制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
1999-06-16
改訂
2002-03-21

「人の上に人を戴く文化」と「人の上に神を戴く文化」

松原正先生 講義ノート
1993年11月5日〜19日 早稲田大学第一文学部「イギリス小説」より

解説

この年の「イギリス小説」の講義では、グレアム・グリーンの『権力と栄光』が扱はれました。半年間、我々日本人がイギリス小説あるいは西洋を学ぶための「予備知識」について、松原先生は講義なさいました。

その締めくくりとして、そして、『権力と栄光』のテキストを扱ふにあたり、『権力と栄光』を学ぶ意義を明確にするため、先生は以下のやうな内容の講義をなさいました。ここで先生は、西洋と日本の文化の本質的な違ひを指摘し、日本人が西洋を学ぶ本当の理由とはなにか、を明言なさつてゐます。

現在、「言葉 言葉 言葉」では、松原先生の著作を、電子テキストとして公開してゐます。その公開以前、先生の思想を紹介する目的で、野嵜が、講義の際にとつたノートをもとに、簡單にまとめたのが以下の文章です。

良くわかつてゐない大學生の頃にとつたノートを見ながらまとめ直した文章ですので、松原先生の文體や口調を反映してゐませんし、思想を歪めてゐる可能性もあります。松原先生の文章を讀んで、自分で理解したいと云ふ方は、入手可能な刊本に當るか、現在「言葉 言葉 言葉」で公開してゐる保守とは何かおよび道義不在の時代の電子テキストを參照して下さい。飽くまで、以下の文章は、野嵜が大學時代に理解した範圍でまとめたものに過ぎません。

人は善悪を定めうるか

人間は自分の事は分り、他人の事は分らない。しかし一方、人間は自分の事はもつと分らないのではないか──例へば、自分の表情は見えないやうに。

とすると、自分では自分の事が分らないとすると、自分の行為について自分で善し悪しの判断をする事は、極めて曖昧になる。自分の行為の善し悪しについて判定する基準を自分だけで持つてゐるのは狂人だからである。人間が判断を下す時には他人の基準に拠つてゐる。スウィフトが『穏健な提案』("Modest Proposal" by Swift)を書いたとき彼は諷刺を書いたので、彼は狂人だつたのではない。

さて、この「自分以外の基準」とは何かといふと、それは三通りある。一つは絶対者すなはち人の上の神であり、二つ目は人の上の人、三番目は輿論である。一番目の基準(神)を選ぶのがキリスト教の国であり、二番目の基準(人の上の人)を選ぶのが日本や中国である。三番目の輿論は近代になつて善悪判断の基準として使はれるやうになつたのだが、これは当てになるものではない。

一番目の基準である絶対者が善悪を決める文化、二番目の基準である人の上の人──例へば天皇・親・先生──が善悪を決める文化、この二つの文化の違ひとは何であらうか。「人の上の絶対者は転けないが、人の上の人は転ける」といふ事である。神(God)は、その存在証明も不在証明も難しいが、人の上の人──例へば天皇の存在証明は難しくない。あるいは、神は決して間違ふことはないが、人の上の人はしよせん人だから過ちを冒すのである。人の上に人を戴く文化の厄介な点はここにある。

一方、人の上に絶対者を戴く文化では、絶対者の権威は決して揺るがない。この絶対者が人間の行動の善し悪しを決める。この基準を持つて生きてゐるのがこれから講義をしていくグレアム・グリーンの『権力と栄光』("The Power and the Glory" by G.Greene)の「ウィスキー神父」なのである。彼の基準は神である。そして、悪い事をするのは人間の責任であり、善い事をするのは神の助けによるのだ、とさう彼は考へてゐる。かうした文化の持つ美点は、自己陶醉を免れる事ができる、といふ点である。これは日本人が真似出来ない事である。

パスカルの言葉

パスカルはモンテーニュとエピクテトスの影響を受けた一方で、かう書いた。「私はモンテーニュを許す事が出来ない。彼は人間の悲惨を言つたが、人間の偉大について言はなかつた。また、エピクテトスも許せない。かれは人間の偉大を知つてゐるが、人間の悲惨を知らなかつた。」(『サシとの対話』)これがキリスト教徒の国の国民の人間観なのである。エピクテトスはローマのストイック(stoic)の哲学者である。ストイシズムの考へ方といふのは「人間は己の力で己を押さへられるし押さへねばならぬ」といふものである。『権力と栄光』のウィスキー神父は最後までストイシズムではない。彼は自分で自分を押さへることが出来ない。しかし彼は、自分のした善い行為は、自分が行つた行為なのだ、とは考へてゐない──神が彼にさせた行為なのだと考へてゐる。

日本は儒教文化の国で、儒教文化はストイシズムの文化である。ストイシズムでは人の上の人を絶対視するし、ストイックの人は自分で自分を見事にコントロールする。だがその弱みは、人の上の人は人の上の存在でなくなることがある、といふ事である。例へば、戦前「現人神」といつて神様だつた天皇は戦後「人間宣言」をして人になつてしまつた。この理由は、人の上の人は絶対者ではなく相対的な存在だからである。人の上の人は人であり、道徳の範疇に入る。

ただし、人の上に何も戴かない文化は文化ではない。なぜなら、人が人の上に何も戴かなければ人は立派に生きる事は出来ないからである。努力目標がないと人は立派に生きる事は出来ないからである。

我々が立派だと思ふ人間はみな、エピクテトスもセネカも、すべてストイックであり、自分で自分を支へた立派さといふものを持つてゐる。しかし彼らは、自分の行為が神様に拠るものだとは思つてゐない。もちろん自分が立派だと思ふ余裕もなかつた筈ではある。従つて彼らは自己陶醉を免れてゐる。この点ウィスキー神父と同じである。ウィスキー神父もまた自己陶醉に陥つてはゐない。彼は、自分の善い行為とは神が彼にさせたものなのだと考へてゐる。

パスカルの言葉の意味はかうである。「モンテーニュは人間は情けない存在であるとだけ言つて、人間は神に助けられて立派な行為も行なへる存在であるとは言はなかつた。エピクテトスは人間が自分で自分をコントロール出来る偉大な存在だと考へたが、人間は悪い行為もする存在だと考へなかつた。」人間が自分で自分を判断出来るのならば、人間が心の中でも罪を考へないのならば、神様は要らない、といふ事になる。だからエピクテトスをパスカルは許せなかつたのである。

人間は自分で、これが善であると決められない。人間は科学といふ領域では発達したかもしれないが、倫理といふ領域では発達してゐないのである。そしてパスカルのやうな、人間の内の善も悪も認めるといふ立場は、日本人には縁遠いものである。人間は自分の力で自分の悪あるいは罪を裁くことができるとストイシズムは考へるが、人間は自分の事は分らないのだからそれは正しくない。夏目漱石は自分で自分の罪を罰しうると考へて『こころ』を書いた。漱石は自己本意といふ事にこだはつた結果、かう考へたのだが、それはパスカルに言はせれば大変な思ひ上りであり、間違つてゐる。だから『こころ』は失敗作であつた。しかし日本でこの問題を考へた文學者は漱石一人であつたのである。だから『こころ』はたいへん偉大な失敗作といへる。

人は善悪を定めうるか(再説)

人は悪事を為すが、その悪事の罪たる事を誰が決められるか。言ふまでもなく人の上の神(God)か、人の上の人か、あるいは多数──この三つしかない。

多数は論外である。多数によつて正邪善悪を決めるとは法律で正邪善悪を決めるといふ事に過ぎないし、法律は相対的なものでしかない。多数が決めればよいといふのは政治主義になる。正邪善悪は、人の上の神か、人の上の人しか決める事が出来ない。

ところが、人の上の人は転けるが、人の上の神は転けない──神の権威はなくならないが人の権威はなくなりうるといふ事である。

さういふ人の上に人を戴く文化には弱点がある。

人の上に人を戴く文化の弱点

  1. 所詮人間は己を客観視する事が出来ない。さういふ人間がどうして客観的な善悪を決めうるか。(※正邪と善悪を混同してしまふ)

    人の上の人も人であり、ならば間違ひを冒す。相対的な人間に絶対的な善悪は決められない。決められるのは正義不正義だけである。正不正と善悪はオーヴァラップする部分はあるが、しかし必ずしも一致しない。キリスト教ではそれを峻別する──悪は神が裁き、不正は人が裁く。

  2. 人の上の人が転けると、人の下の人は従はなくなる。

  3. 人の上に人を戴いてゐる場合、人の上の人の権威が転けない場合、人の下の人は人の上の人を偶像として崇拝してゐる。しかしその偶像が転けると人の下の人は自分を抑へてゐる外部のものを失つてしまふ。

    人は悪事を為すが、同時に悪事を為してはならない──悪事を為さうとするのを抑へなければならないが、自分で自分を抑へるよりも、外部のもので抑へる方が簡単である。人の上に神を戴いてゐない場合、自分で自分を抑へるが、自分で自分を抑へうる程、人は強くない──そこで外部の力を必要とする。人の上の神がない場合、外部の力としては世間か法律、そして人の上の人に従ふしかない。ところがさういふ人の上の人も転ける。人の上の人、世間、あるいは法律によつて自分の悪い事を為さうとする心を抑へてゐる人は、それらが転けると自分を抑へるものを外部に見出す事が出来なくなる──その時人は他者にあやかる事がなくなつてしまふ。人は誰でも馬鹿だと思つて安心する──「あんたかて阿呆やろ、わてかて阿呆や」と言つて気楽になる。人は擬似の「絶対者」であつても、それを持つてゐさへすればそれに肖るやうになる。しかし擬似の「絶対者」が転ければ、人の信仰はぐらつくのである。

  4. 己の中に悪を見ず、他者の中に悪を見る。他者の悪に厳しくて、己が中の悪を見ない。

    他人の中の悪を見る事で、人は成長しうるものではない。人は己が中の悪を見なければ成長しないのである。(ナサニエル・ホーソンの『緋文字』を参照せよ)

  5. 人は悪事を犯す。悪事を犯して不完全なままに、なほ人は善を望み、他人を裁かない謙虚を持ち続ける事が出来ない。

  6. 道徳といふものは所詮我と汝の関係(※マルティン・ブーバー『我と汝』を参照せよ)にしかありえないが、人の上に人を戴いてゐる場合は「汝」たるべき対象を「それ」(物)として扱はうとする。(漱石の『道草』を参照せよ)

    人の上の人は人の下の人を物として扱はうとする──他者は己の意のままにはなりえないから我と汝の世界を捨てて我とそれの世界、人を物として扱ふ世界へと逃避してしまふ。これを捨聖(すてひじり)といふ。(漱石の『草枕』は捨聖の小説である)日本の文化にはかういふ捨聖の伝統があり、日本の文学は伝統的に自然を愛で、花鳥風月の美ばかりを見るので、芸術至上主義となるのである。

グレアム・グリーンの『権力と栄光』

以上1〜5に述べたやうな人の上に人を戴く文化の弱点を、グレアム・グリーンの『権力と栄光』のウィスキー神父は免れてゐる。(※日本独特の問題である6とは無縁である)といふのは、ウィスキー神父はただ単純に神の存在といふ神秘(Mystery)を信じてゐるからである。一方、『権力と栄光』には主任警部が登場する。警部は神を信じない。しかし神を信じない人間が持つ1〜5の弱点を警部は意識してゐない。だが神父は100%善く、警部は100%悪いとグリーンは書いてゐないのである。

主任警部のストイシズム

警部は神様を信じてゐないかはりに、神を信じ、神の慈悲を信じてゐる人(神父)がタバスコ州にゐる事に腹を立ててゐる──正義感は持つてゐる。

かつては神の存在といふ神秘を信じてゐたが、何の効果(※御利益)もなかつたので今は信じるのを止めてしまつた。来世を信じてゐないのである。

現世は不公平、不正義に満ちてゐる。来世を信じてゐればかうした不公平、不正義を忍ぶ事が出来る。しかし来世を信じてゐなければ現世だけが問題となる。警部は「宗教は民衆の阿片だ」と信じ、来世など無いと信じ、現世の不正を正さねばならないと考へてゐる。そしてそのために全身全霊を捧げる必要があると思つてゐる。彼の下宿の部屋は実に質素である。

肉体の弱さ(The wickness in the flesh)に警部は同情を持つてゐないし、音楽は人間の弱さの表れだと考へてゐる。(プラトン『国家』を参照せよ)彼は強い人間であり、自分の弱さを自覚してゐない──禁欲的・ストイックである。

この世から不正義を根絶するためにはどのやうな方法をとつても構はない、村々からとつた人質をいくら殺しても構はないと信じてゐる。(※歯医者のテンチが警察署長に言ふ台詞が象徴的である──あなたは、この国で沢山の人たちを、弾丸でお治しなさるんぢやありませんか?)警部はさういふ残酷な事をしてゐる人間であるが、その私生活が極めて禁欲的なのである。

警部の正義感とストイシズム──パスカルは言つてゐる「人間の中には悪魔と天使がゐる」「人間は天使にならうとして悪魔になる」と。

ベルジャーエフの言葉──政治と道徳のディレンマ

狂信者は通常私心のない理想家であり、またしばしば禁欲的である。彼らにとつては理想的観念が具体的な人間より尊く、従つてその観念のためならば、具体的人間を圧迫し殺しても構はない様になる。

警部も有徳であり、自分に厳しい。さういふ人物が正義感のために残酷な事をするディレンマ──漱石が『坊つちやん』で描いたのが実にたわいのない正義である事がわかる。

政治は多数の人間の幸福を考へる事であり、過半数の人間が幸福であればよい。道徳(宗教)は数とは無関係のものであり、個々の人間の救ひ、あるいは一人の人間(※個人)の幸福を考へる事である。(新約聖書ルカ「迷つた一頭の羊の喩へ話」を参照。※福田恆存の「一匹と九十九匹と」も要参照)

警部は政治主義だが、その正義感は本物である。(フルシチョフの「スターリン批判」を参照せよ)その一方で、警部は正義感の奴隷となつてゐて、具体的な人間を考へてゐない。(※政治で全てを解決できると考へる政治主義の陥穽にはまつてゐる)

さて、かういふ人物は立派だと言へるのか、それともおぞましいと言へるのか。ウィスキー神父と主任警部とは、どちらが有徳であるのか。

グレアム・グリーンの『権力と栄光』から日本人が学ぶべき事

グリーンはウィスキー神父をして、警部の人間性についてかう言はしめてゐる──You are a good man. (※英語でgoodといふ時は道徳的に善いといふ意味がある)

人の上に人を戴く警部は、人の上に人を戴く文化の全ての欠陥を持つてゐる。自分の不完全さを悟らず、自分の力を信頼し、平気で残酷になるといふ欠陥である。一方の人の上に神を戴くウィスキー神父は、人の上に人を戴く文化の欠陥を免れえてゐる。すなはち自分が情けない存在だと知つてゐて自分の力を信じず、残酷でゐられない。

政治は人の上に人を戴かないとやつていけないし、警部はさういふ政治の領域に属する人種である。それは人の上に人を戴く文化の欠陥から逃れられない。正義に拘はる事は出来ても、善に拘はり続ける事は出来ないのである。

英語の表現は道徳的な善悪と政治的な正邪を厳密に区別する。悪はevil、善はgoodであり、不正はwrong、正はrightである──そしてrightは「権利」を意味するのである。sinとcrimeを峻別するのが英語の(キリスト教の)文化であり、罪と犯罪を峻別しないのが日本の(人の上に人を戴く)文化である。(※かういふ道徳と正義とを峻別する文化を学ぶ事は、道徳と正義とを峻別しない日本人が英文学を学ぶ重要な理由の一つなのである。)