制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2008-01-14
改訂
2012-06-16

龜井勝一郎『現代史の中のひとり』

書誌

讀賣新聞文化欄に昭和二十九年八月から三十年二月まで連載した「私の文學經歴」と、その他の文章を集めた「樣々な感想」を收める。

「私の文學經歴」は囘顧録で、出生、學業、仕事の事を順に書いたもの。當然の事ながら戰前、戰中の話が主な内容となつてゐる。思想的な問題を扱つた「我が精神の偏歴」と違つて、記録的な側面が強く、當時の風俗や時事問題、事件を採上げ、關聯して意見を述べてゐる事が多い。戰後の記述は少いが、天皇や戰爭責任の問題を扱ひ、續いて戰後に行はれた改革について述べてゐる。その中に國語改革の問題を採上げた文章がある。以下はその紹介。

基本的に國語を改革するのには「絶對に反對」と云ふものでなく、ただ「占領下での改革」である事に疑問を呈したもの。國語改革に政治的な意圖があつた事を指摘し、思想統制に繋がる制限である事への懸念を表明してゐる。國語改革を新聞や左翼勢力が積極的に支持した事に、龜井氏は大變批判的である。

氏は、戰後に行はれた國語改革については反對の立場である。一方、戰爭放棄、軍備廢止の憲法については贊成の立場である。

『現代史の中のひとり』より「占領下の文化生活」

私は樣々のことでショックをうけたが、ものを書く人間として、大きいショックをうけたのは、國語改革であつた。私は漢字の禮讃者ではないし、日本語の改革の必要をみとめてゐるものだが、敗戰のどさくさまぎれに、アメリカ軍の權威をかさにきて、一擧に當用漢字や新かなを決めたことに腹が立つたのだ。日本人同士がひろい範圍から集まつて、時間をかけて、互に納得いくやう改革することには私は贊成なのだ。ところが一國の言語改革のやうな重大な問題を、こんな形で解決されたことに私は釋然としなかつたのである。

同時に人間の姓名を制限したことにも腹が立つた。當用漢字のため、新たに生れた子供に封して、兩親は思ふとほりの名がつけられなかつた。ことさらに珍妙な名をつけるのは困るが、常識的に云つて、人間の名前ぐらゐは自由にしておいていゝのではないか。私はこんなことを思ひ出した。戰爭中、朝鮮人全部に改名を強制し、日本名を名のらせたことがある。忘れてゐる人もあらうが、一民族としてこれほどの屈辱はあるまい。朝鮮人に封する最大の侮辱だと私は思つてゐる。同じことをなまぬるいかたちで日本人にも強制しようとしたのではないかと私は疑つた。

ところがさつそく追從して、それまで漢字でかいてゐた姓名を、急に片かなになほした人もゐた。最近またもとどほりにした人もゐる。ともあれ結果としてこの方針に一番忠實だつたのはストリップガールで、西洋名と日本名をチャンポンにしたあの混血性は、敗戰の象徴ではあるまいか。占領といふ事實は、かういふかたちでも混血性をもたらすらしい。

私は當用漢字と新かなに當時大反封したが、せめて獨立後に、民族の自尊心においてやつてもらひたいと思つたからだ。教育だけでなく、この點では新聞の影響もみのがせない、新聞が採用してしまへば、有無を云はさず統一される。國民に言語上の制服を着せてしまふことが出來るのだ。文學者は言語には責任をもたなければならないし、明治以來、何と云つても日本語の改革につとめてきたのは我らの先輩文學者なので、よほど愼重でありたいと思つたのだ。かういふ點では私は保守派である。占領下におけるこの改革に、當時眞先にとびついたのは左翼であつたといふことも銘記しておく必要がある。占領下で自國語の改革を甘んじてうけるやうな人間の獨立心など疑はしいと私は思つてゐる。

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