入力者
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
底本
『愛の無常について』亀井勝一郎選集第3巻(亀井勝一郎著・昭和40年4月25日初版発行・昭和41年11月30日11版発行・講談社)

『恋愛美学』「言葉の微妙について」

恋愛は言葉の機能を、はじめて我々に教へてくれるであらう。といふ意味は、言葉がどれほど微妙で神秘的なものであるかを、恋愛によつて自覚せしめられるからである。愛することによつて、人はまづ言葉を喪ふ。換言すれば、言ふに言はれぬ思ひにとざされて、表現の異常困難に直面するのである。言ひあらはされた言葉は、心の中で思つてゐることの何十分の一にすぎないことを知らされる。言葉は不自由なものだといふことを。

何ゆゑに愛するかと問はれて、言葉に窮しないものはあるまい。もし理路整然と説明し解釈しうるものならば、それはすでに愛ではない。いかやうに言つてみても、言ひきれず、語りつくされぬところに愛がある。このもどかしさを恋愛は教へてくれるのだ。人間は恋愛によつて言葉を失ひ、失ふことによつてはじめて言葉の価値を知る。

饒舌は愛情の死だ。恋人たちが二人ならんで腰かけたまゝ、いつまでも沈黙してゐる、あの沈黙のうちにある万感の思ひと、語られざる対話のうちに、健全な言葉の胎動がある筈だ。言葉は沈黙といふ胎内で、妊娠の状態をつゞけてゐるのだ。健全な言葉は健全な沈黙に宿る。表現の異常困難だけが表現を育ててくれる。言語障礙が言語を開拓するのだ。現代人はかうした沈黙の時間に堪へない。恋愛は饒舌となり、併せて露骨となった。恋愛が一の美学であるかぎり、言葉においては、恋人は詩人でなければならない。私は詩人のためにかいた言葉のいのちと題するフラグメントをこゝに掲げておきたい。

言葉のいのち(Fragmente)

「生命は力なり。力は声なり。声は言葉なり。新しき言葉はすなはち新しき生涯なり。」

言葉の生まれいづるとき、或は言葉の改革さるるときの根本の相がこゝに示されてゐる。新しい言葉とは新しい生涯なのだ。再生の祈念なきところに言葉の浄化はおそらくあるまい。現代語の混乱してゐることは事実だが、それは技術的に云つて現代日本語が複雑化してゐる故のみではない。根本的には精神そのものが混乱してゐるのだ。言葉は精神の脈拍である。肉体が病むとまづ脈が乱れるやうに、精神の病むときは言葉が乱れる。今日において詩人は何よりもまづこの点において卓越せる医学者でなければならない。さういふ意味で批評家でなければならない。精神の昏迷に無知なるまゝに言語改革だけを技術的に行はうとする者は、言葉を殺すとともに精神を殺してしまふであらう。それは生命を殺すことに通じる。すべての言語改革者に警戒せよ。詩人は言葉の殺戮者に対して、誰よりも敏感でなければならぬ。


かゝる時代に、私のいつも考へることは、言葉の生れいづる日の、その始原のすがたである。言葉の自身の神話である。古事記をひらいてみよう。天のみ柱のもとで、いざなみのみことは、「あが身は、成り成りて、成りあはざるところ、ひとところ在り」と宣へば、いざなぎのみことは「あが身は、成り成りて、成り余れるところ、ひとところ在り。故、このあが身の成り余れるところを、汝が身の成りあはざるところに、刺しふたぎて、国生み成さむと思ふはいかに」と申さるる。実に鷹揚で美しいエロスの世界ではないか。神々の最初の言葉が、いのちの、また性の、根源にふれて発せられたことを私は懐かしく回想する。そしてこんな一句を思ひついた。「はじめに言葉ありき。その言葉は愛の言葉なりき。」

生命とはおそらく愛だ。言葉は愛とともに生れたに相違ない。すべてのいのちあるものがさうであるやうに、言葉そのものがすでにいのちなのだ。男女の二神は、みづから発した言葉によつて抱擁を知り、性の悦びを味つたであらう。その一語一語がいかなる興奮と愉悦とにあふれつゝ語られたか。おそらくその一語一語が、翼をもつ小天使のやうに、二柱の神々の周囲を飛翔したにちがひない。


人は愛することによつて言葉の価値を知る。いままで何げなく使つてゐた言葉は、もう言葉とは思はれないであらう。今はじめて言葉を発する人のやうに、一語一語に思ひをこめ、その一語一語が火花のやうに花びらのやうに舞ふのを自覚しながら、人は恋を語るであらう。いざなぎいざなみのみことは何処にでもゐるのだ。人は愛することによつて神話の創世紀に入る。彼みづからが神となる。言葉がいのちであり、肉体や性や愛と一なるものであることを知るのはかゝる時だ。そこに新生がある。自然はふたゝびよみがへり、心はふたゝび新鮮な輝きにみちわたる。言葉の改革を叫ぶものは、老若をとはず、まづ恋愛をしてから改革を言ふべきではなからうか。

生ある者は必ず滅びる。人間、これは死すべきものだ。そしていかなる人間も自己の全願望をとげることなく死ぬ。云はば中途にして倒れるのが人間の運命であつて、この意味で人はみな何ものかの殉教者であると云つてよい。人は死を凝視することによつて言葉の価値を知る。たゞ今臨終と覚悟してみよ。いままで何げなく使つてゐた言葉はもう言葉と思はれないであらう。今はじめて言葉を発する人のやうに、一語一語無量の思ひをこめて発するであらう。自己の衷心の願ひを、果さんとして果しえなかつた無念の情を、即ちその人のいのちである一念を、語るであらう。人は自己の死によつて言葉に生命を与へる。詩人は言葉を生んで死ぬ。作品の完成とは作家の死だ。言葉を新しくしようと思ふものは、つねに臨終の覚悟に生きなければならない。死を凝視して発する言葉に真の価値がある。


人間の発する言葉の中で、最も美しいのは相聞辞世であると、私は幾たびもくりかへし書いてきた。即ち愛の歌と死の歌と。歌といふ形式のみを指すのではない。精神存続の健全な形態を云ふのである。相聞と辞世。人がまじめに語り表現するところは、詮じつめればこの二つの形態しかない。それが何ものへの愛であらうとも。何もののための死であらうとも。そして愛の窮極の言葉は死の言葉、辞世につながる。故に、無学な女人のかいた恋文すら、なほ大文学の基礎とするに足りる。愛する人の死後、何が我々を最も悲しませるか。何を我々は切に思ひ出すのか。死せるその人の愛の声であり、言葉ではないか。伝統の中に古人の言葉が生き永らへるのはかうしてである。かりそめの言葉すら、かうして代々の祖先によつて暖められてきたものである。それは無量の亡霊の遺産である。


言葉を言霊とした上古人の真実さを私はなつかしく思ふ。言霊の説は決して日本独自のものではない。ヨハネ伝の冒頭に、「はじめに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神なりき。この言葉ははじめ神とともに在り、よろづの物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし」とある。さきに引いた古事記の一節と照合して興ふかいものが感ぜられる。太古の深いいのちに根源を有し、いのちの不思議そのものとして、且つ「成る」即ち「生む」ものとして観ぜられてゐたことが明らかである。言霊の信仰はおそらく産霊の信仰と一つであつたのであらう。


古典を読むことは、私にとつては招魂の祝祭である。この祝祭において私は言ひ継ぎ語り継ぐその血脈の裡へ入る。そして表現することは、私にとつては鎮魂の祝祭となる。


言葉の始原の生態を念頭におくならば、我々は一の混沌、或は一の虚無の裡にあることを知るであらう。漢語の制限、仮名づかひ改正、すべて枝葉の問題にすぎない。第一義的なるものは創造だ。これが絶対なのだ。詩人は言葉の魔術師である。普通の人が用ひると生硬難解さうにみえる詩句も、詩人が運用すれば忽ちそこに軽やかな翼がそなはる筈である。詩人は死語俗語をさへよみがへらして、新鮮ないのちを与へるであらう。あたかも恋愛が、障礙が大きければ大きいほど新しい技巧を発明するやうに。

弱い精神のとつては何だつて重荷となる。漢字を制限すれば文章の意味がわかり易くなると思ふのも甚しい迷妄だ。たとへば漢字の殆んどない親鸞の「歎異鈔」や宣長の文章が、果してわかり易いか。殆んどひらがなのみで書かれた「歎異鈔」に接して、その意味の無限の深さに驚かぬものはないであらう。私は故意に、即ち虚栄と威厳のためにむづかしげな文字を用ひることには反対だ。しかし深い思索と情感によつて貫かれた文章は、たとへ一語の漢字なくとも悉く難解なものと知るべきである。精神の限りなき労苦を前提とするものなのだ。私の惧れるのは漢字制限や新仮名づかひが、わかり易くといふ功利的な啓蒙家意識によつて、精神の労苦を省略し精神を衰弱せしむるやうな結果をもたらしはせぬかといふことである。精神の貴族と精神の奴隷と。詩人はこの階級闘争における闘士でなければならない。


言葉には様々の聯想が伴ふ。たとへば新仮名づかひでは蝶々を「ちょうちょう」とかく。従来のでは「てふてふ」とかく。私は「てふてふ」といふ文字によつてのみ、あの可憐な蟲が菜の花の辺りをひらひらと飛ぶ姿を聯想してきた。それは幼年の日から現在まで、四十年の間私の心のうちに刻印されてきた美の姿だ。「てふてふ」はもはや単なる文字ではない。私の思ひ出であり私のいのちである。それを捨て去ることは私のいのち――私の蝶々を捨て去ることだ。どうしてそれが易々と出来るだらうか。もし恋の思ひ出を伴ふならばなほ更だ。醜い聯想ならば捨ててもよい。しかしこれは美の刻印である。「ちょうちょう」といふ言葉からは、魚の醜い腸を私は聯想しがちである。だが我々の子供達は、新仮名づかひによつてあの蝶を聯想するやうに仕向けられるであらう。「ちょうちょう」に何の疑惑も抱かぬ日が来るのであらう。さうしてみれば「てふてふ」階級である私は没落階級である。だが私は喜んで私の心の裡にある「てふてふ」を追うて滅びて行くであらう。


すべて言葉は韻律と語感と陰翳と余情をもつ。それは長い間に、様々の人の悦びや悲しみを宿し、また様々の人によつて愛撫されてきた証拠であらう。詩人とは、極度にこれに敏感なるものである。そして現代人とは、極度にこれに鈍感なるものである。現代人とは饒舌家のことだ。饒舌家とは、言葉が未だ言葉に成りきらないうちに吐き出してしまふ慢性の流産妊婦のことだ。一人前の形をした健康さうな言葉が現在どこにあるか。みな流産児であり奇型児ではないか。現代語はすべてスローガン風に成る傾向をもつ。流行語ほどさうだ。スローガンの特色は主として思考の省略といふ点にある。言葉の大衆化とはその平均化である。平均化されるにつれて思考は省略される。どのやうな尊い言葉も現代ではこの意味でスローガン化される危険な状態におかれてゐる。「恋愛」もまた然り。言葉の恐るべき受難時代だ。


深く考へ深く思ひを傾けた言葉は、砂金のやうに泥土の底ふかく沈殿してゐる。多くの瓦石にまじつて鉱脈のはるか奥底に隠れてゐる。詩人は鉱夫でなければならぬ。つるはしを以て無駄な石塊を掘りさげ掘り下げ、金を発見しなければならない。それは饒舌ではなく、静寂な沈黙の涯にひそんでゐるであらう。詩人といふ鉱夫のもつつるはしの作用、それは推敲である。無限の推敲である。完成とはあくまで、一つの夢に似てゐる。恋文をかくとき人はこれを経験する筈である。恋愛をする人は多い。しかし恋愛を推敲する人は少い。