道義不在の時代 松原正 目次 廉恥節義は一身にあり──序に代へて I 教育論における道義的怠惰 1 僞りても賢を學べ 2 まづ徳育の可能を疑ふべし II 防衞論における道義的怠惰 1 道義不在の防衞論を糺す 2 猪木正道氏に問ふ III 日韓關係論における道義的怠惰 1 全斗煥將軍の事など 2 反韓派知識人に問ふ IV 對談 日本にとつての韓國、なぜ「近くて遠い國」か(申相楚/松原正) 初出一覽 あとがき 廉恥節義は一身にあり──序に代へて  石川達三といふ三文文士は破廉恥であり、愚鈍であり、あのやうな穀潰しの益體無しは暗殺するに如くは無いと、もしも私が本氣で書いたら、一體どういふ事になるであらうか。言ふも愚か、私の手は後ろに廻るに決つてゐる。けれども石川氏は今年、『連峰』八月號に、法治國の國民にあるまじき愚論を述べたのである。それは「石川達三氏を暗殺すべし」との暴論とさしたる徑庭無きものだが、愚論を述べて石川氏が世の笑はれ者になつた譯ではなく、ましてや石川氏の手が後ろに廻つた譯でもない。まこと思案に落ちぬと言ひたいところだが、實はそれも一向に怪しむに足りぬ。何せ今や日本國は道義不在の商人國家だからであり、「唄を忘れたカナリア」ならぬ廉恥節義を忘れた大方の日本人は、他人の愚鈍と沒義道とを滅多に咎める事が無い。もとよりジヤーナリズムも同樣であつて、先般新聞週刊誌はかの榎本敏夫氏の品性下劣なる先妻を「女王蜂」なんぞと持て囃し、大いにはしやいで樂しんだが、これまた廉恥心が地を掃つた事の證據に他ならぬ。かの「女王蜂」は愚かであり、愚かであるがゆゑにおのが品性の下劣を滿天下に晒したのであつた。「知的怠惰は道義的怠惰」だと私は屡々書いた事がある。淺はかなりし「女王蜂」については後述するが、『連峰』八月號に、法について淺薄極まる駄文を綴つた石川達三氏の場合も、その知的怠惰すなはち愚鈍と道義的怠惰すなはち破廉恥とは、表裏一體のものなのである。  だが、石川氏の暴論を批判する前に、少しく石川氏の「前科」を洗つておくとしよう。石川氏は昭和十三年『中央公論』三月號に、『生きてゐる兵隊』といふ小説を書いた。底の淺い愚にもつかぬ小説だが、ここでは作品評はやらぬ。要するに、日本軍の殘虐行爲を描寫したといふ事で『生きてゐる兵隊』を載せた『中央公論』三月號は發賣禁止となり、石川氏は軍部に睨まれる事になつたのである。睨まれて石川氏はどうしたか。「前の失敗をとりかへし過ちを償」ひ「名譽を恢復」すべく、やがて再び從軍作家として武漢に赴き、歸國後『武漢作戰』を發表、やがて文藝興亞會の會則編纂委員となり、昭和二十年には日本文學報國會の實踐部長になつた。當時の石川氏が軍部に迎合して恥を捨て、いかなる愚論を述べたか、かうである。  極端に言ふならば私は、小説といふものがすべて國家の宣傳機關となり政府のお先棒をかつぐことになつても構はないと思ふ。さういふ小説は藝術ではないと言はれるかも知れない。しかし藝術は第二次的問題だ。先づ何を如何に書くかといふ問題であつて、いかに巧みにいかにリアルに書くかといふ事はその次の考慮である。私たちが宣傳小説家になることに悲しみを感ずる必要はないと思ふ。宣傳に徹すればいいのだ。(『文藝』昭和十八年十二月號)  しかるに、「國家の宣傳機關となり政府のお先棒をかつ」ぎ、「宣傳に徹」した甲斐も無く、昭和二十年八月十五日、日本は敗戰の憂き目を見る事となつた。石川氏は「われ誤てり」とて茫然自失、或いは祖國の命運を思ひ暗澹たる心地だつたらうか。否。石川氏は破廉恥なまでに鮮かに轉向した。そして敗戰後二ヶ月も經たぬうちに、今度はマツカーサー元帥に胡麻を擂るべく、十月一日附の毎日新聞にかう書いたのである。  私はマツカーサー司令官が日本改造のために最も手嚴しい手段を採られんことを願ふ。明年行はれるところの総選擧が、もしも舊態依然たる代議士を選出するに止るやうな場合には、直ちに選擧のやり直しを嚴命して貰ひたい。(中略)進駐軍総司令官の絶對命令こそ日本再建のための唯一の希望であるのだ。何たる恥辱であらう!自ら改革さへもなし得ぬこの醜態こそ日本を六等國に轉落せしめた。(中略)私の所論は日本人に對する痛切な憎惡と不信とから出發してゐる。不良化した自分の子を鞭でもつて打ち据ゑる親の心と解して貰ひたい。涙を振つてこの子を感化院へ入れるやうに、今は日本をマツカーサー司令官の手に託して、叩き直して貰はなければならぬのだ。  これもまた愚かしい、それゆゑ破廉恥な文章である。さうではないか。「不良化した自分の子を鞭でもつて打ち据ゑる親の心」の中に、眞實、親が子を愛してゐるのなら、「痛切な憎惡と不信」なんぞが潛む筈は無い。それに何より、「六等國に轉落」した日本を「不良化した自分の子」に擬へ、「涙を振つて感化院へ入れる」しかないと主張する石川氏とて、「自ら改革さへもなし得ぬ」日本人の一人だつた筈である。「自ら改革さへもなし得ぬ」日本人の一人だつだからこそ、「マツカーサー司令官に叩き直して貰」ひたいと書いたのではないか。  しかるに、愚鈍なる石川氏にはこのあからさまな矛盾が見えてゐない。そして無論、知的怠惰は道義的怠惰なのであり、「親の心」だの「涙を振つて」だのとは何とも白々しい限りだが、それはともかく「何たる恥辱であらう!」と書いた時の石川氏は、おのれが以前「六等國」の「政府のお先棒をかつ」いだ事の「恥辱」のはうはきれいさつばり失念してゐるのである。おのれ一身を棚上げして日本人全體の恥辱を云々できるのは道義心を缺くからに他ならぬ。恥辱とは何よりもおのが恥辱であり、おのれ一身が「痛切」に感ずべきものである。昔、福澤諭吉は「大義名分は公なり表向なり、廉恥節義は私に在り一身に在り」と書いた。まさに至言であつて、大義名分に醉ひ癡れての憂國の情は、石川氏のそれのごとき頗る安手の紛ひ物さへ、とかく恥知らずにとつての恰好の隱れ蓑になる。  だが、過去の大義名分の一切が崩潰したかに見えた敗戰直後の日本國にも、「私に在り一身に在」る廉恥節義を捨てなかつた男はゐた。例へば太宰治がさうである。太宰は石川氏と異り、戰時中も軍部に迎合する事の無かつた作家だが、敗戰直後、彼はかう書いた。  日本は無條件降服した。私はただ、恥づかしかつた。もの言へないくらゐに恥づかしかつた。天皇の惡口を言ふものが激増して來た。しかし、さうなつて見ると私は、これまでどんなに深く天皇を愛して來たのかを知つた。(『苦惱の年鑑』)  もう一つ引かう。昭和二十一年一月二十五日付の堤重久宛の書簡である。  このごろの日本、あほらしい感じ、馬の背中に狐の重つてる姿で、ただウロウロ、たまに血相かへたり、赤旗ふりまはしたり、ばかばかしい。(中略)ジヤーナリズム、大醜態なり、新型便乘といふものなり。文化立國もへつたくれもない。戰時の新聞雜誌と同じぢやないか。(中略)戰時の苦勞を全部否定するな。(中略)天皇を倫理の儀表としてこれを支持せよ。戀ひしたふ對象もなければ倫理は宙に迷ふおそれあり。  いかにも「倫理の儀表」無くば「倫理は宙に迷ふ」のであつて、それは私が『僞りても賢を學べ』において縷々説いた事だが、それはさて置き、變り身の早い石川達三氏の生き方と太宰治のそれと、讀者はいづれをよしとするであらうか。いかにも太宰は女を抱いて玉川上水に飛込んだのであつて、その死樣は女々しい限りだつたかも知れぬ。が、太宰の文章と石川氏のそれとを比較考量するならば、吾々は皆、太宰の頭腦が石川氏のそれを凌いでゐた事實を承認するであらう。やはり知的怠惰は道義的怠惰なのである。戰中及び戰後における石川氏の時局便乘は破廉恥の限りだが、それも畢竟頭が惡いからであり、頭が惡いからこそ破廉恥に振舞ひ、道學先生を氣取り、綺麗事を書き擲つて今の世をも後の世をも欺き果せると思ひ込んでゐる。そして實際十中八九は欺き果せたのであつた。例へば『連峰』八月號所載の駄文だが、『週刊新潮』八月二十七日號は「有罪と無罪の間」と題するその駄文を紹介して、齒が浮く樣な世辭を言つたのである。石川氏の小説は新潮文庫に二十數點も收められてをり、週刊誌の雄たる新潮とて臺所の事情は無視できなかつたと見える。俗に「目明き千人、盲千人」と言ふが、今も昔も目明きの數は決して多くはないのだから、目明きばかりを相手にして算盤が合ふ譯が無い。それゆゑ私は新潮の商賣氣質を咎めようとは思はぬ。論ふべきは石川氏の知的、道義的怠惰である。石川氏はかう書いた。  田中角榮氏は遠からず無罪になるだろう。理由は證據不充分であつて、「疑わしきは罰せず」という原則がある。たとい有罪になつても被告は直ちに控訴、更に上告して、最終判決までにはなお七八年もかかり、その間も田中氏は當選が續く限り國會議員であり、國は歳費を拂いつづける。(中略)一體、有罪の判決が有るまでは無罪というのはどこに書いてある規定なのか。この言葉そのものが甚だ怪しげである。まるで中學生の理論のように短絡的であつて、筋が通らない。有罪の判決が有るまでは有罪では無いが、無罪でもないはずである。無罪だという根據はどこにも無い。したがつて選擧の票數は當選圏に入つていても、その票數には疑問があり、疑問が解決しない限りは無罪も確定してはいない。無罪が確定していなければ議員としての資格をも確認することはできないはずである。當然、「無罪の判決が有るまでは議員としての資格は保留」されなくてはならない。勿論歳費の支給も保留されるべきであり、いわんや國會議事堂に入つて國政を論ずるなどは言語道斷であるべきだと思う。それを從來は「有罪がきまるまでは無罪」という變な考え方で、有罪かも知れない人物が國政を論じていた。つまり、犯罪人かも知れない人間が政治家づらをして、吾々庶民を支配し號令していた。(中略)私は法秩序恢復の一つの手はじめとして、「有罪の判決が有るまでは無罪だ」と言う一般的な論理を、是非とも訂正してもらいたいと思う。「無罪という判決が有るまでは無罪ではない」のだ。當然、無罪の人に與へられるべき各種の權利、待遇もまた保留されるべきである。この馬鹿々々しいほど當り前な事がなぜ今日まで歪められて來たのか。(傍點松原)  これは許し難き愚論であり、暴論である。法治國の國民の斷じて口走つてはならぬ戲言である。しかるに日本國は目下途轍も無い理不盡の國だから、人々はこの類の暴論を「馬鹿々々しいほど當り前な事」と受け取つて怪しむ事が無い。それゆゑ、「中學生の理論のように短絡的」な石川氏の愚論を『週刊新潮』が引用して提燈を持つたにも拘らず、新潮も石川氏も世論の袋叩きに遭ひはしなかつた。「目明き千人」と言切れぬゆゑんである。  「有罪の判決が有るまでは無罪というのはどこに書いてある規定なのか」と石川氏は言ふ。「どこに書いてある」かはおよそ問題外である。「有罪の判決が有るまでは無罪」なのではない。最終審による有罪判決が下されるまで無罪の扱ひをするのが法治國なのである。それくらゐの事は本來、中學生でも承知してゐなければならぬ。いかにも「有罪の判決が有るまでは有罪では無い」し「無罪でもない」。從つて「無罪だという根據はどこにも無い」。けれども「有罪だという根據」とてどこにも無いのである。ここまでは「短絡的」ならざる中學生なら理解できる筈だと思ふ。では、「有罪だという根據」が「どこにも無い」のに、一體全體、いかなる「根據」にもとづいて、吾々は田中角榮氏に對し「無罪の人に與へられるべき各種の權利、待遇」を「保留」しうるのか。自分の文章を引くのは氣が引けるが、馬鹿念を押すに足る大事だと信ずるから、長い引用を敢へてする事にする。私はかつてかう書いた。  例へば讀者はかういふ事を考へてみるがよい。甲が今、友人乙を殺したとする。そしてそれを丙が目撃したとする。言ふまでもなく、丙にとつては乙殺しの犯人が甲である事は確實である。だが、丙が「犯人は甲だ」と主張した時、丙以外の人間は、その主張の正しさを確かめる事ができない。丙が本當の事を言つてゐるかどうかは、神樣と丙自身にしか解らないからである。證據が物を言ふではないかと反問する向きもあらう。が、指紋だのルミノール反應だのが殘らぬ場合もある。その他確實と思はれる證據を蒐集して甲を起訴しても、最終審で甲が無罪になる可能性はある。いや、先般の財田川事件の場合のやうに、甲の死刑が決定して後に、最高裁が審理のやり直しを命ずる事さへある。  以上の事を否定する讀者は一人もゐないと思ふ。これを要するに、甲が殺人犯かどうかは、究極のところ、甲自身及び目撃者丙以外誰にも解らぬといふ事である。(中略)たとへ、甲が一審で有罪、二審でも有罪となつたとしても、甲が最高裁に上告すれば、この段階でも世人は甲を罪人扱ひする事ができない。やがて最高裁が上告棄却の決定を下す。さて、さうなつて初めて世人は甲の有罪を信じてよい。新聞もまた甲を呼捨てにして、その「道義的責任」を追及し、勤先に辭表を出せと居丈だかに要求するもよい。財田川事件の如く、三審制といふ愼重な手續を經ても、人間の判斷に誤謬は附き物だから、なほ誤判の可能性はあるが、それは止むをえない。最終審の決定があれば、吾々は被告の有罪を信じるしかないのである。(『知的怠惰の時代』、PHP研究所)  再び、「以上の事を否定する讀者は一人もゐないと思ふ」。では、私は讀者に尋ねたい。田中角榮氏の場合は一審の判決さへ下つてゐない。即ち田中氏は有罪かも知れぬが、逆に無罪かも知れぬ。それなら、無罪かも知れぬ人間に對して、「無罪の人に與へられるべき各種の權利、待遇」を、いかなる根據あつて「保留」しうるのか。警察が逮捕し檢察が起訴すれば、被告は即ち犯罪者と斷じうるのか。それなら判事なんぞは無用の長物である。そして判事や辯護士が無用の長物であるやうな國家では、善男善女は枕を高くして眠る事ができない。さういふ事態を「檢察フアツシヨ」と呼ぶのである。「無罪の人に與へられるべき各種の權利、待遇」を「保留」すべしと主張する石川氏は、「檢察フアツシヨ」を待望してゐるのであらうか。もしもさうなら、石川達三の如き「穀潰しの益體無しは暗殺するに如くは無い」と言切りたくもなる。  さらにまた石川氏は、田中角榮氏が「無罪だという根據はどこにも無」く、「したがつて選擧の票數は當選圏に入つていても、その票數には疑問があり、疑問が解決しない限りは無罪も確定してはいない」と言ふ。度し難き愚鈍である。「選擧の票數は當選圏に入つていても、その票數には疑問があり」といふ事になれば、選擧制度そのものが崩潰してしまふ。石川氏はそれを望んでゐるのか。即ち民主主義を否定したがつてゐるのか。それとも新潟三區の選擧民は愚昧にして破廉恥だから、その意志は無視すべきだと考へてゐるのか。そのいづれにせよ、石川氏は公職選擧法そのものを否定してゐる事になる。實際、「多數決主義と言うのは民主主義的な運營の方法として、理論的には大變に理想的な方式であるけれども、その方式は永年のあいだに有りとあらゆる不潔な垢が附いてしまつ」たと石川氏は書いてゐるのである。要するに「不潔な垢が附いてしまつ」たから「無罪の判決が有るまでは議員としての資格は保留」すべきだといふ譯だが、さういふ事態となつたら、起訴された政治家の當選はまづ難しからう。「無罪の判決が有るまで議員としての」活動を禁止されるやうな政治家を、選擧民が選出する道理は無いからである。これほど見易い道理は無いが、粗雜な腦漿を絞つて雜駁な雜念を書き留める石川氏には、至つて見易い道理も見えない譯であり、その石川氏が「中學生の理論」を「短絡的」と稱するのは笑止千萬である。  さて、石川氏の暴論の暴論たるゆゑんについて讀者はほぼ了解した事と思ふ。有罪の判決が下るまでは無罪の扱ひをし、「疑わしきは罰しない」、それが法治國なのである。田中角榮氏の場合も、最高裁は愚か地裁の判決も下つてゐない。すなはち、田中氏が「無罪だという根據はどこにも無い」かも知れないが、有罪だとする根據も今のところ「どこにも無い」。有罪か無罪か解らぬ被告人に對して「各種の權利、待遇」を「保留」したり、道義的に非難したりする事がどうして輕々にやれようか。  假りに田中角榮氏は無實だとしよう。しかるに最高裁が有罪の判決を下したとしよう。すでに述べたやうに、その場合吾々は初めて田中氏の有罪を信じてよい。だが、その代り、假りに田中氏が罪を犯したのに最高裁が無罪の判決を下した場合も、輕々に最高裁と政治權力との「癒着」を云々したり、田中氏は「無罪となつたが道義的責任は免れない」などと、吾々は斷じて言つてはならないのである。  人間は神ではない。それゆゑ、政治家や小説家と同樣、檢事や判事が間違ひをやらかす事もある。また、神ならぬ人間の拵へる法律も不完全だから、法の不備に附け込んで惡事を重ねる奴も跡を絶たぬ。だがその場合も、「法網を潛るとは何としても許せぬ、法が裁けぬなら道義で裁け」とて、惡黨を道義的に非難して吊上げるなどといふ事は斷じてやつてはならぬ。それは私刑であり、私刑は法治國において固く禁じられてゐる行爲だからである。しかるに先年、松野頼三氏が時效ゆゑに刑事責任を免れた時、新聞は松野氏を呼捨てにし、松野氏の道義的責任を躍起になつて追及した。あれは新聞による私刑であつた。そして今、石川達三氏は「無罪の判決が有るまでは議員としての資格は保留」せよと書き、田中角榮氏に對する法によらざる制裁を勸めてゐる。しかも石川氏には暴論を吐いたとの自覺は微塵も無く、世人も石川氏を決して咎めない。なぜか。世人は田中氏が賄賂を貰つたのは事實だと決め込んでをり、小説家が「國家の宣傳機關となり政府のお先棒をかつ」いだり、マツカーサーに胡麻を擂るべく「選擧のやり直しを嚴命して貰ひたい」などと書いたりするのは破廉恥ではないが、代議士が巨額の袖の下を貰ふのは破廉恥なのだから、貰つたらしいといふ事だけで充分、斷乎「疑わしきは罰」すべきだと、さう考へてゐるからである。それゆゑ、田中角榮氏を批判する者はすべて善玉と見做され、逆に田中氏のために辯ずる者は、例外無しに破廉恥漢と見做される。そして、さういふ輕佻浮薄な風潮を破廉恥な手合が利用しない筈が無い。かくて十月二十八日、かの「女王蜂」が檢察側の證人として出廷し、「蜂は一度刺して死ぬ」と大見得を切つた時、新聞は國家の一大事であるかのごとく一面トツプにでかでかと報じ、彼女の手記を掲載した『週刊文春』は發賣と同時に賣切れたのであつた。  「あえて證言臺に立つた理由の一つ」は「眞實を貫くということの尊さ」を子供たちに「知つて欲しかつた」といふ事だと、「女王蜂」は手記に書いてゐる。だが、夫君榎本敏夫氏と別れようと決心して田中角榮氏に相談した時、「子供はどうする」との田中氏の問ひに對して彼女は、「女一人で三人の子供を育ててゆく不安、子供達の環境が激變することへの心配」、及び「再婚して子供を」拵へられる「年齢ではない榎本から、子供を取り上げたら何が殘るのか等々」の理由を擧げ「子供は預けます」と答へたといふ。愚かな「女王蜂」の言分はもとより矛盾してゐる。「眞實を貫くということの尊さ」を子供に知つて欲しいといふ氣持が眞實だつたなら、すなはち彼女が子供達を、眞實、愛してゐたのなら、「女一人で三人の子供を育ててゆく不安」なんぞ物の數とも思へなかつた筈である。惡黨も「眞實」だの「良心」だの「愛情」だのといふ美しい言葉を口にする。彼女の母性愛とは所詮眉唾物でしかない。  「私はあの(證言臺に立つた)時、裁判官や檢事、辯護人に對してというよりも、ただひたすら子供達に向つて證言していた」と彼女は書いてゐる。昭和二十年、「親の心」だの「涙を振つて」だのと白々しい事を書いた石川達三氏と同樣、彼女もまた愚鈍ゆゑに品性の下劣を滿天下に晒したのである。「女親に離れぬるは、いとあはれなる事にこそ侍るめれ」と紫式部は言つた。昔も今も、眞實子を思ふ母親がそれを考へぬ筈が無い。  だが、矛盾だらけの「女王蜂」の手記を私は丹念に叩かうとは思はない。愚かな「女王蜂」は道義的にもいかがはしく、世間を舐め過ぎてすでにかなりの襤褸を出してゐる。今後もますます出すであらう。豆を植ゑて稗を得るといふ事になるであらう。それゆゑ放つておけばよい。世間もいづれ必ず相手にしなくなる。けれども、あれほど品性下劣な女に、ごく短期間の事とはいへ、新聞や週刊誌は飜弄されたのであつて、それこそ日本人の道義心の麻痺を雄辯に物語る事實であり、これは放つてはおけない。浮かれ過ぎた「女王蜂」は愚鈍ゆゑに日ならずして尻尾を出し、文春以外の週刊誌がその尻尾を掴んで振り廻し、いかがはしい素性をしきりに洗ひ立てたけれども、彼女の品性下劣は、檢察側の證人として出廷した事を報じた各紙の記事を讀んだだけで、充分に察せられた筈なのである。しかるに、新聞も週刊誌も「女王蜂」の道義心の麻痺を即座に看破る事が無かつた。これこそはジヤーナリズムの墮落を雄辯に物語つてゐる。  「證言拒否できる立場にありながら拒否しなかつた」のは、「私怨」のためもあるが「社會正義」を思つてでもあると「女王蜂」は言つたのである。けれども私怨ゆゑに「先夫を窮地に陷れ」た「女王蜂」の言動に、「公の義理」と「私の義理」の雙方を考へての葛藤は一向に感じられぬ。『週刊讀賣』十一月十五日號によれば、「衝撃的な證言をした翌日」彼女は玄關のドアに、「今囘の件は永い永い心の葛藤があつての事ですし、昨日終つてみて改めて悲しみがおそつて參りました。しばらく靜かにさせて頂けませんか」との張り紙をしたといふ。だが、その日彼女は湯河原にゐて、矛盾だらけの手記を書いてゐた。「永い永い葛藤」云々も眞つ赤な嘘だつたのである。  無論、吾々は誰一人聖人君子ではない。他人の不幸は眺めてゐて樂しいし、憎たらしい奴ならいつそ殺したいと思ふし、震ひ附く樣な別嬪なら友人の女房でも寢取りたいと思ふ。が、惡いと知りながらつい寢取つてしまふのと、惡いとの自覺無くして寢取るのとは雲泥の差なのである。すなはち、前者は不道徳といふ事に過ぎぬが、後者は沒道徳だからだ。私怨ゆゑに「先夫を窮地に陷れる」のは善い事ではない。決して善い事ではないが「社會正義」のために敢へてやらねばならぬと、さういふ「永い永い心の葛藤があつて」、すなはち「私の義理」と「公の義理」とに引裂かれた擧句、「女王蜂」は證言に踏切つたのか。さうとはとても思はれぬ。それなら彼女の行爲は沒道徳なのである。しかるに世人はその沒道徳に慄然とせず、却つて檢察を咎めた奧野法相を咎めたのであつた。例へば『選択』十二月號に「天鼓」なる匿名批評家はかう書いた。  榎本被告前夫人の十月二十八日の爆彈證言は、榎本アリバイにとどめを刺す威力を發揮した。さすが「ハチは一度刺したら死ぬ」と覺悟しただけのことはある。(中略)ハチ證言は、田中復權を期待する自民黨内の幻想を吹き飛ばしたのである。  それに對するはかない抵抗が“隱れ田中派”の異名を頂戴した奧野法相の發言だつた。「檢察は人の道を外れてはならない」という奧野發言は、檢察への不當な牽制であるのはもとより、その倫理感の古めかしさを正直に告白したものだつた。法相は「亭主がどんな惡いことをしても、女房たる者は盲從し背くべからず」というのだろうか。(傍點松原)  道徳とは百年千年經つてなほ變らぬものなのである。それは『道義不在の防衞論を糺す』で縷々述べた事だからここに繰返さないが、とまれ「古めかし」い「倫理感」などといふものは斷じて無い。天鼓氏のやうに駄文を綴る愚鈍な手合には所詮通じまいが、無駄を承知で思ひ切り「古めかしい」插話を紹介しておかう。或時、葉公が孔子に言つた、「吾が黨に直躬なる者あり。其の父羊を攘みて、子之を證せり」。孔子は答へた、「吾が黨の直き者は、是れに異なり。父は子の爲に隱し、子は父の爲に隱す。直きこと其の中に在り」。『論語』子路篇の一節である。子が父親の罪を發くが如き行爲は「直きこと」ではない。これがどうして古めかしい倫理であるか。「亭主がどんなに惡いことをしても、女房たる者は」それを輕々に發いてはならない。「社會正義」のために發くとしても「私の義理」と「公の義理」との食違ひに苦しんだ擧句の果でなければならぬ。  「總ジテ私ノ義理ト公ノ義理・忠節トハ食違者也。國ノ治ニハ私ノ義理ヲ立ル筋モ有ドモ、公ノ筋ニ大ニ連テ有害事ニ至テハ、私ノ義理ヲ不立事也」と荻生徂徠は書いた。さう書いて徂徠は丸橋忠彌の陰謀を密告した手合を辯護したのである。だが、徂徠が今、「女王蜂」の手記を讀んだとしても、「私ノ義理ヲ不立事也」とは決して言はぬであらう。なぜか。『猪木正道氏に問ふ』にも書いたとほり、今日世人は「平和憲法護持を唱へればすなはち道徳的であるかのごとく思ひ込んでゐる」が、徂徠は政治と道徳とを混同するやうな愚物ではなかつたからである。徂徠は政治と道徳とを、「公ノ義理」と「私ノ義理」とを峻別した。峻別したうへで「公ノ義理」を重んじたに過ぎない。「天下ヲ安ソズルハ脩身ヲ以テ本ト爲ス」事は無論だが、ただしその場合の修身は飽くまで治國平天下のためである。「たとひ何程心を治め身を修め、無瑕の玉のごとくニ修行成就」したところで「下をわが苦世話に致し候心」無く、「國家を治むる道を知」らぬなら「何之益も無」き事ではないか。「己が身心さへ治まり候へば、天下國家もをのづからニ治まり候」と考へるのは誤りである。が、もとより修身が不要といふ事では斷じてない。「尤聖人の道にも身を修候事も有之候へ共、それは人の上に立候人は、身の行儀惡敷候へば、下たる人侮り候而信服不申候事、人情の常にて御座候」。  いかにもそれは「人情の常」である。それゆゑ「人の上に立候人」は、例へば教師は、「下たる人」たる生徒に侮られぬやう「身の行儀」を守らうと努めねばならぬ。「下たる人に信服さすべき爲ニ、身を修候事ニて」云々と徂徠は書いてをり、それは餘りに功利的だと思ふ讀者もあらう。だが、『僞りても賢を學べ』にも書いたやうに、教師が「身の行儀」を守らうとする事は、生徒のためであり教師自身のためなのである。  石川達三氏だの「女王蜂」だの「天鼓」氏だのといふ愚物を批判してゐるうちに、計らずも荻生徂徠といふ天才に言ひ及び、つい横道に逸れたが、品性下劣なる「女王蜂」に、たとへ一時にもせよ、新聞週刊誌が手玉に取られたのは、「公ノ義理」と「私ノ義理」とを峻別できぬ知的怠惰のせゐであつた。そして知的怠惰はもとより道義的怠惰に他ならない。今は「道義的怠惰の時代」なのであり、世人はおのが「心を治め身を修め」る事は考へず、專ら田中角榮氏を指彈して正義漢を氣取るのである。  明治の昔、福澤諭吉は、「大義名分は公なり表向なり、廉恥節義は私に在り一身に在り」と書いた。昭和の今、石川達三氏は「法秩序恢復」を説き、「女王蜂」は「社會正義のため」とて胸を張る。だが、二人はともに品性下劣な人間であつた。しかるに世人はそれを一向に怪しまない。これを要するに「公」にして「表向」の「大義名分」を振り翳せば、「私に在り一身に在」るべき筈の「廉恥節義」は疑はれずに濟むといふ事である。すなはち、田中角榮氏を指彈したり、田中氏に楯突いたりすれば、造作も無く善玉として通用するといふ事である。だが、他人の惡徳を指彈して、その分おのれが有徳になる道理は無いではないか。斷じて無いではないか。 I 教育論における道義的怠惰 1 僞りても賢を學べ 2 まづ徳育の可能を疑ふべし 1 僞りても賢を學べ  かつて教育は聖職なりや否やとの論爭が流行した事がある。大方の教育論議と同樣、議論してゐる手合が本氣でなかつたから、忽ち下火になり、やがて消えてしまつた。教師のみが聖職者たりうる理由なんぞさう簡單に見附かる筈は無い。教師も人の子であつて、女の色香に迷ふ事もあらうし、慾に目が眩む事もあらう。例へばの話、中學校の教師が仲間と一緒にいかがはしい映畫を觀に行く事もある。そこで映畫に堪能した翌日、教室で生徒が休み時間に、いかがはしい雜誌に見惚れてゐる現場を掴む事もある。その時、教師はどういふ態度を採つたらよいか。  さういふ事態に日頃教師は屡々直面するであらう。いや、たまたまいかがはしい映畫を觀た翌日、いかがはしい雜誌に見惚れる生徒の姿を目撃するといふ事が屡々ある、といふ事ではない。教師が二日醉ひで氣分が惡い時、部室で密かに酒を飮んでゐる野球部の生徒を見附けるとか、禁煙しようと思ひ立つて挫折し、おのが意志薄弱にいささか愛想盡かしをしてゐる折も折、萬引癖のある生徒がまたぞろやらかした事を知るとか、さういふ類の體驗は屡々してゐるだらうといふ事である。いや、教師だけではない、親の場合も同じであつて、退社後、赤提燈で、上役の惡口を言つて樂しむのは、なるほど情けない根性ではあるが、勤人なら誰しも必ず身に覺えがある筈だ。では、さういふ情けない根性を大いに發揮して歸宅した翌日、わが子が擔任の教師の惡口を言ひ出したとする、さて、父親はどうしたらよいか。  これを要するに、おのれを省みて、生徒や子供を叱る資格なんぞありはせぬとしか思へぬ場合、教師や親は一體どう振舞ふべきか、といふ事である。坂口安吾はかう書いてゐる。「教訓には二つあつて、先人がそのために失敗したから後人はそれをしてはならぬ、といふ意味のものと、先人はそのために失敗し後人も失敗するにきまつてゐるが、さればといつて、だからするなとはいへない性質のものと、二つである」。けだし至言だが、例へば教室でいかがはしい雜誌に見惚れてゐる生徒に向かひ、教師は一體、いかなる理由を擧げ「だからするな」と言ふべきか。  かういふ事は日常茶飯事であつて、教師も親も屡々體驗する。しかるに、奇怪千萬だが、大方の教育書はその種の日常茶飯事を素通りするのであつて、巷間に流布する教育書は、やれ學校五日制がどうの、學區制がどうの、主任制がどうのと、制度をいぢりさへすれば萬事が解決するかの樣に思ひ込んでゐる學者先生の手になる淺見僻見の類か、さもなくば教育の場における明暗二通りの現象、即ち「のびのび教育」とやらの實例、もしくは目下流行の校内暴力や家庭内暴力の實例を、「客觀的」に記録するだけのルポルタージユなのである。無味乾燥なる制度論は無論だが、詰込み教育を止め、かくもすばらしき成果を收めたなどといふ話を讀んだ所で、愚かしき兩親は子供の塾通ひを止めさせはしないであらう。また、凄じい家庭内暴力の實態を知つた所で、俺の子は大丈夫だとて、胸を撫で下すだけの事であらう。要するに、何の役にも立ちはしないといふ事だ。では、何の役にも立たぬ教育書ばかりが、なにゆゑかくも氾濫してゐるか。その種の無駄を意に介さぬ程、日本が經濟大國となつたからに他ならない。  しかるに、「俺の倅は健全だ」とて高を括つてゐた父親が、或る日、倅の勉強机の引出しに、卑猥な雜誌や避妊器具を發見して驚くといふ事がある。母親が娘の日記を盜み讀みして、同級の男の子に寄せる切々たる戀心の表現を見出すといふ事がある。さういふ時、親はどうしたらよいか。放置すべきか、それとも斷然説教すべきか。多分、大抵の親は放置するであらう。だが、放置できぬほどの重症だつた場合はどうするか。無論、説教するしかあるまい。だが、一體全體どういふ具合に説教すべきか。穩やかに、醇々と言つて聞かすべきか、手嚴しく咎むべきか。大方の兩親は穩健な方法を選ぶであらう。が、窮鼠猫を噛む、子供が居直つた場合はどうするか。日頃温厚にして御し易しとばかり思つてゐた息子や娘が、「大人も昔は同じだつた筈ではないか」などと開き直つたらどうするか。いかにもその昔、父親も惡友と共に春畫春本の類を樂しんだ事があるし、母親も映畫俳優に熱を上げ、いつそ家出をしてとまで思ひ詰めた事があるであらう。要するに、子供が今やつてゐる事は、程度の差こそあれ、兩親にとつては身に覺えのある事なのであり、「先人」たる兩親は「そのために失敗」こそしなかつたらうが、「さればといつて、だからするな」とも、「だからせよ」とも言へまい。イギリスの劇作家プリーストリーに『危險な曲り角』といふ作品があり、人生には「もしもあの時あの曲り角を曲つてゐたら、今の私は無かつたらう」としか思はれぬ樣な偶然があるものだと、さういふ事を考へさせられる芝居だが、兩親が失敗しなかつたのも偶然であり、運が良かつただけの事だとすれば、兩親は子供にどう言ひ聞かせたらよいか。「後人」たる子供はいづれ「危險な曲り角」を曲るかも知れぬ。「先人」の親も神樣ではないから一寸先は闇であるし、それに何より「危險な曲り角」を曲らなかつた者に、曲つた結果どうなるかは所詮解らぬのである。  私は讀者を威してゐる譯ではない。劣惡なる教育書は親や教師を威す。「お前の子供も危いぞ」といふ類の事を必ず言ふ。つまり、親や教師の弱みに附込んで稼ぐのである。この、いはば「死の商人」とも評すべき教育書の惡辣な手口については、拙著『知的怠惰の時代』(PHP研究所)に詳しく書いたから、ここでは繰返さないが、私は讀者を威してゐるのではない。息子や娘が色情を解する年頃になるといふ事態は、どの家庭にも起る、いたつて平凡な事態の筈だが、平凡な事柄を論じても儲からないから、教育學者は素通りして考へない。それはをかしいではないかと、私は言つてゐるのである。  とまれ、理想郷とも評すべき場所で行はれる氣まぐれな實驗なんぞに私は全く興味が無いし、一方、非行少年の實態なんぞ知りたいとも思はぬ。「理想郷」での實驗は、子供の中にも間違ひ無く惡魔が潛んでゐるといふ事實を知りたがらぬ樂天家の自慰に過ぎないし、一方、どう仕樣も無い非行少年は、拙著に縷々説明した通り、「ゴミタメに捨て」るしかないからである。これは許せぬ暴論か。さにあらず、吾々は本氣で不特定の非行少年に同情する筈が無い。かつてヴエトナム戰爭酣なりし頃、「ヴエトナムで毎日流されてゐる血を思ふと、三度の飯も喉を通らない」と言つた男がゐる。眞つ赤な嘘である。人間はさういふものではない。『ピーター・パン』の作者J・M・バリーがうまい事を言つてゐる、「花嫁に對しては常に嫉妬、死體に對しては常に善意」。  かういふ意味である。結婚披露宴で美しい花嫁を見、樂しさうな花婿を見る。さういふ時、聖人君子ならぬ吾々は密かに呟く、「畜生、うまくやりやがつたな」。けれども、ともに天を戴かぬとて恨んでゐた敵が頓死して、その棺桶を前にして燒香する時、吾々はかう呟く、「この世では敵同士だつた。が、惡く思ふな。俺も反省してゐるのだ。どうか成佛してくれ」。  何とも身勝手なものだが、人間とはさういふ甚だ身勝手な生き物なのだ。人間とは矛盾の塊だと言つてよい。美男美女の花婿花嫁を眞實うれしさうに眺めてゐるのは、親兄弟ぐらゐのものだと、さう言ひたい所だが、どうしてどうして、花婿の弟や花嫁の妹が心中穩やかでないかも知れぬ。しかるに、花婿花嫁を乘せた飛行機が墜落すれば、弟も妹も本氣で泣くのである。  兄弟姉妹といふ至極身近な關係においても、悲しむべし、人間はこれほど身勝手なのだから、どこの馬の骨とも知らぬ不特定の非行少年に心から同情し、「ゴミタメに捨てろ」との「暴論」に立腹する筈は無い。再び、人間はさうしたものではないのである。勿論、かく言ふ私も身勝手だから、わが子が非行に走つたら平氣ではゐられない。何とかして立直らせようと懸命になる。「ゴミタメに捨てろ」などと言つてはをられぬし、そんな事を言ふ奴を憎む。けれども、同じ境遇にある父親の手記を讀んで慰められる事はあるかも知れないが、まづまづ順調に子供を育てた物書きが、「非行少年を持つ親の苦惱を思へば、三度の飯も喉に通らない」などと斷つてから、非行の實態とやらを發くルポルタージユを書いてくれた所で、そんな物、決して信用しないであらう。  それに何より、昔、大盜賊石川五右衞門は「石川や浜の眞砂は盡くるとも世に盜人のたねはつくまじ」との辭世の句を殘し、京都は三條河原で釜茄での刑に處せられたが、「世に非行少年のたねはつくまじ」であつて、賣春婦も非行少年も昔から存在して、無くなつた例が無い。だから放置しておけと、言ふのではない。「すべて色を賣り淫を賣るものは、良民の間に雜居せしむべからざる」ものである、それゆゑ賣春婦だの藝者だのは「大にして堅固なるゴミタメ」に捨てるがよい、それで町は「清潔を保つ」事ができるのだと、幸田露伴は書いてゐる。これは決して暴論ではない。刑務所の無い國は存在しないのである。色町、遊里、花柳街、當世風に言へば「トルコ街」、さういふ特別地帶は世界中の都市に存在する。つまり、どうにも救ひ樣のない人間といふものは確かに存在する。とすれば、大事なのはゴミタメの中の少數を救はうとする事よりも、むしろ露伴の言ふ「良民」の子女を何とかしてゴミタメにぶち込まないやうにする工夫ではないか。かつてゴミタメは特定の區域に限られてゐた。色街の事を郭とも言ふが、郭とは元來、城や砦の周圍に巡らせた圍ひの事である。昔はゴミタメと「良民」の居住地域とをはつきり區別してゐた。しかるに今はさうではない。今、さうでなくなつて、萬事好都合であらうか。昔は普通の書店にポルノが竝べてある事は無かつたし、遊女とて分限を辯へてゐた。しかるに今は職業に貴賤無し、人間はすべて平等といふ事になり、トルコ孃だのノー・パン喫茶の女給だのが、胸を張つて週刊誌の座談會に出席し、「學校の先生つてのが一番いやらしいんだよねえ」などとぬかす始末である。さういふ次第となつて結構な御時勢だと、讀者は思つてゐるであらうか。中學生ともなれば書店のポルノを盜み讀みはするし、卑猥な週刊誌は藥屋でも買へるのである。よしんば父親が電車の網棚に捨てて來たとしても。  さて、少々廻り道をしたが、この邊で冒頭の問題に戻る事にしよう。あちこちに散在するゴミタメで、或る日「良民」たる中學校の教師が遊んだとする。「そんな教師がなぜ良民か」などと、もはや讀者は言はぬであらう。そこでその「良民」の教師が、翌日、教室でポルノ雜誌に見惚れてゐる生徒を目撃したとする。教師はどうしたらよいか。結論から先に言ふ。教師は本氣で叱らなければならぬ。昨日俺はゴミタメで遊んだ、叱れた義理ではない、などと考へ、「おい、お前たち、さういふ物は隱れて眺めろ」などと、にやにや笑ひながら窘める、さういふ教師は惡しき教師なのである。なぜ惡しき教師なのか。かういふ事を考へてみるがよい。吾々は神樣でも聖人君子でもない。それゆゑゴミタメで遊ぶ事もある。嘘をつく事もある。では、時たま嘘をつく教師には、生徒に對して「嘘をつく事は惡い」と言切る資格が有るのか無いのか。もしも無いといふ事になれば、教育といふものは成り立たなくなつてしまふ。すなはち、神樣の如く完全な存在でなければ教師は勤まらぬといふ事になる。では、よしんばおのれが不完全であつても、教師は生徒に對し「いかなる場合にも嘘をつくのは卑怯だ」と、ためらふ事無く言切つてよい、といふ事になるのであらうか。  假りにさう言切つた場合、つまりおのれを棚上げして、嘘をついた生徒を叱つた場合、教師は自分もまた嘘をつく卑怯者だといふ意識に苦しむ事になる。教師はさういふ僞善には耐へられないし、また耐へる必要も無い、いつその事、自分もまた時に嘘をつく不完全な人間だといふ事を、潔く生徒に打明けたらよいではないか、教師も人間、生徒も人間、平等は善き事である、「仲よき事は美しきかな」、さう思ふ讀者もゐるであらう。けれども、潔く打明けて問題はすつかり片附くか。教師はなるほど樂になる。だが、それが果して生徒のためになるであらうか。  昔讀んだ本の中に書かれてあつた事だが、或る日、少年が母親と二人で居間にゐた。父親は庭に出て盆栽の世話か何かをしてゐた。すると、飼猫が父親の大事にしてゐた壺に飛びかかり、壺が毀れてしまふ。そこへ父親が戻つて來る。父親はいきなり息子を大聲で怒鳴り附ける。少年は激しい衝撃を受け、顏面蒼白となり、物も言へない。さういふ話である。  無論、ただそれだけの話なら取立てて紹介するまでもない。少年が激しい衝撃を受け顏面蒼白になつたのはなぜか、そこが大事なのである。自分が壺を毀した譯ではないのに、父親は自分の仕業だと決め込んでゐる、それを無念がつて口もきけなかつたのだと、大方の讀者は思ふであらう。が、少年は濡衣を着せられて衝撃を受けたのではない。尊敬し、信頼し、萬能だと思つてゐた父親もまた誤るのだといふ事を知つて、すなはち完全無缺だと思ひ込んでゐた父親も不完全だつたと知つて、少年は激しい衝撃を受けたのである。  當節の父親は、家庭で同僚や上役の惡口を言ひ、テレビの野球中繼を觀ながら屁をひり、ありのままの不甲斐無い姿を子供の前に曝して平氣だらうから、子供のはうも父親を尊敬してはゐないだらうが、右に紹介した話は教育について頗る興味深い事實を暗示してゐる。すなはち、子供は或る年齢まで保護者としての兩親に頼らざるをえず、從つて兩親を偶像視してゐるものだが、子供はいづれ自立せねばならないのだから、やがて兩親を偶像視してゐる状態を脱する事になる。が、問題はいつ頃から、いか樣にして、脱するかなのだ。小學校一年生が「うちのお父さんは、怠け者で駄目の人なんだ」などと言つたとして、それが望ましい事だとは誰も思ふまい。兩親の權威失墜は遲ければ遲いほどよいのであつて、子供に早々弱點を曝すのは考へもの、それは決して子供のためにならないのである。  ここで讀者は、子供だつた頃の事を思ひ出してみるとよい。男と女の祕め事について、勿論幼兒は何も知つてゐない。小學生になつても、その種の事柄に關心は無く、昆蟲採集だの魚釣りだのに熱中してゐる。が、中學生になれば、性の祕密を知るやうになる。そこで、最初に祕密を知つた時の事を思ひ出してみるがいい。男女間の性行爲は嚴然たる事實だと知つても、なほ暫くの間は、わが父母に限つてそのやうな事が、と思つたに相違無い。少くとも、父母の祕め事を想像して樂しむなどといふ事は斷じて無かつた筈である。これはつまり、兩親の權威失墜を子供は望まないといふ事ではないか。  いや、それは子供に限つた事ではない、大人もまた同じなのであつて、吾々は他人の濡れ場を覗きたがるが、親友や尊敬する人物の濡れ場は覗きたがらない。これはどういふ事か。人間は矛盾の塊で、甚だ身勝手で、おのが權威はどうでも保ちたがる癖に、一方では強い人間や偉い人間を求めてをり、その權威に服從したいと願つてゐるものなのである。かの頗る民主的なワイマール憲法を持ちながら、或いは持つてゐたがゆゑにと言ふべきかも知れないが、なぜドイツは呆氣無くヒツトラーに席捲されてしまつたのか。ワイマール共和國のドイツ人も權威への服從を密かに望んでゐたのであり、ヒツトラーはそれに附込み壓倒的な成功ををさめたのである。ジヨージ・オーウエルが書いてゐるやうに、人間は安穩や私益を愛するが、時には鬪爭や自己犧牲をも愛するのであつて、ヒツトラーはさういふ人間の矛盾を知り拔いてゐた、ヒツトラーはドイツ國民にかう言つた、「私は諸君に鬪爭と危險と死を提供する」、それゆゑに彼は成功したのである。  私はヒツトラーを稱揚してゐるのではない。ユダヤ人虐殺のごときは「人類史上最大の汚點の一つ」だと思ふ。けれども、第二のヒツトラーに丸め込まれないためには、自由と平和を謳歌してゐるだけでよいか、戰爭や獨裁は惡事だと空念佛よろしく唱へてゐるだけでよいか。所詮駄目である。そんな氣休めに何の效驗もありはせぬ。教育の場合とてまつたく同樣であり、吾々は人間の強さや美しさのみならず、弱さや醜さをも見すゑなければならぬ。それゆゑ私は、きれい事づくめの教育論を一切信用しない。マツクス・ウエーバーが言つてゐるやうに、「心情倫理家」はおよそ斑氣で頼りにならないからである。「心情倫理家」は「この世の倫理的非合理性を辛抱」できないからだ。  すなはち、平和は「倫理」的によき事だと「心情」的に思つてゐるに過ぎないやうな手合は、いつ何時、「大日本帝國萬歳!」と叫び出さないとも限らない。さういふ手合は到底信用できない。戰時中、大方の日本人は「心情倫理家」であつた。ロベール・ギランによれば、大東亞戰爭は「國民全體の輕率さによつて惹き起され、繼續」したのだが、日本人はまた、いかにも「無造作に敗戰に適應し」たのである。ギランは書いてゐる。  七千五百萬の日本人は、最後の一人まで死ぬはずだつた。一介の職人に到るまで、日本人たちは自分たちは降伏するくらいなら切腹をすると言い、疑いもなくその言葉を自ら信じていた。ところが、涙を流すためにその顏を隱した日本が再びわれわれにその面を示したとき、日本は落着いて敗戰を迎えたのである。(中略)外國人に對する庶民たちの微笑。私が列車で東京に向うため輕井澤を去つた際、ごつた返す日本人の中でひとりの白人だつたにもかかわらず、私は意外にも身のまわりにいささかの敵意も感じなかつた。(中略)報道機關の微笑。すべての新聞が一擧に態度を豹變した。かつてフアシスト的で軍國主義的な新聞として知られたニツポン・タイムスは、一週間足らずのうちに民主主義、議會主義および國民の自由の代辯者に早變りした。(中略)最後に市井の人びとの微笑。(中略)日本中で進駐軍に對する發砲事件は一度も起らなかつたのである。(『日木人と戰爭』、根本長兵衞・天野恆雄譯)  いかにもさういふ事はあつたが、もはや三十數年も昔の事ではないか、と讀者は言ふかも知れぬ。しかし、三十年やそこらで國民性が變る筈は無い。例へば、福澤諭吉の『學問のすゝめ』以來、日本人は「實なき學問は先づ次にし、專ら勤むべきは人間普通日常に近き實學」とて、實用に役立つ事柄ばかり重んじて來たけれども、この國民性は今なほ少しも變つてゐない。その證據に、「防衞論ではあるまいし、ヒツトラーだのマツクス・ウエーバーだの、ロベール・ギランだのとは辛氣臭い。いい加減に切上げて、息子の勉強部屋にポルノを見出した時、娘の日記を讀んで衝撃を受けた時、吾々はいかに對處すべきか、そこへ話を戻したらどうか」と、さう思つてゐる讀者もあらう。これを要するに、依然として日本人は「實用に役立つ事柄」ばかり重視してゐるといふ事に他なるまい。  再び、その證據に、書店の書架に竝んでゐる教育書の題名だけでも眺めてゐるとよい、『家庭内暴力がわかる本』だの、『親は子に何を教へるべきか』だの、『親の不安をなくす教育論』だのと、讀めば「すぐに役立つ」かのやうに見せ掛けようと懸命になつてゐる類の書物が多い事に氣づくであらう。さういふ教育書を一册購入して讀んでみるとよい。「親の不安」なんぞ一向に無くならない事に氣附くであらう。なぜ不安が無くならないのか。さういふ實用書は、例外無しに、道徳の問題を素通りしてゐるからである。それゆゑ、ここで讀者に眞劒に考へて貰ひたい。吾々にとつて何より大事なのは道徳の問題ではないか。道徳が何より大事などと言はれると、人々はとかく往年の徳目教育を思ひ浮かべて拒絶反應をおこしがちだが、そしてそれが誤解であるゆゑんについて詳述する暇は無いが、道徳とは「忠君愛國」だの「親孝行」だのを一方的に押し附ける事ではない。道徳とは人倫すなはち「人と人との間柄」について、人と人との附合ひ方について考へ拔く事なのである。そして、いかな苦勞人とて、他人との附合ひ方に關して「すぐに役立つ」やうな忠告なんぞできる譯が無い。すなはち、人生の難問に單純明快な解決なんぞある譯が無い。例へば、一つ屋根の下で暮らす嫁と姑との反目に惱んでゐる男にとつて、「別居するのが一番」などといふ忠告が「明快な解決」になりうるか。別居すれば若夫婦は幸福になるかも知れぬ。けれども、老いた夫と二人きりか、或いは一人ぼつちになつた姑の淋しさのはうは一向に解決しない。そしてもとより、若夫婦もまた、いづれは必ず老夫婦になるのである。  要するに、教育論議の不毛は、當座の事ばかり重んずる國民性のせゐではないかと私は思ふ。吾々はとかく當座役立つ事ばかり考へる。ひところ子供の自殺が流行した事がある。果せるかな、『あなたの子供も危い』とか『子供の自殺を防ぐ法』とかいつた類の本が氾濫した。けれども、自殺の流行がすたれてしまへば、誰も本氣で考へない。そして、目下「當座の用」として人々が求めてゐるのは、校内暴力防止法なのである。さうして當座の問題にばかり一喜一憂する輕薄と、ギランが指摘してゐる敗戰後の「豹變」及び「適應」とはもとより同根であつて、吾々日本人は出た所勝負で何事も運任せ、それでゐて結構器用に「適應」するのだから、百年千年經つて一向に變らぬ道徳上の問題は、なほざりにして顧みないといふ事になる。自殺は無論道徳上の問題である。嫁と姑の反目と同樣、流行とは一切無關係の筈である。しかるに今、子供の自殺について書いても決して編輯者は喜ぶまい。賣れないからである。だが、自殺は永遠の問題ではないか。今も昔も、資本主義國においても社會主義國においても、人間にとつて「生存の理由が消滅するのを見ることは我慢ができない」筈ではないか。實用書を書き捲る物書きにしても、「すぐに役立つ」原稿を貰つたとて喜ぶ編輯者にしても、いづれ自殺したくなるほど思ひ詰めるといふ事にならぬでもないし、親や子供や親友が自殺したら、へらへら笑つてもをられまい。  しかも、道徳上の問題は決して深遠高邁なのではない。「すぐに役立つ」實用書ばかりを喜ぶ手合は、當然「解りやすさ」を重んじて、例へば小林秀雄氏の文章は難解だと言ふ。だが、小林氏は「單純明快な解決」など有りえないやうな問題と取組むのである。それゆゑ讀者に迎合しない。迎合しないから、百萬二百萬と賣れるベストセラーなんぞ書ける筈が無いし、また書く積りも無い。それゆゑ漢字を多用するし、正字舊假名を墨守する。「墨守」などといふ言葉は避けて、當用漢字の中から選ばうなどとは考へない。必然的に字面は黒くなる。劇畫やスポーツ新聞しか讀まぬ手合が、どうして黒い字面の書物を喜ぶであらうか。  「上知と下愚とは移らず」といふ。そのとほりだが、運動をしなければ身體が鈍るやうに、粥ばかり食べてゐれば胃も腸も弱るやうに、解りやすい書物ばかり讀んでゐれば、頭だつて鈍くなる道理だし、讀者に媚びる書物ばかり讀んでゐれば、廷臣共のおべんちやらを喜ぶ王樣のやうに、惰弱な骨無しになつてしまふ。さういふ薄志弱行の徒に、どうして人生の難關を切拔ける事ができようか。  けれども、今し方言ひ止した事だが、道徳上の問題は、例へば嫁と姑との反目のやうに、た易く解決できないものではあつても、必ずしも深遠高邁ではないのであつて、吾々が常日頃直面する頗る卑近な問題なのである。「エコノミツク・アニマル」と稱せられる日本人は、目下のところ經濟ばかりを重視してゐるが、經濟學者も、大會社の社長も、小説家や八百屋と同樣、女の色香に迷ふ事がある。妾を圍ふ事もある。妾を圍つてゐる社長が、息子の勉強部屋にポルノ雜誌を見出す事もある。その時はどうするか。札束で解決するのか。聖人君子ではなし、私は金銭を汚がる譯では決してないが、きれい事の説教で解決できないのと同樣、これは金銭で片附く問題ではない。先頃パリでオランダ娘を殺し、その肉を食べた、かの日本人留學生も、懷が寒かつた譯ではない。彼は一流企業の社長の息子で、貧乏神も寄り付かなかつたのである。  要するに、教育について考へるといふ事は、卑近な問題について深く考へるといふ事なのである。「深遠」つまり深くて遠い事柄ではなく、「卑近」つまり身近な事柄について、ただし深く考へる、さういふ事でなければならない。そして深く考へる物書きが、讀者に迎合して稼ぎ捲る事を潔しとする筈が無い。宇能鴻一郎氏や富島健夫氏の小説は頗る解り易い。兩氏の好色小説に較べたら、幸田露伴は言はずもがな、夏目漱石の小説だつてずゐぶんと難解であらう。が、まさか、宇能氏や富島氏が漱石よりも深く考へてゐる、などと正氣で言切る者はゐまい。漱石は道徳上の問題を一所懸命に考へたのだが、その一所懸命を今や若者も大人も見習はうとはしない。難局に直面すれば誰しも一所懸命になる筈だが、何せ日本は今經濟大國であつて、大概の問題は金で片附く、或いは少くとも片附くと思はれてゐる。字面の白つぽいポルノ小説だの、一所懸命書いてゐないから誤字だらけで、しかも惡文のルポルタージユや實用書がはびこるゆゑんである。かくて一所懸命とは當節、「骨折り損のくたびれ儲け」といふ事でしかない。  「閑話休題」といふ言葉がある。「無駄話はさておいて」といふ意味で、話を元へ戻す際に用ゐられる決り文句である。私もこの邊で「話を元へ戻」さなければならないが、以上縷々述べた事は決して閑話ではない。「道徳上の問題を一所懸命に考へ」る事を無駄事と心得てゐるから、すぐには役立たぬ迂遠な事、すなはち遠囘りのやうに考へてゐるから、大方の教育論議は現象論に終始して、却つて何の役にも立たぬがらくたが山と積まれる事になるのである。  さて、おのれも結構好色であつても、教室でポルノ雜誌を眺めてゐる生徒を教師は本氣で叱らなければならない、と私は書いた。つまり、教師は時におのれを棚上げせねばならぬ、おのが好色を棚に上げて生徒を咎めなければならないといふ事である。「己の欲せざる所、人に施すことなかれ」と孔子は言つたが、教師たる者は「己の欲する所」を生徒に「施すべからず」といふ事になる。それは身勝手ではないか、僞善ではないか。そのとほり、僞善である。が、當節教師が何より必要としてゐるものは僞善に他ならない。そして、もとより僞善とは道徳に關はる概念だが、凡百の教育書は、書物自體が僞善的ではあつても、決して積極的に僞善をすすめてはゐない。教育論議が道徳の問題を素通りしてゐると斷ずるゆゑんである。  では、なぜ教師は僞善を必要とするのか。ここで讀者は、飼猫が壺を毀したのに濡衣を着せられた少年の話を思ひ出せばよい。少年が衝撃を受けたのは「完全無缺だと思ひ込んでゐた父親も不完全だつた」と知つたためである。そして、その種の衝撃を受ける時期が早ければ早いほどよいとは言へぬ。數年前、父親が凶惡犯で母親は賣春婦といふ六歳の子供が、警察に保護された事がある。その子は警官に「おいらヤクが切れちやつた」とか言つたといふ。  無論、子供は衝撃を受けた事を切掛けにして自立心を養ふやうになるのだから、偶像崇拝から脱する時期をむやみに先へ延ばせばよいといふ事ではない。けれども、子供が偶像を欲してゐるのなら、仰ぎ見る尊敬の對象を求めてゐるのなら、教師はその願ひを叶へてやるべきではないか。子供の「欲する所」を子供に「施す」べきではないか。「のびのび教育」だの「思ひやりの教育」だのと當節は甘い言葉ばかりはびこつてゐるが、教師がおのれを棚上げする僞善に耐へ、子供に尊敬されるやうにならうと努力する事こそ、「思ひやりの教育」ではないか。そして、木石ならぬ教師が生徒の色好みをきつく窘めるのは確かに僞善だが、その僞善は生徒のためであるのみならず、結局は教師自身のためになるのである。僞善的に振舞つて一目置かれるやうでなければ、教師は教場の秩序さへ保てない、などといふ事が私は言ひたいのではない。そんな處世術は教師なら誰でも知つてゐる、取り立てて言ふに價しない。近頃校内暴力が流行して、「教師は何をしてゐる、もつと權威をもつて臨め」などと氣安く主張する向きもあるが、「權威をもつて臨」んだはうがよいぐらゐの事は、教師も先刻承知してゐる。問題は、封建時代と異り、年長者が權威をもつて臨みにくいといふ事實である。  けれども誤解しないで貰ひたい、教師が權威を保つための「すぐに役立つ」處世術の祕訣を、私は傳授しようと思つてゐるのではない。人間の容貌が千差萬別であるごとく、人間の性格も樣々であつて、ゴミタメに捨てるしかないやうな教師もゐるし、度し難い生徒もゐる。「人を見て法を説け」といふし、「豚に眞珠」ともいふ。教育に關しても「萬病に利く特效藥」なんぞ存在する譯が無い。  ところで、教師の僞善が教師自身のためとはどういふ事か。教室でポルノ雜誌を讀んでゐる生徒を、教師がきつく叱つたとする。ところが、その教師が遲刻缺勤の常習犯で、平生、情熱の無い授業をしてゐたらどうなるか。「君、君たらずといへども、臣、臣たらざるべからず」、すなはち、君主がぐうたらであつても、家來は忠節を盡くさねばならぬと、さういふ事が信じられてゐた時代もある。が、今はそのやうな良き時代ではない。平生ぐうたらな教師が叱つても、生徒は決して從ふまい。一度や二度なら澁々從ふかも知れないが、度重なれば徒黨を組んで教師を難ずるやうにならう。それゆゑ、尊敬の對象を求めてゐる生徒の欲求を滿たすためには、教師は自分自身に對して嚴しくあらねばならない。常日頃、生徒に尊敬されるやう努力しなければならない。それは生徒に「愛されるやう」努力する事ではない。生徒に迎合して愛されようと思つてゐる教師が、昨今はやたらに多いのだから、「愛される教師たれ」などと私は斷じて言ひたくない。  とまれ、さういふ次第で、僞善に耐へようとする事は生徒を利するばかりでなく、教師自身をも利するのである。おのれを體裁よく見せかけようとするだけの消極的な弱き僞善は、實はおのれを利する事にもならないが、生徒のためを思つての積極的な強き僞善は、教師自身にも努力を強ひるのであり、それは教師を利するのである。  教師は僞善に耐へねばならず、そのためには教へる事に情熱を持たなければならぬ。教師が情熱を持つてゐるかどうかは、所謂「落ちこぼれ」の子供にも解るのである。そして、情熱的な教師が本氣で叱つた場合、生徒は決して教師の僞善を咎めはしない。本氣で叱る情熱の見事に壓倒されて、教師の不完全には決して思ひ至らない。子供は尊敬の對象を求めてゐる。尊敬してゐる教師の缺點を知りたくないといふ氣持もある。それゆゑ、傾倒する教師が時に過つ事があつたとしても、クラス全體が教師を侮るなどといふ事は斷じて無い。山川均は『ある凡人の記録』に、同志社の教師だつた頃の柏木義圓についてかう書いてゐる。  私が一生涯に聞いた人間の言葉のなかで、柏木先生のほどトツ辯なのもないが、またそれほど熱誠のあふれたのもなかつた。聖書の講義のときの柏木先生のお祈りは、心から天の父に求める赤子の聲だつた。先生は、ハナ水が、開いた聖書の上に流れてゐるのにも氣づかずに祈りつづけてゐることが、しばしばだつた。私たちのクラスには、柏木先生よりも代數のよくできるのが一人ゐた。しかし、そのために先生にたいするクラスの尊敬は少しも變らなかつた。私は同志社を退學するとほんの少しのあひだ、山本と二人で、柏木先生の家庭でお世話になつてゐたが、先生夫妻の日常生活を見て、なるほどこれが聖徒の生活だなと思つた。私はそれまでも、またそれからも、貧しい人や貧しい家庭をいくらも見た。そして心から氣の毒に思つた。しかし柏木先生夫妻の貧しい生活には、氣の毒なと思はせられたり、同情やあはれみに似た感じをおこさせるやうなものは、少しもなかつた。この生活の苦しみからぬけ出さうとする焦躁のやうなものの、影さへもなかつた。私はほんたうの「清貧」といふものを、まのあたりに見たやうな感じがした。毎朝のミソ汁の中には、近くの小川の堤に生えてゐる小指くらゐのシノ竹のタケノコや、裏庭に自然に生えたタウの立つた三ツ葉が浮いてゐた。しかし私はそれをまづいとは思はず、イニスが割いてくれたパンを食べる敬けんな氣持で食べた。(傍點松原)  長い引用を敢へてしたのは、この山川均の文章が、教育について樣々な事柄を教へてくれるからである。まづ、「柏木先生よりも代數のよくできる」生徒がゐたにも拘らず、「先生にたいするクラスの尊敬は少しも變らなかつた」。それはつまり、義圓の情熱に生徒たちが壓倒されてゐたからに他ならない。代數の問題がうまく解けず、黒板を睨んで義圓先生は脂汗を流したかも知れないが、そんな時でも、生徒ははらはらして見守つてゐたに違ひ無い。代數の苦手な「落ちこぼれ」にも、義圓の情熱はひしひしと胸に應へたであらう。訥辯は教師にとつては不利な條件だが、義圓の場合、「熱誠のあふれた」授業だつたから生徒は悉く心服したのである。  次に考へるべきは、義圓の情熱が「心から天の父に求める赤子」としてのそれだつたといふ事である。義圓には仰ぎ見る「天の父」に對する篤い信仰があつた。これが肝腎なところだ。つまり、教師自身にも仰ぎ見るものが、尊敬の對象が必要なのである。尊敬の對象とは努力目標に他ならない。日本國は目下のところ「モラトリアム國家」だから、國家としての目標も定かではない。けれども、努力目標無くして人間はどうして努力するであらうか。  教師としての義圓について、もう一つ考へさせられる事がある。それは彼の「清貧」である。勿論、教師は清貧に甘んずべしなどといふ事が、私は言ひたいのではない。今時、そんな事がやれる筈は無いし、敢へてやつたなら、狂人か馬鹿か吝嗇坊と見做されるのが落ちであらう。けれども、現在の「生活の苦しみからぬけ出さうとする焦躁のやうなもの」を少しも感じさせない悠揚迫らざる生活ぶりを、讀者は見事だとは思はないか。「部長は俺の才能を認めてくれない」とか、「社長のやり方は非民主的だ」とか、さういふ類の愚癡を、サラリーマンは酒場でこぼす。教師も同じ事、不見識な奴は生徒の目の前で同僚の惡口を言ふ。讀者とて多少は身に覺えがあると思ふ。けれども、自分には到底義圓の眞似はできないと思つた讀者も、義圓のやうな見事な男がかつて存在したといふ事實を知つて、まさか不愉快にはなるまい。いや、義圓の眞似はできないが、眞似できたらすばらしからう、と思ふに相違無い。それでよいのである。それが大事なのである。  イギリスの詩人T・S・エリオツトは『カクテル・パーテイー』といふ見事な芝居を書いてゐるが、その劇でエリオツトの言はうとした事は、「僞者としての自覺を持つて生きよ。それもまた良き人生なのだ」といふ事であつた。僞者として生きる事がなぜ良き人生なのか。自分は所詮僞者でしかないとの自覺は、この世には本物がゐるといふ事實、或いはゐたといふ事實を知つてゐる者だけが持ちうる筈であり、それなら僞者たる事を自覺する事は、本物の存在を證す事になる、それは良き事ではないか。たとへ義圓のやうに生きる事はできなくても、義圓の眞似ができたら素晴らしからうと思ふ、それは良き事ではないか。義圓に肖りたいと思ふ時、吾々は背伸びをする。背伸びしてもなほ及ばぬと知れば、おのが怠惰と不徳を恥ぢるに相違無い。日本の文化は「罪の文化」ではなく「恥の文化」だとよく言はれるが、昨今はそれも頗る怪しくなつた。何しろ人品骨柄卑しからざる紳士が、電車の中で卑猥な劇畫週刊誌を眺め、一向に恥ぢない時代である。卑猥な春畫春本、笑ひ繪笑ひ本の類を眺める事自體に何の不都合も無いが、眺めて發情するおのが姿をなぜ人前に晒すのか。日本人から「恥の文化」を取り去つたら何が殘るであらう。知れた事、恥の何たるかを知らぬ畜生が殘る。畜生に堕ちても氣樂なはうがよいとは、讀者はまさか言はないであらう。  「狂人の眞似とて大路を走らば、則ち狂人なり。惡人の眞似とて人を殺さば、惡人なり。驥を學ぶは驥の類ひ、舜を學ぶは舜の徒なり。僞りても賢を學ばんを、賢といふべし」と『徒然草』第八十五段にある。至言である。吾々は「僞りても賢を學ばん」と努めねばならぬ。すなはち、吾々には肖りたいと思ふ「賢」が無くてはならず、肖らんとして及ばず、おのが不徳を恥ぢる事が必要なのである。そして恥を知る者は必ずおのが弱點を隱す。「どうせ俺はろくでなしさ」などと嘯く奴はろくでなしに決つてゐる。おのが劣情を隱さぬ奴は恥知らずに決つてゐる。さういふ手合は背伸びする事を斷念して氣樂になつた度し難き怠け者なのである。けれども、今は道義的怠惰の時代であつて、人々は他人の怠惰を許しておのが怠惰の目溢しを願ふ。背伸びをするのは辛い事だ、お互ひに無理はやめ、氣安く弱點を晒け出し、のんびり生きたらよいではないか、さういふ事になつてゐる。教師の場合も、尊敬される教師たるべく僞善に耐へようとするのは辛い事だから、上下を脱ぎ、おのが弱點を隱さず、生徒の喜ぶ事をやつてやればよい、さう考へて考へたとほりの事を實踐する奴もゐる。  以前、『週刊朝日』で讀んだ事だが、東京に立教女學院短期大學といふ學校があり、そこに村上泰治といふ教授がゐるさうである。村上教授は毎週金曜日、「愛と性のゼミ」と稱する授業をやつてゐる。すなはち、教授は女子學生に對して「ペツテイングは必要か」とか「皆さんはどういふ時に性欲を感じますか」とか質問する。そして、「私つてをかしいんです。この前、犯された夢を見て」云々と女子學生が告白すると、「男の場合はね、人爲的でありまして、夢精なんてのもあります」などと得意げに解説してやるのださうである。小中學校の教師と異り、大學の教師は免許状を必要としないし、採用試驗も無い。それゆゑ、時に途方もない山師が潛り込む。村上教授の場合がそれではないかと思ふ。言語道斷の愚にもつかぬ授業を樂しんでゐる村上教授は、およそ教師の風上におけぬ月給泥棒だが、さういふ山師の授業に、「十六人の定員のところ、百人以上が殺到する」立教女學院短期大學とは、これはさて何と評すべきか。往事、娼婦の置き屋でも、さまで淫靡な猥談は聞けなかつたであらう。  村上教授は『週刊朝日』の記者に教育觀を問はれ、教室では「緊張や隱しだてなく話ができることが大切」だと語つてゐる。「盜人にも三分の理あり」とはこの事だ。とんでもない事である。村上教授は女子學生に迎合し、共々恥を捨て、互ひに許し合ふ事によつて氣樂な商賣をやつてゐるに過ぎない。「緊張」や「隱し立て」はともに教師にとつての美徳なのである。暴力を揮ふ事と性行爲を樂しむ事は馬鹿にもできる。馬鹿にもできる事を「緊張」も「隱し立て」もせずに喋る教授の馬鹿話を樂しみ、それで單位が取れ、學士になれるのだから、「十六人の定員のところ、百人以上が殺到」する事に不思議は無い。けれども、村上教授の授業を一年間聴講しても、馬鹿はやつぱり元通りの馬鹿であらう。「上智と下愚は移らず」、死ななければ治らない馬鹿も確かにゐるだらうが、「緊張」せずして氣樂にしてゐたら、馬鹿はいつまで經つても馬鹿ではないか。  無論、人間は常に緊張してゐる譯にはゆかぬ。時に氣樂になり、羽目を外す事も必要である。けれども、それも時と場合によりけりであつて、教師は生徒の面前では「緊張」してゐなければならない。緊張してこちこちになれと言ふのではない。時に冗談を言ひ生徒を笑はせる事も必要である。が、生徒の劣情を刺戟したり、おのが弱點を晒したりしてはならぬ。教場で私事を語り、生徒に親しみを感じさせようなどと考へてはならぬ。薄給を嘆いたり、若かりし頃の過ちについて語つたりするがごときは言語道斷である。教師はおのが缺點を隱し、僞善に耐へ、本氣で生徒を叱り、私事を語らずして、おのれが肖りたいと思つてゐる偉大な人物について、熱心に語るべきである。例へば、先に引いた山川均の文章を生徒に讀んで聞かせるがよい。以後、教師はぐうたらな授業をやれなくなる。斷じてやれなくなる。そしてそれは、生徒にとつてと同樣、教師にとつても良き事ではないか。  さて、ここでなほ、色氣づいた息子や娘に親はいかに對處すべきかと、讀者は問ふであらうか。教師と親とは勿論違ふ。子供にとつて教師は所詮他人だが、親は血を分けた間柄である。これを要するに、親は教師と異り、子供との距離を保ち難いといふ事だ。それに、教師は高々數年間、特定の年齢の子供を扱ふだけでよいが、親は赤子の時から成年に達するまで、いや、どちらか一方が死ぬ時まで附合はねばならぬ。それゆゑ、子供の成長に應じて、附合ひ方は當然變へてゆかねばならぬ。  家庭教育についてここでは詳しく論じない。が、學校教育も家庭教育も本質的には同じ事なのである。教師について縷々述べた事は、そのまま親にも當て嵌る。親もまた隱さねばならず、情熱を持たねばならず、僞善に耐へねばならず、肖りたいと思ふ人物を持たねばならぬ。たとへおのれに至らぬ所は多々あつても、さうして「僞りても賢を學ばん」と努め、一所懸命に生きてゐるならば、息子や娘が色氣づいたくらゐの事で、慌てるには及ばない。放つておけばよい。親が一所懸命生きてゐるなら、子供は必ずそれを見習ふ筈である。例へば、倒産を食ひ止めようと日夜惡戰苦鬪してゐる父親を見てゐたら、父親が子供にかまけず、眼中に置かぬとしても、決して非行になんぞ走りはしない。  以上、頗る卑近な事柄について私は考へて來た積りである。道徳とは頗る卑近な事柄なのであつて、「道は近きにあり」と孟子も言つてゐる。けれども卑近な事柄ではあつても、氣樂にしてゐて片のつく事柄ではない。「事は易きにあり」とは言へない。しかるに屡々述べたごとく、易きにつくのが人の常とは言ひながら、吾々は今やあまりにも怠惰に堕してゐる。教育についても、人々は安くて甘い特效藥ばかりを求めるのである。だが、「安からう惡からう」といふ事があり、「樂あれば苦あり」といふ事があり、「良藥口に苦し」といふ事もある。教育とは詮ずるところ道徳の問題に他ならないが、道徳的に振舞ふのは難き事なのだから、道徳について考へる事もまた難事であつて不思議は無い。  教育に限らず、この世の人間の營みについて、卑近な事柄について、吾々は深く考へねばならぬ。一見迂遠のやうに見えてそれこそは、難局に臨んだ際、何よりも物を言ふのである。國家も個人もいづれは必ず難局に差し掛かる。そして「難に臨んで兵を鑄る」のは愚かしい事だ。金儲けの才に惠まれ、順風に帆をあげ得意滿面、道化て世を渡つたとしても、吾々はいづれ必ず死ぬのである。それも例へば老衰のやうに、安樂に死ねるとは限らない。往生際に吾々は、「苦しい、死にたくない」と叫び、家族や友人を困惑させ、見苦しい惡足掻きの果てに死ぬのであらうか。それとも最後まで他人への思ひやりを捨てず、從容として死ぬのであらうか。  永井荷風の傳へるところによれば、荷風が病床の森鴎外を見舞つた時、鴎外は死の床に横たはり、袴を穿き、兩腰にぴつたり兩手を宛ひ、雷のごとき鼾をかいてゐて、枕頭には天皇皇后兩陛下からの賜り物が置いてあつたといふ。「一センチほどの綿ボコリ」の積つた六畳間の萬年床で、鍋、茶碗、庖丁、七輪などに取り圍まれ、ただ一人血を吐いて死んでゐた荷風とはまさに對照的だが、鴎外は幼少の頃から、「侍の家に生れたのだから、切腹といふことができなくてはならない」と常々言ひ聞かされて育つたのである。鴎外が大正二年に書いた『阿部一族』にかういふくだりがある。主君の跡を追つて殉死する決心をした内藤長十郎は、家族と最後の杯を取り交してから、少し晝寢をするのだが、そこのところを鴎外はかう書いてゐる。  かう云つて長十郎は起つて居間に這入つたが、すぐに部屋の眞ん中に轉がつて、鼾をかき出した。女房が跡からそつと這入つて枕を出して當てさせた時、長十郎は「ううん」とうなつて寢返りをした丈で、又鼾をかき續けてゐる。女房はぢつと夫の顏を見てゐたが、忽ち慌てたやうに起つて部屋へ往つた。泣いてはならぬと思つたのである。  家はひつそりとしてゐる。(中略)母は母の部屋に、よめはよめの部屋に、弟は弟の部屋に、ぢつと物を思つてゐる。主人は居間で鼾をかいて寢てゐゐ。開け放つてある居間の窓には、下に風鈴を附けた吊葱が吊つてある。その風鈴が折々思ひ出したやうに微かに鳴る。その下には丈の高い石の頂を掘り窪めた手水鉢がある。その上に伏せてある捲物の柄杓に、やんまが一疋止まつて、羽を山形に垂れて動かずにゐる。  見事な文章である。かういふ假定は馬鹿らしき限りであり、鴎外を冒涜する樣なものだとさへ思ふが、右の文章を例へば宇能鴻一郎氏の文體で書いたら一體どういふ事になるか。もうこの邊で終りにしたいから、詳しい説明はしないが、鴎外は殉死を闇雲に禮讃してゐるのではない。けれども一方、『阿部一族』における鴎外は殉死の不合理を批判してゐるなど主張するのもつまらぬ解釋だと思ふ。鴎外は背伸びをしてゐるのだ、内藤長十郎に肖らうとしてゐるのだ。それゆゑ鴎外は決して文章を等閑にしなかつた。そしてそれは、人生を等閑にしなかつたといふ事に他ならない。 2 まづ徳育の可能を疑ふべし  日本人は「和を以て貴しと爲す」民族だとよく言はれる。が、それは昔の事で、今は「馴合ひを以て貴しと爲す」民族だと私は思つてゐる。吾々は互ひに許し合ひ、徹底的に他人を批判するといふ事をしない。許すとは緩くする事だが、他人に緩くして、おのれも緩くして貰ひたがるのである。  今や吾國は許しつ許されつの弱者の天國である。「すみません」の一言で、既往は咎めず、一切は水に流される。それゆゑ、ぐうたらを憎む者は必ず嫌はれる。必ずしも憎まれはしないが必ず嫌はれる。そして憎まれないのに憎むのは、憎まれて憎む以上の難事である。かくて「顏あかめ怒りしことが、あくる日は、さほどにもなきをさびしがるかな」といふ事になる。これは石川啄木の歌である。啄木はまたかう歌つてゐる、「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ、花を買ひ來て、妻としたしむ」。何ともやり切れないほど慘めな歌である。友がみな偉く見えるのなら、友を蹴落してでも偉くなつてやらうと考へたらよい。けれども、かういふ事を書けば皆に嫌はれる。嫌はれたくないのなら、啄木の如くわが身をあはれがり、妻を愛撫して寂寥を慰める歌を詠むに如くはない。徹底的に憎む事も憎まれる事もなく、何事も許し合ふ微温湯さながらの社會では、自分で自分をあはれむこの種の腑甲斐無い歌ばかりがやたらに流行るのである。  日本は許しつ許されつの愚者の樂園である。それゆゑ私は「世代の斷絶」といふ事をそのままには信じない。今や日本人は道義心を失ひ、何を善とし何を惡とするかの基準はもはや定かでなく、そのため「あれをしてはいけない、これはしてはいけない」といふやうな事を、親や教師は子供に言へなくなつたといふ。親にとつて自明の常識も今の子供にはまるで通用せず、ために親も教師も大いに困惑してゐるといふ。だが、實際は親も教師も口で言ふほどは困つてゐない、私にはさうとしか思へぬ。今、大人と子供の間に斷絶があるのなら、昔もそれはあつたのだし、昔それが無かつたのなら、今も無いのである。「和を以て貴しと爲す」のは日本人の度し難い本性で、敗戰くらゐの事でそれが變る筈は無い。それゆゑ何事も「ドライに割切る」といふ當節の子供もまた、許し合ひの快を知つてをり、親や教師から「あれはしてはいけない、これはしてはいけない」と言はれても、なぜそれをしてはいけないのかと執拗に食ひ下り、大人を理責めにするといふやうな不粹な事をやる筈が無い。この許し合ひの天國では、物事の善惡を突きつめて考へる必要など少しも無いからである。  日本人には罪惡の問題を識別する能力が「缺けているか、でなければ幼稚」であり、また「この難問題を解くことにある程度の氣のりなさを示している」とかつてジヨージ・サムソンは言つた(『日本文化史』福井利吉郎譯)。イギリス人からすれば日本人は「氣のり」しないやうに見えるのだらうが、日本人からすれば、善惡を突きつめて考へ、倫理的難問と惡戰苦鬪して、間缺的に殺し合ひまでやらかす西洋人は馬鹿か狂人に見える。資源さへ充分にあれば一刻も早く再び鎖國して、和よりも正義を尊ぶ愚かな狂人との附合ひをやめたはうがよい、私もさう思はぬではない。が、もとよりそれは出來ない相談である。とすれば、西洋人の愚昧と狂氣を嗤つてもゐられない。  しかるに、日本の大方の教育論は、倫理的難問と惡戰苦鬪する事が無い。かつて『中央公論』に書いた通り、苦しげな事を言ふ時も教育評論家は決して本氣ではない。それは教育論の文章が裏切り示してゐる。つまり大方の教育家は人間が矛盾の塊りである事を本氣で氣に懸けない。彼等が安つぽい僞善者なのは、してみれば當然の事である。彼等は「絶對的ではあるが架空の善の海を樂しげに航行する」。これはギユスタヴ・テイボンの言葉だが、T・S・エリオツトは教育論の第二章を閉ぢるにあたつて、シモーヌ・ウエーユを論じたテイボンの文章を引いてゐる。それを以下に孫引きする事にする。  絶對的な善を追求する精神は、この現世では、解決の無い矛盾に直面する。「吾々の人生は不可解であり、不條理なのだ。吾々が意志するすべての事柄は、状況やそれに附隨する結果と矛盾する。それは吾々自身が矛盾せる存在、すなはち被造物に過ぎないからである」。例へば子供を多く産めば人口過剩と戰爭を招來する(その典型的な例が日本である)。人々の物質的條件を改善すれば、精神的退廢を覺悟しなければならない。誰かに心底打ち込めば、その誰かに對して生存するのをやめる事になる。矛盾が無いのは想像上の善だけである。子供をたくさん産みたいと考へる娘、民衆の幸福を夢みる社會改良家、さういふ人たちは實際に行動を起さぬ限り何の障害にも出交さない。彼等は絶對的ではあるが架空の善の海を樂しげに航行するのである。現實にぶつかる事、それが覺醒の第一歩なのだ。  誰か他人に心底打ち込んで、おのれのエゴイズムを根絶した積りでも、必ずしもそれは他人のために生きる事にはならないのである。例へば男が女を激しく愛するやうになつたとして、男はいかやうの自己犧牲をも厭はぬやうになるか。何事も女の言ひなりになるか。そして、何事も女の言ひなりになつたとして、さういふ男に女はいつまでも魅せられるか。さらにまた、かういふ事もある。女が或る男に夢中になれば、女は當然男の時間と心と肉體を專有したいと考へる。その場合、男が自我持たぬ腰拔けならば問題は無い。けれども通常、女が男のすべてを獨り占めしようとすれば、そして獨り占めできぬ事に苛立つならば、その時女は男のために生きてはゐない譯であつて、男も當然その事に苛立つやうになるに違ひ無い。  昨年、東京世田谷區の高校生が祖母を殺して自殺した。が、彼は犯行の動機や計畫を克明に記したノートを殘してゐる。それにはかう書いてあつた。「祖母の醜さは私への異常に強い愛情から來ている。私の精神的獨立を妨害し、自分の支配下に置こうとする。祖母は私のカゼ藥の飮み具合を錠劑を數えてチエツクする。夜食、いちいち運んで來るのが耐えられない。眠つてからフトンがずれていないかのぞきにくる。私が怒つたとき、祖母はうす笑いを浮かべ“あなたのためを思つて”という言葉を武器にする。このままでは進學、就職、結婚すべてが祖母に引きずられてしまうのではないか」。  くだくだしい解説は要るまい。祖母は孫を一心不亂に愛してゐたのだらうが、それは孫の「ためを思つて」生きた事にはならなかつたのである。孫に對する「異常に強い愛情」は孫を「自分の支配下に置こうとする」エゴイズムであり、一方、孫はおのれのエゴイズムを棚上げしてその醜さを憎んだ譯である。それはまさしく地獄の體驗だつたに違ひ無い。そして私にはそれは餘所事とは思へない。同じ状況に置かれれば、十六歳の私は同じやうに行動したかも知れないと思ふ。  ところで、この十六歳で愛憎の地獄を體驗した高校生は大衆の愚昧に苛立ち、自分の犯行は「大衆のエリート批判に對するエリートからの報復攻撃」だと書いてゐる。十六歳にふさはしい粗雜な論理ではあるが、要するに彼は「人を殺してなぜ惡いか」と開き直つてゐるのである。そして「人を殺してなぜ惡いか」といふ問ひは、最大の倫理的難問であつて、古來偉大な思想家は必ず一度はこの難問と苦鬪した。拙文の讀者の中には教師もゐようが、祖母を殺す前日、生徒がこの問ひを突き附けて來たら教師はどうしたらよいか。もとより頭の惡い子供も人を殺す。さういふ子供は見捨てたらよい。が、頭のよい子供に「人を殺してなぜ惡い」と反問されて「殺人は惡だ、解り切つた事ではないか」としか答へられぬとすれば、さういふ教師は立派な教師ではない。殺人が惡だといふ事は、決して解り切つた事ではない。自明の理ではない。そして立派な教師とは、まづ何よりも世間が自明の理と考へてゐるものを徹底的に疑つた事のある教師だと、私は思つてゐるのである。  例へば、教育を論じて人々は教育の有用を自明の理と考へてゐるであらう。自明の理と考へて、それを疑つてみた事が無いであらう。無論、てにをはや掛け算は教へられ、それは確實に有用である。けれども、徳は教へられるのか。徳目を教へれば、教へられた生徒は人を殺すのをやめるのか。さういふ事を教育論の筆者も教師も少しも考へてゐないではないか。英語の教師なら分詞や動名詞の用法を教へられるであらう。が、「人を殺してなぜ惡い」と少年に開き直られたら、英語の教師は一體何と答へたらよいのか。殺人を惡とする常識を否定する小惡魔に、「殺人は惡だ、そんな事は解り切つてゐる」としか答へられぬやうな常識的な教師がどうして太刀打ちできようか。綺麗事を竝べ立て、小惡魔に嘲弄されるが落ちである。けれども、眞の教師なら、殺人を惡と言ひ切れぬゆゑんを説いて、小惡魔を壓倒する事ができる。「人を殺してなぜ惡い」と非行少年に開き直られたら、安手の道義論では到底齒が立たない。その場合はまづ「殺人必ずしも惡ならず」と答へねばならぬ。が、さう答へられる教師は殆どゐないであらう。なぜなら、さう答へるためには、殺人を惡とする常識を徹底的に疑つた體驗が無ければならないが、僞善と感傷の教育論ばかりが氾濫し、善惡といふ事を徹底して考へぬこの許し合ひの樂園では、教師や物書きがさういふ體驗をする事はまづ無いからである。けれども、ほんの一寸疑つてみればよい、殺人を惡とする常識は實に呆氣無く覆る。人を殺す事は惡いか。惡い。では、惡い人を殺す事も惡いか。それも同じく惡いと言ふのなら、死刑は廢止しなければならぬ。そればかりではない、例へば毛澤東は、モスクワ發表によれば二千五百萬人を肅清したといふ。毛澤東自身が認めてゐるのは八十萬人であつて、一九四九年の共産黨政權樹立後、一九五四年初頭までに八十萬人を肅清したといふ事になつてゐる。八十萬人で結構である。八十萬人を殺す事は惡い事なのか。毛澤東が肅清したのはすべて惡い人々だつたのである。正確に言へば、毛澤東によつて惡いと判定された人々だつたのである。そして、その八十萬のすべてが本當に惡い人だつたかどうかを、神ならぬ身の誰が知らうか。  けれども、今はこの問題に深入りしない。深入りしてほしいと思ふ讀者がゐる事を私は信じてゐるが、これはここで深入りできぬ程重大な問題なのである。いづれ私は「戰爭論」を書くつもりなので、そこで徹底的に論じようと思つてゐる。とまれ、それは例へばドストエフスキーが徹底的に考へた問題だが、日頃からさういふ事を考へて考へあぐねてゐる教師なら、「人を殺してなぜ惡い」と生徒に開き直られたくらゐで驚きはしない。教師は生徒の知能に應じ見捨ててもよいし、見捨てずして共に人を殺す事についてとくと考へるもよい。祖母を殺した少年はドストエフスキーを讀んだ事が無かつたらしいが、彼がもし『罪と罰』を讀んだならば、十九世紀のロシアに大天才がゐて、自分と同じやうな(實は兩者の懸隔は甚だしいが)苦しみに耐へる作中人物を創造した事を知つた筈である。そして、自分を救はうと惡戰苦鬪した人間だけが他人を救へるのかも知れず、ドストエフスキーは或いは少年を救へたかも知れない、と私は思ふ。  勿論、人を殺してなぜ惡いといふ問題にドストエフスキーが決定的な解答を與へてゐる譯ではない。けれども、大天才も苦しんだと知れば、少年は少々氣が樂になつたかも知れぬ。さうして少々氣が樂になつたところで、教師は例へば次のやうな文章を少年に讀ませる事ができよう。  幸福は、われわれが何かをしないことにかかつてゐる。ところがそれは、われわれがいつ何時でもやりかねない事であつて、しかも、なぜそれをしてはならぬのか、その理由はよく解らない事が多いのだ。(中略)例へば、粉屋の三番目の息子が妖精に向つてかう聞くとする──「何だつて妖精の宮殿で逆立ちしてはいけないのですか。その理由を説明して下さい」。すると妖精はこの要請に答へて、まことに正當にかう言ふだらう。「ふむ。そんな事を言ふのなら、そもそもなぜ妖精の宮殿がここにあるのか、その理由を説明して貰はう」。或いはシンデレラが聞いたとする──「どうして私は舞踏會を十二時に出なければならないのですか」。魔法使ひは答へる筈だ──「どうしてお前は十二時までそこにゐるのだい」。  これはG・K・チエスタトンの文章なのだが、「なぜ人を殺してはいけないのか」と少年に問はれたら、チエスタトンの妖精なら何と答へるだらうか。教師はそれを少年に考へさせたらよい。勿論、妖精はかう答へる筈だ。「ふむ。そんな事を言ふのなら、そもそもなぜお前がこの世にゐるのか、その理由を説明して貰はうか」。つまり、教師は少年にかう語つたらよいのである。人間の幸福は何かをしない事にかかつてゐる。が、お前は祖母を殺したいと言ふ。それなら「なぜ殺していけないのか」などと言はず、今夜にも殺したらよい。けれども、殺すための理由をどうしても必要とするのなら、殺すのは少し先に延ばして、なぜ人を殺してはいけないのかといふ事について徹底的に考へてみたらどうか。さうすれば、チエスタトンの言ふ通り、この世には殺していけない理由に限らず、よく解らない事がたくさんあるといふ事が解るだらう。例へば、なにゆゑに或いは何の爲に自分はこの世にゐるのかと、お前はさういふ事も解つてゐないではないか。  けれども、さういふ問答によつて教師が生徒を救へるなどと私は言つてゐるのではない。死ななければ癒らないやうな馬鹿はゐるし、それに何より、人間に果して人間が救へるものか、それが甚だ疑はしいからである。サマセツト・モームに『雨』といふ短篇がある。あばずれ娼婦を改悛させようとして、改悛させた途端に娼婦に反對給付を求め、つまり娼婦の肉體に手を着け、娼婦に罵倒されて自殺する牧師の話である。けれども、娼婦トムソンを救へなかつたのはデイヴイドソン牧師だけではない。反對給付を求めなかつた温厚なマクフエイル醫師も救へはしなかつたのである。「彼らを捨ておけ、盲人を手引する盲人なり、盲人もし盲人を手引せば、二人とも穴に落ちん」とイエスは言つた。人間が人間を救はうとする事は、盲人が盲人を手引きするやうなものである。ルターは人間の本性は惡だと信じ、人間は自らの意志で善を選ぶ事が決して無いと考へてゐた。自らの意志で善を選ぶ事が無い人間を、自らの意志で善を選ぶ事の無い人間がどうして救へようか。さういふ度し難い人間を全能なる神は救へるかも知れないが、ルターの言ふとほり、その際の神の知惠と正義は人間の理解を絶するものであらう。ルターは『奴隸意志論』の中にかう書いてゐる。  このようにして人間の意志は、いわば神と惡魔との中間にいる獸のようなものである。もし神がその上に宿れば、神の意志のままに意志し、動くであろう。あたかも詩篇が「われ聖前にありて獸にひとしかりき。されどわれ常に汝と共にあり」とのべているように。もし惡魔がのり移れば、惡魔の意志のままになる。どちらの乘り手のほうへ走るか、またどちらを求めるかはかれ自身の意志の力にはなく、乘り手自身がそれをとらえようと爭うのである。  つまり、かういふ事になる。「人を殺してなぜ惡い」と反問する少年の「上に神が宿れば」、少年は祖母を殺さないが、「惡魔がのり移れば」彼は殺すしかない。そして、ルターの考へでは、少年を神が捕へるか惡魔が捕へるかは少年自身の意志の及ばぬ領域で決定されるのである。ルターの考へが正しいとすれば、誰も少年を救ふ事ができない。が、それなら、教育とは所詮骨折り損のくたびれ儲けではないか、といふ事になる。  ルターは激しい男で、病的なほど良心にこだはつた。『奴隸意志論』はエラスムスに反駁すべく書かれたものである。人間に自由意志ありや否やをめぐるこの有名な論爭について、私はここで深入りしないが、要するに、エラスムスに與すれば神の助力を必要とせぬ人間の偉大を強調してやがて神を殺す事となり、ルターに與すれば神に縋らざるをえぬ人間の悲慘を強調してやがて人間を神のロボツトと見做す事になる。テイボンならばこの矛盾は「辛いものながらそのままに受け入れなければならない」と言ふであらう。けれども私は、ここではルターに與する。吾々人間を神が捕へるか惡魔が捕へるか、それは吾々の意志と無關係だとするルターの主張は、教育の有用を信じ切つて「架空の善の海を樂しげに航行」する手合に痛棒をくらはすために效果的だし、それに何より人間に人間は救へないと私は考へるからである。それゆゑ、人間にやれるのは知育だけだと私は思つてゐる。徳育なるものを私は一切信じない。教育勅語もそのままには信じないが、日教組の「教師の倫理綱領」にいたつては傍痛い。人間は事のついでに、うつかりして、つい善行をやるに過ぎず、意識的な徳育などやれる筈が無いのである。それゆゑ、徳育は無用の事である。有用かも知れぬのは知育だけである。日本の教育は知育偏重で徳育不在だと言はれるが、とんでもない事であり、不在なのは知育なのである。吾國で行はれてゐるのは無味乾燥で生氣の無い詰込み教育であり、眞の知育の持つ思考の徹底を缺いてゐる。知育に徹すれば、いづれ必ず惡魔に出會ふ。惡魔に出會つて、人間が人間を救へるかとの難問にたぢろぐやうになる。けれども、吾國ではその種の知育は行はれてゐない。本年三月六日付のサンケイ新聞に市村眞一氏は書いてゐる。  ここ三十數年間、わが國のジヤーナリズムの上で人氣のあつた思想や評論の流れには、顕著な一つの特色がある。それは「直線的思考」とでもいうべきものである。しかしそのような單細胞型の割り切り方では、現實の世界に對處できぬことは、つぎつぎに明らかになつてきた。(中略)そもそも多少でも思想哲學の歴史を學び、政治經濟史の記憶を喪失しなければ、ここに述べたような單細胞型の直線的思考におちいることはない筈である。それにもかかわらず、どうして同じような型のあやまちを繰り返すのかがむしろ不思議である。わが國のジヤーナリストのなかには、漱石の『坊つちやん』のように「世の中に正直が勝たないで、ほかに勝つものがあるか、考えてみろ」と割り切りたい單純・類型化・率直への希望的觀測が支配しているのであろうか。  市村氏のやうな學者だけが大學で教鞭を取つてゐるのではない。「直線的思考」を挫折せしむるほどまでに徹底した知育は大學では殆ど行はれてゐないのである。それゆゑ大學生は考へる習慣を失つてゐる。勿論、高校生も考へない。受驗勉強とは專ら記憶力に頼る勉強である。それゆゑ高校生は考へない。考へても仕樣が無い。  私は最近高校で用ゐられてゐる倫理・社會の教科書を覗いて仰天した。そこには何とソクラテスからサルトルまでの西歐の哲學者についての「豆知識」が詰込んである。高校ではそれを一年で教へるのである。私は仰天し、ついで倫理・社會を教へる教師の情熱を疑つた。ソクラテスからサルトルまでを一年で教へる、それは曲藝以外の何物でもない。そのやうな曲藝を強ひられながらそれに耐へてゐる教師の誠實を私は疑はずにはゐられない。  けれども、責任の大半は實は大學が負はねばならないのである。これは倫理・社會の教師ではないが、大阪明星學園で日本史を教へてゐる福田紀一氏は、「大學側は、こちらが力を入れて解説したようなことは、めつたに出してくれない」と言ひ、次のやうに書いてゐる。  入試の合否を決めるのは、無學祖元はだれの保護を受けたかとか、解脱房貞慶は何宗か、といつた、本來枝葉ともいうべき小さな知識であり、すなおに授業を受けていればいるほど面くらうような問題が、合否を左右することになる。授業をしていても受驗問題を考えると、空しい氣持ちになつてくる。(『おやじの國史とむすこの日本史』)  福田氏の言ふ事は間違つてゐない。けれども、受驗本位の詰込み教育にはもつと大きな弊害がある。例へば、今年の國立大學共通一次試驗において、受驗生はセネカ、ポンペイウス、プロタゴラス、アリストテレス、アイスキユロス、アリストフアネス、カエサル、エラトステネス、トウキデイデス、及びアウグステイヌスの中から「ヘロドトスと同樣に戰史ないし戰記を書き殘した」人物を二人選ぶ事を求められてゐる。正解は無論カエサルとトウキデイデスである。けれどもこの種の問ひに正しく答へるためには、高校生はトウキデイデスの『戰史』を讀む必要は無い。いや讀んではいけない。讀んだら確實に入試に失敗する。それゆゑ高校生は讀まないし、高校の教師も多分讀まない。高校生も教師も、「ペルシア戰爭後アテナイが繁榮するが、ペロポネソス戰爭を契機に個人主義的な風潮が強くなつて、ギリシア世界は分裂し、ヘレニズム時代を迎へ」たが、トウキデイデスといふ男は、そのペロポネソス戰爭の歴史を書いたのだと、それぐらゐの事を記憶しておけば充分なのである。が、實際にトウキデイデスの『戰史』を讀むならば、高校生は確實に惡魔に出會ふ。例へば『戰史』卷五、所謂「メロス島對談」において、強者アテナイは弱者メロスに弱肉強食の理を説いて憚る事が無い。少しく引用しよう。 アテナイ側「われらの望みは勞せずして諸君をわれらの支配下に置き、そして兩國たがひに利益をわかちあふ形で、諸君を救ふことなのだ」 メロス側「これは不審な。諸君がわれらの支配者となることの利はわかる、しかし諸君の奴隸となれば、われらもそれに比すべき利が得られるとでも言はれるのか」 アテナイ側「しかり、その理由は、諸君は最惡の事態に陷ることなくして從屬の地位を得られるし、われわれは諸君を殺戮から救へば搾取できるからだ」  メロスはラケダイモンの植民地である。それゆゑメロスは、必ずやラケダイモンが「救援にやつて來る」と信じてゐる。「植民地たるメロスを裏切れば、心をよせるギリシア諸邦の信望を失ひ、敵勢に利を與へることになる。ラケダイモン人がこれを望まうわけがない」とメロスは言ふ。が、アテナイは冷やかに答へる、「援助を求める側がいくら忠誠を示しても、相手を盟約履行の絆でしばることにはなるまいな。求める側が實力においてはるか優勢であるときのみ、要請は實を稔らせる」。  會談は決裂し、戰端が開かれ、メロスは降服し、アテナイは逮捕したメロス人の成年男子全員を死刑に處し、女子供を奴隸にした。今から二千四百年も昔の話である。けれどもロケツトが冥王星に達する時代になつても、地上におけるこの種の弱肉強食の爭ひは跡を絶たないであらう。カンボジアはヴエトナム正規軍の侵掠を受け、首都プノンペンは本年一月七日に陷落した。ポルポト政權は一月三日、國聯安全保障理事會に提訴したが、理事會の審議が始まつたのは十一日であつた。そしてカンボジアからの「外國軍隊の即時撤退」を求める決議案は、ソ聯の拒否權によつて潰されたのである。要するに、國際輿論を代表する筈の國聯も、インドシナ半島における弱肉強食の現實を前にしては全く無力であつた。そして二千四百年前のメロスと同樣、カンボジアは中國の支援を當てにしたのだらうが、中國は直ちに軍事介入に踏み切る事はしなかつたのである。「援助を求める側がいくら忠誠を示しても、相手を盟約履行の絆でしばることにはなるまい」とアテナイは言つた。アメリカの核の傘の下にゐる日本が「いくら忠誠を示しても」、アメリカを「盟約履行の絆でしばることには」ならない。マツクス・ウエーバーは「政治家は惡魔の力と契約する」と言つたが、それなら「條約は破られるためにある」。そしてそれが國際政治の現實なのである。  すでに明らかであらうが、トウキデイデスを讀むといふ事は、さういふ惡魔の力と契約せざるをえない人間の現實の姿についてとくと考へる事なのであり、高校時代にそれをとくと考へたら、大學生になつて單純幼稚な正義感などに醉拂へる筈が無い。角材やヘルメツトで武裝して與太を飛ばせる筈が無い。いや、劇畫雜誌を愛讀し、女の尻を追ひ、麻雀に凝つて、虚ろな毎日を過ごす筈も無いのである。けれども、高校生はトウキデイデスを讀まない。そして高校時代に讀まないものを、遊園地と化してゐる大學に入つて讀む筈が無い。かくて高校、大學を通じて日本の若者は惡魔と無縁の教育を受け、やがて自分が教師になつて惡魔と無縁の教育を施す。どう仕樣も無い惡循環なのである。  明治時代、小崎弘道は『政教新論』の中に次のやうに書いた。  世の學者は徳行は教訓し得べしと爲し教育さへ盛にすれば人の品行は正しくなり、風俗は敦厚になると思惟する者多けれども是れ全く人生の根底に達せず、杜會の實情を詳に知ざるより起るの誤謬にして實際に適用し難き一場の空談たるに過ぎざるなり。抑人の善を爲さずして惡を爲すは善の爲すべくして惡の爲す可らざるを知らざる故歟。(中略)若し人の善を爲さずして惡を爲すの原因果して知識の不足に在りとせば、身を修め人を善に導くの容易なるは勿論、善を爲さず惡を爲す人今日の如く多からざるべし。  要するに小崎は「徳は教へられるか」と問うてゐるのである。「徳は教へられるか」とソクラテスも屡々問うた。徳は教へられるか。徳が知識なら教へられる。が、教へるには教師が必要である。では、徳の教師はゐるか。ゐない。ゐる筈が無い。それゆゑ徳は教へられない。ソクラテスはさう考へる。かういふソクラテスの考へについては、プラトンの『メノン』や『プロタゴラス』に詳しいが、詮ずるところ徳は教へられず、「人の善を爲さずして惡を爲すの原因」は「知識の不足」のせゐではないとすると、徳育は無用の事で、教育がなしうるのは知識の傳達だけといふ事になる。それでよいのだし、昔からさうだつたのである。周知の如くトウキデイデス以來二千四百年、科學は長足の進歩を遂げた。それはつまり知識の傳達を事とする「知育」の勝利に他ならない。けれども、徳育において、ソクラテスの言ふ「魂の世話をする事」において、人間は少しも進歩してゐないのである。例へばヒポクラテスは神聖病すなはち癲癇について「腦の破壞は粘液によるほか、膽汁によつてもおこる」と書いてゐるが、今日この説を承認する精神科醫は一人もゐないであらう。けれども醫者の心得を説くヒポクラテスの次の文章は、今日そのまま通用するのである。  あまり不親切なやり方はしないように勸めたい。患者には餘分の財産があるのか、また生計の資力があるのかを考慮に入れるがよい。そして、ばあいによつてはかつて受けた恩惠や現在の自分の滿足な状態を念頭において、無料で施療するがよい。(中略)人間に對する愛があれば技術に對する愛もあるからである。(小川政恭譯)  ヒポクラテスは醫は仁術だと言つてゐるのではない。醫者が少々不親切になるのはやむをえないが、不親切の度が過ぎぬやうにせよ、「無料で施療」するのは時と場合による、と言つてゐるのである。  けれどもここで、「人の善を爲さずして惡を爲すの原因」が「知識の不足」のせゐでないのなら、徳育のみならず知育も空しいではないかと反論する向きもあらう。だが、人間は「善を爲さずして惡を爲」したいと常に思つてゐるといふ事實をまづ認めるべきだと私は言つてゐるのである。そして、それを認めさせるのは、度し難き馬鹿が相手ならばともかく、常に可能な事であつて、そのためには知育一本槍でよい。さういふ知育が眞の知育なのだ。つまり、善の無力、徳育の無力について徹底的に考へる、それが眞の知育なのである。そしてそれは吾國では行はれてゐない。善の力を稱へる僞善的教育論が横行するのは當然の事だと思ふ。  ところで、右に引いたヒポクラテスの考へを、メルヴイルに倣つて私は「道徳的便宜主義」と名附けようと思ふが、二十世紀の醫者もヒポクラテスの忠告に從つて行動してゐる筈であり、とすれば古代ギリシア以來人間の「どうにもならぬ本性」は少しも變つてゐないといふ事になる。小崎弘道の言ふ通り、「人の善を爲さずして惡を爲すの原因」は「知識の不足」のせゐではない。今日、醫學的知識は豊かになつたものの、醫者と患者との人間關係は古代ギリシアのそれと變らず、大方の醫師は出來る事なら「善を爲さずして惡を爲」したいと考へてをり、時に善をなすとしても「技術に對する愛」に盲ひて、事のついでになすか、さもなくば有徳なる醫師と見做される事を處世術上の「便宜」と考へての事か、そのいづれかであらう。醫者に限らない、吾々は皆道徳的便宜主義者なのである。メルヴイルは『ピエール』の作中人物プリンリモンにかう語らせてゐる。  地上的な物事において、人間は天上的觀念の支配を受けてはならない。人間は生來、世間なみの幸福な生活を送りたいと願ふ。人間がこの世で或る種のささやかな自己抛棄をしようと思ふのも、さういふ本性のしからしむるところであらう。が、だからといつて、完全かつ絶對的な自己犧牲などは、他人のためであれ、何らかの主義のためであれ、奇想のためであれ、決してしてはならない。(中略)尋常の人間にとつてこの世で最も望ましく、また可能な生き方は道徳的便宜主義である。これこそ造物主が、一般の人間にとつての唯一の地上的卓越として考へてゐたものなのだ。  ささやかな自己抛棄ならばよろしい、とプリンリモンは言ふのである。幸福な世間なみの生活を送るためにそれは有用だからである。勿論、それは徳行などといふものではない、打算であり處世術であるに過ぎない。だが、時折のささやかな自己抛棄は確かに己れを利するのであつて、それは吾々のすべてが知つてゐる事である。しかるに、教育について考へる時、人々は或る種の條件反射を起す。パブロフの犬よろしく、教育といふ言葉を耳にしただけで、道徳的便宜主義の有用を忘れ、人間のどうにもならぬ本性を矯めうるとの錯覺を起す。それはすでに述べたやうに、徳育の可能を自明の理と考へ、己れの心中に惡魔を見ず、人間の度し難い本性を忘れてゐるからである。道徳に關する自明の理を疑ふ所まで徹底して考へようとしないからである。それは知的怠惰である。怠惰な人間に、眞の知育が行へる筈は無い。例へば日教組は「教師は人類愛の鼓吹者、生活改造の指導者、人權尊重の先達として生き、いつさいの戰爭挑發者に對して、もつとも勇敢な平和の擁護者として立つ」と「教師の倫理綱領」に言つてゐるが、かうして途方も無い綺麗事を言ひ、人類愛を説けるからには、個人のエゴイズムくらゐはた易く克服できると日教組は思ひ込んでゐる譯であり、してみれば日教組は、競爭原理による「人間性破壞」を憂へる進歩的教育學者と同樣、或いは外山滋比古氏のやうな保守派のいかさま師と同樣、徳育の可能を信ずる樂天家なのである。外山氏の教育論の許し難いでたらめについてはいづれ詳しく書くが、少なくとも日教組には、忠君愛國の徳目主義を嗤ふ資格は無いのである。  トウキデイデス以來人間の本性は少しも變つてゐない。しかるに、徳育に固執する教育家は、今日なほ人間の本性を矯めうると信じてゐる。左翼文化人が社會主義國は戰爭をしないといふ幻想に久しい間醉へたのも、良き社會體制は人間の本性を矯めうると信じたからに他ならない。しかるに先頃中越戰爭が勃發し大方の左翼文化人は衝撃を受けたといふ。笑止千萬である。東大助教授の菊地昌典氏などはやうやく夢から醒めたやうな事を言つてゐるが、私には信じられぬ。美しい夢を必要とするのは愚者と弱者の常だから、菊地氏の場合もまたぞろ夢から醒めた夢を見てゐるに過ぎまい。日教組の如きは軍國主義の惡夢から醒めた夢を三十餘年間も見つづけて今なほ飽きる事が無い。彼等は教師を「人類愛の鼓吹者」だと思つてゐる。平和を愛する「よい子」を育てる事が教育だと思つてゐる。それはつまり、徳育の可能を疑つた事が無いからである。いやいや、日教組だけを嗤ふ譯にはゆかぬ。教育基本法には「われらは、さきに、日本國憲法を確定し、民主的で文化的な國家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の實現は、根本において教育の力にまつべきものである」とある。それゆゑ文部省も同罪である。吉田茂は生前「新憲法、棚の達磨も赤面し」と詠んだけれども、腰拔け憲法と同樣、綺麗事の教育基本法に赤面してゐない以上、子供を善い子に育てるのが教育だといふ事を、保守革新を問はず、殆どの日本人が信じて疑はぬのも無理は無い。が、それはまことに嗤ふべき迷信である。考へてもみるがよい。自分の子供を「よい子」に育てたいなどと思つてゐる親など實は一人もゐはしないのである。親は決して子供の善良を望みはしない。むしろ子供が適度に惡に染まる事を望む。幼兒が無邪氣なのは幼兒が智慧を缺いてゐるからではないか。幼兒の如く無邪氣なままに子供が成人したらどうなるか。本氣でそんな事を望む親がどこにゐるか。子供が智慧づく事を親は望むのである。そして智慧がつくとは惡智慧がつく事に他ならない。  けれども、さういふ至極當り前の事を、人々は決して認めたがらない。それこそ知的怠惰に他ならぬ。社會主義國同士の戰爭に幻滅の悲哀を感じた文化人は、いづれ必ず性懲りも無く別樣の未來に期待をかけるであらう。それかあらぬか、最近小田實氏は「普遍的自由主義」などといふ怪しげな主義の前途に期待し始めたやうである。教育家も同樣であつて、大人の醜惡に幻滅した教育家は必ず子供に期待する事となる。尖閣諸島の歸屬問題は子孫に任せよう、吾々が今解決できぬ事も、後の世代は解決できようと鄧(登+大里)小平は言つたが、あれは飽くまでも政治的發言であつて、鄧(登+大里)小平自身はそんな事を信じてはゐまい。子供には洋々たる前途があつて、國際協調のため、今の大人のできないやうな事をやつてのけるだらうなどと、紅衞兵に吊し上げられたあの筋金入りの現實主義者が本氣で思つてゐる筈は無い。また、思つてゐるとすれば彼は大した政治家ではない。子供は大人と同じ道を歩むのである。子供は大人と同樣に愚かしく、殘酷で、長ずるに從ひ惡智慧がつき、この世における善の無力を知るやうになる。それゆゑ、子供の善良を望まないのなら、大人は善の無力といふ事を年齢に應じて子供に教へなければならない。そして、それを教へるのが知育の役割なのである。キエルケゴールの父親は子供が好む畫集の中に、十字架に掛けられたイエス・クリストの繪を插し入れておいたといふ。善の無力を雄辯に物語るクリスト受難を常に意識させる事こそ最善の教育だと信じたからである。この世における善の力を説くのが徳育だと世人は思つてゐよう。だが、善が無力なら、もとより徳育も無力で無用の事とならざるをえない。  では、善の無力とはどういふ事か。それを子供にどう教へるべきか。善の無力を教へるのは、子供を非行に走らせるためでは決してない、善の無力を知り、善を切に望み、惡に墮しがちなおのれを鞭打つためなのである。さういふ事も大方の教育論は考へてるないから、いづれ別の機會にとくと考へてみようと思ふ。 II 防衞論における道義的怠惰 1 道義不在の防衞論を糺す 2 猪木正道氏に問ふ──現實的保守主義者か、空想的共産主義者か 1 道義不在の防衞論を糺す 言論を動かすのは外壓のみ  「君の意見に私は同じない。けれども、君が意見を述べる自由だけは、命を懸けても保證する」とヴォルテールは論敵に言つた。まことに立派な心構へであつて、いかなる場合も暴力は斷じて許されず、冷靜な談合が何より大事だと、昨今は猫も杓子も言ふのである。けれども、何事にも程がある。例へばかういふ文章を綴る政治學者を相手に、どうやつて冷靜な談合がやれようか。それこそ杓子で腹を切らうとするの類ではあるまいか。  われわれには軍備は要らないのですから、アメリカに對して經濟援助をする分だけ、防衞費を削つていけばいい。頭の中の空想だけで軍備が要ると思つているのだから、現實認識を深める議論を繰り返すことによつて、軍備必要という空想論をだんだんに減らしていけばいい。そういう空想論が減つた分だけ防衞費を削つていけばいい。  私は「非武裝平和」論こそ「空想論」の典型だと思つてゐる。それゆゑ、「空想的平和主義者」の口から、「頭の中の空想だけで軍備が要ると思つている」手合の「空想論」に對處すべく「現實認識を深める議論を繰り返すべきだ」、などといふ臺詞を聞かされると、しばし茫然自失して、わが耳を疑ふのである。「大人は頭の中の空想だけで、國籍の違ひや年齢差が愛の障害になると思つてゐるのだから、現實認識を深める議論を繰り返すべきだ」などと、十歳以上も年上の、首狩族の女を伴つて歸國した面皰面の倅に言はれたら、父親はどうしたらよいか。言語道斷、一家眷族の名折れとて、馬鹿息子をぶん毆るか。さうはゆくまい。今は民主主義の世の中で、暴力は斷じて許されない事になつてゐるからである。  ではどうするか。冷靜な談合が望ましいなどと言はれても、なにせ相手は草津の湯でも癒せぬ病に取り憑かれてゐる。首狩族と愛の巣を營み、共白髪までやつてゆけるなどとは所詮「空想論」でしかないと懇ろに説諭したところで、相手はさういふ現實主義こそ「空想論」だと信じ切つてゐるのだから、何の驗もありはしない。幸田露伴なら「婦女が何だ! 戀が何だ! たとひ美女だらうが賢女だらうが、我を迷はせりや我の仇敵だ。男兒の正氣になつて働かうといふ事業の、障(原文「しよう:石+章」)礙になる奴あ悉皆仇敵だ。戀たあ料簡の弛みへ出る黴だ、閑暇な馬鹿野郎の掌の中の玩弄物だ」と怒鳴るかも知れぬ。が、今時、そんな勇ましい啖呵を切れる雷親父がゐる筈は無い。かてて加へて、父親とて若かりし頃、戀愛至上主義に感れた事があらう。首狩族と昵懇の仲になる機會こそ無かつたものの、愚かしき青春の思ひ出には事缺くまい。それを思へば大きな顏をする譯にはゆかない。さう思つて父親は諦め、運を天に任せる事になる。つまり、しばし捨て置くのである。だが、捨て置きながらも父親はひたすら待つ。何を待つか。無論、破鏡を待つ。そして待つた甲斐あつて現實が倅の「空想論」を打ち碎いた時、父親は心中密かに凱歌を奏するのである、「それ見たか、言はぬ事ではない」。  私は防衞論と丸切り無關係な事を語つてゐるのではない。先に引いた文章は立教大學で政治學を講じてゐる神島二郎氏のものだが、かういふ空想的平和主義者が勝手な熱を吹く樣を、常識を辯へた人人は、首狩族の女に惚れ込んだ男を目の前に見る時さながら、呆氣にとられて眺めるのではあるまいか。俗に「鰯の頭も信心から」といふけれども、鰯の頭は所詮鰯の頭でしかないと、いくら言ひ聞かせた所で、何せ信心なのだからどう仕樣も無い。どう仕樣も無いから放つて置く。が、一旦、空想家が現實の壁に打ち當つて挫折した時は、「それ見たか」とて寄つて集つて痛め附けるのである。ヴエトナム軍がカンボジアに攻め込み、その「懲罰」として中國軍がヴエトナム北部に侵攻した時がさうであつた。戰爭は帝國主義國が仕掛けるもので、社會主義國同士が戰爭をする事は無いと信じ、常々さう主張してゐた進歩的知識人は衝撃を受け、周章狼狽、世の笑はれ者になつた。例へば菊地昌典氏は「人權彈壓は、民主主義の抑壓と同義語なのであり、現代社會主義國に共通した重大な缺陷である」とまで書いて、保守派の失笑を買つたばかりか、進歩派にまで袖にされる始末であつた。けれども私は釋然としなかつた。「それ見たか」との保守派の得意顏をいかがはしく思はざるをえなかつた。そこで私はかう書いた。日商岩井の海部八郎氏を新聞や週刊誌が袋叩きにして樂しんでゐた頃の事である。  弱い者いぢめはさぞ樂しからう。まして今囘は辣腕の副社長が落ち目になつたとあつて、身震ひするほど樂しからう。さういふ殘忍は私も知つてゐる。例へば、社會主義に幻滅した社會主義者菊地昌典氏の困惑を眺めてゐると、私は無性にいぢめたくなる。が、さういふ時、私は用心する。皆が菊地氏をいぢめる時は、懸命に菊地氏の長所を探し出さうと努め、どうしても見附からない場合は菊地氏の短所を無理やりおのれの中に探し出す。それだけの手順を踏んでおかないと、いつの間にか魔女狩を樂しんで阿呆面をしてゐるおのれを見出す、といふ事になりかねない。  これを書いた時、私はかういふ事を考へてゐた。なるほど菊地昌典氏は社會主義の夢から覺めたのではなく、實は夢から覺めた夢を見てゐるだけの事かも知れぬ。が、人間はいくつになつても性懲りも無く夢を見る。すれつからしの現實主義者も誰かを信じて騙される。男に騙されない男も女にはころりと騙される。それなら、菊地氏の困惑を小氣味よげに眺めてばかりゐず、彼の短所をおのれの中に探さねばなるまい。さういふ手數を省いてここを先途と菊地氏を叩くのはつまらぬ。さういふ言論はまことに空しい。菊地氏をして「轉向」せしめたのは保守派の言論の力ではなく、ヴエトナム軍と中國軍の行動であつた。これを要するに、吾國の言論は外壓によつてしか動かぬといふ事ではないか。  その後菊地昌典氏がどういふ事を書いたのか、私は知らない。けれども、ソ聯軍がアフガンに侵攻して以來、「右傾」の度合はますます強まつた。保守派は意氣揚々と胸を張り、一方、神島二郎氏のやうな樂天家は別だが、進歩派は今や意氣阻喪して、そろそろと逆艪を使ふ者まで出て來る始末である。だが、外壓次第ではこの状況とていつ何時ひつくり返らぬとも限らない。レーガン大統領の對ソ強硬路線が挫折して、またぞろ米ソ兩國は「平和共存」でゆかうといふ事にでもなれば、目下囂しいソ聯脅威論なんぞ跡形も無く消し飛んでしまひ、逆艪を使つてゐる進歩派までが「それ見たか」とて胸を張るに相違無い。サイゴン陷落後、朝日新聞の「素粒子」の筆者は「南ベトナムの“安定性”をいい續けてきた日本外務省、一部評論家のご意見を聞きたい」と、鼻蠢かせて書いたのである。 百年千年經つて變らぬもの  殿岡昭郎氏の『言論人の生態』(高木書房)は、二年間にわたつてヴエトナム戰爭に關する言論人の發言を丹念に調べあげたあげくの成果であり、私は精讀して色々と教へられたが、殿岡氏もまた、風向き次第で脹らんだり萎んだりする言論の空しさを慨嘆してをり、それが私には頗る興味深かつた。殿岡氏はかう書いてゐる。  日本の論壇がきわめて“實證主義的”であり、言論上の勝敗が道理ではなく情況の變化いかんに決定的にかかつているということは、日本の言論のいつそうの脆弱さを證明していることにもなるだろう。言論は他の言論を傷つけることも、他の言論によつて傷つけられることもない。從つて言論による説得も勝敗もありえない。雙方は勝手放題にいい散らして、最後の審判は事態の變化である。  殿岡氏の言ふとほりである。だが、なぜなのか。なぜ「言論による説得も勝敗もありえない」のか。なるほど、首狩族に頸つ丈になつてゐる若者に何を言はうと徒勞だから、といふ事はあらう。だが、それだけではない。日本人は和を重んずるから、何が正しいかは二の次三の次であつて、仲間うちの批判はタブーなのである。實際、神島二郎氏の粗雜な論理に顏を顰める進歩派もゐる筈だが、そんな事、噯(おくび:口+愛)にも出せはせぬ。出したら村八分になる。そしてそれは保守派も同じであつて、それゆゑ「言論による説得も勝敗もありえない」といふ事になる。もつとも昨今は、「内ゲバはやめろ、進歩派を利するばかりだ」とて、留め男が割つて入つたりする程、改憲の是非を巡つて保守派同士の對立が目立つ樣になりはした。例へば『VOICE』八月號で、片岡鐵哉氏は猪木正道氏と高坂正堯氏の「現實主義」を批判してゐる。けれども、猪木氏も高坂氏も決して反論しないであらう。「雙方は勝手放題にいい散らして」といふ事にならぬ代り、「最後の審判は事態の變化」だといふ事になるであらう。つまり、「軍備はいまの憲法でも充分可能」であり、「十年間は憲法論議を棚上げ」すべしと主張する高坂氏が正しいか、それとも「侵掠というシヨツクが來るまで改憲も國防も不可能ではないか」と危倶する片岡氏が正しいか、それは「最後の審判」待ちといふ事になる。それゆゑ、猪木、高坂兩氏としては、反論せずにおく方が賢明である。  だが、果して「言論上の勝敗」は「道理ではなく情況の變化いかんに決定的にかかつている」と言切れようか。なるほど情況すなはち現實は變化する。が、この世には何百年何千年經つて一向に變化しないものもある。ヴォルテールは近代文明を稱へて、「おお、この鐵の世紀のすばらしさ、爽やかなワインも、ビールも、ジユースも、イヴのあはれな喉を潤す事が無かつた」と書いたが、何、百年千年經つて變らぬアダムとイヴの原罪はヴォルテールも背負込んでゐた。「科學と理性の勝利」を信じて、「パスカルの絶望なんぞ少しも感じない」と書いたヴォルテールのフランスにおいても、新幹線を凌駕する高速列車を有するミツテランのフランスにおいても、惚れた腫れたの刃傷沙汰の愚かしさに何の變化もありはしない。  さういふ譯で、十年經つたら變る物があり、百年千年經つてなほ變らぬ物がある。高坂正堯氏は憲法論議を十年間棚上げすべしと主張する。それはつまり、今は賢明でない事が十年經つたら賢明になるかも知れぬといふ事である。つまり、今は政治的にまづいといふ事であつて、道徳的によくないといふ事ではない。「今後十年間は嘘をついてはいけない」とは誰も言はないからだ。しかし、今後十年間憲法論議をやる事が賢明でないと假定して、十年間賢明でない事がいつ賢明になるのであらうか。なるほど、けふ賢明でない事があす賢明になるといふ事はある。昔、會澤正志斎が言つたやうに「今日のいふところは、明日未だ必ずしも行ふべからず」といふ事もある。それゆゑ政治家がけふ賢明でない事をけふ口にせぬやう心掛けるのは是非も無い。けれども、いかに優れた政治家も所詮は不完全な人間であり、「けふ賢明でない」との判斷において過つ事がある。憲法についての「眞情を吐露」した奧野法相を批判して高坂氏は、法相の「誠實は婦人の誠實」ないし「書生の誠實」だと書いた。私は高坂氏に同じないが、百歩譲つて「政治は結果倫理の支配する世界」であり、「自分の心を忠實に語るというのは二の次」だとする高坂氏の意見を認めるとしても、政治家が「自分の心を忠實に語る」事を二の次にせず、「書生の誠實」に徹するはうが却つて結果的に賢明である場合もあらう。それに、現行憲法は「自主憲法」ではない、「作り直すしかない」といふ法相の發言は今は賢明でないとする高坂氏の判斷が、かりに今、賢明だとしたところで、それが今後十年間賢明であり續けるといふ保證はどこにもありはしない。なるべくけふ賢明と思はれる事をけふ語らふとするのは處世術であり、それは誰でも持合せてゐようが、けふ賢明と思はれぬ事をけふ語る政治家がゐたとして、誰もそれを「書生の誠實」として嘲笑ふ譯にはゆくまい。その誠實が「具體的に何の益もない」どころか「マイナスの效果」を齎したと斷じうる時期になつて初めて、吾々はその政治的責任を云々する事ができる。高坂氏の言ふとほり「政治は結果倫理の支配する世界」だからである。  高坂正堯氏はもとより神島二郎氏ではない。頭腦明晰なる高坂氏は右の私の批判に文句は附けぬであらう。私の言分を認めるであらう。私は高坂氏の人格を攻撃したのではなく、その論理の破綻を指摘したに過ぎないからである。これを要するに、高坂氏と私の「雙方は勝手放題にいい散らし」た事にならず、しかも「事態の變化」といふ「最後の審判」の手を煩はせる必要も無かつたといふ事に他ならないが、既に述べた樣に「今後十年間は嘘をついてはいけない」とは誰も言はないのだから、「憲法論議を十年間棚上げすべし」とは政治的判斷なのである。全面講和や日米安保條約や非核三原則の是非についての甲論乙駁は、それが政治的判斷にもとづく限り、とかく雙方が「勝手放題にいい散らして」決着がつかず、「最後の審判は事態の變化」だといふ事になる。けれども、論理には決着がつく。論理の矛盾は十年經つても矛盾だからである。いや、十年は愚か百年千年經つても、論理學のルールは變り樣が無い。「平凡な事は非凡な事よりも遙かに非凡である」とか、「狂人は論理的である、頗る論理的である」とかいつた類の逆説を賞味するためにも、吾々は論理學のルールを無視する譯にはゆかない。 「事の實際を奈何せん」と言ひたがる愚かしさ  要するに、この世には、文化大革命だの非核三原則だの人力車だの皇國史觀だのといふ、十年經つて變る物があり、癡話喧嘩や思考のルールのやうに百年千年經つて一向に變らぬ物がある譯だが、中江兆民の『三醉人經綸問答』この方、吾國の防衞論議はとかく十年經つて變りうる事柄にのみ氣を取られてゐたのであつて、「言論上の勝敗が道理ではなく情況の變化いかんに決定的にかかつて」ゐたのは當然の事なのである。『三醉人經綸問答』の三醉人とは、空想的平和主義者洋學紳士と、空想的軍國主義者豪傑君と、現實主義者南海先生だが、まづ洋學紳士はかう主張してゐる。日本は「民主平等の制を建立し、人々の身を人々に還へし、城堡を夷げ、兵備を撤して、他國に對して殺人犯の意有ること無きことを示し、亦他國の此意を挾むこと無きを信ずるの意を示し、(松原註して言ふ、この行、平和憲法前文にさも似たり)一國を擧げて道徳の園と爲し、學術の圃と爲」すべきであり、「兇暴の國有りて、我れの兵備を撤するに乘じ、兵を遣はし來りて襲ふ」などといふ事はよもやあるまいが、「若し萬分の一、此の如き兇暴國有るに於ては、(中略)我衆大聲して曰はんのみ、汝何ぞ無禮無義なるや、と。因て彈を受けて死せんのみ」。  この洋學紳士の非武裝無抵抗主義は、日本社會黨の非武裝中立主義よりも遙かに正直である。けれども、傲慢や自尊心やエゴイズムといつた百年千年經つて變らぬものを勘定に入れぬ空論だから、自由民權運動が退潮し「軍國主義への傾斜」の度合が強まるにつれて古證文も同然となつた。すなはち「事態の變化」といふ「最後の審判」に伏するしがなかつた。  空想的軍國主義者たる豪傑君の意見もさうである。洋學紳士に反論して豪傑君は言ふ。そのやうな非武裝平和主義は現實無視の空論に他ならぬ。「六尺男兒、百千萬人相聚りて四國を爲しながら、一刀刃を報ぜず、一彈丸を酬いずして、坐ながら敵冠の爲に奪はれて、敢て抗拒せざるとは、狂人の所爲」ではないか、「抑も戰爭の事たる、學士家の理論よりして言ふ時は如何に厭忌す可きも、事の實際に於て畢竟避く可らざるの勢なり。(中略)爭は人の怒なり。戰は國の怒なり。(中略)人の現に惡徳有ることを奈何せん、國の現に末節に徇ふことを奈何せん、事の實際を奈何せん」、されば日本は隣接する弱小國を侵掠し、植民地となし、先進國を凌駕せねばならぬ。  言ふまでもあるまいが、この豪傑君の主張は大日本愛國黨のそれよりも正直である。けれども、「自分の子供が戰爭に驅り立てられ、殺されるのが厭だからと言つて、戰爭に反對し、軍隊に反撥し、徴兵制度を否定」する「母親の感情」といふ、これまた百年千年經つて變らぬものを無視する空論だから、昭和二十年八月十六日からは古證文も同然となつた。もつとも昨今、その古證文の埃を拂つて懷かしげに眺め、あたりを窺ふ者もゐるが、さすがに「隣接する弱小國を侵掠し、植民地とせよ」とまでは言ひ出せずにゐる。  ところで、洋學紳士と豪傑君の主張は、恰も小田實氏と三島由紀夫の主張ほど眞向から對立し、妥協の餘地はまつたく無いかのやうに思へるであらう。しかるにさにあらず、三醉人はブランデーを飮み、ビールを飮み、南海先生が笑ひ、「二客も亦嘘然として大笑し、遂に辭して去れり」といふ事になる。どうしてさういふ事になるか。それを知るには南海先生の意見にも耳を傾けねばならぬ。洋學紳士と豪傑君の論述を締め括つて南海先生は言ふ。洋學紳士の説は「未だ世に顕はれざる爛燦たる思想的の慶雲」であり、一方、豪傑君の説も「今日に於て復た擧行す可らざる」ものである。そしてまた、兩君の説は一見「冰炭相容れざるが如」くであるが、實は同一の「病源」に發してゐる、すなはち「過慮」である。さうではないか、目下プロシアとフランスが「盛に兵備を張るは、其勢甚迫れるが如きも、實は然らずして、彼れ少く兵を張るときは或は破裂す可きも、大に兵を張るが故に、破裂すること有ること無し」、兩君ともに取越し苦勞をしてゐる、大事なのは「世界孰れの國を論ぜず與に和好を敦くし、萬已むことを得ざるに及ては防禦の戰略を守り、懸軍出征の勞費を避けて、務て民の爲に肩を紓(の:糸+予)ぶること」である。  要するに南海先生は「現實主義者」なのであり、それゆゑ、洋學紳士の説を「未だ世に顕はれざる」空論とし、一方豪傑君の説をも「今日に於て擧行す可らざる」空論と極め附けるのだが、「冰炭相容れざるが如」くに見えた洋學紳士と豪傑君は、あつけなく南海先生の説に伏するのである。つまり、明治二十年に出版された防衞論も、今日のそれと同樣、「其時と其地とに於て必ず行ふことを得可」き事柄にのみ心を奪はれてゐるのであつて、「事の實際を奈何せん」、そんな事をやれる筈が無い、と豪傑君に言はれると洋學紳士はお手上げになり、豪傑君もまた、「今日に於て復た擧行す可らざる政事的の幻戲」と南海先生に言はれると大人しく引下つてしまふ。かくて一見「冰炭相容れざるが如」くであつた平和主義者と軍國主義者は、「今日に於て」實行可能な事柄だけを考へる事の賢明を悟り、和氣藹々と現實主義者の茅屋を辭するのであつて、洋學紳士も豪傑君も、南海先生同樣、單純な現實主義者に過ぎない。「或は云ふ、洋學紳士は去りて北米に游び、豪傑の客は上海に游べり、と。而て南海先生は、依然として唯、酒を飮むのみ」と、兆民は『三醉人經綸問答』を結んでゐるが、北米や上海に遊んだところで、別人の樣になつて戻つて來るとは限るまい。  『三醉人經綸問答』の上梓は明治二十年、すなはち九十四年前の事である。だが、今日の防衞論議も、三醉人のそれと同樣、百年千年經つて變らぬものを無視する單純な理想主義か、さもなくば「事の實際を奈何せん」とて胸を張り、「情況の變化いかんに」よつては「それ見たか」と居丈高になる單純な現實主義であつて、それゆゑ吾々は、百年千年經つて變らぬものを無視ないし輕視するのが、百年千年經つて變らぬ日本人の特性ではないかと、さう疑つてみるはうがよいのではあるまいか。 絶對者なき理想主義の虚妄  國木田獨歩は人間を「驚く人」と「平氣の人」の二種に分け、日本人の大半は「平氣の平三の種類に屬」すると書いた。一方、プラトンは「驚異の念こそ哲學者のパトスであり、それ以外に哲學のアルケーは無い」と言ふ。無論、吾々日本人も、百年前千年前に「驚異の念」をパトスとした先哲を有する筈で、それは獨歩も承知してゐたであらう。獨歩は「世界十幾億萬人の中、平氣な人でないものが幾人ありませうか」と書いてゐるくらゐだから、「驚く人」が少ない事に腹を立ててゐた譯ではない。ただ、世人が「平氣の人」である事に平氣でゐるのを怪しんだまでの事である。  獨歩は『牛肉と馬鈴薯』の作中人物岡本にかう語らせてゐる。「諸君は今日のやうなグラグラ政府には飽きられたゞらうと思ふ、そこで(中略)思切つた政治をやつて見たいといふ希望もあるに相違ない、僕もさういふ願を以て居ます、併し僕の不思議なる願はこれでもない」。その願ひは妻子を犧牲にしても、殺人強盜放火の罪を犯しても、どうしても叶へたい。「此願が叶はん位なら今から百年生きて居ても何の益にも立ない、一向うれしくない。寧ろ苦しう」思ふくらゐだが、それは「宇宙の不思議を知りたいといふ願ではない、不思議なる宇宙を驚きたいといふ願」、「死の祕密を知りたいといふ願ではない、死てふ事實に驚きたいといふ願」である。「必ずしも信仰そのものは僕の願ではない、信仰無くしては片時たりとも安ずる能はざるほどに此宇宙人生の祕義に惱まされんことが僕の願であります」。  けれども、「信仰そのもの」を得ずして、「信仰無くしては片時たりとも安ずる能はざるほど」の惱みを手に入れる事はできまい。岡本は「ヲルムスの大會で王侯の威武に屈しなかつたルーテルの膽は喰ひたく思はない、彼が十九歳の時學友アレキシスの雷死を眼前に視て死そのものゝ祕義に驚いた其心こそ僕の欲する處であります」と言ふ。だが、獨歩は遂にルターの「其心」をおのがものとはなしえなかつた。なぜか。皇帝カール五世の召喚状を受取つたルターは、火刑に處せられる危險を物ともせずにウォルムスへ乘込んだが、その搖ぎ無き信仰は、若かりし頃「學友アレキシスの雷死を眼前に視」、「聖アンナ樣、お助け下さい、私は修道僧になります」と誓つて以來十六年、孜々として育んだものであつた。「ルーテルの膽」を食ふ覺悟無しに「祕義に驚いた其心」をおのがものとなしうる筈は無い。  國木田獨歩と異り、絶對者への搖がぬ信仰を持つてるたルターは、「神のもの」と「カイゼルのもの」とを峻別し、百年千年經つて變らぬ「神のもの」を重んじて、「情況の變化いかん」によつて、右から左、左から右へと變りうる「カイゼルのもの」を徹底的に無視した。それは要するに、信仰のためとあらば「妻子を犧牲にする」事も、「殺人強盜放火の罪を犯す」事も恐れなかつたといふ事に他ならない。それゆゑ「戰爭は神の最大の刑罰」であり、「人は平和のために譲らなければならない」と書いた筈のルターが、農民一揆を難じてかう書いたのである。「今こそ劒を取るべき時であり、怒るべき時であり、恩惠を施すべからざる時である。領主よ、吾々を助けよ。彼奴等を皆殺しにせよ」。  絶對者への信仰があれば、相對的な現實を徹底的に無視するすさまじき理想主義と、逆に現實を徹底的に重視するしたたかな現實主義との、兩極端を激しく往來する事になる。しかるに吾々日本人は、絶對者を持たぬゆゑに、皇國史觀だの平和だの自由だのといふ相對的なるものを絶對視するしかない。そしてその弱みを忘れるや忽ち神憑り的な絶對主義者となり、現實の變化を無視する事になるが、そこまで徹底する者は稀であり、多くは現實の顏色を窺ふから、當然「情況の變化」に腰碎けとなる譯である。要するに、理想主義は強き現實主義に反撥する爲の強さを缺き、一方、現實主義は強き理想に反撥する強さを缺いて、理想主義といふ現實主義もしくは「平氣の平三」主義に堕するのである。例へば三島由紀夫は絶對者のために腹を切つた譯ではない。天皇も國體も相對的なものだといふ事を三島は知つてゐた。相對的なものに「殉じた」以上、一方に「狂氣の沙汰」と決めつける者がをり、他方にその「憂國」の至情を思ひ襟を正す者がゐて當然である。今後も同樣で、國體つまり「事態の變化」いかんによつては、十年經つて三島は神と祭られる樣になるかも知れず、或いは狂人扱ひされて誰も顧みない樣になるかも知れぬ。  三島は大方の日本人が「平氣の人」である事に腹を立て、頗る派手に振舞つた擧句、腹を切つたが、獨歩はせめてもの事おのれは「驚く人」でありたいと願つて果せず、「十年間人に認められ」ず、「認められて僅かに三年」、靜かに三十八年の生涯を終へた。なぜ獨歩は「驚く人」たりえなかつたのか。獨歩は『岡本の手帳』の中にかう書いてゐる。  何故にわれは斯くも切にこの願を懷きつゝ、而も容易に此願を達する能はざるか。(中略)英語Worldlyてふ語あり、譯して世間的とでもいふ可きか。人の一生は殆んど全く世間的なり。世間とは一人稱なる吾、二人稱なる爾、三人稱なる彼、此三者を以て成立せる場所をいふ。人、生れて此場所に生育し、其感情全く此場處の支配を受くるに至る。何時しか爾なく彼なきの此天地に獨り吾てふものゝ俯仰して立ちつゝあることを感ずる能はざるに至るなり。(中略)何故にわれは斯くも切に「この願」を懷きつゝ、なほ容易に達する能はざるか、曰く、吾は世間の児なれば也。吾が感情は凡て世間的なればなり。心は熱くこの願を懷くと雖も、感情は絶え間なく世間的に動き、世間的願望を追求し、「この願」を冷遇すればなり。  獨歩は自分ばかりでなく大方の日本人が和と馴合ひを重んじ、「獨り吾てふものゝ俯仰して立ちつつあることを感ずる能」はず、ひたすら「世間的願望を追求」する事實には無論氣づいてゐた。三島はそれに腹を立て、「生命尊重以上の價値の所在を(中略)見せてやる」と叫んだが、では、果して三島の死は「世間的」なものを超えてゐたかといふ事になると、それはここで論じ盡くすには少々複雜な問題になる。 なぜ「自明の理」を疑はぬ  獨歩は「宇宙の不思議」と「人生の祕密」に「驚魂悸魄」したいと切に願つたのだが、世人は「知れざるものは如何にしても知れず」とし、簡單に諦めてしまふ、「閑人の閑事業と見做し」てしまふ、だが、それでよいのだらうかと問うたのである。古代ギリシアの哲學者タレースは「宇宙の不思議」を考へ、夜空の星を眺めてゐて溝に落ち、下女に笑はれたといふ。なるほど「宇宙の不思議」も「人生の祕密」も、百年千年經つて一向に變らないが、そんなものに驚き、その祕密を知らうとするのは「閑人の閑事業」であつて、十年經つて變るものばかり氣にする「世間的」な手合が「閑事業」なんぞに精を出す譯が無い。哲學者のパトスたる驚異の念なんぞに拘泥する譯が無い。  取分け明治この方、吾々日本人は「實なき學問は先づ次にし、專ら勤むべきは人間普通日常に近き實學」とて、「閑人の閑事業」を等閑にして怪しまず、世間有用の學を重んじて、當座の用に役立ちさうもないテオリアを輕んじたのである。テオリアといふギリシア語は實用を離れ、專ら見るためにのみ見る事を意味する。「宇宙の不思議」や「人生の祕密」を見据ゑたら、それについてとことん考へる樣になつて當然である。勿論、シヨーペンハウエルも言つてゐる通り、そんな事に沒頭してパン一つ燒ける樣になる譯ではない。溝に落ちて下女に笑はれるが關の山であらう。けれども、宇宙の不思議と人生の祕密に「驚魂悸魄」したからには、その「不思議を闡明せん」とする者がゐて當然である。例へばデカルトはバヴアリアの寒村で、「一切の憂ひから解放され、たつたひとり、平穩なる閑暇を得」、「ただの一度でも自分を欺いた物は決して信用すまい」と決意してそれをやつた。太陽は吾吾の目には小さく見えるが、實際は巨大であつて、それなら感覺は吾々を時に欺くのである。感覺の一切を疑はねばならぬとなれば、おのが肉體の存在すら覺束無いものになる。また、二足す二は四とは果して自明の理であるか。吾々が二に二を足す時、常に誤つて四としてしまふやう、もしも神が吾吾を創つたとしたら、一體どういふ事になるか。さういふ事をデカルトは本氣で考へた。  無論、これは多少なりとも西洋哲學を齧つた者なら誰でも知つてゐる事だが、デカルトの徹底的な懷疑について知る事は、そのまま自ら物事を合理的に究めようとする事を意味しない。  西周がフイロソフイアを「希哲學」と譯してから百年以上の歳月を閲し、知を愛して自明の理を疑ひ拔いたソクラテスやデカルトが譯されてこれまた久しいが、依然として吾國の論壇は、「事の實際を奈何せん」と言はれてぐらつく程度の、現實的であるがゆゑに空疎な防衞論を、囂しく上下してゐる。吾々の洋學は「恰も漢を體にして洋を衣にするが如し」と福澤諭吉なら言ふであらう。おのが肉體さへ疑つて掛つたデカルトは、西洋哲學史上有數の天才との定評ゆゑに尊敬されてゐるに過ぎない。「二二が四は死の端緒だ」と『地下室の手記』の主人公も言つてゐるが、これまた大天才ドストエフスキーが創造した人物だから、人々は一目を置いてゐるに過ぎない。日本人のドストエフスキー好きはよく知られてゐるが、『作家の日記』の中の次の樣な文章を、ドストエフスキーの愛讀者は一體どんな顏をして讀むのであらうか。  「しかし血だからな、なんといつても血だからな」と、賢者たちはばかの一つ覺えのようにいう。が、まつたくのところ、この血云々という天下ご免のきまり文句は、時とすると、ある目的のために乘ぜんとする思いきつた空疎な、こけおどかしの言葉の寄せ集めにすぎない。(中略)ずるずるべつたりに苦しむよりは、むしろひと思いに劒を拔いたほうがよい。そもそも今の文明國間の平和のいかなる點が、戰爭よりもいいというのだろうか?それどころか、かえつて平和のほうが、長い平和時代のほうが、人間を獸化し、殘忍化する。(中略)長きにわたる平和は常に殘忍、怯儒、粗野な飽滿したエゴイズム、そして何よりも、知的停滯を生み出すものである。(米川正夫譯)  戰後三十數年、日本の「賢者たち」もまた、保守革新の別無く、「しかし血だからな、なんといつても血だからな」との「天下ご免のきまり文句」を空念佛よろしく唱へ續けた。戰爭を惡とし平和を善とする自明の理を人々は疑はず、戰爭の何が惡いかと開き直つた者は殆どゐなかつた。それゆゑ「日本は軍事大國になつてはいけない」と、保守も革新も口を揃へて言ふのであつて、猪木正道氏は「少くとも二十世紀中は、わが國は軍事大國になつてはいけない」と書き、三好徹氏は「日本が清水(幾太郎)氏の望むような軍事大國になつてから後悔したところで間に合わない」と書き、五味川純平氏は「自民黨としては(中略)軍事大國の道へ日本を推進しようとするであろう。そのツケは全部國民にまわつて來る」と書き、上山春平氏は「私たちは、いま、軍擴にたいする齒どめを失つた情勢のもとで、重大な決斷をせまられている」と書き、日本國の代表たる鈴木善幸氏も、ワシントンまで出向いて、「日本は軍事大國にならず、平和憲法を守り、專守防衞に徹する」とアメリカの大統領に言つたのである。「軍事大國になつてはいけない」とは天下御免の決り文句、自明の理なのであつて、自明の理だから誰も本氣で疑はうとしない。が、日本が軍事大國になれるか否かの詮議はさておくとして、軍事大國になる事がなぜ「いけない」事なのか。 道徳と私情を素通りする怪  「日本は軍事大國になつてはいけない」と主張する人々は、日本がまたぞろ侵掠戰爭をやらかす事を恐れてゐるのであらう。だが、軍事大國になる事と侵掠戰爭をやる事とは別だが、それはともかく、侵掠戰爭であれ專守防衞であれ、戰鬪状態となつたら敵兵を殺さなければならぬ。それは專守防衞論者といへども否定しないであらう。「武士の心はやめた方がいい、商人の氣がまえ、前垂れかけて、膝に手を當て、頭を下げる」のが「一億一千萬の生きる道」だと野坂昭如氏は書いた。揉み手して愛嬌を振り撒いても、毆られる時はやはり毆られる。それは小學生でも知つてゐる常識だが、卑屈な「商人の氣がまえ」を説いた野坂氏にしても、侵掠されたらゲリラとして戰ふと言つてゐる。だが、戰へば當然敵兵を殺す事になる。では、敵兵を殺す事は善い事なのか。  昨今囂しい防衞論議が、かういふ道徳上の問題を素通りして怪しまぬ事を、私は怪しむのである。「軍事大國になつてはいけない」とか「侵掠戰爭はいけない」とか言ふ場合、その「いけない」とは道徳的に「いけない」事なのか。それとも政治的にまづいといふ事なのか。「侵掠戰爭はいけないが、專守防衞つまり正當防衞としての殺人は許される」と專守防衞論者は主張するであらうが、時と場合によつて許されたり許されなかつたりするのなら、戰爭は絶對的な惡事ではないといふ事になる。そしてそれを認めるなら、殺人は絶對惡ではないといふ事をも認めねばならぬ事とならう。だが、戰場において敵を殺す事が惡事でないとしても、敵兵のすべてが惡しき人なのではない。それゆゑパスカルはかう書いた。  或男が河の向うに住んで居り、彼の殿樣が私の殿樣と喧嘩をして居るというので、私は少しも其男と喧嘩などしては居ないのに、彼に私を殺す權利があるなんて、こんなおかしなことがあるものだろうか。(關根秀雄譯)  なるほどをかしな事である。山田氏がイワーノフ氏と親交を結んでゐても、ブレジネフ氏が鈴木善幸氏と「喧嘩」をすれば、戰場でイワーノフ氏が山田氏を殺す事は許されるやうになる。餘りにも當り前の話ではないかとて常人は決して怪しまないが、パスカルは常人が自明の理とするものを怪しんだのであつて、さういふ驚異の念が哲學のパトスなのである。しかるに常人は、「防衞力の整備」や「ソ聯の脅威」や「專守防衞」の要を説いて、それらがいづれも「殺人のすすめ」である事を意識しない。無論、當人も決して死にたくはないから、「平和はよい事に決つてゐるが」云々と一言斷らずには防衞を論ずる氣になれないが、なぜさう斷らずにゐられないかを決して考へないから、殺人が時と場合によつて許されたり許されなかつたりする不思議について熟と考へてみる事が無い。非武裝中立論とて同じ事であつて、何せ日本は戰後三十數年、戰爭に捲き込まれず、「それ見たか」と嘲弄される羽目には一度も陷らなかつたから、政治的に「よい事に決つてゐる」に過ぎぬ平和を説いて、道徳的善行をなしつつあると錯覺し、それゆゑ他の徳目の一切を輕んじて今日に至つたのである。愛情や友情は私事であり、私事であつて當然だが、公ばかりを考へる政治學者は私を無視して非人間的に振舞ひ、遂にその非人間性を悟らない。例へば坂本義和氏は、「民族解放」を旗印に戰つた筈の「ヴエトナムが侵掠的行動をとつたことを根據に、過去のヴエトナムの旗記に殘る反戰自體が誤りあるいは無意味であつたかのような言説が現れ、それがヴエトナム反戰の立場をとつた人々の間にも困惑を生んだ」事を遺憾とし、進歩派の結束を計るべくかう書いた。  われわれがヴエトナム民族の解放鬪爭を支援するというのは、ヴエトナム人のその特定の行動を支持することであつてをことであつて、ヴエトナム人のすべての行動を支持したり、ヴエトナム人であること自體を格別に好感することを意味しないのは當然のことである。(傍點松原)  いかにも政治學者らしい、頗る非人間的な文章である。かつて高坂正堯氏が説いた樣に、「國際政治に直面する人びと」は、屡々「最小限の道徳的要請と自國の利益の要請との二者擇一を迫られる」。つまり、平時にあつては自國の利益ばかりを追求する事はできないが、一方、他國の「すべての行動を支持」するなどとは論外だといふ事である。だが、私生活において吾々は、友人の「特定の行動」だけを「支持する」事によつて親交を結ぶ譯にはゆかぬ。專らおのが利益を考へて友人の「特定の行動」だけを支持すれば、友人の信頼を得る事は難しからう。それゆゑ吾々は、時におのが利益や「最小限の道徳的要請」を無視しても、友人の「すべての行動を支持」する、或いは支持したいと願ふ。かくて世間がいくら指彈しようと、殺人鬼の妻は夫を庇はうとし、いくら拷問されても、天野屋利兵衞は赤穗浪士に義理を立て、「利兵衞は男でござる」とて頑として口を割らない。だが、それも百年千年經つて一向に變らぬ人情の不思議なのだが、坂本氏にはそれが全く見えてゐない。福澤諭吉は「立國は私なり、公に非ざるなり」と書き、「大義名分は公なり表向なり、廉恥節義は私に在り一身に在り」と書いた。が、專ら公を重んじて平和を説き、私を忘れて非情になる政治學者に、福澤の説は理解し難いであらう。  そればかりではない。目下「滅公奉私」の氣樂を享受してゐるこの日本國において、私にこだはる人情の機微なんぞを云々すれば、漸う受け始めた「父親の論理」を振り廻して、おのれもまた死にたくないとの私情に氣附かぬ保守派には嫌がられ、一方、ただもう死にたくないの一念で、正直に、といふよりは俗受けを狙つて、女々しい「母親の論理」に縋り附く進歩派には喜ばれる、さういふ事にもなり兼ねない。けれども、「死にたくはないが死なねばならぬ」のが人間なのである。誰しもいづれは必ず三途の川を渡らねばならないし、自由などといふ抽象的なもののためでなく一家眷族親友のためにおのれを殺さねばならぬ事もある。死にたくないが死なねばならぬとは別段奇怪な事ではあるまい。いや、どうでも奇怪でならぬなら、その不思議を熟と考へたらよいのだ。さうすれば、公と私との、すなはち政治と道徳との對立緊張を合點する樣になるであらう。誰でも私としては死にたくない、けれども公の爲には死なねばならぬ。けれども、せめて一家眷族の爲ならばともかく、自由だの國體だのの爲に死ぬ氣にはなれぬ。けれども、神風特攻隊の若者は「天皇陛下萬歳」を叫んで死んだではないか。けれども、あれは若氣の至り、神憑りゆゑの輕はずみに過ぎぬ。けれども乃木希典が腹を切つた時……、この「けれども」の堂々巡りに決着はつくまい。そこで、專ら能率と實用を重んずる手合は「死にたくない」と「死なねばならぬ」との對立の平衡をとる事をやめ、おのれの屬する集團の正義に飛び附く事になる。死にたくないと公言するのは、さすがに憚られるからである。そしてさうなれば、おのが集團とそれに對立する集團との勢力均衡を案じ、世間の右傾や左傾を嘆く事を生甲斐とし、それを道徳的善事と錯覺する樣になる。おのが黨派の正義に合致せぬものをすべて惡とするのだから、いたつて解り易く頗る氣樂だが、死にたくないが死なねばならぬかと煩悶するのは氣骨が折れるし、それに何より、常住坐臥おのが死を考へる樣に人間は出來てゐないから、「公の爲に死なねばならぬ」と主張する保守派は自分が死ぬ事は考へず、「死にたくない」と口走る進歩派も、まさか死ぬ事はあるまいと高を括つてゐる。そこで政治と道徳とのごつた煮とも評すべき平和憲法を戴き、空念佛さながらに平和の善を唱へつつ、吾々は遮二無二稼ぎ捲つたのであつた。憲法前文には「政治道徳の法則は、普遍的なものであり」、「いずれの國家も、自國のことのみに專念して他國を無視してはならないのであつて」云々とあり、これは道學先生よろしく世界各國に説教してゐるのか、各國に憐みを乞うてゐるのか、いづれにせよ卑屈極まる文章だが、さういふ恥づべき憲法を改正せずして三十數年、毒はじわじわと利いて來たのである。「死なねばならぬ」、「いや死にたくない」と言ひ合つてゐるうちに、生きてゐる間に「死んでもやりたくない」と昔なら思つた事を、人々は平氣でするやうになつた。昔、白木屋百貨店が燒けた時、衣服が亂れるのを恥ぢて飛び降りずに燒死した女が數多くゐたといふ。が、今の女はパンツをはいて六本木を歩くのである。かくて福澤諭吉の「瘠我慢」も森鴎外の「意地」も今や地を掃ひ、吾々は「人事國事に瘠我慢は無益なりとて、古來日本國の上流社會にもつとも重んずるところの一大主義を曖昧糢糊の間に瞞着」して怪しまない。例へば猪木正道氏は、自衞隊に「非核裝備としては第一級の武器を配備すれば、精神面の問題もおのずから解決する」と書いてゐるが、私は猪木氏に同じない。よろづこれほどぐうたらに處して事無き日本國の軍隊である。「第一級の武器」を手にした位の事で奮ひ立つ譯が無い。  自國の軍隊を腐して樂しむのは言語道斷である。それゆゑ私は自衞隊を腐してゐるのではない。それどころか、私は自衞隊のフアンであり、自衞隊が國軍として認知される日を待ち侘びてゐる。だが何よりも私は「自衞隊」といふ名稱が氣に食はない。それは「軍備増強」と言はずして「防衞力整備」と言ふが如きもので、戰爭を惡事とする淺薄な思做しゆゑのまやかしに他ならぬ。そこで、わが愛する自衞隊の爲に、その思做しの淺薄を嗤つておくとしよう。 「一匹」か「九十九匹」か  周知の如く、カンボジアのポル・ポト政權はプノンペン制壓後、百萬人のカンボジア人を虐殺したといふ。「百萬人の處刑とは途方もない」とポル・ポト氏は言ひ、ついで聲を潛めて「革命にとつて敵對的で、箸にも棒にもかからない人口の約五パーセントは處分した」と、NHK取材班に告白したといふ。ポル・ポト氏の信奉する正義がいかなるものか私は知らぬ。が、毛澤東は何と千五百萬の中國人を殺したと聞いてゐる。毛澤東自身が認めてゐるのは八十萬人だが、八十萬で結構である。八十萬人殺したと聞けば人々は慄然とするであらう。だが、肅清されたのは「惡しき人々」だつたのである。共産革命以前、中國の農民は凄じい搾取に喘いでゐた。毛澤東は貧農の倅ではなかつたが、若き毛澤東が國民黨や地主や軍閥による社會的不正に憤り、革命運動に身を投じたとして、それを誰も非難する事はできまい。人民の塗炭の苦しみを餘所事として、ひたすら立身出世を願ふ青年を誰も好ましくは思ふまい。が、苛歛誅求を恣にする惡黨なら何十萬殺さうと構はぬと、果して言切れるか。言切れまい。なぜなら、毛澤東が殺した八十萬人のすべてが、虐げられた人々を搾取する惡黨だつたかどうかは疑はしいからだ。つまり正確に言ふなら八十萬人は「人間毛澤東によつて惡人と判定された人々」だつたのであり、絶對者ならぬ人間の判斷に誤謬は附き物だから、毛澤東が善人をも肅清した事は確實なのである。  これを要するに、暴政を憤り、社會正義の爲に戰ふのは立派な事だが、その爲には惡人を排除せねばならず、その際、惡人との判定を獨裁者がやらうと、多數決に從はうと、誤謬は避けられず、獨裁者の恣意や無責任な群衆心理ゆゑに、惡人を除かうとして善人が除かれる事は不可避だといふ事になる。それに、中國革命に限らず、元來は純粹な正義感に發する筈の革命が、たとひ政治的に良き事態を招來したとしても、その過程において、暗殺、裏切、密告、拷問などの道徳的惡事が行はれるのはこれまた不可避なのである。  以上の事を否定する者は一人もゐないと私は信ずる。が、それならここで私が、「暗殺、裏切、密告、拷問は、社會的不正を糺す良き政治にとつて不可缺だ」と言切つたら、讀者は私に同じるか。同じまい。では、なぜ同じないのか。無論、それは目的の爲に手段を選ばぬ事を認めたくないからであらう。だが、手段を選んでゐては、革命などといふ荒療治をやれる筈が無い。強者が恣に振舞ひ、弱者が極度の貧苦に喘いでゐる時、吾々はルソーと共に、同胞の悲慘を見るに忍びない「生來の感情」を信じ、「義を見てせざるは勇無きなり」とて荒療治を躊躇せぬであらう。他人の苦惱をおのが苦惱以上に苦しむといふのは嘘である。が、厄介な事に、人々はそれは決して嘘ではないと思ひたがるのである。ソクラテスは「不正をなすよりも不正を忍ぶはうがよい」と言つたが、そんな「理性的な徳」で人間は動きはしない、とルソーは言ふ。苦惱する同胞を見て「反省せずに助けようとする」のは憐憫の爲であり、それは「自然な感情」であり、ゆゑに「精密な議論」なんぞを必要としない、と言ふ。  なるほど、不正を忍び懊惱する同胞を尻目に、「死にたければ死ぬがよい、俺さへ安全なら何百何千死なうと構はぬ」などと嘯く冷血漢を、吾々は許せないのである。それなら、さういふ冷血漢は成敗せねばならないか。荒療治をやらねばならないか。それに何より、人を殺すのは道徳的に惡しき事だといふが、人を殺した惡い奴を殺す事は果して惡い事なのか。惡人を殺す事が惡いなら、なぜ死刑制度を撤廢しないのか。私は詭辯を弄してゐるのではない。これは難問中の難問であつて、古來多くの哲人が考へ拔いたが、今なほ決着はついてゐないのである。「汝の敵を愛せ」と言つたイエス・クリストは決着をつけた積りだらうが、吾々凡人は「カイゼルのもの」にこだはつて、「神のもの」だけを重んずる譯には到底ゆかない。  イエスはかう言つてゐる。「なんじらのうちたれか百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、往きて失せたるものを見いだすまではたづねざらんや」。けれども、九十九匹を重んじて、いや五十一匹を重んじて、「失せたる一匹」どころか「失せたる四十九匹」を切り捨てるのが政治といふものだ。道徳は切り捨てられる四十九匹は愚か「失せたる一匹」にもこだはるであらう。殺人鬼の妻は夫を何とか庇はうとするであらう。が、カイゼルの世界、即ち政治の世界では、殺人鬼はやはり切り捨てねばならない。すなはち處刑されねばならない。 政治・道徳そして瘠我慢  既に充分であらうが、この政治と道徳との對立も百年千年經つて一向に決着がつかないのである。そして、防衞とはもとより一朝有時の際敵兵を殺す事だから、防衞を論じて道徳の問題を避けては通れぬ筈だが、吾國の防衞論議は核武裝がどうの、文民統制がどうの、ソ聯の脅威がどうのと、十年經てば變りうる政治の問題にのみかかづらつてゐる。だが、善人ぶるのも人間の性だから、當人は政治の次元で考へてゐる積りでも、ついうつかりして道徳の次元に迷ひ込む事はある。その時はどうなるか。政治と道徳とをいとも安直に混同する事になる。さういふ例は枚擧に遑無しだが、ここでは猪木正道氏の文章を引くとしよう。猪木氏は三十年前かう書いた。  ほんとうの革命は、──イギリスの革命もアメリカの革命も、フランスの革命も、ロシアの革命も、又中國の革命も、──破壞的であると同時に創造的である。否、破壞的であるよりは、創造的なのである。新秩序を創造する革命は、したがつて新道徳を創造するから、道義の頽廢等起りようがない。(『革命と道徳』)  若き日の猪木氏は革命と道徳に言及して屡々兩者を混同してゐる。現在の猪木氏は防衞や憲法を論じて「道義の頽廢」に言及する事が無いけれども、例へば次のやうな文章を讀めば、猪木氏が今もなほ政治と道徳とを峻別してゐない事は明らかである。  全世界を敵として戰うという暴擧をあえて行つた軍國日本は、敗戰と全土占領の結果、非軍事化されてしまつた。これはいわば天罰である。  無論、「全世界を敵として戰う」のは下策だが、大東亞戰爭は果して「暴擧」だつたか。個人と同樣に國家も、全世界を敵に廻してもおのが信念を貫かねばならぬ時がある。そして、全世界が相手だらうが、一國が相手だらうが、戰爭は所詮殺し合ひである。敵も身方も道徳的惡事たる人殺しに專念するのである。天罰とは「天が加へる罰」ないし「惡事の報いとして自然に來る災ひ」の謂だが、殺し合ひの結果、軍門に降つたはうにだけなぜ天罰が降るのか。猪木氏の論理の粗雜についてここではこれ以上論じないが、要するに、猪木氏は政治と道徳とを峻別してゐないのである。それゆゑ、大東亞戰爭は侵掠戰爭で、侵掠戰爭の惡事たるは自明の理だと思つてゐる。そして、世間が自明の理としてゐるものを疑はぬこの種の知的怠惰は、もとより猪木氏に限つた事ではないのであり、自衞の爲の戰爭はよいが、侵掠戰爭は惡いと信じてゐる手合は頗る多いのである。だが、自衞の爲の戰爭を肯定する以上、他國の侵掠を想定してゐる譯であつて、それなら專守防衞論者は、侵掠が絶對に許されないのは自國の場合だけだと主張してゐる事になる。けれども、自國には絶對に許さないが他國の場合は仕方が無いといふ事なら、それは絶對に「絶對的な惡事」ではない。專守防衞とは先に手出しをしないといふ事でしかないが、子供の喧嘩と同樣、先に手出しをしたのがどちらか常に解るとは限らないし、先に手出しをした方が惡いとも言切れまい。  さういふ次第で、戰爭を絶對惡とするのは知的怠惰ゆゑの虚説なのである。平和とは國際政治の場で巧妙に振舞つて保持するのが賢明、といつた程度のものでしかない。先に引いたドストエフスキーの文章にもある樣に、「むしろひと思いに劒を拔いたほうがよい」といふ事があり、「長い平和」が「人間を獸」とし、「知的停滯」を齎すといふ事がある。平和がすなはち道徳的に善き事だなどと、どうして言切れよう。が、吾々日本人は今、平和と繁榮を享受し、「モラトリアム國家」を決め込み、政治と道徳を峻別せぬ「知的停滯」に落ち込んでゐる。俗に「味噌も糞も一緒」といふ。味噌と糞とを區別できない者には、味噌の何たるかも、糞の何たるかも遂に解るまい。政治と道徳を峻別出來ぬ者は、政治の何たるかも道徳の何たるかも知らず、その雙方を眞劒に考へる事が無い。それゆゑ、福澤諭吉の「瘠我慢」も森鴎外の「意地」も今や地を掃つたのである。福澤は「強弱相對していやしくも弱者の地位を保つものは、單にこの瘠我慢によらざるはなし。ただに戰爭の勝敗のみに限らず、平生の國交際においても瘠我慢の一義はけつしてこれを忘るべからず」と書き、自分は勝海舟と榎本武揚の「功名をばあくまでも認むる」が、兩氏が幕臣の身ながら「新政府の朝に立つの一段に至りては」感服できぬとて、二人の「瘠我慢」の無さを批判した。これに對して勝海舟は「古より當路者、古今一世の人物にあらざれば、衆賢の批評に當る者あらず。計らずも拙老先年の行爲において御議論數百言、御指摘、實に慙愧に堪へず、御深志かたじけなく存じ候」と、皮肉たつぷりの返事を出してゐるが、「行藏は我に存す、毀譽は他人の主張、我に與らず我に關せずと存じ候」と書いただけで、眞つ向からの反論はしなかつた。勝は「徳川幕府あるを知つて日本あるを知らざるの徒」が何を言ふかと、思つたのではない。瘠我慢の大事はこれを認めざるをえなかつたのである。榎本武揚も「そのうち愚見申し述ぶべく候」との短い返書を認めたが、榎本にしても、戰歿した「隨行部下の諸士」を思ふ時、「殘燈明滅ひとり思ふの時」、「死靈生靈、無數の暗鬼を出現して眼中に分明なること」があつた。明治三年、榎本は幕府軍の戰沒者について、「諸君を追想し、苟も涙あるものは慰弔の嘆あらざるなし。況や諸士と肩を竝べて幕府に仕へし我輩の如きをや、嗚呼哀しい哉」と書いたのである。  無論、勝にとつても榎本にとつても、福澤の批判は忌々しかつたらうが、福澤の批判は道徳に關るものであり、しかも二人には「殘燈明滅ひとり思ふの時」おのが心中を覗くだけの良心があつたから、反論はしなかつた。一方、福澤は勝と榎本に宛てた書簡に、「小生の本心はみだりに他を攻撃して樂しむものにあらず、ただ多年來、心に釋然たらざるものを記して輿論に質し、天下後世のためにせんとするまでの事」だと辯明してゐる。後世の吾々はそれを信じるであらう。勝の「奇にして大」なる功績や榎本の「あつぱれの振舞」を認めるとともに、福澤の本心をも信じるであらう。「立國の要は瘠我慢の一義にあり、いはんや今後、敵國外患の變なきを期すべからざるにおいてをや」と福澤は書いたのである。隔世の感に堪へない。 2 猪木正道氏に問ふ ──現實的保守主義者か、空想的共産主義者か 日本は軍事大國になれない  吾國は「大國たりうる素質」を有しながら、怠惰のせゐか卑屈な根性のせゐか、身體障害者よろしく振舞つてゐるが、「日本こそ眞先に核兵器を製造し所有する特權を有しているのではないか」と清水幾太郎氏は書いた。そんな「突拍子もない」事を放言して無事に濟む日本國ではないから、案の定、清水氏は保守革新の雙方から叩かれた。「袋叩きに遭つても殆ど痛痒を感じない」と清水氏自身言つてゐるのだから、もとより清水氏に同情する必要は無い。私はただ清水氏を叩いて保守と革新が、判子で押したやうに同じ事を言ひ立てたのを、頗る奇異に感じたのである。例へば猪木正道氏は清水氏の防衞論を「空想的軍國主義」の所産と斷じ、「舊大日本帝國的な軍事大國に逆戻りするのは、ごめんこうむりたい」と書いたが、猪木氏に限らず、防衞を論じて大方の論者は「わが國は軍事大國になつてはいけない」とする奇説を自明の理と看做して一向に疑ふ事が無いのである。無論、政治家もさうであり、二月三日附のサンケイ新聞によれば、「二日から始まつた通常國會の豫算審議は、專守防衞を批判した竹田統幕議長の發言をめぐつて冒頭から紛糾し、同日午後、早くも審議中斷となつた」が、「制服組の發言が強化されれば日本は危うくなるのではないか」との社會黨議員の質問に對して、鈴木首相は「日本は平和憲法下にあり、從つて專守防衞に徹しなければならない。(中略)わが國が軍事大國になることはない」と答へたといふ。つまり「わが國は軍事大國になつてはいけない」と、自民黨も社會黨も、男も女も、猫も杓子も言ふ譯だが、吾國が軍事大國になつてなぜいけないのか私にはさつぱり解らぬと、私は前章に書いた。  何たる無知蒙昧か、思ひ起すがよい、軍事大國たらんと分限も辨へず背伸びした擧句、大日本帝國は敗戰の憂目に遭つたではないか、さればこそ「軍事大國に逆戻りするのは、ごめんこうむりたい」のだと、猪木正道氏に倣つて大方の讀者は言ふかも知れぬ。が、軍事小國でありさへすれば再び決して敗戰の憂目には遭はないと、いかなる根據あつてさう斷じうるか。猪木氏は書いてゐる。  一九四一年十一、二月の大日本帝國と一九八〇年の日本國とを比べて見れば、清水幾太郎氏の讚美する軍事大國と彼が輕侮する軍事小國との國際的な立場は餘りにもはつきりしている。“舊い戰後”の日本國は孤立せず、北方を除いては友好國にとりかこまれているのに反して、軍國日本はABCD包圍陣に自爆しなければならなかつた。  猪木氏に尋ねたい、日本が軍事大國にならない限り、以後決して「ABCD包圍陣」ごときものに「自爆」する事が無いと言切れるか。言切れるとすればその根據は何か。アメリカとソ聯は軍事大國である。が、兩國はそれぞれ友好國ないし衞星國に取り圍まれてゐる。軍事小國でなければ「友好國にとりかこまれ」ないなどと斷じうる根據などありはせぬ。軍事大國が四面楚歌となり「自爆」する事もあらう。だが、軍事小國が「自爆」もできずして滅ぼされる事もある。それに何より、日本はアメリカやソ聯のやうな軍事大國になれる筈が無い。なれる筈が無いのになつては大變と騷ぎ立てるのは滑稽の極みではないか。 政治と道徳の混同  しかるにその滑稽を大方の日本人は意識してゐない。昭和二十年八月十五日、戰爭と道徳的犯罪とを混同するといふ途方も無い考へ違ひをして、すなはち本來失敗に過ぎぬ敗戰を道徳的惡事ゆゑの應報と勘違ひして、以來羹に懲りて膾を吹き續け、平和憲法を金科玉條として知的怠惰の三十數年を過して來たからだ。それゆゑ、ここでまづ、その勘違ひの發端に溯り、當時書かれた文章を吟味するとしよう。まづは小田實氏の文章である。  砲兵工廠の壞滅後、ビラの豫告通り、敗戰が來た。敗戰は「公状況」そのものを無意味にし、「大東亞共榮圏の理想」も「天皇陛下のために」も、一日にしてわらうべきものとなつた。私は、中學一年生という精神形成期のはじめにあたつて、ほとんどすべての價値の百八十度轉囘を經驗したのである。「鬼畜米英!」と聲高に叫んだ教師がわずかの時日ののちには「民主主義の使徒アメリカ」、イギリスの紳士のすばらしさについて語つた。その經驗は、私に「疑う」ことを教えた。すべてのものごとについて、たとえどのような權威をもつた存在であろうと、そこに根本的懷疑をもつこと、その經驗は私にそれをいまも強いる。(『「難死」の思想』)  小田氏が一切を疑ふやうになつたと言ふのは嘘である。嘘でないなら自己欺瞞である。小田氏は昭和二十年八月十四日まで「權威をもつた存在」として通用してゐたものの一切を、十五日から疑ふやうになつたに過ぎない。その證據に小田氏は、猪木正道氏と同樣、民主主義や文民統制の萬能をつひぞ「根本的」に疑つた事が無いであらう。そしてそれも、猪木正道氏と同樣、「第二次大戰でわれわれ日本人がおかした罪」を「まざまざと想起」した結果、「おのずから嚴肅な精神」とやらを「體得」したからであつて、平和憲法の「前文や、第二章、第三章、及び第十章のあたりを熟讀玩味」(猪木氏)した結果、「わが國は軍事大國になつてはいけない」と頑に信ずるやうになつたために他なるまい。  ところで、かつての「べ平連」の「鬪將」が右に引いた文章を綴つたのは昭和二十六年だが、その前年、先の防衞大學校長猪木正道氏も、「空想的平和主義者」小田實氏の言分と大差無い事を書いたのであつた。かうである。  道義の頽廢の原因を究明してゆくと、結局ポツダム革命がほんとうの革命ではないというところに歸着するようだ。舊秩序はもう燒がまわつており、内部的に崩壞しているから、舊道徳の復活によつて、道徳の頽廢を防ごうという考え方は失敗するにきまつている。そこで正しい解決法は、ほんとうの革命をやるよりほかにないということになる。ところがこれが一番難題であつて、中國やロシアのような流儀で、共産主義革命をやろうとしても、日本では成功の公算はない。(中略)それではこの難問が解けるまでの間は、どうするか? 今まで道徳と革命との關係の面ばかりを強調して來たが、道徳には、實は連續的な面がある。道徳の現象形態は革命を通じて變化するが、道徳の本質は、人間が人間である限り變るものではない。(中略)この不變の道徳を何と名づけるか、これは名づける人の勝手だ。(中略)何かはつきり書いたものが欲しいというならば、憲法に限る。占領軍が作つたからいけないという人もあるようだが、これはとんでもない話で、誰が原稿を書いたにしても、よいものはよい。日本にほんとうの革命が行われるまで、あの憲法を精讀することだ。あの憲法の前文や、第二章、第三章、及び第十章のあたりを熟讀玩味すれば、第二次大戰でわれわれ日本人がおかした罪はまざまざと想起され、おのずから嚴肅な精神さえある程度體得できる。(「革命と道徳」、『現代隨想全集』第十六卷所收、東京創元社、傍點松原)  猪木氏はここで政治と道徳とを混同してをり、その事については追ひ追ひ述べるが、とまれ、猪木氏は、平和憲法には「不變の道徳」が「はつきり」表現されてゐると信じ、日本に「ほんとうの革命」が「行われるまで」は平和憲法を護らねばならず、改憲など斷じて許されないと主張した譯である。猪木氏の言ふ「ほんとうの革命」とは、傍點部分の「あたりを熟讀玩味すれば」、共産主義革命の事だといふ事が解る。昭和二十七年上梓の『戰爭と革命』、百五十六頁にも、猪木氏は「イギリスでは、議會主義を堅持しながら、プロレタリアの獨裁が實現されるのかも知れません」などと書いてゐるのだが、プロレタリア獨裁と議會制民主主義とは水と油で、そんなものが兩立する筈は無い。さういふ突拍子もない事を言ふから、「貧弱かつ劣惡な知識しかなく、わが國の防衞政策を論じるに全く適さない人物」だなどと評されるのである。 空想的平和主義者だつた猪木氏  ところで、昭和五十六年の今、猪木氏は依然として日本に「ほんとうの革命」が興ればよいと考へてゐるのであらうか。右に引いた三十年前の文章は「空想的平和主義」の所産に他ならず、猪木氏はさらに「新憲法の平和主義も、今日ではもう眞面目に問題とされていない」、遺憾であるとか、「第二次大戰の放火者であり、かつ完敗者であるわれわれ日本人が、そう簡單に動搖してはならないはずだ。第二次世界大戰を通じて、われわれは勝利者達に教えてもらつたが、今や敗北者が教えるべき時ではなかろうか」とか書いてゐるのだが、今日の猪木氏はどうなのか、空想的ならざる平和主義者なのか。  猪木氏は今なほ「日本人がおかした罪」を「まざまざと想起」し、「新憲法の平和主義」が「今日ではもう眞面目に問題とされていない」事を遺憾に思ひ、「敗北者」たる日本が「勝利者」たる英米ソ中の四ヶ國に「新憲法の平和主義」の精神を教へてやるべきだと考へてゐるのであらうか。昨年、清水幾太郎氏を批判して猪木氏はかう書いた。  かねがねから私は、戰後日本の空想的平和主義が、空想的軍國主義を生むのではないかと懸念していた。戰後の空想的平和主義が戰前・戰中の空想的軍國主義の裏返しであるからには、敗戰後三十五年をへた今日、またその裏返しとしての空想的軍國主義が噴出したとしても決して不思議ではない。  その通り、決して不思議ではない。不思議なのは、さうして昭和五十五年に空想的平和主義を批判してゐる「現實主義者」の猪木氏が、昭和二十五、六年には空想的平和主義者だつたといふ事實である。「革命自體が、實は不變の道徳によつて可能となつた」のであり、それは吾國の平和憲法に表現されてゐるなどと主張する者を「空想的」と呼ばずして何と呼べようか。若き日の猪木氏には人間の度し難い權力欲が見えてゐない。正義感に燃える革命家の内面にも權力欲は潛んでゐる。そしてそれが仲間に向けられる時は肅清となり、民衆に向けられる時は獨裁となる。無論、猪木氏も人間なのだから、三十年前も今も、權力欲があつて當然である。が、三十年前も今も、猪木氏はおのが權力欲を一向に氣にしない。實生活においては、吾々と同樣、結構權力欲に駈られて行動する事もある筈だが、文章を綴る段になると、おのが權力欲には目を瞑り、とたんに空想的な道學先生になる。この手の空想家ほど始末の惡い存在は無い。それは計り知れない害毒を流す。おのがエゴイズムを抑へうる者はおのがエゴイズムに手を燒く者だけだといふ事を、すなはち有徳たらんと欲する者は、おのが不徳に思ひをいたす者だけだといふ事を、昨今人々は眞面目に考へようとせず、平和憲法護持を唱へればすなはち道徳的であるかのごとく思ひ込んでゐるが、さういふ僞善と感傷の流行に空想的平和主義者たちは大いに貢献したのである。  だが、猪木氏は清水氏を空想的軍國主義者と極めつけてゐる。「かねがねから私は、戰後日本の空想的平和主義が、空想的軍國主義を生むのではないかと懸念していた」と猪木氏は言ふ。「かねがねから」とは一體いつ頃からの事なのか。いつ頃から、いかなる囘心を經て、猪木氏は「現實主義者」に變貌したのか。昭和五十五年現在、空想的軍國主義と空想的平和主義の雙方を批判してゐるのだから、往時は知らず、今の猪木氏は現實主義者なのである。或いはその積りでゐるのである。それゆゑ猪木氏は人間の行動の「動機」よりも「結果」を重視する。猪木氏は書いてゐる。  清水幾太郎氏の思想の軌跡には、私は關心がない。(中略)ただ困るのは、清水幾太郎氏の今度の論文が、日本の防衞力整備にとつてむしろマイナスの效果をもたらすと思われる點である。單に國内的にそういう逆效果があるだけでなく、國際的にも、日本の“軍國主義化”といういわれのない非難を生む心配は大きい。歴史をふりかえれば、人間の行動がその動機とは正反對の結果をもたらした例は少くない。  いかにも「人間の行動がその動機と正反對の結果をもたらした例は少くない」。が、猪木氏の清水批判にしてからがさうではないか。現に東京新聞の「論壇時評」で奧平康弘氏は、猪木氏は「清水の憲法敵視論にも有效な批判を加えている」と評し、讀売新聞の「今月の論點」では正村公宏氏が、猪木氏の論文は「清水論文にたいするゆきとどいた批判である」と評した。猪木氏の清水批判が非武裝中立を主張する護憲派を勢附ける「結果をもたらした」といふ事も充分に考へられるのである。  もつとも、猪木氏は昭和二十七年、「民主主義と平和主義の憲法をかたく守つて行くことが、日本を世界に結びつけ、日本人を人類に媒介する唯一つの正しい道だ」(傍點松原)と書いたのであり、この考へが今なほ變つてゐないとすれば、頑な護憲論者たる猪木氏の「改憲論批判」といふ「行動がその動機と正反對の結果をもたらした」とは言へなくなる。そしてそれなら、猪木氏の清水批判によつて非武裝中立論者が勢附くのは、猪木氏の望むところだといふ事にならう。 改憲論者なのか護憲論者なのか  しかるに猪木氏は昨年、「憲法改正はほとんど不可能」だとする清水幾太郎氏を批判して、改憲は「不可能どころか、充分に可能」であり、「國民の壓倒的多數が納得する改正案ができれば、いつでも改憲に踏み切つてよい」と書いたのである。猪木氏に問ふ、「平和憲法をかたく守つて行く」との三十年前の信念を、猪木氏はいつ放擲してしまつたのか。堅く護るといふ事なら、部分的な改正にも應ずべきではない。猪木氏は清水氏を評して「狐が落ちたように變身」とか「百八十度の轉針」とか言つてゐるが、猪木氏もまた變身し轉身したのなら、それこそ目糞鼻糞を嗤ふの類ではないか。  しかも厄介な事に、三十年前の猪木氏の意見と今日のそれとが矛盾してゐるだけでなく、今日の猪木氏の主張も頗る不得要領なのだ。猪木氏は書いてゐる。  憲法第九條第二項を小、中學生が讀めば、自衞隊を違憲だと思うだろうというのならば、第二項を「前項の目的を達するため自衞軍を置く」とでも改正すればよい。(中略)國民の壓倒的多數が納得する改正案ができれば、いつでも改憲に踏み切つてよいと私は考えている。問題は改憲の國際的反響にある。そもそも日本國憲法が日本を國際社會へ復歸させるための條件をととのえるという國際條約的な意味をもつていたからには、改憲、特に第九條第二項の改正は當然國際的な反響を伴う。(中略)憲法、特に第九條の改正は日本が軍事大國化を決意したと見られる公算は大きいのである。  「平和主義の憲法をかたく守る」どころか、第九條第二項の改正私案まで披露し、しかも、いづれ述べるが、「憲法の前文削除」を主張し、輿論の風向き次第では「いつでも改憲に踏み切つてよい」と言ひ、舌の根も乾かぬうちに「第九條の改正は日本が軍事大國化を決意したと見られる公算は大きい」と言ふ。一體全體猪木氏は何が言ひたいのか。  かういふふうに考へる事ができる。「防衞大學の校長まで勤めた猪木氏が、まさか……」と大方の讀者は思ふに相違無いが、猪木氏は三十年前と少しも變つてをらず、依然として「日本にほんとうの革命が行われる」日を待ち侘び、「共産主義の誤謬ばかり見て、眞理を見落すのは片手落ちだ」と信じてゐるのであり、それゆゑ、空想的なものではあつても軍國主義的言動を許す事ができないのではないか。とすれば、猪木氏は三十年前の「空想」を今も捨ててゐないといふ事になる。今なほ「空想的平和主義者」なのだといふ事になる。勿論、この解釋には無理があつて、それはいづれ説明するが、無理があるといふ事はすなはち、別樣の解釋が成り立つといふ事である。つまり、三十年前「空想的平和主義者」であつた猪木氏は、その後「狐が落ちたように變身」して現實主義者になつたのであり、それゆゑ平和主義であれ軍國主義であれ、およそ「空想的」なものには我慢ができぬのだと、さう解釋する譯である。  説明の都合上、しばらくさう解釋しておくとしよう。すなはち猪木氏を現實主義者と看做すのである。昨年猪木氏は「少くとも二十世紀中は、わが國は軍事大國になつてはいけないのである」と書いた。なぜ二十世紀中はいけないのか理解できないが、好意的に解釋すれば、これも猪木氏の頭腦の粗雜の證しではなく、なんら理由を示さずに斷定するはうが政治的に賢明だといふ、現實主義者特有の判斷にもとづくのであらう。しかしながら、「日本國憲法第九條が、軍事大國になることを阻止していることはたしか」だが、「國民の壓倒的多數が納得する改正案ができれば、いつでも改憲に踏み切つてよい」、けれども「二十世紀中は軍事大國になつてはいけない」などと言はれると、「いつでも金を貸してやるが、二十世紀中は他人に借金するやうな男であつてはいけない」と言はれた時と同樣に面喰ひ、猪木氏が正氣なのか狂氣なのか、改憲論者なのか護憲論者なのか、私にはさつぱり解らなくなる。いや、それとも猪木氏は、護憲改憲いづれか一方の立場に立つ事が「マイナスの效果をもたらす」のであり、時に應じていづれの立場にも立つ事が「プラスの效果をもたらす」と考へてゐるのかも知れぬ。さういふ考へ方の是非については前章に縷々述べたから、ここでは繰返さないが、これを要するに、猪木氏もまた淺はかな實利主義者にすぎないといふ事になる。  ところで日本が軍事大國になつてなぜいけないのか、と私は書いた。吾國は今後遮二無二軍事大國を目差すべく、核の保有もためらふべきでないなどと、私はさういふ景氣のよい事が言ひたいのではない。軍事大國になる事を政治的に賢明ならざる事、もしくは道徳的に惡しき事であるかの如く言ふ知的怠惰を怪しむまでの事である。さういふ知的怠惰ゆゑに人々は政治と道徳を混同し、政治を論じて道徳を論じてゐるかのやうに錯覺する。それゆゑ昨今は道徳の問題が眞劒に論じられる事が無い。猪木氏は「改憲とか、ソ聯の脅威とか、核武裝とかの、防衞にとつて當面虚なる問題を防衞論議から切り離」せと言つてゐるが、猪木氏に限らず大方の日本人は道徳の問題を「當面虚なる」ものと看做してゐる譯であり、それゆゑ猪木氏のやうに「防衞豫算中の裝備費を倍増し、施設整備費を二倍半にし、研究・開發費を十倍に増加」すべしなどと、專ら「當面實なる問題」を論じて「精神面の問題」を一向に論じないのである。猪木氏は自衞隊についてもかう書いてゐる。  裝備をいくら近代化しても、士氣、紀律を向上させなければ役に立たないというのは空論である。時代遲れの武器を使わせて、士氣を高めよといつても無理だ。非核裝備としては第一級の武器を配備すれば、精神面の問題もおのずから解決する。募集の問題もこれにともなつてますます改善されることは疑いない。  なるほど「時代遲れの武器を使わせて、士氣を高めよといつても無理」である。が、「第一級の武器を配備」しても、戰ふ氣力の無い軍隊なら「專守防衞」すら覺束無い。今の自衞隊に缺けてゐるのは、「當面虚である」かに見える國軍としての誇りではないか。國民が自衞隊に「奴隸的苦役に從事」する土建屋としての存在理由しか認めてゐないのなら、「第一級の武器」を與へられたとしても心有る青年が進んで入隊する筈が無い。防衞問題の「權威」として自他ともに許す猪木氏の書庫には、汗牛充棟、定めし「第一級の文獻・資料が配備」されてゐるに違ひ無い。だが、それで猪木氏の「精神面の問題」は「おのずから解決」してゐるか。いかほど士氣旺盛であらうと知力を缺けば猪武者に過ぎぬ。同樣に、第一級の文獻が「配備」されてゐようと、緻密に頭を使ふ事ができなければ立派な學者とは言へまい。そして次のやうな文章が緻密な頭腦の所産とは私にはどうしても思へない。  法學に無縁の人々が、奇妙な法理論を展開している情景は、こつけいだと思う。“一億總法匪”時代になつては大變だ。すぐれた憲法學者が少いことを考えると、他の分野の知識人が憲法を論じたくなる氣持はわかるが、文學者や哲學者の憲法論議は、やはり一國民としての意見以上の意味はあるまい。 一億總懺悔の後遺症  「すぐれた憲法學者が少い」との判斷を「すぐれた憲法學者」が下すとは限るまいが、猪木氏は屡屡憲法を論じてゐるのである。では猪木氏は、自分も「すぐれた憲法學者」の一人だと言ひたいのか。それとも自分は「他の分野の知識人」で、自分の意見にも「一國民としての意見以上の意味は」無いと承知してをり、自分はこれほど謙虚なのに「文學者や哲學者」が身の程を辯へずして憲法を論ふ厚かましさに苦り切つてゐるのか。けれども「第九條だけを非難彈劾するのは、まるで子供の論理」だとして高飛車に清水幾太郎氏を批判してゐる猪木氏が、さまで謙虚だとは思へない。とすれば猪木氏は「すぐれた憲法學者」をもつて自ら任じてゐる事になる。つまり猪木氏は「文學者や、哲學者の憲法論議」は取るに足らぬが、「すぐれた憲法學者」たる自分の憲法論には「一國民としての意見以上の意味」があると主張してゐる事となる。だが、それほどの自信があるのなら、「國民の壓倒的多數が納得する改正案ができれば」などと心にも無い事をなぜ書くか。  それに何より、日本國憲法は音符で書かれてゐるのではない。憲法は文章であり、憲法學者も文章を綴つて憲法を論ずるのである。猪木氏の文章は杜撰だが、杜撰な文章を綴る「すぐれた憲法學者」などといふ化物は斷じて存在しない。  ところで、軍事大國になる事を道徳的惡事と思ひ做す知的怠惰についてだが、この怠惰は戰後三十數年、日本國に蔓延つて今なほ猖獗を極めてゐる。そしてそれは敗戰に際して大方の日本人が、自明ならざる事を自明と思ひ込んだ迂闊に端を發する。先に述べたやうに、猪木氏も「第二次大戰でわれわれ日本人がおかした罪」を「まざまざと想起」した譯だが、猪木氏のいふ罪とは道徳的な罪なのだ。猪木氏は當時、「道義の頽廢を嘆く聲は次第に高まつて」をり、「しかもこの聲が、右旋囘の波に乘つていることも、大體豫期の通り」だが、「汚職も、エロも、暴力も、皆戰爭中から始まつている」のであつて、「國内には暴力やエロが一見少いように見えた時でも、國外で日本人が何をしていたかを想起すれば、敗戰ではなくて、戰爭が責任を負わなければならないことは、明らかだ」と書いたのであつて、それは淺薄にも戰爭を道徳的な惡事だと思ひ込んだために他ならない。  戰時中「國外で日本人が何をしていたか」。勿論この場合は「侵掠」を意味しよう。つまり猪木氏は「敗戰」ではなく「侵掠戰爭」が道義的頽廢を齎したと主張してゐる譯だが、道義的頽廢を齎したものが道義的に善きものである筈は無いから、猪木氏は侵掠戰爭を道義的に惡しきものと思ひ做した譯である。そしてさうなれば、敗戰を善き事と思ひ做すのも自然であり、さればこそ猪木氏は大日本「帝國が崩壞した時、私は正直にいつて、一種の解放感を味わつた」と書く事ができたのであつた。  そして、猪木氏に限らず、敗戰によつて「解放感を味わつた」日本人は、「利口な奴はたんと反省しろ、俺は馬鹿だから反省しない」と放言した小林秀雄氏や、「眞の勇氣ある自由思想家なら、いまこそ何を措いても叫ばなければならぬ事がある。天皇陛下萬歳!」と書いた太宰治のやうな旋毛曲りを除き、一億一心、「一億總懺悔」の迂闊を演じて、侵掠戰爭のみならず一切の戰爭を道徳的犯罪と思ひ込んだのであり、「一億總懺悔」とは政治と道徳とを峻別できぬ知的怠惰が齎した世にも稀なる怪現象であつた。しかも日本國民は、今なほその後遺症を患つてゐるのである。 改正すべき憲法  その度し難き後遺症を嗤ふべく、私は前章にかう書いた。  要するに猪木氏は政治と道徳とを峻別してゐないのである。それゆゑ、大東亞戰爭は侵掠戰爭で、侵掠戰爭の惡事たるは自明の理だと思つてゐる。(中略)だが、自衞の爲の戰爭を肯定する以上、他國の侵掠を想定してゐる譯であつて、それなら專守防衞論者は、侵掠が絶對に許されないのは自國の場合だけだと主張してゐる事になる。けれども、自國には絶對に許さないが他國の場合は仕方が無いといふ事なら、それは絶對に「絶對的な惡事」ではない。  敢へて誇り顏に言ふが、これは誰にも否定できぬ論理ではあるまいか。そして知識人が知的誠實を重んじなければならぬとすれば、論理的に正しい事は、それがいかに不快な事實であれ、そのまま率直に認めなければならない筈ではないか。「日本は飽くまでも專守防衞に徹する所存であり」云々と、國會で政治家は紋切型の答辯をする。政治家の紋切型は構はぬ。總じて政治家はその時々政治的に賢明と思はれる事だけを語るのである。が、政治家をも含め、人間には知的誠實といふ事も大切なのであつて、それはつまり、專ら黨派の利害のみを顧慮して物を言つてはならぬといふ事である。そして、知的誠實を旨とする以上、政治的賢明は二の次とせざるをえず、保守のでたらめは見逃して革新のそれは論ふ、さういふ不誠實な態度を採つてはならない。例へば、かうして私は猪木正道氏を批判してゐるが、それを保守陣營の和を亂す淺はかとして保守派は苦り切るかも知れず、「保守同士の内ゲバ」と看做して革新は喜ぶかも知れぬ。が、さういふ精神の陋劣を私は蔑む。さうして黨派の利害ばかりを重んじて生きてゐるから、敵身方思考を超えるものにはさつぱり思ひ至らない。が、政治と道徳に關する難問は黨派を超えてゐる。「沂に浴し、舞雩(う:雨+*)に風し詠じて歸らん」と曾皙が言つた時、孔子は「喟然として歎じて」答へたといふ、「吾は點に與せん」(『論語』先進篇第十一)、これまた黨派心なんぞとは何の關りも無い話ではないか。  もとより政治家は黨派の利害を無視する譯にはゆかぬ。が、政治家も人間であり、「舞う(雨+*)に風し詠じて歸」る樂しさは知つてゐよう。また、治國平天下のためには「惡魔の力と契約する」政治家も、黨派を超える道徳、すなはち修身を無視できまい。今は昔、國防を論じて日本の政治家も知識人も頗る眞劒であつた。そして例へば佐久間象山にせよ會澤正志斎にせよ、治國平天下を論じて必ず修身斉家に言及してゐる。なるほど「公の私」といふ事もあつたが、私の爲すべき修身なくして治國平天下はありえぬと、彼等は信じて疑はなかつた。しかるに今、識者は專ら治國平天下を論じて修身に言ひ及ぶ事が無い。國防を論じて道徳に言及する事が無い。修身といふ言葉によつて人々が連想するのはかつての徳目教育なのである。が、修身とは吾身を修めるの謂である。そして吾身を修めるためには、時に自己犧牲をも辭さぬ心構へが無くてはならぬ。道徳とはいつの世にも自己犧牲を強ひるものだが、さう考へれば、ここでも吾々は政治と道徳とを峻別せざるをえない事となる。國家が他國に對して自己犧牲に徹するなどといふ事は、金輪際ありえないからである。  それはつまり、國家と國家との間には利害の一致による友好關係はありえても、道徳的な附合ひは成り立たないといふ事だ。が、さういふ事が大方の日本人には理解できない。もとより政治と道徳との混同を好むからであつて、憲法前文こそその混同の好箇の實例に他ならぬ。「平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」などといふ、專ら他國の善意を當てにして生きようとする卑屈極まる文章を含む憲法は、世界に類例の無いものではないか。  それゆゑにこそ私は憲法を改正すべきだと考へる。猪木氏は第九條第二項を「前項の目的を達するため自衞軍を置く」とでも改正すればよいと言ふ。さういふ姑息な彌縫策ではもはやどうにもならぬ。政治と道徳、法と道徳を峻別できぬ、日本人の脆弱な精神を矯めねばどうにもならぬ。憲法は聖書ではない。聖書の改正は無論不可能である。それは道徳に關する聖典だからだ。が、憲法は「カイゼルのもの」である。何度改正しようと一向に構ひはしない。猪木氏は書いてゐる。  歴史を尊重し、價値を守る立場に立つ人々の中に、現行憲法を無效呼ばわりするものが見受けられるのは、遺憾この上ないことと言わなければなるまい。現行憲法無效論によつて、最大の利益をうるものは破壞勢力にほかならない。  猪木氏はなぜ「破壞勢力」の利益などを慮るのか。なぜ他人の思はくばかり氣にするのか。  猪木氏は清水幾太郎氏について「清水氏の今度の論文が、日本の防衞力整備にとつてむしろマイナスの效果をもたらす」と書き、ソ聯の脅威を力説する識者について「ソ聯軍がいとも簡單にわが國を制壓する状況を怪しげな“專門知識”で描寫すれば、善良な日本國民のなかには震え上がる人も少なくあるまい」と書き、栗栖前統幕議長について「國民が誤解しても不思議でなく、誤解が生ずる惧れは當然豫期されたはず」と書く。だが、好んで誤解を招くやうに振舞ふ馬鹿はゐまいが、人間は時に他者の思はくを無視し、誤解は覺悟の前で「眞情を吐露」せねばならぬ事もあるではないか。 猪木氏の御都合主義  さて、私はこれまで猪木氏を現實主義者と看做して來た。が、それにも少々無理がある。現在の猪木氏の文章のあちこちに、三十年前の「空想的理想主義」がはつきり讀み取れるからであつて、猪木氏は實は、三十年前と少しも變つてゐないのではないかと私は思ふ。今もなほ猪木氏は、「日本にほんとうの革命が行われる」日を、一日千秋の思ひで待ち侘びてゐるのではないか。かつて防衞大學の校長を勤めたのも、今、總理大臣の諮問機關たる綜合安全保障研究グループの議長を勤めてゐるのも、「ほんとうの革命が行われる」までの身過ぎ世過ぎ、いはば世を忍ぶ假の姿なのだが、自民黨も世人も猪木氏の「遠謀深慮」を看破れずして、「保守イデオローグの第一人者」と看做してゐるのではあるまいか。  清水幾太郎氏は一所懸命に辻褄合せをやつたのである。それはなるほど悉く破綻したかも知れぬ。が、私は清水氏の辻褄合せを猪木氏の御都合主義もしくは「遠謀深慮」よりも好ましく思ふ。辻褄を合せようとして足掻くのは、知的誠實を全く持合せぬ人間の決してやらぬ事だからだ。が、猪木氏は三十年前の自説と今日のそれとの辻褄合せをやつてゐない。三十年前の猪木氏は「民主主義と平和主義との憲法をかたく守つて行くことが(中略)唯一つの正しい道だ」と書いたのである。猪木氏は今、「あの時はあのやうに書く事が政治的に賢明だつたのだ」と言ふのであらうか。  だが、昨年九月三十日附の『やまと新聞』によれば、猪木氏は「自民黨・國防議員連盟の勉強會に出席、憲法の前文削除や第九條の改正など改憲の注目される具體的提言」をし、「現行憲法の前文は大戰爭が終つた後の非常に特殊なふん圍氣のもとで書かれているから現状に合わない」と發言したといふ。  しかるに、同じく昨年、猪木氏は『中央公論』九月號に、憲法第九條を改正すれば「日本が軍事大國を決意したと見られる公算が大きい」と書いた。『やまと新聞』の記事が正確なら、猪木氏は『中央公論』九月號の讀者を愚弄した事になる。許し難き事である。それとも、九月號の原稿を書いてゐた時から、國防議員連盟の勉強會の當日までの間に、第九條の手直しをやつても「日本が軍事大國を決意したと見られる公算」は突如として小さくなつたのか。  猪木氏は三十年前、熱烈な護憲論者としてかう書いた。  わたくしは、民主主義と平和主義との憲法をかたく守つて行くことが、日本を世界に結びつけ、日本人を人類に媒介する唯一つの正しい道だと考えます。(中略)この憲法を守つてゆくことによつて、われわれ日本人は、イギリス、アメリカ、フランスの革命と結びつき、ロシア、中國の革命ともつながるのです。(中略)この憲法を捨てたり、改惡したりすれば、そのとたんに、日本の國土に住むありとあらゆる闇の力が、一斉に活動しはじめ、われわれ日本人は奈落の底へ落されてしまいます。これに反して、憲法さえ守り拔くことができれば、現在はいかに苦しくとも日本の前途には光明があります。  現行憲法を「かたく守つて行くこと」が「唯一つの正しい道」ならば、憲法前文の削除はもとより、第九條第二項を「前項の目的を達するため自衞軍を置く」と改める事さへ許し難い暴擧であり、それを默過すれば「日本人は奈落の底へ落されてしま」ふ事とならう。  とまれ、三十年前の猪木氏は紛れも無い「空想的平和主義者」であつた。では、私は猪木氏に問ふ。あなたの空想的平和主義は麻疹のやうなものだつたのか。そして麻疹を濟ませた時、ついでに知識人として「かたく守つて」ゆかねばならぬ筈の知的誠實をも思ひ切りよく放擲し、以來その都度賢明と思はれる事だけをその都度語つて、御都合主義で世を渡り、年貢の納め時をつひに迎へなかつたといふ事なのか。それとも、イギリスにおける「プロレタリアートの獨裁が實現」しなかつたにも拘らず、猪木氏は今なほ、日本國における「ほんとうの革命」成就を一日千秋の思ひで待ち侘びてゐるのであらうか。 III 日韓關係論における道義的怠惰 1 全斗煥將軍の事など 2 反韓派知識人に間ふ 1 全斗煥將軍の事など 軍人獨裁者か  五月十八日午前零時、韓國には全國非常戒嚴令が布かれ、戒嚴司令部は金大中氏を「學生や勞働者の騷動を背後から操つた容疑者」として、また金鍾泌民主共和黨總裁を「不正蓄財容疑者」として連行し、一切の政治活動を禁止したが、それを第一面に報じて朝日新聞は「事實上の軍政移行、全司令官が前面に」との見出しをつけた。「全司令官」とはもとより、國軍保安司令官兼中央情報部長代理・全斗煥中將の事である。五月十九日附のサンケイ新聞に、星野伊佑特派員が「全國非常戒嚴令の主役、全斗煥中將のプロフイル」を紹介してゐる。その一部を引かう。  昨年十二月十二日の“肅軍クーデター”いらい、軍の實權を握つた陸軍中將、全斗煥國軍保安司令官はさる四月、中央情報部の部長代理に任命され、それまでの戒嚴行政の裏方から一躍表舞臺におどり出、脚光を浴びたが、こんどの非常戒嚴令全國擴大という強硬策でも主役を演じたことは間違いない。  昨年十二月十二日、全斗煥將軍は、つとに朴大統領暗殺事件關與を疑はれてゐた當時の戒嚴司令官鄭昇和大將を逮捕したが、これは性急な「民主囘復」に強力な齒止めをかけ、朴正煕大統領が十八年を要してなほ成就し得なかつた難事業を、大統領殺害といふ不法行爲によつて成就し得ると思ひ込んだ一部の淺薄な韓國の政治家や知識人を震へ上らせたのである。  例へば、これは維新政友會の申相楚議員から聞い話だが、昨年十二月十一日附の韓國の或る新聞に、「民主囘復」こそ焦眉の急であるといつたやうな綺麗事を七十歳の知識人が書いたといふ。ところが翌旦、彼は全斗煥司令官による鄭昇和逮捕の報に接して仰天、申相楚氏に電話をかけて來て「あんな事書いてしまつて大丈夫だらうか」と震へ聲で言つたといふ。申相楚氏はかう答へた、「あなたはもう七十歳、棺桶に片足を突込んでゐる。今さら當世風に振舞ふ事はない。今後はもう何も言はずにゐる事だ」。  けれども、喉元過ぎれば熱さを忘れるのが人情で、一時は意氣銷沈した「民主囘復」派も、去る五月一日、日米首腦會談の席上でのカーター大統領による全斗煥批判に勇氣づけられてか、幼稚な正義病を煩ふ手合を煽動し、學生たちは全斗煥將軍に見立てた藁人形を「火刑に處し」、金大中氏は公然と申鉉碻(石+高)首相及び全斗煥將軍の辭任を要求、かくて今日の事態を招くに至つたのである。五月十九日付の朝日新聞はかう書いてゐる。  十八日に出された非常戒嚴令の全土への擴大を機に、全斗煥中央情報部(KCIA)部長代理兼國軍保安司令官が韓國政治の實權をにぎることになつた。与黨の民主共和黨總裁で、元首相の金鍾泌氏らを連行、國會の機能は停止という、豫想をはるかに超える強い姿勢で權力の座についた全氏だが、ソウルから傳わる情報では、その周圍は韓國陸軍士官學校十一期生の若手將軍たちが固め、先輩の國軍幹部らは手出しもできぬ状況にあると傳えられる。  かういふ新聞報道にばかり接する大方の日本人は、「強い姿勢で權力の座に」つき、「先輩の國軍幹部」も手が出せぬ全斗煥將軍の事を、冷酷無殘、泣く子も默る「軍人獨裁者」の如くに思つてゐよう。そして、さういふ先入主が日本人の韓國に對する反感や無關心を助長する事になる。けれども、私は全斗煥將軍に會ひ、その人柄に惚れ込んだのだが、將軍は頭腦明晰にして誠實、何とも魅力的な男だつたのである。實は私は金鍾泌氏にも會つた。會つて失望した。いや、正確に言へば、會ふ前から失望してゐた。金鍾泌氏が連行された今、安心してこれを言ふのではない。私は韓國でも金氏を批判したのであり、その事については證人もゐる。全斗煥將軍もその一人である。金氏についてはいづれ觸れるが、とまれ、私は將軍にぞつこん惚れ込んだのであつて、何はさて措き、それを讀者に傳へたいと思ふ。  私が先般、韓國を訪れようと思立つたのは、取分け全斗煥將軍に會ひたかつたからであつた。『VOICE』四月號に私は、鄭昇和戒嚴司令官を逮捕した全斗煥將軍を辯護する一文を寄せたのだが、書き終つてからの私は、將軍に會つてみたいと頻りに思ふやうになつた。辯護した當の相手の人柄を直接確かめてみたくなつた。そこで私は、先方の迷惑をも考へず、維新政友會の申相楚議員に『VOICE』を送り、全斗煥將軍に會へるやう計らつて貰ひたいと頼み込んだのである。將軍に直接手紙を書かうとさへ思つたが、將軍が日本語を讀めるかどうか、それが解らない。それに、立場上全斗煥司令官が外國人になど會ふ筈は無いと、友人は口を揃へてさう言つた。たまたま訪日した維新政友會の趙一濟議員も、「將軍は外國人はもとより、韓國のジヤーナリストにも會つてゐない。無用の誤解を避けるためだ。まづ會ふのは難しいだらう」と言つたのである。  だが、たとへ全斗煥將軍には會へずとも、敬愛する申相楚氏には確實に會へる。申相楚といふ名前を知つてゐる日本人は少いだらうが、昨年十月訪韓した際、私が最も魅せられた政治家が申相楚氏であり、彼と再會できる以上、全斗煥將軍に會へなくても構はぬ、私はさう思ひ、大韓航空七〇三便で成田を發つたのである。  けれども、ソウルに着いて、昨年十二月十二日全斗煥將軍が發揮した勇猛心の意義を改めて考へると、身命を賭して信念を貫いた勇將に一目會つてみたいといふ思ひは募る一方であつた。しかも私は、將軍が『VOICE』四月號の拙文を讀んだといふ事實を知つたのである。となれば、なほの事、斷念する譯にはゆかぬ、私は執拗に申相楚氏を口説き、たうとう念願を果したのであつた。 素顏の全斗煥將軍  ソウル市光化門の國軍保安司令部に全斗煥將軍を訪ねたのは四月二日の午後であつた。「富國強兵」と認めた朴正煕大統領の書を壁面に懸けた司令官室に請じ入れられた時、私がまづ見たのは、にこやかな表情の全斗煥將軍で、それはまさしく新聞やテレビで見知つてゐる將軍に違ひ無いのだが、滿面に笑みを湛へた將軍は、まるで別人であるかのやうに思はれた。  將軍は日本語を話さなかつた。背廣の青年が通譯を勤めたのだが、私はまづその通譯の顏を見て驚いた。色白の、利發さうな美青年だつたが、美青年だから驚いたのではない。「私が通譯を勤めさせて頂きます」と彼が言つた時、緊張のあまりその聲がうはずつてゐたからである。私は大學の教師だが、これほど緊張し切つた青年をつひぞ見た事が無い。私は思つた、この青年の緊張ぶりはまことに美しい、が、今の日本に、青年をこれほどまでに緊張させる大人がゐるだらうかと。私はかつて新聞で、大平首相と小學生の遣り取りを讀み、頗る不愉快になつた事がある。一人の小學生が大平首相に「大平さんは自分の顏をどう思ひますか」と聞いたといふ。言語道斷である。それに首相が何と答へたかは覺えてゐない。が、首相が小學生を叱らなかつた事だけは確かである。  通譯は緊張してはゐたものの一所懸命であつた。私は生來の早口であり、しかも、世間話は得手ではない。かてて加へて、同席してゐる申相楚氏は日本語を自國語のやうに話せる。後で知つたが、全斗煥氏も私の話の七割くらゐは理解できたといふ。さぞ通譯はやり難かつたであらう。私が長々と一氣に喋る事、彼はメモに書き留めねばならぬ。そのペンを持つ手がかすかに震へてゐる。少々可哀相だつたが、私はゆつくり喋らうとはしなかつた。「艱難汝を玉にす」るのであつて、大人の思ひ遣りは却つて若者を弛緩させるに過ぎない。  型通りの挨拶を濟ませると私は、十二月十二日の戒嚴司令官逮捕の經緯を新聞で讀み、將軍の機略と膽力に感心したと言つた。すると將軍は答へた、「いやいや、あれは言つてみれば巡査が泥棒を捕へたやうなもの、私はただ職務に忠實に振舞つたに過ぎない」。  私は「さうは思はない」と言ひ、さう思はない理由を憑かれたやうに喋つた。立場上、將軍としては到底答へられまいと思はれるやうな事まで喋つた。私もいささか緊張してゐたし、また行き掛かり上、それしか喋りやうがなかつたのである。だが、その頃から、保安司令部の若き通譯は次第に能力の限界を露呈し始めたらしい。私の隣に腰掛けてゐた申相楚氏が、「將軍の仰有つた事はですな……」と、通譯の手助けをやり始めたのである。私は申氏の協力を得、言ひたい事を言ひたいだけ喋つた。まるで將軍に喋らせる事を恐れてでもゐるかのやうに、最初のうちは一方的に喋り捲つた。  申相楚氏は韓國の政治家である。だが、私は申氏を政治家らしからぬ政治家として尊敬してゐる。それゆゑ私は、韓國の政治家についても忌憚の無い感想を述べた。立派な政治家にも私は出會つたが、韓國の新聞や週刊誌が報じてゐる三人の大統領候補者金鍾泌、金泳三、金大中氏の言動を知り、またぐうたらな政治家や知識人にも會つて、この危急存亡の時、學生や民衆に迎合し、票集めに汲々たるていたらくは何事かと、私は驚き、呆れ、かつ寒心に耐へなかつたのである。このていたらくで、もしも軍までが腰碎けとなれば、韓國は亡國の憂き目を見るであらう、だが、それを韓國軍が坐視する譯が無い、私はさう言つた。すると、全斗煥將軍は深く頷き、かう言つたのである、「なるほど、仰有るとほり、政治家や知識人はぐらついてゐる、が、韓國軍はしつかりしてゐます、その點だけはなにとぞ御安心願ひたい」。  それだけ聞けば充分であつた。私は將軍の率直に驚いた。それゆゑ歸國後金鍾泌氏連行のニユースに接しても、私は少しも驚かなかつたのである。やがてやや寛いで私は、司令官の寫眞を撮らせて貰へないか、また自分は軍事にかけてはずぶの素人であり、軍事機密を見せられたところで、機密の機密たるゆゑんも理解できまいが、是非とも眞劒勝負の韓國軍を見學したいのだが、と言つた。  將軍はインターフォンで寫眞撮影の手配を命じてからかう答へた、「韓國軍見學の件については考慮します」。通譯の言葉を聞いて私が咄嗟に思つたのは、「考慮します」とは誤譯ではないか、といふ事であつた。日本の政治家の常套語「前向きに檢討します」などといふ類のせりふを、全斗煥ともあらう男が口にする筈は無い。果して、ややあつてその點は明確になつた。將軍がかう言つたからである、「ここは保安司令部で、背廣を着た男もゐます。が、ここでなく最前線を御覽になれば、きつと松原さんもびつくりなさると思ふ」。  つまり、將軍が「考慮する」と言つたのは、どこの部隊を見せようかと、それを「考慮する」といふ意味だつたのである。  やがて寫眞技師がやつて來て、歡談中の吾々を撮影した。が、それで御仕舞になりさうな氣配だつたので私は思ひ切つて言つた、「私と司令官と、二人で一緒に撮りたいと思ひますが……」。  全斗煥將軍は頷き、私の手を取つて立上つた。「國軍保安司令官陸軍中將全斗煥」と記した大きな机を背にして二人が立つた時、申相楚氏が言つた、「これが日本の新聞に出たら大變、大變……」。私は言つた、「祕密、祕密……」。すると將軍も笑つて言つた。「祕密、祕密……」。それは將軍が最初に口にした日本語であつた。  私は「祕密、祕密」と言つただけだが、この時くらゐ日本と韓國とのずれを痛切に感じた事は無い。日本の新聞記者は全斗煥といふ名前も碌に知りはすまい、私はさう思つた。實際、これは歸國後家内に聞いた事だが、去る四月十四日、全斗煥氏が中央情報部の部長代理に任命された事を傳へた或る日本のニユーズキヤスターは、終始「金斗煥將軍」と呼んでゐたといふ。が、それを嗤つた愚妻にしても、亭主の口から全斗煥といふ名前を再三聞かされてゐて、いはば耳に胼胝ができてゐた、それだけの事に過ぎない。  寫眞撮影が濟んで再び腰を下した時、將軍は私を晩餐に招待したいと言ひ、私はまことに忝いと答へ、やがて吾々は辭去したのだが、將軍と會つて私が最も感銘を受け、かつ大いに安心したのは、彼の頭腦の明晰といふ點であつた。例へば、これを書く事を私は少々ためらはざるをえないのだが、實は將軍に會ふ前日、私は或る政治家から將軍宛の手紙を託されたのである。彼は私だけを書斎に通してかう言つた、「あす全斗煥將軍にお會ひになるさうだが、將軍は立派な男です、私が紹介状を書きませう」。  咄嗟に私は、これは私を利用して將軍に胡麻を擂らうとの魂膽ではないか、と思つた。私がいかに將軍に會ひたがつてゐたかは既に書いたとほりだが、申相楚氏に強引に頼み込んで會へる事になつた以上、紹介状などまつたく不必要なので、それをこの男が知らぬ筈は無い。が、私は「それは忝い」とだけ答へた。さう答へるしかなかつた。彼はハングルで紹介状を書き、封筒に「全斗煥仁兄」と書いた。その紹介状を私は、將軍と語り始めてからややあつて内隱しから取出し、「實はかういふ紹介状を頂戴したのですが……」と言ひつつ差出したのである。何と頭のよい男かと私が感心したのはその時であつた。將軍は一瞬頗る嚴しい表情になり、受取つた封筒を裏返し、差出人の名前を見、封筒の中身を取出さうともせず、それをそのまま脇手のテーブルの上に置き、再び何事も無かつたかの如く語り始めたのである。  「知的怠惰は道義的怠惰」だと、私はこれまで何囘か書いた事がある。全斗煥將軍に會ひ、申相楚氏と深附合をして、私はそれを確認した。申氏は金大中、金泳三兩氏について「頭の惡い人間の發想は、賢い人間の想像を絶する」と評したが、さういふ愚鈍な手合に、十二月十二日、全斗煥將軍が示したやうな膽力と搖がぬ節操は到底期待できないであらう。 眞の自由とは  だが、頭腦明晰と搖がぬ節操はもとより軍人だけの特色ではない。それゆゑ私はここで、韓國のあつぱれな文民についても語らねばならぬ。十九日間の韓國滯在中、私は申相楚氏とは殆ど毎日のやうに會ひ、朝鮮日報前主筆の鮮于煇(火扁+軍)氏と三人で、扶餘、群山まで弥次喜多道中をやつた。ここでその樂しい思ひ出をつぶさに語る紙數は無いが、とまれ、申氏も鮮于氏も頗る頭のよい男であつた。そして當然の事ながら、志操堅固の人であつた。そればかりではない、日本について、韓國について、齒に衣着せず物申す兩氏の自由闊達はまことに見事であつた。あの二人を眺めてゐると、日本よりもむしろ韓國のはうにこそ言論の自由があるのではないか、とさへ思はれたのである。アメリカや日本や韓國の政治家を私は糞味噌に言ふ事があつたが、さういふ時も、申氏と鮮于氏の喋りやうはまつたく自由であつた。およそ右顧左眄する事が無く、それゆゑ二人は自由なのである。  鮮于氏は朝鮮日報のコラムに「金載圭は犬畜生よりも劣る。犬だつてあのやうな事はしない」と書いたといふ。右にも左にもよい顏をしたがる韓國の大統領候補も、平和憲法は改正さるべきだと内心思ひつつも、國内國外の情勢を氣にしてそれを言ひ出せぬ日本の政治家も、右顧左眄するがゆゑに自由ではない。友人から聞いた話だが、日本社會黨の或る代議士は、「非武裝中立」なんぞ荒唐無稽と承知してはゐるが、なにせそれが社會黨の表看板、どう仕樣も無いのだと告白したといふ。この代議士も、要するに、黨の建前に縛られて本音が吐けぬ、つまり自由でない譯である。  もとより韓國にもさういふ手合は多い。鮮于氏から聞いた話だが、或る著名な大學教授が「維新憲法は四月頃までに改正しなければならない。さもないと學生がをさまらぬ」と言つたといふ。そこで鮮于氏が「あなた自身はどう思つてゐるのか」と尋ねると、教授は「自分としては改正の要無しと考へるが、それでは學生が承知しない」と答へたさうである。日本の大學にも、學生に迎合して學生に束縛されるこの種の腑拔けが多い事は、私自身がよく知つてゐる。  とまれ、申氏も鮮于氏も頗る自由闊達であつた。二人が日本を腐すと私が笑ひ、私が韓國を腐すと二人が笑つた。が、眞劒に論ずべき時は、三人とも頗る眞面目になつたのである。例へば、扶餘へ向ふ車中で申氏が言つた、「松原さんはずゐぶん自衞隊の惡口を仰有るが、自衞隊にも頭のよい侍がをりますぞ」。申氏がかつて日本を訪れ、自衞隊を見學した際、ブリーフイング役の將校が申氏にかう言つたのださうだ、「ええ、日本の自衞隊は男なのか、女なのか、それが解りません。日本の軍隊か、アメリカの軍隊か、それも判然としない。要するに妾のやうなものでありますから、いかが致しませう、ブリーフイングなんぞは止めにして、早速一杯やるに如くは無いと存じますが……」。なるほど見事な將校である。相手が韓國有數の飮兵衞だと看破つての應對ならなほの事見事である。が、その申氏の話を聞き終ると、鮮于氏が大層眞劒な表情で言つた、「しかし、申さん、そんな妾の軍隊にゐて、誇りだの生甲斐だのは一體どうなるんだ、え?」  鮮于氏と申氏はともに一九二二年生れ、同郷の、竹馬の友である。鮮子氏は著名な小説家で、小説家だけあつて大層話上手で、彼の冗談に私は車中で何囘となく腹の皮を縒つた。が、すでに述べたやうに、申氏にせよ鮮于氏にせよ、時に頗る眞劒になる。私は鮮于氏が「子供に土産を買つて歸る時なんぞ、ふと思ひますよ、この國はこの先どうなるか、今のうちにうまい物を食はせておいてやらう、つてね」と言つた時のしんみりした口調を忘れる事ができない。これまた飮兵衞の鮮于氏の事だから、「子供に土産を買つて歸る」のは、大方、飮み過ぎを反省しての事だらうが、それだけでは決してない。太平樂を享受してゐる日本の飮兵衞が、「この國はこの先どうなるか」などと、さういふ事を考へる筈は斷じて無いであらう。  申相楚氏にしても、普段はにこやかだが、時に頗る眞劒な表情になる。申氏は若い頃まづ日本軍から、ついで八路軍から、三度目は北朝鮮軍から脱走した體驗の持主なのだが、三月三十日、申氏の案内で「自由の橋」まで行つた時、これまで三度脱走した申氏が、四度目の脱走を敢行ぜねばならぬやうな事態だけはどうしても避けねばならぬ、と私が言つたところ、彼は急に嚴しい表情になり、かう答へたのである、「いや、もう逃げようとは思ひません。年が年だから兵隊にはなれないが、今度北が攻めて來たら、手榴彈で一人でも敵を殺して死ねれば、それで本望だと思つてをります」。  この二人の飮兵衞を時に頗る眞劒にならせるもの、それが韓國にあつて日本に無いものなのである。そして、頭がよくて、つまり知的に怠惰でなくて、それで眞劒勝負を強ひられると、人間は道義的にも見事に振舞ふのだといふ事を、私は今囘韓國で確かめた。道義的に振舞ふと言つても、それは道學先生振るといふ事ではない。自由奔放に振舞つてゐるかに見えながら、どこかで節を折らうとはしないといふ事である。申氏は髪はぼさぼさで、風采を構はず、濃紺の背廣の胸のポケツトに、黄色い大きな女物の櫛を突込んで平氣でゐるやうな男だが、朴大統領の思ひ出を語る時の語調には、節を折らぬ人間特有の眞情が溢れてゐた。或る時、申氏に朴正煕氏は「君のやうに權力を授けようとすると斷る人間がゐるものかね」と言つたといふ。また、禁煙中の朴正煕氏に會つた時、煙草を吸ひたくて申氏がもぢもぢしてゐると、朴大統領が言つたといふ、「申議員、もぢもぢしてゐるのは、要するに煙草が吸ひたいのではないか」。「お察しのとほり」と申氏が答へると、朴氏は言つた、「よし、では一緒に煙草を吸ふ事にしよう」。  かういふ思ひ出を語る時、申氏は眼を細め、懷かしくてたまらぬといふ風情だつたが、朴正煕氏の孤獨について語る時、申氏は何とも悲しげになるのであつた。或る時、朴氏が尋ねた、「申議員、君は今でも李承晩の惡口を言つてゐるのかね」。「言つてをります」。すると朴氏は言つた、「さうか、私はもう言はない。大統領といふ地位が惡黨に利用されがちなものなのだ。私はもう李承晩の惡口は言はない」。  だが、殺される十日程前、朴大統領は與黨議員のパーテイーに出席し、退席する際、竝んで見送る議員達と握手をしたが、申氏の前まで來ると、申氏の耳元に口を近づけ、「近頃、なぜ酒を飮みに來ないのかね」と尋ねたさうである。晩年の大統領は、茶坊主どもが巧妙に張り囘らした「人のカーテン」によつて外部から遮斷されてゐた。「知りて言はざるは不忠」といふ事を重々承知してゐた申氏も、まさか「人のカーテンゆゑに」とも言へず、「昨今、酒を愼んでをります」と答へたが、朴大統領は「をかしいな」とでも言ひたげに、申氏をじつと見詰めたといふ。「それが私が見た最後の大統領でした」と悲しげに申氏は言つた。  これを要するに、「大統領といふ地位が惡黨に利用されがちなもの」だといふ事をよく承知してゐた頭腦明晰なる朴正煕氏も、いつの間にかおのれの周圍に張られたカーテンには氣づかなかつた、といふ事なのかも知れぬ。が、それを神ならぬ身の吾々がどうして輕々に批判できようか。昔、韓國の或る代議士は、代議士のでたらめに腹を立て、「代議士なんぞ、皆、白手乾達だ!」と、自分が代議士である事も忘れ、國會で叫んださうである。「白手乾達」とは、ゆすりたかりで生計を立ててゐるならず者、といふほどの意味らしい。實際、今囘私は韓國の右顧左眄する政治家には失望したが、一方、事大主義やローカリズムを脱しえないさういふ「白手乾達」をも持駒にせざるをえなかつた朴正煕氏はさぞ大變だつたらうと、私は朴氏に同情を禁じえなかつた。 見事な軍人たち  ところで、ここで私は、朴正煕氏の死後、右顧左眄する事の無かつた韓國の軍人について語らうと思ふ。申相楚氏を通じて國軍保安司令部から、四月八日は丸一日韓國軍のために割いて貰ひたいとの連絡があつたのである。朝から夕方まで韓國軍を見學し、夜は全斗煥將軍と晩餐を共にするのだといふ。そして私は、八日午前九時半、申氏の車でホテルを出發、途中から韓國軍のジープに先導され、十時きつかりに特戰隊司令部に到著、鄭鎬溶司令官の出迎へを受け、申氏の通譯で、私は鄭少將としばし歡談した。ごく短い時間だつたが、少將の率直な人柄と軍人とは思へぬ柔和な表情を私はよく覺えてゐる。鄭少將は福田恆存氏の「孤獨の人・朴正煕」を讀んで大變感動した、と言つた。また、自分は銃を何時間持つてゐても疲れないが、ペンのはうは十分間持つてゐても疲れる、と笑ひながら言つた。が、それを言ふ少將に、申氏や私に對する阿諛は微塵も感じられなかつた。何ともすがすがしい武人であつた。  やがて私は外へ出て、閲兵臺に司令官と竝んで立ち、パラシユートの降下訓練を見學した。副官の説明によれば、私に見せてくれたのは心理的に最も恐怖を感ずる高度からの降下だといふ。長方形のまだ開かないパラシユートが空を舞つてゐる。降下地點からずゐぶん外れてゐて、あれで目標に無事降りられるのかと、ずぶの素人は心配する。が、それは取越し苦勞で、ややあつて見事に降下した兵隊が整列、私はその一人一人と握手し、私が知つてゐる殆ど唯一の韓國語「カムサハムニダ(有難う)」を連發した。  だが、この後「ブラツク・ベレー」と呼ばれてゐる勇猛果敢の特戰隊で何を見學したかについては、殘念ながら端折らねばならない。次に訪れた第一師團についても語らなければならないからである。ただ、これだけは書いておかう。實彈射撃をふくむ特戰隊の訓練のすさまじさに私は舌を捲いた。さすがは一騎當千のブラツク・ベレーだと、私は大いに感服したのである。  さて、次に訪れた第一師團だが、これは韓國の最前線を守つてゐる。師團長は崔連植少將で、これまた鄭鎬溶少將と同樣、知的で、柔和な表情の、けれども大層肚の坐つた軍人であつた。師團長と共に、北朝鮮の掘つたトンネルを、そのどん底まで降りて行き、師團長の熱心な説明を受け、記念撮影をやり、歸りは私が先頭で、師團長がその後につづいた。歸りはもとより昇り坂である。途中に二、三ケ所休憩所があつて軍醫が待機してをり、酸素マスクが用意されてあつた。かつて心臟麻痺で倒れた見學者があつたのださうで、無理をせず、ゆつくりと歩いたはうがよいと師團長が頻りに忠告した。が、途中でへたばつては日本男子の名折れだと、私は一度も休まずに、けれども殆どよろけんばかりになつてトンネルを出た。  私は體重四十五キロ、しかも平生運動なるものはやつた事が無い。けれども、その非力の私が頑張つたのは、眞劒勝負の軍人の眞摯に魅了されたからに他ならない。昨年十月二十六日、朴大統領が暗殺され、ついで北朝鮮の兵力動員が傳へられた時、崔連植師團長は將兵の家族をソウルへ疎開させ、將校を集めてかう訓示したといふ、「北が攻めて來たら、わが師團はこれを粉碎する。軍人は戰場で死なねばならぬ、それが軍人の最高の名譽である」。  それを崔少將はいささかの力みも無く淡々と語つた。それはトンネルの中で、守備をしてゐる兵隊の肩を叩いて無言で激励する動作と同樣、まつたく自然であつた。私はいたく感動した。まさに全斗煥將軍の言つたとほりであつた。特戰隊で、第一師團で、淡々と身命を賭して戰ふ覺悟を口にする武人を、私は目の當りに見たのである。  歸國後、私は崔連植少將から寫眞同封の手紙を受取つた。少將はまこと流暢に英語を喋つたのだから、これを私は敢へて書くが、それは流麗な日本語では決してなかつた。が、それは友情と誠意の籠つた手紙で、引用できぬ事が殘念でならない。その手紙を何度も繰返し讀んで、私は呟いた、「さうなのだ、この男のためなら死んでもいいと、本氣でさう思はせるやうな人間が、やはりこの世にはゐるのだ」と。朴正煕氏がさうだつた。そして、全斗煥將軍も二人の少將もさうである。そしてそれは軍人に限らない、申相楚氏にしてもさうなのである。鮮于氏の話では、申氏は犬の肉が好物だといふ。私は、申氏のためなら死んでもよいとまでは思はぬが、申氏と共に犬の肉ぐらゐは食つてもよいと思つた事はある。もつとも、思つただけで、それを言ひ出す勇氣は無かつたが。 全將軍との夕食の席で  ソウルへ戻る吾々を、非武裝地帶のはづれまで、崔少將はジープで送つてくれた。そこで吾々は申相楚氏の車に乘換へ、その晩七時、とある韓式料亭に着くと、三つ揃を着こなした全斗煥將軍が待つてゐた。妓生が侍つて酒盛りが始まると、特戰隊と第一師團はどうだつたかと將軍が尋ね、私は「何とも見事だつた」と答へた。ついで、どういふ經緯でそんな話になつたのかよく覺えてゐないのだが、全斗煥氏が私に、自分にはいささか觀相學の心得があるのだが、どうも松原教授は自分より先に死ぬやうに思ふ、と言つたのである。私が全氏の照り輝く禿頭を見ながら、「さうとは限りますまい、失禮ながらその禿げ具合、鐵兜の被り過ぎのせゐだけではありますまい」と言ふと、全氏は笑つて「この禿頭ゆゑに自分は女性に持てないのだ」と言ふ。なるほど、歸國後、出來上つて來た寫眞を調べてみると、全氏の脇に侍つた妓生はまつたく全氏と接觸してゐない。どの寫眞にも寛いだ全斗煥氏と鯱張つた妓生が寫つてゐた。  だが、やがてアコーデイオンと打樂器の奏者の伴奏でダンスが始まると、全氏は妓生と手を組み、何とも嫋やかに踊り始めた。ウヰスキーをストレートでぐい飮みしていささかも亂れぬ將軍と異り、私はかなり醉つてゐたが、立上つて全氏に近寄り、妓生を引剥し、全氏と二人で踊り始めた。とはいへ私にはダンスが全然できない。時々相手の足を踏附けながら太く逞しい全氏の首つ玉にぶら下つてゐただけである。が、さうして抱き合つてゐる時、私は全氏に囁いた、「司令官、朴大統領は可哀相ですね」。すると全氏は日本語で「可哀相ですね」と答へ、私を激しく抱き締めたのである。  また、ダンスの後だつたか、それとも先だつたか、これもよく覺えてゐないのだが、韓國きつての女性歌手だといふ美女が歌ひ、ついで皆が一曲づつ歌ふ事になつた。全斗煥氏も背廣の副官も申相楚氏も私も歌つた。申氏はまづ韓國の歌を、ついで「荒城の月」を、滝廉太郎が聴いたら腰を拔かすやうなすさまじい節囘しで、それでも歌詞だけは正確に歌つた。次に、背廣を脱いでチヨツキだけになつた全氏が歌つたが、全氏の歌を聞きながら私は思つた。全氏は國軍保安司令部で「軍はしつかりしてゐるから御安心願ひたい」と言つた。だが、右顧左眄する「白手乾達」や、保身しか念頭に無い官僚、大學教授や、若者に迎合し煽動する無責任な政治家が、良識ある人々を壓倒し、時の花をかざしてのさばつてゐるかに見える今日、軍人だけがしつかりしてゐるだけで、韓國はこの未曾有の危機を乘越えられるであらうか。  全斗煥氏に醜い政治的野心は無い。「其の位に素して行ひ、其の外を願はず」、それが彼の本心であらう。軍事クーデターをやりさへすれば萬事うまくゆくなどと考へるほど、彼は愚かな男ではない。だが、愚かな政治家や知識人や學生が、「民主囘復」だの「政治發展」だのと、何の事やら自身もよく解らぬ美辭麗句のお題目を唱へるばかりで、今後も馬鹿踊りを踊りつづける積りなら、一體全體韓國といふ國では、どこまで續く泥濘なのか。韓國軍をして「政治的中立」を守らせるためには、すなはち「其の位に素して行」はしむるためには、せめて軍人と對等の頭腦と必死の覺悟が文民にも必要ではないか。  『ざつくばらん』五月一日號に、奈須田敬氏は、アーサー・ブライアントの『參謀總長の日記』の讀後感として、「眞の軍人こそ眞の政治家を理解しうるし、また眞の政治家こそ眞の軍人を理解しうる」と書いてゐる。さういふものだと思ふ。が、日本におけると同樣、今の韓國にも、さういふ「眞の政治家」が多いとは、私にはどうしても思へなかつたのである。  例へば日本で不當なまでに英雄視されてゐる金大中氏の愚鈍について、日本の新聞は眞實ありのままを報じてゐないが、私は今囘、金大中氏の頭腦の粗雜には呆れ返つた。公民權囘復後、金大中氏は何とかう放言したのである、「皆さん、私はクリストの弟なのであります」。  作り話ではない。それを日本の新聞が報じなかつたのは、「知らせる義務」を怠つたのは、さすがにこれは酷すぎると思つたからに他ならぬ。金大中氏に對する日本人の信頼が一擧に失はれると、それを恐れたからに他ならぬ。 韓國への苦言  政治家の愚鈍と淺薄は金鍾泌、金泳三及び金大中氏に限らない。保安司令部で全斗煥將軍に會つて後、私は韓國の政治家から「全將軍は政治についてどう考へてゐるか」と何囘か尋ねられた。私はそれを訊かれる度にむかむかした。「そんなに知りたければ、直接將軍に聞いたらいいでせう」と突撥ねた事もある。昨年十二月十二日、剃刀の刃を渡つた全斗煥氏や、死ぬる覺悟を淡々と語つた軍人に較べて、私は今囘、與野黨を問はぬ韓國の文民の腑甲斐無さに苛立つ事が屡々であつた。その癖、彼等は軍を恐れてゐる。北朝鮮軍をではない、韓國軍を恐れてゐる。が、文民に身命を賭す覺悟があるのなら、なぜ軍を恐れねばならないか。さらにまた、彼等はアメリカを恐れてゐる。だが、韓國は立派な獨立國である。ユーゴにはユーゴの社會主義がある、と言切つたチトー大統領の傳に倣ひ、「韓國には韓國の民主主義がある」とて、韓國人が一致團結アメリカの内政干渉を突撥ねれば、アメリカといへども容易に手出しはできない筈である。  私は韓國が好きである。好きだからこそ苦言も呈したくなる。そして私が韓國を愛するのは、例へば申相楚氏のやうな、韓國にしかゐない友人の運命に無關心たりえないからである。それゆゑこれを私は所謂「維新殘黨」に言ひたい。ルソーが言つてゐるやうに、眞の自由は野蠻人だけの特權なのである。韓國は野蠻人の吹き溜りではあるまい。それなら、文明國としての抑壓は必要惡であり、必要以上に必要惡に怯えるのは知的怠惰に他ならぬ。「維新殘黨」は朴體制による抑壓を疚しく思ひ、若造の唱へる「民主主義」だの「言論の自由」だのに幻惑され、言ひたい事も言へずにゐるのか。奇怪千萬である。これを言ふのは大層心苦しいが、敢へて言はう、朴體制の抑壓政策を、今、多少なりとも疚しく思つてゐる人々は、この際、とくと考へて貰ひたい、あなた方は非凡なる朴正煕氏の抑壓あつてこそ、これまで國家の安泰を維持しえたのではなかつたか。  もとより韓國には浮薄な民主化熱を内心苦々しく思つてゐる人々もゐる。だが、自ら惡役は引受けたがらず、軍が惡役を引受けてくれるだらうと思つてゐる手合も多いのである。そしてさういふ手合は、軍がうまく混亂ををさめたら、安心して「民主囘復派」を叩かうと思つてゐるのではないか。要するに他力本願である。私は軍を持ち上げ、軍事政權の誕生を唆してゐるのでは斷じてない。日本國のぐうたらを棚上げしてこれを言ふのはまことに心苦しいが、身命を賭す覺悟は文民も持たねばならず、それこそは今の韓國が最も必要としてゐるものではないのかと、その事が言ひたいのである。  正直、韓國へ行く前の私は、いつその事、淺薄な野黨の政治家や學生たちには當分喋りたい事を喋りたいだけ喋らせ、やりたい事をやりたいだけやらせたらよい、所謂民主囘復派に言ひたい事を言はせておけば、そのうち必ず襤褸も出さう、弱音も吐かうと、そんなふうに思はぬでもなかつた。が、ソウルに着いて私は、民主囘復派の底の淺さはすでに充分に露呈されてゐるにも拘らず、政治家も新聞も、民主囘復派に愛想盡かしをするどころか、金鍾泌民主共和黨總裁までが、新民黨本部を訪れたりして、民主囘復派に色目を使はざるをえぬ現状を知り驚いたのである。金大中、金泳三氏の空疎なまやかしの論理など、何ともひどいものである。金鍾泌氏もまたそれに附合ひ、「自意半、他意半」などといふ譯の解らぬ事を口走つてゐる。  こんな状態がつづけば、韓國の民主政治はいづれすさまじい衆愚政治と化し、世界中の物笑ひの種になるであらう。それを、私は何よりも恐れたのである。今囘の韓國滯在中私は、深く物を考へてゐる見事な知識人にも出會つたものの、韓國の學者知識人の多くは「民主主義」について深考を缺いてゐるやうに思へてならなかつた。鮮于氏から聞いた落語のやうな實話だが、韓國の石部金吉を友人が説得して、やつと女と寢る決心をさせたところ、女が約束の場所に姿を現はさなかつた、すると石部氏はかんかんになつて言つたといふ、「怪しからん、これは民主的ではない、約束を守るのが民主主義ではないか」。  韓國の事だけは言へぬ。今の日本にもありさうな話だが、とまれ韓國の政治家も知識人も、口々に「民主囘復」を唱へ、或いは民主囘復派に色目を使ひ、それでゐて何を喋つてゐるのか、喋つてゐる當人もよく解つてゐないのではないか、私はさう思つた。「政治發展」にしても同樣である。政治家も新聞も頻りに「政治發展」を言ふ。「政治發展とは何か。發展的解消といふ事だつてあるではないか」と、前國會議長の白斗鎮氏は皮肉つてゐたが、實際、愚者が愚者を煽動し、愚者が賢者を壓倒するのが衆愚政治なのだ。その理不盡の恐しさを韓國の知識人はまづ骨身に徹して知り、その理不盡と戰はねばならぬ筈である。 ある娘との出會ひ  だが、韓國に苦言を呈するのはこれくらゐにしておかう。私自身それをやつてゐて決して樂しくない。私は最後に名も無く地位も無い崔星煕孃の事を書かうと思ふ。私が崔孃に初めて會つたのは昨年十一月二日の夜である。韓國政府の招待でソウルに來て以來、私は毎日人と會ひ、土産物を買ふ暇が無かつた。韓國は紫水晶が安い。せめて自分のカフス・ボタンでもと思ひ、その夜、ふと思ひ立つて泊つてゐたホテルの地階にあるシヨツピング・アーケードまで降りて行つたのである。朴大統領の死後、外出禁止時間は午後十時からになつてゐて、私が降りて行つた時は殆どの店が閉つてゐた。が、一つだけ貴金屬店があいてゐて、そこで店番をしてゐたのが崔星煕孃だつたのである。私がシヨウケイスの中のカフス・ボタンを指差し、崔孃がそれを取出した。値段を訊くと三十八萬ウォンだといふ。「そんな高い物は買へない」と私が言ふと、彼女はそれより安い品物を五つ六つ取出し、それを吟味してゐる私にかう尋ねたのである。  「お客樣は日本人なのに、なぜまだソウルにいらつしゃるのですか」  「それ、どういふ意味?」  「だつて、大統領が亡くなられてから、北が攻めて來るかも知れないといふ事で、日本人は殆ど皆歸つてしまひました。成田行の便は滿員で、金浦に着く便はがらがらだと聞いてゐます。それなのにお客樣はまだここにゐる……」  私は、自分の滯在豫定は四日までだし、また自分は朴大統領を尊敬してゐるから、いづれにせよ國葬が濟むまでは歸らない、まだ死にたくはないが、北が攻めて來たら、かうして喪章を着けてゐる以上、仕樣がない、朴正煕氏の國民と一緒に逃げ囘るだけの事だ、と言つた。すると崔孃は、自分も大統領を尊敬してゐるが、お客樣は大統領のどういふ所が好きなのか、と訊いた。そこで私は、何よりも不正を嫌ひ、身邊が清潔だつた事だと答へ、朴正煕氏がいかに質素だつたかについて知つてゐる限りの事を話したのである。  すると思ひがけない事が起つた。崔孃がシヨウケイスの上のカフス・ボタンを一つ一つ仕舞ひ始めたのである。日本の一流ホテルの宝石店に勤める娘に向つて、外國人の客が日本の首相の質素な生活を稱へる事はまづ無いであらう。が、萬一それをやつたとしても、首相の質素を力説する客に高價なカフス・ボタンは賣り難いと、そんな事を考へる娘は決してゐないであらう。  崔孃はカフス・ボタンを仕舞ひ終ると、どの國にも缺點がある、あなたは韓國の缺點をも見た筈である、それを話してくれといふ。私がそれに何と答へたかは省略する。が、私が店を出ようとすると彼女が言つた、「あすは國葬で、お店も休みです。でも、四日の九時半には私はここにゐます。もう一度降りて來て下さい」。  私は答へた、「四日の午前中は人と會ふ約束があるし、それに歸國する日だから忙しい。忘れてしまふかも知れない。でも、私は韓國が好きになつたからまた必ずやつて來る。その時は、飯でも食ひながらゆつくり話さう」。  その夜おそく、私は國際電話で長女の危篤を知らされ、翌朝慌しくホテルを發ち歸國したのだから、崔孃と四日に會ふ事はもとよりできなかつた。そこで今囘、私は文化公報部行政事務官金俊榮氏に崔孃の事を話し、毎日お偉方に會ふばかりが「文化交流」ではない、私は崔孃のために一日を割く、つまり「デイト」をする、先方と聯絡をとつて貰ひたいと頼んだ。金俊榮氏は日本語を流暢に喋らないが誠實で率直な人物で、やがてその金氏が調べてくれ、私は、昨年十一月の約束を果し、夕食を共にして語り合ふ事ができた。彼女は老母と弟、妹との四人暮し、弟は高麗大學四年生、大學院へ進みたがつてをり、妹も大學に通つてゐて、それゆゑ二十八歳の彼女がもう少しの間家計を支へなければならないといふ。私は少々殘忍な質問をした、「しかし、大學院を出るには、日本の場合と同じなら、最低五年かかる、弟さんが一人前になつた時、君は三十三歳、完全に婚期を逸するではないか」。よい人に出會へば結婚すると彼女は答へたが、それは當てがあつて言つてゐるやうには思へなかつた。  私は崔孃相手に野暮な話ばかりした。野暮天なのだから、それは致し方が無い。だが、昨年十一月と同樣、朴大統領に對する彼女の氣持は少しも變つてゐなかつたのである。それを確かめて私はほつとした。そして實際、右顧左眄するお偉方よりも、この名も無く貧しい娘のはうがよほど立派だつたのである。  別れしな崔孃は、自分は月に二日休めるのだが、そちらの都合のよい日に休みをとつて、今度は韓國の大衆料理を御馳走したいと言つた。私は喜んで承諾し、十一日にもう一度會ふ約束をした。そして立上り、彼女の家まで送つて行かうと言つた。彼女は固辭した。委細構はず私はホテルの外へ出た。そこに丁度タクシーが駐つてゐる。先に乘込まうとする私の背に崔孃が聲を掛けた、「あたしを送つて行くと、歸れなくなりますよ」。  私はぎくりとした。時計を見ると十一時、なるほど、彼女を送つて行き、歸りに運惡く英語も日本語も通じない運轉手にぶつかつたらどうなるか、あちこち引き廻され、外出禁止時間になつたら大變だ、一度だけだが韓國語しか喋れぬ運轉手の車に乘つて閉口した事のある私は、咄嗟にそれを思つたのである。よし、それなら運轉手にタクシー代をと、私が財布を取出すと、彼女は別のタクシーを拾はうとして走り出した。運轉手も、ホテルのボーイも、怪訝な顏で私を見てゐる。これには參つた。「いいよ、解つた……」と私が言ふと、彼女は戻つて來てタクシーに乘り込み、手を振りつつ去つたのである。  男に奢らせ、男に送つて貰ふ事を、當節の日本の女性は當然と思つてゐるであらう。崔孃は豐かな暮しをしてゐない。私は女性の服や裝身具について全く無知だが、その私にも彼女のイアリングが上等でない事くらゐは見て取れた。彼女の月給も大した事はあるまい。十一日はどうしても私が奢らねばならぬ。  だが、次に會つて、晝間、國立博物館の陳列品を見て廻り、夕方、武橋洞で燒肉料理を食べた時、私は見事にしてやられた。委細は省くが、「それはいけない、男が拂ふのが日本の……」と言ひつつ私が立上つた時、すでに彼女から金を受取つてゐた店員は韓國語で何か言ふばかりで、どう仕樣も無かつたのである。  崔孃は女だから、崔連植少將のやうに身命を賭す覺悟なんぞは語らなかつた。無論、全斗煥中將のやうに命懸けの大事業もやれはしない。が、申相楚、鮮于煇(火扁+軍)兩氏について私は、「この二人の飮兵衞を時に頗る眞劒にならせるもの、それが韓國にあつて日本に無いものだ」と書いたけれども、それは雀孃にも確かにあつたのである。「カー附き、家附き、婆拔き」を理想とし、新婚旅行にはハワイくんだりまで出掛ける底拔けに明るい日本の若い女性と異り、崔孃には何かしら暗い影があり、平生、何かしら眞劒に考へざるをえぬものがある。そして「よりよく生きる」といふ事を彼女は念じてゐる。それは尊敬の對象があるからで、それが朴正煕大統領だつたのである。無論、よりよい生活を心掛けて果せぬのが人間の常である。が、尊敬の對象がある限り、人はひたむきに向上を圖るのではないだらうか。賢を見ては齊しからん事を思ふ、とはさういふ事ではないだらうか。 本氣の附合ひ  全斗煥將軍も、申相楚氏も、鮮手煇(火扁+軍)氏も、そして崔星煕孃も、ひたむきに生きてゐる人間であつた。彼らに共通するものは眞劒といふ事であつた。それゆゑ、私が本氣で接した時、彼らも本氣で應じたのであり、私は韓國で、昨今日本では滅多に味はへなくなつた本氣の附合ひを樂しみ、堪能したのである。  全斗煥將軍に見立てた藁人形を、ソウルの大學生は燒いたといふ。「全斗煥を八つ裂きにせよ」との横斷幕を光州の暴徒は掲げたといふ。そんな兒戲に類する愚行を、將軍は何とも思つてゐまい。が、萬一、光州に赤旗が立つやうな事態となつたなら、觀相學の「達人」全斗煥氏はもとより、申相楚氏も鮮于煇(火扁+軍)氏も、その時までに確實に死んでゐよう。それは私には耐へられない。本氣で接したら本氣で應じてくれた、さういふ友を失ふ事は、國籍の如何を問はず、耐へられない。  全斗煥將軍は、昨年十二月十二日の鄭昇和司令官逮捕を「巡査が泥棒を捕へたやうなもの」だと評した。「國家元首を殺した犯人も處罰できずして何が民主化か」と彼は思つてゐるに相違無い。そして彼は今囘再び剃刀の刃を渡つた譯だらうが、さういふ將軍を私は見事だと思つたから、本氣で辯護し、本氣で會ひたいと願つた。そして將軍も本氣で私に附合つてくれたのである。特戰隊を見學して後、第一師團に向ふ車中で申相楚氏は、「特戰隊は韓國人にも滅多に見せない、あそこを見學した外國人は松原さんが最初でせうな」と言つた。が、全斗煥將軍はそんな事は一言も言はなかつた。それだからこそ、私はそれを知つて一層感激したのである。もつとも、素人の悲しさで、貴重なものを見せて貰ひながら、その貴重たるゆゑんを私は充分理解できなかつたけれども。  崔孃にしても、自分の事をかうして外國の雜誌に書いて貰つたからとて、それで彼女が得をする譯が無い。が、私が本氣で韓國を、朴正煕氏を論じたから、彼女も本氣で私に附合つたのである。申相楚氏にしてもさうである。すでに述べたやうに、申氏は頗るつきの音癡なのだが、その申氏が、かつては抗日運動をやつた事もある申氏が、自尊心の強い申氏が、醉拂つて日本の軍歌を歌ひ、上體を屈め、兩手を打ち鳴らし、舊制高校の寮歌を、殆ど聞くに耐へぬ惡聲で歌ひ、ぎごちない蠻カラ踊りをやつてみせた時、私は胸に應へ、胸が一杯になり、涙を抑へる事ができなかつた。  周知の如く、かつて日本は申相楚氏たちに日本語の使用を強制したのである。韓國を植民地にして數々の理不盡を強ひたのである。日本の韓國に對する過去の罪惡を徒に論ふのは無意味だと、私は書いた事がある。お題目よろしく贖罪を云々する手合が本氣でない事を知つてゐたからである。が、今囘の韓國滯在中、私は屡々思つた、本氣で附合ふと本氣で應ずる韓國人の直向きに、これまでの日本人はとかく本氣で應ぜず、それどころか、相手の直向きに附け込んだのではなかつたか、と。韓國に對する「過去の罪」を知識として知つてゐるだけでは殆ど無意味である。今後の日本が、本氣で韓國と附合ふ、それが何よりの「贖罪」に他なるまい。  ところで、申相楚氏や鮮于煇(火扁+軍)氏のやうな愉快な飮兵衞を時に頗る眞劒にならせるもの、それが韓國にあつて日本に無いものだと私は書いた。それは戰爭の危機であり、亡國の危機なのである。それが一瞬腦裡を掠めると、彼らは忽ち本氣になる。冗談もそこでぴたりと止み、彼らは眞劒そのものになる。さういふ事が、今のところ、日本にはまるで無い。眞面目になるべき時眞面目にならうとすると、附合ひ難い野暮天として、二階へはふり上げられ、梯子を外されてしまふ。それゆゑ私は、昨今流行の防衞論議の眞劒を疑つてゐる。韓國から歸つて來て、ますますそれを疑ふやうになつた。  全斗煥氏にせよ、申相楚、鮮于煇(火扁+軍)兩氏にせよ、この世のすべてを茶化してはをられない。彼らには本氣になつて考へねばならぬ事があるからである。それゆゑにこそ彼らは、本氣で附合ふと必ず本氣で應ずるのである。だが、彼らが今、本氣で考へてゐる事は、早晩吾々日本人が頭を絞らねばならぬ當の物ではないか。それなのに、日本人にとつての韓國はなぜかうも「近くて遠い國」なのであらう。  四月十五日、金浦空港まで私を見送つてくれた申相楚氏は、いつもの蓬髪に、その日ばかりはポマードを塗り附けてゐた。私は感動した。どうしてこの愛すべき先輩を裏切れようか。この次韓國を訪れる時は、よし、この敬愛措く能はざる先輩に附合つて、必ず必ず犬の肉を食はう、さう決心して私は、申相楚氏の右手をかたく握り締めたのである。 2 反韓派知識人に問ふ 遊びで石を投げる日本人  金俊榮氏は三十四歳、文化公報部の行政事務官であり、先般、ソウル滯在中、私が最も親密に附合つた韓國人である。誠實で温厚な金氏の人柄に私は惚れ込み、吾々は國籍、年齢の違ひを殆ど意識する事無く附合つた。  或る日、その温厚な金俊榮氏が、嚴しく日本のマスコミの韓國報道を批判した事がある。それを私は密かに録音した。文字だけでは所詮微妙な語氣や抑揚を傳へられず、まことに隔靴掻痒だが、金氏の許可を得てゐるから、以下戲曲ふうに金氏との對話を再現する事にする。 <金> ね、日本の記者はね、なぜ北に對してね、北朝鮮に對して、ね、南よりも全然きくない(意味不明)……。 <松原> 同情的……。 <金> ね、なぜ……、この理由をわたし解りませんよ。 <松原> 詰り、それはかういふ事── <金> (激して)なぜ韓國に、韓國ばつかり、あの、噂をきんちよう(意味不明)でね、書きますか。これが私が理解しない── <松原> できない……。 <金> できない事ですよ。 <松原> 北を襃める事はあつても、惡口は書かないな。何で韓國の惡口ばかり── <金> さうですよ。それ、わたし、理解できませんですよ、日本に對して。(間)ね、韓國の俗談ね、俗談で、あの、池がありますよね、池の、あの、あのう、池の中で、あの、あのう、何ですか、かわり、かわ……、ね、これ……(漢字を書いてみせる)。 <松原> 蛙……。 <金> 蛙。蛙がありますよ。蛙、泳ぎしてゐるね。あの、或る田舍の、あのう、子供がね、あの、遊びでね、石を、少し石を投げて、ね……。 <松原> 蛙に投げた……。 <金> いや、蛙ぢやない、池に投げたね。蛙は、ね、unfortunatelyこの石に當つて死ぬ。ね、この子供はね、遊ぶですよ。この蛙はね、死ぬですよ。この俗談がありますよ。日本はね、今、自分はね、遊びでね、あの、石をね。韓國はね、今、あの、何ですか、この、この……(漢字を書きつつ)これに、問題ですよ。 <松原> 生命……。 <金> 生命ね。生命の問題ですよ、韓國人はね。それが、日本、もう惡いですよ。子供は遊びで池に石投げる、蛙はね、unfortunatelyね、死ぬ……。ねえ、日本が、さうですよ、私が考へて……。  朴正煕大統領の死後、日本は韓國に「遊びで石を投げ」續けた。それは大方の日本人にとつて、韓國民の直面してゐる試練が對岸の火災だつたからに他ならない。例へば次に引用するのは『ステーツマン』昭和五十五年十一月號所載の島良一氏の文章だが、島氏は韓國を惡し樣に言つてはゐないものの、やはり「遊びで石を投げ」てゐる。金俊榮氏の稚拙だが懸命な日本語を思ひ出しつつ、島氏の文章を讀んで貰ひたい。  しかし、全大統領の權力の基盤をなす軍部内には、まだ豫斷を許さぬ状況が現存していることも事實であろう。(中略)軍部内に反全斗煥派、あるいは全大統領に好感をもたないグループがかなりの割合で存在する可能性は、けつして低くないのである。(中略)たとえば、現在ソウルの消息筋のあいだでことあるごとに語られる有力な觀測──今囘成立した「全斗煥體制」が全斗煥大統領の“獨裁政權”であると見なすことはあまりにも時期尚早であり、陸士十一期生四名の實力者による一種の“集團指導體制”と考える方が妥當である、という觀測を十分に吟味してみるとき、そのことはきわめて眞實味を帶びてわれわれの眼前に迫つてくる。陸士十一期生四名とは、全斗煥大統領のほかに、金復東中將、盧泰愚中將、鄭鎬溶中將の三氏をさす。(中略)現在のところ、以上の三氏と全大統領のあいだに意見の對立はまつたくなく、陸士十一期生四名は「一枚岩」の團結を誇つているとの觀測が支配的であるが、今後彼らの關係がどのような推移をたどるかは、もとより何人にも斷言しうることではない。(中略)全斗煥氏にたいして、いずれ他の三氏が異をとなえる可能性も大いに考えられよう。(中略)きわめて確度の高いある情報によれば、すでにそうした事態はいくつか散見されたといわれる。(傍點松原)  さて、讀者はかういふ文章の非人間性に氣附いたらうか。島氏はジヤーナリストださうだが、なるほどこれはいかにもジヤーナリストらしい文章である。まず、「きわめて確度の高いある情報」と島氏は言ふが、それがどの程度の「確度」かは島氏にも解つてゐないのだから、「韓國軍内部の動向」についてくだくだしく語りながら、要するに「何人にも斷言しうることではない」事柄を斷言しようと足掻いてゐるに過ぎない。傍點を付した部分は島氏の言分がすべて不確かな臆測にもとづく事を示してをり、臆測を何百何千と集めても所詮眞實を語つた事にはならない道理だが、韓國の諺にもあるとほり「十囘斧を當てられて倒れぬ木は無い」のだから、かういふ根も葉も無い噂ばかり聞かされてゐるうちに、人々はやがて「盧將軍と、金將軍ががつちりとスクラムを組み、全斗煥大統領にたいして對抗するやうになる」に違ひ無いと考へるやうになる。それゆゑ島氏は、韓國に石を投げてゐる事になる。しかも島氏は本氣でない。本氣で全斗煥氏の失脚を願つてゐるのではない。つまり「遊び」である。そして「遊び」で石を投げてゐる以上、全斗煥氏が失脚したら韓國がどうなるかといふ事は一切考へぬ。一衣帶水の隣國に對して、これはまた何たる非情か。  考へてもみるがよい。金復東、盧泰愚、鄭鎬溶の三氏が「全斗煥氏にたいして、いずれ異をとなえ」たり、「盧將軍と金將軍が全斗煥大統領にたいして對抗するやうな事態」となつたりすれば、韓國軍は分裂するかも知れぬ。そして國軍が分裂したら韓國はまたぞろ存亡の機に臨む事になる。それを島氏は本氣で望んでゐるのか  だが、手に負へないのは、島氏自身に韓國に對して冷酷な事を書いたとの意識が無いといふ事なのである。實際、島氏は韓國軍の分裂を望むとは書いてゐない。島氏は「對立の可能性を一笑に付すことはできない」といふふうに書く。が、全斗煥氏と將軍たちの對立の可能性を云々しながら、本氣でそれを期待してゐるやうにも、勿論本氣で案じてゐるやうにも見えず、それゆゑ冷酷に振舞ひながらその自覺を缺くこの手のジヤーナリストを、私は韓國軍を罵倒する手合よりも惡質だと思ふ。例へば鄭敬謨氏のやうに「全斗煥のあのバカが……」(『新日本文學』五十五年八月號)などと口走つてくれれば、それで忽ち御里は知れる譯だが、一見客觀的であるかに思へる島氏の文章に、とかく讀者は騙されるからである。 「客觀的報道」の非人間性  それゆゑ、これは韓國とは直接關はりの無い事だが、昨今日本のマスコミを横行闊歩するジヤーナリストやルポ・ライターの非人間性について、日頃考へてゐる事の一端を書いておかう。大方のジヤーナリストやルポ・ライターは、島氏もさうだが、耳に觸れた限りの有る事無い事を記述して、その有る事無い事についての價値判斷は下さない。それを彼等は「客觀的報道」と稱し、世間もまたそれを望ましい事のやうに考へてゐる。かくて例へば、アメリカで目下流行してゐるといふフイスト・フアツキング(げんこつ性交)について詳細に記述しながら、フイスト・フアツキングを筆者が奬勵してゐるのか、それとも憂慮してゐるのか、それがさつばり解らぬといふ奇怪な文章が書かれ、讀者もまたそれを一向に奇異に感ずる事が無い、といふ事になる。例へば次の立花隆氏の文章を讀者はどう讀むか。  山口組の幹部が、アメリカのマフイアに招かれて渡米したことがある。彼がマフイアの有力者の主催する正裝したパーテイーにまねかれていつたところ、宴たけなわとなつたところで、會場にしつらえられたステージでアトラクシヨンがはじまつた。(中略)シロクロの實演シヨーで、さすがにプロらしく見事なセツクスを披露したが、彼としては日本でも見慣れているものなので、さして感心もしなかつた。ところが、最後に女がクライマツクスに達したところで、その女の首を刀でスツパリ斬り落し、それがころがり落ち、血がドツと吹きだした。それに對して會場からは大きな拍手が湧いたが、山口組の幹部は脚がガクガクしてふるえがとまらなかつたという。(『諸君!』、昭和五十三年五月號)  「アメリカSEX革命報告」と題するこの立花氏の連載記事は、その後一本に纏められたさうだが、私はまだ讀んでゐない。が、『諸君!』五月號の文章から判斷する限り、かういふおぞましい話を紹介する立花氏が、何かを本氣で憂へてゐるやうにはとても思へない。といふより、憂へてゐるのか樂しんでゐるのか、それがよく解らない。立花氏はフイスト・フアツキングやチヤイルド・ポルノについて蘊蓄を傾けるが、さういふおぞましい記述を、「性的快樂と殺戮快樂」には「つながりがあるといえるのではないだろうか」との陳腐な文章で結んで平然としてゐられる立花氏を、私はフイスト・フアツキングや鮮血滴る生首同樣薄氣味惡く思ふ。  勿論、韓國軍の分裂と「シロクロ實演シヨー」における頽廢的な殺人とは同日の論ではない。が、島氏の文章は、そのおぞましさにおいて、立花氏のそれと甲乙無いのである。フイスト・フアツキングや生首について語つて立花氏が、憂へてゐるのか樂しんでゐるのか解らぬと同樣、島氏も韓國軍分裂の可能性を語つて、それを案じてゐるのか期待してゐるのかは判然としない。だが、奇妙な事だ、それなら立花氏や島氏は何のために書くのか。それは愚問だ、決つてゐる、身過ぎ世過ぎのために書くのだと、さういふ事になるのなら、立花氏も島氏もゲシユタポ地下室の速記者と寸分變らぬ、といふ事になる。ジヨージ・スタイナーは書いてゐる。  ナチ時代特有の恐怖のひとつが、じつは、起つたものはいつさい記録され(中略)たということであり、それはいかなる人間の口をとおしても語られたことのないもの(中略)が、言葉によつて果たされたということであつた。(中略)ゲシユタポの地下室には、速記者たちがいて(通常は女性であつた)、身體を捩じまげられ、燒きごてをあてられ、毆り倒された人間の聲からもれてでる、恐怖や苦悶の喧噪を、丹念に書き留めていたのである。(深田甫譯)  ゲシユタポの速記者に「何のために書くのか」と問ふのはおよそ無意味である。ヒツトラーなら、尤もらしい理由を滔々と述べるであらう。が、速記者は身過ぎ世過ぎのために書いたのであつて、それ以外に理由は無い。とすれば、ゲシユタポの速記者と島良一氏との間にさしたる懸隔は無いといふ事になる。島氏を「自覺無き冷血漢」と呼ぶゆゑんである。 傳聞で「眞相」が語れるか  ところで、もとより島氏の場合とは逆に、頗る主觀的な、惡意を剥出しにした韓國報道もある譯で、例へば毎月『世界』に寄稿し、『韓國からの通信』と稱して飽く事無く韓國に石を投げてゐるT・K生の文章がさうである。そして、韓國を惡し樣に言ふ反韓派は屡々T・K生の文章を引用するのだから、『韓國からの通信』が反韓派の情報源として大いに役立つてゐる事は明らかである。さらにまた、『韓國からの通信』は岩波書店から新書版としてすでに第四卷が出版されてゐるが、第一卷の出版は昭和四十九年であつて、韓國に對してこれほど執念深く石を投げ續けた人物はゐないのではないかと思ふ。とまれ、T・K生は、こんなふうに書くのである。  ソウルの友人の記者たちや市民の間に流れている情報を綜合すれば、光州の事態は次のような模樣である。(中略)兵士たちは、ほとんど無差別に銃劒で刺した。彼らは「全羅道の連中は滅種してもかまわないんだ」と叫びながら、子供たちもつき刺した。タクシーのドアをあけて運轉手をつき刺した。  光州事件については稿を改めて書かうと思つてゐるから、ここでは觸れない。私がまづ言ひたいのは、かういふでたらめな文章を讀まされ、韓國軍が同胞に對してそんな無意味な蠻行を敢へてする筈が無いと反論したところで、それは所詮水掛け論に終るしかないといふ事である。なるほど戒嚴司令部の公式發表があつて、それにはかう書かれてゐる。  止むを得ず戒嚴當局は、午後四時四十分頃、兵力を投入した。その際の示威行爲に加はつてゐたのは大部分學生であり、阻止せんとする若い軍人に對し投石と暴行をもつて對抗した。やがて一部市民も合流、軍人に投石し、雙方に負傷者が出、若き軍人と若き學生はともに興奮、罵聲と怒號をもつて對抗するに至つた。一方、この騷亂のさなかに、不純分子の所業と思はれる流言蠻語、すなはち、「慶尚道軍人が全羅道人の種を絶やすためにやつて來た」とか、「慶尚道軍人のみを選んでやつて來た」とか、理性的にはとても考へられないやうな、地域感情を刺激し煽動する噂が、短時間のうちに光州市内に廣まり、それが市民を興奮させ、かくて示威の樣相は激化する事となつたのである。  私はもとより戒嚴司令部の發表を信じる。光州の暴動を鎭壓した特戰隊の司令官鄭鎬溶中將の人柄を知つてゐるからである。鄭中將の威ありて猛からざる人柄についてはいづれ書くが、そしてそれを讀めば讀者はT・K生よりも私の言分のはうを信ずるやうになるに違ひ無いと思ふが、それはともかく、T・K生も私も當時光州にはゐなかつたのであつて、どちらも現場にゐなかつたのに、一方が戒嚴司令部の發表が正しいと言ひ、他方が正しくないと言ふだけでは、それは不毛の水掛け論、堂々廻りの押し問答である。が、光州事件について特戰隊の暴虐を強調する手合は、「確たる事實には立たず、あやしげな情報」に頼つてゐる危ふさを一向に意識する事が無い。  例へば反韓派は、光州から屆けられたメツセージなるものを證據としてゐるが、それが確かに光州から發送されたものかどうか、及び光州市民の過半數が事實と認めるものかどうかについては、反韓派も、もとより親韓派も、斷定的な事は一切言へない筈である。T・K生も私も、當時光州にはゐなかつた。しかるに、反韓派が例へば私を戒嚴軍に荷擔する許し難き奴と極め附けるなら、私のはうも反韓派を、北朝鮮のスパイつまり「不純分子」に荷擔する許し難き奴と極め附けてよい譯で、かくて戒嚴軍と「民主主義囘復を求める民衆」のどちらを支持するかによつて、雙方ともに光州にはゐなかつたにも拘らず、互ひに相手の「情報」を「あやしげ」と形容し、徒勞の口爭ひが果てしなく續けられる事になる。さういふ口爭ひの空しさに、親韓派も反韓派も、そろそろ氣附いてよい頃である。  反韓派は「光州での民衆の抵抗と戒嚴軍によるその血まみれの彈壓」について語るのだが、當時光州にゐなかつた反韓派は、いかなる「具體的な根據に立つ」て戒嚴軍の行動を「血まみれの彈壓」と評するのか。實は私は『光州事態の眞相はなにか』と題する小册子を持つてゐる。在日本大韓民國居留民團中央本部が刊行したものである。いづれ光州事件について論ずる際、私は參考資料として用ゐる積りだが、その際も私は戒嚴司令部や居留民團の發表を鵜呑みにはしない。小册子の「はしがき」には「初期の集團意志示威行動から遂には武裝暴徒化し、一部不純分子たちの暴威は、無分別な殺人・掠奪・公共建造物の破壞・放火といつた具合に、あたかも無法の修羅場さながらに光州全域を吹き荒れた」といふ一節があるけれども、それこそまさしく「光州事態の眞相」だと私が主張したところで、それはさしたる説得力を持ちえない。光州事件の死亡者數にしても、戒嚴司令部の發表では「民間人一四四名、軍人二二名、警察官四名」といふ事になるが、それが正確な數字だと私がいくら主張しても、反韓派にしてみれば戒嚴當局に荷擔する惡玉の言分としか思へず、それゆゑ耳に掛ける氣にはなれぬであらう。  だが、ここで誤解されぬやう斷つておくが、私は戒嚴司令部や居留民團の努力が空しいなどと言つてゐるのではない。無責任極まる反韓報道が罷り通る以上、目には目を、齒には齒を、正當防衞の公報活動は是非とも必要である。だが、その種の對症療法は短期的には奏效するかも知れないが、それだけでは不充分なのであり、私はそれが言ひたいに過ぎない。  話を本筋に戻さう。執拗に韓國に石を投げてゐるT・K生の文章は反韓派の情報源として大いに役立つてゐる、と私は書いた。だが、T・K生の記述の大半が傳聞證據なのである。「ソウルの友人の記者たちや市民の間に流れている情報を綜合すれば」とか、「民主化運動をしている友人の一人は語つた」とか、「全斗煥の上官であつた尹泌鏞(金扁+庸)少將が再び軍部に復歸して、近く中央情報部長に就任するという噂がとんでいる」とか、さういふふうにT・K生は書く。要するに「友人の一人がT・K生に語つた」といふ事や「ソウルではかくかくの噂がとんでいる」といふ事だけが事實であるに過ぎない。  しかるにT・K生の權威を反韓派はいとも無邪氣に信じ込む。T・K生の文章は「韓國からの通信」と題してゐる。眞僞のほどは無論解らぬが、T・K生は韓國に住んでゐるとの事であり、それなら日本人よりも韓國の事を正確に知つてゐる筈だと、反韓派はもとより、一般の讀者もつい思ひ込む。それはつまり、事實の量に目が眩み、事實の質を怪しまないからである。『諸君!』五十五年四月號に『朝鮮日報』の鮮于煇(火扁+軍)氏は、『韓國からの通信』の「九〇パーセントが事實であり、その情報のくわしさには時に驚く」と書いた。が、假に「九〇パーセントが事實」だとしても、その九〇パーセントの大半が低級で瑣末な事實なのであつて、低級で瑣末な事實なんぞに驚く必要は無い。頭を使はずとも足さへ使へば、そんな物はいくらでも蒐集できるからである。  シエイクスピアが受取つた洗濯屋の請求書を發見したところで餘り意味は無いが、いづれ天才的な學者がそれを用ゐてすぐれたシエイクスピア論を物するかも知れず、それゆゑ或る藝術作品についての低級な事實を蒐集する學者のはうが、獨斷的な批評家よりもましであると、T・S・エリオツトが書いてゐる。その通りである。だが、洗濯屋の請求書が發見されてシエイクスピアが傷つく事は無いし、イギリスの小説に麒麟が登場する囘數を調べる學者も無害だが、T・K生の蒐集する「低級な事實」は、金俊榮氏が言つたやうに「遊びで韓國に石を投げる」ために用ゐられる。かてて加へてT・K生は傳聞による「低級な事實」を蒐集するだけではなく、鮮于氏の言葉を借りれば「何でもないような個所に眞實とは違うチヨツトした話」を挾むのだが、「實にそれが韓國に對する認識を根本的に變える扇の要のような重大な役割を果す」のである。鮮于氏は『世界』編輯長に對する「情誼」を考へてかやや控へ目に批判してゐるが、要するにT・K生は九〇パーセントの「低級な事實」を集め、殘る一〇パーセントに小細工を施すのであつて、その小細工の小細工たるゆゑんを知りさへすれば、T・K生の「權威」なんぞに惑はされる事は無い。戒嚴司令部が正しいと一方が言ひ張り、「民主化を願う光州の民衆」が正しいと他方が言ひ張るばかりなら、それは不毛の水掛け論で、所詮決着はつきはしないが、T・K生を打ちのめすには、彼の文章の小細工とでたらめを、T・K生が反駁できぬほど徹底的に批判すればよいのであり、そのためには戒嚴司令部の發表を參照する必要は無いし、全羅南道を訪れる必要も無いのである。 《T・K生の愚昧》  では、T・K生の成敗に取り掛らう。まづ指摘したい事はT・K生の頭腦の粗雜である。『世界』五十五年十一月號に彼はかう書いてゐる。  全斗煥の人となりを示すといおうか、國民の全斗煥に對する見方を示すといおうか、こういう話もある。彼が陸軍保安司令官でまだ少將の時分であつた。すでに實權を握つている時であつたので、彼も國務會議に出席したが、いつしか彼の肩には大將の四つ星が光つていた。その後はその間違いに氣づいたのか、三つの星の中將になつていた。(傍點松原)  例によつてこれも傳聞であつて、「こういう話もある」といふ事實を傳へてゐるに過ぎない。それはともかくT・K生は、全斗煥氏が「少將の時分、すでに實權を握つてい」たと書く。  だが、右に引用した文章の直前に彼はかう書いてゐるのである。  全斗煥は大統領就任を待ちきれず、統一主體國民會議というのが大統領選出の茶番劇を演ずる二日も前に、大統領官邸青瓦臺に入つた。それは彼が大統領になることにしたことに對して、どのようなことが、とりわけ軍部の中に起こるかしれないと恐怖にかられたからであつた。青瓦臺には保身の防備が徹底しているし、いつでも逃亡できるような飛行機の準備もできているからである。  實はこのくだりも傳聞なのだが、頭の惡いT・K生には矛盾する二つの傳聞證據を竝べるのは賢明でないといふ事が解つてゐないのだ。さうではないか、「少將の時分」すでに實權を握つてゐたのなら、大統領就任の二日前、「どのようなことが、とりわけ軍部の中に起こるかしれないと恐怖にかられ」る筈が無い。それに何より、大統領就任を二日後に控へて軍部の反亂を恐れねばならぬほどどぢな少將に、どうして鄭昇和大將を逮捕できたらうか。シエイクスピアがジユリアス・シーザーに言はせてゐるやうに「臆病者は現實の死を迎へるまでに何度も死ぬ」。が、全斗煥氏は斷じてそのやうな臆病者ではない。T・K生も認めてゐるやうに、全氏は大統領就任直後、地方巡視に出掛けてゐる。それなら、就任二日前の八月二十五日に軍部の反亂を恐れてゐた男が、どうして十日後の九月四日に光州なんぞへ出向くであらうかと、常識を働かせ、さう考へるだけで、T・K生の小細工のお粗末はいともた易く看破できる筈なのである。  もつともT・K生は「新聞には(全斗煥大統領が)光州の道廳で訓示をしたとして或る官廳のみすぼらしい一角の寫眞が出ているが、實は光州には恐れをなして、足を踏み入れることができなかつたという噂が流れている」と附け加へてゐる。が、これもT・K生の愚鈍の證しに他ならない。假に全大統領が「光州には恐れをなして、足を踏み入れ」なかつたとしよう。その場合、大統領の臆病と小細工は、側近のみならず「或る官廳のみすぼらしい一角」を撮影したカメラマンにも、「大統領が光州の道廳を訪れた」との虚僞の新聞報道を讀む道廳の役人たちにも知れてしまふ道理であつて、それくらゐならいつその事光州なんぞに近附かぬはうが遙かにましであつて、その程度の才覺なら中學生でも持ち合せてゐよう。要するにここでもT・K生は、おのれの器で人を量り、おのが才覺の乏しさを露呈してゐるに過ぎない。そればかりではない、T・K生が韓國人なのか日本人なのか私は知らないが、彼はまた「金大中氏は中學生竝みの才覺の持主にしてやられた」と主張してゐる事になる。それこそ、體制反體制を問はず、韓國民に對する最大の侮辱ではないか。  T・K生はまた、全斗煥少將が「國務會議に出席した」際、「大將の四つ星が光つてい」る軍服を着用してゐたといふ「流言」を紹介する。が、途轍も無いほど野蠻な國ならばいざ知らず、少將が大將の階級章を所有してゐるといふ、そんなでたらめな軍隊がこの地球上に存在する譯がない。實際韓國では、大將の階級章は大統領が手づから授與する事になつてゐる。  しかもT・K生は「間違いに氣づいた」全斗煥少將が「その後は」中將の階級章を着けてゐたさうだと書いてゐる。さうなると、大將の階級章と中將の階級章を少將が所有してゐた事になる。いやはや何とも驚き入つたる次第であり、開いた口が塞がらないとはまさにこの事だ。韓國軍はさまで無規律な軍隊なのか。だが、一旦大將になつたからには、「すでに實權を握つてい」たのだから、「その間違いに氣づいた」としても、そのまま大將で押通したはうがよささうなものである。慌てて中將に戻つたら却つて權威を失墜しよう。再び、全斗煥氏は中學生竝みの才覺も持合せぬ愚者なのか。そして大韓民國はそれほどの愚者にも大統領が勤まる國なのか。それなら、それほどの愚者に「國務會議」のメンバーや韓國軍が牛耳られ、金大中氏たち反體制派が手玉に取られてゐるのなら、T・K生が願つてゐるらしい韓國の「民主囘復」なんぞ夢のまた夢ではないか。 騙されたがつてゐる反韓派  諄いやうだがここで馬鹿念を押しておかねばならない。T・K生の記述の大半は傳聞證據なのである。そして、傳聞だと斷れば何を書いても大丈夫だと彼は思つてゐる。底の淺い噂話に興ずるのはおのが淺薄を滿天下に曝す事だといふ事が、彼には理解できないらしい。だが、T・K生のこの途方も無い愚昧に日本の反韓派は氣附かず、『韓國からの通信』を金科玉條の如くに有難がるのである。實際、大江健三郎氏などは「韓國の民主主義囘復のための運動の、われわれが眼にしうるかぎりの最良の自己表現」とまで評してゐる。  反韓派がさまでたわいも無く欺かれるのは一體全體どうした事なのか。  それはかうである。島良一氏を批判してすでに述べたやうに「臆測を何百何千と集めても一つの眞實をも語つた事にならない」が、T・K生の場合は、「友人のジヤーナリスト」や「民主勢力の或る長老」が語つたと稱する噂話に、ちよつとした細工が施されてゐるのである。例へばT・K生はこんな具合に書く。  今度の金大中氏事件關連者に對する陸軍保安司令部での拷問は、言語に絶するものであつた。金大中氏も入れられた地下室牢は悲鳴がみなぎつていた。その中には金大中氏の悲鳴もあつたと思われるが、區別ができないほどであつた。ただ高齢者の一人である文益煥牧師の悲鳴が、もつとも耐えられないものであつた。  「地下室牢の悲鳴」を聞けるのは國軍保安司令部の軍人だけである。してみれば、T・K生には保安司令部に勤務してゐる友人がゐるらしい。T・K生に情報を流すスパイも捕へられないほどお粗末な國軍保安司令部なら、全斗煥前司令官が鄭昇和前戒嚴司令官を逮捕できた筈は無いが、それはともかく、假に保安司令部に勤めるT・K生の友人が「地下室牢は悲鳴がみなぎつていた」云々と語つたといふ事だけは事實と認めるとしよう。そこでT・K生の、いやT・K生の友人の、言葉遣ひに注目して貰ひたい。  國軍保安司令部の「地下室牢は悲鳴がみなぎつて」ゐて、「その中には金大中氏の悲鳴もあつたと思われるが、區別ができないほどであつた」と彼は言ふ。これがT・K生の、或いはT・K生の友人の、見え透いた小細工なのである。「思われる」といふのはもとより推量である。つまり彼は傳聞證據の中にもこつそり推量を忍ばせるのだ。推量は所詮推量であり、事實を語つた事にはならないが、それで充分用に立つ、寄せ餌に群がる小鯖よろしく、迂闊な讀者が擬似鉤に飛び附いてくれるといふ譯だ。悲鳴の「區別ができないほど」だつたのなら、「文益煥牧師の悲鳴」だけが區別できた筈は無い。しかるに、さう考へるだけの分別は、保安司令部を惡玉、金大中氏や文益煥氏を善玉と割り切つてゐる正義病患者には到底期待できないのである。  要するに、反韓派がT・K生の文章の粗雜や小細工に氣づかないのは、氣づきたがらないからであり、彼等は、それがいかに安手のものであれ、信じたくない事實よりは「正義感」を滿足させてくれる嘘のはうを好むのであつて、要するにT・K生に騙されたがつてゐるのである。そして反韓派は、その幼稚な正義感ゆゑにこそ、弱者を善玉、強者を惡玉と割り切るのであり、かくて逮捕された金大中氏は善玉だが、逮捕した全斗煥氏は惡玉であり、鎭壓された民衆は善玉だが、鎭壓した特戰隊は惡玉だ、といふ事になる。金載圭もかつて強者だつた頃は惡玉だつたが、「惡玉」朴正煕氏を暗殺した途端に「善玉」になつた。敵の敵は身方といふ譯だ。T・K生は五十五年二月、次のやうな「友人のジヤーナリスト」の言葉を記録してゐる。  軍人どもが自分らの力を過信し、ただ敵意に燃えて過ちをおかすことのないようにと祈つている。いま金載圭氏らを無期ぐらいにしたら國民はホツとして喜ぶだろう。彼らを處刑すれば、殘黨は最惡だという印象がますます強くなる。將來の韓國の歴史が金載圭氏を愛國者として記録するのは間違いない。  もとよりかういふ安直な善玉惡玉二分法はT・K生に限らない。例へば鄭敬謨氏もさうである。鄭氏はかう語つてゐる。  光州の事態はあくまでも全斗煥軍のまさに殺人鬼的な殘虐行為から自然發生的に發したものです。光州で録畫されたビデオ・テープを見ましたが、何人かの市民が出てきて、「われわれは人間としての當然の努めとして政府軍と撃ち合いをやつたのだ。誰が好きこのんで武器をとるようなことをするだろうか」と言つてます。(中略)光州のあの悲慘な事態についての責任は、全面的に全斗煥側にあると言わざるを得ません。(『新日本文學』五十五年八月號)  プラトンが書いてゐるやうに「語り掛けるべき人々に語り、語り掛けるに價せぬ人々には沈默する」のが賢明なのかも知れぬ。それゆゑ私も鄭敬謨氏の淺薄について長々と語らうとは思はない。T・K生と鄭敬謨氏との類似點を指摘しておくにとどめよう。  鄭敬謨氏も、數人の友人の話だけが眞實を語つてゐると考へるT・K生と同樣、ビデオ・テープに録畫された「何人かの市民」の言分だけが光州事件の眞相を傳へてゐると思ひ込んでゐる。そして、それはもとより安直な二分法のせゐであり、鎭壓した側の「全斗煥軍」は「殺人鬼的な」惡玉で、「人間としての當然の努め」を果した「何人かの市民」は善玉なのだから、責任は「全面的に全斗煥側にある」といふ事になる譯だ。さらにまた、T・K生と同樣、鄭敬譲氏も、安手の正義感と思考の混濁ゆゑに、傳聞證據が傳聞證據に過ぎぬ事をうかと失念する。鄭氏はかう語つてゐる。  ソウル驛前の廣場に七萬人の學生が動員されたとき、バスが徴發され、乘客を下ろして警官隊の中につつ込んでいつたという事件があり、警官が一人死にました。學生たちはそこまでいつたのかと最初私は思つたのですが、あとから話を聞けばそれをやつたのは學生ではなかつたと言うんです。むしろそれをやつた人間を學生の方が捕まえて警察につき出したそうです。明らかに政府側の挑發だつたわけです。(『新日本文學』八月號。傍點松原)  鄭敬謨氏に限らぬ。反韓派は常にこの傳で傳聞と眞實とを混同する。「警察につき出したそうです」と言ひ、その舌の根も乾かぬうちに「明らかに」云々と斷定する。しかも、鄭氏はその詐術を詐術と意識してゐる譯ではない。  さういふ愚鈍な手合に對していかな反證を擧げようと、反證が傳聞なら所詮は徒勞であつて、こちらも傳聞と眞實とを混同できるほど愚鈍かつ鐵面皮になり、「明らかに暴徒側の挑發だつた」と負けずにがなり立てるしかない。が、それには體力と根氣が必要で、それは叶はぬとなれば、T.K生や鄭敬謨氏の愚鈍ゆゑの粗雜な思考を嗤ふしかないのである。例へば私が指摘したT.K生の思考の粗雜について、T・K生もしくは鄭敬謨氏は、到底反論できぬであらう。「文は人」なのであつて、粗雜な文章は粗雜な思考の決定的な證據になるのである。 賢愚をわかつもの  諄いやうだが、私と同樣、T・K生も鄭敬謨氏も光州にはゐなかつたのである。それゆゑ私は、「光州事態の眞相はなにか」について斷定する積りは無い。私がここで問題にしたいのは、韓國に石を投げる反韓派が、測り難き眞相についての敬虔な感情を缺いてゐるといふ事である。つまり、安手の正義感に盲ひたる反韓派にとつて、「光州事態の眞相」は自明の事なので、眞相は結局「藪の中」かも知れぬといふ事を反韓派は考へてみようともしない。そして、さういふ眞實に對する敬虔な感情を持合せぬ手合が、戒嚴司令部といふ權威を信ずる韓國の民衆よりも賢いとは斷じて言切れないのである。  ここで讀者は金俊榮氏の言葉を思ひ出して貰ひたい。「なぜ韓國に、韓國ばつかり、あの、噂をきんちようでね、書きますか」、さう金氏は言つた。勿論、金氏も「光州事態の眞相」を知つてゐる譯ではない。が、私はT・K生や鄭敬謨氏よりも、文公部の若い役人のはうが賢いと思ふ。なぜなら、金氏はおのが「知力では判斷を下す資格がない」と知れば「權威を受け入れる」からである。ホイジンガは書いてゐる。  かつての時代の農夫、漁夫あるいは職人といつた人びとは、完全におのれじしんの知識の枠内で圖式を作り、それでもつて人生を、世界を測つていたのである。自分たちの知力では、この限界を越える事柄については、いつさい判斷を下す資格がない、そうかれらは心得ていた。いつの時代にも存在するほら吹きもふくめて、そうだつたのである。判斷不能と知つたとき、かれらは權威をうけいれた。だから、まさしく限定において、かれらは賢くありえたのである。(『朝の影のなかに』、堀越孝一譯)  「限定において賢くありえた」とはどういふ事かを知りたければ、きだみのる氏の『につぽん部落』(岩波新書)を讀めばよい。「終戰前後から十五、六年くらい」の頃、「東京都の西の端を限る恩方村」邊名部落に「限定において賢い」としか評しやうの無い人々が住んでゐた事が解る筈である。その一人がかういふ名言を吐いてゐる、「本なんておめえら讀むでねえ。本を書くにや筆が要らあ。本書きの使う上等な筆になればなるだけ狸の毛ばが餘計入るもんなあ。化かされて暇と金をすつちや藝もねえからよ」。  「狸の毛ばが餘計」入つてゐる毛筆の代りに萬年筆を握り、韓國についてのまことしやかな噂を書き散らすT・K生は、「藪の中」の事柄、或いは「限界を越える事柄については、いつさい判斷を下す資格がない」などと、ただの一度も考へた事が無いであらう。そして、なにせ國軍保安司令部の「地下室牢」の内部までお見通しらしいから、戒嚴司令部の如き權威は一切受け入れる必要が無いのであらう。だが、「友人のジヤーナリスト」や「民主勢力の或る長老」といつた淺薄な手合に從つてゐるT・K生が、戒嚴司令部の權威を受け入れてゐる金俊榮氏よりも賢い筈は斷じて無い。「賢い人に從ふのは賢い事と同じだ」とアリストテレスは言つた。その通りであつて、吾々は皆、病氣になれば醫師の判斷に從ふのである。 知らされすぎの弊害  「こんにち西洋に生きているごくあたりまえの人々のばあい、かれらはあまりにも多くのことを知らされすぎている」とホイジンガは言ふ。洋の東西を問はず、それは憂ふべき現代病である。光州で何が起つたかは吾々にとつて「藪の中」である。が、テレビのスイツチを捻るだけで、或いは新聞の社説やT・K生の駄文を讀んだだけで、人々は「自分で思考」した積りになり、「自分で表現」してゐる氣になつて、「金大中氏を殺すな」のデモに參加し、ハンストをやり、「民主勢力との連帶の挨拶」に醉ふ。それは嗤ふべき淺薄だが、同時に憂ふべき現代病でもある。マスコミやルポ・ライターによつて吾々は、イラン・イラク戰爭だの、ポーランドのストライキだの、原子力發電だの、藝能界の「噂の眞相」だのと、「あまりにも多くのことを知らされ」ながら、といふよりは知らされるがゆゑに、「限界を越える事柄については、いつさい判斷を下す資格がない」との謙虚な心構へを今や喪失してゐる。そして「あまりにも多くのこと」のすべてについて「自分で思考」する譯には到底ゆかないから、人々は、出來合ひの思想を探し求める事になるが、出來合ひといふものは、服であれ思想であれ、多くの人々に利用されるやうに拵へてあるから、當然の事ながら非個性的であり、非個性的だから同志との糾合を圖るのに便利で、かくて身方を善玉、敵を惡玉とする安直な二分法が持て囃され、人々は敵を罵る事によつて肌を合せ、身方との「連帶」を無上の快とし、身方が自分と同じ考へである事を確認して安心したがるのである。例へば次に引く文章を見るがよい、最後の一行が特に興味深い。  五月二十三日、平壤放送は韓國への“不介入”を宣言する朝鮮中央通信の聲明を放送した。(中略)「多くの市民と全斗煥軍が全面衝突して多數の死傷者が出た」「高校生たちも授業を拒否して市街をデモした」。(中略)平壤放送の、煽動調ではなく、重々しい調子の語り口には迫力があつた。とくに三十日朝のニユースは「四・一九の教訓を忘れず、たたかう人民の側、父母兄弟の側に立ち、反維新・反フアツシヨ鬪爭隊列に勇敢に立ち上るべきである」と韓國人民や兵士にたいして訴えたのは印象にのこつた。この放送を日本でききながら二つのことを考えた。第一は事件の客觀的事實と政治的本質を明快に指摘したことに對する共感であつた。しかし、第二には、海をへだてた日本でこの放送をききながら、何んともいいようもないもどかしさや無力感をもつた。  小中陽太郎も、筆者とおなじような無力感をもつたらしい。(松浦總三「光州事件とマスコミ」、『統一評論』五十五年九月號。傍點松原)  最後の一行については説明を要しないと思ふ。何ともはや砂を噛むやうな駄文だが、文章作法上の缺陷も指摘しない。だが、この松浦氏の駄文には、反韓派を批判してこれまで縷々述べて來た事柄が集約されてゐる。まづ、「藪の中」の眞實に對する畏敬の念を持合せぬ松浦氏は、平壤放送を鵜呑みにして「光州事態の眞相」すなはち「事件の客觀的事實」を把握できたと思ひ込んでゐる。次に、松浦氏は「たたかう人民の側、父母兄弟」の側が善玉で「全斗煥軍」は惡玉だと「明快」に區分けする平壤放送の「煽動調」の非人間性に氣附かず、その「明快」な「政治的本質」に「共感」してゐる。出來合ひの思想が「明快」で「政治的」なのは怪しむに足りないが、それはまた頗る非人間的なのであつて、これは少しく説明を要する。  松浦氏は『統一評論』に寄せた同じ論文の中で、『諸君!』を「タカ派文化人の機關誌」と呼び、「まもなく『正論』(サンケイ出版)も創刊され、右傾の『中央公論』とならんで“右翼雜誌トリオ”を形成した。これらのメデイアは親韓文化人の飼育の温床だつた」と書いてゐる。つまり松浦氏は「左傾」の『統一評論』や『世界』は善玉で、私のやうな「右翼」を「飼育」した『中央公論』は惡玉だと割切つてゐる譯である。だが、私は『中央公論』五十五年四月號で「親韓文化人」を徹底的に成敗した。彼等のでたらめな「變節」を人間として許せないと思つたからである。『中央公論』が「右翼雜誌」なら、どうしてさういふ事が可能だつたのか。  要するに、「藪の中」の眞實を把握する事の難しさを痛感しない者は、人間を理解する事の難しさをも痛感する事が無く、人間を善玉と惡玉に二分して能事足れりとなす。『御意に任す』を書いたピランデルロは、さういふ淺薄な手合に我慢がならなかつた。『御意に任す』の幕切れで、ポンザ一家の奇行の謎を解かうとして、すなはち「藪の中」の眞實を知らうとして躍起になつた金棒曳きは、見事背負投げを食ふのだが、ピランデルロはただ軍に「眞實の相對性」を主題にして觀客を飜弄しようとしたのではない。ピランデルロは「眞實は時に隱蔽されねばならぬ。同情にもとづく嘘に較べれば、眞實などはさして重要でない」といふ事が言ひたかつたのである。ポンザ夫人は金棒曳きたちに言ふ、「あたくしどもの生活には、隱しておかねばならぬ事がございます。さもないと、お互ひの愛情によつて見附け出した救ひが、臺無しになつてしまひます」  これはしかし、善玉惡玉二分法に執着する手合にはちと高級すぎる問題かも知れぬ。が、「同情にもとづく嘘」を尊重しないなら、すべての家庭は破壞されよう。いや、家庭に限らず、すべての社會生活は成り立たない。そして實際、吾々は妻子や親友を善玉と惡玉に二分してはゐない。身近な友人と附合ふ時、吾々は友人の謎は謎のままにしておく思ひ遣り、或いは、眞實を隱蔽する思ひ遣りを忘れてはゐない。そしてまた、百パーセントの善玉も百パーセントの惡玉もこの世には存在しない事をも吾々は皆承知してゐよう。それなら吾々は、韓國人に對しても、なぜ同じ態度で接しられないか。  『中央公論』七月號にも書いたとほり、私には「韓國にしかゐない友人」がある。それゆゑ私は、韓國について知り得た眞實のすべてを、ルポ・ライターよろしく語る事はしない。友人について知つた事のすべてを明け透けに語るのは背信行爲である。私は例へば申相楚氏の人柄を賞讃した。あれはいくら何でも襃め過ぎだと笑つた淺はかな韓國人もゐたらしいが、私は申氏の缺點を知らぬではない。申氏も人間であつて、もとより完全無缺ではない。が、それはお互ひ樣であり、私にも多くの缺點がある。申氏は確實にそれを知つてゐよう。この世に百パーセントの善玉がゐる筈は無い。無論、百パーセントの惡玉もゐる筈は無い。  けれども、反韓派にはこの至極簡單な道理がどうしても理解できぬらしい。それゆゑ彼等は、かつては朴正煕氏を、今は全斗煥氏を極惡非道の惡玉に仕立て、一方、金大中氏を完全無缺の善玉として渇仰する。だが、それも、本氣で金大中氏の人柄に惚れ、友情ゆゑに金氏の缺點を語りたがらぬ、といふ事ではない。彼等はただ、闇雲に善玉を稱へて空疎な文章を綴り、惡玉を難じて惡罵の限りを盡くすだけなのである。  例へば、「變節」した清水幾太郎氏を進歩派は罵倒する。身方を裏切つた者はすなはち敵だからである。だが、出來合ひの思想を弄び、敵を罵り身方を稱へ、連帶をもつて無上の快となす、さういふ自分たちの政治主義の安直な生き方ゆゑに、今、清水氏の「裏切り」を有效に批判できず、ただ罵るばかりなのだといふ苦い認識は、彼等には無い。  いや、それは保守派も同じである。保守派の中には「蕩兒歸る」とて清水氏を歡迎する向きもある。敵の敵となつた者は身方だからである。私は改憲論者であり、自衞隊が國軍として認知される事を切に望んでゐる。けれども一方、昨今の所謂「右傾化」の輕佻浮薄をも苦々しく思つてをり、その輕佻浮薄をいづれ批判せねばならぬと考へてゐる。が、それをやれば、私は「折角高まつた防衞意識に水を差す裏切者」として保守派に嫌はれるに決つてゐる。だが、身方のすべてが善玉で、敵のすべてが惡玉だと割切り、身方との連帶に醉ひ癡れるべく敵を罵る、さういふ安直な生き方に慣れ、知的誠實を抛棄して久しい進歩派に、「右傾化」の淺薄を批判できる筈は斷じて無いのである。 「おやりなさい」  だが、もうこれくらゐにしておかう。何を言はうと愚かな反韓派には所詮通じまい。通じるくらゐなら、あれほどぞんざいな文章を書きなぐる譯が無い。それは百も承知ゆゑ、專ら讀者を當てにして、彼等に通じないゆゑんを縷々述べて來た譯だが、最後に反韓派が百パーセントの惡玉と見做し、呪咀してやまぬ全斗煥大統領に關する三つの文章を引用し、反韓派の善玉惡玉二分法の安直を讀者にとくと味はつて貰はうと思ふ。  獨裁者朴をしのぐ全斗煥によつて、光州の民衆の貴い血潮がおびただしく流され、しかもその血を贖うべき者の首の代りに、惡虐なすりかえによつて、こともあろうに金大中氏らの生命を彼らは求めています。(『季刊クライシス』第五號)  金載圭氏を英雄視する民心はいつそう高まつている。しかし全斗煥グループの敵意はついに無謀にも彼を死に追いやるのではないかという悲觀論がつよくなつている。一二・一二事態を經驗した國民は、全斗煥のような人物は何をしでかすかわからないと思う。(T・K生、『軍政と受難』、岩波書店)  次に引くのはその「何をしでかすかわからない」全斗煥大統領の長男で、延世大學二年生の全宰國君が、一九八〇年十月一日附の『朝鮮日報』に寄せた文章の一部である。  本當に長い「冬休み」であつた。(中略)その間私たち韓國民は、多大の犧牲を拂はねばならなかつた。が、その鬱陶しい梅雨も明けた。四月の或る日、大學へ行くと、友達が父の事を話してゐた、父全斗煥(チョンドファン)を「*(原文:前+衣)頭漢(チョントハン)(人殺し)」と呼んでゐた。  私は大學での徹夜籠城はしなかつた。早く歸宅して母や弟や妹を安心させねばならず、また「維新殘黨の首魁」と謗られてゐる父を慰めてやりたかつたからである。けれども、この不肖の倅は、夜おそく歸つて來る父を慰めるよりは、むしろ父の惡口を言ふ友達につい同感し同情してしまふのであつた。一度父にかう言つた事がある、「お父さん、お父さんひとりですべてをうまくやれますか。お父さんが自分の惡口を聞く事ができるといふ事實、それこそ民主主義の存在を實證するものではありませんか」(中略)  或る日、夜おそく、歸宅した父が言つた、「お前の學友が、私を維新殘黨のボスと呼び、私の藁人形を拵へて、火刑式をやつたさうだな」。怒りや疲勞ではなく、悲哀と孤獨の籠つた聲で父がさう言つた時、父の目には涙がうかんでゐた。その涙の意味を私は理解した。それを一生忘れずに生きてゆかうと思ふ。神に誓ふ、私は今後一瞬たりともそれを忘れない。忘れたら、いかやうの罰を受けてもよい。私の知る限り、父は誰にもまして鋼のやうな意志を持つ軍人であつた。その父が涙を見せるなどといふ事は、とても想像のつかない事だつた。(中略)  冷たい風が吹いてゐる冬の夜、十二月十二日、十年間住んだ延禧洞の思ひ出深いあの家で、長い歳月、信じ合ひ助け合つて暮して來た幸福な夫婦と四人の子供たちが、向き合つて坐つてゐた。父の表情は堅く、母は窓外の闇を默つて見詰めるばかり、子供たちは何事かが起るとの不吉な豫感に息詰るやうな思ひだつた。すると父が言つた、「お前たちは、正しくないと知りながら、大きな流れにそのまま身を任せるはうがよいと考へるか。それとも、男と生れた以上、命を懸けてでも、自らが正義と信ずるもののために、歴史の流れを變へるべく全力を盡さねばならぬと考へるか」。ぼんやりして默り込んでゐた子供たちにとつて、それは思ひもよらぬ質問であつた。が、四人の子供たちは口を揃へて言つた、「おやりなさい」。  權威ある家長にとつて、子供たちのこの信頼がどのくらゐ役立つたかは解らないが、少しばかり堅い表情を弛めて父は言つた。「私は田舍の貧農の子として生れ、かうして將軍にまでなれた。これで滿足だ、これ以上の野心は無い。だが、もしもこの私の身に不幸な事が起つて、お前たちが世間から侮辱され蔑視されるやうな事になつたとしても、お前たちは挫折する事無く、勇氣を失はず、雄々しく生きてゆくのだぞ」。  さう言ひ殘し、振向かず、父は冷たい戸外へ悠々と出て行つた。 IV <對談> 日本にとつての韓國、なぜ「近くて遠い國」か 申相楚(大韓民國國會議員) 松原正 朴大統領が暗殺された時 <松原> 申さん、覺えていらつしやいますか、朴正煕大統領が暗殺された時、私はたまたまソウルにゐて、その翌日だつたか、私は申さんに電話を掛けた。そしてかう言つた「私は新聞記者ぢやないから、大統領暗殺の眞相なんぞを知りたいとは思はない、ただ今後の日韓關係について申さんとは是非もう一度語り合ひたい、折も折、たいそうお忙しいだらうが、お目にかかれないだらうか」。  實は、申さんの他にもう一人、野黨新民黨の代議士にも會ひたいと思つたのです。新民黨について率直な疑問をぶつけてみたいと思ひましてね。そこでまづその野黨の代議士に電話を掛けた。が、斷られたんですね。「松原さんもご承知のやうに、今は國家未曾有の危機である、お會ひできない」。まあ、それはそのとほりで、あの時は野黨の代議士だつて猫の手も借りたいくらゐだつたらう。まして申さんは維新政友會の代議士、いはば與黨だつた。これはもう斷られるに決つてゐると思つて、おづおづと電話した。すると申さんはおつしやつた。「いやあ、私は忙しくありませんよ」。たとへ忙しくなくても忙しいと言ふのが政治家だらうにと、私は驚き、感動し、訝しんだ。 <申> つまり、政治家としての力量を訝しんだわけでせう。(笑) <松原> ええ、それはもう。(笑)議員會館で最初にお目にかかつた時に訝しんだ。あの時、吾々は三時間語り合つたけれど、申さんは日本の政治家や知識人を、名指しで、ぼろくそにけなしたでせう。 <申> いや、それは松原さんが先にやつたんだな。それで私もつい心を許して……。(笑)それに松原さんは韓國や韓國の政治家についても、ずゐぶん激しい事を喋つたんですよ。覺えていらつしやらないかも知れんが。 <松原> いや、覺えてますよ。申さんに對してだけではなく、私は韓國で日韓雙方の批判をやりましたから。私怨ゆゑの惡口はいけないけれど、私には個人的に怨んでゐる韓國人なんて當時一人もゐませんでしたから。孫世一といふ人がゐるでせう。東亞日報の論説委員の。 <申> ええ、いまは代議士ですが。 <松原> 孫さんに初めて會つたのは、朴大統領が殺される數時間前、東亞日報の彼の部屋でだつた。私は孫さんに言つたのです。「朴大統領は偉大だが、ああいふ偉大な政治家の取卷きはとかく墮落しがちなんだ。あなた方は朴さんがいつまでも生きてゐると思ひ込んでゐる。けれども朴さんも人間、いつ死ぬか解らない、いつ殺されるか解らない」。孫さんは頗る眞劒に私の話を聞いてくれましてね、もう一度會はうぢやないかといふ事になつた。二度目に會つたのは無論、朴大統領が殺された後の事ですが、ホテルの私の部屋で、夜空に行き交ふ探照燈を時々緊張した氣持で眺めながら、吾々はまこと眞劒に話合つたのです。正直、孫さんの意見には承服できないところがあつた。だから私はそれを率直に言つた。そしてその結果、私にとつて孫世一さんは、忘れられぬ人の一人になつたといふわけです。 <申> それが何より大事なんですよ。韓國人と日本人が率直に話合ふといふ事が。孫君とはその後お會ひになりましたか。 <松原> ええ、韓國へ行けば必ず會ひます。三度目の訪韓、あれは昨年の七月だつたけれど、その時の孫さんは失意のどん底で……。何しろ彼は金泳三氏に賭けて、その金氏が失脚してしまつたのだから。確か、金泳三氏の主席補佐官になつたのでしたね。 <申> ええ、まあそんな役でした。 <松原> でも、失意の時であらうと得意の時であらうと、友情に變りは無いはずですからね。私は文公部に孫さんと再會できるやう計らつてくれと頼んだ。ところが文公部は消極的でしてね。ああいふ態度、よくないな。 <申> それは無理からぬ話ですよ。何しろあの頃は混亂期だつたし、それに何より、どこの國でも役人根性と人情は水と油だ。 金鍾泌氏との對談 <松原> それはさうです。でも、覺えていらつしやいますか、昨年七月訪韓した時、金浦空港からソウルへ向かふ車の中で私、「金鍾泌さんに會ひたいのだけれど、會へるだらうか」つてたづねたでせう。 <申> さうでした。覺えてゐます。 <松原> 昨年四月、二度目の訪韓の折、私は金鍾泌さんに會つた、大統領候補としての金鍾泌さんに、民主共和黨本部の總裁室で。金さんは私との會見に一時間半も割いてくれたのですよ。もつとも私のはうから會ひたいと言つたわけではなかつたけれども。とまれ私は金鍾泌さんにかなり率直に話した、「韓國は日本と違ふ。ソウルの四十數キロ先には敵がゐるではないか。しかるに韓國の政治家は日本やアメリカにおけるやうな民主主義が韓國でも今可能であるかのやうに思つてゐる。それは途方もない間違ひだ」。そんなふうに話したのです。すると金鍾泌さんは頗る眞劒になつて、三十分の會見豫定が九十分になつてしまつた。私はあの頃、軍人が大統領にならなければ韓國は持たないと思つてゐたし、申さんもその點は同意見でしたけれど、「袖振り合ふも他生の縁」といふ事があるでせう。九十分語り合つたら「多少の縁」ですよ。逮捕され失脚したからとて知らぬ顏はできないでせう。 <申> その通りです。 <松原> 勿論、友情や信頼關係だけでは政治はやれない。マツクス・ウエーバーの言ふ通り「政治家は惡魔の力と契約する」。だから、金鍾泌さんだつて私の意見を書生論だと思つたに違ひない。私のはうもさうで、私は當時國軍保安司令官だつた全斗煥さんに會つて、あの人の人柄にぞつこん惚れたばかりでなく、全斗煥さんがいづれ金鍾泌さんを逮捕するのではないかとさへ思つてゐましたけれど、そんな事はおくびにも出さなかつた。金鍾泌さんには惡いけれど、人格識見、勇氣、そのいづれにおいても全斗煥さんのはうが上だと私は思ひましたからね。でも、金鍾泌さんとの「多少の縁」、これは否定しやうがない。なるほど政治家は「惡魔の力と契約」するけれど、そして金鍾泌さんがどんなふうに契約したのか、私は知らないけれど、政治家も人間ですからね、權力を失つて後も「多少の縁」を忘れぬ友人知己の存在は、これは必ず必要とする筈だと思ふ。 <申> おつしやる通りです。人間は絶對的な孤獨に耐へられるものではありません。それに人間には、自分の信念に對する誠實のほかに他人に對する誠實も必要ですから。 <松原> その「他人に對する誠實」といふ事ですけれど、申さんと私とは七つ違ひ、勿論申さんのはうが先輩です。そして吾々が知り合つてまだ二年にしかならないけれども、何囘會つても私に對する申さんの態度は少しも變らない。これこそ「他人に對する誠實」といふもので── <申> いや、それは松原さんもさうだ。知り合つて二年にしかならないけれども、私としてはまるで數十年附合つたかのやうです。何しろ先月日本へ來た時は、千葉縣勝浦の旅館でいつしよに風呂に入つて、背中を流して貰ひましたから。 <松原> だつて、私も流して貰つたのだから……。もつとも申さんの背中の面積は私の背中のそれよりも大きくて、大きなイボがあつて、(笑)七つ年上だけあつて皮膚の老化が進んでゐて(笑)……いやいや妙な脱線をしてしまつた。(笑)強引に本論に入る事にします。 六十億ドル、米の壓力で澁々貸す <松原> 周知のごとく、當面の日韓の厄介な問題として、例の六十億ドル公共借款があります。これは今後どうなるか。いや、どう處理すべきか。その點についてのお考へを話して頂きたいのですが。 <申> まあ、兩國の外相會談も閣僚會談も物別れに終つてしまつた譯ですね。その後も兩國の政治家が頻繁に往來して、兩國の友好親善を強調してゐるんですが、どうもそれも口先だけの美辭麗句でしてね、問題の解決を先に延ばすための方便ではないかと私は思つてゐます。けれども、これは大事な問題で、うまく解決しないと韓日關係に大きな禍根を殘します。韓日の當局者が眞劒に忍耐強く話合つてうまく解決しなければならない。交渉のやり方にも色々ありますが、役人同士、政治家同士の交渉だけでなく、日米賢人會議のやうなもの、それが韓國と日本の間にも必要なのではないかと思つてゐます。役人や政治家はとかく保身の術にたけてゐて、輿論に迎合するでせう。つまり本音を吐かんのです。本音と建前とを使ひわけるのは日本人の特技だと、日本人は思つてゐるでせう。ところがさうぢやない、韓國人のはうがそれは徹底してゐる、とさへ私は思ふ。とまれ、韓國人も日本人も競つて使ひ分けをやつとるんですな。これでは何事も解決しません。 <松原> ですが、私はかう思つてゐるんです。日本はいづれ必ず韓國に六十億ドルを貸すやうになると。六十億が四十億になるといふ事はあるだらうが、貸す事は必ず貸す。だが、それは日本が韓國の言分を理解して、といふ事ではない。 <申> さう、アメリカに壓力をかけられて澁々貸すといふ事である。 <松原> さうなんです。實際、二、三日前の新聞に、アメリカ共和黨のヘルムズ議員が、日米對等の防衞分擔を求め、日米安保條約改定決議案を提出しようとした。結局は引つ込めましたけれども、あれは最初から引つ込めるつもりだつたのだらうと思ふ。つまり、アメリカは日本に對して今後、日本に防衞分擔をさせるべく、手を替へ品を替へ壓力をかけてくるだらうと思ひます。韓國に對する經濟協力だつて、アメリカに壓力をかけられて澁々やる、さういふ事にもなり兼ねない。けれども、さういふ事になつたら甚だ困る。この點、いかがですか。 <申> 全く同感ですな。この前、オタワで先進國首腦會議がありましたね。あの時、鈴木首相とレーガン大統領とは、日米兩國にとつて最も重要なる地域に對する經濟協力といふ點について合意したわけですね。日米兩國にとつて重要な地域とはどこか、間違ひなしに韓國がさうです。けれども、日米共同聲明についても「そんなものに日本は束縛されない」とか日本側が言ひ出して……。 <松原> 韓國人も唖然としたでせう。 <申> 唖然としましたな。(笑) <松原> 園田外相の輕佻浮薄には困つてしまふな。でも、御安心下さい、そのうち内閣改造があつて、まさか外相の留任はありえないでせうから……。 <申> ついでに、鈴木首相の留任もありえないでせうか。(笑) <松原> あ、さうか。事態は深刻なんだなあ。(笑)「御安心下さい」なんて輕々に言つちやいけないんだ、外國人に。これ、人から聞いた話ですけれど、園田外相は昔、落下傘部隊の隊長だつたさうですよ。で、その話をある時、記者會見でヘイグ長官が披露した。するとアメリカ人記者が笑つた。落下傘部隊の隊長つてのは頭が惡いんださうです。だから── <申> ちよつと待つて下さい。うちの大統領も落下傘部隊の隊長だつたんですが……。 <松原> あ、さうだ、すつかり忘れてゐた。(笑)でも、例外の無い法則は無いでせう。(笑)しかし、同じ落下傘部隊出身で、あの二人、どうしてああも違ふのか。 <申> まあ、園田さんは三十數年、落下傘つけての降下をやつてゐないから……。 經濟協力はすべて安保絡み <松原> とにかく話題を變へませう。(笑)さういふ事で、ええと何の話でしたか。 <申> アメリカの壓力で澁々貸すのはまづいのではないかといふ話です。その通りです、アメリカに言はれて澁々貸したとなると、日本側は不快だらうし、韓國側にも色々とまづい事が起る。これはやはりうまく解決しなければならない、韓日雙方が努力しなければならない。日本人の殆どは、「今頃、唐突に大金を貸せと言ひ出して、韓國といふ國は尊大で生意氣だ」ぐらゐに思つてゐるのではないですか。 <松原> さうなんです。一方、韓國にも頗る非理性的な反日感情がある。ですから、アメリカの壓力を受けてから貸すといふ事になると、日韓雙方の馬鹿が騷ぎ出しますね。韓國の馬鹿はかう言ふ、「ザマを見ろ、アメリカに叱られて結局金を出したぢやないか」。そして、さういふ韓國の馬鹿の態度が日本でも報道される。すると日本の馬鹿がいきり立つ。 <申> かくて韓日關係は最惡の状態になる。 <松原> それは何としても避けなければならない。 <申> 日本はいはゆる安保絡みの經濟協力はできないといふ考へでせう。私にはそれが理解できないのですよ。現代世界において、經濟協力とはすべて安保絡みなんですから。ソ聯の衞星國に對する經濟協力だつて、無論安保絡みだ。例へばの話、ソウルの下水道改善のために日本から金を借りる。その金で下水道を直す。生活環境がよくなりソウル市民がいつそう健康になる。健康な市民の中から兵隊をとる。富國強兵といふ事になる。ですから、安全保障と無關係の經濟協力なんぞありえない。  それと、日本の方々に是非とも理解して頂きたいのは、韓半島における南と北の勢力比といふ事です。北が強いと戰爭になる可能性があるが、南が強ければその心配は無い。それはアメリカとソ聯の關係についても言へる事ですが、その事が日本人にはどうも解つて貰へないらしい。今、南と北には軍事力の格差があつて、北のはうが少し強いのです。その格差を埋めるべくアメリカ軍が駐留してゐる譯ですが、韓國としてはいつまでもアメリカに依存ぜず、獨力で格差をなくさなければなりません。そのために韓國は、軍事的にも經濟的にももつと強くならなくてはならない。そのために日本に金を借りたいと、さういふ事なのです。日本の新聞は、六十億ドルとは法外な、と考へてゐるやうですが、私は法外だとは思ひません。一時に六十億借りたいといふのではなく、五年に割つて六十億、つまり一年間に十二億貸してくれないかといふ事ですからね。日本のGNPは今、一兆二千億ドルでせう。十二億ドルとはその千分の一だ。要するに、千圓持つてゐる日本に對して、韓國は一圓だけ貸してくれと言つてゐるのです。日本の海外經濟協力資金は、アジア向けが年間二十五億ドルでせう。二十五億のうち韓國に半分も貸す譯にはゆかんと、さういふ考へもある。けれども、日本の安全と平和にとつて、一番重要な國は韓國ではないだらうか。重要な國に優先的に貸したはうが、日本の國益に合致するのではないだらうか。もしも韓半島に戰爭が起つたら、日本はそれを對岸の火事として眺めてゐられるだらうか。もはやさういふ事はできないと私は思ふ。一九五〇年から五三年にかけての戰爭の際、日本は對岸の火事のやうに眺めてゐたでせう。 <松原> ええ。それどころか、火事場泥棒よろしく、と言つては語弊があるけれども、とにかく特需でしこたま儲けました。 <申> ところが、あの頃とは違つて、今の國際政治の權力構造を考へたら、韓半島における戰火は、少なくとも極東全域にひろがる可能性がある。日本としては、とてもそれに乘じて稼ぐといふ譯にはゆかない。 <松原> さうです。第一、そんな事をアメリカが許すはずもない。 <申> さうなりますとね、戰火が日本にも及ぶといふ事にもなりかねない。さうなつたら六十億ドルどころの出費ではすまなくなる。それを考へれば、さういふ事態を未然に防ぐための六十億、これは決して法外な額ではない。   韓國は「戰爭屋」ではない <松原> 私個人としては、全く同感です。けれども、日本人の殆どは、このまま「モラトリアム國家」としての繁榮を永遠に享受できると思ひ込んでゐますからね。韓半島の安定が日本にとつて大切だと、韓國がいくら強調しても信じないわけですよ。それどころか、さういふ韓國の主張を、比喩はまづいが、惡女の深情けのやうに思ふ。(笑)つまり、「あたしを大事にするとあなた仕合せになれるわよ」つて、美女に言はれたら、男はその氣になるけれども、殘念な事に、日本人は韓國を美女だとは思つてゐない。ですから、「韓半島の安定は日本にとつても重要」だなどと言はれても、惡女の深情けで迷惑だと、さう感じてしまふのです。  どうしてさういふ事になるか、つまりなぜ日韓關係はかくも厄介なのか、それは日頃、私と申さんが倦む事なく語り合つてゐる事で、けふもいづれその點について、ざつくばらんに語らなければならないでせう。けれども、まづ考へなければならないのは、日本と韓國との、國防意識の懸隔ですね。韓國は國防について頗る眞劒だけれど日本はさうぢやない。日本では今、ソ聯は脅威かどうかなんて悠長な議論をやつてゐるんですが、大事なのはそんな事ぢやない、ソ聯の脅威を日本人が本當に感じてゐるかどうか、でせう。韓國では、北朝鮮は脅威かどうかについての議論、やつてゐますか。 <申> やつてをらんですな。皆、北の脅威を痛感してゐるから、さういふ馬鹿げた議論はやりません。 <松原> さつき申さんは、「韓國としてはいつまでもアメリカに依存せず、獨力で北との格差をなくさなければならない」とおつしやつた。それは要するに、北朝鮮だけでなく、アメリカもまた韓國にとつての脅威だといふ事ですね。 <申> さうです。アメリカが韓國を見捨てるといふ事が、絶對に無いとは言切れない。 <松原> そこなんですよ。さういふ事を日本人はまるで考へてゐないのです。ですから、ソ聯の脅威といふ事はさかんに論ずるけれども、アメリカの脅威は全然論じない。 <申> 奇妙ですな。むしろアメリカのはうが日本にとつては脅威のはずですがね。 <松原> それに、國際經濟といふマラソンで、アメリカもECも韓國も、いはば鎧をつけて走つてゐる。軍事費といふ鎧を。しかるに日本だけはパンツ一枚で走つてゐるでせう。(笑)昨今、日本に對するアメリカやECの壓力が強まつたけれども、要するにあれは、「パンツ一枚とはけしからん、日本にも鎧をつけさせろ」といふ事なんですね。 <申> さうです。日本側の言分に理があるかどうか、さういふ事は問題ぢやない。日本とソ聯、この二つの國さへ無かつたら吾々も安心して眠れるんだがと、ヨーロツパの連中は言ふ。が、今やヨーロツパだけではない。アジア諸國もさう思つてゐますよ。 <松原> つまり、軍事的なソ聯の脅威と、經濟的な日本の脅威といふ事ですね。韓國の對日貿易赤字も相當のものになつてゐるでせう。 <申> 一九六五年から今日までの累積赤字が二百十五億ドルになつてゐます。最近は毎年三十億ドルの赤字ですから、今後五年で百五十億ドルになる。 <松原> つまり、百五十億ドルも儲けるのだから、六十億ドルぐらゐ貸したつてよいではないか、さういふ事になる。 <申> さうです。さういふふうに考へて頂きたい。ところが、それが中々に難しいわけです。何しろ日本のマスコミは、韓半島における情勢は安定してゐるのに、韓國はさかんに戰爭の危險があると言ひ立ててゐる、韓國は「戰爭屋」としてめしを食つとるぢやないかと、さう考へてゐるんですから。でも、韓國が過重なる軍事費を支出して頑張つてゐるために、日本が得をしてゐる事は事實ではないか。その點だけは日本の方々に理解して頂けないか。いやいや、かういふ事を言ふから「惡女の深情け」になるわけですな。(笑) <松原> 要するに、日韓がなぜお互ひに「近くて遠い國」なのか、その原因はたくさんありますね。けれども、雙方の國防意識の違ひ、これがまづ厄介だと思ひますね。日本の政治家や知識人は板門店や第三トンネルを見るべきですよ。   北はいつでも戰爭をやる氣 <申> 昨年四月、松原さんは第三トンネルを視察なさつた。あの時、トンネルから出て來て、師團長の求めに應じて「見事なり、第一師團」とお書きになつたでせう。 <松原> だつて本當に見事でしたもの。崔連植少將にしても、鄭鎬溶司令官にしても、見事としか言ひやうのない軍人だつた。無論、全斗煥大統領もさうです。當時は國軍保安司令官だつたけれど。私はね、申さん、敗戰の時、中學三年だつたのです。ですから死ぬる覺悟で大事業をやつてのけた男といふものを、目の邊りに見た事がない、全斗煥さんに會ふまでは。それですつかり感激して、日本へ歸つて手放しで襃めたわけですよ、韓國を。『中央公論』で。 <申> さう、そしてひどい目にあつた。當然の事だ、何しろ本氣で「惡女」を襃めたのだから……。で、ひどい目にあつて後悔なさいましたか、襃めた事を。 <松原> いや、全然。だつて事實ありのまま、感激した事をそのまま書いたんですから。ですから後悔はしなかりたけれども、色々と考へさせられましたね。日韓關係の難しさを痛感しました。もう韓國の事は書くまいと思つた。まあ、それはともかく、先日もアメリカの偵察機が北朝鮮軍のミサイルで攻撃されるといふ事件が起こりましたね。あの程度の事はあつても、北朝鮮が韓國に攻撃をしかけるといふやうな事はないと、大方の日本人は考へてゐるのです。この點、いかがですか。 <申> いや、それは間違つた考へです。今、韓半島において、戰爭が起らないのは、空軍の力のせゐなのです。勿論、陸海空三軍の綜合戰力が北の攻撃に對する抑止力になつてゐるわけですが、空軍に限つて言へば、アメリカ空軍の力を合せるなら、南のはうが北よりも強い。ところが、もしもソ聯が北朝鮮にミグ23とかミグ25とかを與へるといふ事になると、さうなつたら北は侵掠をやりかねない。北朝鮮はリビアに操縱士を送つて、訓練を受けさせてゐるんです。 <松原> どうしてリビアなんですか。 <申> リビアにはオイルがたつぷりありますからね。金をかけずにミグの操縱訓練がやれます。リビアにゐる北朝鮮空軍の兵士は數百名といふ事ですが、訓練が終ると歸國して新しいのがまたやつて來る。さうやつて、ミグを操縱できる兵隊が一定の數に達した場合、ソ聯がミグを北に渡す。さうなれば戰爭を仕掛けてくる可能性は大きい。とにかく金日成といふ男は、人民の血を大量に流しても、ソ聯の支援さへ得られれば、いつでも戰爭をやる氣でゐますからね。かの南侵用のトンネルだつて、北が掘つたといふ事實は、今や全世界が認めてゐるでせう。いや、日本の新聞だけは認めてゐないのでしたか。 <松原> 日本の新聞の韓國報道のでたらめ、これは本當に困つたものです。私は昨年ソウルで、ソウル新聞の文胎甲社長に會つたのですが、文さんが嘆いてゐましたね。日本の新聞は北朝鮮についてどうしてあんなに斷定的に物を言ふのか。自分は七十二年の南北會談の折、記者として北へ行つたが、吾々が十分間話合へば、何しろ言葉が同じなのだから、相手が何を考へてゐるか、日本の記者以上によく解る。勿論、吾々に偏見が全く無いとは言はないが、北の連中の考へは、日本人以上に微妙なところまで解る。ところが日本の新聞は、日本の知識人や政治家が北に招待されて、北の公式的な説明をうのみにして歸つて來ると、それをそのまま信じて北を襃め、韓國を惡しざまに言ふ、あれは實にけしからん。文社長はさう言つてゐましたね。 <申> とにかく私の國の軍事費の支出はGNPの六%です。ところが北朝鮮はGNPの四十%ですからね。世界中にGNPの四割を軍事費に割いてゐる國は、北朝鮮以外一つも無いんですな。 <松原> 勿論、韓國のGNPと北朝鮮のそれとは比較にならないけれど、要するに、GNPの四割を軍事費に割いても、國民から一切文句が出ない國といふわけで、それは恐るべき獨裁國家だからでせう。 <申> そのとほりです。その邊のところを日本の方々に解つて頂きたい。 でたらめな日本の報道 <松原> つまり、國民に苛酷な耐乏生活を強ひる事のできる閉鎖社會たる北朝鮮と、さういふ事のやれない自由主義陣營に屬する韓國と、この二つの國を同列に論ずる譯にはとてもゆかない。けれども、その點についての日本人の理解が缺けてゐるんですね。何せ今の日本には自由がふんだんにある。世界中に日本ほど自由を享受してゐる國はない。だからどうしても韓國を自由の無い閉鎖社會のやうに考へてしまふ。軍人ばかりがのさばつてゐる野蠻な國だと思つてしまふ。けれどもそんな事ないですよ。例へばこれ、韓國天主教中央協議會の李鍾興神父に聞いた話だけれど、陸軍參謀總長の李熹性大將が戒嚴司令官を兼ねてゐた頃、神父さんたちと會食した事があつた。その時、李神父は戒嚴司令官に、「あなた方軍人はとかく信仰心が無い。そのくせ信仰心のある兵隊は勇敢に戰ふなどと言ふ。そんな事を言ふのなら、將軍達も信仰心を持つべきではないか」と、さう言つたさうです。すると李熹性大將、頭をかいて苦笑したらしい。(笑) <申> あれは大層立派な軍人なんですよ、李熹性將軍は……。 <松原> さうらしいですね。とにかく、李神父が強調してゐたのは、「戒嚴司令官にだつて吾々は自由に物を言へるのだ、軍人に文民が抑へつけられてゐると日本人は思つてゐるのだらうが、とんでもない誤解だ」といふ事でした。 <申> 韓國の軍人は大日本帝國陸軍の軍人とはまるで違ふ。まあ、それは松原さんがよく御承知のはずだけれど。 <松原> ええ、それはもう……。例へば、あの光州暴動を鎭壓したのは特戰隊でせう。あの頃、日本の週刊誌は、特戰隊の兵隊が妊産婦の腹を割いて胎兒を取り出したとか、およそありえないやうな蠻行をやつたと書きました。でも、私は當時特戰隊の司令官だつた鄭鎬溶中將から直接聞いたのですがね、そんな馬鹿げた事、特戰隊は全然やつてゐない。そして鄭中將は私にかう言つたんです、「自分はこれまでただの一度も部下を毆つた事が無い。この大韓民國に自分に毆られた軍人は一人もゐない。それは自分の名譽にかけて斷言する」つて。無論、光州暴動の時、現地にゐたわけぢやないけれど、私は鄭鎬溶さんの人柄を知つてゐる。ですから特戰隊の蠻行云々なんていふ話、信じないわけです。 <申> 要するに「百聞一見にしかず」でしてね、韓國のありのままを見さへすれば、日本のジヤーナリズムがいかにでたらめか解るはずなんですな。ところが、知識人はとかく臆病だから、ありのままを言はないんでせう。新聞記者だつてさうです。ソウル駐在の日本の新聞記者は、ありのままに記事を書いて送つても本社のデスクがボツにするものだから、しまひにはデスクの喜びさうな事ばかり書くやうになる。しからば、「日本に言論の自由ありや」と言ひたいですな。それに何より、自由とはあくまで相對的なものでせう。日本にはふんだんに自由がある。何しろ國を守らない自由もあるんだから。ほら、あの何ていひましたつけ、「ソ聯が攻めて來たら、赤旗と白旗を掲げて降服しろ」つて書いた人……。 <松原> ロンドン大學の森嶋通夫さん。 <申> あれにはたまげたなあ。(笑)あんなすつとんきやうな事書いても通用するんだから。(笑) <松原> いや、笑ひ事ぢやない、まつたくお恥しい話です。實際今の日本が韓國に見習ふべき點は多々あるんですよ。李鍾興神父にしても孫世一さんにしても、とにかく一所懸命に考へてゐる。何しろ李神父とはベルジヤエフを論じ、アウグステイヌスを論じ、轉じて金大中、金泳三を論じといつたぐあひでしたが、宗教についても俗事についても、あの人頗る眞劒でしてね。ああいふ神父さん、日本にはゐないと思ひます。私は無信仰だけれど、あの神父さんには惚れました。 <申> いや、惚れて當然です。あれは立派な神父だから。 <松原> どうも私は惚れやすい質なのかもしれませんが。とまれ、韓國人の見事なところ、それを日本人が本氣で認識すべきだと私は思ふ。ところが、それが難しい。「眞劒勝負つていい言葉だなあ」つて、孫世一さんが呟いた事がある。けれども、あの晩、朴大統領が殺された翌々日、孫さんは眞劒そのものだつた。が、さういふ事が日本人には解らないんです。いや、解らせられないんです。 <申> 要するに、韓國のよい面や明るい面は見ずに、暗い面ばかり強調する。あら捜しばかりやる。いや、あら捜しだつていい、事實なら文句は言ひません。が、無責任なデマばかりでせう。金大中事件の時もさうだつたし、光州事件の時もさうです。光州事件の時はうちの大統領が、いや、あの時はまだ大統領になつてゐなかつたけれど、とにかく軍の最高責任者だつたんですが、松原さんもご承知のやうに、全大統領や鄭鎬溶將軍みたいに極めて誠實な人間に、妊婦の腹を割かせるなんて事、できるはずないでせう。あれは初めから嘘なんですよ。特戰隊はね、人命の犧牲を最小限のものにするために、最大限の努力を拂つたぢやないですか。日本のジヤーナリズムが言ふやうに手段を選ばずにやつてよいものなら、あんな暴動、一時間で鎭壓できますよ。それなのに一週間もかかつた。それは人命を尊重したからなんです。 <松原> さういふ事なんだけど、それをいくら喋つても信じて貰へない。何しろ、森嶋通夫さんのやうな學者の防衞論が通用する國ですからね。軍人とは人非人だぐらゐに思つてゐる。一昨年、崔連植將軍が動亂當時の北朝鮮軍の殘虐行爲について説明してくれたのですけれど、その時、崔連植さんがかう言つたのですよ。「北朝鮮はこんないたいけな子供にまで銃を持たせて訓練をやつてゐる。子供だつてこれほど愛國心が旺盛なんだと言ひたいのだらうが、私たちはさうは考へない。そんな事、非人間性のあらはれではないか」。私はそんなにたくさん韓國の軍人を知つてゐるわけぢやない。けれども、私の知りえた限りでは、彼らほど野蠻や尊大と縁遠い人間は無いと思ひます。けれども、日本ぢやそれを言つても信じて貰へない。いや、信じて貰へないのは仕方がないとして、韓國軍に限らず韓國を襃めますと、色々と厄介な事になるんですね。つまり韓國を襃める動機を勘繰られるんですよ。 <申> 日本においてでせう。 <松原> いえ、日韓雙方においてです。日韓には理でなく利によつてつながるおぞましい關係といふやつがある。ですから韓國を襃めますとね、「あいつは韓國人に利用されてゐる」と、さういふ事になる。 <申> ですから、それは日本においてでせう。 <松原> いえ、韓國においてもですよ。例へば、「あいつは申相楚さんを襃めるが、申さんはそんな立派な男ぢやない。松原は申さんに利用されてゐるんだ」。 <申> なるほど私は「そんなに立派な男」ぢやないが、「松原さんを利用」とはひどいね。馬鹿みたいな奴らだな。要するに、日本の諺にあるぢやないですか。「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」。それですよ。氣にする事はない。けれども、戰後三十六年、さういふ「おぞましい關係」がつづいた事は事實ですね。戰前の事は私、あまり言ひたくないし、言ふ必要も無い。問題は戰後の三十六年だ。嘘と馴れ合ひの三十六年だつたぢやないですか。日本人が韓國へ來ると、調子のよい事ばかり言つて韓國人を喜ばせ、玄海灘を渡ると同時に、ぺろりと舌を出す。韓國人の場合も全く同じですよ、東京へ來て、おべんちやら言つて、玄海灘を渡ると惡口を言ふんだな。日本の惡口言ひたければ、日本人の前で言つたらいい。そして韓國へ歸つたら、日本を擁護すべきですね。 <松原> さうです。日本人の場合も同樣です、韓國を批判したければ韓國人の前でやつて、日本へ戻つたら韓國を擁護しなくてはね。ところがそれをやらない。どんな國にも缺點はある。韓國にだつて反省すべき點は多々あるんです。一昨年十月、最初に訪韓した時、私はそれを見て取りましたもの。申さんには何もかもざつくばらんに喋つたけれども。 淺はかな反日ナシヨナリズム <申> では、ずゐぶん日本を批判したから、この邊で韓國批判をやりますか。 <松原> と、韓國人が切り出す事はめつたにないのだけれど、さう言はれると日本人としては「お立場上まづい事になるでせうから……」と言はざるをえない、一應は。(笑) <申> 私はね、一九七三年にアメリカ國務省の招待を受けたんですよ。そして歸國後、アメリカの印象を書けと言はれて、かう書いた、「アメリカは人種差別と階級差の甚だしい國であつて、アングロ・サクソンはいはば將官、それ以外の白人は佐官、ユダヤ人は尉官、韓國人や日本人は下士官、そして黒人は兵卒である」。それを讀んでアメリカ大使館の或るユダヤ人が怒つてね、「せつかく金を遣つて招待したのに何たる事を書くか」……。(笑) <松原> でも、ユダヤ人が怒るのは無理ないけれど、それだけの事だつたでせう。後腐れはなかつたでせう。私も二十年ほど前、國務省の招待でアメリカへ行きましてね、歸國後アメリカの劇團や劇作家の惡口書いた事もあるけれど、別にどうといふ事はなかつたですね。やつぱりアメリカを襃めなくてはならないか、などとは全然思はなかつた。もつとも當時、アメリカに反日感情はほとんど無かつたから。 <申> 韓國における反日感情についてですけれども、總じてナシヨナリズムは感情的なものになりがちなんですね。しかも韓國の場合、日本帝國主義から解放されてまだ日が淺いといふ事がある。だから、日本が少しでも氣に障る事を言ふと、ナシヨナリズムに火がついて、わいわい騷ぎだす。腹を立てるのは解るが、わいわい騷いで何が解決できるか。 <松原> 先般、オリンピツクの開催地がソウルに決定した時、私は心から喜んだ日本人の一人なんです。けれども、ソウルが名古屋に勝つた事は「對日外交の勝利だ」と、韓國の新聞が書いたと知つて、私は正直、情けないなと思ひましたね。 <申> 要するにあれは、先進國でばかりオリンピツクをやらずに開發途上國でもやらうぢやないか、といふ事でソウルに票が集つたんでせう。對日外交とは何の關係もない話なんだ。さういふ妙な考へ方をする連中がをるから困る。 <松原> さういふ淺はかなナシヨナリズムは、無論日本にもあるのだけれど、何とか抑制しなければなりませんね。さもないと、ずる賢い日本人に乘せられてしまふ。それあ誰だつて襃められて腹は立たない。けれども、シエイクスピアの描いたリア王のやうに、甘い言葉に醉ひ癡れてゐると、いつか必ず足を掬はれる事になる。襃められてたわいなく喜び、苦い事を言はれたとたんに怒る、さういふ現金な態度をとつてゐると、本當の身方が寄り附かなくなるでせう。昨年、ソウルのホテルのバーで、かういふ事がありました。或る韓國の代議士と私と私の友人の三人で酒を飮んでゐたら、或る日本の代議士が大聲で「全斗煥は偉い、俺は全斗煥のためなら死んでもいい」つて喚いたんです。すると驚いた事に、その韓國の代議士が「あの人は韓國の身方だ、眞の親韓派だ」と言つたんですよ。 <申> をかしな事ですな。で、松原さん、その韓國の代議士をたしなめましたか。 <松原> いや、たしなめるといふのではなくて……、その韓國の代議士は立派な人でしてね、私、好きですから、色々と話しましたけれど。でも、申さんには解つて頂けると思ふけれども、さうやつて「でたらめな親韓派に騙されるな」と忠告するでせう、韓國人に。さうすると、妙に不快な氣分になつてくるのです。何と言つたらよいかな、つまり忠告する事は「この私は信用していいんだよ、この私だけは本當の親韓派なんだ」と主張してゐる事になるではないか。或いは少なくとも、相手がさう疑つてゐるのではないかと、こつちが疑ふやうになる。(笑) <申> なるほど、厄介ですな。 <松原> 厄介ですよ。しまひには面倒臭くなつて、ええい、放つておけといふ事になります。 現金な處世術を反省せよ <申> でも、放つておけないでせう。日本の親韓派の中には立派な方もたくさんゐるのですけど、でたらめなのも多い。そしてそれは、うちの政府にも責任があると思ひますね。過去に色々とまづい事をやつてゐるんです。口先だけのおべんちやらを言ふ奴を招待して、氣骨のある人を招待しない。いつそ韓國の惡口を言つてゐる人たちを招待して、ありのままの韓國を見せたらいいんです。 <松原> さうですね。襃めてくれると喜んでまた招待する、さういふの、一番いけないと思ひますね。かういふ事言ふのは大變に心苦しいけれども、そして誤解されるかもしれないけれども、この際だから言つておきます。大方の日本人にとつて、韓國は「追ひつき追ひ越す」べき先進國ぢやなかつたわけでせう。近代化のために學ばねばならなかつたのは、歐米諸國であつて韓國ぢやなかつたでせう。ですから、學者だつて歐米諸國の政府に招待されると喜ぶが、韓國にはあまり行きたがらないわけですよ。で、その行きたがらない人たちを招待すればいいのだけれど、實際問題としてそれは難しい。ですから、不愉快な事だけど、金や女が目當てのでたらめな奴でも、韓國の事を襃めて書いてくれるからとて招待する。かくして理ではなくて利でつながる事になる。さうなりますとね、氣骨のある連中はますます韓國から遠ざかるのですよ。 <申> そこなんです、問題は。私は今囘も日本の或る學者に言はれたんですよ、實は自分は韓國に關心を持つてゐるのだけれど、どうもああいふ墮落した連中といつしよにされてはかなはん、それでこれまで招待されても斷つて來たんだと。これは要するに、これまで韓國がでたらめな日本人とばかり附合つてをつたから、まともな日本人が親韓派になりたがらない、さういふ状況になつてをるんでせう。私はその學者の書いたもの讀んで感心したから會ひに行つたのですが、のつけから嚴しい韓國批判を聞かされて、驚きました。とにかくこれまでのやうな招待のやり方は考へ直さなくてはならない、さう痛感してゐます。 <松原> さつき私は金鍾泌さんの事、喋つたでせう。金鍾泌さんと私とは九十分語り合つただけの仲なんです。ところが韓國には金鍾泌さんと深い附合ひをした人がゐるわけでせう。さういふ韓國人が、金鍾泌さんが失脚したとたんに、新しい權力者に追從して保身を圖るのを見せつけられますとね、心ある日本人は眉を顰めると思ふ。朴大統領の死後もさうだつたでせう。朴さんの死後、屍に鞭うつやうな事を言つた日本の親韓派知識人を私は斬つたけれども、さういふ人でなしは韓國にもゐたわけですね。「類は友を呼ぶ」んです。どつちもどつちなんです。李朝の兩班以來の惡しき習性かもしれないが、保身のためのあまりにも現金な處世術を反省しないと、いつまでたつても無節操な日本人としか附合へない。 <申> そのとほりです。吾々は大いに反省しなくちやなりません。さもないと、無節操な日本人としか附合へないばかりでなく、眞の身方に愛想づかしをされてしまふ。例へば福田さんね、福田恆存さん。あの人は朴大統領が死んで、日本中が屍に鞭うつてゐた頃、「孤獨の人・朴正煕」を書いた。死んだ人を襃めて何の得があるんですか。それなのに福田さんは挽歌を捧げてくださつた。あれを讀んで感激した韓國人がたんとをるんですよ。ところが、その福田さんも今や韓國に愛想づかしをしてをられるんだから……。 <松原> 福田さんは朴大統領と親しくしてゐたでせう。そこで、私が全斗煥さんを襃めちぎりますとね、福田さんは次第に面白くなくなるんですね。「あんた、そんな事言ふけど、朴さんは日本の陸軍士官學校を一番で卒業してゐるんだ。三番で卒業といふ事になつてゐるけれど、韓國人を首席にしたくないとの日本人のけちな根性ゆゑに三番といふ事になつてしまつた。全斗煥さんも偉いが、朴さんはもつと偉い」、一度さうおつしやつた事がある。さういふ福田さんの氣持、私にはとてもよく解りますね。死んだ朴さんにそんなに肩入れしたつて、何の得にもなりはしないんだから。 <申> 要するに、眞實、韓國に對して同情と理解を持つてをられるお方が、韓國に愛想づかしをしてしまふ、さういふ風土は誰がつくつたか。やつぱり、うちのはうの責任が大きいんですね。これはどうしても是正しなければならんと思つてゐます。 <松原> 國家と國家との附合ひは誠實といふ事だけではやつてゆけないけれども、何せ日本と韓國は隣り同士でせう、未來永劫に引越すわけにはゆかないでせう。それなら、ざつくばらんに語り合ふ個人と個人との附合ひが、もつとあつてしかるべきですね。さもないと、日韓は互ひにいつまでたつても「近くて遠い國」、といふ事になる。 眞の身方こそ苦言を呈する <申> これから徐々によくなるのぢやないですか。やがて日本も淺薄な安保只乘り状態を脱して、國防を眞劒に考へなければならないやうになる。さうなれば必ず韓國に對する理解も深まると思ひます。けれども勿論、ざつくばらんな話合ひ、それが何より大事です。吾々二人が今やつてゐるやうな、友情と信頼にもとづく附合ひが、百組、千組、といふふうに増えてゆけばいい。 <松原> さうです。そしてそれは別に難しい事ぢやない。申さんと附合ふの、私にとつてはそんなに難しい事ぢやないもの。(笑)誰だつて、ざつくばらんに喋れる友人は持つてゐるはずでせう。私たちの場合はたまたま國籍が違ふといふだけの事です。もつとも殘念ながら私は韓國語が喋れなくて、申さんが日本語を話してくださるからこそ── <申> いや、そんな事ぢやありませんよ。何語を喋るかなんていふ事は問題ぢやない。信頼できる相手かどうか、それが大事なんです。スパイは相手國の言葉を流暢に喋るぢやないですか。(笑) <松原> なるほど。けれども、その言葉の問題ですけれども、私も申さんと附合ふやうになつてから、韓國語が喋れたらなあとつくづく思ひます。思ひながら勉強しないけれど、それは齢五十を越え、日本語を使つてやりとげたいことがたくさんあるからなんです。これ、必ずしも辯解ぢやないんですよ。例へば五十の手習ひやるよりも、日本語を用ゐて日韓を「近くて近い國同士」にするために努力したはうがいいではないか。それも必ずしも韓國のために辯ずるといふ事ではない。さつき、おつしやつたやうに、日本人の國防意識を確固としたものにしようとして書く事も、日韓關係を好轉させるための一助になるわけですからね。そしてさうやつて、吾々韓國語を喋れない世代が眞劒に努力すれば、若き世代が韓國の事を本氣で考へるやうになる。韓國語をやらうといふ連中も出てくる。早い話が、この申さんと私の對談ですが、若い連中が讀んだら、韓國にはこんなにざつくばらんな代議士がゐたかと驚いて、韓國を見直すのぢやないかと思ふ。 <申> ざつくばらんな代議士とは形容矛盾だな。(笑)むしろ八方破れなんですよ。 <松原> 八方美人よりはましでせう。(笑)とにかく私は若い世代に期待しますね。私が昨年『中央公論』で韓國のために辯じた時も、若い連中からずゐぶん手紙を貰ひましたもの。それあ、不愉快な目にも遭ひましたよ、たつぷりと。「全斗煥を襃めるとは何事か、あんな奴には書かせるな」といふ事にもなりましたし、脅迫電話もかかつて來たし……。 <申> 馬鹿みたいな奴らだな。どうせ北朝鮮のシンパでせう。 <松原> さうでせうね。でも、北朝鮮のシンパの脅迫なんぞ大した事ぢやないですよ。閉口するのは韓國の現金な政治主義です。現金といふ事がなによりも困りますね。襃められればたわいなく喜び、ちよつとでも不都合な事を言はれるといきり立つ、さういふ淺はかな反應は身方を遠ざけるだけですよ。眞の身方が苦言を呈する事もあるし、韓國のため良かれと思つて、不都合な事を書いてしまふ事だつてあるでせう。でも、日韓關係に關する限り、私は若い連中に期待しますね。でも、そのためには、吾々の世代がやつておかなければならないことがありますから……。 <申> さうです。吾々が若い連中に範を垂れなくてはならない。欲得づくの嘘の附合ひをやつてをつたんでは、示しがつきません。 <松原> 「示しがつかない」なんて日本語、ずゐぶん久し振りに聞いたなあ。あのね、申さん、先月日本においでになつた時も、今囘も、申さんは日本の若者に強烈な印象を與へたのですよ。『VOICE』編輯部の安部文司君なんぞ、ぞつこん惚れ込みましたね。何しろ京都のホテルで同じ部屋に泊つて、午前二時頃まで附合つて頂いて、翌朝、新幹線の始發に間に合ふやう起して貰つて、「あんな代議士は斷じて日本にはゐない」と、安部君はいたく感激してゐました。つまり「示しがつく」やうに振舞つたといふ事なんです、さういふ事が。 <申> いやあ、あの晩は愉快でしたな。 <松原> ただし、安部君も申さんの鼾にはまゐつたやうですがね。 <申> 私の鼾、そんなにひどいですか。 <松原> ひどいなんてものぢやない。何しろ叫ぶんですから、突如として。(笑) <申> いや、それだけは解らんな、松原さんを果して信用すべきかどうか……。(笑) <松原> いや、信用すべきですね。私は以後決して申さんとは寢ませんから。(笑)酒を飮みすぎるんぢやありませんか、要するに。 <申> いやいや、酒と鼾とは關係ありません。それに、酒が飮めるといふ事はすばらしい事なんです。それは健康である證據、金のある證據、そして友達のある證據ですからな。まさに「酒は百藥の長」なんです。 <松原> 「百藥の長とはいへど、よろづの病は酒よりこそ起これ」と吉田兼好は言ひましたがね。さうだ、面白い話があります。韓國では、夜十二時以降は外出禁止になるでせう。韓國の或る有名な飮兵衞が、十二時過ぎに或るバーへ入つて行つたんです。そしたらそこに、たくさんの夜の蝶がゐた。バーに夜の蝶がゐて不思議はない。けれどもそこに一人、制服制帽の巡査がゐたんですつて。そこでどうなつたか、飮兵衞は巡査をどなりつけた、「こら、お巡りがバーへ來る時は、私服で來い、馬鹿野郎!」すると巡査が憤然として答へた、「馬鹿野郎とはきさまの事だ。ここをどこだと思つとるか!」。そこはバーではなくて警察署だつたんです。(笑)夜の蝶は外出禁止令違反で調べられてゐたといふわけ。さういふ話なんですが、そのどう仕樣もない飮兵衞の名を申相楚といふ……。 <申> さういふ事があつたらしいですな。しかし、今はめつぱふ弱くなつて、武勇傳なんぞも一切ありません。頗るおだやかな飮兵衞です、今は。 <松原> そのやうですね。扶餘で飮んだ時も、鮮于煇(火扁+軍)さんは少々荒れたけれど、申さんはおだやかだつた。鮮于さん、お元氣ですか。 <申> ええ、健筆を揮るつてゐます、相變らず。 <松原> 鮮于さんも私より七つ年上だけれど、ああいふ人も今の日本國にはゐないのぢやないかと思ひますね。昨年七月、ソウルのホテルで話してゐた時、鮮于さんの意見に承服できなかつたものだから、私は言つたのですよ、「鮮于さんのやうな人ばかりぢや大韓民國は持たない。鮮于さんはチエホフが好きらしいけど、十九世紀のロシアにはトルストイもゐた、ドストエフスキーもゐたぢやありませんか」。するとね、鮮于さんは頭をかきながら答へたんですよ、「解つた、解りました。どうも僕は重要な問題をちやかしてしまふ惡い癖があつてね」。私は感動しましたね。まじめになるべき時にもまじめにならない、それが今の日本の何よりも困る風潮なんです。が、韓國ではさういふ事はない。それこそまさに、日本が韓國に見習ふべきところだと思ひます。 <申> 鮮于さんのやうな人間がゐるといふ事こそ、韓國が健全な國家である證據なんですな。とまれ、韓國人の意見に承服できない時、承服できないとはつきり言ふ、それが何より大事な事なんですね。けふは幸か不幸か、松原さんと意見の對立はなかつたけれども……。 <松原> いや、意見の對立があつても、互ひに信頼し合つてゐたら、感情的なしこりを殘す事なく話合へるんですよ。 <申> さうです。ですから、韓國人と日本人がざつくばらんな附合ひをやつて、韓日兩國が一刻も早く「近くて近い國」同士になつてもらひたいですね。 初出一覽 I まづ徳育の可能を疑ふべし(『教育創造』昭和五十四年十月號) II 道義不在の防衞論を糺す(『VOICE』昭和五十六年十一月號) 猪木正道氏に問ふ(『人と日本』昭和五十六年十二月號) III 全斗煥將軍の事など(『中央公論』昭和五十五年七月號) 反韓派知識人に間ふ(『VOICE』昭和五十六年三月號) IV 日本にとつての韓國、なぜ「近くて遠い國」か(『月曜評論』昭和五十六年十二月七日號、十二月十四日號) あとがき  本書に收めた論文の主題は樣々だが、防衞を論じ、教育を論じ、韓國を論じて、私の關心事は一つであつた。すなはち「道義的とは何か」といふ事であつた。だが、前著『知的怠惰の時代』(PHP研究所)にも書いたやうに、「道義的であるといふ事は、美しい事を言ふ事ではない。常住坐臥、美しい事を行ふ事でもない。それはまづ何よりも、美しい事をやれぬおのれを思ひ、内心忸怩たるものを常に感じてゐる事」なのであつて、片時もさういふ事を忘れずして、私は反韓派知識人や猪木正道氏や石川達三氏や「女王蜂」を斬り、全斗煥氏や申相楚氏を稱へた積りである。おのれの中に間違ひ無く愚物も破廉恥漢もゐるからこそ、私は知的・道義的に怠惰な手合が許せなかつたし、全斗煥氏の膽力や申相楚氏の磊落がおのれに缺けてゐるからこそ、私は兩氏を稱揚した。肖りたいと思つたからである。稱揚した二人がともに韓國人なのは、韓國が今、眞劒勝負を強ひられてゐるからに他ならない。だが、大方の日本人は韓國を、かつて植民地にした三等國としか思つてゐまいから、全斗煥氏を手放しで譽めた私は「純情な坊ちやん」と看做され、大方の失笑を買ふ事となつた。全斗煥氏はその時まだ大統領になつてゐなかつたのである。私は先見の明を誇るのではない。本氣で譽めるに價する人物でなければ、大韓民國の大統領は勤まらないのだが、それを思ひ、日本國の來し方行く末を思ひ、黯然とせざるをえないのである。『反韓派知識人に問ふ』の文末に引いた全斗煥大統領の長男全宰國君の文章を、讀者はどう讀むであらうか。命懸けで信念を貫いた男は、幕末から明治にかけて、この日本國にも確かにゐたのである。たくさんゐたのである。  だが、『まづ徳育の可能を疑ふべし』に書いたとほり、今や日本では「馴合ひを以て貴しと爲す」のであり、「吾々は互ひに許し合ひ、徹底的に他人を批判するといふ事をしない」。そして、さういふ許し合ひのお遊びの最中に、齒に衣着せずして誰かを批判すれば、いづれは俺もやられるかと、保守革新の別無く、いい加減な物書きは不安に思ふ。いや、不安に思ふだけならよい、「あいつには書かせるな」とて編緝者に壓力をかける手合もゐる。私もその被害者の一人だが、壓力をかけられた編緝者は、言論抑壓の加害者と被害者たる私とを天秤に掛ける。無論私のはうが輕い。輕いばかりではなく、とかく和を亂し物議を醸す面倒な男である。かくて私のはうが捨てられる事になる。  けれども愚癡は零すまい。ペリー來航に先立つこと六十餘年、林子平は『海國兵談』を書き終へた。そして翌年、時の老中首座、松平定信に會ひ、いたく失望する。定信が海防の大事をさつぱり理解しなかつたからである。そこで子平はどうしたか。仙臺へ戻り、自炊生活をし、毎日せつせと版木を彫つた。言ふまでもなく、當時は活版印刷機などといふ利器は無い。櫻や黄楊や梓の板にいちいち文字を彫つたのである。爲に印刷し出版する事を「上梓」といふ。無論、專門の版木師はゐたが、子平は貧乏だつたから自分で彫るしかない。貧と病に苦しみつつ、彼は約三年彫りつづけた。が、彫るには彫つたが紙を買ふ金が無い。見兼ねた友人達が紙代を出してやり、子平は漸う三十八册の自著を完成する。そしてその一册を幕府の役人が讀む。讀んだ役人が一讀三嘆、といふ事になればめでたいのだが、無論さういふ事にはならなかつた。版木は沒收され、子平は禁錮の刑に處せられたのである。そこで子平はかういふ狂歌を詠んだ、「親もなし妻なし子なし版木なし金もなければ死にたくもなし」。  子平の事を思へば愚癡るのは贅澤である。私には母親があり、妻子があり、多少の金もある。しかも、書いたものを活字にしてくれる雜誌社があり出版社がある。PHP研究所、中央公論社、月曜評論社、『人と日本』編緝部、及び日教連教育文化研究所に、私は感謝しなければならない。また、敬愛する京都大學教授勝田吉太郎氏の好意、及びダイヤモンド社の加登屋陽一氏の盡力無しに本書の上梓はありえなかつた。兩氏に深く御禮を申し述べる。本書が歴史的假名づかひのまま世に出る事を私は大層喜んでゐるが、それは加登屋氏の識見に負ふところ大なのである。また、私は龍野忠久氏の校正の見事に感服した。加登屋、龍野兩氏の助力が報いられるやう、すなはち本書の出版によつてダイヤモンド社が大損せぬやう、私は祈らずにゐられない。 昭和五十六年十二月十二日 松原正