似を感じ取る事ができる。傳統や慣習を重んじるのはよい事である。それゆゑ新潮の見識を私は高く評價する。  けれども、傳統を重んじるのはよい事だが、因習に囚はれるのは好ましい事ではない。長所は短所といふ事がある。例へば新潮の場合、表紙は谷内六郎氏にしか頼らなかつた。が、漫畫も横山泰三氏にだけ頼つて、あの下手糞で愚劣淺薄この上無しの漫畫の連載を一向に止める氣配が無い。その義理づくは新潮の短所である。いかなる義理合ひあつてかおほよそ見當はつくが、讀者を舐めるのもいい加減にして貰ひたい。  ところで、新潮四月一日號は、協榮ジムの金平正紀前會長が「限りなく黒に近い灰色」だとて「永久追放處分」にされた事件について「西部劇の民衆裁判ぢやあ、かたひませんよ。(中略)日航(機墜落)事故だつてものすごい調査をしてゐる」との安倍辯語士の言葉を引き、「なるほど、日航機墜落事故と比べるあたり、安倍辯語士の面目躍如といふか“三百代言”といふか」と書一いてゐる。新潮によれば、安倍辯語士は「恐喝罪に問はれ、一審では有罪判決」を受けたといふ。また、日本ボクシング・コミッションの川本信正氏は「純粋なスポーツの世界では疑はしきは罰する」と言ひ、罰せられた金平氏は「なんら異議を唱へることもなく全面降伏してゐる」といふ。  さういふ場合、「疑はしきは罰」したコミッションの處置を是認するのは、どんな馬鹿にもやれる事である。「全面降伏」した金平氏の顔写眞を眺めてゐるうちに、阿呆でも金平氏の非を鳴らしたくたる。が、「恐喝罪に問はれ」てゐる安倍氏の、これは「西部劇の民衆裁判」だといふ抗議を肯定する事は、馬鹿には決してやれぬ事である。馬鹿にはやれぬ事をやる、それが天邪鬼たる新潮の眞骨頂ではなかつたか。  文學者の「反核聲明」の愚劣を新潮が嗤はないのは臺所の事情ゆゑであらう。が、愚劣を嗤へぬ事を無念に思はぬのなら、新潮は正眞正銘の腑抜けになつてしまつたのである。週刊新潮が新潮社の中の「治外法權」である事を、私は切に望む。 【許し合ひ天國、日本】  「教壇に立つ教師めがけてハサミが飛ぶ。たばこを吸ふのは日常茶飯事。金の貸し借りには二十倍から七倍もの利子がつく」、それが京都府長岡京市の「小學校の生徒の實態」だと、共産黨員の教師が日教組の教研集會で報告した。けれども「今や父兄の間では(中略)反發が高まる一方」だと、週刊新潮四月八日號は書いてゐる。「報告の内容が捏造されたものだつた」からだが、その点を追及されて森眞人教諭は「ニタニタした笑ひを浮かべながら」謝つたといふ。新潮の言ふとほり、さういふ性惡な教師の首も切れぬとはまことに解せぬ話だが、許し合ひ天國日本では、それも致し方の無い事なのである。  なにせ内閣總理大臣にしてからが、ワシントンでは、「自分の國は自分で守つてゆくといふ氣概が重要」とて胸を張つたものの、先般、國會で答弁した際は、すつかり腰砕けのていであつた。アメリカ側は憮然としたらうが、この日本國ではさういふぬらりくらりが功を奏するのである。けれども、イギリスのサッチャー首相は鈴木首相との會見に十五分しか割かなかつたといふ。通譯が喋つた時間を差し引き、また二人の首相が等分に喋つたと假定すると一人三分四十五秒である。サッチャー女史に鈴木氏は一體全體何を語つたのであらうか。  とまれ、この許し合ひ天國では、どんなでたらめを口走つても滅多に咎められる事が無い。例へば週刊現代四月十七日號は、「六月八日のロッキード裁判全日空ルート判決がクロと出れば、その關連で二階堂幹事長の“灰色”も“黒”となる」と書いてゐる。現代に借問する。二階堂氏の「灰色」が「黒」になるためには、二階堂氏を被告とする裁判が開かれてをらねばならぬ。それは今、どこで開かれてゐるのか。現代は私の問ひに到底答へられまい。それなら、二階堂氏に謝罪しろとは言はぬ、現代はおのが愚鈍を大いに恥ぢるがよい。「腐敗と不祥事の巣窟と化して久しい」國労、動労さへ、「惡慣行返上の具體的方針」とやらを發表したではないか。  だが、國鐵のストは「惡慣行」ではない。それはれつきとした「犯罪」なのだと、週刊新潮四月十五日號にヤン・デンマン氏は書いてゐる。その通り、國鐵のストは「違法スト」なのだ。が、十五、十六の兩日、人を殺すと予告した手合を、驚くべし、世人は許すのである。殺さなかつたのはよかつたと胸を撫でおろすのである。けれども、國労、動労だけを咎められぬ。上智大學教授内村剛介氏は「文學者の反核聲明」に署名しておきながら、『週刊讀書人』二月十五日號に「いいかげんな文章にサインする文學者つてのは、そりやもう“口舌だけの徒”」だと書いた。そしてこの恐るべきでたらめを、誰も咎めなかつた。やはり日本國は許し合ひの天國なのである。 【保守は保守を斬れ】  『月曜評論』四月十九日號に「ぱるちざん」なる匿名の文筆業者が、「文筆業者と政治」と題し、繼ぎ接ぎだらけの奇怪な文章を綴つてゐる。「ぱるちざん」氏の文章の大半は福田恆存氏や井上靖氏やジョージ・オーウェルの意見の引用で、人の褌で相撲を取るのは程々にせよと言ひたくなる程であり、しかも、他人の意見におのが意見を繼ぎ合せる際の「ぱるちざん」氏の技術がまた、頗る拙いのである。それはともかく、「ぱるちざん」氏は「反核アピール」のみならず「安保改定百人委」の聲明をも批判し、「安保改定の呼びかけとて同じ事だ。改憲すべきだと内心思ひつつも、内外の情勢を氣にして、それを言ひ出せぬ文筆業者は、右顧左眄するが故に自由ではない」と書いてゐる。「安保改定百人委」の諸氏の中に「改憲すべきだと内心思ひつつも」それを言ひ出せずして「右顧左眄」してゐるやうな腰抜けは一人もゐない筈である。「ぱるちざん」氏は保守派なのだらうが、保守が保守を斬るのは、保守が革新を斬る以上の難事なのである。「ぱるちざん」氏及び『月曜評論』に猛省を促す。  だが、「ぱるちざん」氏や『月曜評論』の事だけは言へぬ。私は昨年六月、「鈴木首相は憲政史上最低の總理大臣だ」と本欄に書いたが、週刊現代五月一日號は「善幸首相はウンつき村の村長だ」と書いてをり、私は今囘ほど週刊現代に共感した事は無い。現代によれば自民黨の大塚雄司氏は「總理を替へなけりやいけない」と言ひ、龜井靜香氏は「もつとも質の惡い總理」だと言ひ、共産黨の東中光雄氏は「二枚舌」の常習犯だと評したといふ。全く同感である。昨年五月、鈴木首相はワシントンのナショナル・プレス・クラブで「日本の周邊海域を日本が守るのは當然であり」云々と胸を張つて言ひ切つた。私はさう言ひ切つた首相の表情をテレビで觀て、それを今もつて忘られずにゐる。NHKでも民放テレビでもよい、自分が何を喋つてゐるか、それすらも解らずにゐたあの時の鈴木氏の愚かしい表情を、もう一度放映しては貰へまいか。  しかるに週刊現代によれば、鈴木首相は「隔週週休二日制」を守り「毎週水曜か木曜の朝、自宅で主治醫の定期檢診を受けて」をり、「夜はぐつすり眠れるし、すこぶるつきの元氣さだ」といふ。一方、週刊新潮四月二十九日號によれば「あるテレビ番組で渡部昇一といふ大學教授」はフランスの大統領補佐官に、「日本のインテリの輕薄さを見せつけられる」やうな愚かな意見を述べ、補佐官を怒らせたといふ。自民黨の代議士諸公に訴へる。一刻も早く鈴木善幸氏を成敗して貰ひたい。渡部昇一氏のはうはいづれ私が成敗する。もはや「保守同士の内ゲバ」は敵を利するなどと言つてをられる時ではないからである。 【三笠宮寛仁殿下へ】  自ら「陣笠皇族」と稱し、「ラジオのディスクジョッキーで縦横無尽に語られたり、とにかくユニークな三笠宮寛仁親王殿下」が、このたび宮内庁に對し「皇籍を離脱したい」との申出をなされ、「トレードマークのヒゲまで落された殿下の前例のないお申し出に、宮内庁側はご眞意を測りかねながらも、飜意の説得に懸命」ださうである。けれども、好奇心旺盛なる週刊誌が「ご眞意を測りかね」て困惑する筈が無い。そこで例へば週刊現代も、「話題のこの人たちのそこが知りたい」とて、「寛仁殿下“皇籍離脱”發言の不可解部分」を究明せんと思ひ立つた。  現代五月十五日號によれば、四月中旬、寛仁殿下は宮内庁長官に「國民と皇室を結ぶ一助として身障者などの行事に參畫し活動して來たが、忙しすぎて宮中行事にも欠席」する有樣、「この際皇籍を離れて活動に專念したい」と仰有つたといふ。殿下の言分は矛盾してゐる。「皇籍を離れて活動に專念」する事は、「國民と皇室を結ぶ一助」にはならぬのである。また、週刊ポスト五月十四日號によれば、殿下はかつて「俺は好んで皇族になつたのではない」と放言なさつたさうだが、さういふ餘りにも當り前の事は仰有るべきではない。吾々は皆、「好んで日本人になつたのではない」のである。  殿下は「皇位繼承順位で七番目」にあたらせられる。それゆゑ先刻御承知であらうが、天皇は國事行爲について責任を問はれず、また天皇には選擧權も被選擧權も無い。天皇に選擧權被選擧權が無いのは、天皇が政治的に中立でなければならぬからであり、もとより「象徴としての地位に反しない限り、天皇にも學問の自由、信教の自由、財産の保障等が認められるものと解する」事はできようが、政治的信念を表明する自由だけは無いのである。  學習院大學の飯坂良明教授は「三笠さんは(中略)もつと人間らしい生活をさせてほしいと訴へられたんぢやないか(中略)思ひどほりにしてあげたつてよい」と語つてゐる(週刊ポスト)。殿下はかういふ愚かな大學教授の甘い言葉に惑はされぬやうに願ひたい。  なにせ殿下は第七番目の皇位繼承者である。それゆゑ私は今囘極力抑制して書いてゐる。殿下が萬一平民におなりになつたら、私は勿論抑制せずして手嚴しく批判する。が、抑制せずに批判する事は果してよい事か。殿下は週刊文春をお讀みになつたであらう。浮薄な週刊誌に「“普通の女の子に戻りたい”といつたキャンディーズもびつくり」だの、「殿下の藝者の扱ひときたら抜群で、モテることモテること」だのと書かれる事が、殿下御自身の、いや吾が日本國のためになるかどうか、それをこの際とくとお考へ頂きたい。 【英國に學ぶは難し】  NHKは「フォークランド事件」については「手を抜いてゐる」が、「あんなくだらない戰爭のニュースは(中略)日本のマスコミ界において默殺していいとさへ思ふ」と、サンデー毎日五月三十日號に松岡英夫氏が書いてゐる。それかあらぬか、煽情的週刊誌がフォークランド紛爭について書き立てぬ事を私は怪しむ。察するにイギリスは「鐵血の女宰相」(週刊朝日)にひきゐられてをり、一方、アルゼンチンの大統領も軍人だから、どちらか一方を惡玉に仕立てる譯にもゆかず、週刊誌は當惑してゐるのであらう。  松岡氏は「私どもに何の關係もないフォークランド事件を(中略)目や耳に押しつけられる義理は全くない」と書いてゐるのだが、これまでのところ週刊誌はフォークランド紛爭を讀者の「目に押しつけ」ようとはしてゐない。「目に押しつけ」るなどといふ粗雜な言ひ方をする松岡氏の頭腦が粗雜である事は無論だが、まさか日本の週刊誌の記者のすべてが、今囘の紛爭は「私どもに何の關係もない」などと、極樂とんぼよろしく信じてゐる譯でもあるまい。私はさう思ひたい。  週刊朝日六月四日號は西川潤早大教授に意見を徴してゐる。西川氏は「名譽のために莫大な戰費をかけてゐるといふ点では、戰爭がいかにおろかかを示す見本」であり、「平和憲法を持ち、ナガサキ、ヒロシマの體驗のある日本は最適の調停國だ」といふ。  かういふ極樂とんぼが酸いも甘いも知らぬげに、いや、酸い事ばかりは知らずして、すいすいと飛びまはつてゐる樣を見るたびに、一刻も早く日本國憲法を改正せねばならぬと、私は聲高に叫びたくなる。  週刊朝日によればアルゼンチンの巡洋艦を撃沈した魚雷は一發一億二千萬圓、撃沈されたイギリスの驅逐艦は四、五百億圓、「英艦隊が一日行動するだけで十二億圓以上かかる」といふ。さういふ「莫大な戰費をかけてゐる」から愚かだと西川氏は言ひ、「英國はすでに一兆圓使つたといふが、金はどんどん消えてなくなり」云々と松岡氏も言ふ。要するに朝日にとつても、極樂とんぼたる兩氏にとつても、戰爭は金がかかるから愚かなのである。  だが、『言論人』五月二十五日號に林三郎氏は、イギリスが「算盤勘定には合はない」遠征を敢へてしたのはナショナリズムゆゑだが、「領土問題にもナショナリズムの熱情を燃え立たせることのない世界に稀な民族」、それが日本人だと書いてゐる。五月二十六日付の本紙にも氣賀健三氏が、日本の新聞の論説の「どの一つとしてイギリスの立場に賛成したものは」ないが、イギリスの「斷固たる行動」は「わが國にとつて重要な教訓となる」と書いた。  けれども、林、氣賀兩先輩よ、日本國のぐうたらは手の施し樣も無く、もはや、外圧を待つしか手は無いのではありますまいか。 【日本だけが正氣か】  反核集會とやらに集つた何十萬人もの馬鹿が、「合圖一つで、ごろりと地べたにころがつて、いつせいに死んだふり」をする、あの遊戯は「ダイ・イン」と呼ぶらしい。週刊新潮六月十日號のヤン・デンマン氏によれば、或るアメリカ人記者は「狂氣の指導者の命令一下、實に九百十四人の老若男女がいつせいに毒を仰いだ」、かの四年前のガイアナの悲劇を思ひ出すと言つて、顔をしかめたといふ。けれども、所詮はお遊びなのだから、さまで深刻に考へる事はない。  やはりヤン・デンマン氏によれば、「日本の安全保障論議はビールの泡で、ついだときだけ盛り上がる」と、スイスの記者が言つたさうだが、その通りであつて、目下流行の反核運動もいづれは必ず凋むのである。けれども、これまた、ヤン・デンマン氏によれば、六月の國連軍縮特別總會に千五百人もの馬鹿を派遣して、國連本部前の路上で「ダイ・イン」をやらうと考へた手合もゐるらしい。「馬鹿と鋏は使いやう」といふが、この種の「馬鹿に付ける藥は無い」のである。  なるほど、いかなる馬鹿にも基本的人權はある。つまりお遊びをやる權利がある。けれども何事にも程がある。フォークランドでも、レバノンでも、ホラムシャハルでも、お遊びならぬ本氣の戰鬪が行はれてゐるではないか。  もつとも「ダイ・イン」をやつて樂しんでゐる手合は、馬鹿は自分たちではなくて、本氣で殺し合ひをやつてゐる奴等だと思つてゐよう。昨年十一月六日號の週刊ポストで、朝日新聞の筑紫哲也氏は、「武器をもつのは、世界の常識だ」といふが、その世界の常識が間違つてゐるのだから「それに付き合ふことはない」と語つた。つまり、世界各國はいづれも馬鹿で日本だけが利口なのだと、愚かな筑紫氏は考へてゐる譯だ。しかも、この種の馬鹿は筑紫氏に限らぬ。「世界の軍事支出」が「OECD加盟國の發展途上國向けの政府開發援助二六〇億ドルの十九倍に達してゐる」現状は正氣の沙汰とは思はれぬと、『中央公論』六月號に永井陽之助氏も書いてゐる。正氣なのは商人國家日本だけといふこの種の愚かしい思上りは一度徹底的に批判されねばならぬ。  今囘はピース缶爆彈事件の牧田吉明氏についても語りたかつたのだが、もはや紙數が無い。ただ牧田氏の行動もまたお遊びとしか思へぬとだけ言つておかう。言論人もテロリストも、この國では遊ぶのである。  六月四日付の讀賣新聞に菅直人氏が書いてゐた事だが、「人間だけでなく犬猫だつて核戰爭で死ぬのはいやなはずと、犬猫反核手形署名を始めたグループ」があるといふ。菅氏は「うまい方法だと感心してゐる」のだが、犬猫が核戰爭で死にたくないのなら、牛も馬もげじげじも松食蟲も死にたくないであらう。げじげじや松食蟲はよいとして、牛、馬、そしてどぶ鼠の「手形署名」がなぜ不必要なのか。 【筆は一本、箸二本】  「田中もムダな抵抗を早くやめたがよい。(中略)結論はもうわかつたやうなものであるから、早く一審の裁きに服して、二審に向かつて準備を進めるがよい」。これはサンデー毎日六月二十七日號の、松岡英夫氏の文章なのだが、田中角榮氏の有罪確定を待ち兼ねてゐる讀者は、どんな馬鹿にも持てる類の正義感に盲ひ、この文章の欠陥には決して氣づかないであらう。  だが、「一審の裁き」の結果がまだ解らぬうちに、それは「もうわかつたやうなもの」だと被告人が觀念し、果して「二審に向かつて準備を進める」氣になれようか。いづれ必ず松岡氏は死ぬ。その「結論はもうわかつたやうなもの」である。では松岡氏は、その冷嚴なる事實を認め、臨終に「向かつて準備を進める」であらうか。  今は素人全盛の時代である。週刊朝日六月二十五日號によれば、いまやアイドル歌手を「歌唱力で判斷するのは、政治家を清廉潔白度で判斷するやうなもの」だといふ。松岡氏は嫉妬と義憤とを取り違へ、あとは少し文章の工夫を凝らすだけで物書きが勤まると思つてゐる。が、「政治家を清廉潔白度で判斷する」愚かな手合は、松岡氏の「歌唱力」を決して怪しまない。  糸川英夫氏も週刊讀賣に駄文を寄せること二十五囘、誰もそのすさまじい惡文を咎めないが、糸川氏の場合は松岡氏ほども文章に工夫を凝らさず、しかも、週刊新潮の川上宗薫氏と異り、讀者を樂しませようとする事も無い。川上氏は恥も誇りもかなぐり捨てて、毎囘「赤貝の紐」だの「ナメクヂのやうな感觸」だのについて懸命に書いてゐる。そして六月二十四日號によれば、川上氏は修行時代、逆さクラゲヘ女を連れ込むため藥局で千圓借りた事があるといふ。「ポルノ小説を書く脂ぎつた男」でも、玄人ならそれくらゐの苦労は積んでゐるのである。  一方、週刊文春六月二十四日號の匿名書評家は、宮本輝氏の『道頓堀川』について「高尚なテーマの小説ではある。が、やはり五合マスには一升の米は入らぬ」と書いてゐる。宮本氏の「文章力では、せつかくのテーマをこなしきれない」といふのである。だが、「文章力」が「テーマをこな」す譯ではない。「せつかくのテーマ」とは所詮「五合の米」なのだ。言ひたくてならぬ事があつて人は文章に工夫を凝らすので、要も無いのにわざわざ工夫するのではない。  サンデー毎日六月二十七日號は宮崎美子の作文を載せてをり、それは糸川氏の文章よりも遙かにましである。だが、内容のお粗末は糸川氏のそれと變らない。こなれた文章を書かうといくら工夫しても、それだけで内容が立派になる譯ではない。さういふ事の解らぬ素人に何とか物を書かせようとするのは要らざるお節介である。「按ずるに筆は一本也。箸は二本也」と齋藤緑雨は言つた。その覺悟無くして文を綴るのは、すべて素人にほかならない。 【早大だけの醜態か】  早稲田大學總長選擧について週刊現代七月三日號は「“進取の精神”が聞いてあきれるお粗末な泥仕合」と書き、週刊ポスト七月二日號は「“派閥總長選”のドロ仕合(中略)私學の雄・ワセダにしては情けない話だ」と書き、週刊サンケイ七月八日號は「それにしてもこの泥仕合・・・ワセダ、地に落ちたり!」と書いた。なるほど、サンケイによれば、西原教授を支持する一人は對立候補本明教授の「票集めに動いてゐる」某教授について、「とにかく“長”の字が好きな人でね。文學部の教授ですが“勉強した姿を見たことがない”といふ風評の人」だと、サンケイの記者に語つたといふ。  國會議員の選擧でも村會議員の選擧でも「票集めに動」く者は必ずゐる。だが、西原氏を支持して本明氏を惡しざまに言ふのならともかく、なぜ票集めをやつてゐる教授まで批判せねばならぬのか。週刊誌の記者に意見を求められ有頂点になり、野放圖に舌が囘つたのだらうが、さういふ淺薄な手合もまた「“長”の字が好き」であり、「勉強した姿を見たことがない」學者に相違無いのである。  だが、淺薄な手合は西原陣營にだけゐるのではない。同じくサンケイによれば、本明支持派の一人は「西原は顔が惡い」と言つたといふ。予備選擧の投票用紙に「松田聖子」と書いた若手職員がゐたさうで、「その心情もわからうといふもの」とサンケイは書いてゐる。いかにもそのとほりで、私も今囘は週刊誌の記事に難癖を付ける氣にはとてもなれない。本明派は清水總長が「直系の西原さんを後繼者として立候補させるのは筋が通」らぬと言ふ。西原派は「創立百周年といふ大事な事業には非協力。なのに次の總長だけは狙ふといふのはどういふ神經なのか」と言ふ。ともに愚劣な言分である。  直系だらうが傍系だらうが「泡沫候補」だらうが、被選擧權を有する者の立候補なら「筋が通」つてゐるし、「創立百周年といふ大事業」の意義を疑ふ者が總長の座を狙つて何の不都合があるか。西原教授は「現在一番急がなければならないのは百周年記念事業について一定の學内的合意を形成すること」だと言ふ。西原氏が抱負を語つた文章は駄文である。駄文しか綴れぬから、つまらぬ事しか思ひつかぬのである。  けれども、早稲田大學は日本國の縮圖なのである。それゆゑ、これは早稲田に限らないが、當節の總長だの學部長だのは「一定の學内(或いは學部内)的合意を形成すること」に汲々として、おのが信念を貫くといふ事が無い。いやいや、信念なんぞの持合せが無い。それゆゑ、駄文しか綴れぬはうがきつと當選するであらう。だが、早稲田における「泥仕合」は、そのまま日本國の政界のそれである。「モラトリアム國家」の舵取りは船の針路さへ定めてゐないではないか。 【隠し難きものは顔】  やくざや藝能人がサングラスをかけるのは、顔形を人目に曝したくないからであらう。だが、堅氣の小説家が何の要あつて日除け眼鏡をかけるかと、野坂昭如氏の顔写眞を見るたびに私は訝しんだ。俗に「目も口ほどに物を言ふ」といふが、野坂氏の文章を讀んで野坂氏の顔写眞を眺めると「文は人なり」との格言が信じられなくなるのであつた。  しかるに、昨今、野坂氏は突如として色無し眼鏡の顔写眞を、週刊讀賣に載せたのである。すなはち、七月十八日號の「一写入魂破れレンズ」に添へられた顔写眞は、普通の眼鏡をかけた野坂氏のそれであり、その精彩の無い表情を見て、私は積年の疑念を晴らした。色の濃いサングラスをかけてゐるとよく解らないが、野坂氏の顔立ちと「いつそのことボクの娘だつてソ連兵のメカケになつてもいいから、生きてゐてくれたはうがよほどいい」(週刊ポスト、昭和五十六年十一月六日號)などといふ放言とは見事に調和がとれてゐたのである。  野坂氏は週刊文春七月二十二日號に「齋藤勇氏の御不幸について」の意見を寄せ、分裂病患者や覺醒劑中毒患者による凶惡犯罪については「眼には眼をといつた、まこと旧弊な復讐心を、ぼくは抱いてゐる」が、さういふ「我が内たる“本音”を排し、あへて“建前”に固執」せねばならぬ、さもなくば「お上の用意した御用醫師團が、いかやうにもレッテルを用意し、具合の惡い人物を、あつさり病院なり施設に収容隔離」する事になる、と書いてゐる。野坂氏に「まこと旧弊な復讐心」なんぞありはしない。「お上の用意した御用醫師團」の專横を本氣で危倶してもゐない。すなはち、野坂氏の場合、本音が建前に氣兼ねし、建前が本音を恐れるといふ事が決して無い。  リンカーンが言つたやうに、四十歳を過ぎたら人はおのれの顔に責任をもたねばならぬ。野坂氏は輕佻浮薄であつて、やはり「文は人」だつたのである。  一方、週刊ポスト七月三十日號によれば、武智鐵二監督演出のハード・コア映畫に十七歳の女子高校生が應募したが、彼女には「ぜひとも採用を、もちろん娘は處女です」との母親の「推薦書」が付いてゐたといふ。また、週刊宝石七月三十一日號によれば、ハード・コア映畫に出演する堀川まゆみのファンは「彼女にまでさういふことをやらせる大人たちが憎い」と言つたといふ。それを讀んで私は腹を抱へて笑つた。恥知らずの母親の場合は知らないが、武智鐵二氏も堀川も色眼鏡はかけてゐない。週刊宝石の記者は「まゆみちやんの場合“なぜ?”といふ聲が多い」と書いてゐる。動機は金錢に決つてゐる。堀川のファンも宝石の記者も、武智氏と堀川の顔写眞をじつと見詰めたらよいのである。 【教育の善意を疑へ】  山形縣山元村の「山びこ學校」から、「よれよれズボンに腰手拭ひ、ズーズー弁丸出しの」無着成恭先生が東京へ出て來て二十五年になる。今は東京・三鷹の明星學園で教鞭をとつてゐるのだが、教へ子の「第一期生」はもはや三十代半ばださうで、週刊新潮八月五日號は「無着流教育の結果」を調べ、その「弱点は人間關係にあるともいへさうだ」と書いてゐる。「制服なし、教科書も通信簿もない教育」とやらが無着氏の獨特な教育法だから、ある教へ子は「學校では教師とすら友達みたいだつたし、社會に出て初めて上下關係を味はつた」といふ。そんなことで極樂淨土ならぬ世間を渡つてゆけるはずは無く、既製服メーカーに六年勤めて退社、ついで建材會社に勤めたが、二年間しか持たず、今はタクシーの運轉手をしてゐるといふ。だが、タクシーの運轉手もれつきとした職業で、人間關係を無視して長續きする道理が無い。  無着氏は新潮の記者に、「社會に出て不適應なものを感じることがあるなら、そんなもの、やめてしまへばいい」と語つてゐる。新潮は無着氏をからかつて、「ハテ、やめるべきは仕事?それとも教育?」と書いてゐるのだが、無論、無着氏の言ふ「そんなもの」とは「仕事」の事である。そしてこの無着氏の無責任は許し難い。  人間、おのが運命はおのれ一人が背負はねばならず、他人や環境のせゐにして不幸を愚痴るのは、まことに愚かしい事である。無着先生の教へ子の「弱点は人間關係にある」に決つてゐるが、教へ子が無着氏を怨めしく思はぬのは殊勝た心掛けと言ふべきか。だが、教師もタクシーの運轉手と同樣、れつきとした職業で、「社會に出て不適應な」生徒を育ててよいはずは無い。洗濯機にだつて保證書がついてゐる。故障した洗濯機が惡いのではない、いつそ洗濯なんぞ「やめてしまへばよい」と、果して家電メーカーが言ふであらうか。新潮が無着流教育について、その「弱点は人間關係にあるともいへさうだ」などと、及び腰の批判をしてゐるのは殘念である。  「人の患は、好んで人の師となるにあり」と『孟子』にあるが、およそ人の師になりたがる病ほど傍迷惑なものは無い。とりわけ閑人愚人は、例へば性教育を實践して物解りのよい親になつたつもりでゐる手合のごとく、お節介と善意とを區別できない。「なんせ性教育の徹底してゐるわが家では、凸凹の圖入りで、生理妊娠について説明ずみ」だと、週刊朝日七月二十三日號に、四十二歳の「カアチャン先生」が誇らしげに書いてゐる。また同じ朝日に、男性の生殖器は「チンコ」でなく「チコちやん」と呼ぶべしとの提言が載つてゐるが、投稿者は何と六十四歳の爺さんなのだ。これをさて、閑人と言ふべきか、愚人と言ふべきか。 【韓國民に訴へる】  週刊新潮八月十二日號にヤン・デンマン氏は、「日教組は(中略)世界に冠たる國際的自虐性の持主だ。その点では新聞もひけをとらない。對日批判があれば、すべて増幅して」しまふ、と書いてゐる。まつたく同感である。一方、八月十七日付のサンケイ新聞『サンケイ抄』の筆者は、日本人には「人道的思考や人生觀、世界觀を期待できない」との韓國の文教相の發言を紹介し、「それでもなほ、日本の政治家も新聞もエヘラエヘラとお愛想笑ひをし」てゐるが、「日本の對韓經濟協力は“克日”のために進められるのだらうか」と書き、さらに八月十六日付の同紙にも、牛場昭彦記者が、同じ文教相の發言について、「かうした感情にまかせた穏當を欠く言葉が、兩國關係にどれほど破壞的効果をもたらすことになるか注意を喚起」したらよいと書いた。これまたまつたく同感である。  この際、韓國に考へて貰ひたい。サンケイは日本のすべての大新聞のうち、最もよく韓國を理解し、常に好意的な態度を示して來た。しかるに今、「教科書問題」に關する限り、韓國に對して最も批判的なのはサンケイである。そして、金大中事件の際も光州暴動の折も反韓報道に血道を上げた新聞が、いま、奇怪なる「自虐性」を發揮して、韓國と中國の「内政干渉もどきの強要」に大いにはしやいでゐる。だが、朝日や毎日が願つてゐるやうに、日本が今後も腰抜け腑抜けの平和國家でありつづけるならば、日本人は韓國を、戰爭の危機を賣物にする「戰爭屋」とみなし、韓國の苦境を決して理解しないに相違無い。  私はこれまで、ただの一度も韓國を批判する文章を綴つた事が無い。それどころか常に韓國の國防意識の眞劍を稱へ、日韓の友好を心から念じて來た。けれども、「益者三友、損者三友」といふ事がある。それゆゑ、相手が將軍であらうと、青瓦臺の高官であらうと、韓國人に對して卑屈に振舞つた事は一度も無い。  敬愛する申相楚氏を成田空灣に出迎へるべく車を走らせてゐる時、私は年甲斐も無く少年のやうに胸を躍らせる。その申氏を前にして、私は屡々「日帝支配の三十六年」を思ひ出す。けれども、申氏のはうは決してそれを言はない。そして日本にも韓國にも、私が申氏の惡口を言ふのを耳にした者は一人もゐない筈である。韓國人とさういふ付合ひをしてゐる日本人のあまりに少きを、私は日頃殘念に思つてゐる。が、私は日本人である。萬一、日韓が戰ふやうな事になれば、私は申氏に對しても發砲しなければならない。  かつて侵略戰爭をやり、植民地を持つたのは日本だけではない。しかるに、敗戰を道徳的惡事ゆゑの天罰と思ひ做し、「被害者諸國」の抗議に見苦しくうろたへるのはわが日本國だけである。さういふ「便辟」が果して韓國にとつて眞の友邦たりうるであらうか。 【被虐症こそ日本病】  週刊朝日九月三日號に飯澤匡氏は、「英國人たちはインドの獨立運動の英雄たちをみせしめに大砲の口にくくりつけて、發射し處刑した。殘酷なのは決して日本人だけではない」と書いた。しかるに週刊朝日の記者は「殘酷なのは日本人だけではない」と「言つてすましたくない」と書いてゐる。飯澤氏に意見を徴し、それをそのまま掲載したものの、朝日の記者は飯澤氏の意見に不滿だつた譯である。そしてまた朝日は、十一箇の中國人の生首が並んでゐる写眞だの、「敵の死體の前で記念撮影する日本兵」の写眞だの、中國人の「若い男女を一組連れ出し、性交させてながめたこともある」との讀者の手記だのを載せ、「日本は中國、朝鮮で何をやつたか・信じたくない」と書いてゐる。信じたくないのなら載せなければよささうなものだが、そこはそれ朝日ならではの「正義感」、日本人の旧惡だけは默過できないのである。  サンデー毎日九月五日號も、中國人の首を斬らうと軍力を振りあげてゐる日本兵の写眞を載せてゐるが、朝日や毎日に限らず「日本人の殘酷」だけを指彈して樂しむ被虐症患者は、被虐症こそわが日本の「特殊性」だと信じてゐるのである。すなはち、侵略戰爭をやつたのは日本だけではないのだが、日本だけはいつまでもその「前非」を悔い、折ある毎に低頭平身せねばならず、それが日本の「特殊性」だと、さういふ事になるらしい。  それかあらぬか、朝日ジャーナル九月三日號でも内山秀夫慶大教授が日本の「特殊性」を強調してゐる。「平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼して」云々の憲法前文について内山氏は、「“諸國民の信義”なんて實體はなんにもないのかもしれない。しかしそれでも信頼する、さういふ特殊性ですね。戰後われわれが世界に貢献してゐるのはその一点だけだ」と言ふ。これはもう被虐症などといふものではない、卑屈なる奴隷根性である。 一方、八月二十八日付の世界日報によれば、世界教職員團體總連合の大會で「惡しざまに自國民を罵つた」日教組の槙枝委員長を、日教連の田名後委員長は「強い口調で批判した」といふ。もとより日教組も被虐症患者ぞろひで、まつたうな日教連としてはさぞ腹立たしからうが、當節まつたうなのは少數派で、それゆゑ世人は日教連の存在も知らぬであらう。  だが、被虐が快樂なのは生命の安全が保障されてゐる場合だけである。なにせ日本國は三十七年間も安穏無事だつたのだから、被虐症の流行は當然の事、一向に怪しむに足りない。そして人間、三十七年間も反省しつづける筈は斷じて無いから、朝日も毎日も槙枝氏も餘所事のやうに「自國民を罵り」、罵られた日本人も、同じく餘所事のやうに「教科書問題」に關する記事を讀んだ。すなはち日本國民の誰一人として、本氣で反省なんぞしなかつたのである。 【許し難き開き直り】  檢定によつて「侵略」が「進出」に書き改められた教科書なんぞ實は一冊もありはしない、しかるにマスコミは連日何を騒ぎ立てるかと、世界日報がつとに批判してゐたのである。そして先日、週刊文春九月九日號が「つひには外交問題までも招來した“誤報”のメカニズムを克明に追ひ、新聞の責任を問ふ」記事を載せ、ついで九月七日、サンケイ新聞は誤報を認め、謝罪記事を掲載したのであつた。サンケイだけが率直に謝罪した事は「評價するにやぶさかではない。しかしながら、問題は、一片のおわびだけで終るものではない」と先週の本欄に生田正輝氏が書いてゐたが、同感である。潔く謝罪してそれで濟むといつたものではない。  九月十日付の世界日報によれば、サンケイ以外の新聞は「責任逃れに苦慮してゐる」らしいが、他紙が擧つて「奇弁を弄し」、責任をうやむやにしようと企んでゐるからとて、それに引き替ヘサンケイだけは立派だなどと評するわけにもゆかぬ。  だが、週刊朝日九月十日號は、何と、かう書いたのである。許し難い卑怯きはまる文章だから、少し長いがそのまま引用する。  本誌は八月十八日號の記事で、檢定前の白表紙本に中國での日本軍について「侵略」とあつたのが、檢定後は「進出」「侵攻」になつたケースをあげ一覧表にして示した。しかし、その後の再調査で、表のうち上記二点については檢定前の白表紙本から「進出」「侵攻」となつてゐたことが分かつた。當初の調査が不十分だつたためで、ここに訂正しておきたい。  「ごめんなさい」と謝れば大抵の事は許される。それがわが日本國の弊風だと思ふから、私はサンケイについて嚴しい事を言つたのだが、この週刊朝日の「盗人猛々し」としか評しやうの無い言種には呆れ返るしかなかつた。けれども、「ウラをとらずに記事を書く」のは新聞記者の何よりも慎まねばならぬ事ではないか。しかるに「ここに訂正しておきたい」とは何たる言種か。「當初の調査が不十分」だつたのは大した事ではない、それよりも教科書の「右傾化」に齒止めをかける事こそ肝要と、朝日は言ひたいのであらう。だが、右傾がよいか左傾がよいかは價値判斷であり、一方、誤報だつたかどうかは價値判斷とは全く無關係である。  週刊朝日に借問する。例へばの話、この私が、朝日新聞の社長は實は共産黨員であつて、朝日新聞も週刊朝日もソ連の秘密警察から巨額の賄賂を受けてゐると、「ウラをとらずに」書いた場合、そしてそれが事實無根であると判明した場合、私が潔く謝罪せず、「當初の調査が不十分」だつたから「訂正しておきたい」、けれども大事なのは朝日の左傾に齒止めをかける事だと開き直つたら、朝日は果して私を許すであらうか。 【沈默にも仔細あり】  三越百貨店の社長岡田茂氏が退陣し、週刊誌は擧つて岡田氏の旧惡をあばいてゐる。サンデー毎日十月三日號によれば、深夜「ベンツから降りた岡田杜長」を撮影しようとして毎日新聞のカメラマンが殴られたといふ。サンデー毎日は殴られる直前に撮影した写眞を掲載し、「ピントがぼけて目だけが輝いてゐるところに、かへつて岡田杜長のすごみが出てゐる」と書いてゐる。これは毎日に限つた事ではないが、深夜歸宅する名士を待伏せして、意見を叩いたりフラッシュをたいたりする事を、ジャーナリストは「天下の公器」として當然なすべき重要な仕事だと信じて疑はない。だが、人氣女優の住むマンション前に張り込んで、艶聞を裏づける写眞をとつて得意がる事と同樣、それは實に無意味でやくざな仕事なのである。深夜路上で意見を求められ、まつたうな返答をする者なんぞゐる筈が無いからだ。無論、それはジャーナリストも先刻承知で、彼等はただ「有名税」を支拂はせ、名士の凋落に溜飲を下げるだけの事なのである。  だが、三越が「年商五千八百億圓を越す」商ひをしてゐるにもせよ、所詮日本國の命運とは何の係りも無い一百貨店に過ぎない。週刊ポスト十月一日號は「いよいよ刑事事件に發展か−元三越幹部(中略)が語る“三越資産の食ひつぶしは見逃せぬ”」と、胸を躍らせて書いてゐるが、岡田氏が「三越資産の食ひつぶし」をやつたとしても、それが週刊ポストやわれわれ讀者と一體どういふ係りがあるのか。  一方、去る九月十七日「創價學會の池田大作名譽會長の女性問題で、渡部通子參院議員が、“月刊ペン”裁判の證言臺に立つた」。それを報じて週刊讀賣十月三日號は、「裁判長の質問に返答に窮する一幕もあつたが、“全くばかげた話で笑止千萬。事實無根です”と守りの固さを見せた」だの、「池田氏出廷に向けての露拂ひとしては、まづまづの役のこなしぶりだつた」だのと書いてをり、この讀賣のあまりの無用心に私は驚きかつ呆れ果てた。「いよいよ刑事事件に發展か」などと書けば、他人の不幸を喜び胸を躍らせてゐるのではないかと勘繰られて致し方が無い。同樣に、「守りの固さを見せた」などと書けば、何ぞ仔細あつて讀賣は池田氏の不幸を氣に病み、胸を痛めてゐるのだと、さう勘繰られても文句は言へぬ。  だが、岡田氏の醜聞なんぞは、いや池田氏の醜聞でさへ騒ぎ立てる程の大事ではない。九月二十七日付のサンケイ新聞によれば、中國政府は鈴木首相の訪中に同行取材を予定してゐた同紙の記者に査證を發給しなかつたといふ。これは下半身の問題ではない。すなはち小事ではない。が、何ぞ仔細あつて週刊誌はこの問題を決して取り上げないであらう。新聞週刊誌が何をどう書くかだけではなく、何を書かないかをも、われわれは知つておかねばならないのである。 【道化はやはり道化】  「子供の頃、自分はかなりおつちよこちよいで、すぐ人のそゝのかしにのると反省したが、この性癖は變つてゐない」と、週刊朝日十月十五日號に野坂昭如氏は書いてゐる。なるほど野坂氏は三年前、アメリカ國務省の招待を受け渡米し、「下にもおかぬもてなし受けて、ころつといかれてしま」ひ、アメリカの「保守地帯で洗腦されたからには、これまでの革新といふレッテルにおとしまへをつけなければならない」と書いたのだが、その後も野坂氏は「右も左も蹴つとば」す「おつちよこちよい」として振舞ひ、「革薪といふレッテルにおとしまへをつけ」はしなかつた。無理ならぬ事であり、「すぐ人のそゝのかしにのる」やうな男にそんな事がやれるはずは無い。十月十五日號に野坂氏は「弱くなつたアメリカときくと、すぐ信じこんでしまふ、火事場泥棒に巧みなソ連といはれりや、これにも疑ひをいだかぬ(中略)。かういふのを植民地根性といふ」と書いてゐる。が、それは野坂氏自身の事なのだ。そして野坂氏は、三澤基地にF16が配備されるのは「大問題」であり、「アメリカのいふなりになるなら、以後(中略)はつきり植民地を自認」すべしと主張してゐるのだが、所詮おつちよこちよいの書いた戯文であり、目くじらを立てるには及ぶまい。  だが、『リア王』を書いたシェイクスピアが承知してゐたやうに、この世のすべての事象をお茶らかす事はできぬ。すなはち、道化が無用になる領域が人生にはある。けれども、このぐうたら天國日本では、さういふ事がなかなか理解されない。例へば、このたびラジオ日本はソルジェニーツィン氏を招いたが、週刊文春十月十四日號はラジオ日本の遠山景久社長について「かつて共産黨員だつたと噂されながらいつのまにか保守政治家と密着し」云々と書き、また、ソルジェニーツィン氏は「日本のだらしなさを批判してくれるんぢやないか」との清水幾太郎氏の言葉を引いて「“批判されたがり病”はなにも革新陣營だけではないらしい」と書いてゐる。だが、ソルジェニーツィン氏は去る九日講演し、日本の「比類無き經濟力も自國を救ふ事はできぬ。他國が日本を守つてくれるとの期待は幻想だ」と語つた。サンケイ新聞編集委員の澤英武氏が書いたやうに、ソルジェニーツィン氏の「主張には獨斷的に過ぎる」ところもあつたし、私自身彼の文學をさう高く評價してはゐない。けれども、その日本への警告は「聽衆に深い感銘を与へた」のである。「愚者は己れを賢と思ひ、賢者は己れの愚者なるを知る」。ソルジェニーツィン氏の「西側社會の病根」批判について、その「元氣のよいこと」などと書いた文春の輕佻浮薄たお茶らかしは、まじめと不眞面目とのけぢめをつけぬ愚者が利口ぶる際に用ゐる常套手段なのだ。いづれ詳しく語る機會があらうが、ラジオ日本は「敵の敵は身方」といふやうな輕薄な動機から、ソルジェニーツィン氏を招いた譯ではないのである。 2 新聞を斬る 【新聞の社説と催眠術】  私は「國民」だの「民衆」だの「大衆」だのといふ言葉が大嫌ひである。新聞が好んで用ゐるからである。「國民」だの「民衆」だのと言ふ時、新聞は必ず「國民」や「民衆」の意見を代弁してゐるかのやうに振舞ふ。例へば政治家の汚職を國民は嘆いてゐる、といふふうに新聞は書くが、國民が汚職の横行を嘆いてゐるかどうか、そんな事が神樣でもあるまいし、新聞記者に解る筈は無い。入念この上無しの世論調査をやつたところで、國民の一部がかくかくしかじかの問題に反對してゐるらしい、といふ事がおぼろげに解るに過ぎない。しかるに新聞は、特に新聞の社説は、常に國民の名を騙つて物を言ふ。それは第四權力たる新聞も、泣く子と地頭ならぬ世論には勝てないからである。その癖、新聞は自分たちは社會の木鐸で「オピニオン・リーダー」だと思つてゐる。笑止千萬である。  それゆゑ、新聞が「國民は嘆いてゐる」と言ふ時は、「國民」を「新聞」と讀み替へる必要がある。「國民」を「新聞」と讀み替へて社説を讀むのは、退屈極まる新聞の社説を斜めに讀む際の氣晴しにもなる。實は私は、サンケイ新聞に週刊誌批判の文章を寄せてほぼ二年、『マスコミ文化』誌に新聞批判の文章を寄せて九ヶ月になるが、今後定期的な新聞批判だけは二度とやるまいと思つてゐる。毎日六種類もの新聞を律義に讀んでゐたら馬鹿になるし、新聞を叩くのはあまり面白くない。例外は勿論あるが、週刊誌の場合、どんな下らぬ記事にも人間がゐる。だから、週刊ポストや週刊現代は、さぞ私を憎んでゐるだらうと、さう思ひながら兩誌を叩く樂しさがある。が、新聞の社説の惡ロを言つても、怒つてゐる筆者の顔は想像できない。それは人聞不在の「非人間的」な文章だからである。社説の筆者の顔はのつぺらばうで、ラフカディオ・ハーンの『怪談』に出て來る例の顔である。或いはそれは蛙の面で、水や小便を掛けたぐらゐではびくともしない。  とまれ、ここで一つ社説の文章を引く事にしよう。七月二十九日付毎日新聞の社説の一部である。  自民黨内には、企業献金の規制緩和をねらふ見直し論があるといはれる。航空機疑惑への反省を忘れた、輕率な議論といはなければならない。個人献金への移行、政治家の資産公開など、‘政治を國民のものにし、國民の信頼を取りもどすための法の見直しこそ、いま必要とされてゐる。’(傍点(‘’)松原)  さて、傍点を付した部分に二度用ゐられてゐる「國民」を「毎日新聞」と讀み替へるとどうなるか。「政治を毎日新聞のものにし、毎日新聞の信頼を取りもどすための法の見直しこそ、必要とされてゐる」、さういふ文章になる。これを要するに、行政機關も立法機關も毎日新聞のために存在し、毎日新聞の信頼を取戻すべく努力せよ、といふ事になる。かつて「二人のために、世界はあるの」とかいふ文句の歌が流行つたが、「毎日新聞のために、世界はあるの」と、毎日の社説の筆者は考へてゐるのかも知れぬ。  周知の如く、薪聞の社説の筆者は決して「私はかう思ふ」と書かない。必ず「國民はかう思ふ」と書く。イギリスの新聞のEditorial“We”を眞似損つたのか、それともRoyal“We”に肖らうとしての事か、その邊の事情はよく知らないが、日本の新聞の社説に第一人稱の人稱代名詞が決して用ゐられないといふ事實は、新聞の宿痾を暗に示して頗る興味深いのである。  その新聞の宿痾とは何か、それについて語る前に、ここで決して第一人稱の人稱代名詞を用ゐない物書きの文章を引用しよう。それは外山滋比古氏が書いた『親は子に何を教へるべきか』といふ駄本の一節である。  『滋賀縣のある町で中學生グループの殺傷事件がおこつた。(中略)この事件についての新聞報道で氣になつたことがある。現場を調べた警察の係官が「學校がもうすこししつかりした生徒指導をしてゐれば、かういふ事件も防げたのではないか」とのべたやうに書かれてゐる。(中略)警官にそんなことを言はせた新聞記者がゐるとすればずゐぶんトンマな記者である。かりにトンマが取材しても間抜けた記者をチェックするデスクや整理部もゐるはず。紙面にあらはれたところを見ると、さういふ人たちもトンマと同類といふことになる。警察の係官が本當にそんなことを言つたかどうか‘讀者’は疑つてゐる。』(傍点(‘’)松原)  外山氏には澤山の著書があるらしい。しかもそれが結構賣れてゐるといふ。私は『中央公論』七月號で、いかさま教育論の偽善を嗤ひ、永井道雄氏と近藤信行氏を叩いたが、今にして思へば、外山氏の教育論を讀まずに書いた事が悔まれてならない。特に近藤氏に對しては、腹立ち紛れに殘酷な事を書いて惡い事をしたと思つてゐる。外山氏のでたらめに較べれば近藤氏の偽善など輕犯罪に過ぎない。近藤氏に對する罪滅ぼしとして、私はいづれ外山氏の教育論を徹底的に扱き下す積りだが、それはさておき、右に引用した外山氏の文章は、新聞の社説のそれに酷似してゐるのである。傍点を付した「讀者」は社説なら「國民」とたる、それだけの違ひに過ぎない。  それにしても新聞記者諸君、かういふ外山氏の安手の新聞批判をあなた方は滑稽だとは思はないか。外山氏は新聞記者とデスクと整理部を束にしてトンマと呼んでゐる。トンマが他人をトンマ呼ばはりして、したり顔である。これほど滑稽な事は無い。寢取られ亭主が寢取られ亭主を嗤つてゐる樣なものである。私は日本の新聞記者諸君が、例へば漆山成美氏の新聞批判の文章と外山氏のそれとを讀み較べ、外山氏ほどジャーナリズムに重宝がられぬ漆山氏が、眞面目に天下國家を憂へて新聞の惡口を言つてゐるといふ事實を確認して欲しいと思ふ。新聞に眞劍勝負を挑む敵と新聞をおちやらかす敵とをはつきり區別して欲しいと思ふ。人間、眞面目な敵とは繋がる事もできるのである。  一方、外山氏の臆病についてだが、私がかうして名指しで外山氏を批判しても、臆病な外山氏は決して私に反論しまい。先に引いた文章にしても、「警官にそんなことを言はせた新聞記者があるとすれば」といふ假定の話だからこそ、外山氏は安心して新聞の惡口が言へるのである。そして臆病な人間の世渡りは卑屈である。昨年週刊文春の匿名批評の筆者が、外山氏は贋物であり、「疑ふ人は外山滋比古『中年閑居して・・・・・・』を讀むがいい」と書き、雜誌の編集者に媚びる外山氏の文章を扱き下した事がある。全く同感である。  さて、以上外山氏の文章について書いた事は、そのまま「私」を用ゐない社説についても當て嵌まる。新聞の社説の筆者は決して「私はかう思ふ」と書かない。それは慣習に從つてゐるためといふよりは、むしろ勇氣が無いからである。おのれの意見に自信が持てず、從つて責任を負ひたがらぬからである。外山氏の著書にも、「らしい」とか「どういふものか」とか「どうしてだかわからない」とかいふ言葉が用ゐられてゐる。「どうしてだかわからない」事はどうしてだか解るまで言ふべきではないと、さう言ひたいくらゐ頻繁に用ゐられてゐる。  一方、外山氏と同樣、新聞も他人を意のままに動かさうなどとだいそれた事を考へる癖に、他人の意見を、すなわち世論を、大いに氣にするのである。それゆゑ口癖のやうに「國民は、國民は・・・・・・」と言ふ譯だが、「國民」とは第三人稱であつて第二人稱ではない。周知の如く催眠術師は常に第二人稱を用ゐる。それゆゑに成功するが、新聞は第三人稱を用ゐるから成功する事が無い。漆山成美氏が言つてゐるやうに、新聞はこれまで常に、國民が「安保条約に反對してをり、また米國の“下うけ的國家”である韓國などと手を結ぶことに懸念をもつて」ゐるかの如く主張した。けれども「そのやうな對外路線を遂行してきた保守黨はほとんど常に選擧ごとに國會の多數派を形成してきた」のである。それは新聞の催眠術が常に失敗に終つたといふ事に他ならない。  だが、私は「國民」だの「大衆」だのを信頼してゐる譯ではない。「國民」だの「大衆」だのには顔が無い。信頼のしやうが無い。D・H・ロレンスなら、「胃袋も男根も無い、そんなものは抽象的概念だ」と言ふであらう。萬人の平等と同質を前提とするデモクラシーをロレンスは憎んだが、それはロレンスが「俺は飽くまでも俺だ」といふ激しい信念と強い自信の持主だつたからである。さういふ自信を、外山氏も新聞も全く持合はせてゐない。「俺は飽くまで俺だ」といふ自信が無いから第一人稱で書かないのである。しかも、外山氏は知らず新聞は、「千萬人といへども吾れ往かん」との氣概無くして、千萬人ならぬ一億一千萬を動かさうと考へる。それゆゑ、トマス・マンの『マリオと魔術師』の魔術師と同樣、新聞が「國民」の劣情に付け入らうとするのは當然である。新聞はこの數ヶ月、汚職を難じて大衆の嫉妬といふ劣情に訴へようとした。だが、それが今後も常に失敗するとは、私は決して思はないのである。 【大新聞に言論の自由無し】  言論の自由に限らず、すべて自由なるものは、平和と同樣、必ずしも望ましいものではない、私はさう思つてゐる。例へば、これは誰でも認める事だらうが、自制無き自由とは放縦である。ソルジェニーツィンも「眞に自由を理解してゐるのは、自己の法律上の諸權利を欲深く急いで利用する者ではなく、法律上の權利があつても自分自身を制限する良心をもつてゐる者」(染谷茂譯)だと言つてゐる。が、自由の喪失がいかに耐へ難きものかを身に染みて知つてゐない吾々にとつて、さういふ良心による自制が果して可能であらうか。いや、そもそも自制などといふ事が常に人間にとつて可能なのであらうか。  ローマの哲學者エピクテトスは奴隷であつた。生殺与奪の權を握つてゐる主人が或る日、エピクテトスの足を捩ぢ曲げようとした。その時、エピクテトスの言つた事はかうである。「そんな事をなさると私の足が折れてしまひます。それ、それ、折れてしまつたではありませんか」。かくて彼は奴隷であるばかりか「身體障害者」にもなつた譯だが、終生それを愚痴らず、跛になつた原因についても語らうとはしなかつた。それゆゑ、主人が彼の足を折つたのだといふ話に確證は無い。リューマチが原因だとする説もあるのである。が、エピクテトスの『語録』を讀むならば、彼の哲學とこの挿話とが調和するといふ事實を吾々は認めざるをえない。さういふ見事な人間がゐたのである。たとへ吾々がエピクテトスの樣な人間になれぬとしても、さういふ見事な人間がかつてこの世に存在した事を吾々は忘れてはならない。實際、車椅子の持込みを主張してバスの運轉手と口論する現代日本の「身體障害者」とエピクテトスと、同じ人間でありながら何たる相違であらうか。  エピクテトスを見事だと思ふ以上、傍目を構はぬ「身障者」の行爲を、吾々は醜惡に思ふであらう。いや、身障者に限らない、自由を希求し、一切の束縛を嫌ひ、己が權利を遮二無二主張する手合は、「石ころと思はれる程辛抱強く」生きたエピクテトスを思ひ深く恥ぢ入るであらう。今日の吾々がエピクテトスのストイシズムに學ぶべき事は多い。忍耐と諦念を説くエピクテトスは、「自分のものだけを自分のものと思ひ、他人のものは他人のものと思ふ」樣な人間だけが自由なのであり、他人のものを自分のものと思ふならば、人は絶えず不滿を抱き、擧句の果てに「神々や他人を呪ふ樣になる」と言つてゐるのである。  だが、かういふ見事なるストイシズムにも限界があつて、『サシとの對話』においてパスカルは、エピクテトスの説く「内なる自由」を「惡魔的尊大」と評してゐる。パスカルによれば、エピクテトスは人間の無力を知つてゐなかつた、といふ事になる。パスカルの批判は正しい。人間は偉大だが、同時に頗る惨めな存在なのである。早い話が、吾々のすべてがエピクテトスの樣に振舞へる譯ではない。吾々が皆、禁欲的で自制しうる人間ならば、この世に神や惡魔や戰爭や悲劇は存在しない事になる。とすれば、人間の無力を認めるといふ事が、ストイシズムの限界を認めるといふ事なのである。そして、ストイシズムの限界を認める以上、吾々は人間が「何か自己以外のもの」によつて束縛されるのはよい事だといふ事をも承認しなければならなくたる。吾々はなぜ人を殺さないのか、盗まないのか、姦淫しないのか。それは自制のせゐだけではない、法に縛られての事である。自制は不要だなどと私は言つてゐるのではない。自制は絶對に必要である。が、自制だけでは足りないのだ。吾々は自己以外の何かに縛られねばならぬ。そして、吾々を縛るものが神でないのなら、それは必然的に權力、もしくは吾々を縛る資格を有する「他の人間」だといふ事になる。詰り、權力無しに自由無しといふ事にもなる。  「大新聞に言論の自由無し」といふ題を与へられて、のつけから大上段に振りかぶつたが、それも今日、言論の自由について論ずる人々が自由といふものの厄介た面について觸れようとしない事を日頃殘念に思つてゐるからであり、また、以上の前口上は以下言論の自由について、いささか身も蓋も無い話をする爲に必要な布石だと考へたからである。  今日、言論の自由について、或いは自由一般について語る場合、人々は專ら外的束縛からの自由を考へる。がすでに述べた樣に、ストイシズムの限界を認める以上、外的束縛は必要不可欠といふ事になる。例へば、大新聞の擴張販賣競爭は一向に止む氣配が無い。それはなるほど嘆かはしい現象だが、同時に頗る當然の事でもあるのであつて、權力の規制によらずして新聞の自制に俟つとすれば、即ち新聞のストイシズムに期待するしか無いとすれば、擴販競爭の根絶はまさに百年河清を待つ樣なものだからだ。大新聞にポルノは掲載されないが、それは自制によるのではなく、讀者が大新聞にそれを期待してゐないからである。低俗週刊誌のポルノを樂しむ讀者も、大新聞にポルノが載る事は望まない。詰り、大新聞もまた讀者に束縛されてゐるのであり、大新聞にポルノ嫌ひの木石が揃つてゐる譯では斷じてないのである。  すでに明らかであらうが、大新聞も外的束縛から自由ではないのだから、大新聞に言論の自由が無いのは當然である。もう少し例を擧げよう。どんなに進歩的な大新聞も皇室を露骨に批判する事は無い。來日する外國の大統領の言動を敬語抜きで報ずる事はあつても、皇室に關する記事にその種の粗相は無いのであり、それは詰り、大新聞に皇室を批判する自由が無いといふ事なのである。いや、皇室に限らない、金融界の批判もタブーである。そしてそれも當然で、莫大な赤字を抱へてゐる大新聞が、金を借りてゐる銀行の内幕をあけすけに暴露出來る筈は無い。  大新聞にはタブーがあり、言論の自由は無い。と、さう書けば、大新聞は天下の公器として權力を批判してゐるのではないか、と思ふ讀者もあるかも知れぬ。が、大新聞が批判するのは強者ではない、例外無しに弱者である。例へば、讀賣、朝日、毎日の所謂三大紙は超大國アメリカに對して批判的である。が、日本の大新聞にとつてアメリカは強者か。否、弱者である。ウォーターゲイト事件以來、とみに弱者になつたのである。また、三大紙は自民黨に對して批判的だが、自民黨とは日本の政黨のうち、批判に對して最も寛大な、或いは最も弱腰の政黨ではないか。一方、三大紙が批判したがらぬ國家や政黨はすべて強者である。『言論人』の讀者に對して、それが何かは改めて言ふまでもないであらう。  強きを助け弱きを挫く、それが三大紙の體質である。もとより三大紙は、弱きを助け強きを挫いてゐる積りでゐよう。要するに自己欺瞞である。どうしてさういふ事にたるのか。「天下の私器」でしかないとの自覺が無いからだ。新聞もまた私利私欲からは自由たりえず、從つて新聞を抑へうる樣な外的束縛からも自由たりえないとの自覺を欠いてゐるからだ。要するに新聞は、束縛無しに自由無しといふ事を全然理解してゐないのである。 十七世紀のイングランドにおいて人々は自由を切望したが、それはスチュアート家による專制支配があつての事である。同樣に、十八世紀のフランスにおいて、自由とはブルボン家からの自由を意味した。クランストンが言つてゐる樣に、自由といふ言葉の意味するものが明確になる爲には、自由を敵視する權力の存在が不可欠なのであり、言論の自由を希求する情熱の眞摯は、冷酷なる權力によつて保證されるのである。言論の自由とは戰ち取らねばならぬものなのだ。それゆゑ、言論の自由を抑圧する強者と戰ふ者にしか言論の自由を云々する資格は無い。弱者を強者と誤認し、そのくせ眞の強者とは戰ひたがらぬ大新聞に、言論の自由を求める眞摯な姿勢が欠けてゐるのは、してみれば怪しむに足りぬ事である。三大紙は日本共産黨の圧力に屈したではないか。孤軍奮鬪のサンケイを拱手傍觀してゐるではないか。  強者と戰はぬ大新聞に言論の自由は無い。そして今日、強者中の強者は大衆である。數百萬部もの部數を誇る大新聞はその數百萬の大衆を強者とみなして、それと戰つてゐるだろうか。否である。大新聞は大衆を輕蔑してゐる。本氣で戰ふ積りは無い。そのくせ、大衆を恐れてゐるのである。何とも奇妙た話ではないか。大新聞は輕蔑してゐる當の相手を何よりも恐れてゐるのだ。大衆に教へを垂れ、意のままに操れると思ひ込んでゐるくせに、大衆の機嫌を損ずる樣な事だけは決して書けないのであつて、詰り大新聞には大衆を切り捨てる自由が無いといふ事になる。それがあるのはミニコミであり、ミニコミだけが強者と戰つてゐる。自由のあり過ぎる吾國においては大衆が強者なのだが、大衆を切り捨てられぬ大新聞は常に強者の幇間なのである。敵を持たぬ強者に自由を求める戰ひは無縁である。ましてその幇間がどうして言論の自由などを必要とするであらうか。 【「人間不在」の元旦社説】  新聞の社説を丹念に讀む讀者は殆どゐないと思ふ。私自身、社説は滅多に讀まない。女性週刊誌や平凡パンチの廣告には必ず目を通す。けつこう樂しいし、また有意義だからである。例へば、『微笑』といふ週刊誌の廣告などは、それを讀むだけで淫亂症の實態が解る。また、所謂三面記事は貪るやうに讀む。特に兇惡犯罪の記事はさうである。が、社説だけは讀まない、見出しさへ讀まない。私だけではない、皆さうだらうと思ふ。では、なぜ人は社説を讀まないか。面白くないからである。今囘、マスコミ文化編集部から、元旦の新聞の社説を讀んで感想を書くやう依頼され、各紙の社説を讀まざるをえぬ事となり、改めて社説なるものがいかにくだらぬかを痛感した。くだらぬし、およそ面白くない。あれでは誰も讀むはずがない。  では、新聞の社説はなぜ面白くないのか。社説の文章は「人間不在」の文章だからである。六法全書や日本國憲法の文章と同樣、個性の欠如した文章だからである。從つて社説には署名が無い。「人間不在」の文章、人非人の文章である以上、無署名が當然といふ事なのであらう。元旦の讀賣の社説は、日本には自分といふ言葉があるのに、「他分」といふ言葉が無いのはなぜか、といふ事を問題にして、「歐米を除く他民族への配慮の欠如も目に餘る。自分だけでなく他分のことも考へないと、どんな美辭麗句を並べようとも、しよせんは仁の心に欠ける巧言令色に終はるのが落ちだらう」と書いてゐるが、この讀賣の社説の筆者自身が、文章を綴るに當つて「他分」の事を考へてゐないのである。そして、「他分」の事を考へぬ文章は必然的に「人間不在」の文章になる。讀賣の社説から、その證拠を一つだけ擧げておかう。かうである。  「さいきんの日本について、アメリカの軍事、經濟的な保護、いはばアメリカといふ名のサングラスに甘やかされてきた日本人が、とつぜん眼鏡をはづされたため、強い太陽光線のやうな國際情勢を直視して目がくらんでゐるといふ風刺は卓抜だと思ふ」。  これは他人、すたはち讀者の事を考へない文章である。惡文である事は勿論だが、それはともかく、アメリカに甘やかされて來た日本人が突然「眼鏡をはづされ目がくらんでゐるといふ風刺」とは、一體誰が思ひ付いた風刺なのか。卓抜だと筆者は言つてゐるのだから、まさか筆者自身が捻り出した風刺ではあるまい。それなら誰か。社説はそれを明らかにしてゐないのである。讀者が當然知りたがる事柄を言ひ落すやうな筆者は、讀者の事を、すたはち「他分」の事を考へてゐない。「日本の哲學者の文章にはダイアレクティックが欠けてゐる」とは至言である、とだけ書けば、讀者は當然、その至言は誰の言か、それを知りないと思ふはずだ。それは田中美知太郎氏の言である。ダイアレクティックを欠いてゐるのは哲學者の文章だけではない。社説もさうなのだ。一人前の大人なら誰しも心の中で對話を行ふ。が、この讀賣の社説の筆者はそれをやつてゐない。半人前の文章、人非人の文章と評するゆゑんである。  そしてまた、一人前の大人なら、誰しも理想と現實との乖離を承知してゐよう。心の中で絶えず理想主義者と現實主義者とが對話してゐよう。が、社説の筆者は實生活においては現實主義者なのだらうが、ペンを握れば立所に甘い理想主義者になる。例へば毎日の社説の筆者は「國民大衆の生活を政治の根幹に据ゑ直す姿勢を、強く訴へておきたい」と言ひ、ついでかう書いてゐるのだ。「安定した収入に支へられ、職を失ふ恐れをもたない。病を得ても安んじて十分な醫療が受けられ、ときには一家で餘暇を樂しむ。夫婦は老後を憂へることなく、子どもは受驗地獄の責め苦なしに教育を受け、就職の道が廣く開かれる。(中略)‘おそらく’圧倒的多數の人々は、かうした条件のどれかを欠いてゐるのが實情ではないだらうか」(傍点(‘’)松原)  「おそらく」などといふ副詞は不必要である。毎日が描いてみせる幸福の条件のすべてをみたしてゐるやうな家庭はどこにも存在しない。存在するとすれば、それは痴呆の集りである。だが、それにしても、何と輕薄なユートピア論議であらうか。毎日はまた「同じ地球上で、飢ゑにさらされ、貧困に苦しむ開發途上國の民衆レベルにまで到達し、底深く浸透するやうな協力援助の實績が着實に積み上げられてこそ、日本に向けられた惡評と侮べつを、信頼と尊敬に轉化させる力にもなる」と言つてゐるが、これまた途方も無い綺麗事である。新聞の社説は綺麗事しか書かない。そして綺麗事しか言はぬ人間は人間ではない、人非人である。  ベルジャエフは「この世における道徳は善惡二元論よりなつてゐる。換言すれば、善惡二元論が道徳を成立させる前提となつてゐる。これに反して、一元論は道徳の説明に都合が惡いばかりでなく、道徳にたいする人間の熱意を弱めてしまふ」と言つてゐるが、その通りであつて、綺麗事を並べたてる新聞の社説には、道徳に對する熱意など微塵も無いのである。それに、「飢ゑにさらされ、貧困に苦しむ開發途上國の民衆レベルにまで到達し、底深く浸透するやうな協力援助」など、いかなる國家にもやれはせぬ。もしも日本がそれをやつたならば、毎日の社説が主張してゐるやうな幸福を自國民に与へる事は、現在以上に難しくなつてしまふ。綺麗事を並べ立てる時、人はとかくこの種のたわいもない矛盾を犯すのである。さうではないか。自國民をもつと幸福にし、なほかつ他國の「民衆レベルにまで到達」するやうな援助をする、そんな事は所詮不可能ではないか。人間にはエゴイズムがある。國家にもエゴイズムがある。當然毎日の主筆にもエゴイズムがある。が、すでに述べたやうに、一旦筆を執れば新聞人はそれを忘れるのである。なるほど個人も國家も、他人や他國に對して殘酷であつてはならない。が、再びベルジャエフを引くが、「殘酷であつてはならないと命じる掟は、われわれが一つの價値をえらんで他の價値を捨てるには、どうしても殘酷にならざるをえないといふことに氣づいてはゐない」のである。殘酷であつてはならぬ、寛大であれ、とは理想であつて、殘酷にならざるをえないといふのが現實である。一人前の大人なら誰しもこの理想と現實との相剋を體驗してゐよう。が、毎日の社説の筆者はそれを體驗してゐない。半人前の文章、人非人の文章と呼ぶゆゑんである。  ところで、朝日の社説には「どこの國にもエゴイズムがある」といふ一節があつた。また、東京の社説には「總論や建前のキレイゴトでは何も解決できないことを自覺し、本音と各論で勝負すべし」との一節があつた。それゆゑ私は、朝日と東京の社説を、讀賣、毎日のそれよりも高く評價する。特に東京は、「假に黨内に反對があらうが、支持票が一時的に減らうが、圧力團體の反對が強からうが、斷固として實行せねばならない」とか、「建前だけのキレイごとを言ひ、いざ一部で反發があればすぐ手を引いたり、政治の責任で犠牲の分担をしないから、絶對反對のエゴ風潮が横行し、結果として、より大きなツケを拂ふことになる」とか、拙い文章ながら、かなり明確に筆者の信念を表明してゐて好感を持てたのである。ただし、その東京にしてからが、喧嘩兩成敗式の高みの見物をきめこむ新聞人の病弊は免れてゐない。例へばかういふ文章である。「公正をめざす政治と同時に強者にはもつと倫理と慎みが強く求められる。むろん弱者も現状への不滿をすべて政治惡、社會惡のせゐにし、自己主張のみ振りまはす風潮は反省を要しよう」。強者も反省せよ、弱者も反省せよ、要するに「喧嘩兩成敗」である。が、東京新聞よ、夫子自身は一體どちらなのか。新聞は強者なのか、弱者なのか。東京も朝日も、今年こそは「政治の指導力と實行力」あるいは「民主主義の統治能力」が必要とされようと書いてゐるが、指導力とか統治能力とかは強者が發揮するものである。そして強者をしてその能力を發揮せしめないやう能力を發揮してゐるのが、他ならぬ新聞ではないのか。  サンケイは社説と稱する事なく「年頭の主張」とし、「社長鹿内信隆」の銘を打つて、萬事を金で解決しようとする風潮を批判してゐる。朝、毎、讀、東京、日經、いづれの社説も、程度の差こそあれ、文章がよくない。サンケイの文章だけが合格である。そしてサンケイの「社説」だけが明確な主張を持つ、個性的な文章となつてゐる。今後各紙の主筆はサンケイを見習ひ、明確な自己主張をやつて貰ひたい。社内の思惑などを氣にする事なく、自己の信念を披瀝して貰ひたい。さうすれば、喧嘩兩成敗・高みの見物式の人非人の文章など到底書けなくなるであらう。 【破れ鍋に綴ぢ蓋】  山本夏彦氏は「以前ずゐぶん惡口をいはれた」さうである。暴論めいた事を書いては、男尊女卑だと言われ、古いと言はれ、封建的だと言はれた。が「この四、五年、どの雜誌に書いても怒つてくるものがなくなつた」と、山本氏は『諸君!』一月號に書いてゐる。そして山本氏は、これは「喜んでいいことか悲しんでいいことか知らない」が、讀者が怒らなくなつたのはポルノ小説のせゐではないかと言ふ。  山本氏の奇抜な説を紹介するだけの紙數が無いのは殘念だが、昨今の讀者が寛容になつたのは事實だと思ふ。私はサンケイ新聞に週刊誌批評の文章を書いてゐて、かなりの極論を吐く事があるが、抗議の手紙を受け取る事が無い。それは喜んでいい事なのか、悲しんでいい事なのか。いづれにせよ、今後一年間、新聞を斬る事になつた。時に極論を吐く。よろしく。  さて、本居宣長は『紫文要領』に、「よろづのこと、わが思ふかたのみを以て、世の人のいふところをひたすらにいひおとすは、是すなはち物の哀しらぬ、我執のつよき人也」と書いてゐる。宣長によれば、「見識」を立てずして「世の風儀人情」に從ひ、世間を憚つて生きる人間こそ「物の哀」を知る人なので、世人の信ずるところを信ぜず、世論を疑ひ、世論を「いひおとす」者は「我執のつよき人」なのである。要するに、智に働いて角が立つ事を宣長は嫌つたのであつて、それはそのまま今日の日本人の心情であらう。私も日本人だから、さういふ心情を尊重するが、日本の新聞を斬る役廻りとあらばやむをえない、時に智に働いて角が立つ事も言はざるをえない。それに日本の新聞は「見識」を立てず、「世の風儀人情」に從つてゐるくせに、「世間を憚つて生きる」といふ殊勝な心掛けはまるで欠いてゐるのである。  新聞は杜會の木鐸をもつて任じてゐる。オピニオン・リーダーだと思つてゐる。が、實際は「世の風儀人情」に從つてゐるに過ぎない。世論に迎合してゐるに過ぎない。例へば、尖閣諸島の歸屬問題に關する園田外相の説明と、4(登+邑)小平副首相の日本における發言とは明らかに食ひ違つてゐる。が、日本の新聞はその食違ひを徹底的に衝いた事が無い。澎湃として起つた日中友好ムードに酔ひ、世論を憚つて、尖閣諸島などどうでもよい事にしてしまつたのである。そして新聞がいい加減なら讀者もいい加減、いはば破れ鍋に綴ぢ蓋なのである。いい加減な讀者が新聞のいい加減を咎める筈は無い。  新聞は「知らせる義務」を言ひ、讀者は「知る權利」を言ふ。が、双方ともに決して本氣ではない。讀者が知りたいと思ふ時、新聞は知らせない。新聞が知らせたいと思ふ時、讀者は知りたがらない。人の噂も七十五日といふ。新聞は噂話の種をまき、讀者は七十五日間それを樂しむ。いや、七十五日もつづきはしない。一月もたてば噂は消える。  自民黨總裁選擧に關する新聞報道も噂話に滿ちてゐる。十一月二十三日付の東京新聞は「全國各地で相手かまはず大量の色紙や名刺がバラまかれてゐると‘いはれる’」と書き、「總裁候補を持つてゐる派閥の議員に對してすら、大平・田中陣營から“實彈”が飛んでゐるとの‘ウハサ’が‘絶えない’」と書き、「田中元首相と“田中軍團”のやり方(中略)はまさに“常識”をはるかに上廻る猛烈さで展開されてゐる‘との見方が黨内には強い’」と書いた。「常識をはるかに上廻る猛烈さで展開されてゐる」のなら、眞相糺明は難しくないだらう。その難しくない事をやらうとしないのは、新聞に「知らせる義務」を果さうといふ氣が無いからだらう。讀者もまた「ウハサが絶えない」といつた程度の報道で滿足してゐるからだらう。新聞には知らせる氣が無いし、讀者も知りたがつてはゐない。つまり破れ鍋に綴ぢ蓋なのである。  自民黨總裁選擧の報道に關して、もう一つ私が奇怪に思つた事がある。周知の如く予備選擧の結果は新聞の予想を裏切り、大平氏が新總裁に就任した。各紙はありきたりの釋明をしてすませ、いさぎよく不明を詫びる事をしなかつたが、それをけしからぬ事と考へ、「新聞は頭を丸めるべし」とて、反省を求める向きもある。が、私にはそれが納得できない。新聞に對する注文は多々あるが、新聞に八卦見の役を演じてほしいとは私は思はない。予想がはづれたからとて、なぜ新聞は謝らなければならないのか。それよりも、なぜ新聞は選擧のたびに、あれほど空しい予想にはしやぐのか。新聞に反省してもらひたいのはその事である。天氣予報がはづれて迷惑する人はゐるだらう。が、總裁選擧の予想がはづれて誰が迷惑するか。選擧の結果は開票して判明する。開票前の予想は所詮噂話の種でしかない。噂話の種でしかない事柄に、なぜ新聞ははしやぐのか。噂話を好む大衆の事を考へれば、開票まで待てない輕薄を考へれば、選擧の予想をまつたく無意味だとは言はないが、少くとも無意味ではないかとの疑ひを新聞は持つて貰ひない。  さういふ譯で、福田有利の予想がはづれたからとて新聞は反省する必要は無い。が、もしも福田優勢の予想が爲にする予想だつたのなら話は別である。すなはち、福田優勢を報じて福田再選を阻止しようとしたのなら、新聞は大いに批判されねばならないが、今囘さういふ下心は持合せてゐなかつた筈であり、それなら「頭を丸める」必要などまつたくありはしない。  ところで、知る權利を主張しながらその實知りたがらぬ讀者を相手の商賣だから、新聞は「知らせる義務」を言ひながら知らせようとしない。或いは新聞自身、知らうとしない。「田中金脈」の發掘も『文藝春秋』にしてやられた。今囘の予備選でも、田中派の物量作戰が効を奏したといふ。それなら、またぞろ總合雜誌や週刊誌にしてやられぬやう、新聞は噂が事實かどうか今のうちに徹底的に糺明してはどうか。いや、さういふ事を新聞に期待するのは無理なのかも知れぬ。知りたがらぬ國民は知らせたがらぬ新聞しか持つ事ができないのかも知れない。日米安保や自衞隊を4(登+邑)小平が肯定すれば一向に騒がず、アメリカや日本政府が肯定すれば熱り立つ。その新聞のでたらめを新聞も讀者も怪しまない。破れ鍋に綴ぢ蓋と評するゆゑんである。 【公正とは喧嘩兩成敗に非ず】  表向きは公正を唱へながら、その實、新聞は公正ならざる事をする。全逓の所謂、「反マル生鬪爭」をめぐる報道がさうである。十二月二十日付の朝日は、全逓が提出した「二十九項目の労使改善要求」について、全逓の要求を「要約すると、(1)役職者の登用は古い順(單純先任權)、(2)故郷へのUターン人事は労使協議で、(3)處分を人事考課の對象としない、(4)訓練の公開、(5)一切の不當労働行爲の禁止など」となり、「全部ひつくるめて受け入れよと迫る全逓に對して當局は、マル生は皆無に等しいと信じる、全部といつて藻單純先任權なんてのめるわけがないとして組合の要求を受け付けず、まだ實質的な交渉になつてゐない」、「紛爭の根底にあるのは双方の根強い不信感だ」と書いてゐる。つまり労使双方ともに不信感を捨てるべしといふ御託宣である。けれどもこの世には、いかに努力しても捨て切れぬ類の不信感といふものもある。それに、不當極る要求を突き付けられてゐる以上、不信感を捨てろと言はれて捨てられるものではない。朝日の記事は、『出口見えぬ全逓鬪爭』と題してゐるが、なぜ全逓鬪爭の「出口が見えぬ」のか。言ふまでもない、當局をして到底「のめる譯がない」と言はしむる程の無茶な要求を全逓が突き付けてゐるからである。郵政省が全逓の要求を呑めない理由を朝日は知つてゐる。例へば「單純先任權」なるものの正體を知つてゐると思ふ。それがいかに不當極まる要求であるかを知つてゐる癖に、朝日はそれを詳しく知らせようとせず、「單純先任權」とは「役職者の登用は古い順」にするといふ事だ、などといふ「要約」によつてお茶を濁してゐる。なぜか。「單純先任權」なるものが實に不當極る要求で、それを詳しく説明すると、全逓に不利になるからだ。惚れた女の惡口は言ひたくない。朝日は全逓に惚れてゐるのである。それなら全逓のはうが惡いにきまつてゐる。  では「單純先任權」とはどういふものか。十二月二十日付サンケイの正論欄に奥原唯弘氏が書いてゐるやうに、それは「勤務成績、能力、適性などを考慮せず、局に入つた古い順に昇任させること」なのである。「單純先任權」とだけ言はれても讀者は何の事か解らず、解らなければ無理ならぬ要求かと思つてしまふ。が、サンケイの奥原氏の文章を讀んだ讀者なら、そのやうな非常識な要求を當局が呑めない理由について納得するに違ひ無い。朝日は「勤務成績、能力、適性などを考慮せず」といふくだりを伏せてゐる譯である。公正ならざる要約によつて全逓に肩入れしたかつたからである。  また、朝日の言ふ「處分を人事考課の對象としない」とは、奥原氏によれば「違法ストに參加したことによる處分を人事考課上のマイナス評價としない事」であり、「懲戒處分(戒告、減給、停職)をうけても、處分を受けてゐない者と同じに役付登用、給与上の格付け引き上げの候補者とすること」を意味する。何と蟲のよい要求か。  さらに驚くべきは「職場で暴力事件等が發生しても、告發などせず、労使協議で處理すること」といふ要求であつて、全逓はどうやらゲバ學生と同樣、職場を治外法權にしようと考へてゐるらしい。さすがにこの要求だけは、惚れた朝日も「要約」しやうが無かつたやうである。  「マル生鬪爭」の報道に關して氣になる事がもう一つある。大方の新聞論調は、郵政業務の混亂を、全逓と郵政省の双方が責任を負ふべき事としてゐる。つまり、どつちもどつちといふ譯であり、新聞はどつちもどつちといふ態度を採る事を公正と心得てゐるらしいが、どつちもどつちとは、とかく馬鹿がおのれを利口に見せようとする時に採る態度なのである。  喧嘩兩成敗を公正と勘違ひするのは、自信のない馬鹿か、薄のろの宦官だからである。 十二月二十日付の讀賣の社説も「どつちもどつち」的精神の典型である。讀賣は「郵政労使がドロ沼から脱するには、まづ建前論の呪縛から解放されねばなるまい」と言ふ。郵政省當局にも、全逓にも、更にはまた「反『反マル生鬪爭』に取り組む全郵政労組にもそれぞれ自重を望みたい」と言ふ。そして讀賣は「當局、全逓、全郵政三者が、最も極端な例を擧げては、自らの職場を傷つけ合ふ愚は避けられないものか」と慨嘆する。この種の利口振る馬鹿程始末に負へぬものはない。空しい綺麗事を書き連ね、「踊る阿呆」を批判し、安全地帯の高みに立つては、手を汚しつつある他人の爭ひを嘆く。宦官が痴話喧嘩を嘆くやうなものである。  もう少し例を擧げよう。十二月七日付毎日新聞社説は「自民黨は醜い政爭をやめよ」と題して、幹事長人事をめぐる自民黨の黨内抗爭を批判してゐる。「いかに予備選擧の“後遺症”とはいへ、黨幹事長人事をめぐつて憎惡の感情むき出しのドロドロした爭ひをみせつけられると、自民黨がいかに近代的政黨の體をなしてゐないかがよくわかる」けれども、「しかし、視点を變へて今日の異常事態をながめると、野黨も何のために存在してゐるのかと思はざるを得ない」と毎日は言ふのである。これまた「どつちもどつち」的な批判である。けれども、毎日よ、夫子自身はどうなのか。毎日の社内には「ドロドロした爭ひ」は一切無かつたのか。「憎惡の感情」を「むき出し」にした杜員は一人もゐなかつたのか。毎日に限らぬ。賢人面をして喧嘩兩成敗式の「公正」を言ひ、無意味な綺麗事ばかりを言ひつづけて來た新聞こそ、「何のために存在してゐるのかと思はざるを得ない」存在ではなかつたのか。  新聞記者に限らず、日本人は正義といふものに強い關心をもたぬ。和をもつて尊しとなし、自己の信念を貫く野暮天を嫌ふ。永井荷風は明治四十二年「西洋人は善惡にかかはらず、自分の信ずる處を飽くまで押通さうとする熱情がある。僕はこの熱情をうれしく思ふ」と書いた。石川啄木はそれを讀み、それ程まで西洋人が好きならば、荷風氏は西洋に歸ればいい、と言つたといふ。成程、洋行歸りの鼻持ちならぬ淺薄に、今も昔も變りは無いかも知れぬ。けれども荷風は、けちで好色この上無しではあつたが、喧嘩兩成敗の氣輕を樂しむ輕薄な男では決してなかつた。日本は今後も「自分の信ずる處を飽くまで押通さうとする熱情」を持つ西洋と付合つて行かなければならぬ。『四畳半襖の下張』はやがて解禁されようが、地下の荷風はそれだけを果して喜ぶであらうか。 【日本といふ愚者の船】  「斷固として信じるのは狂人だけだ」とモンテーニューは言つた。なるほど、正氣の人間なら疑ふ事を知つてゐる。一切合財を疑つて自分は何も確かな事を知らないと、さういふところまで考へ抜いたのはソクラテスである。ソクラテスの「無知の知」が人間を幸福にするかどうか、それは難しい問題だが、それにしても新聞があまりにも物事を安直に信じる事を、私は日頃苦々しく思つてゐる。例へば一月十九日付の毎日によれば、「グラマン疑惑の渦中の人」ハリー・カーン氏の自宅には、「初刷なら時價一千萬圓は下らないといふ歌麿の作品數点をはじめ、浮世繪やびやうぶなどがところ狭しと並んで」ゐるといふ。そして毎日は、この「新たに浮かび上がつたカーン氏の一面は、同氏と日本のかかはりの深さを物語つて」をり、これらの浮世繪が「贈り物であれば、カーン氏に近い日本人からのプレゼントといふ圖式が浮かぶのだが・・・・・・」と書いてゐる。  カーン氏が何人妾を持つてゐようと、いかに高價な骨董を持つてゐようと、「グラマン疑惑」なるものとは目下のところ何の關係も無い。が、關係があるかも知れぬ、あつて欲しいと、毎日は思つてゐるのである。それは何ともさもしい嫉妬に過ぎない。金持を猜疑する淺ましい根性に他ならない。そして嫉妬にかられると、人間は「斷固として信じる」やうになる。オセローがさうである。オセローさへさうならば、高潔ならざる凡愚の輩はなほの事である。毎日はチータム發言を「斷固として信じ」たから、些細な事柄も決定的な證拠に見えてくる。つまり、カーン氏の浮世繪はデズデモーナのハンカチなのである。 朝日にしても同樣である。朝日は一月九日付の夕刊で、「E2C賣り込み介在高官、岸、福田、松野、中曽根氏」といふ見出しの下にチータム氏の發言を紹介した。それによると、チータム氏はかつて中曽根氏と「一度だけ會談」した事があり、その結果「やはり日商岩井を通じて賣り込むのがいいとの印象」を受けたといふ。そして朝日は「E2Cの對日賣り込みにかかはつたとみられるわが國の政治家の名前」がチータム氏によつて「具體的に明らかにされた」と書いたのである。  當然朝日の讀者は中曽根氏が「グラマン汚職」に一役買つたと思ふであらう。そこで中曽根氏はチータム氏に抗議した。するとチータム氏は、「朝日の報道は事實の歪曲であり誠に遺憾である」と言つたのである。朝日はさぞ慌てた事であらう。讀賣一月二十二日付夕刊は、中曽根氏宛のチータム氏の謝罪文を掲載したが、それによれば、朝日の記者に「日本の實力者と會つたか、あるいは知る機會があつたか」と尋ねられたチータム氏は、「イエスと答へ、財界、産業界、學界、政界を含む、おそらく二十−二十五人の名前を思ひつくまま擧げ」たに過ぎないと言ふ。  しかるに朝日の記者は「住友商事から、日商岩井への代理店變更に關与したとの憶測の下に四人の名前を見出しに掲げ」たのである。要するに朝日は、單なる「憶測の下に」、「不正確で事實を曲げた報道」をした事になる。チータム氏は朝日に謝罪を要求したが、何とも滑稽な話であつて、朝日はチータム氏に踊らされた擧句、踊り過ぎて謝れと言はれたのである。自業自得と言ふ他は無い。  一方、一月二十三日付のサンケイは「“おしやべり”チータムの素顔」と題して、徹底的にチータム氏を疑ふ記事を載せてゐる。そもそも「國際コンサルタント」としてのチータム氏を、不正を發く「正義の告發者」と看做す事は、その前歴からして無理であり、察するにチータム氏は、「ワイロがとびかふ國際商戰のなかで苦境に立」ち、それを打開すべく「正義の御旗をかかげ、有利な國際戰略に活用する一石二鳥をねらつてゐるともいへさうだ」といふのである。  サンケイの推測が正しいかどうか、それは今のところ誰にも解らぬ。が、チータム氏の發言は「宣誓なき證言」なのである。聖書に片手を載せ宣誓した上での證言がすべて正しいと信ずるのは愚かだらうが、「宣誓たき證言」が氣輕に行はれる事は確かであらう。新聞はまづそれを考へねばたらぬ。  輕々に信じない事、それは日本の新聞に欠けてゐる美徳である。吾々は身近な友人にも時に裏切られる。裏切られる事は必ずしも惡い事ではないが、簡單に欺かれるのは馬鹿か子供である。が、新聞は何と騙されたがるのであつて、それゆゑ馬鹿は死ななければ癒らぬとしか言ひ樣が無い。  二月三日付の東京新聞は、米中首腦會談において米中「双方の期待通りの成果があがつたとみてよからう」と言ひ、「テレビで初めて米國の實情にふれ、中國民衆の米國觀は一變したのではないか。米側も人氣のある4(登+邑)氏を迎へ、その口から臺灣平和解決などの言葉を聞いた。朝鮮戰爭以來の長いわだかまりは、急速にとけてゐる」と書いてゐる。中國におけるテレビの普及率を、東京の記者は考へに入れてゐない。また、テレビを見た位の事で中國人の「米國觀が一變」するはずと思ひ、4(登+邑)氏の發言を文字通りに受け取り、米中接近を心から喜び、國家間に眞の友情が成り立つと思つてゐる。何たる無邪氣か。アメリカが中國と手を結び、長年の同盟國臺灣を切り捨てるならば、いづれ日本を見捨てる事も、當然ありうるのである。が、東京の記者はそんな事は夢にも考へない。  要するに、日本の新聞記者の大半は熊公八公なのである。が、それをたしなめる隠居はどこにゐるのか。大衆の浮薄に苛立つたキルケゴールは新聞を批判する諷刺物語を書いてゐる。外洋を航行してゐる船に傳聲器が一つしか無い。しかもそれを食堂の給仕が持つてゐる。そして船員のすべてがそれを正當と看做してゐる。それゆゑ、すべての情報は給仕の頭腦によつて理解され、船内に傳達される事になる。それを皆が當然の事と考へてゐる。が、或る時、船長が船全體にとつて重要な命令を傳へたいと思ふ。當然給仕の助力が必要である。けれども給仕は、おのが理解力に應じて船長の命令を修正してしまふ。その結果、船長の命令は正確に傳はらぬ。船長は聲を張り上げる。が、傳聲器には太刀打ちならぬ。そこでどうなるか。給仕がやがて船長になる。さういふお話である。  新聞が傳聲器を持つ給仕なら、その國は「愚者の船」になる。そして早晩沈歿するしかない。新聞の責任は重いのである。 【人間は變らない】  三月三日付のサンケイによれば、ベ平連のメンバーは今頗る困惑してゐるといふ。「被侵略者ベトナム」が「カンボジアに對する侵略者」となつたかと思ふと、今度はその侵略者ベトナムを中國が侵略した。ために、べ平連の鬪士たちは、「カンカンガクガクの論爭をくり返す」より他になす術が無いといふのである。けれども、彼らは本氣で杜會主義國は戰爭をしないと信じてゐたのだらうか。信じてゐる振りをすると儲かるし、平和を愛する善良な人間を演じるのは何としてもよい氣持なので、こんなぼろい商賣いつまでつづくかしらんと時々不安に思ひながらも、ついつい今日まで惡事を重ねて來ただけの事ではないか。儲かつてその上尊敬されるとあつては、それほどうまい話は無い。それが今、突然難しくなつて大いに慌ててゐるのだらうが、これが藥になつて彼らの商賣は今後もう小し上手になるのではないか、實は私はさう思つてゐたのである。が、それは私の買被りだつた。やはりこの世には死ななければ癒らないほどの馬鹿がゐる。  例へば、かつて新左翼の「理論的支柱」だつた東大助教授の菊池昌典氏は、二月十九日付の朝日で、社會主義に對する幻滅を率直に告白してゐる。「がつくりしました。社會主義に幻滅を感じさせるこれほど決定的なものはないでせう。社會主義は、國際連帯といふチャーム・ポイントを完全に失つてしまつた氣がします」と菊池氏は言ふのである。かういふ菊池氏の率直を褒め、一方、三月三日の朝日夕刊に「人間の基本から」と題する愚劣な文章を寄せた小田實氏の厚顔無恥を批判する向きもある。が、私はそれはどうかと思ふ。私は差別を惡事だとは思はないが、純眞な馬鹿と厚かましい馬鹿とを「差別」する事には反對である。菊池氏は「弱さにもとづく率直さ」を「チャーム・ポイント」にして再び稼ぎまくるかも知れないではないか。それゆゑ今やらねばならぬのは、純情であれ厚顔無恥であれ、すべての馬鹿に冷飯を食はせる事なのだが、これが實はとても出來ない相談なのである。吾國のマス・コミもまた馬鹿に牛耳られてゐるからだ。例へば朝日である。朝日は菊池氏に對して「知識人としての責任はどうか」などと言つてゐるが、この厚顔無恥には私も呆れた。ベトナム戰爭酣なりし頃、馬鹿の尻馬に乘つて散々アメリカを叩いた馬鹿が、今や臆面も無く馬鹿の責任を云々してゐる。目糞が鼻糞を笑つてゐる。これではもうどう仕樣も無い。何ともはや絶望的である。  社會主義國同士も戰爭をする。それは少しも驚くにはあたらない。社會主義國といへども人間の集團である。そして人間は人間たる事の限界を越えられぬ。解り切つた事である。古來、いかなる人間も人間の欠陥を免れなかつた。けれども、ただそれだけの事が進歩派やマスコミにはどうしても理解できない。ロッキード事件やグラマン事件にあれほど熱り立つゆゑんである。他人の惡徳を批判してゐると、人間はとかくおのれを善玉に仕立ててしまふものだが、馬鹿はその事に氣づかない。そして、氣づかないからこそぼろ儲けが出來る。  さういふ馬鹿を日本の吾々が制裁出來ない以上、諸外國をあてにするしかない譯で、中ソ戰爭でも勃發したのではないかと、ひそかに期待して、私は毎朝、新聞の第一面を見る。中ソ戰爭が勃發すれば、左翼文化人やマスコミの反省競爭も勃發するだらう。反省競爭は日本人のお家藝である。日本人は三十餘年前「一億總懺悔」をやつた前科がある。今日、同じやうな事態になつたら、さぞ面白からう。新聞を讀む事はさぞ樂しからう。  けれども、敗戰直後、反省競爭に現を抜かす馬鹿を尻目に、俺は「無知だから反省なぞしない。利口な奴はたんと反省してみるがいいぢやないか」と放言した男がゐた。小林秀雄氏である。そして小林氏は時勢の變化などに左右されぬ人間の本性を見抜いてゐた。他人の不幸を喜び、他國での戰爭を樂しみ、おのれの惡徳を棚上げして他人の惡徳に腹を立てる、さういふ度し難い人間の本性を見抜いてゐた。そしてそれが、菊地氏や小田氏には見えてゐない。利口と馬鹿との違ひは、結局それだけの事なのである。  けれども、三月十二日付の讀賣は馬鹿が利口になつた例を紹介してゐる。「フランス左翼の良心とも目されて來た」ジャン・ダニエルが、「人間は戰爭が好き」なのであり、「共産主義者もかうしたあまりにも人間的た欠陥を免れてはゐない」と言つてゐる。あまりにも當り前な意見で、人間は戰爭が好きなのだが、どうして日本の左翼にはダニエルのやうな考へ方が出來ないのか。やはり中ソ戰爭の勃發ぐらゐでは、日本の馬鹿はたうてい癒らないかも知れぬ。  サンケイが連載した「米ソ戰力バランスと日本の防衞」は好企畫であつた。とりわけアメリカの對ソ戰略專門家、ジョン・M・コリンズの意見は興味深いものであつた。コリンズはアメリカを信じ切つてゐる日本の甘さを痛烈に皮肉つて、「友人を守るために自分が死ぬ事など、一體だれが考へるだらうか」と言つたのだが、日本の新聞人にはかういふ發想が出來ない。國家も個人も人間の本性を免れないといふ事に氣づかない。が、「世界の軍事史上、大國が小國のために自分を犠牲にした例はない」のであり、個人も國家も、己れが生き殘るためとあらば非情にならざるをえないのである。  さういふ國際政治の非情をツキディデスが描いてゐる。大國アテナイは小國メロスに戰はずして降伏せよと迫る。メロスは同盟國スパルタの助勢を信じてゐる。アテナイは言ふ、スパルタは助けに來ない、助勢するだけの價値がある場合だけ、他國はその國を助けようとする、負けると解つてゐる國を誰が助けようとするものか。やがてアテナイはメロスを攻撃する。案の定、スパルタは助けようとしない。メロスは敗れ、メロスの成年男子は悉く處刑され、女子供は奴隷になつた。今から二千四百年も昔の話である。  そして二十世紀の今日、中越戰爭はあつけなく終つた。中國は自分を犠牲にしてまでカンボジアを助けようとはしなかつたが、それはポルポト政權が援助するに足りなかつたためであるよりも、ヴェトナム軍に腑甲斐なく敗れたポルポト軍の非力のせゐであらう。そしてまた、中越戰爭が起つても、ソ連は同盟國ヴェトナムにリップ・サービスをしただけである。してみれば、人間の本性は二千年以上たつて少しも變つてゐないといふ事になる。日本人が知るべき事はそれにつきる。大方の日本人がそれを知れば、馬鹿はおのづと稼げなくなる。けれどもそれは絶望的で、日本が戰場にならない限り、日本は愚者の樂園でありつづけるであらう。 【叩く馬鹿と褒める馬鹿】  人間は天使ではない、けれども獸でもない。この世に完き善人もゐない代りに完き惡人もゐない。それを知る事が日本の新聞記者にとつて何よりも大切な事である。が、このところ海部八郎氏を叩いて樂しんでゐる新聞は、海部氏を完き惡人に仕立てなければ氣が濟まぬと見える。海部氏の中の獸を發き立てて新聞は興がつてゐる。例へば四月四日付の毎日によれば、海部氏は「獨自の調査網を使つて」競爭相手のスキャンダルを握り、「ピンチを切り抜ける」ための武器にしてゐたといふ。毎日は「地獄耳、手段を選ばず」といふ見出しを掲げ、「マキャヴェリスト」たる海部氏は、「市民社會や法の正義は關心の外だつた」と言ふのである。かういふ記事を書く新聞記者が必ず忘れる事がある。それはスキャンダルを握られる手合も惡いといふ事である。他人のスキャンダルを威しの材料に使ふ者だけが惡いのではない。脛に傷持つ手合も惡い。そして人間誰しも法を犯す。立小便やスピード違反なら私は何囘となくやつた。外爲法違反なんぞ、商社員なら誰でもやつてゐるといふ。その通りだらう。毎日新聞だつて叩けば埃が出るだらう。つまり、程度の差こそあれ、吾々は皆海部八郎なのである。  新聞の報ずるところを信じれば、海部氏には何ひとつ美点が無い。けれどもそんな筈は無い。海部氏も人間であつて惡魔ではない。四月十二日付の毎日によれば、東京地檢特捜部は「時價數億圓にのぼる全國各地の海部所有の不動産」のうち「六ヶ所を外爲法違反容疑で家宅捜索したが」、澁谷駅近くのマンションの一室には、童謡を吹き込んだテープが「うづ高く積まれ」、數臺の模型機關車、貨車、ぬひぐるみの人形、「その他のオモチャ類でいつばい」といふ状態だつたといふ。そして海部氏は、その部屋を「息抜きのための書斉」と呼んで家人も寄せつけず、「運轉手も中へ入れたことがなかつた」が、そのマンションの一室から出て來る時は「必ずといつてよいほど、上きげん」だつたさうである。毎日は「開けてびつくり海部メルヘン」などといふ見出しを付け、海部氏を嘲笑してゐる。が、私は最近これほど感動的な事實を新聞紙上に讀んだ事が無い。海部氏が新聞の傳へるやうな完き惡人ではないといふ事を、これほど雄弁に物語る事實は無い。  海部氏は「息抜きのための書斉」に家人を寄せつけなかつた。その理由を毎日の愚昧なる記者は理解出來ないに違ひ無い。要するに、海部氏はおのが善良を家人に對してすら恥ぢたのであつて、善良を看板にして世を渡る政治家やジャーナリストは海部氏の爪の垢を煎じて飲むがよいと思ふ。  毎日は言つてみれば他人を叩いておのれの性惡を忘れる馬鹿である。が、この世には他人を無闇やたらに褒める馬鹿もゐる。例へば四月四日付の東京新聞は、法務省の伊藤榮樹刑事局長を「予算委員會の“名優”」と呼び、こんなふうに褒めちぎつた。すなはち、伊藤局長は「兩院予算委の長丁場にことごとく付きあひ」、「見事に“水先案内役”を果たし」たが、その「名答弁ぶり」たるや、「次から次へとふくらむ疑惑に、ある時はぼかし、ある時はドキッとするやうな表現で、決して手の内は明かさず、それでゐて質問者を滿足させ」たのであつて、その「テクニックは心にくいほどだつた」。つまり「おおつと榮さん名調子」だつたといふのである。東京は伊藤刑事局長に百点滿点をつけてゐる。他人をだらしなく褒めて救ひ樣の無い馬鹿になつてゐる。が、他人を褒めるにも技術は必要であつて、褒められたはうが照れ臭くなり、穴があつたら入りたくたるやうな褒め方は下の下なのである。勿論、褒められて腹を立てる奴はゐないから、伊藤局長もついうつかり相好を崩し、二度三度、東京の記事を讀み返したかも知れぬ。が、そのうちに、手放しで褒める新聞記者の淺はかに氣づいたに違ひ無い。氣づかなかつたなら、伊藤局長も大馬鹿だが、刑事局長は新聞記者並の馬鹿には勤まらないだらうと思ふ。  要するに毎日は叩く馬鹿、東京は褒める馬鹿なのである。まともな大人ならどちらの馬鹿にもなり切れない。しかるに、日本國は弱輩の天下で、子供並の大人がしこたまゐる。新聞記者に限らず、政治家にも發育不良の大人がゐる。例へば古井法務大臣である。古井氏は四月六日付の讀賣に、その「獨自の政治哲學」とやらを披露してゐる。その發言から察するに、古井氏は政治のいろはも弁へぬ全くの素人であるやうに思はれる。讀賣によれば、古井氏は「硬骨漢」ださうだが、どうやら「硬骨漢」とはしやにむに無知を押し通す人間の謂であるらしい。古井氏は政治が嫌ひだと言ひ、政治に金が掛る事に我慢がならないと言ふ。政治が嫌ひならさつさと政治家を廢業したらよささうなものだが、一向に止めさうもないところ見ると、政治が決して嫌ひではないのだらう。それはさておき、古井氏はかつてトインビーと「議論」をした事があり、その際トインビーは「大きな惡と鬪ふには、小さな惡と妥協することもやむを得ない」と言つた。それに對し古井氏が「大きな惡と小さな惡の限界は何か」と聞いたところ、トインビーは「一瞬答へにつまり」、ややあつて「あなたのやうな人は、政治の道を歩くのはつらいでせう」と言つた。古井氏は「この一事からも私が政治に不向きなのが分かるのではないか」と言ふのである。  何といふ馬鹿を大平首相は法務大臣に任命したのだらう。考へてもみるがよい。自分は醫者に向かないと醫者が言つたら、誰が一體そんな藪に命を預けようとするだらうか。政治家に向かない古井氏の首を、大平首相は即刻切るべきである。  古井氏が「政治に不向き」なのは、「大きな惡と鬪ふには、小さな惡と妥協することもやむを得ない」といふ事が理解出來ないからである。「政治に關係する人間」は「惡魔と契約を結ぶものであること、そして、善からは善だけが生じ、惡からは惡だけが生じる、といふのは彼の行爲にとつて眞實ではなく、往々、その逆が眞實であること」、「これを知らない人間は、實は、政治的には子供」なのであると、マックス・ウエーバーは言つた。古井氏の言語道斷の甘つたれを新聞や國民が咎めようとしないのは、わが日本國が目下のところ眞の政治家を必要としないほど平和だからであらう。平和な時代、それは何もしない、或いは何もできない善人がのさばる時代の事なのである。 【滅私奉公の精神】  五月十日付のサンケイ新聞に、佐橋滋氏は「國會の七不思議の筆頭は予算委員會で予算がまつたうに審議されたことがない」といふ事だと書いてゐる。かねてから私は、予算委員會とは査問委員會の別稱だと思つてゐたが、さうではなかつたらしい。やはり予算を「まつたうに審議する」事が予算委員會の本來の役割だつたらしい。しかるに、佐橋氏の言ふ通り、予算委員會はグラマン事件の「眞相糾明」に躍起となり、肝心要の予算のはうはほとんど「無審議で成立」させてしまつた。何とも奇怪な事だが、新聞はそれを一向に怪しまない。それどころか、檢察のやれぬ事を予算委員會がやるべしと、物騒な事を書き立ててゐる。最も冷靜であるべき筈のサンケイ新聞さへ、五月十九日付の「主張」欄では「國民の立場からいへば法律だ、時効だなんていふのは關係がない」などと言語道斷のせりふを吐いている。また、五月八日付の讀賣新聞は「容疑が時効にかかつた人物は、罪のとがをなんら受けることがないが、とくに政治家がそれでまされてよいものではない」と書き、政治家は「刑事責任を解かれた分を含めて、むしろ一層重い政治的・道義的責任」をとるべきであつて、讀賣としては「その責任を明らかにすること」を國會に對し「強く要望する」と書いてゐる。常日頃護憲を錦の御旗にしてゐる新聞が何とも奇怪な言辭を弄するものである。新聞は「國民感情が許さない」と口癖のやうに言ひ、國會を裁きの場にしようと考へてゐるらしい。彼等にとつては、憲法に限らず、およそ法と名のつくものは無用の長物、大切なのはあくまで「國民感情」なのである。かくてサンケイの言ふやうに「法律だ、時効だなんていふのは關係がない」といふ事になり、議院證言法の不備なんぞは論外の事となる。兇惡犯にも法は默秘する權利を認めてゐる。が、議會に喚問される證人にはその權利は無い。むろん「出廷」を拒否しても告訴される。要するに議員證言法は惡法なのである。もとより惡法も法である。が、「法律なんぞ關係が無い」と言切るやうな癇癖の石頭には、惡法にも從ふが、惡法ならば改めようとの冷靜な態度は到底期待できまい。  要するに、新聞は法の相對性といふ事を知らないのである。憲法はもちろんすべての法は可變である。が、新聞は法を絶對視してゐる。それゆゑ政治家に對しても絶對的有徳を要求する。けれども、新聞よ、夫子自身はどうなのかと、私はしばしば書いた事がある。が、昨今私は少し考へを改めた。新聞の偽善は意識せぬ偽善で、それは滅私奉公の精神ではないかと、さう考へるやうになつた。新聞は政治家の品行方正を衷心より期待してゐるので、おのれ自身の不徳は問題ではない。おのれはいかに汚れてゐようと、政治家だけは限り無く清潔であつて欲しい。それゆゑ清潔無比の政治のためなら「法律だ、時効だなんていふのは關係がない」といふ事になる。要するに新聞は政治家の修身がそのまま治國平天下に繋がると信じてゐる。それはつまり、清潔な獨裁者を密かに待望してゐるといふ事ではないか。それは滅私奉公の精神ではないのか。  中央公論五月號に「暗影としてのナショナリズム」と題する一文を寄せてゐる竹内實氏は、さういふ滅私奉公的精神の典型である。竹内氏は「二月十八日、日曜日のあさ、新聞をひろげ」るや、「たちまちみぞおちのあたりに鈍痛をおぼえた」といふ。中國軍のベナトナム侵攻といふ「一面の最上部を横にぶちぬく」各紙の見出しに「手ひど」く「打たれた」といふ。そして竹内氏は「かつての日本軍國主義の中國侵略と、この中國の武力行使の相違点」を「必死」で「さがし求め」るのである。他國を侵略する事に、土臺いかなる「相違点」もありはしまいが、善良なる竹内氏にとつては、必ずや何らかの「相違点」が無ければならぬ。あぐまでも中國を理想の國と信じてゐたいからである。清く正しく美しい中國、さういふおのれの「理想」のためとあらば、眞實も要らぬ、生命も要らぬ、竹内氏はさう思ひ詰めてゐるのかも知れぬ。滅私奉公的精神の面目躍如たるものがあるではないか。  竹内氏の論理はおよそ滅茶だが、理想に殉ずる事が生甲斐なのだから、論理の破綻なんぞは問題ではない。例へば竹内氏は、戰後間もなく或る中國人が作つた「人の皮」と題する一篇の詩を頼りに、「日本軍の中國侵略の情景」を想像する。その詩はまことに愚劣なもので、眞實を語つてゐない事は明らかだが、そのやうな「些事」に竹内氏はとんと關心が無い。とまれ、その詩によれば、中國人の女の「皮をはぎとつた」日本兵がゐた事になる。竹内氏は憤慨し、その日本兵を「鬼」だと言ふ。けれどもその「鬼」だつて、「平和な環境」にあつてはごく平凡な市民だつたに違ひ無い。では、「なぜ人間が鬼になつたのか」と竹内氏は自問する。そして竹内氏の結論は、何と「天皇制のせゐだ」といふ事になる。即ち、「人の皮」に描かれてゐるやうな「殘虐な情景は、この下手人が日本の平和な體制、天皇制のもとでどれほど苛酷なめにあはされてきたかを物語る」と竹内氏は言ふのである。要するに、惡いのは天皇制であつて、中國人の皮を剥いだ日本兵は惡くないといふ事になる。この傳でゆけば、竹内氏が在日ウガンダ人に殺されたとしても、罰せらるべきはウガンダ人ではなく、彼を「苛酷なめにあわせた」アミンの暴政だといふ事になる。そして、殺された竹内氏は草葉の蔭から專らアミンを呪へばよいといふ事になる。  竹内氏は論理の破綻を少しも氣にしない。「理想」に對して「滅私奉公」してゐるからである。そして、滅私奉公とはおのれを捨てて他者にすべてを任せ切る事だから、他者の裏切りは端から問題外の事になる。それゆゑ、竹内氏の如く、裏切られても裏切られても、裏切られたとは思ひたがらない親中知識人が日本國にはしこたまゐる譯である。  もとよりさういふ純情は國際政治の世界では通用しない。しかるに、その途方も無い純情を揚言してゐるのが日本國憲法であり、その提灯持ちをしてゐるのが日本の新聞である。言ふまでもなく、日本國憲法の精神も滅私奉公の精神で、それはいづれ日本國を滅ぼすであらう。食ふか食はれるかの國際社會では裏切りが常態で、しかも常態だと知つたところで救ひがある譯ではない。メルヴィルは書いてゐる。  鮫が人間の片足を銜へて言つた。「どうだ、俺はお前を食ふと思ふか、食はないと思ふか、正直に答へたら助けてやる」。人間は「食うと思ふ」と答へた。鮫は言つた。「そうか。しかし、やつぱり食つてやる。食はない事は俺の良心が許さないからな」 【法の嚴しさを知れ】  宝永六年の事である。イタリア人の宣教師シドッチは江戸の奉行所で新井白石の訊問を受けた。白石は後にその經緯を『西洋紀聞』に記してゐる。それによるとシドッチは、自分には夜間の見張を付けるには及ばないと言つた。「天また寒く、雪もほどなく來らむとす」る折、晝夜の別なく自分を見張つてゐる牢番の辛苦はこれを「見るに忍び」ない、このシドッチに足枷をはめ、獄中に繋いで貰ひたい、さうすれば牢番も「夜を心やすく」寢られるであらう。シドッチはさう言つたのである。奉行所の面々はいたく感服した。しかるに白石だけは納得せず、理窟に合はぬ「いつはり」を言ふとてシドッチを咎めた。白石の言分はかうである。牢番は奉行所の命令を重んじるからこそ、寒空の下夜を徹して見張つてゐる。その牢番を汝は氣の毒だと言ふ。しかるに、先に奉行所が汝の「肌寒からむことをうれ」へて、度々「衣給はらむ」としたるに、汝は頑なに受け取らうとしなかつた。奇妙な事ではないか、奉行所の役人も、牢番と同樣、汝の身を守れとの公儀の命令を重んじたまでの事、牢番を思ひ遣る心があるならば、當然衣を受け取り、奉行所の役人の心を安んじてやるべきではないか。さう白石は言つたのである。シドッチは大いに恥ぢ入つておのが「いつはり」を認めたといふ。  要するに白石は、シドッチの申し出に手も無く感激した奉行所の役人と異り、「情に棹さし」流されずして、おのれの考へを述べたのであつて、かういふ日本人は頗る珍しい。世論に迎合せずして異を唱へるのは、日本人の頗る苦手とするところだからである。例へば今日、スト權ストなる奇怪千萬の言葉を、世人は何ら怪しむ事無く使つてゐる。けれども、これほど奇妙きてれつな言葉は無い。スト權ストとは「スト權を認めさせるためのスト」だといふ。それなら當然、公労協のストはまだ法的に認められてゐない譯である。しかるに、國労も動労も平氣でストをやる。それはつまり、法が禁じてゐる事を法的に認めさせようとして、法が禁じてゐる事をやる、といふ事である。言ふまでもなく法は殺人を禁じてゐる。が、人を殺す權利を認めさせようとして人を殺したら、どういふ事になるか。殺人權殺人といふものを世人は果して許すだらうか。  しかるに、六月三日付の朝日によれば、森山運輸大臣は、スト權スト參加者の處分について、何とその「凍結を」國鐵に要望したのである。それを聞いて「怒り心頭に發」した民社黨前委員長春日一幸氏は、民社黨幹部に對して「運輸大臣のクビをとれ」と叫んだといふ。運輸大臣の「凍結」要望は「法治國家として斷じて許すべからざる」事だといふのである。春日氏の立腹は當然だが、朝日は「春日氏の怒りがどこまで政府に通じるか」などと、餘所事のやうに書いてゐる。奇怪千萬である。法治國の大臣が違法行爲の處分をためらひ、常日頃、最高法規たる憲法を崇め奉つてゐる新聞が、法治國にあるまじき運輸大臣の措置を少しも怪しまない。新井白石なら、理窟に合はぬ「偽り」を言ふものかなと、森山氏と新聞を激しく咎めるに違ひ無い。  一方、「灰色高官」松野頼三氏の道義的責任を問へとのマスコミの主張も、甚だもつて理窟に合はない。が、それを怪しむ文章を私は新聞紙上に讀んだ事が無い。刑事責任が問へぬのだから道義的責任を問ふべしと、新聞はしきりに書き立ててゐる。つまり新聞はリンチをやりたがつてゐる。法廷で裁けぬ人間を何としても裁きたがつてゐる。  松野氏の問題に限らない。一事が萬事であつて、吾國の新聞は法といふものを嚴密に考へないのである。例へば、六月七日付の日經夕刊は、財田川事件の再審決定を報じたが、その見出しにおいては谷口繁義と呼び捨てにして、それを鉤括孤で括つてゐる。本文では「谷口被告」としてゐるところを見れば、日經は呼び捨てを躊躇したのであらう。谷口は「谷口繁義」とすべきが、谷口被告か、それとも谷口元被告か。日經に限らず、さぞや新聞は困つたであらう。  けれども、さういふ中途半端な對策を講じなければならないのも、元を糺せば、新聞が日頃物事を嚴密に考へないからである。被告人の有罪が確定するのは最終審においてである。それまでの被告人は容疑者ではあつても罪人ではない。しかるに日本の新聞は、罪人と決らぬうちから被告や容疑者を呼び捨てにして憚らない。田中元首相は田中であり、海部八郎前副社長は海部である。が、田中氏の場合も海部氏の場合も、一審の判決さへ下つてゐない。もし兩氏が最終審で無罪になつたら、新聞は手の裏を返すごとく呼び捨てをやめるだらうが、それは頗る非人間的な行爲である。この際新聞は、最終審の判決が下るまでは、明らかな現行犯の場合を除き、容疑者や被告の呼び捨てをやめたらどうか。アメリカ娘を殺したとの容疑で逮捕された日本人留學生を、アメリカの新聞は「ミスター・モリ」と呼んだのである。  ところで、財田川事件の場合、再審開始の決定がなされたといふ事は、審理をやり直せとの決定がなされたと、それだけの事を意味するに過ぎない。けれども新聞は、谷口の無罪が確定したかのやうに考へてゐるらしい。例へば六月七日付の毎日夕刊は、「死刑囚から被告の座へ、そして無罪への道を確實に歩まうとしてゐる」と書いてゐるのである。が、なぜそのやうに斷定できるのか。同日付の讀賣夕刊で、谷口自身が言つてゐるやうに、谷口は「まだ無罪になつたわけではない」。私は谷口の死刑を望んでゐるのではない。が、今囘の再審決定に關して、これまでの審理の一切を否定するかのごとき情緒的發言が目立つ事を奇怪に思つてゐる。六月八日付の讀賣が書いてゐるやうな、冤罪による死刑は「考へただけでもゾッとする」から、再審決定は死刑制度の「見直しを迫」る「手掛り」を与へたと考へるべし、などといふ議論は首肯できない。  勿論、冤罪による死刑はあつてはならない。が、裁判も人間のやる事だから、誤ちは免れない。誤審の根絶は不可能である。さりとて、死刑制度を廢止せよとか、法の嚴しさを緩和せよとかいふ議論は、あまりにも單純に過ぎる。ホッブズの言ふ通り、法の無い状態において人間は頗る悲惨である。法不在の状態とは、「萬人の萬人に對する鬪爭」の状態であつて、そのやうな悲惨を避けるために、法は飽くまでも秋霜烈日の嚴しさを保持しなければならない。  安手のヒューマニズムは何事をも解決できない。法にはもとより限界がある。けれども惡法も法であつて嚴しく守らねばならぬ、しからば法と道徳との關係は如何、さういふ事を新聞は一度眞劍に考へて貰ひたい。 【善玉惡玉と二分するな】  七月十日付サンケイ新聞直言欄に、村松暎氏は「東京サミットはめでたく終了したが、ことにあはれをとどめたのは警察であつた」と書いてゐる。警察の熱心な警備に對して「誰も御苦労と言」はなかつたばかりか、新聞は「警備の過剰を酷評」したからである。が、村松氏の言ふ通り、「萬萬一のことがあつたら(中略)國際的な大問題」になつたであらうし、さうなれば「いま警察を惡く言つてゐる人たち」が「非難攻撃を警察に浴せるのは目に見えてゐる」。  今囘警察は何とも間尺には合はぬ仕事をやらされた譯であつて、村松氏と同樣、私も深く警察に同情してゐる。新聞は常に強者に楯突くから、いや楯突く振りをするから、警察の努力を正當に評價しない。そして警察に落度があらうものなら、ここを先途と責め立てる。以前、警官が女子學生を手込めにして危めた時、新聞は居丈高に警察を批判した。けれども、警官も人の子、新聞記者や教師と同樣、殺人や強姦をやらかす者がゐて何の不思議も無い。  新聞記者が「過剰警備」に不滿だつたのは、サミットの期間中、彼等が不自由を強ひられたからであらう。そして不自由を強ひる者を惡玉に仕立てるのは、戰後の惡しき風潮である。さういふ風潮を蔓延らせた元凶は日本國憲法だと、私は思つてゐる。周知の如く、日本國憲法に義務規定は頗る乏しい。そのため、戰後は國民の權利のみが強調され、國民は僅かばかりの不自由にも過敏に反撥するやうになつた。「サミット警備」に對する新聞の反撥も、さうしたわがままの典型に他なるまい。  一方、六月二十七日付の讀賣によれば、羽仁五郎氏たち「文化人グループ」は、「サミット警備」が「市民生活に支障を及ぼしてゐる」として、「東京サミット過剰警備に抗議する會」たるものを結成したといふ。昨年だつたか、羽仁氏は前衞舞踊の踊子に惚れ、得體の知れない「何とかを何とかする會」を結成した筈である。そつちの會のはうはその後どうなつたのか。事ある度に刹那主義の徒黨を組んではしやぐのはいい加減にして貰ひたい。  だが、羽仁五郎氏の會なんぞは實はどうでもよい。淺薄な思付きにもとづく同好會なら、やがて泡沫の如くに消えるであらう。けれども、ひたすら權利のみを主張して自己犠牲を嫌ふ人間ばかりが殖えてゆくばかりでは、日本國の前途が案じられる。國民に不自由を忍ばせる事を、爲政者たるものは時に敢へてせねばならない。今囘の「過剰警備」など、當然すぎるくらゐ當然の事ではないか。  六月三十日付の東京新聞によれば、總評は「サミット過剰警備」に抗議して、「警察は全國から機動隊員を總動員して善良な市民の車をいちいち檢問するなど、戒嚴令下を思はせる警備を行ひ、國民生活に計り知れない不安と損失を与へ」たのであり、「人權を無視したこの權力の規制に聲を大にして抗議する」と言つてゐるといふ。盗人猛々しとはまさにこの事である。言ふまでもない事だが、警備のための規制は合法的である。しかるに、總評傘下の公労協がこれまで再三再四行なつた「スト權スト」は紛れも無い違法行爲ではないか。その違法行爲によつて公労協は「善良な市民」の足を奪ひ、「國民生活に計り知れない不安と損失を与へ」たではないか。前科者が警察を非難するとは度し難き厚顔無恥であるが、新聞はそれを咎めず、却つて合法的な警備を難ずるのである。  さらにまた、六月三十日付の東京新聞で、作家の畑山博氏は「過剰警備」を批判し、「會期中、都心部では市民の姿より警官の數の方が目立つた」が、それは「民主主義の國にとつて、あまり美しい光景ではない」と述べてゐる。民主主義國だらうが全體主義國だらうが、萬一の事態に備へる場合、「警官の數の方が目立つ」のは當り前であつて、それは美感や美觀の問題ではない。「美しい光景」などはたつた一人の凶惡なテロリストによつて臺無しにされてしまふのである。「美しい光景」が好きな畑山氏は、美しく超俗的な甘つたるい人間愛の物語かなんぞを書いてをればよろしい。俗事に口出しはせぬがよろしい。  ところで、畑山氏に限らず、人間の邪惡な本性を無視する手合は、一旦他人に惚れ込むとこの上無く情緒的になる。先に4(登+邑)小平氏が來日した時の新聞人がさうであつた。そして今囘、カーター大統領一家に新聞はぞつこん惚れ込んだのである。六月二十九日付の讀賣は「日本を魅了した“母娘外交”」といふ見出しをつけ、ロザリン夫人とエミー嬢に最大級の賛辭を捧げ、「優しく、庶民的で、仲むつまじい母娘の“素顔”にひきつけられた人は多かつたに違ひない」と書いてゐる。私は「仲むつまじい母娘」に「ひきつけられ」はしなかつたが、それはともかく、カーター氏はなぜ國外に娘を連れ出すのだらうか。子連れの「庶民外交」が國際政治の世界で通用すると、まさか本氣で信じてゐる譯でもあるまいが、たとへ本氣で信じてゐるとしても、子連れ外交の理解者は日本の新聞だけといふ事にならう。六月二十八日付の東京新聞は、「カーターさん、一家をあげての庶民外交はお見事でした」などと、引用するのも氣恥づかしいほど、手放しで譽めちぎり、かくも「誠實」なカーター大統領が、米國内で「どうしてこれほど不評なのか、實は不思議である」とまで書いてゐる。いつそ日本國はアメリカの一州になり力ーター氏を指導者に仰いだらよい。さうなれば、東京新聞は随喜の涙を流すであらう。  だが、七月二日付のサンケイ新聞は、韓國の神經を逆撫でするやうなカーター氏の言動について報じてゐる。「國賓としてのはじめての招待にたいしカーター大統領は當初、治外法權下の米軍基地に着陸、第一夜を基地で送る案を出した」が、それは「さすがに韓國側の激しい反撥にあつて、金浦到着に修正された」ものの、カーター氏は「外交儀禮的プロトコールを無視し、歓迎行事を飛び越えて朴大統領の出迎へる空灣から基地に直行、まづ米軍將兵に會ふ始末だつた」といふ。そればかりではない。カーター氏は「韓國側が最もふれられたくたかつた人權問題を、聲高にかつ鋭く首腦會談や晩さん會の演説で取り上げ、共同聲明にまで盛りこんだ」のである。一見「善良」で「誠實」さうなカーター氏にも、當然さういふ邪惡にして淺薄な一面はあらう。  この世に全き善玉も全き惡玉もゐない。が、日本の新聞にはそれがどうしても解らぬと見える。しかも始末に負へないのは新聞が自主的な判斷にもとづいて善惡の區別をする譯でないといふ事である。つまり、新聞は大勢に迎合するに過ぎない。漆山成美氏は「新聞が國を誤らせる九章」(高木書房『悲劇は始まつてゐる』所収)において、さういふ新聞の無責任を痛烈に批判してゐる。一讀をすすめたい。 【身勝手ばかりを言ふな】  西岡幹事長の離黨に端を發した今囘の新自由クラブのお家騒動を批判して、七月十七日付の讀賣は、政黨といふものは「愚直な行動」とか「腐敗からの決別」とかいふ「ムード的言動だけではやつて行けない」と書いた。一方、毎日は「酷ないひ方かも知れないが、新自クとは何であつたか−といふ疑問を表明しないわけにはいくまい」と書き、東京にいたつては、今囘の騒動には「スカッとさはやか」な「清涼感は、みぢんもみられない」と書いてゐる。笑止千萬である。三年前、コカ・コーラ的「清涼感」を稱へ、コカ・コーラ的政黨の誕生に拍手喝采したのは新聞だつたではないか。例へば朝日の社説は當時「新黨設立の報道に國民が激励と共感でこたへたことは、自民黨に對する痛烈な不滿の表明と聞くべきである」などと、手放しで「激励と共感」を表現したのである。しかるに今、新聞は手の裏を返すごとく新自由クラブを批判してゐる。何たる恥知らずか。一體いつになつたら、他人にだけ「清涼感」を期待する事の身勝手に新聞は氣づくのだらうか。  七月二十六日付毎日夕刊の「憂樂張」なるコラムの筆者は、松野頼三氏の議員辭職を論じてマックス・ウェーバーの文章を引いてゐる。ウェーバーは「政治家の誇りは自分の行爲に對する責任を一身に引き受けることであり、政治家はかかる責任を拒否したり、轉嫁したりすることもできないし、また、してはならない」と強調してゐるが、松野氏のごとく「ケヂメをつけるために、ちよつとの間だけ辭め、またカムバックをはからうといふのでは、眞に責任をとつたことにはなるまい」といふのである。これまた何とも身勝手な引用である。筆者はウェーバーを讀んだ事が無く、誰かの本から孫引きしたのだらうか。それともこれは意識的な犯罪なのか。かういふ場合、意識的な犯罪と考へるはうが筆者を重んずる事になる。けれども、それならなほの事許し難い。ウェーバーの文章から筆者が意識して引用しなかつた部分はかうである。「政治に關係する人間」は「惡魔と契約を結ぶものであること、そして、善からは善だけが生じ、惡からは惡だけが生じるといふのは彼の行爲にとつて眞實ではなく、往往、その逆が眞實であること、(中略)これを知らない人間は、實は、政治的には子供」なのである。(清水幾太郎譯)。「憂樂帳」の筆者は、なぜこの部分を無視したのか。言ふまでもない、コカ・コーラ的正義漢には理解できなかつたからである。小児病的正義感に酔ひ痴れ、專ら他人の道義的責任ばかりを問ふ石頭の偽善者に、「政治家は惡魔と契約を結ぶ」などといふ「暴論」が理解できる筈は無い。  一方、七月二十一日付毎日の「記者の目」は「日本人ドライバーのマナーの惡さ」を嘆き、「免許試驗をこれまでのやうな技術一邊倒からモラル向上に方向轉換すること」が必要だと主張して、「警察庁など關係機關は(中略)高速道路を安全に走れるマナーを備へたドライバーの養成策を檢討すべき」だと書いてゐる。馬鹿々々しい提案である。免許試驗を「モラル向上に方向轉換する」事も、「高速道路を安全に走れるマナーを備へたドライバー」を養成する事も、「警察庁など關係機關」のよくなしうるところではないし、またなすべき事でもない。警察は法に違反する行爲を取締る事はできても、ドライバーのマナーや「モラルの向上」などについては、これをどうする事もできぬ。それに何より、ここにも新聞の、いや日本人の、道義的頽廢が如實にあらはれてゐる。昨今人々は何事につけ他人の責任を追及する。その癖、自らは道義的たらんと努める事が無く、「モラルの向上」については他人に下駄を預けようとする。が、カントも言つてゐるごとく、道徳とは飽くまで自律的なものである。「モラルの向上」はドライバー一人一人の自覺に俟つしかない。  新聞が他人を咎め立てしておのれを棚上げし綺麗事しか言はないのは、綺麗事が大衆に受けると思ひ込んでゐるからである。けれども、政治家や新聞が俗受けを狙ふのは嘆かはしい事だが、その危ふさに氣づいてゐる新聞記者が皆無といふ譯ではない。七月二十六日付毎日に載つたワシントン駐在寺村特派員の文章を私は興味深く讀んだ。寺村特派員によれば、ブルメンソール前財務長官は「臆病な政治家たちや世論調査の結果ばかりに氣を取られてゐる愚かな人たち」を批判して「幻想にとらはれることなしに、あるがままに現實を直視しなければならない」と言つたといふ。ブルメンソール氏は「專門家の意見よりも、大衆がどう考へるかですべてを判斷しようとするホワイトハウスにウンザリしてゐた」といふ。政治家が俗受けを氣にし過ぎる事の危險は、夙にトックヴィルが指摘したところである。アメリカの大統領選擧が行はれる時期は「國民的危機」である、なぜなら大統領は「自己防衞で心が一杯になつて」をり、「國益のために政治」を行はうとせず「再選のために政治を行ふ」やうになるからで、大統領は「多數者の前に平身低頭(中略)、多數者の氣まぐれに媚びる」(井伊玄太郎譯)やうになると、トックヴィルは書いてゐる。  もとより「大衆がどう考へるかですべてを判斷しようとする」のはアメリカの大統領に限らない。七月二十五日付の日經は、先に公表された防衞白書について論じ、「有事の際、米第七艦隊が、日米ルートをはじめとする海上交通路を維持する能力があるか否かは日本にとつて重大な關心事」であり、しかも、現在の「状況のもとでは、米軍の日本への大規模な來援は困難が伴ふはず」であるにも拘らず、「白書はその對應策には觸れてゐない」と書いてゐる。なぜ白書はそれに觸れないのか。言はずもがな、防衞庁もまた世論に氣兼ねしてゐるのである。だが、七月二十四日付のサンケイが書いてゐるやうに、國際軍事情勢に即した對應策を考へぬ防衞白書などは、所詮「防衞お伽噺」に過ぎない。  しかるに、七月二十五日付の朝日は「防衞庁が國民世論が變化したとみて、軍事的な視点に偏つた“押せ押せ”ムードにひたるとするなら、折角できかけた國民合意に逆行することになるかもしれない」と書いてゐる。朝日もまた「國民合意」なるものを神聖視してゐる譯である。朝日は世論にさへ「逆行」しなければよいので、論理の破綻などは意に介さない。それゆゑ、朝鮮半島の「平和と安定」が日本の「平和と安定に關係」する事は認めながら、南北の對立に卷き込まれるな、などと主張する。奇怪千萬なる論法である。さういふ身勝手が個人にとつてと同樣國家にとつても可能かどうか、それは論を俟たない。 【何とも空しい茶番狂言】  以下に引用するのは小學六年生の作文の一部である。    「ポチが死んだ」といふことが、なぜか、まだぼくにはピンと來ません。犬小屋へ行けば、いまでもすり寄つて來て、あのなまあつたかい息を、フーツとふきかけてくるやうな氣がしてなりません。「ポチ!」と聲をかけると、いまにもむつくり起き上がつて「何を騒いでるの?」とでもいふやうにゆつくり歩き出すのではないか、といふ氣がします。  次に引用するのは九月四日付朝日の記事の一部である。  「ランランが死んだ」といふ事實が、なぜか、まだ中川さんにはピンと來ない。パンダ舎へ行けば、いまでもすり寄つてきて、あのなまあつたかい息を、フーツとふきかけてくるやうな氣がしてならない。「ランラン!」と聲をかけると、いまにもむつくり起き上がつて「何を騒いでるの?」とでもいふやうにゆつくり歩き出すのではないか、と。  解説するには及ぶまい。朝日の記者の純情に讀者は笑ひころげたであらう。よい年をして、たかが畜生一頭の死について、思入れたつぷりに、朝日の記者は幼稚極まる文章を綴つた譯である。朝日に限らない、同日付のサンケイは、第一面でランランの死を詳細に報じながら、落語家圓生の死については何と十七面で報じたのであり、これまた正氣の沙汰とは思はれぬ。圓生はよくよく不運な男である。一日早く、或いは一日おそく死ねばよかつたのである。  同日付の東京新聞もまた、ランランの危篤を知らされた大平首相が「あまりにもそつけない應答」をしたと、不服げに愚劣な文章を綴つてゐる。首相が涙でも流せば、東京はさぞかし喜んだ事であらう。齋藤緑雨は昔、「涙ばかり貴きは無しとかや。されどあくびしたる時にも出づるものなり」と書いた。この種の冷靜な諧謔の精神こそ、とかく情緒的になりがちの日本人にとつて何よりも必要なものである。九月四日付の朝日によれば、黒柳徹子女史は「こんなに突然、不幸な事になるなんて、涙が止まりません。(中略)ひとり殘されたカンカンがどんなにさびしがるか、それが氣の毒でなりません」と言つたといふ。何ともはや純眞な女性で、何ともはや幸福な女性である。黒柳女史の「止ま」らぬ涙とは、衣食足りて禮節を知らぬ國の住人の、何とも贅澤なセンチメンタリズムに過ぎない。治にゐて亂を忘れるのが人間の常である。が、それにしても新聞や黒柳女史の感傷は度が過ぎる。食料の九割近くを海外に依存する吾々は、食ふ物が無くなると人間がどこまで堕ちるものか、時々それを懸命に想像すべきである。コリン・ターンブルは『食ふ物をくれ』(筑摩書房)において、餓鬼道に堕ちた人間の姿を赤裸々に描いてゐる。それはアフリカのイク族の話で、食ふ物が極度に乏しい環境にあつてイク族は、親子兄弟でも助け合はうとはしない。父親が食ふ物を見つけると、それは父親だけが食ふ。子供は三歳になると獨力で食ふ物を捜さねばならず、空腹のあまり石や土を食ふ事もある。毎親にとつても三歳未滿の子供の面倒をみるのは苦痛であり、豹に赤ん坊を攫はれて安堵する母親もゐる。治にゐて亂を忘れ、ポルノ小説や探偵小説を樂しむ吾々は、たまにはかういふ鬼氣迫る話を讀む必要があると思ふ。  一方、九日四日付の日經によれば、或る「外交關係者」は「相手國の國民を引き付けるうへで、一頭のパンダは、どんな外交官にもまさる役割を果たしてゐる」と語つたといふ。その「外交關係者」は「パンダ大使の活躍ぶりに舌を卷い」てゐるといふのである。パンダが「外交官にもまさる役割を果た」すのなら、中國に外務省は要らぬ。せつせとパンダを交合、妊娠、出産させ、世界各國に派遣したらよい。ヴェトナムに「パンダ大使」を派遣しておけば、「ヴェトナム侵攻」なんぞをやらかさずに濟んだに相違無い。  とまれ、今囘のランラン騒動は狂氣の沙汰であり、日本の新聞は自國の恥を世界中に晒したのである。九月八日付の讀賣によれば、韓國日報は「どこの首相が死去したとしても、これほど騒がれないだろう」と書いたといふ。また、朝鮮日報は、今囘の騒動の因つて來る所として、日本のマスコミが「問題の本質や核心を正確につかめず空論を樂しむ形式美」に囚はれてゐる事實を指摘し、韓國に關する報道や論評も同樣であつて、「問題の本質には目をそらし」、「韓半島の安定と平和は緊要である」といつた類の「形式美だけを追求するのが、日本人特有の習性でもあるやうだ」と書いたさうである。その通りであつて、經濟的には日本に及ばぬ韓國に、吾々の精神面での脆さを見抜かれ、私は大層恥づかしく思ふ。日本の新聞は、「空論を樂し」み「形式美だけを追求」し、情緒的な綺麗事を書き捲る。「問題の本質や核心」に迫らうなどとはおよそ考へない。  例へば昨今、朝日と毎日は、サンケイの「マスコミ論壇」に倣つてか、新聞批判のコラムを設けたが、その本氣を私は大いに疑つてゐる。九月十二日付の朝日の「私の紙面批評」柳田邦男氏の執筆になるものだが、それは批評になつてゐない。『現代』十月號は痛裂な新聞批判をやつてゐるが、そこで辻村明氏は「新聞紙面での新聞批判にはおのづから限界があり、毒にも藥にもならないやうな批評が多い」と書いてゐる。  土臺、朝日の紙上で朝日を徹底的に叩けないのは餘りにも當然の事である。サンケイは「マスコミ論壇」を設けるに當り、「自社に對する齒に衣着せぬ批判をも掲載する」と讀者に公約した。私はその「マスコミ論壇」の執筆者の一人だが、サンケイの公約についてはそれを信じ切れずにゐる。もしも私が、週刊サンケイの惡口を本氣で書けば、サンケイは困惑するに違ひ無い。それゆゑ私は、サンケイ紙上では週刊サンケイ以外の週刊誌を叩く事にしてゐる。柳田氏にしても、もしも本氣で「紙面批評」をやる氣なら、朝日以外の新聞を叩き、朝日を叩くのは朝日以外の新聞のコラムに任せたらよいのである。朝日紙上で朝日を批評しようとすると、奥齒に物の挟まつたやうな言ひ廻しで、苦しげなおべんちやらを並べる羽目に陥る。例へば、七月二十三日付毎日新聞の寿岳章子氏の「新聞を讀んで」がさうであつた。毎日新聞がサッチャー首相の英語を「女言葉」に譯してゐるのが氣に入らぬなどと、寿岳氏は咎めるに價せぬ事を咎めてゐるが、これも決して本氣でない。その證拠に、すぐに寿岳氏は「しかしいつまでも怒つてゐるまい」と書き、自分は毎日の記事に「あたたかな目の毎日らしいのびやかさ」を感じ、毎日の「すばらしい写眞、すばらしい記事」に「多くををそは」つたと書いてゐる。何とも空しい茶番狂言である。見え透いたおべんちやらである。そしてこの種の阿諛追從の駄文を掲載して恥ぢない毎日も、本氣でおのれを省みようなどと決して思つてはゐないのである。 【明治は遠くなりにけり】  これまで私は新聞に惡態ばかりついて來たから、今囘は少しく新聞を褒めようと思ふ。九月二十四日付のサンケイは、その「主張」欄において、「上野動物園のパンダに涙を流」し感傷に浸つてをられるやうな今日の「太平ムード」を齊したものは、日本人の「“なんとかなるさ”精神」であつて、「それですむ間はよい」が、「それですまぬ事態が發生したらどうなるのか」と書き、日本人にとつて「いま必要なこと」は「正しいことは正しいといひ、をかしいことはをかしいといふ勇氣をもつこと」だと結んでゐる。全く同感である。が、他ならぬサンケイも「パンダ騒動」には浮かれたのであつて、「主張」の筆者もそれは憶えてゐる筈である。しかるに、筆者は敢へて同僚を窘める一文を草した譯であり、その勇氣を私は見上げたものだと思ふ。昔、齋藤縁雨は「奈何にせん私情と公義と遂に代へ難きを、予は既に身の犠牲たるを覺悟し居れば文學界の惡風習を除去するに於て怨まるるも怒らるるも忌まるるも嫌はるるも毫も拘らざるなり」と書いた。「私情と公義と遂に代へ難く」、サンケイの論説委員は同僚に「嫌はるる」もやむなしと考へたのだらうと思ふ。  同樣の理由から見事だと思つたのは、九月三日付の東京新聞「筆洗」欄の秀逸なる戯文である。前囘、紙幅の關係で引用できなかつたので、今囘ほぼ全文を引用しておく。  ランラン妃には、突然、御轉倒遊ばされ、(中略)侍醫拝診にみれば、急性ジン不全に渡らせられ、御血液は減少、御呼吸は不規則にて憂慮の極みと承る。愁色濃き上野山には、御平癒を祈らんとの三々五々來りては拝し、拝しては去る人々ひきも切らず。(中略)土下座してはるかに、御園を伏し拝みつつある老若をみて、某國特派員は写眞機にてこの姿を撮り収め、日本人のパンダヘの忠誠かくぞとばかり打電せし、とか。なかには某國大使館員にして、「あの動物は中國よりもらひ受けしものにあらずや、かくも嘆き悲しむ理由いかに」と問ふもあり。まこと、國を擧げての憂色、偉觀というべきや、奇觀といふべきや、その言葉を知らず。  猫も杓子も浮かれてゐる時に、かくも冷靜に戯文をものにした新聞人がゐたのかと、私は大いに感心した。畜生は所詮畜生、「國を擧げての憂色」はまさに「奇觀」である。  畜生といへば、十月七日付のサンケイは、第二十面に「“一圓玉募金”一千萬圓突破−全國の小學生から續々」といふ大きな見出しを掲げ、「クル病と鬪」つてゐた象の花子が「全國の花子フアンからの“一圓玉募金”」のお蔭で元氣になり、歩けるやうになつたといふ記事を、パンダ報道ほどではないものの、かなり派手な扱ひで載せ、第二十一面には、石川水穂記者の取材による或る不幸な家庭の物語を、象の花子の物語よりもずつと小さい扱ひで載せてゐる。。石川記者によれば、大浦マツさんといふ葛飾區の女性は「四年半前、夫と娘を交通事故でなくし、またこんどは手が不自由ながら明るく生きて心の支へでもあつた息子を輪禍に奪はれた」といふ。「藥害のため、生まれつき、兩手の指がくつついてゐた」息子は、練習を重ね「なんとか鉛筆やハシが持てるやうに」なり、「ふつうの子の二倍も三倍も勉強」して「國語でも算數でも常にトップクラス」であつた。その最愛の息子を失つたマツさんは「なんでうちばかりこんなに不幸が續くの」かと、涙聲で語つたさうである。  この種の不幸を記事にする場合、新聞記者は必ず惡玉を探し出す。政治家だの大企業だのを惡玉にして安心する。が、この世には誰のせゐでもない不幸、運が惡いとしか言ひ樣の無い不幸もあるのであり、サンケイの記事から知りうる限りでは、マツさんの不幸は正しくさういふ類の不幸だと思ふ。石川記者はそれを理解してゐるやうであつて、私は好感をもつた。「生きるハリのすべてを失つてしまつたこのお母さんに、どんな慰めの言葉もむなしいやうに思へてならない」と石川記者は書き、「生きてください」と言ふのが精一杯だつたと結んでゐる。安易なる同情の無力を言外に語つて立派である。  けれども、この石川記者の記事は小さな扱いで、象の花子の記事が大きく掲載されてゐたため、その「對照の妙」に私はいささか釋然としないものを感じた。象の花子の話は子供たちの善意を扱つて讀者を喜ばせる明るい話題だが、新聞がさういふ明るい話題を、解決の無い暗い話題よりも好む事に、私は少しくこだはるのである。人間誰しも、いかな「慰めの言葉もむなしい」やうな現實に直面する事がある。さういふ、解決の無い現實を直視する習慣を、泰平の世なればこそ、新聞はおのれにも讀者にも植ゑつけるやうに努めねばならぬ。  泰平の世には贋物が横行する。さういふ贋物の一人、外山滋比古氏を私は手酷く叩いた事がある。  サンケイの「世代百景」といふコラムには、その外山氏が書いてゐるが、あのやうな駄文をサンケイはいつまで掲載する積りなのか。十月九日付夕刊の「世代百景」には、自著のサイン會に出掛けたところ、「あひにくの雨」にも拘らず頗る盛況で「息つくひまもない」程の忙しさ、「一時間で二百三十冊」もサインしたと、外山氏は書いてゐる。  先日私は、敬愛する友人から「外山氏なんぞ屁のやうなものだから」、腹を立てるのも程々にしておけと忠告された。けれども昔、三昧道人といふ小説家が『吾亡妻』といふ作品を書き、匿名で自作を褒めるといふ、ふざけた眞似をした時、齋藤縁雨は大いに立腹し、三昧道人の作品は「世を欺きて涙を絞り掠めんとしたる」ものだと激しく難詰した。しかるに緑雨は鴎外にも窘められた。いや、鴎外のみならず、梅花道人は「三昧ごときを責むるは可愛想たり」と言ひ、不知庵主人は「三昧の文は酒落なり咎むる勿れ」と言ひ、抱一庵主人は「三昧にして世の指目にかかるあらば其は不文の罪なり深く問ふを要せず」と言つた。けれども縁雨は臆せず、これらの辯語論は「皆三昧一人のために辯語するものにして總體より云へるにあらず」とし、「假に三昧を辯語し得たりとするも此れより生ずる文界總體の弊害に頓着せざるが如きは予の飽まで肯ずる能はざる所なり」と書いたのである。  縁雨といふ男は大變な天邪鬼で私は好きである。鴎外は「匿名して自ら我著作を評せしためしは、古今の大家に少からず」と言ひドイツ文學界の例を引いたのだが、これに對して縁雨は、「ためしありためしあり」と言つて許すならば、昔の英雄豪傑は父殺しもやつてゐる、それも許すのか、と鴎外に反論したのであつた。  「善の大なるは惡に近く、惡の大なるは善に近し。(中略)善の小なるは之を新聞紙に見るべく、惡の大なるは之を修身書に見るべし」と縁雨は書いた。さういふ天邪鬼が本氣になつて三昧道人を叩いた事は、私には頗る興味がある。「悲むべし文學者の徳義これ程にも落ちぬ」と縁雨は書いたのだが、昭和の今、物書きまでがサイン會を開けるとは「明治は遠くなりにけり」といふ事であらう。  【新聞は本音を吐かぬ】  今囘、自民黨の内紛に際し、新聞は自民黨批判の文章を書き捲つたが、「識者」もまた新聞に迎合し、大いに「憂國」の情を吐露して樂しんだやうである。十一月四日付の東京新聞は、「醜態自民」に「我慢も限界」との見出しを付け「このお粗末な派閥爭ひはもはやマンガ並みだ」との「識者の聲」を紹介してゐる。また、十月三十一日付サンケイ新聞の「直言」欄には、東工大教授の芳賀綏氏が「拙攻拙守−野球ならぬ自民黨内のもたつき攻防は見るにたへず、論評の意欲も失つた」けれども、「そこへいくと、日本シリーズも早慶戰も、溌溂として秋空の爽やかさそのままだ」と書いてゐる。早慶戰の事はよく知らないが、プロ野球は大人の「攻防」で、裏ではかなり醜惡な驅引きも行はれてゐよう。「爽やか」だけでプロ野球の世界を渡つてゆける筈は無い。日本シリーズや早慶戰に「溌溂」だの「秋空の爽やかさ」だのと、齒が浮くやうな形容をして憚らぬとは何とも無邪氣な御仁だが、新聞は、さういふ無邪氣な識者を格別好むやうであり、それゆゑ新聞紙上では、幼稚な議論ばかりがのさばるのである。かつて齋藤縁雨は、この手の正義感の淺薄を片腹痛く思ひ、「車宿の親方の常に出入場を爭ふの故を以て、内閣大臣の偶々出入場を爭ふを不可とするの理をわれは發見する能はず」と書いた。「然り、發見する能はず、車宿の親方の果敢なるが故にあさましく、内閣大臣の然らざるが故にあさましからずといふの理をも發見する能はず」、さう縁雨は書いた。「出入場を爭」つてゐる自民黨の政治家も、部數擴張競爭に血道を上げてゐる新聞も、そのあさましさにおいて甲乙はない。それなら、おのれを棚に上げて正義漢を氣取るのはいい加減にして貰へまいか。  とまれ、今囘、自民黨の内紛を論じて、新聞も識者も數々の愚論を吐いた。例へば十一月一日付サンケイの「政局巷談」なるコラムに、千田恆編集委員は、「政治はわかりやすくなければならない」と書き、十月三十日付の讀賣は、「非主流も國民に分かりやすい行動をすべきである」と書き、さらに十一月三日付の讀賣には、明大教授の岡野加穂留氏が「与野黨とも、議院内閣制の原点に戻つて、政治行爲の一つひとつに對し、國民に分かりやすい、明確な責任處理をすべきだと思ふ」と述べてゐる。これらの意見に從へば、政治家はもつぱら「國民に分かりやすい行動」をしなければならないのに反し、國民の側は政治を解らうなどと少しも努めなくてもよい、といふ事になる。が、政治がそんなに理解し易いものになつたら、岡野氏のやうに「分かりやすい」解説しか書けぬ無能な政治學者の商賣は、上つたりにならないか。岡野氏の如き「分かりやすい」事しか言はぬ、いや言へぬ學者を、新聞が重宝がるのは、當然の事とは言へ嘆かはしい傾向である。「分かりやすい」議論には、必ずどこかにごまかしがある。そして、『月曜評論』十一月十九日號に漆山成美氏が書いてゐる通り、昨今ジャーナリストや政治家が瀕りに口にする「分かりやすい政治」といふ流行語は「ステレオタイプ化したスローガン」に過ぎず、その種の「單純明快」のみを重んじて「すべての事を割り切らうとすれば、複雜深刻な現實を把握」する事なんぞは不可能になる。が、新聞記者や凡庸な政治家にはさういふ事が解らない。愚昧なる正義漢はいつの世にも「單純明快」を好む。三角關係に苦しむ時も、彼等は「複雜深刻な現實を把握」しないものらしい。  とまれ、今囘、新聞は口を揃へて大平首相に退陣を迫つた。例へば十月三十一日付の朝日は、「一刻も早く」大平首相は「退陣聲明」を出さなければならない。そして「それを受けて」自民黨は「出直し」にふさわしい「新指導者を國民に示」さなければならず、「それができないのでは、政權政黨の資格はなく、前途に待ち受けるのは自民黨衰退・分裂への道である」と書いてゐる。が、安定多數こそ確保できなかつたけれども、依然として自民黨は第一黨なのであり、實質的に衆議院の過半數を制してゐる。なぜ大平氏が退陣聲明を出さなければならないのか。なぜ自民黨が「敗北」した事になるのか。「敗北」したのは自民黨ではない、新聞である。土臺、選擧の予想などといふものは要らざるお節介だが、それはともかく、當らなかつた八卦見が、おのが不明を恥ぢず、八卦見を信じてしくじつた客を詰るとは言語道斷である。十一月七日付の日經は「たとへ安定多數はとれなくても、選擧の結果、自民黨が衆院で實質過半數の勢力を維持しえた以上、大平首相が退陣すべき必然性はない」と書いた。この日經の冷靜な認識を、私は頗る貴重だと思ふ。  新聞は今囘、「自民黨にうんざりした」などと、いかにも自民黨に愛想づかしをしたかのやうた事を書いた。けれども、それは決して本音ではない。新聞は決して本音を吐かない。例へば、十月三十一日付讀賣の「編集手帳」は、「首相の座をめぐる抗爭をのんびりゆつくり繰り廣げることができるのは、日本がそれなりにめぐまれてゐるから」であつて、「これが剛構造の獨裁國なら、政權抗爭はこんな形では國民の目にさらされず、密室の中で進められ、ある日突然クーデター、テロや一大粛清といつた物騒な局面となる」と書き、「抗爭が長引く」背景には、「日本の社會が平等、民主的で政治エリートや獨裁者の存在を許さないといつた事情もあるに違ひない」と書いてゐる。「編集手帳」の筆者は、朴大統領が暗殺された韓國と比較して、天下泰平の日本國をよしとしてゐる譯である。では、それは彼の本音か。勿論さうではない。筆者はつづけて「ヘンに強力な首相にがむしやらに狂亂物價や増税政策を推進されても困る」が、さりとて「國政への責任を放棄してこの程度の空白は民主主義のやむを得ぬ代價だとうそぶかれても困る」と書いてゐるからである。この種の「公正」にして「不偏不黨」の論議はもう澤山だと思ふ。「公正」で「不偏不黨」の論議は必ず愚論であり、俗受けを狙つて愚論を吐く者には決して本音を吐くだけの勇氣がない。「ヘンに誠實な女房にがむしやらに尽くされても困るが」、さりとて「家政への責任を放棄してこの程度の混亂は男女同權のやむを得ぬ代價だとうそぶかれても困る」といふのは、大方の男性の身勝手な願ひかも知れないが、現實にはさういふ身勝手がそのまま通用する事は決して無いのである。さういふ事を、新聞記者は一度とくと考へてみたらよい。女と附合ふ事も政治をやる事も、政治について駄文を草する事も、いづれも人間のやる事なので、さしたる懸隔は無い。新聞記者も政治家も大學教授も、三角關係に苦しむ時があるだらう。そしてその時は、必ず、馬鹿は馬鹿なりに「複雜深刻な現實を把握」する筈である。それなのに新聞記者は、ひとたびペンを握ると、催眠術を施されたかの如く、俗受けを狙つて「單純明快」を志すやうになる。それは二流三流の政治學者や新聞記者の度し難い惡習なのである。 【惡を認め、惡を忍べ】  人間を善玉と惡玉に二分するのはメロドラマの發想である。それは當然女子供しか動かせない。一人前の大人ならこの世に完全な善玉も惡玉も存在しないといふ事くらゐは承知してゐるからである。しかるに、甚だ奇怪な事ながら、吾國のジャーナリストの大半は半人前であつて、それゆゑ例へば、彼等にとつて北朝鮮は善玉で韓國は惡玉といふ事になる。その点については本誌十一月號で、辻村明氏が痛烈に批判してゐた通りである。日本のマスコミには半人前の大人子供がのさばつてゐる。彼等は自分の心の中を覗かないし、覗いてもそれを氣にしない。日本のマスコミを青臭いいんちき正義漢 が横行閥歩するのはそのためであり、私はその事を何よりも苦々しく思つてゐる。  自分の心の中を覗くとはどういふ事か。自分の心の中に樣々な醜い情念が渦卷いてゐる事を知る事である。吾々が人間である限り、吾々の心中にはヒットラー氏やアミン氏が、田中角榮氏や大久保清氏が潜んでゐる。日本赤軍のコマンドも潜んでゐよう。人間が人間である事がよい事ならば、吾々は心中の醜い情念と戰はなくてはならないが、そのためにはまづ、さういふ情念の存在を認めなければならない。が、大方の新聞記者は、他人の不正を指彈する時に限つて自らを省みる事を忘れるのである。例へば彼等は、自民黨の派閥爭ひを批判し、社會黨の内紛に遺憾の念を表するが、派閥無き社會などといふものは、古今東西、いまだかつて存在した例が無い。いづれ福田内閣も改造を行ふであらうが、その際、新聞は必ず派閥均衡人事を批判するであらう。が、私は新聞記者に問ひたい、派閥の存在しない新聞社といふものが一社でもあるのか。あるたら是非ともその社名を教へて貰ひたい。それはきつと箸にも棒にもかからぬ脇抜け腰抜けの集團であるに違ひ無い。  私は派閥爭ひをよき事だと言つてゐるのではない。派閥に弊害が伴ふ事くらゐどんな馬鹿でも承知してゐよう。が、物事の弊害を恐れるだけでは政治家は何もやれぬ、清潔を心懸けるだけでは國家は保てぬ。綺麗事を並べ立てた都知事も前首相も、その統治能力を疑はれてゐるではないか。  「人間は何もしないよりは惡を犯したはうがいい」とT・S・エリオットは書いた。勿論これは逆説だが、この逆説くらゐ日本の新聞記者にとつて理解しにくいものは無いであらう。エリオットは小惡黨の泥棒や政治家は「地獄へも行けぬ情無い手合」だと言つてゐるのだが、惡事を犯して平然としてゐられる手合はもとより、善を稱へて平然としてゐられる手合も、人間としては出來損ひなのである。ジャーナリストたる者は自分の心中を覗き、惡を認め、惡を忍んで貰ひたい。マスコミに對する私の注文はそれに尽きる。 3 世相を斬る 【「灰色高官」の人權  去る二十六日、三木首相は内閣記者團と會見し、「國民の眞實を知りないといふ權利については、最大限こたへたいとの決意にいささかも變りが無い」むね強調し、ロッキード事件の眞相究明がすべてに先行しなければならないと述べたさうである。眞實を知る事が幸福に繋がるかどうかはいささか疑はしいと書けば、多分讀者は私が贈収賄を肯定したがつてゐると受取るかも知れないが、三木首相の本意はともかく、ロッキード事件の眞相究明をすべてに先行させ、その結果いかやうの政情不安を招來しようと一向に構はぬといふ考へ方に私はついてゆけない。かつて造船疑獄の折、犬養法相は指揮權を發動して顰蹙を買つたけれども、時に國民の「知る權利」を無視する事が國民の幸福に繋がるといふ判斷が間違つてゐるとは言切れないと思ふ。なぜなら、眞實を知る事が、或いは知らせる事が、人を不幸にするといふ事もあるからであつて、それが納得出來ぬ讀者には、イプセンの戯曲『野鴨』の一讀を勸めたい。  といつて、私は贈収賄を肯定してゐる譯ではない。斷然さうではない。それはけちくさく淺ましい惡である。そんた事は解り切つてゐる。が、この世の權力機構はいづれも不完全なものなのである。要は程度問題なのだ。いささかの惡をも許容せぬ極度の潔癖は、清潔を表看板とする(無能ならぬ)苛酷な圧制を招來するかも知れないのである。  とまれ、昨今ロッキード事件の眞相究明を叫ぶ人々の議論はいささかヒステリックであり、殊にあくまでも「灰色高官名」を公表すべしと主張するが如きはまつたく非常識だと思ふ。「灰色高官名」は公表されないだらうと私は思ふし、また公表さるべきではない。なぜなら「灰色高官」にも基本的人權なるものは確かにあるのだし、「疑はしきは罰せず」が法の精神ならば、「黒色高官」ならばともかく、灰色の段階にとどまつてゐる限り、その政治生命を絶つに等しい輕はづみは許されない筈だからである。 【無能と清潔】  自民黨の椎名副總裁が畫策してゐるいはゆる「三木追落し」については、新聞も世論も批判的なやうであつて、サンケイ新聞が五月二十八日に行つた調査によると、三木内閣の支持率は四十一パーセントで、先月より十六パーセントも上昇したさうである。私は世論なるものをあまり信用しない質であり、また信用しなくても一向に困らない立場にあるのだが、自民黨副總裁ともなればやはり多少は世論の動向を氣にせざるをえないのであらうか、最近椎名氏は「力による三木追落し戰術」を轉換する意向を表明したとの事である。もとより、話合ひによる圓滿な政局轉換が可能ならそれに越したことはないけれで(ど)も、椎名氏が、「三木追落し」に大義名分無しとする世論に氣圧され、追落し工作そのものを斷念するやうな事にだけはなつて欲しくない。  つまり、かく申す私は、三木退陣を望んでをり、三木追落し工作には立派な「大義名分」があると考へてゐるわけである。三木氏は首相として總裁として無能である、そして清潔かも知れぬが無能な人物にこれ以上國政を任せるわけにはゆかぬ、三木追落しの「大義名分」としてはこれだけで充分だと私は思ふ。では、何を根拠に私は三木氏を無能と決め込むのか。先の國會で重要法案を議了出來なかつたとか、黨の近代化に熱意を示さなかつたとか、さういふ事ではない。椎名裁定により三木總裁が誕生した時には、自民黨員の大半が三木氏を支持した筈である。それが今、反三木が自民黨の大勢となつてしまつてゐる。だから三木氏は無能だと私は言ひたいのだ。  或る組織の成員の過半數の支持をえられなくなつたとすれば、それは統率者として無能だつたといふ事なのである。そしてその場合、統率者の言分が正しいか否かは問題にならない。いかに正しからうと、いかに清潔であらうと、過半數の支持を得られなくなつた統率者は無力であり無能なのである。數は正義なり、それが民主主義といふものなのだ。 【知らせる義務】  先週の拙文を讀んだ二人の讀者から電話がかかつて來た。一人はいささか感情的で、電話を受けた愚妻の話では「灰色高官なんぞは人間ぢやない、大學教授ともあらう者がくだらぬ事を書く」とか言つたさうである。昨今は大學教授もずゐぶんくだらぬ事を書いてゐるのだから、今、やつとそれがお解りになつたとすれば、それはそれで結構な事だと思ふ。  もう一人は、これもまた抗議の電話ではあつたが、節度ある言葉づかいで、私も鄭重に答へたが、殘念ながら納得しては貰へなかつた。限られた紙數では、今囘もまた新たな誤解を招くだけに終るかも知れないが、前囘言落した事を書いておきたい。  國民の知る權利を無視する事が國民の幸福に繋がるといふ判斷が間違つてゐるとは言切れない、と先先週私は書いた。さうなると、新聞や雜誌の使命は一體どういふ事になるのか。新聞雜誌には國民に眞實を知らせる義務がある筈である。例へば一昨年、文藝春秋は「田中角榮研究」なる一文を掲載する事によつて田中内閣を崩壞せしめた。あれを要らざるお節介などと私は毛頭考へてゐない。また、サンケイ新聞は、いはゆる宮本復權問題に關しても、時に日共を利すると思はれるやうな事柄であらうと、事實は事實として報道するといふ姿勢を崩してはゐない。それを私は見上げた根性だと思つてゐるのである。  つまりかういふ事なのだ。吾々は所詮不完全で、絶えず惡事や過ちを犯すものなのである。從つて、もはや神を畏れぬとしても、吾々はせめて他者の告發を恐れねばならない。とすれば、ロッキード事件の眞相を、檢察庁は情け容赦なく究明したらよいのだし、新聞雜誌も「黒色古同官名」を知つた場合は、その「知らせる義務」を斷然果したらいい。ただし、政府高官のはうも、眞實を知られる事が國民の不幸に繋がると信じた場合は、眞相を隠蔽すべく人知の限りをつくせばよいのである。高坂正堯氏の言ふ通り、この世に巧みに仕組まれた裁判や偽證はいくらもあらうが、それが‘大體’法の枠内で行はれる限り、本物の暴政には決して至らないものなのだ。 【誘導と煽動】  先日、大新聞ならぬ小新聞を買ひ求め、一讀してその文章の杜撰に呆れ返つた。  例へばかういふ文章である。「政治休戰中はいつさい表面に出ないはずの椎名自民黨副總裁が、鬼のゐぬ間のなんとやらで、三木首相の留守中、新聞・テレビのインタビューに出まくつて、いひたい放題をいつてのけた」  この文章の粗雜については贅言を要すまい。鬼のゐぬ間の洗濯と言ふ場合の鬼とは、洗濯をする者にとつて畏敬ないし恐怖の對象なのであり、椎名氏が三木氏を鬼の樣に恐れてゐる筈は無いから、この譬へはおよそ無意味である。文章といふものは書き手の知能を的確に示すものだから、この種の惡文は嘲笑つて見過せばいいかと言ふと決してさうではない。なぜなら杜撰な文章を書く新聞記者が身のほどを弁へず、卑劣な手段を弄して民衆を煽動するといふ事があるからで、その好箇の例を、私は見出したのである。  それは、一枚の写眞につけられたキャプションで、写眞には左端に三木首相、右端に稲葉法相、そして兩者の中央に大平藏相の、あの細い目であらぬ方を眺め、「泣き出しさうな」とも「迷惑さうな」とも「退屈さうな」とも形容し得る表情が写つてをり、そして、その写眞は「これだけ擧がつてゐる自民黨の‘疑惑者’たち」といふお粗末な記事の中に挿入されてゐるのであつて、當然記者は、大平氏をロッキード事件の被疑者と見なし、そこへ讀者を誘導しようとしてゐる譯である。これは惡しき新聞記者の常套手段なのだ。  かういふ卑劣な誘導をジャーナリストたるものは、斷じて行つてはならない。そして、大新聞も往々にしてこの種の誘導を行ふから、私はここで、馬鹿念を押しておきたいのだが、例へばロッキード事件に關し、政府高官が檢察庁に呼ばれたとして、その高官がダークスーツに中折れ帽、黒メガネといふ裝ひで、やくざの親分としか見えぬ有樣であつたとする。それでも新聞記者は、斷じてその印象を書いてはならないのである。やくざとしか見えぬと讀者が思ふのはこれは讀者の勝手だが、新聞が「どうだやくざのやうに見えるだろう」と書くのは越權行爲であり、さういふ誘導は何時でも煽動に轉じるものだからである。           【葬式と結婚式】  どんな馬鹿でも一生のうち二囘だけ主役を演じる事が出來て、それは結婚式と葬式のときであると、何かの本で讀んだ事がある。確かにその通りだと思ふけれども、義理で付き合ふ立場からすれば、葬式のはうが結婚式よりも、いや結婚披露宴よりも、本氣になれるのではないか。「花嫁に對しては常に嫉妬、死體に對しては常に善意、それが人情といふものだ」といふ名せりふが、J・M・バリーの芝居にあつたけれども、恨み骨髄に徹するほど憎んでゐた敵であつても、その死體ををさめた棺桶を前にして燒香する段ともなれば、人間、思はず知らず善意の塊と化するのである。  さういふ譯で、私は結婚披露宴が好きになれないのだが、それは他人の幸福に付き合ふよりも不幸に付き合ふはうが本氣になれるといふ、けしからぬ根性のせゐだけではなくて、結婚披露宴のありやうを頗る疑問に思つてゐるからでもある。三々九度とウエディング・ケーキとメンデルスゾーンといふ和洋折衷の馬鹿らしさもさることながら、仲人の挨拶の紋切型は仕方無いとしても、招かれた客が次々に立ち、お祝ひの言葉と稱して新郎新婦の、私的な愚にもつかぬエピソードを披露するあの藝の無さに、私は毎度不快な思ひをさせられる。  どうやら吾々日本人は、私的なものと公的なものとのけぢめをつけるのが不得手のやうであり、その證拠に吾國の近代文學は、私小説といふ奇怪な大人の作文を久しくのさばらせて來た。そして、さういふ作家の身邊雜記を好意的に讀む讀者も、授業中の教師の(學生に媚びんがための)私事にわたる脱線を喜ぶ學生も、他者の甘つたれに對して極度に寛大なのであり、それは要するに、彼等の自我が頗る脆弱だからなので、脆弱だからこそ、他人の甘えを許すとともに、おのれもまた私事を披露して憚らぬ譯である。が、私事のために他人を煩はすのは、おのれが死んだ時だけで充分である、と、まあ、少くともさういふ心構へで吾々は生きてゆくべきなのだ。 【「河野新黨」の前途】  自民黨を離黨し、新自由クラブを結成した河野洋平氏たちの行動について、世間はおほむねこれを歓迎し、その前途を祝福してゐるやうである。青嵐會の渡邊美知雄氏によれば、河野氏たち六人は「家の中がおもしろくないと言ふので荷物を纒めて出て行く家出娘」だといふ事になるのだが、さういふ冷靜な評價はむしろ珍らしく、この問題をめぐる新聞のはしやぎやうを窘めた或るミニコミ紙の論文の筆者さへ、河野氏たちが現在の自民黨の腐敗に我慢がならず、「保守黨の再生のために身を殺して仁をなす事に踏切つた勇氣そのものは、高く評價されて」しかるべきだと書いてゐるほどである。  私は八卦見ではないから、「河野新黨」の前途が先太りか先細りかについての予斷は控へる。勿論、先細りとなるやう祈つてゐるし、また多分さうなるだらうと思つてゐるが、ひよつとすると先太りになるかもしれぬといふ一抹の不安もあるのであり、それは河野氏たちの義に勇み立つ偽善的な行動を、世間が一向に疑はうとしないからである。  と言つて私は、河野氏たちも金權政治と無縁ではあるまいなどといふ事が言ひたいのではない。河野氏は去る二十六日、「國民のための政治といふより國民が中心になつた政治を取り返す事が重要」だと演説して、聽衆のやんやの喝釆を浴びたらしいが、かういふおよそ大雜把な甘い言葉に、日本國民はいつになつたら堪能するのであらうか。これが河野氏の本音なら、それは意識せぬ偽善で幼稚であり、さういふ勇み肌の坊ちやんの前途に私は何の期待も抱く事は出來ないし、また本音でないとすると、それは意識的な僞善にほかならず、それなら河野氏も大方の代議士諸公と同樣同じ穴の貉であるから離黨の必然性は無いといふ事になる。  從つて私は、河野氏が義に勇み立つてゐるのだと解釋するけれども、遺憾ながら世間はこの種の意識せぬ偽善の危ふさを充分に認識してゐず、それゆゑ「河野新黨」先太りの危險ありと、私は考へて、憂鬱になる譯である。 【偏向教育】  まづ笑話を一つ。友人の小學二年生になる娘が、或る日ゴレンジャーだかグレンダイザーだか、とにかく勸善懲惡的テレビ番組を見終つてから、かう言つたのださうである、「お父さん、先生が言つたけど、西城秀樹つて惡い人なんだつてね」。  小學二年生を相手に流行歌手のスキャンダルについて教場で語るとはいささか腑に落ちぬと思つた友人が問ひ質してみると、西城秀樹は澤山の日本人を殺したから惡い奴だと、担任の教師が言つたらしい、といふ事が解つた。要するに友人の娘は、東條英機を西城秀樹と勘違ひしてゐた譯である。  これが笑話ですむのは偏向教育を受ける生徒が低學年だからであり、折角の教師の努力が水泡に歸した事が滑稽なのだが、中學生や高校生相手の偏向教育となると、これは決して笑つてはをられぬ、と言つて、子供の前で教師を批判するのも望ましい事ではないし、とにかく偏向教育對策を文部省は眞劍に考へて貰ひたい、と友人は頗る熱つぽく語つたのであつた。  もとより私も偏向教育を嘆かはしい現象だと思つてゐるが、文部省にその是正が出來るとは思つてゐない。ここで文部省を批判する餘地は無いが、左寄りの偏向教育を是正するための最も効果的かつ抜本的な對策は右寄りの偏向教育なのであり、つまり毒を制するには毒をもつてすべきなのだが、中立といふ事をよき事と考へたがる文部省には、いや政府には、それを實行に移す勇氣はまづ無いであろう。  けれどもここで私ボ指摘しておきたいのは、小學校は知らず大學においては、保守的な教師がとかくおのが政治的見解を會議の席や教場で語りたがらず、政治的中立ないし非體制の立場をとりたがるといふ事實、および政治的中立を宗とする教師よりも進歩派の教師のはうが、概して授業に熱心だといふ事實である。中立は無能の隠れ蓑になりうるものなのだ。 【無能と人權】  ここに一人、どう仕樣も無いほど無能な女の小學校の教師がゐる。教へ方が下手で、度々間違つた事を教へ、思想的に少しく偏向してゐるらしいのだが、いはゆる偏向教育をやる餘裕も無いくらゐ五里霧中で、それに何より教師としての權威がまるで無く、生徒が反對すればたわいも無く自説を撒囘してしまふ。生徒は教師をなめきつて、教室は無政府状態となり、とても落着いて勉強出來るやうな雰囲氣ではない。かくて生徒の學力は急激に低下する事となる。そこで父兄は、と言つても主として母親だが、寄り集つて互ひに憤懣をぶちまけ、かつ對策を練るといふ事になる。  ところで、運惡くかういふ無能な教師にわが子を託する事となつた場合、父兄は一體どうすればよいか。まづは觀念する事である。教室で生徒がすごす時間を全くの無駄と觀念し、教師を激励してその向上を促す事も、教育長や校長に抗議する事も所詮徒労と知るべきなのだ。  なぜなら、必死の努力を傾けても有能とはなしえぬ、或いはなりえぬ無能といふものはこの世に確かに存在するからであり、また、例外は無論あらうが、大方の教育長や校長は中立をもつて保身の術と心得てゐるからである。つまり吾國においては中立とは少しく左寄りの事であるから、教育長や校長が、イデオロギーを同じうする教師の人權はとかく闇雲に擁護したがる組合に對し、強い姿勢を示す事などまづ期待出來ないのである。人權擁護とは無能の擁護なのだ。  ところで、ついでに付け加へておくが、運が惡いと諦めて子供を放置しておけと私は言つてゐるのではない。家庭教師をつけるなり、塾へ通はせるなり、學力を向上させる爲の手立てはある筈である。但し、子供はいづれ教師を輕蔑するやうになるに相違無いから、その輕蔑が大人に對する不信といふ甘つたれに變ずる事のないやう、家庭における躾をかなり嚴格なものとしなければならない。が、當節の軟弱で物解りのよい親にとつて、それは頗るつきの難事なのではあるまいか。 【自民黨への注文】  田中前首相が逮捕されて以來、いはゆる自民黨の金權體質が指彈され、自民黨は結黨以來最大の危機に直面してゐるさうであり、自民黨がこれを契機に徹底的な出直し的改革を行ひ粛黨の實をあげない限り、衆參兩院における保革逆轉は必至だと人々は考へてゐるやうである。  どうやら自民黨員の大半が粛然と襟を正してゐるらしい現在、水を差すやうな事を言ひたくはないけれども、そしてまた、自民黨に改革すべき点が多々あるといふ事は認めるけれども、改革だの粛黨だのといふ作業がさう簡單に捗るとは私は思はない。まして徹底的な出直し的改革など、到底不可能だと思う。  なぜなら、すべて物事を徹底させるには強大な權力の集中が必要だけれども、それは全體主義國のみ可能な事であつて、前首相が逮捕されるやうな國においてはそれほどの權力の集中はありえないからである。  といふ譯で、汚職の根絶は所詮不可能だと私は考へてゐるのだが、昨今政治家は、与野黨の別無く、國民に向かつて綺麗事を並べ立てる癖がついてをり、國民もまた政治に清潔のみを期待してゐるやうに思はれるから、この際自民黨が、「一致團結して積年の弊を取除く」云々の誓言を立てるのはやむをえないであらう。だが、今なほ自民黨を支持する者の一人として、私は自民黨に一つ苦言を呈したい。人は時に金で動くのである。それは間違ひ無い。が、人間には金で動かぬ何かも必要なのである。早い話が、金錢上の惱みが自殺の原因のすべてではないのであり、それはつまり「人はパンのみにて生くるものにあらず」といふ事なのである。  が、池田内閣以來の自民黨は、パンを与へさへすれば國民の支持が得られると思ひ込んでゐる。それこそ途方も無い勘違ひであつて、自民黨にはこの際、その点を大いに反省して貰ひたいと思ふ。利をもつて釣り上げた支持者は理に服してはゐないのである。 【それ見たか】  先日、毎週金曜日のこの「直言」欄を讀んで憤激してゐるといふ高校の教師から電話があつて、お前は「歴史の流れに逆行してゐるドン・キホーテ」である、それゆゑお前の予言は悉く外れるであらう、お前が提灯を持つた椎名副總裁の三木追落し工作は挫折した、それ見たか、灰色高官名も公表されるに決つてゐるし、「河野新黨」も必ず先太りになる、お前はまだ若いらしいから、「コーチャンを信ずるな」などと先走つて輕薄な事を書いた會田雄次氏のやうな頓馬を見倣はぬやうにせよと、せせら笑ふやうな調子で忠告してくれた。性來短氣な私は散々言ひ返し、會田氏に對する不滿は電話代を惜しまず京都の會田氏にぶつけてくれ、と言つて電話を切つたけれども、暫くは頗る不快であつた。先方も私にやりこめられて頗る不快だつたであらう。全く不毛な、馬鹿らしい話である。  「歴史の流れ」といふものがあつて物事はすべて予め定められた結末へと向つて行くのだといふ考へ方からすれば、時流に抗する者もいづれは必ず節を折り、流れに棹さすやうになる、といふ事になる譯であらう。實際その通りなのかも知れないのであつて、政治家やマスコミが世論に迎合し、時流に身を委ねる氣樂を享受しつつある今日、時流に逆ふ發言がすべて封じられ、「頓馬」が鳴りを靜める日はさう遠くないのかも知れない。  ここまで書いて來た時、檢察庁が外爲法違反の容疑で田中角榮氏を逮捕した事を知つた。「それ見たか」氏が再び電話をかけて來ないやうここで斷つておきたいが、田中前首相が逮捕されたからとて、ロッキード事件に關する私の考へはいささかも變らない。その理由を書くのは實に不本意だが、灰色高官の人權をも尊重すべしと書いた時、私は汚職を擁護した譯ではないからだ。もとより會田氏も同樣である。  だが、そんな事を言つても所詮は無駄であらう。ロッキード事件の解明をすべてに先行させよと主張して來た手合は「それ見たか」と快哉を叫び、徹底的な政界淨化を政治家に要求しつづけるに違ひ無い。それも結構、大いにやつたらよい。日本は今、幸か不幸か頗る平和だからである。 【敵の所在】  今年の二月、ニューズウィーク誌に載つてゐた西ドイツの外相ハンス・ディートリヒ・ゲンシャー會見記を讀み、色々と考へさせられた。と言つても、ゲンシャーが格別深遠な外交哲學を開陳してゐた譯ではない。ゲンシャーはデタントの幻想に酔ふな、ソ連を信用するな、共産黨との連立は考へるなと言つてゐるのだが、さういふ事は別に耳新しい警告ではない。ただ私は、日本の外相なら決して言はぬ類の事を、或いは言へぬ類の事をゲンシャーが事も無げに言つてゐるのを、頗る興味深く思つたのである。  例へばゲンシャーは、このままソ連の海軍力が増強されてゆけば、一朝有事の際、ヨーロッパとアメリカとの間の水路は危殆に瀕するであらう、西側の指導者は自主防衞の意志を固めるとともに國内の自由の敵と戰はねばならぬと言つてゐるのだが、内政においても外交においても戰ふべき敵を明示したこの發言を、このほど日本政府が發表した防衞白書と較べてみるとよい。白書には「米ソは強い相互不信感を持つてをり」、「デタントには限界」があるけれども、「わが國の場合、憲法九条の規定からその防衞力は專守防衞のものでなければなら」ず、「防衞力を保持する意義は、有事で戰ふことにあるといふよりも平和の維持のために機能することにある」と書いてあるのだ。  私は宮澤外相や坂田防衞庁長官を無能な政治家だとは思つてゐない。ただ、政府自民黨が外交においても内政においても戰ふべき敵を明示せずにゐる現状を不滿に思ふのである。人の褌で相撲を取る事も、漁夫の利を占める事も、確かに知慧の一種ではあらうが、アメリカがいつまでも安保の只乘りを許すとは思へないし、敵の所在が不明ないし曖昧では、自衞隊のみならず一般民衆も、國を守る氣概を持ちはせぬ。そして、愛國心の無い國民が政府を積極的に支持する筈は無いのである。  政府自民黨は、自由社會と全體主義社會のいづれを選ぶか、その選択を國民に迫るべきである。さもないと、自民黨の凋落傾向に齒止めをかける事など到底出來ぬであらう。 【ぐうたらに神風】  先日、佐伯彰一氏及び吉田夏彦氏と話合ふ機會があり、日本共産黨の前途といふ事が話題になつた。その折にも喋つた事だけれども、日共は日本といふ特殊な風土の中で風化してしまふのではないか、と私は考へてゐるのである。少くともイタリア、フランスにおける友黨ほどの勢力は到底獲得出來ないだらうと思ふ。來年の參院選における保革逆轉は必至であり、一九八○年代には革新政權が誕生すると考へる向きもあるけれども、萬一さういふ事態になつたとしても、それは決して共産黨主導型の革新政權ではないであらう。つまり私は、共産黨單獨政權誕生の可能性は皆無だと考へる。日本といふ國は大層有難い國であつて、國難の際には必ず神風が吹くやうになつてゐるからである。  思へば大東亞戰爭に敗れてアメリカに占領された事が戰後の神風第一號だつたのであり、もしもソ連に占領されてゐたら日本の今日の繁榮は無かつた筈である。また、朝鮮戰爭とヴェトナム戰爭でアメリカは自國の青年の血を流したが、日本は平和憲法のお蔭で戰爭に卷き込まれず、それどころか特需によつてしこたま儲け、世界屈指の經濟大國に伸上つたのであつて、してみれば二つの戰爭はいづれも日本にとつての神風だつたと言へるのである。二度ある事は三度ある。そして三度ある事は四度も五度もある筈だ。さうなのだ、日本人はぐうたらにしてゐて大丈夫、必ず必ず神風が吹くのである。  それを思ふと私は時々無性に虚しい氣持になる。先週「敵の所在」と題する文章を書いてゐた時もさうであつたし、日共の微笑戰術に騙されるなと學生たちに説く時もさうである。つまり、さう物事を深刻に考へる必要は無い、必ず神風が吹き、神國日本は千代に八千代に安泰なのだ、といふ心中の聲を私は聞く譯なのだ。  ジョージ・スタイナーは、一昨年日本を訪れた際、戰爭無くして文化はありうるかとの深刻な問題を提起した。世界で一番平和な國、それは日本であり、世界で一番ぐうたらな國、それも日本である。平和が人間をぐうたらにするのは確かな事であるやうに思はれる。 【統治能力】  福田副總理と大平藏相は三木首相には統治能力が無いと言ふ。これに對して三木首相は、福田、大平兩氏には「私、三木の原則を尊重して黨内ををさめるやう考へてくれる責任がある」のであり、「民主政治のもとにおける指導力とは、皆が協力して助けることだ」と言ふ。他人に助けて貰ふ事が指導力だといふのは随分奇妙な論理だが、これはまたいかにも三木氏らしい論理であつて、皆が自分を憐れんでくれる事こそ自分の統治能力だと、三木氏は考へてゐるのかも知れない。三月前、取上げ爺にいびられた時は、マスコミと世論が憐れんで助けてくれた。今囘も多勢に無勢の九郎判官に世間の同情は集るに決つてゐる。三木は清潔であり、ロッキード事件の究明は三木でなければ果せないと世間が考へてくれてゐる限り、自民黨代議士の三分の二が楯突かうとも三木政權は安泰である。さう三木氏は考へてゐるに違ひ無い。  實際、獨禁法改正問題にせよスト權問題にせよ、三木氏は野黨やマスコミを喜ばすやうな事を言ひ出し、財界や黨内反主流派の反撥を買ふと直ちにそれを引込め、正しい事をやりたいのに邪魔されてやれずにゐる「憐れないい子」を演じてみせたのである。が、やりたくてもやれなかつたといふ事は、所詮無能だつたといふ事に他ならない。三木氏はまた指揮權を發動しなかつた事を誇つてゐるが、指揮權を發動するには努力が要るだらうが、發動しない事には格別の努力は要らぬ筈である。「しなかつた事」を誇つたり、「出來なかつた事」を嘆いたりするのは女々しい事である。いい加減にして貰ひたいと思ふ。  福田、大平兩氏は三木氏の統治能力の缺如を言ふが尤もである。「三木降し」の大義名分としてはそれだけで充分だと、私は六月四日のこの欄に書いた。あの頃椎名氏が三木追落しを策したのは決してロッキード隠しのためではなく、野黨やマスコミの人氣取りのため、三木氏が保守政治の根底を揺がすやうな事をしでかさうとしたためではなかつたか。椎名氏一人を責める譯では決してないが、野黨と結んでも政權を獲得しようとした前歴を持つ人物を總裁に選んだ物解りのよさが、そもそもの間違ひだつたのである。 【ソルジェニーツィンと金3(火+囘)旭  十五年前、ニューヨークで日本人の大工に會つた事がある。當時私はダグラス・オーバトン氏の家に寄寓してゐたのだが、オーバトン氏は客間の一部を日本風に改造せんと思ひ立ち、日本人の大工を呼付けたのである。大工がやつて來た時、オーバトン氏は留守だつたので、一緒に寄宿してゐた劇團四季の水島弘氏と私とが大工に會ひ、茶菓の持成しをした。その大工は實は彫刻家であつて、彼は日本の美術界の封建的頽廢に愛想が尽き、祖國を捨てアメリカヘ渡つて來たとの事であつた。口角泡を飛ばして日本及び日本の美術界を罵る男を眺めてゐると、あはれでもあり滑稽でもあり、同時に頗る不愉快でもあつた。日本の美術界がどのくらゐ穢いか、私は知らない。文學界や新劇界については多少知つてゐるが、いづれも學者の世界と同程度に穢いやうであつて、昨今、文學賞の類は專ら年功序列を考慮して順番に授けられ、作家は批評家に付け屆けを怠らないさうである。だが、あのニューヨークの大工には彫刻家としての才能は無かつたのであつて、日本の美術界がいかに穢からうと、彼の才能については適切な評價を下してゐたのだらうと思ふ。さもなければ、ニューヨークで大工なんぞをしてゐる筈が無い。當時アメリカでは、日本人の藝術家は厚遇されてゐたのであり、それは日本の大學が外人講師を甘やかしてゐるのと一般である。日本の大學が雇つてゐる英米人の非常勤講師には教師の名に値しない手合も多く、取り得は英語が喋れるといふ事だけなのだ。  吾々は自分の才能を他國で認めてもらはうとは思はない。かつて吾國が學者を厚遇しないため、優秀な人材が海外に移住し、「頭腦流出」が問題になつた事がある。が、今日では頭腦流出を憂へる聲は聞かれない。まつたうな學者ならよほどの事が無い限り祖國を捨てはしないのである。例外は無論あらうが、祖國で認められず他國で通用するやうな學者は結局は二流なのであつて、吾國に滞在する有象無象の外人講師も、所詮本國では一流の學者として通用しない手合なのである。  チェコスロバキアの反體制の劇作家パヴエル・コハウトは、チェコ政府による國外退去の勸告を拒絶した理由を問はれて、自國語を喋る觀客を失ふのは劇作家としての自殺行爲だからだと答へた。そのコハウトも結局祖國を離れざるをえなかつたのだから、私は例へばソルジェニーツィンやアマルリクを非難する積りは無い。が、祖國を捨てた作家達は例外無く創作活動の停滞を體驗してゐるといふ。人間は家庭や祖國を捨ててはならない。それがどれほど理不尽であつても、である。そして、餘儀無く祖國を捨てる事があつても、祖國への愛を捨ててはならぬ。誤解されるのは覺悟で付け加へるが、祖國の體制を批判するソルジェニーツィンに對して、金3(火+囘)旭に對すると同質の不快の念を私は時々抱くのである。 【甘い言葉と甘い顔】  これは千田恆氏が指摘してゐた事だが、社會黨はその内輪揉めに際し、人事で妥協せずイデオロギーで妥協して當面の危機を囘避したのであつて、私もそれを頗る奇怪な事だと思つてゐる。人事の妥協といふ事は理解できるが、イデオロギーの妥協といふ事は理解できないからである。それはともかく、田英夫氏たちの脱黨の眞の動機は何か、さういふ事に私はあまり興味が無いけれども、協會派と反協會派のいづれを重視するかと問はれたら、私は躊躇無く協會派を重視すると答へる。なぜなら、協會派はイデオロギーの妥協を究極的には拒否するであらうし、また協會派のはうが敵として見所があるからだ。社會黨の内紛を扱つてマスコミは、とかく協會派を惡玉に仕立てるけれど、協會派が黨内黨としていづれ母屋を乘つ取らうと企んでゐた事を、私は反協會派が非難するほどの惡事だとは思はない.政治に策略は附き物だからである。むしろ長年その策略に氣づかなかつた反協會派の甘さのはうを私は輕蔑する。それにまた、反協會派は「人間の顔をした杜會主義」などといふ甘い夢を見てゐるが、社會主義といふものは土臺人間の顔などしてゐない。それは久しい以前にドストエフスキーの天才が見抜いてゐた事である。  杜會主義が血も涙も無い圧制に至るといふ事に、どうして日本人は氣づかないのか。日本赤軍のハイジャックに憤慨するのなら、赤軍派は決して杜會主義の鬼子ではないといふ事を知るべきである。『惡靈』において、ピヨールといふ冷血漢を育てたのは、父親スチュパンの「理想家肌の自由主義」であつた。同樣に、香山健一氏が先日サンケイ新聞に書いてゐたやうに、あの非人間的な赤軍を育てたのは、他でもない、若者を甘やかす事に專念してゐる日本の戰後教育なのである。教師は若者を甘やかし、政治家は國民に媚び詔ふ、さういふ温情主義のぬるま湯に、いつまで日本人は漬かつてゐるのであらうか。擧句の果てに杜會主義協會も日共も骨抜きになつてしまふのであらうか。私はそれを心配してゐる。衣の下に鎧が透けて見えぬやうなマルクス・レーニン主義といふものを、私は信じないからである。私は本氣でそれを心配してゐる。敵が手強いのはよい事だからだ。  それゆゑ私は、田英夫氏よりも向坂逸郎氏を高く買ふ。  向坂氏は田氏を評して「社會主義などまるで解つてゐない」と言つたさうだが、全く同感である。向坂氏は非武裝中立なんぞ甘い幻想でしかないと信じてゐるに違ひ無い。そしてその信念は向坂氏の顔にはつきりあらはれてゐる。私は甘い顔を信じない。  しかるに、殘念ながら日本人は、甘い言葉と甘い顔が大好きなのである。『月曜評論』の寄稿家でさへさうなのであり、かくて例へば福田恆存氏の「笑つても笑顔にならぬ」嚴しい表情は、およそテレビ向きでない、などと評される事になる。やんぬるかな。 【放言と事なかれ主義】  石原環境庁長官の新聞記者批判に腹を立て、環境庁記者クラブは十月七日、長官に對する「會見拒否」を宣告した。親睦團體である記者クラブが一致團結してそのやうな行動をおこすのは奇怪だが、それはともかく、大臣が時々「放言」するのはよい事だと私は考へてゐる。それは教師が時々生徒を殴るのと同樣よい事なのである。なぜなら放言する事も殴る事も頗る人間的な行爲だからであり、メナンドロスの言ふとほり、人間が人間である事はよい事だからだ。  實際、昨今の大臣は決して怒らない。國會でのやりとりを聽いてゐると、よほどの腑抜けでなければ大臣は勤まらぬといふ事がよく解るのである。例へば毎年、米價が決定される頃になると、農林大臣が野天で農民と會見するけれども、農民の敬語抜きの野次に對しても、大臣は敬語丁寧語を用ゐて答へるのである。それが政治家の度量といふものなのだと政治家は考へてゐるのかも知れないが、それは彼等が睾抜きである事の證拠なのだ。一人前の男なら、地位を失ひたくないからとてあれほど卑屈になる事を嫌ふはずだからである。新聞記者の思上りに反發した石原長官の發言を、醫師會の思上りに反發した渡邊厚相の發言を、それゆゑ私は支持する。二人とも地位を賭けて本當の事を言ふ人物だと考へるからである。  だが、私はここまで書いて來て少々不安になつた。福田首相は石原・渡邊兩氏の「直情径行」を苦々しく思つてをり、内閣改造の際には兩氏を更迭する氣でゐるのではないか。首相は十月三十日、陸上自衞隊の觀閲式で恆例の訓示をしたが、草稿の「ソ連の軍事力増強」に言及した部分を省略して朗讀したさうである。もとより首相の眞の意圖が何であつたかは解らない。ソ連の軍事力が年々増強されてゐるといふ事實さへ指摘する事を憚り、「ソ連にそれだけ氣を遣ふといふことは、本氣で日中に取り組むつもり」なのかも知れず、それは詰り福田氏の「政治的配慮」といふ事なのだらうが、そしてさういふ政治的配慮は政治家にとつて必要不可欠なものだが、それにしても日本の政治家は事なかれ主義をもつて策の上なるものと看做し過ぎると思ふ。醫師の税金に關しても、食管法の赤字に關しても、理を説いて醫師會や農民を窘めるといふ事をしない。防衞問題に關してもさうである。GNPの一パーセント以下でよいと福田首相は本當に考へてゐるのだらうか。恐らく否である。また、憲法改正は自民黨の黨是のはずである。が、歴代の首相は任期中の憲法改正は無いと繰返し言明した。それは確かに利口なやり方だつたが、「憲法改正は黨是であり、自分も自民黨員である以上改正したい。が、現在の議席數では不可能である」と答弁する首相が一人くらいゐてもよかつたのではないか。とまれ、私は政治家諸公に注文しておきたい。事なかれ主義も時に有効である、が、諄々と理を説いて國民やマスコミの嫌がる事も言ひ、それを實行に移す、それだけの強さを政治家は持つて貰ひたい。 【平和惚けの日本人】  今囘は後れ馳せながらハイジャックについて書く事にする。日航機およびルフトハンザ機の乘取り事件を解決するに際して日獨兩政府の採つた態度は對照的であり、世論は概ね日本政府の弱腰を批判してゐた樣に思ふ。けれども西獨政府の嚴しい態度に「ナチズム復活の危險」を感じ、それに怯えた向きも少なからずあつたのである。當時私は「西獨は嚴しい顔で日本を見てゐる、あれは戰爭をやる顔である」と書いたが、ソ連もアメリカも西獨を支持したのだから、「戰爭をやる顔」をしてゐるのは西獨に限らない、全世界が平和惚けの日本を嚴しい顔で見てゐるのである。  平和惚けの日本人は、けれども、西獨の嚴しい顔を「戰爭をやる顔」だとは思つてゐない。イスラエルのエンテベ空灣奇襲作戰にせよ今囘の西獨の強硬策にせよ、西歐の遣り方は殘忍であり、「和をもつて尊しとなす」わが國民性とは相容れないものだ、さう考へて安心してゐる。けれども、日本方式と西獨方式とは著しい對照をなしてゐるが、日本には日本獨特の遣り方があつてよいとする考へは大變危いと思ふ。近き將來か遠き將來か、それは神ならぬ身の知るよしも無いが、日本もいづれは必ず戰爭に卷き込まれる筈であり、さうなれば、和を尊ぶ日本の國民性なんぞ通用しなくなる。日本はハイジャッカーに十六億圓を支拂つた。西獨は一文も支拂はなかつた。十六億圓と一圓とは程度の差だが、十六億とゼロとは質の差なのである。要するに西獨は人命を金に換算する事を拒否したのだ。それゆゑ私は、西獨は「戰爭をやる顔」をしてゐると言つてゐるのである。戰爭とは個人の生命以上の何かのために血を流す覺悟でやるものだからだ。しかるに、戰後三十餘年經つて、吾々はその種の覺悟をすつかり失つてしまひ、日本のふやけた顔と西獨の嚴しい顔とを、國民性の相違によるものと考へて安心してゐる。  ところで、先日私は森常治氏の『日本人=<殻なし卵>の自我像』を讀み、驚き、かつ呆れた。昨今流行の日本論の大半は胡散臭いと聞いてはゐたが、この森氏の著作ほど樂天的な日本人論は私も讀んだ事が無い。森氏は「右翼の人々が日本人の國際化を激しく拒否し、他方では、これまでの進歩的知識人がとかくするとわれわれの文化的傳統を輕視する(中略)のは、その兩者ともども、われわれ日本人の心情はあるがままの姿では國際的ではありえない、といふないへんな誤認のうへにたつて」ゐる、だが、「あと二百年もすれば西歐の人々もかなり日本的になるから、焦るな、焦るな、といふくらゐの氣持で、のんびり構へるべきでせう」と書いてゐるのである。二百年も先の事なら私は斷言して憚らない。日本はそれまでに必ず戰爭をする。そして日本が勝ち抜く爲には、日本が西歐精神にとことん附合はねばならぬ。森氏の日本人論は、要するに平和惚けの日本人論なのである。 【日本株式會杜の倒産】  「萬國の労働者よ、團結せよ」などといふスローガンは、昨今あまり用ゐられなくなつた樣だが、萬國の労働者には二種類あると私は考へてゐる。すなはち、雇主の倒産を考へる労働者と考へない労働者である。不況の今日、中小企業に働く人々にとつて一番心配な事は會社の倒産であるに違ひ無い。が、その種の心配と全く縁の無い經營者や労働者もあつて、例へば親方日の丸の官吏がさうであり、大新聞の經營者や労働者がさうである。國鐵の職員も大新聞の記者も、雇主の倒産といふ事態はまるで考へてゐまい。國民が國鐵を潰す筈は無い、大新聞を潰す筈は無い、さう考へて安心してゐるであらう。  私は經濟の專門家ではないから、現在の不況に對する處方箋を書く譯にはゆかない。が、日本株式會社は中小企業だと私は思ふ。しかも、中小企業でありながら、親方日の丸の官吏と同樣、會社の倒産といふ事態を全然考へてゐない。中小企業の場合、大企業の下請けの仕事をやつてゐる場合、大企業の善意にだけ縋つてやつてゆく譯には到底ゆくまい。大企業が仕事を廻してくれるやう、他の下請け會社との競爭に負けぬだけの技術を持たねばならないし、時には樣々の策略を巡らし手を汚す事もやらねばならぬ。ところで、日本株式會杜はこれまで、諸外國の善意にだけ縋つてやつて來たのである。現在の圓高ドル安は日本にだけ責任があるのではなく、急増しつつあるアメリカの石油輸入のせゐでもあり、それゆゑアメリカもドル防衞の爲に努力すべきだといふ説があつて、それはその通りだと私も思ふけれども、さういふ事をアメリカに言つてみても問題は一向に解決しないと私は思ふ。この際大切なのは、アメリカやEC諸國の善意に縋つて肥え太つて來た日本に對して、それらの國々が苛立つてゐるのだといふ事實を認める事ではないだらうか。例へばアメリカは日本の經常収支の黒字を一擧に減らせなどといふ無理な注文をしてゐるが、さういふ無理難題をふつかけるアメリカには、これまで散々甘やかして來た日本に對する感情的な苛立ちがあるのではないか。言ふまでもなく、日本の今日の繁榮は平和憲法と日米安保条約のお蔭である。日本の防衞費は、昭和三十年を例外として、今日までGNPの〇.九パーセントを越えた事は無い。さういふ事への苛立ちがアメリカに果して無いと言切れるか。勿論、平和憲法を押付けたのはアメリカであり、片務的な安保条約で滿足したのもアメリカである。それゆゑ、アメリカは苛立ちを公言出來ない。が、公言出來ぬからこそ、苛立ちはますます募るのである。平和憲法を楯にして日本は、「諸國民の公正と信義に信頼して」稼ぎまくつた。が、今や吾々は諸外國の善意にだけ縋る事の危ふさを思ひ知らねばならぬ。日本株式會社の倒産といふ事も、決してありえぬ事ではないのである。 【自由世界に迎合すべし】  近頃、大新聞は「日中友好への熱意」に燃えてゐるやうである。熱意に燃えて政府の尻を叩き、「世論」なるものを喚起しようとしてゐる。そして、その大新聞の熱意を誰か「高く評價」してゐるか。中共の機關紙『人民日報』である。大新聞にしてみれば、それがまた嬉しくてたまらぬのであらう。奇怪な事である。日本の大新聞がアメリカ政府や韓國政府から、日米友好或いは日韓友好の熱意を「高く評價」された事は無い。それどころか、大新聞はアメリカや韓國に對して頗る敵對的である。日米友好或いは日韓友好と、日中友好と一體どちらが日本國にとつて重要か。『月曜評論』の讀者に向つてそれをくだくだしく説く必要は無いであらう。日本株式會社は自由主義陣營に屬してゐる。自由主義陣營の善意に縋つて生きてゐる。周知の如く、石油と食料の九十パーセント以上を海外から輸入してゐる。私は不思議でならない、なぜ日本の大新聞はアメリカに迎合しないのか。なぜ自由主義陣營との連帯を大切に思はないのか。「人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出づる凡ての言に由る」とマタイ傳にある。「神の口より出づる凡ての言」とは絶對的眞理の謂である。さういふ絶對的眞理を希求する態度は日本人にとつて殆ど無縁のものだから、すなはち、日本人にとつて大切なのは自由よりもパンだから、日本の自由世界に對するコミットメントが、イデオロギー的なものでない事は怪しむに足りぬ。が、自由世界にコミットしつづけねば日本はパンさへ食へぬやうになる筈ではないか。早い話が、中國の産出する石油だけで日本はやつてゆけまい。中國が日本に食料を輸出してくれはしまい。それなら、パンの事だけ考へても、日本は自由世界に迎合せざるをえない筈である。しかるに日本の大新聞は共産主義國に迎合する。とどのつまりアメリカが日本を捨てる筈は無いと考へて、安心し切つてゐる。寛大で辛抱強い女房を安心して謗つてゐる髪結の亭主の心理である。この腑甲斐無き亭主は、女房に食はせて貰つてゐる事を忘れ、隣家の女房を戀してゐる。隣家の女房もまんざら惡い氣持はしないから、垣根越しに秋波を送る。が、心の底では輕蔑しきつてゐる。獨立自尊の念を缺いた男だと、とうの昔から見抜いてゐるからである。  もはや紙數が無いが、一言つけ加へておきたい。去る十一日、東京新聞は「覇權条項で中國が柔軟姿勢」を示すかのやうな記事を載せてゐた。今日只今のところ中國は日本の主張を認めてはゐない。或いは中國は妥協するかも知れぬ。かつて日米安保条約や自衞隊の存在を肯定したやうに。が、それはあくまで戰術である。策略である。いや、中國に限らない、すべての國家が策略を用ゐるのである。性善説は國際政治には通用しないものなのだ。 【内村剛介氏と片桐機長】  先月二十日、日本の文學者二百八十七人が「核戰爭の危機を訴へる聲明」とやらを發表した。二十七日付の朝日新聞は「文學者の苦澁を反映、廣がる署名、三百人を超す」との見出しをつけ、署名した「文學者」十一人の意見を紹介してゐる。「苦澁を反映」だなどとは白々しい限りである。この飽食暖衣の國の文士が「苦澁」なんぞする譯が無い。孤狸庵先生こと遠藤周作氏も署名して、「聲明文が聲明だけではなく何かもつと影響と効果のある方法を考へられないでせうか。不發彈に終れば殘念です」と言つてゐるが、週刊誌に「ぐうたら」な文章を書き擲り、テレビでも稼ぐ似非カトリックが、「核戰爭の危機」なんぞを本氣で案じてゐる筈は斷じて無いのである。だが、轉びバテレンの「苦澁」とやらを題材にして「ああ、日本になぜクリスト教は根付かぬか」などと、心にも無い「苦澁」を訴へて稼ぎ捲るぐうたらカトリックの事は今はこれ以上論ふまい。私は内村剛介氏のでたらめに腹立ちを抑へられぬからである。朝日新聞によれば内村氏はかう言つてゐる、「署名します。(しかし)全般にこの聲明文は空疎で心を打たない。練り直しが必要と思ふ」  中野孝次氏だの、大江健三郎氏だの、柴田翔氏だのが署名したのは解る。井伏鱒二氏だの、尾崎一雄氏だのが署名したのも解る。井伏氏も尾崎氏も要するに「政治音痴」なのである。だが、聲明文が「空疎で心を打たない」のなら、なぜ内村氏は署名したのか。内村氏の文章は頗る粗雜であり、聲明文を「空疎」だなどと極め付ける資格は内村氏には斷じて無い。そして「文は人なり」であつて、粗雜な文章しか綴れぬ粗雜な男だからこそ、「空疎で心を打たない」聲明文に署名するといふ、破廉恥とも評すべき粗雜な行爲をやつてのけたのである。文學者は讀者の「心を打つ」事だけを考へる。「心を打たない」文章に同意するのは、「文學者」でない證拠である。例へば次に引く内村氏の惡文を見よ。  反核も平和も反戰もそれ自體としてはいいことで、文句はつけられない。この事は今ではもうコモン・プレースに屬する。ならばそのコモン・プレースにコミットしたからといつてコミットメント自體に何ほどの意味があらうとも思はれない。(中略)しかも、またしてもヨーロッパの反核ぶりを見てわがふりなほせのくちなのだから笑はせるつてことになる。(『月曜評論』二月十五日號)  この内村氏の恐るべき惡文の惡文たるゆゑんについて解説する紙數は無い。だが、私は『言論春秋』の讀者に言ひたい。『月曜評論』は、『言論春秋』と同樣、頗る信頼しうる、ミニコミ紙なのである。その『月曜評論』にも、これほど破廉恥な惡文が載るのである。とまれ、愚かしい「反核アッピール」は「心を打たない」と言ひながら、内村氏はそれに署名し、しかも、あらうことか、『月曜評論』において「反核アッピール」を批判した。正氣の沙汰とはとても思はれぬ。内村剛介などといふ物書きを、『言論春秋』の讀者が、今後一切信用しないやう、私は切に望む。  先般、日航機が墜落して、ジャーナリズムはしきりに片桐機長の異常を論つてゐる。だが、内村剛介氏の異常と片桐機長のそれとは甲乙無い。しかるに世人は内村氏の異常を論はぬ。奇怪千萬である。 【外山滋比古氏の駄文】  サンケイ新聞の「世代百景」といふコラムに文章を書いてゐるのは、お茶の水女子大の外山滋比古教授である。毎囘つまらぬ事を書いてゐて、その都度呆れてゐるが、例へば七月三日付の夕刊に外山氏は次のやうに書いた。「乘りものに乘ると、かならず不愉快な人がゐる。さういふ乘客と隣り合はせになつてイライラするのはつまらない。原稿に頭をしぼつてゐればすべて忘れる。こんないい時間つぶしはない。(と言つてこの原稿はさうして書いたのではありません。念のため)」  かういふ馬鹿々々しい文章を感心して讀むやうな馬鹿な讀者が果してゐるのだらうか。「世代百景」の外山氏の文章は、頭の惡い人間が「頭をしぼつて」「時間つぶし」のために書いた文章なのである。それゆゑ今囘は外山氏の文章を徹底的に批判する。少々長い引用を敢へてするが、我慢して讀んで貰ひたい。  訪ねてきた學生が裏口から入つたのを見とがめて、玄關へ廻れ、とひどくしかつた老先生がゐる。‘もちろん、裏口入學を連想したのではない。’大志をいだく男一匹、勝手口からこそこそ入つてくるとは何事か、といふ明治生れの人間の感覺である。  勝手口などといふしやれたものがあるからいけない。‘われわれの“ウサギ小屋”には’アパートやマンションと同じで、‘出入口はひとつしかないから、’問違へなくていい。(中略)  かつて市内電車が走つてゐたころ、‘乘客には前口派と後口派とがあつた。’前の方から乘る人と後から乘る人とではどことなく人間のタイプが違ふ。‘前口派は行動的で、’乘るとずんずん奥へ進むが、‘後口派は入口にへばりついたままでゐる。’(中略)‘雜誌の讀者にはどういふものか後口派が多い。’まづ、編集後記を讀む。雜録があれば、ついでにそれもつき合ふが、そこまでで、さやうならしてしまふ。(傍点‘’松原)  これはサンデー毎日六月二十四日號に載つた外山氏の駄文である。まづ「裏口入學を連想したのではない」のくだりだが、かういふのを「下手糞な冗談」と言ふのである。ついで「われわれの“ウサギ小屋”には出入口はひとつしかない」と外山氏は言ふ。かういふ文章を讀まされると、文京區の外山邸に勝手口が無いといふのは眞つ赤な嘘ではないかと思ひたくなる。調査した譯ではないから斷定はしないが、もしも外山邸に出入口が二つあるとすると、外山氏は「ウサギ小屋」の大衆に媚びてゐる事になる。  外山氏が書く文章には淺薄な思付きが多い。「前口派」と「後口派」に性格の違ひなんぞありはせぬ。さういふつれづれなるままに思ひ付いた由無し言を綴つて商賣ができるとは、何とも結構な御身分である。外山教授は教場でもこの種の淺薄な思付きを喋り、お茶の水女子大の學生はそれを感心して聞いてゐるのだらうか。それなら、川上源太郎氏の言ふ通り「賢い娘は大學に行かない」はうがよいのである。  また、「雜誌の讀者には後口派が多い」などと、いかなる根拠あつて外山氏は斷定するのか。察するに、自分は「古い本の『奥付』の讀者だ」といふ山本夏彦氏の言葉を引用してゐるところをみると、山本氏の文章を讀んで思ひ付いたのだらうが、山本氏の文章と外山氏のそれとは月とすつぽんである。『月曜評論』の讀者は一度、山本、外山兩氏の文章を讀みくらべ、以後外山氏の著書を一切讀まないやうにしたはうがよい。  最後に、日本の雜誌の編集者に言ひたい。「雜誌の讀者に後口派が多く」、編集後記と雜録だけを讀んで「さやうならしてしまふ」のなら、編集者は一體何のために仕事に精を出してゐるのか。さういふでたらめを言ふ外山氏を雜誌の編集者は今後一切相手にしないで貰ひたい。 【再び外山滋比古氏を叩く】  佐藤直方といふ儒者は激しい氣性の持主であつた。朱子學の徒は吟味が過ぎる、他人を批判するのはいい加減にせよとの批判に答へて、時に激しさを伴はぬのは眞の學問ではないと直方は言つてゐる。「人の非を正すをあしきと云ふはあさましき論也」と彼は書き、「人の非を云はぬ佞姦人あり」と書き、「人がらのよきは其の人獨の幸なれども、道理を知らずに妄言するは天下後世の大害になる也」と書いた。「人がらのよき」事も大切だが、いい加減な文章を綴つて原稿料を稼ぐのは「人がらのよき」と惡しきに係らず許し難い、といふほどの意味である。馴合ひに終始して論爭をためらふ吾國の論壇にとつて、直方の意見は頂門の一針だと思ふ。  さういふ譯だから、私は直方の驥尾に付いて、前囘に引き續き外山滋比古氏を批判する。かうも執拗に外山氏を叩くのは、私怨あつての事に違ひ無いと讀者は思ふかも知れぬ。が、私は外山氏に叩かれた事は無く、また外山氏とは一面識も無い。外山氏は「人がらのよき」人物なのかも知れない。が、外山氏が「道理を知らずに妄言するは天下後世の大害になる」かも知れぬ、私はさう考へるのである。  外山氏のどの著書を批判してもよいが、今囘は『親は子に何を教へるべきか』を取上げる。とは言へ、私は二百頁のうち約九十頁を讀んだだけである。何ともはや愚劣で無責任な教育論であつて、私の知る限りこれほどでたらめな教育論は無い。九十頁を私は憤慨しつつ讀んだ。例へば外山氏はかう書いてゐる。  お母さんたちに本當の教育者になつていただきたい。これからこの世に生れてくるすべてのこどもに代つて、さう願はずにはゐられない。こどもが生れてからでは泥なはとしても遅すぎる。  外山氏が「これからこの世に生れてくるすべてのこどもに代つて、さう願はずにはゐられない」と言ふのは、眞つ赤な嘘である。これほど眞つ赤な嘘も珍しい、と言ひたいくらゐの眞つ赤な嘘である。考へてもみるがよい、「この世に生れてくるすべてのこどもに代つて」何事かを願ふなどといふ事は釋尊かクリストにのみ可能な事であつて、百八煩惱に苦しむ凡夫のなす能はざるところである。さういふ白々しい赤い嘘と淺薄な思付きを絢交ぜにして、外山氏は物を書くのである。例へば「學校は晝食の時間を繰下げなくてはならない」と外山氏は書いてゐるが、それは食事をすると「頭の血のめぐり」が惡くなるからだといふ。何と淺薄な思付きか。外山氏は二十年來、「朝飯前の仕事」をしてゐるさうだが、朝飯前の「頭の血のめぐり」のよい時に、かくも鈍重な思考しかできなかつたとすると、外山氏はよほど「頭の血のめぐり」の惡い御仁であるに違ひ無い。外山氏はまた中學校の給食に反對してゐるが、そのくだりを西義之氏が『學校は何ができるか』で開陳してゐる給食反對論と比較してみるがよい。西氏が本氣で文章を綴つてをり、外山氏がいかに無責任か、それが誰にもよく解る筈である。  外山氏の教育論のでたらめについては、いづれ私は折を見はからひ徹底的に批判する積りだが、私が何より情け無いと思ふのは、外山氏の淺薄な著書が多くの讀者を喜ばせてゐるらしい事でも、マスコミに外山氏が重宝がられる事でもなく、外山氏のでならめと不眞面目を、それと知りつつ批判せずにゐる論壇の寛容である。  昨今、世の中は右寄りになつたといふ。そのままには信じ難いが、もしもさうなら、弱くなつた革新を叩くよりも保守派の中の贋物を成敗すべきではないか。そしてそれこそ、情に流されがちのマスコミと違ひ、『月曜評論』のやうなミニコミが勇氣をもつてなすべき事だと私は思ふ。 【ポルノよりも有害な本】  外山滋比古氏は、『日本語の感覺』といふ著書の中で、昨今は若者に迎合して「水でわつたやうた文章」を書く手合が多いと書いてゐる。「水でわつたやうな文章」を書く外山氏が「水でわつたやうな文章」を嘆くのは、「臭い物、身知らず」だが、その途方も無い滑稽について、『月曜評論』の讀者にくだくだしい説明をする必要はもはや無いと思ふ。けれども「水で割つたやうな文章」は實はポルノ以上に有害なのである。今囘はその事について書く。  そこでまづ、高校生の息子や娘を持つ讀者のために、柄にも無い親身の忠告をしておきたい。昨今、高校生の自殺や非行が殖え、親や教師は狼狽してゐるらしい。一方新聞や教育評論家はさういふ親の足元を見て、心にも無い憂へ顔の文章を綴つて荒稼ぎをしてゐる。そのいんちきを私はいづれ徹底的に發いてやらうと思つてゐるが、教育論のいんちきよりも國防論のそれのはうが重大であり、教育評論家の成敗は當分先の事になる。そこでこのコラムで、今囘、青少年の非行や自殺を防止するための、實行可能な提案をしておかうと思ふ。  まづ、高校生の息子や娘を持つ親は、子供の勉強部屋を覗いた事があるだらうか。覗いた事が無い親は、拙文を讀み終つたら、善は急ぐべし、すぐ覗いて貰ひたい。と言つて、鍵のかかつた机の抽出しをこじあけろ、などと私は言つてゐるのではない。どんな親にも子供に言へぬ秘密があるだらう。それなら、子供が親に見られたくない春畫やポルノを篋底に秘してゐたところで、そんた事は驚くに及ばない、嘆くには及ばない。年頃の息子や娘がポルノに無關心で、勉強部屋に一冊のポルノも發見できなかつたら、その時こそ親は本氣で心配すべきである。  それゆゑ、息子や娘の勉強部屋を、檢察の特捜部よろしく捜索してはならない。ただ、子供の本箱を調べるだけでよいのである。そこにどういふ本が並んでゐるか。「プレイボーイ」や「平凡パンチ」が、或いは卑猥な劇畫本が二、三冊混じつてゐたところで、驚くには當らない。が、もしも子供が加藤諦三氏の著書を一冊でも所有してゐたら、その時こそ親は本氣で驚き、嘆き、その對策を眞劍に考へなければならぬ。  なぜなら、加藤諦三氏は現在、早稲田大學理工學部教授であり、理工學部の學生担當教務主任だが、大學教授の書いたものだから、卑猥な劇畫やポルノと違つて青少年のためになると考へるのは、これはもう途方も無い勘違ひだからである。書店で聞いてみるがよい、加藤氏の著書はたくさん出版されてをり、文庫本も出てゐて、しかも高校生には頗る人氣がある。それゆゑ、わが親愛なる『月曜評論』の讀者の令息令嬢が、加藤諦三氏の著書を所有してゐる確率はかなり高いと考へなければならない。加藤氏の著書は、外山氏の言葉を借りれば、若者に迎合し、若者に怠惰をすすめる「水でわつたやうな文章」で書かれてゐる。そしてさういふ文章は、川上宗薫、宇能鴻一郎、富島健夫の諸氏が書き捲る三流小説よりも遙かに有害なのである。  讀者は多分氣づいてゐるだらうが、私が誰かを批判する場合、私はその文章を批判して「人がらのよき」惡しきは問はない。では、すさまじい惡文の加藤氏の著書が、なぜポルノ小説よりも有害か。その事については次囘に書かうと思ふ。令息令嬢が加藤氏の著書を所有してゐたとしても小言は一切言はずに一ヶ月だけ待つて頂きたい。 【字引と首つぴきで讀め】  前囘約恥した通り、加藤諦三氏について書く。加藤氏は例へばかう書くのである。  ロック・カーニバルの會場の若者に聞いてみた。  −リンカーンとか、シュバイッアーとか尊敬する?   “うん”  −チップスは?  “いいな”  “チップスとリンカーンは結びつくの?”と、‘われながら「わかつちやゐない」’質問をしてみた。  “いいものは、いいんぢやない”(中略)  これからは價値の序列をつけた教育は失敗するにちがひない。(中略)  言葉よりも、音や色を信じはじめた世代、 いや、正確にいへば以前よりは音や色を信じてゐる世代があらはれてきた。(中略)  ‘言葉による内容傳達といふよりも、まさにフィーリングであるらしい。(傍点‘’松原) まつたく不潔な文章だから、今囘は前後に一行づつあけて引用したが、まづ讀者の注意を喚起したいのは、加藤氏の文章は改行が多く、假名が多く、從つて字面が白つぽいといふ事實である。「ポルノよりも青年にとつて有害だ」と私は前囘書いたが、加藤氏の著書に限らず、字面の白つぽい本はすべて青年にとつて有害である。  例へば「扱ふ」と書けば二字である。これを平假名にすると「あつかふ」となつて四字になる。つまり、漢字を多用する物書きは、同じ原稿料を稼ぐために、平假名を多用する物書きよりも、多くの事を言はねばならぬといふ事になる。改行の多少についても同樣の事が言へる。  そればかりではない。誰しも度忘れといふ事がある。その時、漢字を使ひたいと思へば、字引を引いて調べなければならぬ。平假名でよいのなら、その労を省く事ができる。つまり、漢字を多用するのは、物書きにとつて損な事なのである。おまけに昨今は字面の白つぽい本のはうが喜ばれる。どう考へても、漢字の多用は損なのである。  だが、例へば小林秀雄氏の文章と加藤諦三氏のそれとを較べてみるとよい。勿論、それは月とすつぽんで、比較を絶してゐる。青年が小林氏の文章を讀む場合、「字引と首つびき」で眞劍に、一字一句も忽せにせずに、讀まねばならぬ。それは當然の事で、筆者が一字一句も忽せにせず、眞劍に書いてゐるからである。小林秀雄全集は新潮社から出てゐるが、全集のどの部分にも、加藤諦三氏や外山滋比古氏の文章の如き駄文は見出す事ができない。それゆゑ、『月曜評論』の讀者が、息子や娘の本箱に小林氏の著書を見出したなら、それはまさに赤飯を炊いて喜ぶべき事なのである。小林氏に限らず、漢字を多用する物書きは、損得といふ事を考へずに文章を綴つてゐる譯であつて、さういふ文章を「字引と首つぴき」で讀まうとする若者が、人生航路の諸段階で安易な道を選ぶ筈が無い。安易な自殺や性犯罪なんぞをやらかす筈が無い。             、  加藤諦三氏の著者がポルノよりも有害なのは、加藤氏の文章が安易な生き方の見本であり、難局に直面して雄々しく生き抜くための精神力を青年から奪ふ事に役立つからである。ポルノは所詮ポルノであつて、若者がポルノを隱れて讀む限り、それは大した害をなさない。が、加藤氏の著書を若者は疚しい氣持で讀みはしない。それゆゑに却つて始末が惡いのだ。そして若者に向つて「われながらわかつちやゐない」などと卑屈な事を言ふ物書きは、大人の權威を低めて若者に媚び、若者を骨抜きにする。傍点を付したもう一つの部分も重大な意味を持つてゐるが、それは次囘に詳しく述べる事にする。 【言語輕視は狂氣に通ず】  前囘引用したやうに、加藤諦三氏は「言葉よりも、音や色を信じはじめた世代、いや正確にいへば以前よりは音や色を信じてゐる世代があらはれてきた。(中略)言葉による内容傳達といふよりも、まさにフィーリングであるらしい」と書いたのである。加藤氏に限らぬ、言語による傳達の輕視を主張する物書きが、言語による傳達を圖つて稼いでゐるのは、甚だしき自家撞着と言はざるをえない。加藤氏は知るまいが、サミュエル・ベケットといふ劇作家は、言語に對する極度の不信を懐き、つひに上演時間十五秒だか二十秒だかの作品を書くに至つた。加藤氏がもしベケットを直劍に讀むならば、言語による傳達を輕視する青年達を輕々に持上げたおのれの馬鹿さ加減に愛想が尽きる筈である。  先年、慶應大學の招きで來日したジョージ・スタイナーは、高橋康也氏との對談で、文學における「狂氣」を重視する高橋氏を窘め、かう言つた。これは頗る興味深い意見で、スタイナーに較べれば、加藤諦三氏なんぞ吹けば飛ぶ鼻紙みたいなものだから、以下、スタイナーの意見を引く事にする。「私は深く古典的な人間ですから、あなたとは對立します。狂氣、偏執、精神的崩壞は、私には退屈であり、私が興奮するのは正氣についてです。(中略)誤解を招くかもしれませんが、人間は五十萬年に一インチといつた氣の遠くなるやうな遅さをもつて動物から進化してきたのです。その結果としての、またその推進力としての人間の大腦、いかなる機械よりも優れたこの大腦を、芝居がかつた身振りでわざと破壞するのは間違つてゐます。人間の条件を定義づけるのは、正氣であつて、あなたが言つたやうな極限の状況ではない、さう考へる点で私はもちろんプラトン主義者、古典主義者です」(高橋康也譯)  かういふスタイナーの深い思考について語らうとすると、加藤諦三氏の如き木偶の坊を相手にしてゐる事の虚しさを痛感せざるを得ないが、言語を信じないで「フィーリング」とやらを信じようとする手合は、大人であれ若者であれ、確實に「狂氣、偏執、精神的崩壞」への道を辿る事になるのである。言語による傳達に限界がある事なんぞ、大昔から知られてゐた。が、人間はやはり言語によつて意思の疎通を圖らなければならぬ。親と子も、教師と生徒も、まづ言葉によつて結び付かうとせねばならぬ。それゆゑ私は、加藤氏の著書はポルノよりも有害だと言つたのである。「人間や人生に意味づけをしてゐた神を失つた現代を生きる若者に、音を無視して何を説教したところで通じない」と加藤氏は書いてゐるが、かういふ事を大人に言はれて、わが意を得たりと思ふやうな若者は、いづれ必ず、親や教師の説教や忠告を無視し、何事につけ、勝手氣儘に振舞ふやうになるであらう。言葉を正確に用ゐようと努力する者は、他人の言葉を正確に理解しようと努力する。が、若者に限らず、現在の日本人はあらゆる面で怠惰になつてゐる。そして言語の使用において怠惰な者は、道徳的にも怠惰なので、それを私は『知的怠惰の時代』において縷々説明した。それゆゑ、以下に引用する加藤氏の著書の一節に、讀者が總毛立つ事を私は切に望む。  ふつと(中略)僕にあてた“深夜放送族”の手紙を思ひ出した。   “先生”私は(中略)高三の女の子です。(中略)昨年までは戀人がゐました。その彼と月二囘ぐらゐの割合でホテルに行つたの。でも(中略)彼と別れたの。でもいまものすごく欲求不滿。でもね、オナニーなんて・・・・・・。彼がほしい(中略)。  いまの若者は政治もセックスも同次元でものをいふ。政治の話が高級で、セックスの話が低級なんていふのは遠い昔の物語。 【綺麗事ばかり言ふな】  本紙十一月十二日號で政田潤氏が、「無責任な教育論を排す」と題し、木村尚三郎氏を叩いてゐた。木村氏には「眞劍な問ひかけも己の生をかけた情熱も感じられ」ず、その意見は「無責任な思ひ付きの發言に過ぎぬ」といふのである。まつたく同感である。このコラムで私もいづれ木村氏を叩かうと思つてゐた。教育論に限らない、木村氏は樣々な問題に關してちと淺薄な思付きを書き過ぎるが、それも木村氏の思考に眞劍な問ひかけ、すなはちダイアレクティックが欠けてゐるためである。例へば『和魂和才のすすめ』なる著書の一節に、木村氏はかう書いてゐる。  いま私たちは、旅でいへば自動車の旅から汽車の旅への轉換を強ひられてゐる。(中略)つぎの汽車がいつ發車するのか、それすらはつきりしないのが現代である。じつくり腰を落ち着けて自分を見つめ、与へられた今日を樂しむ工夫をこらすと同時に他人や他國をも樂しませ、これを自らの生きがひと存在理由にする大人の知惠が、いま切に私たちに求められてゐる。  何ともふやけた文章である。木村氏の文章には受動態の動詞が矢鱈に多く、一人稱の代名詞は滅多に用ゐられる事が無い。時に一人稱が用ゐられる場合も、それは殆ど例外無しに複數形である。右に引いた文章の結び「いま切に私たちに求められてゐる」がその典型的な例であつて、「私は切に求める」といつたぐあひに木村氏は書く事が無い。なぜか。物書きとして本氣で何かを求めるといふ事が無いからである。他人に何と思はれようと、これだけは書かねばならぬと、さういふ覺悟で木村氏が筆を執る事は無い。それゆゑ、つれづれなるままに思ひ付く陳腐た事どもを書き流す事になる。しかるにその木村氏が、「若者には、何よりもまづ愛すること、生きることへの眞劍さが欲しい」と書く。笑止千萬である。そればかりではない、「いまの世の人は一般に心のしまりがない」と慨嘆し、「死に身となつていまのいまを一心不亂に念じて生き、活氣のある顔で現在を最高に生きることがもつとも大切だとする葉隠の精神」を懐かしむ。再び、笑止千萬である。土臺、「死に身となつていまのいまを一心不亂に念じて生き」る事を願つてゐる人間に、次のやうな綺麗事づくめのふやけた文章が書ける筈は無い。  人命尊重を考へぬ國、考へぬ民族はない。じかしながら自國と他國を常に峻別すると同時に、その場しのぎの解決に終始して、人命尊重を世界の中に普遍的な形で實現しようと決意しない限り、その民族、その國家にとつて、明日の世界を生きることは難しい。  木村尚三郎氏も歴史家の筈である。下らぬ思付きを書き流す暇があつたら、歴史について眞劍に考へた歴史家の文章を熟讀玩味したらよいと思ふ。レオポルド・フォン・ランゲは「眞の歴史家」の「興味と悦び」について次のやうに書いてゐる。  このつねに旧態にとどまりながらしかもつねに變貌してやまず、善良にして且つ邪惡であり、高貴な精神を有しながらしかも野獸のごとく、洗練されてゐてしかも粗野であり、眼を永遠なるものに注ぐかと思へば、また瞬間の奴隷であり、幸福でしかも不幸であり、ささやかな滿足に甘んずると同時に一切のものを貪りつくさんとするこの人間存在といふものに對し、ただありのままの人間の生きた現象に對し、もしひとが愛着を抱くなら、彼は(中略)ただ人間がつねに如何に生きんとしたかといふことをみるだけで、悦びを見出すであらう。(鈴木成高・相原信作譯)  ランケは綺麗事を言つてゐない。それこそランケが眞摯だつた事の何よりの證拠である。 【素人こそ思ひあがるな】  私は、經濟に關してはずぶの素人だが、今囘『經濟論壇』に半年間寄稿する事になり、送られて來た數冊を讀み、立派な筆者が立派な文章を書いてゐる事を知つた。寄稿者だけではない。例へば五十四年四月號の編集後記は「國會の最大のテーマが、相も變らぬ“黒い霧”探し。(中略)なさけないやら、やるせないやら・・・・・・何と泰平なことだと、つくづく感じ入る」と書いてをり、私は大いに同感し、大いに意を強くした。だが、「經濟學者の思ひあがり」と題する木村治美女史の文章だけは頂けない。今囘はその事を書く。  まづ、木村女史も私同樣、經濟に關しては素人であるやうに思ふ。「經濟界は、私とは最も無縁のものだと思つてゐた」と書いてゐるからである。しかるに、木村女史は昨今、「この方面からよくお聲がかかり」、「經濟企畫庁長官と、ある經濟學の教授と三人で(中略)座談會をしたり」、「ガルブレイス教授を囲む經濟學者の會にも、どういふわけか、お招きを受けた」りしたといふ。そして女史は經濟の專門家の意見は國民の「實際の生活體驗」と遊離してをり、「經濟學者、大企業の經營者の發言をきいてゐて、寒氣がした」と書いてゐるのである。  政治や教育の世界でも、文壇や論壇でも、昨今はいい加減な論説が横行してゐるのだから、經濟學者の中にも贋物はきつと多いであらう。だが、「文は人なり」であつて、木村女史の文章から私は、分限を弁へぬ素人の無責任を嗅ぎ付けた。例へば女史は「減税して、國民にもつとものを買つてもらはう」と主張する學者を批判して、「私たちは、もはや笛を吹かれても踊りたくない(中略)、もつとべつな豊かさがほしくなつてゐる(中略)、お金では買へないものが」と書いてゐる。「お金では買へないもの」について經濟學者といへども眞劍に考へなければならぬといふ事について、もとより私にも異存は無い。だが、經濟の專門家や大企業の經營者の考へ方を咎める木村女史は「人はパンのみにて生くるものにあらず」といふクリストの言葉の重みを知つてはゐない。ドストエフスキーが創造した大審問官の痛烈なクリスト批判の重みも知つてはゐない。それは女史の文章がはつきり示してゐる。ドストエフスキーを知つてゐる者なら「お金では買へない豊かさ」が欲しいなどといふ甘つたれは口が裂けても言へはしない。また「一般大衆の一人として、(中略)あつけにとられ」、「リードするのは、あなたたちではない、私たちです」などと口走る事もできぬ。  木村女史の場合に限らないが、昨今は素人が優遇され過ぎるやうに私は思ふ。素人なのに何らかの「方面からよくお聲がかかる」時、素人は用心すべきである。專門家の中に素人を混ぜておけば俗受けがすると、聲をかけた側は思つてゐるかも知れぬ。喜ぶ前に素人はさういふ事を考へたはうがよい。  木村女史はその点頗る無用心である。女史は「經濟學者が國民大衆をリードできると思ふのは(中略)思ひあがり」だと言ふ。が、いつの世にも「專門家」は「國民大衆」をリードしてよいのであつて、素人の思ひあがりほど滑稽で危いものは無い。 【昨今、合点がゆかぬ事ども】  國後、択捉のみならず、「北海道の一部」であり「わが國の領土の一部」である色丹島にもソ連軍が駐留し、軍事基地を建設してゐるといふ事實が最近判明したといふ。さういふ事實が確認されたとしても、必要以上に騒ぐのは日本國の利益にならないと、園田外相は語つたといふ。が、所謂北方領土返還運動について私には合点のゆかぬ事がある。私は實は、北方領土なんぞ決して戻る筈が無いと思つてゐる。ソ連のやうな強かな國が、おいそれと國後・択捉まで返してくれる筈が無い。先日、遠山景久氏と語り合つた際、それを私が言つたところ、遠山氏も同感で、政治とは實行可能な事を考へそれを實行する技術であると言ひ、ついでかんらからと笑つて、いつそ日本としては金を出して北方領土を買ひ取つたらよいと言つた。その通りだと思ふ。とまれ私にとつて合点がゆかないのは、北方領土の返還を叫ぶ人々は本氣でそれが實現するなどと思つてゐないのではないか、どうしてもさうとしか思へないといふ事である。金で買ひ取る事を潔しとしないなら、武力に訴へても北方領土は奪取すると、さういふ覺悟があるか。ありはしない。それは丁度、女房を他人に寢取られて、その「寢取られ料」で生計を立ててゐる髪結ひの亭主が、いづれは女房を奪ひ返してみせると、酒に酔つた時だけ強がつてみせるやうなものである。それは途方も無い茶番に他なるまい。  もう一つ、合点のゆかぬ事がある『經濟論壇』には毎號木内信胤氏の文章が載つてゐる。私は必ずしも木内氏の主張のすべてを肯定はしないが、木内氏の文章は歴史的假名づかひで書かれてをり、その点木内氏の信念を私は見事だと思ふ。私は今、この原稿を旧假名づかひで書いてゐる。旧假名が正しいと信じるからである。『經濟論壇』編集部が今囘、私の假名づかひを尊重するかどうか、私には解らないが、もしも私のこの文章を新假名に改めたとすると、私にとつて編集部の仕打ちは「昨今、合点がゆかぬ事ども」の部類に入る。なぜなら、戰後の日本人は平等といふ事を重んじてゐる筈だが、木内氏には旧假名づかひを許し、私にはそれを許さないといふ事になると、それは人間の平等だの自由だのを無視する「保守反動」的な所業だと言はざるをえないからである。  以上二つの問題に限らず、昨今合点のゆかぬ事ばかり多く、私は常に不服顔である。『文藝春秋』誌上の森嶋・關兩氏の論爭で文民統制といふ事が問題になつたが、兩氏とも文民統制が善である事は疑つてゐないやうで、これもまた私には合点がゆかぬ。『中央公論』十月號に福田恆存氏は「日本が主權在民の民主主義國家であるにしても少くとも文民統制に關する限り、人民の選んだ國會議員にのみ文民を代表させるのは危險である」と書いてゐる。私も同感だが、もう少し身も蓋も無い事を言へば、文民が常に軍人より利口だとは限らないのである。それなら、いついかなる場合にも、愚かな文民が賢い軍人を統制しなければならぬとは、これは頗るつきの不条理に他なるまい。賢い文民が統制してこそ文民統制の實をあげる事ができる。つまり、民主主義と同樣、文民統制も絶對善ではない。が、國防について論ずる場合に限らず、昨今は綺麗事を絶對善に祭り上げ、タブー扱ひにして、思考を停止する傾向がちと強すぎるのではないかと思ふ。 【死者を尊重しない民主主義】  人間を差別する事はいけないといふ。所謂「差別語」の使用についてマスコミは頗る慎重である。いや、臆病である。なぜ臆病なのか。それに何より「差別」と「區別」はどう違ふのか。中村保男氏は『言葉は生きてゐる』(聖文社)のなかで、碁石には黒白の區別があるに過ぎないが、「將棋の駒は初めから差別されてゐる」と書いてゐる。つまり、「差別といふのは、區別されてゐるものに上下の差をつけること」であり、「差別といふ概念は平等といふ概念と表裏の關係にあり、區別されてある幾つかの個體が平等でなくてはならないといふ觀念がまづ初めに」あるといふのである。簡にして要を得た説明だと思ふ。  個體が平等でたければならないといふ觀念については、ここでは論じない。けれども、新假名の不合理と同樣、使つてはならぬとされてゐる「差別語」について、私には合点のゆかぬ事がある。「盲」(めくら)、「唖」、「聾」、「跛」(ちんば)、「びつこ」、「氣違ひ」はいけないといふ。それなのに「馬鹿」はよいのである。それが私には頗る不可解である。考へてもみるがよい、緑内障によつて「盲」になる場合がある。戰場で爆風によつて「聾」になる事がある。暴走車に撥ねられて「跛」になる事がある。いづれの場合も當人の責任ではない。當人の責任でない以上、他人が何と言はうと、自らを省みて恥づるには及ばない。恥づるに及ばぬと思へば、差別されて動じない事もできる。  けれども「馬鹿」はどうなのか。もとより先天的疾患による「馬鹿」は同情すべきである。當人の責任ではないからである。が、例へば、毎週クイズ番組に出て、「低率の正解」を氣に掛けず、それどころかおのが頭の惡さを滿天下に曝して稼いでゐる、かの學習院大學の篠澤教授の馬鹿は、これは斷然當人の責任ではないか。そして、篠澤教授が假に「跛」だとして、「跛」と呼ばれる事と、「馬鹿」と呼ばれる事と、教授にとつてどちらが身に堪へるか。改めて言ふまでもないであらう。私の體重は四十三ないし四十五キロだが、腕の細さを嗤はれても私は一向に動じない。けれども、「痩せ腕」と評されたら、それが「ひ弱な腕前」を意味するのなら、私はおのれを省みる暇も無しに立腹するであらう。  周知の如く、新假名の不合理は、長い長い年月をかけて吾々の先祖が定着させた表記法を、馬鹿な國語改良論者たちが、短日月のうちに改良しようと企んで改惡した結果生じたものに他ならない。よく言はれる事だが、新假名づかひでは「手綱」は「たづな」と書き、「絆」は「きずな」と書く。けれども「絆」とは新潮國語辭典によれば「鳥・犬・鷹などの動物をつなぎ止める綱」であり、轉じて「夫婦肉親などの離れがたい情愛」の事である。絆を「きずな」と書けと、戰後、少數の馬鹿が、どさくさ紛れに決めたのだが、それ以前、夥しい御先祖樣が「きづな」と書いてゐたのである。つまり、多數決を重んずる吾國の民主主義は、先祖を計算に入れない民主主義なのだ。  私は民主主義を好かない。先祖を尊重しない民主主義はなほさらである。差別用語禁止も、新假名づかいの強制も、さういふ淺はかな民主主義ゆゑの愚擧であり、不合理で矛盾だらけなのは當然の事だと思ふ。 【教育に關する或る勘違ひ】  子供に童話を讀ませるのは子供を善良にするためではない、強くするためである。それゆゑ、一流の童話に含まれてゐる毒を薄めようなどと決して企んではならない。が、小堀桂一郎氏が言つてゐるやうに、例へばイソップの『ありときりぎりす』といつた一流作品の「原作に對する温情主義的改變とでも呼ぶべき加筆が、現代日本の幼児向きの繪本類ではかなり高い比率で生じてゐる」のである。原作では、夏の間遊んでゐた蝉(日本ではきりぎりす)に對し、蟻は食物の施しを拒否するが、日本では「しんせつなありたちは、きりぎりすにたべものをわけてあげました」といつた具合の結末にたる。小堀氏が言ふやうに、きりぎりすが怠惰の報いをうけずして救濟されるのは、「無能なものほど優遇される福祉國家の思想の具象化としてぴつたり」だが、さういふ温情主義は、ひ弱な、出來損ひの大人の、子供に對する認識不足に由來するのであつて、彼等はきりぎりすを冷たく突き放す蟻の事を、子供がもし「恰好よい」と思ふとすれば、それは教育上甚だ有害だと考へる。が、それこそ全くの6(木+巳)憂であつて、子供は大人よりも殘酷で、殘酷を好み、それで一向に差支へ無いのである。  それゆゑ、例へばグリム童話の登場人物も時に頗る殘酷に振舞ふ。『蛙の王樣』のお姫樣は、同じベッドに寢たがる蛙を壁に叩きつけるし、『白雪姫』の王妃は猟師に、姫を殺して肺臓と肝臓を取つて來いと命じ、それを鹽漬けにして食はうとする。勿論、童話である以上、善はとどのつまり勝利ををさめる事になる。けれども、その場合も、惡の懲しめ方は頗る殘酷であつて、『白雪姫』における惡玉たる王妃の死に樣もすさまじい。彼女はまつ赤に燒いた鐵の靴を履かされ、踊り狂ひつつ死ぬのである。  さういふグリムの童話から殘酷といふ毒を抜かうなどと考へてはならない。いや、グリムに限らず、一流文學作品の毒抜きをしてはならない。そこに毒があるのは人生に毒があるからである。そして、子供はいづれ必ず大人にならなければならないのだから、この毒のある人生に耐へられるやう強く逞しく育てられねばならない。  『白雪姫』の結末にしても、勝ち誇る善がいかに殘忍かと、まともた大人ならさういふ事を考へたはうがよい。惡人だけが殘忍なのではない。惡人を懲らしめる善人もまた甚だ殘忍に振舞ふのである。例へば、太宰治の『お伽草紙』の「カチカチ山」を讀むがよい。惡しき狸を懲らしめる善玉の兎がいかに殘忍か、太宰の名文はそれを見事にかつ愉快に描いてゐる。  さういふ一流の童話を讀み、善人もまた殘酷であると知つてこそ、子供は強く逞しく生きられるやうになる。どうしてそれが子供に惡い影響を与へようか。この世に百パーセントの善玉も惡玉もゐない。それを子供に教へる事こそ教育なのである。しかるに、よい年をしてさういふ事がまるで解つてゐないのが日本のジャーナリストであり、教育學者である。彼等は皆、子供を「よい子」に育てるのが教育だと信じ切つてゐる。とんでもない勘違ひである。自分の子供を「よい子」に育てたいなどと親は決して思つてはゐない。むしろ子供が適度に惡に染まる事を、惡に染まりながらも惡にへこたれぬ事を、親は皆願つてゐる筈なのである。 【おのが身勝手を知るべし】  十一月二十五日付の「世界日報」に、高田動物生態研究所の高田榮一氏が面白い事を書いてゐた。高田氏によれば「動物の研究で世界中を歩くのだが、多くの國ではゴキブリのゐるのがあたりまへになつてゐて、誰もとりたてて關心を示さない」さうである。「しかるにわが日本國では」と高田氏は言ふ。少しく高田氏の文章を引用しよう。  ところが、日本のゴキブリ騒ぎをみてゐると、現代の日本のインチキ性が象徴的に表現されてゐて、狂氣の沙汰としかいひやうがない。インチキ性のいい例が、テレビのCMである。連日連夜、チャンネルを問はず、のべつまくなしに喚いてゐるゴキブリ殺蟲劑・ゴキブリ捕獲器のCMがさうである。まづ、殘虐シーンは不可といふ放映コードがあるのに、その畫面は、ゴキブリがクスリを噴霧されて苦悶・斷末魔の樣相をみせてゐるかたわらで、モデルの美女が手柄顔にニタッと笑ふ。惡趣味である。  私はあまりテレビを觀る事が無いが、さういふコマーシャルを觀た記憶はある。けれども、高田氏の言ふやうに「このひどい殺しの場面が茶の間に罷り通つてゐても、市川房枝女史などウルサイ婦人連中」は文句をつけない。それはなるほど面妖な話である。けれどもよくよく考へれば、人間とはさういふ身勝手な動物なのであつて、折ある毎に汚職を糾彈してはしやぎ廻る市川女史には、その事が解つてゐない。それだけの事である。  市川女史が汚職を咎めるのは、自身手を汚した事が無いからで、ゴキブリの一匹もゐない臺所に女史がゐるからである。けれども、この世にはゴキブリがゐる。高田氏の言ふ通りゴキブリを根絶しようとするのは「思ひ上がり」であり、「日本を無菌化しようとする」のは馬鹿げた妄想でしかない。が、市川女史本人はそれをやつてゐる積りで、愚かしい新聞も大衆も、女史にはそれがやれると思ひ込んでゐる。嗤ふべし、ゴキブリは四億年も前からこの地上にゐる。四億年も存在してゐるものを、人生たかが五十年、蜉蝣の如き人間に根絶できる譯が無い。汚職もさうである。賣春と同樣、汚職も多分、人類の誕生と同時に發生したものであらう。それはゴキブリの如く頑健なものなのである。  けれども、ここで私が言ひたいのは、人間の身勝手といふ事である。市川女史に限らず、折ある毎に政界の淨化を叫ぶ新聞記者も、人間の身勝手といふ事が解つてゐない。ゴキブリが苦悶して、美女が「手柄顔にニタッと笑ふ」。よくよく考へてみればそれは面妖な事だと、彼等はよくよく考へてみる事が無い。飛行機が落ちて人間が死ねば新聞は大いに騒ぐけれども、ゴキブリは大いに虐殺して怪しむ事が無い。  私はゴキブリなんぞに同情してゐるのではない。平和な時代に他人の胸から心臓を抉り出す樣な凶暴な手合が、戰場では見事な自己犠牲の行爲をなす、それが人間といふものなのである。が、人間とはずゐぶん身勝手なものだと知れば、親族や親友の死でもない限り、己れにとつて他人の不幸はゴキブリの苦悶と大差無いといふ事を知るにいたるであらう。それはよい事なのである。 【眞劍勝負の美しさ】  教へ子にオーディオ氣違ひが一人ゐて、今は明石で高校の英語の教師をやつてゐるが、それが先日、寒い日に、イギリス製と日本製のスピーカーを組合せ、特製のネットワークを組立て、勿論、採算なんぞは無視して、立派な再生裝置を作つてくれた。そこで私は、最新録音のモーツァルトだのブラームスだのを買つて來て、音樂を聽いてゐるのだか、音を聽いてゐるのだか、よく解らぬままに大いに樂しんでゐる。  その奇特な教へ子は、すぐれた音の再生のためには特別のコードを用ゐねばならぬといふ考への持主だが、同時に彼は、すぐれた再生裝置は録音の古いレコードをも美しく再生するものでなければならぬと信じてゐて、最新録音ばかりを喜ぶ旧師の浮薄を心中ひそかに苦々しく思つてゐる樣子であつた。何せ私は「げてもの」に他ならぬベルリオーズの幻想交響曲さへ、樂しげに聽いてゐたのである。  だが、或る日、ミスター・コードが激賞するディヌ・リパッティのレコードを聽いてゐるうちに私は坐り直した。リパッティは一九五〇年、三十三歳の若さで死んだ天才ピアニストである。私が聽いたのは、死の三ヶ月前、ブザンソンにおけるリサイタルの實況録音で、ショパンのワルツとモーツァルトのソナタ第八番イ短調であつた。ショパンも見事だが、あれほど悲しげで美しいイ短調ソナタの演奏を、私は聽いた事が無い。私は感動した。なるほどかうなれば録音の古さなんぞは問題にならぬ。  リサイタルに出掛けようとするリパッティを、友人の醫者は懸命にやめさせようとしたといふ。が、「約束したのだ、演奏しなければならない!」とリパッティは答へたといふ。妻のマドレーヌが書いてゐるのだが、リパッティが演奏會場に到着した時、これがこの若き天才の最後の演奏とならうと聽衆は思つた。そして苦痛に堪へ、渾身の力を振り絞つて、リパッティは演奏をつづけたが、ショパンのワルツの最後の一曲を彼は遂に彈く事ができたかつたのである。さういふ命懸けの演奏だけが持つ、凄絶な美しさは、レコードからもはつきり感じ取れたので、私はいたく感動したのであつた。  要するに、リパッティにとつて演奏は眞劍勝負に他ならなかつた。そして、眞劍勝負を強ひられた者だけが表現しうる異樣な美しさに接して私は感動したのである。戰死した夫にあてて妻が書いた一通の手紙を讀んで私は同じやうに感動した事がある。その未亡人は、同じ職場の河田といふ男性に優しくされた事について草葉の陰の夫に報告し、かう書いたのである。  本當にはしたない女だとお怒りになるでせうが、時に誰かに甘えてみたいといふ氣持になるのをどうすることも出來ません。(中略)第二、第三の河田さんにめぐり合つた時、「老いらくの戀」に花を咲かせないと斷言する自信もありません。こんな厚かましいことをぬけぬけと書くところがもうどうかしてゐるのかしら。でも・・・・・・本當に女獨りでゐるとこんな氣持になる時もありますのよ。(『昭和世相史』、平凡杜)  この人間的な弱さはまことに美しいが、彼女が美しいのは、眞劍勝負を強ひられた時代に生きてゐたからである。 【言論か暴力か】  中川八洋氏が『月曜評論』に、猪木正道氏は「ソ連政府の代理人になつたかの如くである」と書いたところ、猪木氏は「重大な侮辱」であり、もはや「言論ではない、これは暴力だ。暴力に對しては刑法に頼るほかない」(九月一日付『世界日報』)とて、中川氏及び月曜評論社代表桶谷繁雄氏を告訴した。その程度の「刺激的な文句」がどうして名譽毀損になるのか、「猪木さんといふ人は、文章から類推するかぎり大變な權威主義者のやう」だと、九月二十一日付の『月曜評論』に大久保典夫氏が書いてゐたが、全く同感である。權威主義者でも頭腦明晰なら取柄はあるが、猪木氏の場合、その著書には論理の破綻や飛躍がふんだんにあり、いづれ私はそれを拾ひ集め丹念に批判しようと思つてゐる。國防は一國の大事であり、大事に關する限り容赦無く批判しあふのが言論人たる者の責務だと、中川氏もさう信じて猪木氏を批判したのであらうし、「若い評論家の世に出る早道は、權威ある先輩に喧嘩を賣ることで、これは山路愛山に論爭を挑んだ北村透谷以來の傳統」だと大久保氏も書いてゐるが、もはやその傳統は死に絶えたのではないかと私は思ふ。今や「若い評論家の世に出る早道は、權威ある先輩に媚を賣ること」であり、さういふ處世術を忘れて先輩を批判すれば、今囘の中川氏の如く、逆に先輩から喧嘩を賣られる羽目になる。  だが、今囘は大いに喧嘩の花が咲いたはうがよい。週刊文春八月二十日號は、「猪木・中川論爭」に關する諸氏の意見を徴してゐるが、猪木氏が中川氏を告訴する事に關する限り誰一人賛成してゐない。「ソ連政府の代理人」云々の表現が名譽毀損になんぞなる筈は無いと、皆、承知してゐるからである。それゆゑ、喧嘩の花は咲かずして、猪木氏の鼻が折れてしまふ恐れは多分にあるが、さういふ事にならずして、この喧嘩にならぬ喧嘩が何とか長續きするやうであつて欲しい。なぜなら「猪木・中川論爭」は、改憲の是非についてこれまで曖昧な態度を採り續けて來た保守派知識人に、一種の踏繪を突き付ける事になるかも知れないからである。改憲の是非といふ大事に較べれば、保守派同士の和合なんぞは小事であつて、「文人、相輕んず」る事となるのも止むをえない。  けれども、私はここで改憲の是非を論じようと思つてゐるのではない。猪木正道氏の思考の淺薄について語らうと思つてゐるのである。猪木氏が法と道徳を混同していかなる戯言を口走つてゐるかについては『ボイス』十一月號にも書いたけれども、中川、桶谷兩氏を告訴するといふ相も變らぬ「短絡思考」にもとづく今囘の淺はかた行爲も、猪木氏の思考の淺薄を如實に示してゐるのである。  「なぜ中川氏に反論せずに告訴したのか」との『世界日報』記者の質問に對し、猪木氏はかう答へてゐる。「僕は言論の自由のためには、これまで一貫して鬪つてきたつもりだ。だから言論であれば、僕は反論しますよ。だけどね、“ソ連政府の代理人”とか、“ソ連への忠誠心”とかいふのは言論ぢやないと思ふな。これは暴力だ。(中略)暴力に對しては刑法に頼るほかない」。かういふ杜撰な思考力をもつてして、よくも防大の校長や京都大學教授が勤まつたものだと思ふと、もしも私が書いたならば、それは「言論」なのか、それとも「暴力」なのか。ここで「暴力」といふ言葉の意味を詮索する暇は無いが、暴力に對しては暴力もしくは權力の制裁があつて當然である。だが、中川氏は「ソ連政府の代理人になつたかの如くである」と書いたのであつて、「ソ連政府が猪木氏に鼻藥を嗅がせた」と書いた譯ではない。それに何より、暴力に對する場合と異り、言論に對しては言論による制裁が可能である。「猪木といふ人は馬鹿だ、頓馬だ、間抜けだ、薄鈍だ」とだけ喚き立てるのも言論だらうが、さういふ「暴力的言論」をジャーナリズムが本氣で取上げるのなら話は別だが、「ソ連政府の代理人」云々の言論に對しては、言論による反撃や制裁が可能ではないか。猪木氏はなぜそれをやらないのか。いや、なぜやれないのか。 現に私は今、かうして猪木氏の思考の淺薄を嗤つてゐる。實際、かくも劣弱な思考力の持主に、よくも防大の校長や京都大學教授が勤まつたものだと、私は思つてゐる。さて、猪木氏は私と『月曜評論』をまたぞろ名譽毀損の廉で訴へるのか。もしも訴へないのなら私は猪木氏に問ふ、「ソ連政府の代理人」云々と言はれるのと、頭が惡いと言はれるのと、言論人にとつて一體どちらが一層不名譽か。「ソ連政府の代理人」云々と言はれたら、「ソ連政府の代理人」でないゆゑんを言論によつて述べ立てるか、さもなくば默殺すればよい。だが、かうして猪木氏を愚鈍と極め付けてゐる私は、暴力を行使してゐる事になるのか。暴力か否かの判定は司直の手を煩はさねばならぬのか。  俗に「畑に蛤」といふ。畑を掘つて蛤を探すのは愚かしい事だといふ意味である。中川、桶谷兩氏を告訴した猪木氏の行爲がそれだと思ふ。猪木氏は言論人である。そして言論人とは、大久保典夫氏の表現を借りれば「言葉の專門家」である。勿論、檢事も判事も言語によつて思考するのだから、言葉を蔑ろにしてよい筈は無い。だが、言論人は「言葉の專門家」なのであり、專門家はおのが專門とする事柄について、他の領域の專門家の判斷を輕々に仰ぐべきではない。例へば自衞隊の存在は憲法違反なりや否やと、さういふ事まで裁判官に決めて貰はうとするのは、私には非常識としか思はれぬ。假りに最高裁が、日本國憲法は戰力の保持を禁じてをり、それゆゑ自衞隊は違憲であるとの判決を下したら、日本國は自衞隊を解散し、完全なる非武裝國に徹しなければならぬのか。最高裁の判事といへども神ではない。三權分立とは司法權が立法權や行政權よりも常に上位にあるといふ事を意味しない。  私は判事を侮つてこれを言ふのではない。言論人が司法官に過大な期待を寄せる事を戒めてゐるに過ぎぬ。そしてその過大な期待は、司法權の尊重であるかに見えて、その實、輕視に他ならない。例へば村松喬氏は、田中角榮氏が「有罪にたればともかく、逆の結果が出たら、はなはだ困つたことになる。政治に對する不信感は、永久にぬぐへなくなる」と言つてゐる(週刊新潮八月二十七日號)。これほど淺薄た意見を口走つて袋叩きに遭はぬのは奇怪千萬だが、「政治に對する不信」は司法官だけが拭ふべき筋合のものではない。村松氏は司法權に過大な期待を寄せてゐる譯だが、もしも最高裁が田中角榮氏を有罪とせず、「逆の結果が出たら」、村松氏の「司法に對する不信感は、永久にぬぐへなくなる」のであらう。そして村松氏は、おのが意見に合致せぬ最高裁の判決を惡しざまに言ふのであらう。  猪木氏は「言論であれば反論」するが、中川氏の言分は言論にあらずして「暴力」だと言ひ、猪木氏を支持する學者たちも、中川氏の「直情径行」を批判してゐる。だが、中川氏が「直情径行」なら、それを窘めたらよいので、反論せずして裁判官の判斷を仰いだ以上、猪木氏は言論人としての責任を放擲した事になる。日本國の檢事も判事も猪木氏ほど愚昧ではあるまいから、猪木氏はこの喧嘩に負けるであらうが、その場合、言論人としての責任を放擲した猪木氏は潔く判決に服し、猪木氏は「ソ連政府の代理人であるかの如くである」との中川氏の主張の正しさを全面的に認めるのであらうか。それともおのが言分を認めぬ司法官を惡しざまに言ふのであらうか。  中川氏は、「今囘の事件によつて猪木さんの諸論文および諸發言がより多くの人に讀まれ、猪木さんがいかに貧弱かつ劣惡な知識しかなく、わが國の防衞政策を論じるに全く適さない人物であるかが廣く知れわたると思ふ」と言つてゐる(『世界日報』)。私もさういふ事になると思ふし、さうなつて欲しいと思ど中川氏はまた、「猪木さんは御自分を批判する人に對していやがらせ、その他の陰湿な裏工作をもつて封じてきた、といふ噂」があると言つてゐるが、私もさういふ噂を聞いてゐる。私自身もその被害者だとの噂も聞いてゐる。事實なら怪しからぬ事だが、私はしかし、眞偽のほどを確かめずして猪木氏に腹を立ててゐる譯ではない。「猪木・中川防衞論爭」は、その根底に、改憲の是非をめぐる保守派知識人の意見の對立がある。そして、その對立は私怨や私恩によつて曖昧にする事のできぬものであり、それゆゑ私は今囘の喧嘩に花の咲く事を望むのである。日本國はいつまでも「モラトリアム國家」を極め込む譯にはゆかず、いづれ必ず眞劍勝負を強ひられるであらう。竹刀で面を取られても生命に別状は無いが、眞劍なら負けたはうは死ぬ。言論の場合も同樣で、論爭に負けたはうは、いかに惡しざまに腐されようと文句は一切言ヘぬ筈である。だが、目下のところ日本國は馴合ひ天國であり、それゆゑ眞劍を振り翳す「直情径行」の野暮天は必ず村八分になる。それを存分に思ひ知されたから、このところ私は口汚い罵倒を慎んでゐた。今囘、私は久し振りに「愚鈍」といふ言葉を用ゐたが、それは中川氏の猪木批判と私のそれと、一體どちらが猪木氏にとつて不名譽かと、その事が言ひたかつたからに他ならない。  最後に猪木氏に問ふ、私の批判は言論なのか、それとも暴力なのか。言論と認めるなら猪木氏は反論すべきであり、暴力だと思ふなら告訴すべきである。ただし、告訴は歓迎するが、「陰湿な裏工作」だけはやらないで貰ひたい。夏目漱石は『私の個人主義』と題する講演で、三宅雪嶺の「子分」による言論抑圧を批判し、「槇雜木でも束になつてゐれば心丈夫」だらうと皮肉つたが、さういふ卑劣な振舞は一時功を奏しても、必ずや後世の知るところとなる。猪木正道氏は「貧弱かつ劣惡な知識」の持主だつたかも知れないが、決して卑劣漢ではなかつた、道徳的に立派な人間だつたと、後世が評するやうであつて欲しいと私は思ふ。 4 〈喜劇一幕〉花田博士の療法  〔東京都下青梅市にある花田精神醫學研究所。その應接室兼書齋。上手と下手にドア。上手奥、壁面に寄せて机。部屋の中央に藤の三点セット。正面中央に窓、その兩側に作り附けの本棚。机の上にも机の周囲の床の上にも本や雜誌が積んである。夏の午後。熊蝉の鳴く音が聞えてゐる。  幕があがると、舞臺空虚。やがて下手のドアがあき、タカが北川春彦を案内して入つて來る。タカは六十五歳、小柄な老婆。北川は二十八歳、派手な開襟シャツに細いズボン。小型のボストン・バッグを持つてゐる。〕 タカ:さあ、どうぞ、どうぞ。暑い中をようお出でなはりましたなあ。(扇風機のスイッチを入れる)ビールが、あなた、冷たう冷えてござります。ちよつと待つてて下さいよ。(退場しかける) 北川:あ、電話を借りたいんですがね。 タカ:電話は、それ、そこにござります。(机の傍まで戻り)これ、ここに。(机の上に積んである本や雜誌を移動し、その背後に隠れてゐた受話器を取り上げてみる。電話がチンと鳴る)大丈夫、大丈夫、切り替へておます。では、ちよつと待つてて下さい。ビールが、あなた、冷たう冷えてござります。 北川:都内へ掛けるんですがね、ここからは、ダイアル即時?  タカ:ダイアル即−?  北川:いや、いいです、いいです。東京から青梅がダイアル即時なら、その逆もまた眞たるべし、と。(机の所へ行き、受話器を取り上げ、ダイアルを廻して局を呼び出す)ええと、都内へ掛けたいんだがね、ここからは − あ、さう、有難う。(受話器を掛け、再び取り上げ、ダイアルを廻す。この間にタカ退場)あ、 − 山本君ゐる? 北川だ − あ、僕だ、北川だ、今着いたところなんだ − それがね、荻窪の先で子供を撥ねやがつてさ、たつぷり一時間の立往生 − いや、大した事ぢやないの、全治十日程度だつて − いや、今留守でね、犬の散歩に出掛けたんださうだ − さうねえ、會つてみないことには何とも言へないけどねえ。とにかく − うん − さう、それはさうね − とにかく、いづれにしてもだな、まづは御意見を伺ひ、ついで曼茶羅教との關係をただす − それはさうさ、精神病理學界の異端者と新興宗教との結び附き、それがポイントだもの − それはさうと、日下部から、まだ連絡ないの?  − さう、その時は連絡してよ。 − 正確たところは解らないけど、一時間はゐると思ふ。 − あ、ちよつと待つて。(手帖を見る)青梅の、二一二六番。 − それはさう、でもね、日本人天野歌子が黒ん坊と結婚して、出來た子供が純粋なる日本人、その赤ん坊の写眞をデカデカと載せて、手際よく灰めかせば、必ず話題になるさ。それあ、黄色い種の主が解れば、申し分ないけどねえ。 − とにかく、その時は連絡してよ。ここの用事が濟み次第、すぐに驅けつける。近頃落目の流行歌手にしたつて、こいつはセンセイショナルだぜ。腐つても鯛だからな。それからね、さつき車の中で思ひ出したんだけど、僕の机の右側の引出しに、バルドーが入つてる筈なんだ。見てくれる? 「可愛い惡魔」のスティールなんだがね − あ、そいつをね、五時に渡邊製版が來るから、例のグラビアのスティールと一緒に渡してほしいのさ − え、ドモンジョの? へえ − すごいぢやない − ああ、ぐつとくるねえ、斷然そいつがいいよ。バルドーは背中とお尻だけぢやない。斷然ドモンジョにしよう。それだけ − ぢや、失敬。  〔受話器を置き、自分の席へ戻り、ボストン・バッグの中からカメラを取り出し、およそ無意味としか思へぬ室内の写眞を、立續けに撮る。例へば机の上の写眞、本棚の写眞など。ついで本棚の本を眺め、そのうちの一冊を取り出し、パラパラと頁を繰り、それを元の位置に戻し、別の一冊を取り出し、パラパラと頁を繰り、それを元の位置に戻す。これを五度繰り返したところへ、タカが、ビールをのせた盆を持ち、下手より登場。北川、す早くカメラを構へ、タカの写眞を數枚撮る。タカ、撮られてゐると知り、急ぎ盆をテーブルの上に置き、頭髪を撫で附け、襟を合せる。〕 北川:(撮り終り)日本犬ですか?  タカ:はあ?  北川:お宅の犬ですよ。 タカ:いえ、それがあなた、スピッツとテリアの合の子でござります。もう、もう、神經質で神經質で − (北川、下手の藤椅子に腰掛け、お搾りで顔を拭く。タカ、ビールの王冠をあける)さあ、どうぞ、どうぞ。 北川:(コップを差し出し)それあ、さうでせうな、スピッツとテリアぢやねえ。 タカ:(注ぎ終り、ビールをテーブルの上に置き、あたかも相手の肩でも叩くかのやうに、右手を上下に振つて)それが、あんた、一筋縄ではゆきません。自分の足にかみつきます。氣にくはんことがあると。 北川:(ビールを飲む)うまい!  なるほどよく冷えてゐる。 タカ:皮が破けて血が出るくらゐ噛みよります、ここん所を(自分の膝を叩く)、そらあ、もう、もう、きつい聲で吠えながら。 北川:要するにそれは、つまりヒステリーですよ。 タカ:それがあんた、雄ですねん。 北川:ああ、雄ですか。(南京豆を齧り、ビールを飲み、さして關心なささうである) タカ:お腹がすいたと言うては噛み、蚊がうるさいと言うては噛み、傍を犬猫が通つたと言うては噛む − まだ、あんた、噛むだけならよろしいのですけど、えらい聲で吠えますでつしやろ、眞夜中に始められたら、あんた、心臓がきゆうつと − (顔をしかめ、兩手で胸のあたりを抑へ、首を前方に突き出す) 北川:なるほど、雄ならヒステリーとは言へたいた。案外、精神分裂病かもしれない。はつ、とすれば先生の御專門ぢやないですか。 タカ:(再び上下に手を振つて)それが、あんた、伜は眼に入れても痛うない程かはゆがつてます。でも、伜も言ふ通り、ほんまはかはいさうな犬や。何と、あんた、仔犬の頃、母犬に背かれましたんですよ。 北川:背かれた?  タカ:それが、あんた、ほんまにほんまにひどい話や。(北川と向ひ合つて腰掛ける)生れて三月目に、近所の大きい大きい土佐犬にかぶられて、左の耳と左の眼をちぎり取られて。さうやのに、あんた、一緒にゐた母親はとつとと逃げ戻つて、けろりんとしてたといふぢやありませんか。ほんまに情ないことや、畜生のあさましさや − 人間の母親やつたら、どないひどい目に會うたかて、かはゆいわが子を庇ふのに。 北川:(依然として關心を示さずに)そんたものでせうかね。 タカ:それあさうですがな。(しばし北川の顔を見つめて)あんた、お獨身ですか?  北川:さあ、どうかな。(ビールを飲み)どう見えます?  タカ:伜は獨身でござります。 北川:それはつまり、どこか違ふといふことですね? さう、正確には獨身ぢやないな、僕のばあひは。 タカ:(語るやうに、だが度が過ぎぬやう)三千世界に子を持つた親の心は皆一つ − それはそれは、子はかはゆいもの − それを、なんぼ畜生でも、ほんまに胴慾非道な母親やなあ。 北川:(面倒臭さうに)さう、さう。 タカ:(北川を凝視したまま、語調を變へて)わたしは、伜のためならどんな事でもいたします。人樣のお屋敷に火を附ける事でも、人樣をあやめる事でも − それを、あんた、伜はわたしのことを − (絶句する。悲痛な表情) 北川:(一瞬、怪訝な顔附でタカを見るが、すぐ話題を變へて)散歩は − 餘程遠くまで連れて行くわけですか?  タカ:(再び陽氣になつて)それがあんた、なにぶん神經質た犬のことでござりますもの、用を足すにも一騒動。(妙な聲で笑ふ)毎日、同じ時刻に、同じ場所まで連れて行かんと、用が足せません。(再び笑ふ)いつでも、この時刻に、勝沼神社の境内で − (笑ふ)用を足すのでござりますがな。 北川:(笑つて)なるほど、面白い犬ですなあ。 タカ:ヘえ、へえ、面白うおますとも。あつちこつちと、せんど用足しの場所を捜しましてなあ。お尻を下げて、前足を踏んばつて、後足をばたつかして、あんた、ほんまでござります、それ、こんなふうにしてな −   〔タカ、和服の前がはだけるのも構はず、四つん這ひにたり、脱糞時の犬の眞似をしてみせる。尻をつき、兩足をばたつかせるわけである。北川、コップを手にしたまま立ち上り、唖然たる面持。その時、下手のドアがあき、花田信太郎が姿を現はす。四十七歳。長身で痩せぎす。髪は油氣なくぼさぼさ。地味た開襟シャツに紺のズボン。〕 花田:(懸命に足をばたつかせてゐるタカを見て顔をしかめ、低く重々しい聲で咎める)おタカさん! (タカ、ぴつたり動作をやめる)何です、その恰好は! 行きなさい!   〔タカ、頭を垂れたままゆつくり立ち上り、頭を垂れたまま退場〕 花田:(呆氣に取られて見送る北川に)どうも失禮しました。三興出版の方ですね?  北川:あ、初めまして、北川と申します。(コップをテーブルの上に置き、開襟シャツのポケットから名刺入を出し、一枚差し出す) 花田:(受取り)花田です。どうぞ、お掛け下さい。  〔花田、上手の椅子に腰掛け、名刺をじつと眺める。北川も腰をおろす。〕 北川:あのう − あの方はやはり −  花田:(名刺をテーブルの端に置き、平然と)はあ、さうです。(煙草に火を附ける) 北川:ああ、なるほど。 − すると、つまり、先生のお母上ではないといふことに − 。 花田:まあ、慢性妄想病とでも申しますか。つまり、人格崩壞のさほど著しくない分裂病ですな。母ではありません。家政婦代りに雇つてをります。 北川:なるほど − いや、何とも面白い患者ですね、驚いたな。 花田:いえ、一向に面白くありません。 北川:はあ? どうしてです?  花田:つまり、醫者の治療意欲を掻きたてる對象ではない、といふことです。一本、いかがです? (煙草を勸める) 北川:いや、煙草はやりませんので − すると、先生、もつと變つた患者もゐるわけですか?  花田:さやう、をります。だが、それとは少し違ふのでしてね。あの患者のやうに、過去の生活體驗から症状が了解可能であるやうた症例には、あまり興味を持てないのですよ、少くとも現在の私は。 北川:つまり、昔何かあつたわけですね? 例へば − さう、母親に裏切られたとか?  花田:母親に裏切られた? ああ、それは犬のばあひでしてね。犬の話に關するかぎり、あの女の言ふ通りです。 北川:なるほど。でも、何かかう、信頼感が根底から揺らぐやうな異常體驗をしてゐるわけでせう? 先生にとつては平々凡々たる症例かもしれないが、僕には、實にその − 興味津々たるものがありますねえ。一つ、話して下さいませんか? お近づきのしるしに。 花田:お近づきのしるしに?  − いや、正直な話、分裂病や躁鬱病の原因についてはよく解らぬ点が多いのでしてね。遺傳的素質であるとも言ひきれず、大腦の器質的變化であるとも言ひきれない。勿論、私もこの点についての研究をやつてをりますが、むしろ私は治療に重点を置いてゐるわけです。原因の究明も勿論大切だけれども、それを突きとめるまで患者を治療出來ないといふことでは困る。それに、例へばです、猫の頭を切開して間腦を取り出し、そいつを刺戟してやる。確かに猫は笑ひだしますよ。しかし、そんな實驗だけで −  北川:(遮つて)猫が笑ふ? まさか、先生、そんな馬鹿な(笑ふ) −  花田:(いささかむつとして)あの女のばあひですが、あれで殺人の前科を持つてをります。 北川:え、殺人の前科を?  花田:奈良縣郡山の、かなり大きな金魚養殖業者の娘でしてね。十六の時、近所の四つになる男の子を溺愛するやうにたつた。まあ、女の子にはよくあるケースですがね、母親氣取りで子供の面倒を見たがるのは。ところがあの女のばあひ、かなり度が過ぎてゐた。ともあれ、やがてよからぬ噂が立つやうにたつたわけです。子供の兩親は子供を近づけまいとする、不愉快な噂があの女の耳にも入る。その邊からをかしくたつた。自分が産んだ子供を、皆が取り上げようとしてゐる、本氣でさう思ふやうになつたさうです。いはゆる被害忘想ですがね。そこで、ある日、隙を狙つてその男の子を誘ひ出し、附近の山の中に逃げ込んだ。警察と消防團が山狩りをやつて、炭燒小屋に潜んでゐた二人を發見したのだが − 最初に踏み込んだ消防團員を、あの女は撫の割木で擲り殺した − 。 北川:なるほど、面白いな。しかし、その、腑甲斐ないですね、その消防團員も。十六やそこらの娘に擲り殺されるなんてねえ。いささか信じられないくらゐだなあ。 花田:油斷してゐたのでせう。子供の手を引いて小屋を出ようとした途端、背後から腦天に一發くらつたさうですがね。無論、郎死ではなからうと思ひます。しかし、腦震盪ではなく腦挫傷でせう。腦といふ物は、さう、譬へてみれば豆腐のやうな物でして、案外に崩れ易い。それに、精神異常をきたしてゐるばあひ、たとへ女でも、並々ならぬ馬鹿力を發揮しますからね。  この時、ぎい一と音を立てて、下手のドアがほんの僅か開く。北川、ぎくりとし、一瞬身を固くする。 花田:あ、おタカさんか? (返事がない)ちよつと失禮。  〔花田、立ち上り、ドアのはうへ近づく。同時にパタパタといふ逃げる足音。花田、ドアを締め直し、戻つて來る。北川、物問ひたげに花田を見る。〕 花田:いや、立聽きの好きな女でしてね。もつとも、覗き見や立聽きは誰でも好きですが。 北川:(ほつとして)耳だけは一向に衰へないつてわけか。いや、正直、ひやりとしましたよ。 花田:何もひやりとすることはたいでせう。もつとも、タイミングは確かによかつた。 北川:ところで、その、どういふわけで先生のことを息子さんだと思ひ込むやうになつたのです?  花田:養老院で私の治療を受けて以來ですがね。息子と思ひ込んだ理由は − さう、解りませんな。多分、私が氣に入つたのでせうよ。 北川:養老院? すると、その金魚屋の親も見放したわけですね?  花田:いや、母親が死ぬまでは、何不自由ない暮らしをしてゐたやうです。 北川:しかし、殺人を犯した以上 − あ、さうか、懲役もくはないわけか。で、その後、兇暴な發作を起したことは − ?  花田:さう、去年の夏、私の飼犬を擲り殺しましたがね。ここへ引き取つて以來、人間に危害を加へたことはありません。 北川:同じ屋根の下に住んでをられて、その − 薄氣味惡くありませんか?  花田:いえ、一向。 北川:本物の氣違ひつて奴に初めてお目にかかりましたがね、なるほどひどいものですなあ。(花田、不愉快さうな顔附にたる。勿論、北川は氣づかぬ)は、は、は、笑つちやふね、あの時の恰好 − 牛蒡みたいた臑を出して(笑ふ) − 見られたざまぢやない(笑ふ) − 一週間はたつぷり笑へる。ははははは − (笑ひが止らぬ) 花田:(依然、不愉快さうな顔で)失禮ながら、そろそろ御用件を承りませう。 北川:いや、どうも失禮しました。何せ、生れて初めての體驗なもので − (手帖を出し、頁を繰る)でも、笑はずにはをられません。(抑圧した笑ひ) − お願ひです。先生、笑はせて、頂きます。(笑ひが爆發する。文字通り、腹を抱へて笑ふ) 花田:(怒りの表情をはつきり現はして、激しく)お止めなさい!  北川:(その劍幕に驚き、ぴたりと笑ひやみ)あ、失禮しました。  〔この時、下手袖で、ガチャンといふ音がする。北川、はつとして立ち上る。すぐにまたパタパタといふ音。花田、ドアの所へ行き、ドアをあけ、半身を乘り出す。〕 花田:(そのままの姿勢で)おタカさん、拭いておきなさい! (廊下へ出て、ビールニ本とコップを一つ運び込む。ドアを締め、自分の席へ戻る) 北川:(不安さうに)聞かれたでせうか?  花田:無論。 北川:まづいことをしたな − 謝つて來ませうか?  花田:(氣を取り直し)謝る程のことぢやありません。立聽きする方も惡いのだから。 北川:何か割れる音がしましたが − ?  花田:(ややあつて)鶯餅の皿ですよ。(ビールの王冠を抜きつつ)北川さん。 北川:は − ?  花田:鶯餅なんぞ、食べる氣はしないでせう、ビールを飲みながら? (北川にビールを注いでやる) 北川:鶯餅、と申しますと?  花田:餅菓子の一種です。(自分のコップを見せて)それ、ここに少しくつついてゐる。このコップが割れずにすんだのは、餅の上に落ちたからだ。今日、ここへ、東京の雜誌社の方がお見えになる。これこそ、花田精神醫學研究所にとつて記念すべき大事件であり、最大級の歓待をもつて迎へなければたらたい − 。 北川:(いい氣になつて)いやあ − 恐縮ですな。 花田:そこで昨夜、十一時頃までかかつて、しこたま鶯餅をこしらへたのです、あの女は。 北川:あ、なるほど。 花田:その鶯餅だが、とても食べられた代物ぢやない。飛び上るほど鹽辛い。分裂病はとかく感覺異常を伴ふものでしてね。あの女のばあひは味覺異常なのです。が、昨夜だけは、鶯餅づくりを默認してやりました。母親としての − いや、母親の積りでするあの女の好意ですからね。子供のやうにはしやいでをりました。 北川:しかし、味覺異常の家政婦ぢや、料理は任せられませんね?  花田:勿論、料理人を置いてゐます。 北川:さうでせうね。毒でも盛られかねないからなあ。氣違ひに刃物といふやつだ。それこそ。 花田:(不愉快さうな顔になり、ややあつて)かなり無神經な方ですな。あなたは。 北川:あ、お氣に障りましたか?  花田:さ、用件を伺ひませう。(煙草に火をつける) 北川:(仕事とたると急に生き生きしてくるのである)さう、さう、仕事、仕事。(ビールを飲み乾し、手帖を繰り)實はですね、來週の特集記事として − いや、こいつは後廻しと − 實はです。先日、随筆を書いて頂かうと思つて、明治醫大の山岸先生をお訪ねしたのですが − 山岸先生、御存じでいらつしやいますね?  花田:お名前だけは。 北川:その際、例の癌新藥の發明者である馬場博士、及び武藏野醫大の古田教授の、腸が血で造られるという新學説、つまり − (手帖を見る) 花田:血が腸で造られる、でせう?  北川:(自分の言ひ違へには氣づかない)あ、御存じでしたか?  花田:血は骨髄でなく腸管において造られる。消化された食物が腸管の絨毛を通り、そこで新しい赤血球が生れる − 專門外のことでよく解らないが、ともあれ革命的た新學説でせう。 北川:ところがです、封建的なるわが醫學界は、異端學説なりとてこれを一笑に附してゐる。これは甚だ遺憾な事と言はねばたらぬ、といふことになりまして −  花田:(遮つて)待つて下さい、山岸さんがそんたことを言ひましたか?  北川:いや、編集會議の結論ですがね − とにかく、かのコペルニクス然り、ガリレオ・ガリレイ然り、われ等ジャーナリストは、今こそ孤獨なる異端者を強力にバック・アップせねばならぬ − といふ結論に達したわけです。 花田:つまり、この私をも異端者として認めて下さつた − ?  北川:さういふことです。私共の予備的調査によりますと − (手帖を見て)去る四月の學界において發表なさるお積りだつた、分裂病の抜本的治療法に關する御研究が、保守的封建的たる日本精神病理學界の指導者共の妨害により、流産の憂き目を見たわけで、癌新藥OPQの發明者馬場博士、腸内造血説の古田博士、それに先生、このお三方の御意見を取り上げ、もつて來週の特集記事としたい。但し、ここで一言、どうしてもお斷りしておきたいことがあります。私共の雜誌のことですが、わが「週刊現代實話」は發行部數二十萬、これを月刊に直しますと八十萬、年刊に直せば實に八百四十萬部。絶大なる影響力を持つてゐるわけです。ただ、全くもつて遺憾なことながら、毎號平均百頁のところ、エロ・グロ・ナンセンスが約五十頁、つまり五十パーセントは全くもつて俗惡、低劣極まる代物。しかしながら、殘る五十パーセントは極めて良心的た編集によるものでして、エロティック・リアリズム關係が三十パーセント、政治問題や社會問題の記事が二十パーセントとなつてをります。例へば先週は −  花田:(遮つて)待つて下さい − まあ、どうでもいいやうなことだが、すると、極めて良心的な記事は二十パーセントといふことになりませんか?  北川:皆さん、さうおつしやるのでしてね。誤解です、とんでもたい誤解です。百聞一見に如かず、現物をお見せして説明しませう。(ボストン・バッグの中から「週刊現代實話」を二部取り出し、一部を花田に手渡す)まづ、最初のグラビア、こいつは實に猥褻なものでして、お見せするのも恥かしい。かういふ写眞はすべて、スティール・マンの持込みでして、私共が撮影するわけぢやたいのです。ついで本文ですが(頁を繰る。花田も繰る)この「B・G・の偽らざる告白」から「新・ペッティング論」まで、勿論私共の作製した記事ぢやなくて文學青年くづれのトップ屋に書かせたものですが、この五十頁ばかりは愚劣極まる代物です。ところがです、例へば − さう、七十三頁を御覧下さい。(花田、頁を繰る)フランク・ハリスの『わが生涯と愛』。譯者は新進氣鋭の英文學者です。フランク・ハリスといふのは、かの有名なバーナード・ショーの友人でして、シェイクスピアやオスカー・ワイルドを論じた著書もある。つまり立派な文學者です。『わが生涯と愛』には、そのものずばりの表現がいたる處にありまして、猥褻文學の代表作のやうに思はれてゐますが、それこそとんでもない誤解なのです。藝術です、立派な藝術です。例へばカザノヴァにしろ、サドにしろ、ヘンリー・ミラーにしろ −  花田:(遮つて)解りました、よく解りました。ただ、ちよつと解らんのは − その「B・G・の告白」みたいたものとですね、このハリスですか、さういふ立派な藝術とが、同じ雜誌の中では扱はれてゐると、讀者としてもいささか −  北川:御尤も、と言ひたいところですが、實はさうぢやない。いいですか、先生、現代は本質的に悲劇の時代ですよ。名前は忘れましたが、「現代人は戀愛したがらスピノザを讀む」と言つたイギリスの詩人がゐるさうですが、實はそんな甘いものぢやない。僕に言はせれば、快樂の動作を續けつつ形而上學について考へる、これが現代人ですよ。ゴーゴリは『死せる魂』の中で、未來があるだけでも青年は幸福だ、と言つてゐるさうですが、今日の青年にとつて事情は全く違つてゐる。現代の日本の青年にとつて、積極的に希望と呼びうるものは何一つ無い。そして、この希望の無い状況にあつて青年が熱中できる事といへば、それはセックスと政治運動あるのみです。例へばです、三十五年六月十五日の、かの日米安保条約反對デモにおける −  花田:(遮つて)ちよつと待つて下さい。どうもあなたのお話、少々論理の飛躍があるやうに思ふのですがね。(北川が何か言はうとするのを制して)とにかく、「週刊現代實話」には眞面目な記事が五十パーセントもある、それはまあ認めます。しかし 北川:「眞面目」といふのはちよつと當りません。それでは殘る五十パーセントが「不眞面目」といふことになる −  花田:しかし、北川さん自身、俗惡で猥褻だとおつしやつたぢやありませんか。 北川:ですから、その点について御説明申し上げようとしてゐたわけです。どんな人間も俗惡で猥褻な一面を持つてゐる。特に現代の青年にとつてはですね、積極的に希望と呼びうるものが何一つ存在せず、從つて −  花田:(遮つて)ああ、それは解ります、よく解ります。五十パーセントは確かに立派な記事です、よく解りました。それで?  北川(ややあつて)これはここだけの話でして、絶對に秘密にしておいて頂きたいのですが、實はですね、うちとしては、このエロ・グロ・ナンセンスを十パーセント以下に抑へ、いづれは一流週刊誌にまで育てたいと考へてゐるわけです。そのためには、勿論、五十パーセントの良心的な記事の編集を、いやが上にも慎重にやらねばなりません。五十パーセントは確かに愚劣です、俗惡です、猥褻です。しかしながら、殘る五十パーセントは立派なものです。決して一流週刊誌にひけを取らない。だからこそ、私のやうな編集者の存在理由があるわけでして、編集方針は極めて良心的、何よりもまづ良心、一にも二にも良心、およそジャーナリズムの常識からして考へられぬほど良心的、さうです、言語に絶するほど良心的なのです。勿論、誤解しないで頂きたいのですが、先生の學説を疑つてゐるわけでは決してない。いはば、その、完全なる白紙の状態にあるわけで、私共で記事にするか、先生に執筆をお願ひするか、これはまだ決めてゐませんが、いづれにせよ、御高説を拝聽し、それが充分納得出來たばあひにかぎり、日本精神病理學界の保守的封建的體制を大いに糾彈しよう、といふことになつたのです。勿論、精神病について僕は全くの素人です。しかし、自分の口から言ふのも何ですが、編集者としての勘ですね、そいつだけはかなり鋭い積りです。あのう − お話中失禮ですが、トイレを拝借したいのですが −  花田:(いささか戸惑つて)え、あ、手洗ですか、どうぞ。(上手のドアを指差し)こつちのドアをあけて、廊下を左へ行くと突當りです。 北川:ちよつと失禮。(上手へ退場)  〔花田、左手の親指と人差指とを顎にあてがひ、ほんの暫く思案する。が、すぐ思ひきつたやうに立ち上り、机の引出しから藥びんを取り出して、錠劑をてのひらに取り出し、藥びんを引出しにしまひ、元の位置に戻り、北川のビールに錠劑を落し、コップを二三度振る。コップを置き、自分のコップにビールを注ぎ、煙草に火を附ける。やがて北川が戻つて來る。〕 北川:(席に著き)どうも失禮しました。ええと、どこまでお話しましたつけ?  花田:あなたの勘がかたり鋭いといふお話だつたやうに思ひますが − 。 北川:ああ、さうでした。ところがです、殘念ながら、あとのお二方については、その方面の權威者の批判的見解なども色々と伺ふことが出來たのですが、先生の新學説のばあひ、予備的調査の資料が殆ど集まらない。つまり、二三の大學の神經科に當つてはみたのですが、どういふものか、先生の學説については餘り語りたがらたい。日本異常心理研究所の橋場さん、目黒醫大の津村さん、それと明治醫大の山岸さん、このお三方をお訪ねしたわけですが、橋場さんなど、ひどいものでしてね、開口一番 − あ、そんたことはどうでもいいことでして、要するに −  花田:いや構ひませんよ、一向に。何と言ひました、橋場さんは?  北川:「花田を連れて來給へ、精神鑑定をしてやる」 花田:(平然と)なるほど面白い。で、津村さんは?  北川:要するに、「正氣の人間と氣違ひとの區別も出來ぬ醫者が現れるとは世も末だ」とか、「曼茶羅教と結託して無知蒙昧なる大衆を迷はす魔術師」とか、罵詈雜言のかぎりを尽すだけでしてね。しかし、あれは虚勢ですよ、編集者としての第六感から、僕はぴんと來ましたね。それに何より、氣違ひを治療するために正氣の人間を氣違ひにするといふことを、もしも本當に實行なさつてゐるとすれば、それを知つた醫師會が默つてゐる筈はない。人道上の大問題でせうからね、こいつは。ところがです、大病院の先生方には、この点について何らかの手を打つたやうた氣配がまるでない。それに、僕の第六感は、別の面からも裏附けられたのです。つまり、かつて先生の治療を受けたことのある患者を捜し出し、調べてみた。すると、驚くなかれ、完全治癒率は百パーセントだつた。ただ、ちよつと氣にたるのは、その患者達すべてが、 − (絶句する) 花田:百パーセント曼茶羅教の信者だつた − 。 北川:さう、なんです。そして皆、受けた治療の細目については、默して語らぬふうでして −  花田:なるほど。 北川:そこで、まづ最初におたづねしたいのは、(手帖を見て)精神薄弱及び癲痛を除くすべての精神病、なかんづく分裂病に對する治療法として、正氣の人間を氣違ひにするといふことを本當に實行なさつてゐるのかどうか、及び、實行たさつてゐるとすれば、その意義と言ふか趣旨と言ふか必要と言ふか効果と言ふか − その邊のところを簡單に御説明頂きたいわけです。 花田:つまり、かういふことです。(ビールを飲む)御承知の如く、現在廣く行はれてゐる分裂病の療法は、ショック療法や精神外科などのいはゆる肉體療法と、醫師の暗示や説得などによる精神的療法、この二つに大別出來る。(飲む)肉體療法も、最近はクロールプロマジンやレセルピンなどの、いはゆる向精神藥を使用することによつて、著しく進歩したことになつてゐる。(飲む)しかし、現在もなほ、あらゆる手段を尽しても予後不良な患者が、つまり完全治癒に至らぬ患者がかなり多い。いや、從來の療法によつて治癒した患者は、私の考へでは、到底完全治癒とは認められんのです。從來の療法が有害無益だと言ふのではない。インシュリン療法結構、前頭葉白質切截術結構、いや、結構どころか私も場合によつては試みてゐる。だが、それだけでは完全た治療とは言へない。つまり、畫竜点睛を欠く療法と言はざるをえない。要するに − (飲む)フロイトにせよ、クレッチマーにせよ、ありとあらゆる神經科の醫者は、すべて同一の、根本的な過ちを犯してゐる。つまり、いいですか − (飲む)彼等は皆、患者を治療しようとしてゐる、これこそ途方もたい間違ひと言はざるをえない。中世紀ならばいざ知らず、この二十世紀において、分裂病患者の治療に專念してゐるやうなことでは − (飲む。釣られて北川も飲む。花田、さりげなく腕時計を見る) 北川:どうもよく解りませんね。患者を治療するのが途方もたい間違ひといふことになると −  花田:ああ、なるほど。いや、失禮、失禮。解らないのが當り前だ。結論を先に喋つてしまつた。つまり − さう、從來の療法によつて治癒したかに見える患者の多くが、何故また發病するのか? 患者に自信を植ゑつけてやらないからです。では、それにはどうしたらよいか? いはゆる正氣の人間を分裂病にしてしまへばいい。つまり、分裂病とは流行性感冒の如きものであつて、まともた人間なら −  北川:(遮り)何ですつて?  花田:まあ、最後まで聽いて下さい。まともな人間なら必ずかかりうる病氣だといふことを、説得するだけでなく、實際に證明してみせるわけですよ。御承知の如く、分裂病患者は種々樣々の妄想に取り附かれるけれども、圧倒的に多い被害妄想を例にとるなら、最初のうちはトランキライザーの類を投与したり、必要に應じて電撃療法を試みたりする。そして、激しい發作がをさまつたところで、その患者をして被害妄想を抱かしめた人間、つまり加害の意志なき加害者だが、それを分裂病にかからせ、加害者が被害妄想に取り附かれてゐるところを、被害者に見せてやるわけです。これはまつたく効果的でしてね。(時計を見る) 北川:うん、確かに効果的でせうなあ。しかし待つて下さいよ、ちよつとをかしいぞ − 被害者を治癒せしむるために加害者が分裂病にならなければならないといふことは − (考へながら入念に)被害者の犠牲になつた加害者を治癒せしむるために、また別の被害者が − いや、加害者が被害者にならなければならず、加害者の犠牲になつて被害者になる加害者は − (わけが解らたくなつて絶句する)ええと −  花田:(にやにや笑ひ)何をおつしやりたいのか、どうも解りかねますな。 北川:つまり、その − さう、さうですよ。要するに惡循環ぢやありませんか、患者が一人治癒する毎に患者が一人殖えるといふのは。 花田:いや、さういふことにはなりません。患者のために分裂病になる加害の意志無き加害者は、一定の期間發作を起すだけであつて、その後自然に治癒するやうになつてをります。(時計を見る) 北川:なるほど。何か特殊な藥を飲ませるのですか?  花田:それはまだ申し上げられないのです。 北川:まだ? しかし、患者には − つまり加害者には知られてしまふ筈ですね。?  花田:勿論、知られないやうに事を運びます。 北川:ああ、催眠術ですね?  花田:まあ、色々ですがね。 北川:しかし、職業上の秘密かもしれないが、その点を明らかにして頂かたいと、うちとしても取り上げるわけにはゆかない。なるほど、氣違ひを直すのに氣違ひをもつてするといふのは、革命的なアイディアですし、無論報道價値もある。けれども、「週刊現代實話」としてはです、常人を一時的に狂人に變へうるといふ確證を掴まぬ限り(花田、腕時計を見る)、先生の新治療法を積極的に支持出來ないわけです。さうでせう?  花田:(につこり笑ひ)いかにも、御尤もです。 北川:藥ですか、催眠術ですか?  花田:藥を用ゐます。催眠術はやりません。 北川:どういふ藥です?  花田:まあ、幻覺發現劑の一種ですね。ハナダールと言ひまして、錠劑になつてをります。 北川:ハナダール? あ、さうか、發明なさつたわけですね?  花田:ええ、まあ − 。 北川:で、その、どうやつて飲ませます?  拒否されたらそれきりでせう?  花田:(うなづいて)分裂病になつてくれと頼まれて引き受ける人は、まづ絶對にをりません。勿論、無斷で投与します。例へば、飲物の中へ一錠入れるのです、ビールとかコーヒーとか紅茶とか − 。 北川:あつ!  花田:どうたさいました?  北川:(立ち上り)無斷で飲ませたんですね、僕に?  花田:(とぼけて)何を、です?  北川:その、ハナトールとかいふ藥を? 今、トイレヘ立つた隙に?              花田:とんでもないことをおつしやる。それあ、あなたの被害妄想ですよ。 北川:被害妄想! !  − それはつまり、飲ませたといふことぢやありませんか、僕がすでに被害妄想を起してゐるといふことは!  花田:(落ち着き拂つて)被害妄想といふのはね、北川さん、被害を受けてゐないにも拘らず被害を受けてゐると思ひ込むことですよ。だから、あなたの被害妄想だといふことは、つまり、實は被害を受けてゐない、といふことぢやありませんかね。(相手の反應を熱心に見守る) 北川:しかし、被害を受けてゐないにも拘らず、被害を受けたと − 思ひ、込むのが − (突然、腰をおろし、照れ隠しに、棒讀み調で)いや、失禮しました。どうも、その − (にやにや笑ふ) 花田:(少々落胆し、苦笑ひして)それに、よしんば飲んだところで、すでに申し上げた通り、二時間もすれば自然に治癒するのですからね。 北川:(再び少々不安になり)例へばの話、ビールに入れたとして、ビールの味が變りませんか?  花田:絶對に變りません。 北川:で、どういふ症状が現れるのですか?  花田:ごく稀れに、服用後すぐ吐いてしまふ患者がありましてね。それで、まあ、用心するわけですが、服用後 − さう、三分もたつて吐かたければ大丈夫、まづ最初に鬱状態が現れます。つまり恐しく憂鬱にたつてくる − そこで、その症状を昂進させるべく誘導するのですがね。もつとも、精神薄弱などのやうに知能指數のごく低い者、こいつには全然利きません。反應がないといふことぢやないので、例へば横隔膜の収縮、つまり俗に言ふしやつくりを起しはしますが、精神的反應は全く期待出來ない。動物もさうでして、猫などはしやつくりが止らずに悶死してしまひます。 北川:(己れの心の状態を確かめつつ)憂鬱にねえ。(かなりの間) − (元の調子に戻り)よし、かうしませう。今も申し上げたやうに、僕としてはその藥の効果をこの眼で確かめざるをえないわけですよ。そこでです、外に待たせてあるうちの運轉手、荻窪の先で子供を撥ねて少々憂鬱になつてゐるから丁度いい。あいつに飲ませようぢやありませんか。かなり足りない男ですが、精神薄弱ぢやないことは確かです。 花田:ずゐぶん冷酷な方ですた、あなたは。 北川:冷酷? それあ、先生、目糞鼻糞を笑ふ、ぢやありませんか。 花田:私のばあひは別だ。藥を飲ませるのは救濟するためですからね。 北川:救濟? と言ひますと?  花田:救濟、つまり救ふことです。北川さん、あなたは曼茶羅教と私の治療法との關係についてもお知りになりたいわけでせう?  北川:勿論です。是非お聞きしなければ。 花田:では、かうしませう。いづれ運轉手さんをモルモットにして、必ずハナダールの効果を立證します。だが、それは後廻しにして、まづ、曼茶羅教との關係についてお話したい。いいでせう、それなら?  北川:それなら、結構です。 花田:いたつて誤解されやすい話ですのでね、どうか誤解なさらぬやうに願ひたいのだが、實は正氣の人間が異常であつて、分裂病や躁鬱症の患者こそ正氣なのですよ。 北川:え?  花田:ハナダールの効果から、私はそれに思ひ至つたのですが、いはゆる正氣の人間にハナダールを与へるでせう。すると、すでに申し上げたやうに分裂病の症状を呈する。ところが、約二時間後に自然治癒したばあひ、その患者は、何といふか、さう、理想的な人間になつてゐるのです。先程あなたは、醫師會が人道上の問題にしないのを不思議がつてをられたけれども、たとへ無斷で飲まされても、その結果一人の患者を救ふことになつたのだと知ると、一人の例外もなく、快く私の處置を事後承認してくれるのです。言つてみれば、したたか酩酊し、二時間ばかり前後不覺になつてゐたやうたものですからね。まあ、先を聽いて下さい。そこで、私は考へた、世界中の神經醫は患者を治療せんとして異常心理學を研究してゐるが、これこそ途方もない間違ひであつて、精神病を根絶するためには、いはゆる正氣の人間を一人殘らず氣違ひにする他ないのではないか − まあ、お聽きなさい − なるほど、治療せずに放置しておけば、分裂病患者は著しい人格の崩壞を來します。パン屑でも油蟲でも小石でもぼろ切れでも、手當り次第に鼻の穴や尻の穴に詰め、スプーンであらうとインクであらうと、見境なしに呑み込んでしまふ。これは異常としか言へたいではないか。さう、確かに異常だ。それは私も認める。かういふ退行の最終段階に達した患者は、もはや人間ではない。言つてみればワラヂ蟲の如きものだ。しかし、治療せずにおくとワラヂ蟲になるからと言つて、初期の分裂病患者まで氣違ひ扱ひするのは、これは許し難い思ひ上りと言はねばならない。いはゆる正氣の人間の大半が、要するにワラヂ蟲ではないか。國會議事堂にも丸ビルにも大學にも、ワラヂ蟲がうようよしてゐるではないか。人間とワラヂ蟲との違ひは何か。言ふまでもないことだ、人間は惱むがワラヂ蟲は惱まない。一つ例をあげませう。三年前、ある少女が私の病院へ入院した。十七歳の、なかなか頭のいい娘だつたが、自分は四つの時に人殺しをした、弟がその場に居合せてそれを見てゐた、と言ふのです。つまり、典型的な罪業妄想だけれども、生活歴を調べてみて解つたことだが、發病三ヶ月前、父親が窃盗罪で投獄されてゐるのです。娘はそれを悲しみ、三ヶ月間惱みつづけた。いいですか、ここですよ、私の言ひたいのは。父親が窃盗罪で投獄される。誰だつて情なく思ひ、惱むでせう。だが、三ヶ月間も惱みつづける人間はごく僅かしかゐない。大抵はせいぜい三日だ、四日目には諦めてしまふ。ところが、異常心理學では、三日間惱む人間を正常と見なし、三ヶ月惱みつづける人間を敏感性性格などと呼んで異常性格の一つに數へるわけだが、これは違ふ、絶對に違ふ。三日間のはうが異常であつて、三ヶ月が正常なのだ。窃盗犯の父親を持つた娘の心に、何故罪業妄想が發生したか。娘は父親を愛してゐた。尊敬してゐたとは言へないかもしれない。が、深く愛してゐた。恥づべき犯罪を犯したからといつて父親を見限ることはとても出來ない。娘は惱んだ。三ヶ月間惱みつづけた。そのあげく、自分も父親同樣前科者であるといふ妄想が發生したわけだ。これはつまり、愛する對象を失ふまいと、必死の努力をした結果に他ならない。なるほど − (北川を制して)まあ、もう少し聽いて下さい。なるほど、人を殺した事實はないのに殺したと思ひ込むのは異常だ。しかし、三ヶ月間惱みつづけること、これがどうして異常だらうか? フロイトは、鬱病患者の心の状態を喪中の悲哀感情に譬へてゐる。肉親を失つて喪に服してゐるばあひ、人の心は悲しみで充たされ、他のいかなる事柄に對しても興味を失ふわけだから、確かに鬱状態に酷似してゐる。けれども、いはゆる正氣の人間なら、三ヶ月もその状態でゐはしないのです。昔はさうぢやなかつた、昔は死後七七、四十九日を中有と稱し、死者の冥福を祈つて經を讀み、少くとも七日間、暗い室内に閉ぢ籠つて謹慎してゐた。だからこそ彼等は否應なく考へたのです、無常といふことを、人生といふことを −  北川:(右手を前方へ差出し)いや、待つた! 僕にも言はせて下さい。同感です、全くもつて同感の至りですよ。相撲取りさへ年に六場所も勤めたければならない、この限りなく忙しい時代に、三ヶ月も惱みつづけたとは全くもつて感動的だ。どうして氣違ひなんてものぢやない。萬事忙しくなつたこの時代こそ狂つてゐる。現代人は皆時間の奴隷だ。近代における機械文明の發達により、人間は皆スピード狂になつてしまつた。例へばです、芭蕉のかの有名なる『奥の細道』は、二千四百キロの道程に百五十日を費すことによつてのみ生れたものですよ。今日の吾々、限りなく忙しい吾々なら、三日とかからずに囘遊してしまふ。いや、飛行機なら一日とかかりません。百五十日かかつた時代よりも一日とかからない時代のはうが、眞實よき時代と言へるでせうか。疑問です、大いに疑問です。(うつとりと)「はかなさや岩にしみ込む蝉の聲」 − 美しい、全くもつて美しい。こんな美しい俳句は、現代人にはとても作れない。忙しすぎるからですよ。汽車の窓から、遊覧バスの窓から、馬鹿面して眺めてゐるだけぢや、こんな鋭い俳句は作れつこない。道端の木槿を二時間でも三時間でもじつと眺める、それだけの暇がなければ立派な作品なんぞ出來る筈がない。藝術ももうおしまひです、人間ももうおしまひです。さう、丸ビルもデパートも大學もワラヂ蟲で一杯だ。課長になつて、部長になつて、定年までに小金を溜め込んで、湘南地方にけちな文化住宅を建てて、菊いぢりでもしながら安樂に暮らす。それだけが奴等の希望だ。その安つぽい希望のために、奴等は粉骨砕身、どぶ鼠のやうに働く。生きちやゐない、生きようと試みたこともない、生きるとはどういふことか、眞劍に考へてみる暇もない。ワラヂ蟲の親父とお袋が、どす黒い欲情の結果として一匹のワラヂ蟲を産む。そいつが今度はパパとママになつて − 大體がけしからん話ぢやありませんか、二間か三間のけちた文化住宅に住んで、子供を拵へて、そいつにパパ・ママと呼ばせやがる。輕薄だ、全くもつて輕薄な風潮だ。親父お袋ぢやどうしていけないのか。パパのはうが親父より高級で文化的だと思つてゐるんですよ。ああ、全く歎かはしい。人間もおしまひだし、藝術もおしまひだ。そしてすべてはこの、異常たる忙しさのためなんです。しかし、先生、をかしたことぢやありませんか、連日多忙を極めてゐる筈のワラヂ蟲共も、肉の交りにはたつぷり時間をかけてゐる。今、この瞬間、東京だけでも五十萬以上の男が女を抱いてゐることだらう。汗にまみれて、暗がりでせつせと、何も考へずに。をかしなことだ、全くもつてをかしなことだ。 花田:(腕時計を見て)をかしい、全くをかしい。 北川:(花田の「をかしい」の意味するところには勿論氣づかぬ)をかしいでせう? でも本當のことです。さう、みんな下等動物なんだな。何が面白くて生きてゐるんだらう。食つて、寢て、働いて、食つて、寢て、働いて、食つて、寢て、働いて、あげくの果てに死んぢまふ。何のために生れて來たんだらう。忙しすぎてそれを考へる暇がない。命がけで女に惚れる暇もない、モダン・ジャズを聽く暇もない、サルトルやボーヴォアールを讀む暇もない。奴等の話題と言へば、猥談かプロ野球か株の話だ。まあ、株の話はいいと思ひますよ。趣味としても高級だし、何よりも頭を使はなくちやなりませんからね。實は僕もやつてゐる。しかし、儲るか損するかは問題ぢやたい。頭を使つてデーターを分析し檢討する、それだけが樂しみなんです。それに較べてあのプロ野球 − あんなものに現を抜かす連中の氣が知れない。多忙を極めてゐる筈のどぶ鼠どもも、ナイターだけは欠かさず見てゐます、テレビでね、馬鹿面して。何も考へちやゐないんだ、頭の中はからからに乾上つてゐる。主體性の喪失、精神の危機 − 歎かはしい、全くもつて歎かはしいことだ。さうですとも、親が死んだつて女房がくたばつたつて、三日と悲しんぢやゐませんよ。三日目には馬鹿面してナイターを見なくちやならん。それあ連中だつて頭を使ふことはある。でも、打算的な使ひ方しかしてゐない。すべては立身出世のためなんです。嫌だな、全く嫌だ。(實感をこめて)懐疑的にならざるをえませんねえ。(腕を組み、沈痛なる表情) 花田:(藥の効果がやつと現れたと思ひ、上半身を乘出して)懐疑的? あ、さう來たくちやいけません。さうでせうとも。まともな人間なら懐疑的にならざるをえない。さう、あなたのおつしやる通りです。三ヶ月惱んだ娘は、つまり、それだけ父親を愛してゐた。親が死んで三日後に阿呆面してナイターを見てゐる連中には、あの娘を氣違ひ呼ばはりする權利などないのです。さう、窃盗犯だらうと氣違ひだらうと親は親 − 捨てるわけにはゆかない、殺すわけにはゆかたい。悲しみ、惱み、傷つきながらも、やはり面倒をみてゆかねばならない。理窟ぢやありませんよ、これは。昔から人間がやつて來たことだ。何も現代人特有の問題ぢやない。だからこそ、私は −  北川:(遮つて)いや、それは違ひます、いたつて現代的な問題です。さう、今や人間は畫一化された大衆の一員として集團の中に埋歿し、個性も創意もすつかり失つてしまひ、實存することなく、ただ一箇の數として、一箇の機械として存在するにすぎません。人間の發明した原子力によつて人間の生存が脅かされてゐる今日、まともな人間なら誰しも、人間のあり方について多少とも懐疑的たらざるをえないわけです。僕は昭和三十三年、淀橋大學の文學部を卒業しました。御存じのやうに、空手と柔道で有名な大學です。學生の三割近くが空手部か柔道部に入つてゐる。勿論、僕は限りなく輕蔑してゐました。バケツの中にじやが芋を入れて、毎日五時間、そいつをせつせと指先で突いてゐる新入生 − 頭の中は空つぽです、何も考へちやゐないんです。何と愚劣な大學だらう。何度か僕は退學しようと思つた。が、ある日、福島教授の實存哲學の講義を聽き、僕はすつかり感動した。いや、感動したなんてものぢやたい。眩量を感じたくらゐです。全く、空手大學には勿體ないくらゐの名教授です。(語調を變へ、元の調子に戻つて)うん、さう、さう − 御存じのやうに、「實存」つて言葉は理解しにくいわけですよ、予備知識のない學生にとつては。ところが、福島さんに説明されると一發で解つちやふ。「諸君、實存哲學の講義に先立ち、まづ質問したいことがある。鼻糞をほじくるばあい、諸君は右手を使ふか、左手を使ふか? 」と、かうたんですよ。さう言はれて初めて氣づいたんだが、右利きの人間は必ず左手を使ひ、左利きは必ず右手を使ふ。先生もさうでせう?  花田:(當惑して)さあ、どうですか − 。 北川:いや、必ずさうの筈ですよ。ちよつと、やつてごらんになれば、すぐに解るんだがな。 花田:しかし、あなた、今は −  北川:構ひませんよ、僕は。さあ、やつてみて下さい、先生。 花田:北川さん、あなたは、少しをかしい − (絶句する) 北川:をかしくはないですよ。まあ、たつてとは言ひませんが、いづれ後程實驗してみて下さい。ええと、何の話だつけ − あ、さう、さう、福島さんの講義を聽いて以來、僕は考へるやうになりました、(再び眞劍な語調に變る)惱むやうにたりました、人間は何のために生きてゐるのだらうか − 僕は惱むやうになつた − 僕は今二十八歳です。同棲してゐる女は三十六歳。つまり八つ歳上といふわけだが、これは決して異常ぢやたい。文豪シェイクスピアも八つ歳上の女と結婚してゐます。中年女を抱きたがら僕は考へる、快樂の動作を續けながらも形而上學について考へる。日本の青年にとつて希望はありえない。希望とは、死ぬか生きるかの瀬戸際に立つた人間の言葉です。今や、吾々の周囲には、不信と疑惑、傲慢と侮蔑しかない。平和な時代 − これはつまり孤獨な人間が輕蔑しあふ時代です。ああ、歎かはしいことだ、この希望のたい人間疎外の時代にあつて、青年が熱中しうるもの、それはエロティシズムと暴力だ。抑圧されてゐる若者は、正常に發散しえないエネルギーを、生命力を、どうやつて發散させたらいいのか? 下等な若者たらば桃色遊戯と擲り合ひによつて發散させるだらう。しかし、自己についての不安に目覺めた若者、この悲劇的な人間疎外の時代にあつて、自己の實存のための戰ひを戰はうとする若者は、セックスと政治に若々しいエネルギーを發散せざるをえない。僕は傍觀者を憎みます、限りなく憎みます。手を汚したがらぬ傍觀者、右にも左にも平等に色眼を使ふ傍觀者。つまりワラヂ蟲ですよ、どぶ鼠ですよ。もつぱらわが身の立身出世を願ひ、粉骨砕身、どぶ鼠よろしく働く。ああ、何てことだ、何て人生だ。ああ、げつとなる、吐きたくたる。僕は、人生のすべてに對して吐氣を催す − 救ひなき人間疎外 − 他人こそ地獄なんだ − (沈痛なる面持)出口なしの地獄 −  花田:(好機逸すべからずと考へ、勢ひこんで)吐氣ですと? おお、實に見事に表現なさつてゐる。まるで、さう、現在もさういふ氣分でをられるかのやう − いや、ひよつとすると、すでに − (北川、右手を額の右端に當て、考へ込む)さう、全く仰せの通りだ。出口なしの地獄に落ちながら、人々はそれに氣づいてゐないのです。いや、出ロなしの地獄ぢやない。出口はある、確かにある。そして、その出口を差し示すのは、さう、宗教の役目なのです。勿論、信心深い人間を拵へるのが宗教の目的ではたい。いいですか、人間の心の中には惡魔と天使が同居してゐる筈だ。そして、この惡魔と天使との葛藤に絶えず惱むのでなければ到底人間とは言へない。さういふ本物の人間を造り出すことこそ、新しい宗教の目的でなければならない。勿論、私は、人の本性は善であるといふ、かの孟子の説を信じてゐます。だが、人の性は善だけれども、それは「擴充」を侯つて初めて完成するものであつて、そのままでは絶對的な善ではない。孟子はさう言つてゐる。「擴充」とは何か。孟子は「修養する事」だと言ふ。私に言はせれば、それはハナダールを投与することだ。ハナダールを飲ませると − 個人差があつてかつきり何分後と決まつてゐないけれども、ともかく患者の腦にある種の變化が起る。すると、すでに申し上げたやうに、まづ鬱状態が出現し、ついですぐ強烈なる罪業妄想が發生する。これは實にすさまじいものですが、二時間後、激しい發作は一應をさまるわけです。だが、さうして擬似分裂病は二時間後にをさまるが、患者がすつかり元通りになるわけではない。もうお解りだらうが、心中の惡魔と天使との葛藤に惱みうる人間、三ヶ月間肉親の死を悲しみうる人間、さう、他人が地獄であることを知りつつも、他人との交はりを必死にたつて求めうる人間になつてゐる。無論、精神薄弱のばあいは、激しい横隔膜の収縮を起すだけのことで、さういふ効果は期待出來ない。けれども、精薄でないかぎり、どんな人間にも百パーセント利く。ゆゑに −  北川:(手を叩き、突拍子もない聲で、)ああ、解つた! つまり − さう、さう、曼茶羅教が先生の御研究に興味を持ち、信者の製造を依頼して來たつてわけですね? なるほどね、實にうまく出來てゐますな。つまり、先生は、曼茶羅教の大幹部つてわけだ。いや、驚いたな。その藥が百パーセント利くとすると − しかし、先生、もつと急速かつ大量に服用させる手がありませんかね、例へば製藥會社の社長を買収して大々的に販賣するとか − ?   〔花田答へず、腕組みし、深刻な表情。〕 北川:さうだ、胃腸藥として販賣すればいい。その、つまり、心中の葛藤を促進するだけで、特に異常と見える發作を起さないやう藥を改良すれば、それも決して不可能なごとぢやないと思ひますね。さあ、かうなつたら、一刻も早く藥の効果をこの眼で確かめたい。大丈夫、大丈夫、あの運轉手ならどうなつたつて構ひませんよ。(電話のベルが鳴る)あ、僕だ、ちよつと失禮。(机の傍へ行き、受話器を取り上げる。この間、花田は凝視したまま)あ、北川だ − え、自殺した? (花田、振向く) − え、何?  − 何だ、その聲は! 泣いてゐるのか?  − 馬鹿野郎、しつかりしろ! おい、よく聽け! お前は天野歌子の何だ?  − 馬鹿野郎、歌子がお前の妾だつたわけぢやないだらうが。ちよつ、何て聲だ。いいか、日下部、自殺したのは先方の勝手なんだぞ。第一、お前に飛び掛らうとしたんだらう?  − 良心の呵責だと? 馬鹿野郎、そんな事でジャーナリストが勤まるか? いいか、日下部、うちがスクープしなければ、いづれよその週刊誌がスクープするんだぞ。さうなれば、いづれ天野歌子は − こら、聽いてゐるのか?  − いづれ歌子は自殺することになるんだ。第一、黒ん坊の亭主がありながら、日本の男性ともよろしくやつてゐたわけぢやないか。いはば自業自得なんだ。お前たんぞが良心の呵責に惱むなんて、思ひ上りも甚だしいぞ。話にもならん。いいか、お前は日下部次郎ぢやないんだ、「週刊現代實話」の編集者なんだ。個人としてのお前が、歌子を殺したやうな氣になつて良心の呵責を覺えるなんて、とんでもない思ひ上りぢやないか。第一、うちにスクープされた事だけが自殺の原因かどうか、それも疑問なんだぞ。(花田、北川に近づく)おい、現場写眞は撮つたらうな?  − 馬鹿野郎、何といふ間抜けだ、お前は。(この時、花田、北川の手から受話器を引つたくる) 北川:何をするんです!  花田:(必死に)聽いて下さい。(がらりと語調を變へ)お願ひがあるのだ!  北川:(そのただたらぬ顔附に驚いて)な、何です、一體?  花田:さつき、あなたに、ハナダールを飲ませた。 北川:ハナダール?  花田:ところが − 利かない −  北川:あ、ひどいことをするぢやありませんか! ひどい、ひどい! どうしてくれるんです!  花田:考へられんことだ − 考へられん!  北川:人權蹂躙ぢやないか、何といふことを! よし、この言語道斷のいんちき、斷然發いてやるぞ!  花田:どうみても、あなたは精神薄弱ぢやない −  北川:當り前だ! よし、ジャーナリズムの破壞力がどんなに強大か − う、う、目に物見せてやるぞ!  花田:お願ひだ、あなたの間腦を調べさせてほしい。花田信太郎一生のお願ひだ、お禮はいくらでもする −  北川:間腦? −馬鹿な! 要するにあんたは氣違ひぢやないか! あの氣違ひ婆あもあんたのお袋だらう?  花田:さやう、その通り、だが − お願ひだ! (北川の頭部に視線を注ぎ)大した手術ぢやない。(少しづつ前進する。北川後退)成功率は決して高くない。が、私には自信がある。全身麻酔を施し、ドマルテル式穿顱器で頭蓋骨に穴をあけ −  北川:(大聲で)氣違ひ! 近寄るな、近寄るな! 空手の心得があるのだ!  花田:お願ひだ、花田信太郎一生のお願ひだ。私の研究は振出しに戻つた − あなたを、失ひたくない − 精薄ぢやない、動物ぢやない、人間ぢやない −   〔花田、北川を追ひ詰めて行く。下手のドアを背にして、北川、空手の構へ。花田、構はず近寄り、北川の腕に手をかけ、うつろな聲で笑ふ。北川、その手を振り解き、花田の左頭部を打つ。花田、派手に倒れる。動かない。その瞬間、北川を激しいしやつくりの發作が襲ふ。あまりにも激しく、北川は前屈みになつて苦しさうに悶える。この時、下手のドアがさつとあく。片手に角材を持つたタカ、そつと近づき、北川の頭めがけて角材を打ちおろす。北川、悲鳴をあげ、これまた派手に倒れる。タカ、角材を投げ捨て、花田の傍に駈け寄り、花田の胸のあたりをゆさぶる。〕 タカ:信太郎、信太郎! (反應がないと知つて、突拍子もない聲で)人殺し! 誰ど來てえ−!  人殺し! 人殺し!   〔タカが絶叫するうちに幕。〕 あとがき  「道同じからざれば、相爲に謀らず」と孔子は言つたが、友人はただ數多く持てばよいといつたものではない。「相爲に謀」るには「道を憂ひて貧しきを憂へ」ざる事の大事を承知してゐる友人を持たねばならないが、いつの世にもさういふ友は得難いのである。が、私はさういふ得難い友に惠まれてゐる。『月曜評論』編集部の中澤茂和氏がその一人である。『月曜評論』は所謂ミニコミ紙で、稿料は當然安いけれども、中澤氏の人柄に惚れた私は『月曜評論』に短文を連載し、さしたる用事無くして屡々中澤氏に會ひ歓談する。時にサンケイ新聞の柴田裕三氏が加はるが、『月曜評論』と同樣、サンケイ新聞も、朝日新聞ほどの影響力は持たない。私は朝日とサンケイを購讀してゐるが、朝日の廣告面の充實に較ベサンケイのそれの貧相に屡々切齒扼腕する。朝日に大企業の廣告がひしめいてゐる時、サンケイには「浮世繪大觀」の廣告なんぞが載つてゐるからである。大企業は目先の利益ばかり考へ、反體制の朝日を優遇し、サンケイを支援しようなどとは決して思はない。だが、柴田氏や中澤氏との歓談を私は大いに樂しむのである。このぐうたら天國日本では、ジャーナリストの眞摯はその影響力に反比例するのではあるまいか。  さういふいはば利によりて繋がらず理によりて繋がる友の一人中澤茂和氏が、或る日、地球杜から本を出さないかと勸めてくれたのである。「地球社」といふ出版杜を私は知らなかつた。が、聞けば地球社の創業は大正元年、農業に關する專門書を數多く出版して來た老舗であるといふ。私は中澤氏の言を信じて地球社の戸田豊氏に會ひ、喜んで第三評論集を出して貰ふ事にした。そして、地球杜はなるほど小さな出版社だが、その眞撃もまたその規模に反比例する事を私は確かめたのである。本書は『道義不在の時代』と同樣、歴史的假名づかひのまま上梓される。かてて加へて本書の卷末には戯曲『花田博士の療法』が収録されてゐるが、さういふ事が大出版社から上梓される場合、果して可能であつたらうか。評論集に戯曲がをさめられるのは、拙著をもつて嚆矢とするのではあるまいか。戸田豊氏の誠實なる尽力に謝意を表するとともに、地球社の今後の活躍を大いに期待する。 けれども、私は地球社の誠實に附け入つて阿漕に振舞つた譯ではない。評論らしきものを書き始める前、ほぼ十年間、傑作戯曲を書くべく私は呻吟したが、『花田博士の療法』はその間に私が書いた戯曲のうち、最も上等のものであり、恩師福田恆存氏のお墨付を頂戴した作品なのである。しかもその主題はジャーナリストの無節操といふ事で、ジャーナリズムのでたらめを斬つた本書に収録したいと私は思ひ、戸田氏も快く承知してくれたのであつた。  本書にはほかにサンケイ新聞に連載した週刊誌批評、及び『月曜評論』その他ミニコミ紙に發表したジャーナリズム批判の文章を主として収録した。サンケイ新聞編集委員の野田衞氏ほか、このぐうたら天國における眞摯たる言論機關の關係者に、深甚なる謝意を表するとともに、眞摯がもう少し割に合ふやうな時節の到來を私は祈るのである。  なほ、本書の裝幀は福田恆存氏を煩はせた。有難くうれしく私は思ひ、師恩に報いる事の不充分を痛感する。私は昭和四十九年に『サイゴンから來た男』と題する喜劇を書き、福田氏の演出で劇團欅が上演してくれたが、『花田博士の療法』のはうも、翌年福田氏の令息の演出によつて上演され好評であつた。初演の際の配役を記し、演出家及び役者諸氏に改めて謝意を表する。  花田:加藤和夫  北川:山口哲也  タカ:福田妙子  演出:福田 逸  昭和五十年四月八日より十三日まで  三百人劇場にて    初出一覧 第一章 サンケイ新聞(昭和五十四年六月二十三日〜昭和五十七年十月十六日) 第二章 言論人(昭和五十二年十二月五日)     マスコミ文化(昭和五十四年一月〜昭和五十四年十二月) 第三章 月曜評論(昭和五十二年十月十七日)     月曜評論(昭和五十年一月二日)     言論春秋(昭和五十七年三月二十二日)     月曜評論(昭和五十四年七月三十日〜昭和五十四年十二月二十四日) 第四章 文藝(昭和三十八年十一月號)